南アルプス破壊事業 リニア中央新幹線の実像

「うましうるわしリニア」

 ぼくは2016年から長野県大鹿村で暮らすあまり注目されない職業ライターだ。

 編集部には、リニア新幹線について、「予算がまた増やされたことと、6月の静岡県知事選挙、それと大深度法の三題噺」で書いてくれというリクエストをいただいた。このうち、予算が増やされたというのは、4月27日に、建設主体のJR東海が、これまでの建設見込み額に比べ約1兆5000億円増の7兆400億円になる見通しを発表したことを指す。

JR東海の発表によれば、今期の売上高予想は前期比49.8%増の1兆2340億円、営業損益予想は2150億円の黒字とされるものの、前期は1847億円の赤字を計上している。前期の純損益は2015億円の赤字で、通期での赤字は1987年の国鉄民営化以来初めてになる。

 リニア新幹線は、品川(東京)―名古屋間の2027年開業を目指して2015年に国土交通省による建設認可、着工で工事が始まった。この間の予算は5.5兆円。大阪までは、当初2045年の開業を目指し、品川(東京)―大阪間の予算は9兆円とされていた。これを8年前倒し、2037年開業予定が決まったのが2016年。国からの3兆円の財政投融資を受けてのものだ。コロナの影響で人々は移動しなくなったので、経営は悪化した。

そして、2020年10月には、東京外郭環状道路の建設現場で落盤が起きている。リニアは品川―名古屋間の86%がトンネルという、いわゆる「地下鉄」だ。286㎞の地上部分には膨大な数の地権者がいる。この地権者交渉の手間を省くために国が作ってやったのが大深度法だ。40m以深の地下では地上部への影響がないため、公共事業では地権者の同意なく工事ができるという法律だ。ところが、先行した東京外環道の工事で落盤が起きたため、この法律の前提が崩れた。大深度法での工事を進めようとしていたJR東海も、岐路に立たされている。

もともとJR東海は大阪延伸の前倒しのために、3兆円の公的資金の投入を受けている。しかし、その3兆円は、品川―名古屋間の工事の遅れと膨らむ予算規模の埋め合わせで目的外に使われている。バクチに手を出す大企業に、国が実質経営支援の便宜供与をしている。

大阪延伸の8年前倒しが決まった一年後の2017年末に、リニア工事を請け負う大手ゼネコンの談合疑惑が発覚し、今年3月には有罪判決が出た。しかし国とマスコミは、大井川の利水をめぐる静岡県とJR東海の対立に世論の注目を集めさせることによって、この事業がオリンピック同様、大企業とゼネコンの救済策であることから目を逸らせようと必死だ。コロナで窮地に陥った彼らにとってリニアは、チャリンチャリンと金を落としてくれるまさに打ち出の小づちで手放せない。「うましうるわし」、もうやめられない。

「そうだ リニア倒そう」

 現在、国とJR東海は、静岡県との対立を演出することに必死だ。昨年6月には金子慎JR東海社長が、川勝平太静岡県知事と会談し、7月中に着工できないと、2027年の開業に間に合わないと説明した。その後JR東海は2027年開業を断念している。

これに対して、愛知県知事が静岡県の姿勢を批判し、また、長野県知事の阿部守一は、5月13日に金子社長と会談し、2027年の開業を改めて求めている。だったら愛知県と長野県から、静岡県に毎秒2トンの水を提供しようとまず言わないとおかしい。

 ところで、実際問題2027年開業など昨年6月時点でできたのだろうか。

金子社長は、昨年の会談で、「順調にいって月進100m(1か月に100m掘削する)」で、静岡県側最奥の「西俣から掘り始めると65か月、5年5か月かか」り、2027年の開業にぎりぎり間に合うという説明だった。飯田リニアを考える会の春日昌夫さんは、長野県側の工事の進捗で計算しなおした。  

延長1150mの「小渋川斜坑」(本線トンネルに伸びるトンネル)は2017年7月3日に掘削を開始し、2019年4月5日に斜坑の掘削が完了。2019年8月23日から本線トンネルの先進坑(本線トンネルに並行して掘削するパイロットトンネル)の掘削を開始して、昨年段階で480m掘削していた。斜坑・先進坑合わせて1630mを946日で掘っているので、1日当たり1.72m。30倍して月進51.7mの実績になる。

南アルプス稜線に向かう「除山斜坑」は昨年時点で、本線トンネルとの交点まで残り575m、延長を1850mとする資料もあるので、残りを 555mとして、本線トンネルの交点から静岡工区との境までは約5090m。あと合計5645mを掘削する予定だ。この部分が長野工区ではいちばん距離が長く、これを月進51.7mで割ると約109か月、9年1か月。 つまり、現在のペースなら掘削終了は2029年9月になる。「除山斜坑」の月進実績の40.2mで計算すると、11年8か月。完成は2032年4月になる。掘削後に走行試験などで2年かかるJR東海は言うので、開業は早くても2031年9月~2034年4月以降になる。

つまるところ、金子社長は、沿線知事や国に最初からできもしない2027年開業を口にして、静岡県を悪玉にしただけでなく、国から「大阪延伸の前倒し」の金を引っ張ってきた。詐欺だ。そして一昨年の台風19号と昨年の豪雨でリニア工事現場の工事は半年以上中断した。

なお、自然保護運動史に残る大反対運動が展開された「南アルプススーパー林道」建設では、工期は当初の5年が13年の2.6倍に、工費は2.5倍の48億9千万になっている。これをリニアに換算すると名古屋までの工期12年は31.2年年となり、開業は2046年。工費は13兆7500万円に膨らむ計算だ。

もしあなたが大阪までリニアに乗りたいと思ったら、1兆や3兆などといったはした金ではなく、10兆円をドンとつぎ込み、特措法で地権者の私権を大幅に制限する法律が必要だ。そして、事業者としてのJR東海は素人なので、事業者を変更するか国の直轄事業にするしかない。

1兆5千億円の追加予算を公表した際同席した澤田尚夫執行役員は、元長野県のリニア担当部長だ。その後リニア全体の総括部長に出世し、静岡県との交渉を担い、社内で出世の階段を昇ってきた。大鹿村の説明会でひな壇に並び、強引に工事着工の露払いをしたつけを彼らに払わせるには、6月の静岡県知事選に向け、これらの実態をあらためて暴露していくことが必須だ。

リニアはできない。しかしそれ以前に「そうだ リニア倒そう」

(「府中萬歩記」87号、2021.5.31)*写真はリニアで枯れた南山牧場の池

話してみよう! 結婚と親権制度

 単独親権制度の押し付けは、平等原則と親の養育権(個人の幸福追求権)に反して違憲という共同親権訴訟の中での私たちの訴えに対し、国側が単独親権制度に合理性がある理由として「婚姻制度の意義」という言葉で反論してきた。「親権制度の意義」ではない。婚姻中は、法律で夫婦は協力するものと定めているから、共同親権に意味はあって、離婚したら協力できないから単独親権制度でいいよね、という単純な言い方だ。だとすると、婚姻外でも法律で「両親は協力するもの」と書けば、二人は協力できるのか、というこれまた単純な反論が思い浮かぶ。共同親権訴訟の不平等は、法律婚とそれ以外の親どうしの関係を比較して不平等と主張している。

子どものことで協力できない夫婦がみんな離婚するわけではないし、事実婚を選ぶカップルもいる。結婚には愛だけでなく利害もある。愛のない結婚もあるけど、国が守りたいのは愛ではなく利害だというのがわかる。つまり、婚姻内外の法的地位の区別を差別にすることに「合理性」を感じているだろう、と国側に求釈明をして、6月17日の弁論では国側の回答がなされる予定だ。

 単独親権制度が守るのは、法律婚優先主義だというのが裁判の経過の中でますます明らかになっている。別居親が発信するSNSとかを見ていると、「離婚後共同親権」の立法を優先すべきで、「未婚時の共同親権」について主張すれば、保守派が反発するからよしたほうがよいという意見がある。こういう主張は、共同親権訴訟への訴訟妨害というだけでなく、自分は法律婚をしたので、未婚で生まれた子どものことなんか知らない、というあからさまな差別にほかならない。ぼくの娘は婚外子として生まれたけど、こういう主張をする人の子どもよりうちの娘のほうがランクが下だと言いたいようだ。別居親たちは、何かにつけて「子どもの視点で」「子どもの権利条約に書いてある」と言いたがる。子どもの権利条約は親の法的地位の異同によって、子どもは不利益を被ってはならないという発想だ。つまり考えているのは子どものこと「ではなく」自分のことだというのがよくわかる。

 ぼくたちが共同親権訴訟を起こしたおかげか、婚姻外では単独親権しかないということが知られるようになった。結婚が入籍と呼ばれ、男の姓に合わせることは性差別だと気づいた女性は、事実婚(未婚)を選ぶか、法律婚に別姓を「認める」ように法改正をしないとおかしいと考えるようになる。法律婚に別姓を「認める」ように法改正をしないとおかしいと考える人の中には、結婚という特権的地位と自分の主義主張を両立させることを目指している人がいる。この点においては、同性婚についても同じ構図だ。彼らは婚姻外では「共同親権をもてない」のが不利益だと主張したがる。実際、「共同親権をもてない」から結婚した芸能人カップルがニュースになったりする。

 一方、結婚自体が平等に反すると感じた人は、事実婚によって男女平等を実現しようとする。上野千鶴子に家庭内の分業が男女不平等だと言われて気づいた女優が、夫に事実婚を提案したという。夫は親権がなくなれば将来的に子どもに関与できなくなるかもしれないという不安とたたかうはめになる(その程度の知識はネットで出回っている)。上野千鶴子は、事実婚によって男性から親権をはく奪することが、そもそも男女平等に反するとは教えない。性役割の押し付けに抵抗して事実婚を選んだとしても、男性への養育権の保障をどう確保するかについて主張しなければ、男女平等とは呼べない。事実婚を選ぶカップルは、共同親権の立法を働きかけなけるとすっきりする。

 「事実婚をするようなカップルは男女平等についてよく話し合っているから大丈夫」という主張もまったく根拠がない。事実、事実婚をしていながら、別れる段になって親権を主張され、子どもと引き離されたという相談は時折ある。男の側からすれば「騙したのか」と思う。結局「子育ては女の仕事」ということになる。アメリカの男性の権利運動のイデオローグのウォレン・ファーレルは、「男女雇用機会均等委員会はあるのに、なぜ男女家庭機会均等委員会はないのだ」と疑問を投げかけた(『ファーザー・アンド・チャイルド・リユニオン』)。共同監護法が勃興した1980年代初頭のアメリカを取材した、当時朝日新聞の特派員の下村満子は、「フェミニズムは獲得する平等はやるけど譲り渡す平等はやらない」という男たちの不満を拾い上げている(『男たちの意識革命』)。40年前の不満とは思えない。

6月17日当日は、こういった観点から意見交換をしてみたい。非婚の場合の共同親権について論じた民法学者の二宮周平氏に講師を頼み、こと細かく調整してチラシを宣伝したら、本人が演者なのに出席を取りやめた。別居親の集会であれば軽んじていい、という彼の発想に、民法改正の「オピニオンリーダー」の、男女平等思想の薄っぺらさが透けて見える。(「そうだったのか!共同親権」巻頭コラム2021.5.26)

いのちき、してます

 毎日何だか忙しい。

 5月になれば田植えに向けて何かと準備が必要になる。5回目の田んぼだけど、今年からは一人でやるので、ひと任せにしていたところは、近所の人にやり方をいちいち聞いた。その間に、お隣のKさんといっしょに、畑の日陰の原因の、境界のケヤキと杉の木を切り倒し、その周辺の藪を切り開き、下のお隣にやってきたYさんの妻子の歓迎会の段取りをしと、やることが次々に出てくる。

 やる量はさして変わらないのに人数は半分になったので、手分けするということができない。光熱費などの基本料金もさして変わらないのに、負担は高まったので生活を見直した。電話契約のナンバーディスプレイをやめて、電気のアンペアを30から20に落として基本料金を下げた。

 工事にやってきたのは、いつも検針にくる村内のSさんで、野生動物に詳しく、村のカワウソやオオカミ情報をたまに持ってきてくれる。工事が終わると「スマートメーターに替えておきました」とさらっと言う。「それは困ります。うちは電磁波とか気にするから」とかいうと、Sさんもちょっと弱って、「私の判断では何ともできないから、中部電力に電話してもらえば発信機だけ外すことはできますし」という。早速電話する。

オペレーターのお兄さんは「国の方針でスマートメーターにするようにしているんですが」という。

「うちは電磁波とか気にしているんです。スマートメーターは困ります」

「いま携帯で電話してますよね。それよりも弱い電磁波なんですが」
 痛いところをつく。

「携帯の電波も気になるので、今耳から話して話すようにしているんですよ」

 とか苦し紛れに適当なことを言う。

「そうなんですか。じゃあ後日工事に入ります。電波を発信せず、アナログがデジタルのメーターに代わるだけです。今まで通り検針に来ることになります」

 最初からそうすればいいのに、黙ってやるのでひと手間かかる。プロパンガスのメーターでも同じことをした。というわけで、今まで通りSさんからいろいろ聞き出せる、じゃなくて無駄な電磁波は抑えられる。

 その生活見直しを友人に話せば、「もともと必要なことだからね」という。元に戻っただけだと気づく。

 四月中までに約束したニホンカワウソの単行本原稿をせっせと書いて、「もうカワウソはいい」と思うくらい、頭の中カワウソだった。当然あまり出歩くこともなく、いままで畑はたいしてやってなかったのが、原稿書きの間に種をまいたり、ジャガイモを植えたりした。東京にいたらジョギングで身体を動かしていただろうけど、畑は自分が食べるものにつながるので、運動量は少なくてもなんだか生きてる実感が湧く。一人でできそうなことは何だろうと考えたほうが、ここでの生活は楽しめる。ゴールデンウィークには良山泊に人が来てにぎやかにもなっていた。

 いろいろ一人でありそうな生活設計を想定すると、「いのちきしよる」という大分の言葉が度々頭に浮かんだ。「生計を立てる」というほどの意味だ。

大分の郷土作家の松下竜一の著書に『いのちき してます』というエッセイ集がある。彼が地元中津市での豊前火力反対運動の中で出していた会報誌「草の根通信」のエッセイをまとめたもので、市民運動と呼ばれるものが、どんな人々の「いのちき」の中で成り立っているかがよく見える。

「由来、この町の貧しき大人たちは、次の如き挨拶を日常に交わしたものである。

――いのちき できよるかあんたなあ

――いにちきさえ できよら いいわあんた

〈いのちきをする〉とは、かつがつに生活をしているといった意味の、多分この地方に特有のいいかたで、貧しくともまっとうに生きる者たちの、最もつきつめた形での挨拶語であったといえようか」(松下竜一『いのちきしてます』)

 「いのちき」は古語の「命生く」が語源という説があるという。「命生く」は生き長らえる、生きのびるといった程度の意味だ。

 この本を東京で読んだぼくには、聞き覚えのない言葉だった。ところが大分の実家に帰ったときに、不器用なくせに調子よく、不愛想なぼくの何倍も人にはかわいがられる兄を評して「あれでいのちきしよるんやから」と表現し、母が幾分あきらめ口調で認めているのを耳にした。父も「あれがあんし(人)のいのちきじゃ」と他人を評して気軽にしゃべっているのだった。

 思うに、子どもには多用するような言葉ではなかったのだろう。その上、祖父母に育てられた父は、大分方言の古いものはたいがい知っていて使いこなし、ぼくにはわからない言葉を母と言い交していた。会話に入れないぼくは気にとめないということはよくあった。東京ではちっとも実感のわかない浮いた言葉だった。それが、故郷を離れ遠い大鹿でこの言葉を口にすると、生きるという意味をほのかに意識させられる。

 哲学者の内山節は、上野村の人々との触れ合いの中で、村の人が「稼ぎ」と「仕事」を使い分けていることに気づいた。「稼ぎ」は日銭稼ぎであり現金収入であって、もっといい「稼ぎ」があればただちにやめられる。月給取りのサラリーマンもこっちに入る。「仕事」は村で暮らしていくにおいて、村や家庭を維持するために当然になすべきことだ。内山は、本来的には労働の一部を占めるに過ぎない「稼ぎ」が、現代では唯一のものとしてみなされる傾向を相対化した。

 上蔵村の人々のふるまいを見ていると、どうも「仕事」をしない人は「へぼい」と半人前扱いされる傾向があるようだ。仕事をするというのは村の中で役割を果たし、環境や村社会を維持するということだから、それが奪われれば、今度は人格が傷つけられたような気持ちになる。稼ぎでは満たされない問題だ。

「いのちき」は稼ぎよりも仕事よりも個人に焦点が当てられている。母は「みんな爪に火を点す暮らしをしよるんよ」とよく言っていた。この言葉は、「けち」という否定的な要素が強い言葉だけど、土地持ちの家で育って農村に父と家を構え、周囲にはいない教師をしていた母にしてみれば、周りの人々への生活への己の想像力の乏しさを戒める言葉のように、ぼくには聞こえた。「いのちき」はそんな人々が口にする言葉である。己と相手への気づかいが込められている。

 大学生のときに出会った言葉は「バム」だった。

好きなことのために生きることで、仕事はそのために必要があればする。登山の世界には「クライミング バム」という言葉あって、ヨセミテ辺りでマリファナを吸いながらビッグウォールを登る人種がいた。国内では高層ビルの窓ふきとかをしていて「窓ふきん」と呼ばれ、金を溜めて海外の山に行く。

大学というところは、特権階級や特殊技能集団のための通行手形を得る場所だと考えることはできる。そんな中で東京の大学山岳部の集まりに来る連中は、5年生は普通で8年生までしながら山に登っている人も珍しくなかった。世間一般から見れば危険なことをして、ステータスを行使することもなく、親に心配をかけ、ときどき死んだりも確かにする。山で死ぬのは馬鹿だというのは簡単だけど、じゃあやめようというのは野暮に思える。生きているということがたまたま死につながっただけだから、その人の生きる価値を奪うことなんてできそうもないよね、という人たちが登っていただけだ。

山に登るために時間のある公務員になる人も一定数いて、そうやって考えると、せいぜい固い仕事がいいというふうにも思えもしないのだった。いっそのこと仲間と「きりぎりす」という同人誌を作った。それは「働かない」という意味のアンチなのだけど、仲間は次々にアリ化していって、ぼくはそこで書いていた文章が登山雑誌の編集者の目に留まって、今の仕事につながっている。今の自分なら「きりぎりすだっていのちきしよるんやから」と正当化することはできる。

ここまで書いてきてずいぶん使い勝手のいい言葉だと思えてきた。

いま自分がやっていることなんて、世間一般の常識の範囲にあえてあてはめれば、仕事はライターで、趣味は社会運動で、ときどきする家族支援とかはお互い様の助け合いとかになるのだろうか。なんでもやれる「百姓」という言葉に誇りを持つ人がいる一方で、農機具だけで何十万とかかる農業は趣味や道楽の範囲にしか市場経済の中では価値がない。近所にパチンコ屋ができればみんなやるのだろうか。それでも飯田のスーパーで野菜を買うよりましだし、草ぼうぼうにしておくよりはと畑を耕しはじめた。なんとなく、いのちきしている気分になる。

今年はじめてフリークライミングはオリンピック競技になった。昔サッカーのワールドカップの日韓共催があったころに大学山岳部だったぼくは、「クライミングもサッカーみたいに人気出ないかなあ」とうらやましくてぼやいていた。「もしそうなったらお前やらないだろ」という仲間の言葉に言い返せなかった。多分それでは「いのちきしよる」とは天邪鬼のお前は思えないだろうと、彼は知っていたに違いない。

(「越路」22号、 たらたらと読み切り162 、2021.5.13)

「いい関係」グループワーク、相談会

日時 2021年5月29日(土)
場所 諏訪湖ハイツ(岡谷市)304号室
(長野県岡谷市長地権現町4丁目11番50号)
http://www.suwako-haitsu.jp/index.php/page-43/
◇相談会 13:00-14:50
 応談 宗像充(おおしか家族相談)
 50分2500円、要予約
 申し込み 0265-39-2067(おおしか家族相談)
 (留守電の場合は番号とメッセージを残してください。かけなおします)
◇グループワーク 15:00-17:00
 参加費1500円、予約不要(直接会場にお越しください)
離婚・結婚・DV(家庭内暴力)・親子引き離し・モラハラ・不登校 etc
否定のない自由な語り合いで気づく、あんなこと・こんなこと、
あなたにあった「いい関係」をいっしょにつくります。

主催 おおしか家族相談 https://munakatami.com/category/family/
共催 日本家族再生センター長野支部
問い合わせ 0265-39-2067
メール munakatami@gmail.com

子育ては別れたあとも 改訂版・子どもに会いたい親のためのハンドブック 30冊限定販売

2018年に、宗像と共同親権運動ネットワーク著で、社会評論社から発刊しました。子どもに会いたい親のための、現在も唯一のハウツー本です。

その後、再刊は未定で、新古書で購入するか、図書館で読むしか方法がありません。著者のもとに、著者分として30冊の新品残部があるので、1冊、1800円(送料込み)で先着順でお譲りします。

購入希望者は、以下を明記の上
・お名前
・郵便番号
・連絡先
・購入冊数(1冊1800円、送料込み)

こちらから申し込みください。

ニホンオオカミ生存情報追う 長野・大鹿村の宗像さん

近藤幸夫 2021年3月20日 11時00分

写真・図版

アウトドア雑誌でニホンオオカミの連載を続けている宗像充さん=2020年3月30日午後3時33分、長野県大鹿村、近藤幸夫撮影

 長野県大鹿村在住のフリーライター宗像(むなかた)充さん(45)が、絶滅したとされるニホンオオカミの生存を検証する連載をアウトドア雑誌で続けている。研究成果をまとめた著書を出版した後も九州などから生存をうかがわせる情報が絶えず、現場に赴いて確認した成果を伝える狙いだ。

 昨春始まった連載は「絶滅野生動物生息記―ニホンオオカミ編」。隔月発行の「Fielder(フィールダー)」(笠倉出版社)に掲載されている。宗像さんは「生存を立証するまで続けたい」と意気込む。

 ニホンオオカミは1905(明治38)年、奈良県東吉野村での捕獲例を最後に絶滅したとされる。その毛皮(仮剝製〈はくせい〉)は現在、英国のロンドン自然史博物館に保管されている。国内では国立科学博物館、東京大、和歌山大に3体の剝製が残るのみ。環境省は絶滅種に指定しているが、現在も「目撃した」「遠ぼえを聞いた」などとの情報は寄せられ続けている。

 宗像さんは大分県出身。一橋大山岳部OBで、登山を通じて野生動物に興味を持った。「ニホンオオカミは生きている」と訴える人に出会い、「本当に絶滅したのだろうか」との疑問を持つようになった。故郷近くの大分・宮崎県境の山で目撃例が多く、2000年にはニホンオオカミによく似たイヌ科の動物も撮影されていた。

 ニホンオオカミを追い続ける人々や膨大な資料を調べ、14年から月刊誌で連載。成果を「ニホンオオカミは消えたか?」(旬報社)にまとめた。

 その後も「オオカミを飼っていた」「毛皮が役所に保存されている」などの有力な情報が絶えなかった。一昨年の夏には、宮崎県の民間の男性研究者から「昭和37、38年ごろ、地元の猟師が謎の動物を捕獲した」との情報が寄せられた。

 長野県の情報も。1957(昭和32)年4月8日の信濃毎日新聞夕刊に「北アに『ホンドオオカミ』? 猟師らが“姿を見た” 大町山岳博物館が調査へ」という記事があると伝え聞いた。「調査があったかどうか確認できなかった」(同博物館)が、宗像さんは「一つ一つ検証すれば、どこかで生存がわかる情報に接するはず」とくじけない。

 宗像さんによると、生存説へのロマンをかきたてるのは、江戸時代に来日したシーボルトの影響が大きいという。「日本にはオオカミとヤマイヌの2種類の動物がいる」とし、オランダ・ライデンの自然史博物館に頭骨や毛皮を送った。これをもとに作られた剝製が、動物を特定する基準となる「タイプ標本」とされ、ニホンオオカミの正確な姿や生態が特定しづらくなったという。

 国内の3体の剝製も大きさが異なる。最後の捕獲例から116年。生きている姿の写真もないため、実態がつかみにくい。

 宗像さんもタイプ標本によく似たイヌ科の動物を目撃している。かつては南信地方にもニホンオオカミは多く生息していたようで、「連載を通じて様々な情報を検証したい」と話している。情報提供は、宗像さん(0265・39・2067)ヘ。(近藤幸夫)

話してみよう「共同親権」in 札幌

  • 家族法についての民法改正の国の議論が始まっています。

注目は、今、話題の「共同親権」。

親の関係がどんなでも、子どもが両親から愛情を得ることができる仕組みです。他の国では、子育ての時間を親どうしが分担し合い、男女平等な子育て、男女平等な職場や働き方が模索されています。片や日本、海外から「離婚で子どもが拉致されている」と批判されています。

すでに、「二人の親に一つの親権」(単独親権)で、子育てに関与できなくなった親たちが、国を訴える訴訟を起こしています。

結婚で姓を変える女性の割合は96%。離婚で裁判所が女性を親権者にする割合は93%。家庭や結婚は、「男らしさ」「女らしさ」を一人ひとりに押し付けています。単独親権制度のおかげで男性は養育費を支払おうとはしません。「ひとり子育て」が押し付けられる中、ひとり親の貧困や、孤立した家庭での虐待が生じます。「押し付け」はもうたくさん。国会では、共同親権をめぐって毎日のように活発な討論が行われています。

家族のあり方、このままでいいのでしょうか。いっしょに話しましょう。

4 月 17 日(土)開始10:00~12:00

場所   カナモトホール第4会議室(札幌市中央区北1条西1丁目)

◇お話

嘉田 由紀子 さん(参議院議員・元滋賀県知事)*リモート参加

「日本の子育て改革と家族のこれから」

プロフィール 知事在任中に公共事業の見直しによる財政再建をはかり同時に教育・子育て・地域振興に力をつくす。法務委員会で共同親権について何度も質問、発言。

宗像 充 さん(ライター、共同親権訴訟原告)「民法改正、どこがポイント?」

プロフィール 平等な親の権利を求めて共同親権運動を2009年にスタート。単独親権の撤廃を求めて2019年に共同親権訴訟を提訴。著書に『引き離されたぼくと子どもたち』『子どもに会いたい親のためのハンドブック』ほか

・離婚に伴い子どもと会えなくなった当事者   *来場者とともに意見交換します。

◇参加費 500円(予約不要、直接会場にお越しください)

主催 コトオヤネットさっぽろ、共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会

問い合わせ TEL0265-39-2116  メールkyodoshinken.kokubai@gmail.com

★街でも「共同親権」しゃべっちゃえ! 街頭宣伝★

4月17日(土)12:30~ @大通り三丁目駅前通り

共同親権 「男女平等な子育て」って何だ?

第3回口頭弁論、国の回答拒否に裁判所突き返し

 3月18日に行われた、共同親権訴訟(養育権訴訟)第3回口頭弁論では、国側は、他の様々な論点で共同親権への反論(原告の主張では必ずしもない)を行ったものの、第2回口頭弁論で原告側が行った求釈明に対しては事実上の0回答だった。

第3回口頭弁論、国の回答拒否に裁判所突き返し

 この裁判では、親権の調整規定も民法上なく、婚姻外では単独親権となることによって、単独養育が強制されることの違法性を問うている。もとより共同親権が望ましいものであるなら、それを婚姻中にとどめる理由が本来ないので、国側に説明を求めたものだ。

 原告側弁護団が国側の不誠実を指摘すると、休廷になり異例にも15分も3裁判官の協議がなされた。その後裁判官たちは、原告に再度質問の事情説明をするよう求め、それへの国側の回答を待っての弁論期日を設定することになった。原告側の質問は裁判所側もその重要性を認識しているようだ。

 国側は単独親権制度の合理性について「親権制度の意義」ではなく「婚姻制度の意義」という言葉を選んでいる。素直に解釈すれば、婚姻制度を維持するために単独親権制度が必要ということになる。でもそうなら、単独親権制度は子どもの利益のためのものという国の説明は苦しい。

 この前日、同じく家族法についての国賠訴訟の同性婚訴訟で、札幌地裁、武部知子裁判長は「同性愛者間の婚姻を認めないのは差別にあたり、憲法14条に違反する」と判断した(立法不作為は認めなかった)。国側は「婚姻制度は、子を産み育てるための共同生活を送る関係に法的保護を与えるのが目的」として、同性婚を認めなくても憲法14条に違反しないと反論したという(読売新聞2021.3/17)。これは子を産み育てたければ異性間で結婚しろ、という規範を人々に強制するものであっても、それで直接的な子どもに利益になるという説明は難しい。もとより子どものいない夫婦もある。

次回の口頭弁論は、6月17日13時半、東京地裁806号法廷にて。

共同親権と男女平等

 多く離婚や別居で子どもと引き離された別居親たちは、単独親権制度の不公正にしか目が行かない。しかし、多くの人にとって離婚率が3分の1になったところで、少数派の問題には変わらない。しかも、シングルマザーと別居親が対立していれば、社会的弱者の定義で言えば女性が強いので、男性の多い別居親は受けが悪い。だから女性を前面に立てるというのも、ジェンダーバイアスに訴える手法とも言える(子を産んだ母が引き離されるなんて、と男性の引き離しは軽視される)。

 そんなとき、そもそも婚姻中共同親権って言うけど、実際そうだったわけ、と問いかけると、当事者の幅がグンと広がるということにぼくたちは気がついた。当日配ったチラシに、皆さんの家庭は、「父親は外で遅くまで仕事、母親はワンオペで家事育児、じゃなかったですか。イクメンが褒められても、何となくPTAに出るのは母親、保育園の送り迎えは父親、とかなってませんか」と書いた。これを共同親権と呼ぶのはいかがなものかと自分でも思う。

実際、「結婚するとき、女性が男性の姓に合わせる割合は96%。離婚するとき、裁判所で女性が親権者になる割合は93%」。つまり、結婚とは、「女性が男性に従って子どもを育てること」になる。「親権を男が取れないのは育児を担わないから」という男性批判は、つまりこの単独親権制度の現状を肯定したいミサンドリーということになる。「タガメ女」も「カエル男」も実のところ、この構造を浮かび上がらせて批判するツールにほかならない。

「共同養育支援」の欺瞞―選択的共同親権反対

 もとより、男女平等の日本国憲法に合わせて戦前の家父長制を修正する形で部分的に導入されたのが共同親権制度だ。つまり共同親権は男女平等と子どもの福祉に叶うという前提がある。だとすると「子育ての男女平等」を考えるツールが、共同親権ということになる。

 当時の学者も為政者も、性役割はあっても親権獲得の機会が男女平等だから単独親権が残ってもおかしいと思わなかった。だけど、イクメンが褒められるのを批判する人間が、単独親権は男女平等というのはやっぱりおかしい。別にぼくたちは性役割に基づいた、月に1回程度の面会交流を言い換えただけの共同養育支援を求めてない(求めているのは引き離して金を得る面会交流支援者や弁護士)。均等かそれに近い養育時間(つまり「共同監護」)の配分が、男女平等に叶うと言っているだけだ。個人が生きやすい世の中も次世代に残せる。

子どものための親権制度と言っている人たちが、もとより選択的共同親権「ならいい」というのも意味不明。親権は子どもへの責任なら原則共同親権(選択的単独親権)にならないのはどうしてだ。話し合えないなら単独親権がいいというなら、「なんとなく」の役割分担で話し合わない夫婦のほうが、「婚姻制度の意義」は達成されて子どもは幸せか。

民法国賠訴訟での共通項=共同親権の不在

 先行する共同親権訴訟で、東京地裁は、 2月17日 、「親である父又は母による子の養育は,子にとってはもちろん,親にとっても,子に対する単なる養育義務の反射的な効果ではなく,独自の意義を有すものということができ,そのような意味で,子が親から養育を受け,又はこれをすることについてそれぞれ人格的な利益を有すということができる。」と明示した(ものの親権が憲法13条による幸福追求権であることは否定した)。

 名前や性的指向が否定されることも親子関係が損なわれることと同様、自分が否定されたような感覚になることは想像できる。この間、選択的夫婦別姓や同性婚の実現についての国賠訴訟では、その不利益として「共同親権をもてないこと」というのが、判で押したようにある。だったら、婚姻外の関係にも共同親権の適用を求める、ぼくたちの訴訟は彼らにとってもいっそう重要だ。

(2021.3.21 宗像 充)