「二ホンカワウソは生きている」レビュー

われらの宗像先生が書いた「二ホンカワウソは生きている」。本書は「二ホンオオカミは消えたか」に続く第二弾。感想文を書いてくれ、ということで本が送られてきた。

まずは著者紹介を確認。「大分県生まれ。ジャーナリスト。一橋大学卒業。大学時代は山岳部に所属。登山、環境、平和、家族問題などをテーマに…」とある。私は途端に不機嫌になった。「これウソじゃん。研究の意味がわからず大学院を中退したことや、最初のカミさんが家出したこととか書いてないじゃん!」。確かに記載されている情報は正しいのだが、宗像君の本質を示す重要な中身が抜け落ちている。この著者紹介では、宗像君がいかにも勉強ができて社会問題にも関心を示す素晴らしい人、みたいにしか表現されていない。ということで、半分ムカつきながら渋々読んだ。

しかし読み進めていくと、中身はそれなりに面白かった。またこれも事実ですな。

この本のキーワードは、「絶滅宣言」と「二ホンカワウソとは何だ」、そして「見ようとしないものは見えない」という三つ。

二ホンカワウソという存在についていろいろな「仮説」が飛び出してくるあたりは、推理小説にも似た論理展開のスリルを感じます。その存在の概念規定に迫るあたりは、哲学的-思想的深みを感じ取ることができる。そしてかつて東京の国立で平和運動に携わり、各種選挙を手伝ったりした「活動家」でもあった著者ならでは感性-国家・社会批判の感性をも感じる。まぁ、こうした感性でものを書くのが宗像君の特徴なんだろうし、だから私みたいなものが読んでも面白いんだろうな。

本書では環境省が出した二ホンカワウソに対する「絶滅宣言」に対する疑問が話の経糸として貫かれている。そこに緯糸としての目撃談や証言がからみながらカワウソという存在に迫っていく。

「国がいないと言えばいなくなるのか。『見かけない』ことは『いない』ことの証拠だろうか。少なくとも言えることは、その判定もまた人間が決めるものである以上、『絶滅』という現象も人間社会の出来事だということだ」(本書P16)。という言葉に、「絶滅宣言」の理不尽さとともに、その存在の有無さえ規定するかのような国家の―社会の在り方に対する怒りを感じるのは私だけであろうか?

また著者はカワウソの激減を論じるくだりで、「話が先走りすぎた」と言いながらこう主張している。

「一瞥してわかるのは、これらはすべて人間が原因を作っているということだ。カワウソは(略)人間が天敵でその活動が大きな減少要因だ。(略)カワウソ減少の理由について『富国強兵』という言葉を使っていた。北方への戦争のための防寒着に毛皮の需要が高まれば、カワウソは高級品として狩猟圧が高まるし、戦後は国内の自然を攻撃することで経済を活性化させることを繰り返していた。だから、もはや経済成長の見込みが立たない時期に、再発見と絶滅宣言が同時に出るのは、何を反省するかという点のやはり分岐点になる」(本書P99)。

そのほかにもベトナム戦争で使われた枯葉剤と薬剤散布の関係を詳説している。著者はこの薬剤散布がカワウソ激減の要因の中で唯一、「関連性をある程度推察できるのがこれだ」と言い切っている。

反戦運動の活動家が書きそうな文句だね。そこが好きだけど。

そして二ホンカワウソの存在が確認できない主要因に、そもそも探さない、というか調査しないという観点を強調している。そう、「見ようとしないものは見えない」のだ。ちなみに、新本格派と言われ現代推推理小説の巨匠でありメフィスト賞第一回受賞者である京極夏彦先生の傑作、「姑獲鳥の夏」もかかる観点がテーマです。そして、著者紹介も「見ようとしない人には見えない」のだよ。

まだまだ、色々書きたいけど紙幅の関係で、この辺で…。最後に、私が本書を読み終えて感じたのは、人間が勝手に殺し、勝手に「絶滅宣言」を出し、勝手に「二ホンカワウソとは?」と論争している間に、とうのカワウソは人里離れたところで悠々と泳いでいる光景。それは人間の浅知恵を超えた自然の力強さの表れなのかもしれない。(難波 広)

追伸。最後に出てくる大月の二人ってエクスペリエンスじゃん!(難波広)

*編集部注 家を出たのは宗像が先です。

「越路」25号、2021.11.11

リニアの村の暮らし

 11月9日午後、伊那山地トンネルの坂島非常口を見に行くと、現場には人気がなく、車両の出入りのときのブザーが意味もなく定期的に鳴っていた。2カ月前に来たときは、車両も人も往来し、ヘリコプターもひっきりなしに発着し、7月に着工し、いよいよこれから本格工事に入るという、それなりの活気が伝わっていたのがウソのようだ。

前日の午前中にトンネル内部の壁面の崩落から、JR東海は掘削200m地点で負傷事故を起こしている。この日は夕方に説明が開かれたという。翌日、とりあえず現場に足を運んでみることにした。ここは豊丘村の中心地から虻川の上流にどんどん分け入って、現地は無人になった集落の入口にある。掘削地の上を走る林道を通過して工事現場に下りていく。その林道の側壁はのり面が吹き付けられ、アンカーで止められているので、ここの地盤が硬くはないことは素人目にも想像がつく。

今年に入ってからJR東海は、飯田市の松川工区の掘削開始、伊那山地トンネルの掘削開始、天竜川架橋工事の開始と、工事の進まない静岡県の外堀を埋めるように、立て続けに工事の実績を示していた。その結末がこれかと吐息が出る。「撃ちてし止まん」という言葉は、こういうのを表現するんだろうなと得心する。

帰りに、浜松市のOさんと出会う。地質に詳しくリニアの工事現場には必ず現れる。

「真砂土が落ちた。岩盤を前提に発破をかけたんだろうけど、実際は風化している。どの程度現地が真砂化していたのかなと見にきた」

 風化した花崗岩が崩落にかかわっているのは、小渋線のトンネルでも山口工区のトンネルでも同じようだ。Oさんは中津川瀬戸市の事故翌日にも現地に足を運んでいたというから、記者よりよっぽどフットワークがいい。

 10月28日の朝には、中津川瀬戸のリニアトンネル工事現場での死亡事故の知らせを知り合いの記者から聞いた。岐阜県が地元でリニアを取材するフリーランス仲間の井澤さんに電話すると、もう現場に来ているという。そそくさと朝ごはんをすませて、早速現場に向かう。

 JR東海は、2017年12月に大鹿村に通じる小渋線で掘削中のトンネルで、外壁の崩落事故を起こしている。中途から両側に掘り進める工事で、出口まで残りわずかの部分で通常の倍の火薬を使って崩落を起こしている。2019年には同じ中津川市の山口の工事現場で掘削開始から200mで落盤事故を起こしている。いっぺんにあちこちでトンネルを掘り始めるとこうなるのだろうか。

 瀬戸の工事現場のゲート前には、記者がすでに30人近く道路の向かい側にいた。ぼくも井澤さんとその一画を占めていた。中に入れるわけもなくつまんないので出入りがあると道路の反対側のゲートの脇で写真を撮る。向こう側にいるカメラマンの一人が「ルール守れよ。みんなそっちに行きたいと思っているんだ」と声をかけていた。

 井澤さんが「どういうルールなんだ」と言い返していた。JRの関係者は出てこないし、どんなルールを守ったら取材ができるというのだろう。横並びの記事を書けばとりあえずは一仕事終えられるけど、フリーランスは発表する宛が決まっているとは限らないから、同じことしててもしょうがない。

 といってもぼくも言い返すこともなく、現地にいた記者の一人に5時から開かれる中津川市内での記者会見を教えられて移動した。警察や労基署の出入りはあっても、結局JRの職員は一人も出てくることはなく、記者に対応したのは地元の岐阜県警の広報官だった。

 記者会見は記者クラブ対象で、受付で井澤さんといっしょにフリーランスと名乗って交渉すると案の定断られた。「広報に電話してください」と「広報」と名札のついた社員が説明する。なめている。

死亡事故を起こしていてそれはないでしょうと食い下がる。「ちょっと相談してきますので待っていてください」といったん中に入り、再び出てくるとぼくたちを待たせたまま、所属のある報道機関の人を一人一人中に入れる。最後に案の定「今日は記者会対象ですから」と排除しようとするので、玄関先で押し問答になり、そのまま1時間半。途中井澤さんが「資料をもらったら引き上げる」と妥協案を示したものの、それからも30分。取り囲んだ7人の社員は一言もしゃべらなかった。二人の名刺は外の受付の机に散らばったままだった。

今年の田んぼは、10月25日から北川さんや東京の友達や、何人かの手を借りて28日には終えることができた。刈り取った稲は稲架にかけて3週間ほど干す。水分量が低くなったのをたしかめて、近所のMさんに頼んで脱穀してもらう。ところが、好天になったらまた雨が降るという天気が続いて、何度農協に水分量を測りに行ってもちょうどよくならず、結局脱穀ができたのは一月以上も経った11月2日だった。

その間、井水を確認に行くと水が切れていて、組合長といっしょに水路の掃除に出かける。いつになったら今年の田んぼは終わるのだろうとあちこち出かける気にもならず、出版をまじかに控えたカワウソと共同親権の本の校正作業を進め、やっと脱穀になったら、収量は昨年の半分だった。一人で食べるので困りはしないだろうし、冷害で大鹿のほかの農家も同じ状況だったようだけど、待ってただけにちょっと寂しい。

そんなこんなで、体を動かしたくてもじもじしていたところに、JRが事故を起こした。ちょうどそのときには時間があって、ぼくはJRが起こしたトンネル事故の翌日には、すべての現場に足を運んでいたことになる。リニアの取材というより、リニアの追っかけをしている気になる。

11月7日に、東京から来た山の仲間を大鹿のトンネル掘削現場に連れていった。小河内沢を渡って除山非常口の下の河原に出ると、トンネルから流れ出ているだろう水が、土管を伝って流出していた。ぼくの田んぼの井水組合の水は、釜沢非常口のすぐ脇を流れる所沢の上流から引いている。釜沢地区はリニア工事によって水源地が枯れることが予想できる。JR東海は釜沢地区の代替水源をこの所沢から引きたいとうちの井水組合に打診してきた。ほとんどが70代以上の組合の中で一番若いのが46歳のぼくで、JRが30年水を保障したとしても、そのころ生きているのはぼくになる。暮らしの中に、リニア問題はよくも悪くも位置を占めている。ここは大鹿、リニアの村。

(「越路」25号、2021.11.11)

『ニホンカワウソは生きている』表紙できたよ!

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すでに絶滅したとされるニホンカワウソ。しかし、今も目撃情報が絶えず、その生存を信じる人たちは多い。2016年、高知県の海岸で〝ニホンカワウソらしき動物〟が撮影されたことに強い関心を寄せた著者は、取材を重ねていくことで生存への確信を得る。環境省の「ニホンカワウソ絶滅宣言」を揺り動かす、渾身のノンフィクション。

幻の山小屋

「これお土産です」

 大鹿村役場のカウンターで、産業建設課長の間瀬さんにビニール袋を手渡す。

「何これ」

「広河原小屋のゴミです」

使用済みのEPIガスカートリッジ3つを小屋から持ち帰っていた。

広河原小屋は、大鹿村が持つ唯一の山小屋だ。小渋川の上流にあり、行くには股下の徒渉が10回以上あるので、登山道しか歩いたことのない登山者はやってこない。通常車が入れる終点の、湯折の登山ポストに提出される登山届は、毎年20人程度しかいない。大鹿村に来てから一年に1回くらいは広河原に行くのだけど、年々ゴミがたまっていて、役場が手入れをしている様子がない。半ば放置されている。

あまり荒れるとゴミが増えるし、焚き木にされて小屋が燃やされたりすることもあるので、行くと後ろの引き戸を開けて風を通して箒で床をはく。重くならない程度に、他の登山者が置いていったゴミをザックに入れて持ち帰っている。古くても、床が一部沈んで埃っぽいほかは、小屋はしっかり立っていて、引き戸もきちんと開く。稜線の大聖寺平から下山してきて小渋川が増水している場合、この小屋があるおかげで焦らずに日和を見ることができる。

「いや、ぼくの別荘にしてもいいんですよ。だけど心が痛まないかなあって」

 間瀬さんは今年の秋に、アプローチの林道も修繕すると弁明していた。

7月末に、小渋川から赤石岳、荒川三山を取材で登ってきた。昨年の豪雨で湯折までの林道は2カ所で崩壊している。倒木だらけの一か所は村が倒木を撤去した。もう一か所は沢が道を削っていて、歩いて通過するにも高度感があってちょっと怖い。林道の復旧はあきらめて、ロープを登山者用に渡して歩道にしてしまうといいと進言したけど、湯折には県の発電所の取水口もあるので、県が予算をつければ林道は元に戻るようだ。

広河原小屋は南アルプス最古の山小屋と言われている。大正登山ブームを経て村に赤岳会という有志団体ができて村に働きかけ、荒川小屋とともに作った。四半世紀前に学生のときにぼくが登りに来たときには、広河原小屋と同じく、通路の両側に寝床のある古い山小屋の形式の荒川小屋はまだあった。その後静岡県側の山林地主の東海フォレストに荒川小屋は管理を移管し、ピカピカの小屋に生まれ変わっている。

静岡県側はリニア工事で当分登山者にとっては不便なので、百名山の赤石岳、荒川三山の登山に「アクセス至便」なのは、長野県側の大鹿村になった。「百名山」を「最古の山小屋」とセットで売り出せば、ぜったい飛びつく登山者はいるはずなのに、大鹿村はこのルートは行かないように言っているそうだ。今年も雨続きだし、広河原小屋はますます幻の山小屋になって希少価値を増している。

 役場に登山者の冒険心を理解する人はいないので、何かさせようとしても無理だ。もともと山登りなんて、自分でルートを考えて頂に立つのが本来の姿なので、元に戻っただけだ。

 お隣の遠山谷には、学生のときに日本山岳会の学生部でお世話になった、登山家の大蔵喜福さんが昨年からやってきて、「エコ登山」を掲げて木沢小学校に事務所を構えている。光岳もまた渋い山だ。アプローチが遠くて百名山ハンターが最後に選ぶ(残す)山として知られている。学生のときに、甲斐駒から南アルプスの全山縦走をして、最後にたどり着いた光岳は樹林のなかで「これで最後か」という記憶しかなかった。

 遠山谷からの登山道はもともと長丁場な上、アプローチの林道は度々崩壊し、体力のない登山者には厳しかった。大蔵さんは登山道途中の面平に据え置きテントを設置して、そこをベースに光岳を往復できるようにした。営業小屋のない長野県側南アルプスだからこそできる逆転の発想だった。登山者も減っているのに今さら山小屋なんて作れない。だけど、面平の幕営地には、炊事具はあるし、山小屋以外は何でもある。排泄物は携帯トイレで持ち帰るので、環境に付加を与えない。

 同じような発想で登山道を整備し、大蔵さんは遠山谷と大鹿村を結んで赤石岳への登路を確保しようと考えていた。小渋川の左岸や聖岳へと続く百間平にはもともと大鹿村がつけた登山道がかつてあり、広河原小屋はこれら周遊登山道のベースでもあった。下山すれば湯折で温泉にも入れたものの、今さら湯治場を復活するのは無理そうなので、据え置きテントとドラム缶風呂を設置すれば、来る人は増えるだろう。

今年、南アルプスでは、ヘリのチャーターができない上に、コロナで山小屋の営業も成り立たなさそうなので、南部地域の山小屋は避難小屋を開放して、すべて営業を停止した。おかげで無人の山脈が突然出現した。大蔵さんの「エコ登山」とともに、今時の登山のあり方として、雑誌にページをもらったのだ。

七釜橋の橋梁は小渋川の水面から1メートルほどしか「隙間」がなかった。湯折まで40分、湯折から30分ほどで、七釜橋に至り、ここから小渋川の徒渉が始まる。毎回なんでこんな山奥に、こんな立派な橋があるのだろうと思うけど、昔の砂防堰堤工事のために作ったものだという。そのころ作られた護岸のコンクリートは、昨年の豪雨で完全に水没。「税金の無駄」「自然に歯向かっても無理」の貴重な展示品となっている。

どっちにしても、ここから先はいつもの徒渉の繰り返しで、荒川前岳の胸壁を見上げると陸に上がり、林間に広河原小屋が建っていて安心する。

稜線への登山道は、一昨年の台風19号でいよいよ倒木が多くなり、大聖平の下のトラバース道で今回も迷いながら大聖平のケルンに到着する。時間的に余裕があったので、赤石岳を往復し、フラフラになって荒川小屋に来ると、何とぼくのほかに3パーティー、計5人もテントと小屋にいた。

「今日は小屋は独り占めと思っていたのに」

ぼくが考えていることを口にしたおじさんは、茨城から、若いガイド2人を連れたおじさんは群馬から、それに単独行の女性がテントを張っていた。小屋の人たちに聞くと、椹島は小屋は営業しているものの、リニアの工員が客室を占めていて、登山者は予約できなかったという。椹島までの林道の交通機関は、椹島に宿泊した人のためのリムジンバスしかないので、登山者は椹島まで林道を歩くしかなく、ガイド付の3人組は、電動アシストの自転車で突破した。

「山やとしては憤りを感じる」

 茨城のおじさんが言っていた。椹島の周辺は静岡県知事がダメ出ししても、リニアの工事現場に変わっていた。4人とも、無人の千枚小屋に泊まり、荒川岳を越えて荒川小屋に来て、明日は赤石岳を越えて、赤石小屋に泊まるという。いくら条件が整わなくても、来る人は来る。

 翌朝、荒川東岳(悪沢岳)を往復して、広河原小屋に下山した。一番いい時期の夏山に誰もいない山上。お花畑、滝雲、ブロッケン現象、サルの群れと、営業はなくても、これでもかというくらいのサービス過剰だった。

広河原小屋に戻り、小屋の引き戸を開け、風を入れ、箒で履く。今回は獣が床下から侵入して床上に毛が散らかっていた。

ゴミのガス缶を入れたザックを背負い、小渋川の流れに足を浸す。「冷たい」といつものように声を上げる。

(山行記は発売中の〝Fielder〟で)

(2021.9.8、「越路」24号、 たらたらと読み切り164 )

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すでに絶滅したとされるニホンカワウソ。しかし、今も目撃情報が絶えず、その生存を信じる人たちは多い。2016年、高知県の海岸で〝ニホンカワウソらしき動物〟が撮影されたことに強い関心を寄せた著者は、取材を重ねていくことで生存への確信を得る。環境省の「ニホンカワウソ絶滅宣言」を揺り動かす、渾身のノンフィクション。

【vol.59】コロナ禍で実現する“自力登山”への挑戦「誰もいない南アルプス百名山を登る」

今夏、三伏峠から南の南アルプス主脈の山小屋はすべて営業を取りやめた。この地域には荒川三山(3141メートル)、赤石岳(3121メートル)、聖岳(3013メートル)、光岳(2592メートル)と4つの百名山がある。アクセスの不便さから毎年百名山登山のフィナーレにこの山域を目指す登山者も多い。今年は輪をかけて「遠方」になった。自分の力で登る広大な山域が突然出現した。誰もいない百名山も独り占めできる。それに営業していなくても小屋はある。隅々まで整備された北アルプスとは違う登山、人間も自然の一部と気づかされる登り方、そして文明の利器に依存しない本来の山登り。冒険を探しに無人の山河に足を踏み入よう。
※緊急事態宣言下では不要不急の行動は慎むこと。
文・写真/宗像 充


百年前の南アルプスを旅する

大鹿村は塩見岳、荒川三山、赤石岳と三つの百名山の玄関口だ。上蔵地区は、鳥倉林道を経て三伏峠へ、釜沢を経て小渋川から赤石岳へと至る道の分岐にあたり、赤石岳を見上げる美しい里だ。

その道端に、昨年から「ウェストン写真 赤石岳登山」という控えめな案内表示が立った。民家の庭先には山頂の集合写真が掲げてある。しかめ面のウォルター・ウェストンとともに村の人たちが写っていた。ウェストンは日本に西洋の登山を普及させたパイオニアだ。1892年(明治25年)にここを通って赤石岳を往復した。

上蔵の人たちもその案内として同行し、家主のKさん宅にそのときの写真が伝わっていた。Kさんがこの写真を刊行公表するまで、見たい方は足を運んでほしい。

ウェストンは南アルプスでは赤石岳に最初に登頂している。小渋谷は直線の断層で正面に目指す山を望める希少なロケーションだ。南アルプスの盟主として山脈の名前を冠し、明治以降の日本アルプス探検では、代表的な登山家が足跡を残した。小渋川を溯る登頂ルートは、現在も往時のままほとんど変わらず、庭先の写真とともに歴史的価値がある。

小渋川の入渓地の七釜橋は橋梁まで川床が迫っていた。釜沢から1時間半。

庭先に掲げられたウェストンの登頂写真の案内板。

裏山は3000メートル

我家はこの上蔵集落の最上部にある。自宅からは赤石岳南の大沢岳が望める。ぼくがこの村を最初に訪問したのは、大学一年の冬山の偵察で秋に荒川三山に登った四半世紀前のこと。飯田線の伊那大島の駅からバスに揺られ、終点の大河原のバス停から車道を歩き、途中移動スーパーに拾ってもらい、釜沢から林道をたどる。小渋川に入渓し何度も徒渉を繰り返した。道は市販のガイド地図にも記載されている。尾根の取り付きに山小屋もあり、急登を経て確かに南アルプスのピークに立てる。

「なんでこんなところが登山道になっているんだろう」

整備された道を歩く登山しかしたことのない自分には不思議だった。それは、多くの人々を迎えてサービス過剰になった現在の山登りに疑問を投げかけるはじまりだった。

登山を終え、釜沢まで戻ってきたとき、いっしょに来た先輩が山肌の集落を見上げてつぶやいた。「よくこんなところに住んでいるなあ」。いまその村にぼくは暮らしている。

赤石岳、荒川三山36時間

無人の中岳避難小屋から荒川東岳を望む。

人はいない、小屋はある、お金は使えない

南アルプス南部の山小屋は、新型コロナ等の影響で、静岡県側の椹島以外すべて営業を停止している。椹島ロッジは工事関係者も利用するため、ロッジの送迎バスに乗られない登山者は長い林道を歩くしかない。この地域の百名山を目指すには長野県側がいまや「アクセス至便」だ。

しかし、昨年の豪雨で小渋川から赤石岳を目指す登山口の林道が崩壊。1時間の林道歩きが加算された。今夏の登山をあきらめる登山者も多いだろう。

ただ林道の崩落状況を把握していたぼくには条件はさして変わらない。ないのは荒川小屋の営業だけだ。山小屋の避難小屋は夏でも開放されたため、人はいない、小屋はある、そしてお金は使えない、の三拍子そろった静寂の夏の百名山を独り占めできるはず。

もともと南アルプスは寝袋持参の登山が似合う山。7月28日、釜沢を横目で見て林道を歩きはじめた。

南アルプス南部の山小屋は軒並み営業を停止した。

南アルプス最古の山小屋、広河原小屋は幻の山小屋。訪問する人は年に30人もいない。

南アルプス最古の山小屋

今回も持参した地形図には、まだマメだった学生当時、徒渉点を記録しようと、地図上の小渋川に打った印が残っている。深いところで股下の、10回以上の徒渉を繰り返すこの川の溯行は、道をつけて人が山を手なずけようとしても、素直には従ってくれないという証明だ。

林道の2か所の崩落箇所は倒木が撤去されている。高度感のある部分もあり緊張する。村も登山の中止を勧告している。最近は国が国民を見殺しにする用語として「自己責任」という言葉は価値が暴落した。それは本来、リスクを引き受ける登山者の矜持だったはずだ。

徒渉のスタート地点の七釜橋は、昨年の豪雨で桁下まで川床が迫っていた。砂防工事のためのコンクリートブロックは川床になり、大自然の前の文明のおごりが見学できる。川は豪雨で荒れても、徒渉は学生時代とさしてかわらない。高山の滝を過ぎて谷が狭まった後、視界が開けて荒川前岳の胸壁が見えてくる。川を離れると木漏れ日の林から小さな山小屋が現れた。

広河原小屋は南アルプス最古の山小屋と言われる。古びてはいてもしっかり立っている。中に入ると石がむき出しになった通路が奥へと続き、両側に寝床がある、古い山小屋のスタイルを踏襲している。大正登山ブームを受けて、大正が昭和に代わるころ、村の有志のグループ、赤岳会の努力と働きかけで、荒川小屋や三伏峠小屋とともに建設された。

以前はここから荒川三山、赤石岳の間の大聖寺平に至るだけでなく、福川沿いにさらに南部の山並みにつながる百間平に至る道もあった。また小渋川の左岸には登山道も整備されていて、ここをベースに尾根を周遊できた。小さな小屋には南アルプス登山の歴史が折り重なっている。

大鹿村に住んでいると、毎年のように小渋川での遭難事故の報を聞く。降雨で小渋川が増水して余裕がなければ無理をして下って流されるだろう。学校登山で赤石岳に登っていた大鹿村の中学生全員が、1週間近くこの小屋で足止めされたということもあったという。ぼくも水が引くまでここで日和を見たことがある。登山とはそういうものだった。

荒川中岳に至るお花畑を見る人は誰もいない。

大サービスの百名山

広河原小屋からは、一昨年の台風19号で倒木だらけだ。手を入れていないので低木が覆い、踏み跡も見落としがちな道に疲弊して大聖寺平に至る。5時15分に釜沢を出てまだ13時45分。欲張ってさらに赤石岳を目指すと、山頂では2000メートルの標高差にフラフラになっていた。バテバテで17時過ぎに荒川小屋に入ると、なんと、テントも含めほかに3組の登山者がいた。

翌29日、絶好の登山日和のもと、荒川三山を経て再び広河原小屋から小渋川を下り5時に釜沢に戻る。36時間で2つの百名山の頂に立った。

朝焼けの富士山を後に、荒川東岳に向かう途中、光岳から山梨県の広河原を目指す単独の女性登山者と行き交ったのが、登山道で唯一出会った人間だった。無人の山上で、お花畑は咲き誇り、滝雲が長野県側から大聖寺平を越えて流れ込む。霧にかすむ山梨県側を見下ろせば、ブロッケンの妖怪が現れた。自然のサービスは小屋の営業以上だ。

ぼくが長野県側からの最初の登山者のようで、広河原小屋の周囲には、クマがアリの巣をつついた跡や真新しいフンが落ちていた。東岳にはサルの群れ。人より野生動物に会う機会が多い。荒川岳の開山は1886年(明治19年)、大鹿村の隣の豊丘村の行者、堀本丈吉によるとされる。東岳山頂にはその開山50年を記念した1936年の銘板が残っている。村人とヤマイヌに導かれて荒川岳を開山した、山開正位(堀本)も、ぼくが体験したような変幻自在な自然の競演に感動したことだろう。

1886年に荒川岳を開山したのは豊丘村の行者、堀本丈吉とされる。開山時の様子が豊丘村の三峰神社の横幕に残る(富士見町高原のミュージアムの展示から)。

東岳の稜線にいたサルの群れ。今回会った人間より数が多い。

ブロッケン現象は、光が背後から差し込み影が雲粒や霧粒に散乱して生じる光学現象。

赤石岳山頂から、赤石岳避難小屋、聖岳を見る。一等三角点は日本で最高所。

山登り、それは文明に背を向けること

「営業小屋はどこも休み。すいてて小屋は貸し切りと思ったら、ほかにもいました」

茨城から来た単独の男性も慨嘆していた。荒川小屋の避難小屋の扉を開けると、4人の登山者が出迎えてくれた。幕営地には先の全山縦走の女性のテントがあった。3人組のパーティーは百名山登頂を目指す年配の男性とガイドだった。小屋の2組は、静岡県側の椹島から荒川三山を経て、明日は赤石岳を登るという。

今夏、南アルプス南部の山小屋の営業が停止になったのは、新型コロナ対策、ヘリの輸送確保の問題、それにリニア工事の影響とされる。リニア新幹線の建設は、大量輸送と都市への人口集中を前提にする。それが「都会病」である新型コロナの感染拡大で、人の移動は抑制され、南アルプスの自然を犠牲にしてまで建設する必要があるのかと、あらためて意義が問いなおされている。荒川岳の北面の地下1400メートルのトンネル建設は、山体の砂漠化を招く。将来的に氷河期の名残の雷鳥やカールの高山植物の生息環境を変えていく。登山口釜沢の行き場のない排出土を見て「何のために」と思う登山者もいるだろう。

山岳ヘリ輸送は費用が上がり、その確保が課題になっている。営業小屋の整備は北アルプスや八ヶ岳では、登山者がサービスの質を求める傾向を生み、ヘリ輸送の途絶による小屋の維持が困難になって、登山文化の危機だと語られた。しかし、実際無人と化した南アルプスを歩くと、文明に依存するしかない登山文化とはいったい何だろうと首を傾げる。

「登山するような環境じゃないですよね」

二軒小屋はリニアの作業員宿舎になり、椹島の宿舎は営業しているものの、リニア工事の作業員で埋まって茨城の男性は泊まれなかったという。4人は徒歩や電動アシストの自転車で長い林道をクリアした。徒渉10回以上の長野県側といい勝負だ。工夫次第で、ガイドにも、自立した登山者にも、今年の南アルプスは捲土重来。腕試しの冒険の山河が広がっている。(リニア工事と南アルプス登山情報は筆者のブログ「南アルプスモニター」で発信中)

朝焼けの富士山は指呼の間に。

リニア残土越しに釜沢集落を見上げる。

Fielder【vol.59】から
http://fielder.jp/archives/15033