沖縄タイムスで木村草太のヘイトコラム再開

読者を愚弄

 12月5日に沖縄県の地方紙、沖縄タイムスは、憲法学者の木村草太の連載コラム【木村草太の憲法の新手】(165)で「離婚と親権(上)『連れ去り勝ち』論に誤り 報道は双方の取材必要」との記事を掲載し、ネットで配信して読めるようになっている。

 木村氏は現在の実子誘拐や単独親権制度についての報道記事について危惧があり、報道の問題点を挙げるという点でコラムを書いている。

 例えば、「連れ去り勝ち論」について木村氏は、不当な子連れ別居に対しては、監護者指定や子の引き渡し手続きがあり、虐待親であれば監護者として不適切な親から裁判所が引き渡しを命じるなどと述べ、面会交流の手続きも保障されているので、「連れ去り」が主張された事例では、報道機関やライターは、別居親に、裁判所で監護者指定や面会交流の手続きをとったかを確認すべきだという。そうしないとDVや虐待の加害者に加担する危険があるし、監護者指定審判の中で、深刻なDVや虐待が認定されているのに、それを無視して、「実子誘拐の被害者」などと報じれば、子連れ別居を選択せざるを得なかった親への深刻な名誉毀損となるというのがその主張だ。

 子連れ別居を選択せざるを得ない状況は現行制度の不備だと思うし、そういう点では、双方が制度の被害者だと踏まえた上で一応述べておくと、別居親の中で子連れ別居から子の引き渡しや監護者指定で勝ったという事例はまず聞かない。あるとしたら、子どもが生死不明に陥る程度の深刻な虐待でなければ家裁は虐待など認定しない。子どもが多少の怪我をする程度の虐待や、現在ではモラハラや精神的虐待と言われる程度の虐待の加害者が同居親である事例は、別居親の話を聞いている限りにおいてはありふれている。

しかし裁判所はいくらそれを別居親が主張しようが、対立が強いとして間接交流という名の写真の送付や、月に1度2時間程度の面会を斡旋する。間接強制という強制執行を木村氏は肯定しているようだ。ぼくの事例では、間接強制によって子どもと再会できるようになるのに半年かかり、上の子との面会はそれ以来途絶えた。子どもが中学になれば強制執行はかからない運用を現在家裁は繰り返している。

 木村氏がこういった家裁の実情を知らないとしたら「世間知らず」という批判はさておき、学者としては調査不足だ。知っていて言っているとしたら、自分の知名度の高さとメディアで連載を持てるという地位を利用した、別居親へのヘイトというしかない。要するに読者を馬鹿にしている。

木村氏は、おそらくこのテーマでコラムを書こうと思い立ったきっかけとなる、フランス人のヴァンサン・フィッショさんの妻に実子誘拐の逮捕状が出たことについて触れていない。フィッショさんは面会交流の調停手続きを避けているが、やれば子どもとの交流を制約されるわけだから、やらないのは妥当だ。子どもは誘拐の被害者だ。誘拐の被害者の子どもの写真など、報道機関が公開しないということはまずない。いちいち誘拐犯の言い分を聞かないと報道できないということもない。

要するに彼が狙っているのは、社会問題のもみ消しであり、口封じである。地位と権力のある彼だからできる「パワーコントロール」と呼んだらコントかもしれない。そして制度の被害者どうしの対立をあおり続け、彼はそれについて発言し続けることで地位を保てる。悪質である。

沖縄タイムス、やらかしたのは2度目

 ところで、あまりにも現場の実情を知らない意見なので、編集部に電話したり、質問状を出したりしようと思ったけど、やめた。

 すでに、沖縄タイムスは2018年に、木村氏の同連載コラムで、「(86)共同親権 親権の概念、正しく理解を 推進派の主張は不適切」、「(87)続・共同親権 父母の関係悪いと弊害大きい」と共同親権への木村氏の反対論を掲載していて、このときにもぼくは沖縄タイムスの担当編集者に直接電話し、その後質問状を提出しているからだ(http://kyodosinken.com/2018/10/04/oki nawataimusu/)。その後沖縄タイムスは、共同親権訴訟も含め、親権論議についてのシリーズ記事を掲載している(ネットでは一部しか見られない)。

「コラムの著者の意見。新聞社は載せただけ」という逃げは、今回の記事には通用しない。

 このときの木村氏のコラムの中には、「裁判所は、別居親に監護の機会を与えてくれない」という批判に対し、それは、裁判所の人員や運用に問題があって、裁判所が適切な判断をできていないか、あるいは、客観的に見て別居親の監護が「子の利益」にならないことによる。法律の定めるルールの内容に問題があるわけではないと述べ、裁判所が人員不足も起因して適切な判断ができていないことを述べていた。

今回の木村氏の主張は、手続きさえ経ればきちんと判断されているということだから、前回の主張と食い違っている。要するに、別居親がまともじゃないというために、ときに裁判所は適切な判断をしている、ときに適切な判断ができないときもあると一貫性のない主張をその場しのぎでする。

 ちなみに読売新聞は女性が94%で割合で裁判所で親権を得ることに対して、二人の元裁判官が、「裁判所には『子は母に』の考え方が浸透していた」、「本来はケースに応じて判断するべきだが、そうではなかった恐れはある」と述べ、裁判所の判断が性差に左右された恣意的なものであることを証言している。とすると、木村氏の主張は、裁判所のジェンダーバイアスを肯定する意図でなされたものであることがわかる。念のため述べれば、このようなヘイトが大手メディアで繰り返されれば、ますます男性の育児を困難にし、日本のジェンダーギャップ指数は低迷し続けるだろう。

 以上指摘して、沖縄タイムスが求められているのは、今回の木村氏の記事に対してのファクトチェックを報道機関の責任としてなすことである。木村氏への反対意見を対抗言論や検証記事の形で紹介するべきだ。木村氏は、沖縄タイムスのコラムを利用しての、別居親や男性に対する「聖戦」を継続しており、それは今回のコラムでなされたような、ジェンダーバイアスを知悉した上での巧みな扇動ヘイト記事になることは目に見えている。沖縄タイムスは、木村氏の親権に関するコラムが物議をかもすことを知っていえ、ファクトチェックよりも掲載による話題作りを優先したのだから報道姿勢を問われても仕方ない。

読者のことを思うなら、こういう適当な意見をその場しのぎで言う憲法学者の起用をやめることである。(2021.12.7)

「二ホンカワウソは生きている」レビュー

われらの宗像先生が書いた「二ホンカワウソは生きている」。本書は「二ホンオオカミは消えたか」に続く第二弾。感想文を書いてくれ、ということで本が送られてきた。

まずは著者紹介を確認。「大分県生まれ。ジャーナリスト。一橋大学卒業。大学時代は山岳部に所属。登山、環境、平和、家族問題などをテーマに…」とある。私は途端に不機嫌になった。「これウソじゃん。研究の意味がわからず大学院を中退したことや、最初のカミさんが家出したこととか書いてないじゃん!」。確かに記載されている情報は正しいのだが、宗像君の本質を示す重要な中身が抜け落ちている。この著者紹介では、宗像君がいかにも勉強ができて社会問題にも関心を示す素晴らしい人、みたいにしか表現されていない。ということで、半分ムカつきながら渋々読んだ。

しかし読み進めていくと、中身はそれなりに面白かった。またこれも事実ですな。

この本のキーワードは、「絶滅宣言」と「二ホンカワウソとは何だ」、そして「見ようとしないものは見えない」という三つ。

二ホンカワウソという存在についていろいろな「仮説」が飛び出してくるあたりは、推理小説にも似た論理展開のスリルを感じます。その存在の概念規定に迫るあたりは、哲学的-思想的深みを感じ取ることができる。そしてかつて東京の国立で平和運動に携わり、各種選挙を手伝ったりした「活動家」でもあった著者ならでは感性-国家・社会批判の感性をも感じる。まぁ、こうした感性でものを書くのが宗像君の特徴なんだろうし、だから私みたいなものが読んでも面白いんだろうな。

本書では環境省が出した二ホンカワウソに対する「絶滅宣言」に対する疑問が話の経糸として貫かれている。そこに緯糸としての目撃談や証言がからみながらカワウソという存在に迫っていく。

「国がいないと言えばいなくなるのか。『見かけない』ことは『いない』ことの証拠だろうか。少なくとも言えることは、その判定もまた人間が決めるものである以上、『絶滅』という現象も人間社会の出来事だということだ」(本書P16)。という言葉に、「絶滅宣言」の理不尽さとともに、その存在の有無さえ規定するかのような国家の―社会の在り方に対する怒りを感じるのは私だけであろうか?

また著者はカワウソの激減を論じるくだりで、「話が先走りすぎた」と言いながらこう主張している。

「一瞥してわかるのは、これらはすべて人間が原因を作っているということだ。カワウソは(略)人間が天敵でその活動が大きな減少要因だ。(略)カワウソ減少の理由について『富国強兵』という言葉を使っていた。北方への戦争のための防寒着に毛皮の需要が高まれば、カワウソは高級品として狩猟圧が高まるし、戦後は国内の自然を攻撃することで経済を活性化させることを繰り返していた。だから、もはや経済成長の見込みが立たない時期に、再発見と絶滅宣言が同時に出るのは、何を反省するかという点のやはり分岐点になる」(本書P99)。

そのほかにもベトナム戦争で使われた枯葉剤と薬剤散布の関係を詳説している。著者はこの薬剤散布がカワウソ激減の要因の中で唯一、「関連性をある程度推察できるのがこれだ」と言い切っている。

反戦運動の活動家が書きそうな文句だね。そこが好きだけど。

そして二ホンカワウソの存在が確認できない主要因に、そもそも探さない、というか調査しないという観点を強調している。そう、「見ようとしないものは見えない」のだ。ちなみに、新本格派と言われ現代推推理小説の巨匠でありメフィスト賞第一回受賞者である京極夏彦先生の傑作、「姑獲鳥の夏」もかかる観点がテーマです。そして、著者紹介も「見ようとしない人には見えない」のだよ。

まだまだ、色々書きたいけど紙幅の関係で、この辺で…。最後に、私が本書を読み終えて感じたのは、人間が勝手に殺し、勝手に「絶滅宣言」を出し、勝手に「二ホンカワウソとは?」と論争している間に、とうのカワウソは人里離れたところで悠々と泳いでいる光景。それは人間の浅知恵を超えた自然の力強さの表れなのかもしれない。(難波 広)

追伸。最後に出てくる大月の二人ってエクスペリエンスじゃん!(難波広)

*編集部注 家を出たのは宗像が先です。

「越路」25号、2021.11.11

リニアの村の暮らし

 11月9日午後、伊那山地トンネルの坂島非常口を見に行くと、現場には人気がなく、車両の出入りのときのブザーが意味もなく定期的に鳴っていた。2カ月前に来たときは、車両も人も往来し、ヘリコプターもひっきりなしに発着し、7月に着工し、いよいよこれから本格工事に入るという、それなりの活気が伝わっていたのがウソのようだ。

前日の午前中にトンネル内部の壁面の崩落から、JR東海は掘削200m地点で負傷事故を起こしている。この日は夕方に説明が開かれたという。翌日、とりあえず現場に足を運んでみることにした。ここは豊丘村の中心地から虻川の上流にどんどん分け入って、現地は無人になった集落の入口にある。掘削地の上を走る林道を通過して工事現場に下りていく。その林道の側壁はのり面が吹き付けられ、アンカーで止められているので、ここの地盤が硬くはないことは素人目にも想像がつく。

今年に入ってからJR東海は、飯田市の松川工区の掘削開始、伊那山地トンネルの掘削開始、天竜川架橋工事の開始と、工事の進まない静岡県の外堀を埋めるように、立て続けに工事の実績を示していた。その結末がこれかと吐息が出る。「撃ちてし止まん」という言葉は、こういうのを表現するんだろうなと得心する。

帰りに、浜松市のOさんと出会う。地質に詳しくリニアの工事現場には必ず現れる。

「真砂土が落ちた。岩盤を前提に発破をかけたんだろうけど、実際は風化している。どの程度現地が真砂化していたのかなと見にきた」

 風化した花崗岩が崩落にかかわっているのは、小渋線のトンネルでも山口工区のトンネルでも同じようだ。Oさんは中津川瀬戸市の事故翌日にも現地に足を運んでいたというから、記者よりよっぽどフットワークがいい。

 10月28日の朝には、中津川瀬戸のリニアトンネル工事現場での死亡事故の知らせを知り合いの記者から聞いた。岐阜県が地元でリニアを取材するフリーランス仲間の井澤さんに電話すると、もう現場に来ているという。そそくさと朝ごはんをすませて、早速現場に向かう。

 JR東海は、2017年12月に大鹿村に通じる小渋線で掘削中のトンネルで、外壁の崩落事故を起こしている。中途から両側に掘り進める工事で、出口まで残りわずかの部分で通常の倍の火薬を使って崩落を起こしている。2019年には同じ中津川市の山口の工事現場で掘削開始から200mで落盤事故を起こしている。いっぺんにあちこちでトンネルを掘り始めるとこうなるのだろうか。

 瀬戸の工事現場のゲート前には、記者がすでに30人近く道路の向かい側にいた。ぼくも井澤さんとその一画を占めていた。中に入れるわけもなくつまんないので出入りがあると道路の反対側のゲートの脇で写真を撮る。向こう側にいるカメラマンの一人が「ルール守れよ。みんなそっちに行きたいと思っているんだ」と声をかけていた。

 井澤さんが「どういうルールなんだ」と言い返していた。JRの関係者は出てこないし、どんなルールを守ったら取材ができるというのだろう。横並びの記事を書けばとりあえずは一仕事終えられるけど、フリーランスは発表する宛が決まっているとは限らないから、同じことしててもしょうがない。

 といってもぼくも言い返すこともなく、現地にいた記者の一人に5時から開かれる中津川市内での記者会見を教えられて移動した。警察や労基署の出入りはあっても、結局JRの職員は一人も出てくることはなく、記者に対応したのは地元の岐阜県警の広報官だった。

 記者会見は記者クラブ対象で、受付で井澤さんといっしょにフリーランスと名乗って交渉すると案の定断られた。「広報に電話してください」と「広報」と名札のついた社員が説明する。なめている。

死亡事故を起こしていてそれはないでしょうと食い下がる。「ちょっと相談してきますので待っていてください」といったん中に入り、再び出てくるとぼくたちを待たせたまま、所属のある報道機関の人を一人一人中に入れる。最後に案の定「今日は記者会対象ですから」と排除しようとするので、玄関先で押し問答になり、そのまま1時間半。途中井澤さんが「資料をもらったら引き上げる」と妥協案を示したものの、それからも30分。取り囲んだ7人の社員は一言もしゃべらなかった。二人の名刺は外の受付の机に散らばったままだった。

今年の田んぼは、10月25日から北川さんや東京の友達や、何人かの手を借りて28日には終えることができた。刈り取った稲は稲架にかけて3週間ほど干す。水分量が低くなったのをたしかめて、近所のMさんに頼んで脱穀してもらう。ところが、好天になったらまた雨が降るという天気が続いて、何度農協に水分量を測りに行ってもちょうどよくならず、結局脱穀ができたのは一月以上も経った11月2日だった。

その間、井水を確認に行くと水が切れていて、組合長といっしょに水路の掃除に出かける。いつになったら今年の田んぼは終わるのだろうとあちこち出かける気にもならず、出版をまじかに控えたカワウソと共同親権の本の校正作業を進め、やっと脱穀になったら、収量は昨年の半分だった。一人で食べるので困りはしないだろうし、冷害で大鹿のほかの農家も同じ状況だったようだけど、待ってただけにちょっと寂しい。

そんなこんなで、体を動かしたくてもじもじしていたところに、JRが事故を起こした。ちょうどそのときには時間があって、ぼくはJRが起こしたトンネル事故の翌日には、すべての現場に足を運んでいたことになる。リニアの取材というより、リニアの追っかけをしている気になる。

11月7日に、東京から来た山の仲間を大鹿のトンネル掘削現場に連れていった。小河内沢を渡って除山非常口の下の河原に出ると、トンネルから流れ出ているだろう水が、土管を伝って流出していた。ぼくの田んぼの井水組合の水は、釜沢非常口のすぐ脇を流れる所沢の上流から引いている。釜沢地区はリニア工事によって水源地が枯れることが予想できる。JR東海は釜沢地区の代替水源をこの所沢から引きたいとうちの井水組合に打診してきた。ほとんどが70代以上の組合の中で一番若いのが46歳のぼくで、JRが30年水を保障したとしても、そのころ生きているのはぼくになる。暮らしの中に、リニア問題はよくも悪くも位置を占めている。ここは大鹿、リニアの村。

(「越路」25号、2021.11.11)

『ニホンカワウソは生きている』表紙できたよ!

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すでに絶滅したとされるニホンカワウソ。しかし、今も目撃情報が絶えず、その生存を信じる人たちは多い。2016年、高知県の海岸で〝ニホンカワウソらしき動物〟が撮影されたことに強い関心を寄せた著者は、取材を重ねていくことで生存への確信を得る。環境省の「ニホンカワウソ絶滅宣言」を揺り動かす、渾身のノンフィクション。

幻の山小屋

「これお土産です」

 大鹿村役場のカウンターで、産業建設課長の間瀬さんにビニール袋を手渡す。

「何これ」

「広河原小屋のゴミです」

使用済みのEPIガスカートリッジ3つを小屋から持ち帰っていた。

広河原小屋は、大鹿村が持つ唯一の山小屋だ。小渋川の上流にあり、行くには股下の徒渉が10回以上あるので、登山道しか歩いたことのない登山者はやってこない。通常車が入れる終点の、湯折の登山ポストに提出される登山届は、毎年20人程度しかいない。大鹿村に来てから一年に1回くらいは広河原に行くのだけど、年々ゴミがたまっていて、役場が手入れをしている様子がない。半ば放置されている。

あまり荒れるとゴミが増えるし、焚き木にされて小屋が燃やされたりすることもあるので、行くと後ろの引き戸を開けて風を通して箒で床をはく。重くならない程度に、他の登山者が置いていったゴミをザックに入れて持ち帰っている。古くても、床が一部沈んで埃っぽいほかは、小屋はしっかり立っていて、引き戸もきちんと開く。稜線の大聖寺平から下山してきて小渋川が増水している場合、この小屋があるおかげで焦らずに日和を見ることができる。

「いや、ぼくの別荘にしてもいいんですよ。だけど心が痛まないかなあって」

 間瀬さんは今年の秋に、アプローチの林道も修繕すると弁明していた。

7月末に、小渋川から赤石岳、荒川三山を取材で登ってきた。昨年の豪雨で湯折までの林道は2カ所で崩壊している。倒木だらけの一か所は村が倒木を撤去した。もう一か所は沢が道を削っていて、歩いて通過するにも高度感があってちょっと怖い。林道の復旧はあきらめて、ロープを登山者用に渡して歩道にしてしまうといいと進言したけど、湯折には県の発電所の取水口もあるので、県が予算をつければ林道は元に戻るようだ。

広河原小屋は南アルプス最古の山小屋と言われている。大正登山ブームを経て村に赤岳会という有志団体ができて村に働きかけ、荒川小屋とともに作った。四半世紀前に学生のときにぼくが登りに来たときには、広河原小屋と同じく、通路の両側に寝床のある古い山小屋の形式の荒川小屋はまだあった。その後静岡県側の山林地主の東海フォレストに荒川小屋は管理を移管し、ピカピカの小屋に生まれ変わっている。

静岡県側はリニア工事で当分登山者にとっては不便なので、百名山の赤石岳、荒川三山の登山に「アクセス至便」なのは、長野県側の大鹿村になった。「百名山」を「最古の山小屋」とセットで売り出せば、ぜったい飛びつく登山者はいるはずなのに、大鹿村はこのルートは行かないように言っているそうだ。今年も雨続きだし、広河原小屋はますます幻の山小屋になって希少価値を増している。

 役場に登山者の冒険心を理解する人はいないので、何かさせようとしても無理だ。もともと山登りなんて、自分でルートを考えて頂に立つのが本来の姿なので、元に戻っただけだ。

 お隣の遠山谷には、学生のときに日本山岳会の学生部でお世話になった、登山家の大蔵喜福さんが昨年からやってきて、「エコ登山」を掲げて木沢小学校に事務所を構えている。光岳もまた渋い山だ。アプローチが遠くて百名山ハンターが最後に選ぶ(残す)山として知られている。学生のときに、甲斐駒から南アルプスの全山縦走をして、最後にたどり着いた光岳は樹林のなかで「これで最後か」という記憶しかなかった。

 遠山谷からの登山道はもともと長丁場な上、アプローチの林道は度々崩壊し、体力のない登山者には厳しかった。大蔵さんは登山道途中の面平に据え置きテントを設置して、そこをベースに光岳を往復できるようにした。営業小屋のない長野県側南アルプスだからこそできる逆転の発想だった。登山者も減っているのに今さら山小屋なんて作れない。だけど、面平の幕営地には、炊事具はあるし、山小屋以外は何でもある。排泄物は携帯トイレで持ち帰るので、環境に付加を与えない。

 同じような発想で登山道を整備し、大蔵さんは遠山谷と大鹿村を結んで赤石岳への登路を確保しようと考えていた。小渋川の左岸や聖岳へと続く百間平にはもともと大鹿村がつけた登山道がかつてあり、広河原小屋はこれら周遊登山道のベースでもあった。下山すれば湯折で温泉にも入れたものの、今さら湯治場を復活するのは無理そうなので、据え置きテントとドラム缶風呂を設置すれば、来る人は増えるだろう。

今年、南アルプスでは、ヘリのチャーターができない上に、コロナで山小屋の営業も成り立たなさそうなので、南部地域の山小屋は避難小屋を開放して、すべて営業を停止した。おかげで無人の山脈が突然出現した。大蔵さんの「エコ登山」とともに、今時の登山のあり方として、雑誌にページをもらったのだ。

七釜橋の橋梁は小渋川の水面から1メートルほどしか「隙間」がなかった。湯折まで40分、湯折から30分ほどで、七釜橋に至り、ここから小渋川の徒渉が始まる。毎回なんでこんな山奥に、こんな立派な橋があるのだろうと思うけど、昔の砂防堰堤工事のために作ったものだという。そのころ作られた護岸のコンクリートは、昨年の豪雨で完全に水没。「税金の無駄」「自然に歯向かっても無理」の貴重な展示品となっている。

どっちにしても、ここから先はいつもの徒渉の繰り返しで、荒川前岳の胸壁を見上げると陸に上がり、林間に広河原小屋が建っていて安心する。

稜線への登山道は、一昨年の台風19号でいよいよ倒木が多くなり、大聖平の下のトラバース道で今回も迷いながら大聖平のケルンに到着する。時間的に余裕があったので、赤石岳を往復し、フラフラになって荒川小屋に来ると、何とぼくのほかに3パーティー、計5人もテントと小屋にいた。

「今日は小屋は独り占めと思っていたのに」

ぼくが考えていることを口にしたおじさんは、茨城から、若いガイド2人を連れたおじさんは群馬から、それに単独行の女性がテントを張っていた。小屋の人たちに聞くと、椹島は小屋は営業しているものの、リニアの工員が客室を占めていて、登山者は予約できなかったという。椹島までの林道の交通機関は、椹島に宿泊した人のためのリムジンバスしかないので、登山者は椹島まで林道を歩くしかなく、ガイド付の3人組は、電動アシストの自転車で突破した。

「山やとしては憤りを感じる」

 茨城のおじさんが言っていた。椹島の周辺は静岡県知事がダメ出ししても、リニアの工事現場に変わっていた。4人とも、無人の千枚小屋に泊まり、荒川岳を越えて荒川小屋に来て、明日は赤石岳を越えて、赤石小屋に泊まるという。いくら条件が整わなくても、来る人は来る。

 翌朝、荒川東岳(悪沢岳)を往復して、広河原小屋に下山した。一番いい時期の夏山に誰もいない山上。お花畑、滝雲、ブロッケン現象、サルの群れと、営業はなくても、これでもかというくらいのサービス過剰だった。

広河原小屋に戻り、小屋の引き戸を開け、風を入れ、箒で履く。今回は獣が床下から侵入して床上に毛が散らかっていた。

ゴミのガス缶を入れたザックを背負い、小渋川の流れに足を浸す。「冷たい」といつものように声を上げる。

(山行記は発売中の〝Fielder〟で)

(2021.9.8、「越路」24号、 たらたらと読み切り164 )