沖縄タイムスで木村草太のヘイトコラム再開

読者を愚弄

 12月5日に沖縄県の地方紙、沖縄タイムスは、憲法学者の木村草太の連載コラム【木村草太の憲法の新手】(165)で「離婚と親権(上)『連れ去り勝ち』論に誤り 報道は双方の取材必要」との記事を掲載し、ネットで配信して読めるようになっている。

 木村氏は現在の実子誘拐や単独親権制度についての報道記事について危惧があり、報道の問題点を挙げるという点でコラムを書いている。

 例えば、「連れ去り勝ち論」について木村氏は、不当な子連れ別居に対しては、監護者指定や子の引き渡し手続きがあり、虐待親であれば監護者として不適切な親から裁判所が引き渡しを命じるなどと述べ、面会交流の手続きも保障されているので、「連れ去り」が主張された事例では、報道機関やライターは、別居親に、裁判所で監護者指定や面会交流の手続きをとったかを確認すべきだという。そうしないとDVや虐待の加害者に加担する危険があるし、監護者指定審判の中で、深刻なDVや虐待が認定されているのに、それを無視して、「実子誘拐の被害者」などと報じれば、子連れ別居を選択せざるを得なかった親への深刻な名誉毀損となるというのがその主張だ。

 子連れ別居を選択せざるを得ない状況は現行制度の不備だと思うし、そういう点では、双方が制度の被害者だと踏まえた上で一応述べておくと、別居親の中で子連れ別居から子の引き渡しや監護者指定で勝ったという事例はまず聞かない。あるとしたら、子どもが生死不明に陥る程度の深刻な虐待でなければ家裁は虐待など認定しない。子どもが多少の怪我をする程度の虐待や、現在ではモラハラや精神的虐待と言われる程度の虐待の加害者が同居親である事例は、別居親の話を聞いている限りにおいてはありふれている。

しかし裁判所はいくらそれを別居親が主張しようが、対立が強いとして間接交流という名の写真の送付や、月に1度2時間程度の面会を斡旋する。間接強制という強制執行を木村氏は肯定しているようだ。ぼくの事例では、間接強制によって子どもと再会できるようになるのに半年かかり、上の子との面会はそれ以来途絶えた。子どもが中学になれば強制執行はかからない運用を現在家裁は繰り返している。

 木村氏がこういった家裁の実情を知らないとしたら「世間知らず」という批判はさておき、学者としては調査不足だ。知っていて言っているとしたら、自分の知名度の高さとメディアで連載を持てるという地位を利用した、別居親へのヘイトというしかない。要するに読者を馬鹿にしている。

木村氏は、おそらくこのテーマでコラムを書こうと思い立ったきっかけとなる、フランス人のヴァンサン・フィッショさんの妻に実子誘拐の逮捕状が出たことについて触れていない。フィッショさんは面会交流の調停手続きを避けているが、やれば子どもとの交流を制約されるわけだから、やらないのは妥当だ。子どもは誘拐の被害者だ。誘拐の被害者の子どもの写真など、報道機関が公開しないということはまずない。いちいち誘拐犯の言い分を聞かないと報道できないということもない。

要するに彼が狙っているのは、社会問題のもみ消しであり、口封じである。地位と権力のある彼だからできる「パワーコントロール」と呼んだらコントかもしれない。そして制度の被害者どうしの対立をあおり続け、彼はそれについて発言し続けることで地位を保てる。悪質である。

沖縄タイムス、やらかしたのは2度目

 ところで、あまりにも現場の実情を知らない意見なので、編集部に電話したり、質問状を出したりしようと思ったけど、やめた。

 すでに、沖縄タイムスは2018年に、木村氏の同連載コラムで、「(86)共同親権 親権の概念、正しく理解を 推進派の主張は不適切」、「(87)続・共同親権 父母の関係悪いと弊害大きい」と共同親権への木村氏の反対論を掲載していて、このときにもぼくは沖縄タイムスの担当編集者に直接電話し、その後質問状を提出しているからだ(http://kyodosinken.com/2018/10/04/oki nawataimusu/)。その後沖縄タイムスは、共同親権訴訟も含め、親権論議についてのシリーズ記事を掲載している(ネットでは一部しか見られない)。

「コラムの著者の意見。新聞社は載せただけ」という逃げは、今回の記事には通用しない。

 このときの木村氏のコラムの中には、「裁判所は、別居親に監護の機会を与えてくれない」という批判に対し、それは、裁判所の人員や運用に問題があって、裁判所が適切な判断をできていないか、あるいは、客観的に見て別居親の監護が「子の利益」にならないことによる。法律の定めるルールの内容に問題があるわけではないと述べ、裁判所が人員不足も起因して適切な判断ができていないことを述べていた。

今回の木村氏の主張は、手続きさえ経ればきちんと判断されているということだから、前回の主張と食い違っている。要するに、別居親がまともじゃないというために、ときに裁判所は適切な判断をしている、ときに適切な判断ができないときもあると一貫性のない主張をその場しのぎでする。

 ちなみに読売新聞は女性が94%で割合で裁判所で親権を得ることに対して、二人の元裁判官が、「裁判所には『子は母に』の考え方が浸透していた」、「本来はケースに応じて判断するべきだが、そうではなかった恐れはある」と述べ、裁判所の判断が性差に左右された恣意的なものであることを証言している。とすると、木村氏の主張は、裁判所のジェンダーバイアスを肯定する意図でなされたものであることがわかる。念のため述べれば、このようなヘイトが大手メディアで繰り返されれば、ますます男性の育児を困難にし、日本のジェンダーギャップ指数は低迷し続けるだろう。

 以上指摘して、沖縄タイムスが求められているのは、今回の木村氏の記事に対してのファクトチェックを報道機関の責任としてなすことである。木村氏への反対意見を対抗言論や検証記事の形で紹介するべきだ。木村氏は、沖縄タイムスのコラムを利用しての、別居親や男性に対する「聖戦」を継続しており、それは今回のコラムでなされたような、ジェンダーバイアスを知悉した上での巧みな扇動ヘイト記事になることは目に見えている。沖縄タイムスは、木村氏の親権に関するコラムが物議をかもすことを知っていえ、ファクトチェックよりも掲載による話題作りを優先したのだから報道姿勢を問われても仕方ない。

読者のことを思うなら、こういう適当な意見をその場しのぎで言う憲法学者の起用をやめることである。(2021.12.7)

「いい関係」グループワーク、相談会

日時 2021年5月29日(土)
場所 諏訪湖ハイツ(岡谷市)304号室
(長野県岡谷市長地権現町4丁目11番50号)
http://www.suwako-haitsu.jp/index.php/page-43/
◇相談会 13:00-14:50
 応談 宗像充(おおしか家族相談)
 50分2500円、要予約
 申し込み 0265-39-2067(おおしか家族相談)
 (留守電の場合は番号とメッセージを残してください。かけなおします)
◇グループワーク 15:00-17:00
 参加費1500円、予約不要(直接会場にお越しください)
離婚・結婚・DV(家庭内暴力)・親子引き離し・モラハラ・不登校 etc
否定のない自由な語り合いで気づく、あんなこと・こんなこと、
あなたにあった「いい関係」をいっしょにつくります。

主催 おおしか家族相談 https://munakatami.com/category/family/
共催 日本家族再生センター長野支部
問い合わせ 0265-39-2067
メール munakatami@gmail.com

共同親権 「男女平等な子育て」って何だ?

第3回口頭弁論、国の回答拒否に裁判所突き返し

 3月18日に行われた、共同親権訴訟(養育権訴訟)第3回口頭弁論では、国側は、他の様々な論点で共同親権への反論(原告の主張では必ずしもない)を行ったものの、第2回口頭弁論で原告側が行った求釈明に対しては事実上の0回答だった。

第3回口頭弁論、国の回答拒否に裁判所突き返し

 この裁判では、親権の調整規定も民法上なく、婚姻外では単独親権となることによって、単独養育が強制されることの違法性を問うている。もとより共同親権が望ましいものであるなら、それを婚姻中にとどめる理由が本来ないので、国側に説明を求めたものだ。

 原告側弁護団が国側の不誠実を指摘すると、休廷になり異例にも15分も3裁判官の協議がなされた。その後裁判官たちは、原告に再度質問の事情説明をするよう求め、それへの国側の回答を待っての弁論期日を設定することになった。原告側の質問は裁判所側もその重要性を認識しているようだ。

 国側は単独親権制度の合理性について「親権制度の意義」ではなく「婚姻制度の意義」という言葉を選んでいる。素直に解釈すれば、婚姻制度を維持するために単独親権制度が必要ということになる。でもそうなら、単独親権制度は子どもの利益のためのものという国の説明は苦しい。

 この前日、同じく家族法についての国賠訴訟の同性婚訴訟で、札幌地裁、武部知子裁判長は「同性愛者間の婚姻を認めないのは差別にあたり、憲法14条に違反する」と判断した(立法不作為は認めなかった)。国側は「婚姻制度は、子を産み育てるための共同生活を送る関係に法的保護を与えるのが目的」として、同性婚を認めなくても憲法14条に違反しないと反論したという(読売新聞2021.3/17)。これは子を産み育てたければ異性間で結婚しろ、という規範を人々に強制するものであっても、それで直接的な子どもに利益になるという説明は難しい。もとより子どものいない夫婦もある。

次回の口頭弁論は、6月17日13時半、東京地裁806号法廷にて。

共同親権と男女平等

 多く離婚や別居で子どもと引き離された別居親たちは、単独親権制度の不公正にしか目が行かない。しかし、多くの人にとって離婚率が3分の1になったところで、少数派の問題には変わらない。しかも、シングルマザーと別居親が対立していれば、社会的弱者の定義で言えば女性が強いので、男性の多い別居親は受けが悪い。だから女性を前面に立てるというのも、ジェンダーバイアスに訴える手法とも言える(子を産んだ母が引き離されるなんて、と男性の引き離しは軽視される)。

 そんなとき、そもそも婚姻中共同親権って言うけど、実際そうだったわけ、と問いかけると、当事者の幅がグンと広がるということにぼくたちは気がついた。当日配ったチラシに、皆さんの家庭は、「父親は外で遅くまで仕事、母親はワンオペで家事育児、じゃなかったですか。イクメンが褒められても、何となくPTAに出るのは母親、保育園の送り迎えは父親、とかなってませんか」と書いた。これを共同親権と呼ぶのはいかがなものかと自分でも思う。

実際、「結婚するとき、女性が男性の姓に合わせる割合は96%。離婚するとき、裁判所で女性が親権者になる割合は93%」。つまり、結婚とは、「女性が男性に従って子どもを育てること」になる。「親権を男が取れないのは育児を担わないから」という男性批判は、つまりこの単独親権制度の現状を肯定したいミサンドリーということになる。「タガメ女」も「カエル男」も実のところ、この構造を浮かび上がらせて批判するツールにほかならない。

「共同養育支援」の欺瞞―選択的共同親権反対

 もとより、男女平等の日本国憲法に合わせて戦前の家父長制を修正する形で部分的に導入されたのが共同親権制度だ。つまり共同親権は男女平等と子どもの福祉に叶うという前提がある。だとすると「子育ての男女平等」を考えるツールが、共同親権ということになる。

 当時の学者も為政者も、性役割はあっても親権獲得の機会が男女平等だから単独親権が残ってもおかしいと思わなかった。だけど、イクメンが褒められるのを批判する人間が、単独親権は男女平等というのはやっぱりおかしい。別にぼくたちは性役割に基づいた、月に1回程度の面会交流を言い換えただけの共同養育支援を求めてない(求めているのは引き離して金を得る面会交流支援者や弁護士)。均等かそれに近い養育時間(つまり「共同監護」)の配分が、男女平等に叶うと言っているだけだ。個人が生きやすい世の中も次世代に残せる。

子どものための親権制度と言っている人たちが、もとより選択的共同親権「ならいい」というのも意味不明。親権は子どもへの責任なら原則共同親権(選択的単独親権)にならないのはどうしてだ。話し合えないなら単独親権がいいというなら、「なんとなく」の役割分担で話し合わない夫婦のほうが、「婚姻制度の意義」は達成されて子どもは幸せか。

民法国賠訴訟での共通項=共同親権の不在

 先行する共同親権訴訟で、東京地裁は、 2月17日 、「親である父又は母による子の養育は,子にとってはもちろん,親にとっても,子に対する単なる養育義務の反射的な効果ではなく,独自の意義を有すものということができ,そのような意味で,子が親から養育を受け,又はこれをすることについてそれぞれ人格的な利益を有すということができる。」と明示した(ものの親権が憲法13条による幸福追求権であることは否定した)。

 名前や性的指向が否定されることも親子関係が損なわれることと同様、自分が否定されたような感覚になることは想像できる。この間、選択的夫婦別姓や同性婚の実現についての国賠訴訟では、その不利益として「共同親権をもてないこと」というのが、判で押したようにある。だったら、婚姻外の関係にも共同親権の適用を求める、ぼくたちの訴訟は彼らにとってもいっそう重要だ。

(2021.3.21 宗像 充)

問題は、共同養育の資質じゃなくて、単独養育の押しつけ

最近の「共同養育」の主張は「単独監護+面会交流」?

 共同養育支援法の議論のころから、「共同親権よりも共同養育が大事」と言った主張が見られるようになって、あたかも共同親権と共同養育が対立しているかのように語られることがある。現在「共同養育」という言葉を使うときには、双方の親が養育にかかわっていること、というあいまいな定義で用いられることが少なくない。これだと1か月に1度2時間の面会交流でも「共同養育」になる。

 養育を「子育て」という意味で用いるなら、一概に否定できないので難しい。ただし、月に1度2時間が「子育て」と呼べるかという疑問はある。棚瀬一代さんなんかは、「別れた後の共同子育て」という言葉を用いて、法的な概念に人的な関係という情緒的な意味を用いていたのだと思う。

子どもの権利条約9条には、「父母の一方又は双方から分離されている児童が定期的に父母のいずれとも人的な関係及び直接の接触を維持する権利を尊重する。」という規定があり、「直接の接触」という以外に「人的な関係」という言葉が権利とされている。ややこしいので、従来の法的な概念の「監護」をここで用いてみる。「監護」は身の回りの世話という程度の味も素っ気もない概念だとされてきた。

 ところで、共同親権・共同監護という言葉を用いた場合、父母が養育時間をほぼ同等に分担することを指していたはずだ。年100日以上の面会交流は「単独監護と面会交流権」と通常は呼び、これが不満でアメリカでは共同監護を求める運動と立法が広がっていった。

 だから「共同養育支援法案」が年100日程度の面会交流を想定していたとすると、そもそも「看板に偽りあり」疑惑が濃厚だ。それすらも基準としてなく、月1回程度の時間を想定していたとすると、そもそもそんな法律作っても実効性ない。そういった点についてまったく説明なく、法案を部外秘にして作ろうとしたのがこの法案の失敗の根本要因だ。

共同監護は均等な養育の分担が基本

以前、北九州大の濱野健さんが、「各国の共同養育(shared parenting)に対する割合」を調べてくれたことがあり、それを見ると、イギリスは50/50(2011)、スウェーデン50/50(2009)、オーストラリアは「均等ではなくとも、十分な時間」とされて、35~65%と幅広い(2009)。アメリカの場合、「共同親権、2つの居住地、養育時間の分担などにより定義され」、完全に半々になっているのはまれで、30/70などとなっていることがあるという。

以前の青木聡氏の話では、アメリカでは最近は、年間100日以上という場合、隔週の3泊4日と平日の食事、それに長期休暇中の滞在が養育プランとして標準的という。それとは別に交代居住のような均等な養育時間かそれに近い割合での養育を「共同養育(監護)」と呼ぶという説明をしていたと思う。実質的な平等か、十分な時間か、というのは常に父親の権利運動、フェミニズムの双方の運動の争点であっただろう。

 しかし、いずれにしても、均等な割合かそれに近い時間で養育を分け合えば、居所も含めて親どうしであらかじめ権限の所在(共同か単独か)や決定方法を決めておかなければうまくいきそうにない。だから、「共同親権より共同養育が大事」という説明や、単独親権前提に共同養育支援法を議論することには、現状の性役割に基づいた単独養育の温存を狙う(意図的にせよそうでないにせよ)意図を感じてしまう。

問題は「ひとり子育て」の強制

 以前、週刊金曜日が、「問題のある別居親のための法律は必要ない」と親子断絶防止法(共同養育支援法)の反対キャンペーンを行っていた。最近も「共同養育できる親の資質」という記事が作られていたりする。

こういった記事の問題点は、「問題がある」とか「資質」とかが問われるのが別居親限定なところだ。共同養育が均等な養育のことであれば、同居親の側も「問題がある」とか「資質」とかが問われないとならないはずだ。「問題のあるシングルマザーのための養育費履行確保の法律は必要ない」とかいう記事を書いたら、雑誌は載せてくれるかな。

 立法活動をしている親を見て、法律によって相手に面会をさせようとする主張に、自分の問題に向き合えていないと嫌悪感を持つ人はいる。だけどこれは、法律によって相手に養育費を払わせようとする主張と同列で、何も別居親だけが問題ではない。

しかし、均等な養育の分担(実質平等)が目標とされるならば、問題はどちらかの「資質」に問題があることだけでなく、むしろ互いの関係になるだろう。したがってそれが可能な仕組みと関係構築の支援がその場合求められる。単にFPICに金を出せば「共同養育支援」ができるという単純な話ではない。

 そして、問題は、FPICに金を出せば「共同養育支援」になるという発想を疑問に思わせない法の仕組みで、それは単独養育を強制する単独親権制度にほかならない。「共同子育てができる共同親権」と以前は言っていたけど、むしろ「単独監護しか許さない単独親権」が、片親疎外や「ひとり親」の貧困の最大の要因だ。そのための単独親権制度の廃止は「言葉が強い」どころか、ごくごく当たり前の主張になる。(2021.1.26)

別居親がまとまれないから法制化ができなかった?

という意見を持つ人が別居親の中には少なからずいるようだ。自分は別に何かまとめるためのことをしてるでもなく「経緯を知ってる」顔をして批評しているダサい人もいると聞く。

 こういう意見は本当だろうか。

国会議員に陳情に行くと、議員から「ばらばら来られて困る。まとまってくれないか」と言われることはときどきある。とはいえ、議員というのは人々から意見を聞いて政治に反映させるのが仕事なので、むしろ似た課題で多くの人が意見を届けに来るというのは、それだけ大きい社会問題だと認識してもよさそうなものだ。

 また、まとまったからといって、政治課題が実現できるかと言えば、例えば、朝鮮民主主義人民共和国の拉致問題の家族会は、共同親権運動よりも歴史もあり、以前から一枚岩で、別居親の何十倍も世間の同情を買っているが、「拉致被害者の全員帰還」という政治課題をいまだに実現できていない。

政治課題には政治課題なりの課題の大きさの違いがあるのだから、まとまったらすぐに目的が叶うわけではないだろう。例えば、2011年の民法766条改正のときには、別居親団体は今よりも数も少なくて、ある程度足並みをそろえた部分があったけど、目標としたのは民法766条改正ではなかったはずだ。別居親が声を挙げなければ実現しなかったかもしれないけど、今と同じでハーグ条約加盟圧力という外圧もあり、国がガス抜き的に国内法をいじったのが実態だ。

 ぼくも何回か経験があるけど、当選者1人の選挙やらは、ある程度足並みをそろえれば当選可能性が高まる場合もあるので、そういうやり方も有効な場合がある。ただ、足並みをそろえることは、政策を実現することとイコールではないから、当たり前だけど、動きが悪くなる場面も当然出るし、場合によっては足を引っ張られることもある。

 逆に、団体がばらばらしているから有効な場合も当然ながらある。例えば、ハーグ条約や共同親権反対の運動はこの10年間一貫してある。いつも彼らが政策をすり合わせて議員ロビーでも足並みをそろえていたかと言えば、そんなこともないだろう。バラバラ議員に訴えかけて、うんざりさせて、それで目的を達しているのだから、彼らから見習うことは多い。

 議員の側からすれば、団体がまとまっていれば、団体のトップの頭を押さえつけていれば原則的な意見(多く少数派だったりする)や違う観点からの懸念を、直接聞くこともなく団体の幹部のせいにしてあらかじめ調整させることができる。これはずいぶん仕事が楽だ。共同養育支援法案のプロセスではこれが見られた。

 以前も書いたけど、何を実現したいのかの獲得目標のない運動など、しても意味ない。短冊に願い事を書いても人任せで、願いが叶う保証もない。法律を作るのは議員だけど、彼らに税金を払って仕事をさせているのはぼくたちで、彼らもまた、多くの人が納得のいく解決策を真剣に考えて提示したっていい。法務官僚に法案を書かせても、今のままが楽だから現状維持の法案を作りがちだ。

 団体がまとまるのが目的ではなく、政策を実現するのが目的なら、実現する政策をまず決めないと、「どれでもいいから実現できそうなものからしてください」なら、「どれも無理そうだから全部だめ」とぼくが政治家なら言うだろう。目的のために組織という手段があるので、目的のはっきりしない団体の民主主義を論じたところで意味はない。こういう場合、「目的は一緒だから」は「俺の言うことを聞け」と同義だ。

単独親権前提で、それを微修正して積み上げるというやり方は、結局、「私には関係ない」という当事者が多すぎて、当事者をまとめるなんてできないし、反対意見にも対抗できない。一部の当事者をヘイトすれば法案を潰せるのだから反対派にも楽だ。

一方、単独親権制度を撤廃、という逆方向の提案は、「それって関係ないと思っていたけど私にも関係あるかも」という人が多く出てくる。家族の形や性役割から派生する問題は多くの人にとっての課題で、そういう問題意識を共有できる。

当事者がまとまるなんて結果であって、何の課題の当事者か、というのでまとまる対象も変わってくる。たしかに、十年前は誰も共同親権なんて知らなかったから、現実味を感じなかったけど、これだけ共同親権という言葉も出回ってきていて、別居親が「単独親権制度を終わらせよう」と今言わないと、政策論争なんて永遠にできない。

目的意識のない別居親ももちろんいるだろうけど、そういう人は別に単独親権制度のままでいいから、いっしょにやる必要は全然ない。無理にいっしょになればお互いの足を引っ張ろうとして、根拠のない中傷を垂れ流し主導権争いに血道を上げる。ただし、「自分が子どもと会えればいい」という主張だけなら、それを政治課題の上位に上げてくれるほど、世間の人はお人よしには思えない。

 あと、宗像は運動から金をもらわないと生活できないから、法案ができないようにしている、なんていう批判もあるそうだ。今までの説明からそういう批判は根拠がないことはわかるだろう。というか、社会事業家が経済的に暮らしていけることはいいことなのに、そんなしみったれた批判をよく思いつくものだ。今年の大河ドラマ見ろ。

ちなみにぼくの本業はライターだ。楽な暮らしではないけどそこそこ人生を楽しんでいる。(2021.01.21)

虚偽DV、でっちあげDVはあるよ

今SNS上では、虚偽DV、でっち上げDVと言わないようにしよう、という議論があるというのを人から聞いた。そういう議論は昔からあって、ぼくも「DV冤罪」とか言わないほうがいいんじゃないのと言ったことはある。ただ、当たり前だけど、離婚家庭支援をしていて、この問題は相当の害悪なのは明らかだ。

冤罪というのは、やってないのにやったと言われて罪を問われることだ。ただ日本の定義ではDVは主観的なものだ。つまり「思ったらDV」なので、被害を主張する人の主観を否定してもしょうがない。

なので、「冤罪」かどうかを議論しても永遠に結論は出ない。表現は微妙だ。DVは日本語に直せば家庭内暴力のことなので、それ自体で言えば、DV罪というようなものはなく、傷害罪や暴行罪で取り締まられることになる。

ただし、日本のDV対応は民事対応なので、家庭内暴力の被害を訴えても、警察は捜査せず「シェルターに言ってください」となる。また、シェルターに行かなくても、支援措置で相談履歴だけで住所非開示がなされるので、実際に暴力がなくても「暴力があった」と言えば、「逃げる」ことができる。

ここに虚偽やでっち上げがあれば、制度の信頼性が低まって制度自体が使えなくなることにもなり、実際にDVの人が「嘘言ってるでしょう」と言われて行政から信頼されなくなる原因にもなる。 共同親権の議論とは関係なく、むしろ社会問題としてきちんと対処しないとならない。虚偽やでっち上げで人を貶める行為は、それ自体人権侵害だし、場合によっては法廷侮辱罪や虚偽申告罪になるし、DV被害者の敵だ。

実際、裁判書類とかを見ても、「馬乗りになって首を絞められた」とかワンパターンで描写しているものが別の事件で見られたりして、虚偽やでっち上げが横行しているのはよくわかる。こんなことがされていること自体がDV施策が失敗している証拠だ。実際、単独親権の中、DV・虐待の申告は年々増え続けている。単独親権に何の抑止効果もないのに、共同親権のために虚偽DVと言わないようにしようというのは、制度上何の整合性もない。

ただし、なぜ、「虚偽DVと言わないようにしよう」というのかはわかる。

現在、国会議員の間で進んでいる議論は、共同親権はやむなしだから、いかに抜け穴を作ろうか、というものが考えられる。こんなのはこの10年間、親子断絶防止法の議論のときから繰り返しされてきたことだ。つまり「DVや虐待のおそれ」の場合は、「特別な配慮」をすべきことをどこかの条文に潜り込ませるのが、多分狙われている。

共同養育支援議連というのは、そのための団体なので、あそこに所属すれば「虚偽DVと言わないようにしよう」と言い出す流れになる。主張を一致させるために、当事者を選別して切り捨てるということがこういう場合よく起きる。

「虚偽DVがある」なんてことになれば、「DVや虐待のおそれ」に「特別な配慮」をして引き離しを容認することができなくなる。つまり、虚偽申告罪や法廷侮辱罪など、実際の犯罪であっても、家庭内暴力の場合は罪に問わないなんてことにもなる。濡れ衣を着せられた人にとっては、悔しい思いをすることだろう。実際にないことにもかかわらず、「父親はDV」と言われて引き離された子どもにとっては、親から裏切られ、社会からも裏切られ、二重に裏切られることになる。子どもの権利の観点からも、断じて容認できない。

妻から別れを切り出された側が、実際に自分のことを内省する機会を得ることは重要だ。しかしそれは別に妻の側だって同じく重要だ。現在のDV施策は、女性の側が善意であることを前提に組み立てられている、ということは内閣府の男女共同参画局の役人が言っていたことだ。

「虚偽DVと言わないようにしよう」という主張は、男女ともにDVの加害者にも被害者にもなり、多くDVは双方向的なのもだということを無視していて、DVの防止には何にも結びつかないどころか、むしろ相手を陥れる道具にDV施策を使うことを許す。しかもその対象が男性限定という点で、男性差別だし、女性は被害者という性役割に根付いたものだ。親権議論を進めるために、こういった犯罪を容認するとしたら、何のための共同親権だ。

しかし実のところ、家族に関する価値観が別れてきた中、民事不介入は自力救済と同義になり、単独親権制度があるが故に、裁判所に基準がなく、だから先に連れ去ったものに既成事実として親権を与えるしかない。しかも女性が被害者しか想定されていなくて、相談や支援は女性しか対処しない。そうなると、とにかく女性が訴えればなんでもDVになってしまうわけだから、男性の側が不満を抱くのは当たり前。それを「虚偽DVと言わないようにしよう」なんて言ったら、男は被害を受けても泣き寝入りをしろ、と同義になる。軽率すぎる。

むしろ、DV施策については、とにかく男性も女性も加害も被害もあるのだから、相談も支援も男女平等にするしかない。そうなれば、女性のみを「保護」するのではなく、男女ともに刑事罰で対処されることになり、適正な手続きのもとで、実際に罪があれば贖うこともできる。被害者が逃げるより、加害者がまず収監されて一時的に引き離される。DV加害者が親権をもって、子どもを虐待する可能性も低まるだろう。女性支援に携わる人が「男はとにかく危険」と偏見で見ることもなくなる。

DVは家庭内のものだから、立証するのが難しいのはあるだろう。だけど立証が難しいのは何もDVに限らないし、多くの殺人事件は家族関係のもとで起きている。それでも「冤罪」はあるかもしれない。だけど、虚偽が「ない」とされていればそれに対処できないけど、「ある」のが前提なら、それに応じた対処の仕方ができる。

国会議員やらと仲良くなって「あるある」は、自分もまるで為政者であるかのように勘違いして、そういう発想で利害の調整を先に想定して考えてしまうということだ。たしかに法律を決めるのは国会だし、それを使って施策を打つのは行政だ。だけど、彼らが何のどの利害を代表して行動するかは、声や道理を通じて民衆が訴えかけること、要求を届けることで左右される。

国会議員と仲良くなったから、同じSNSで議論できているからと、自分が偉いなんて思い込んで 当事者をコントロールしようとするのは、分断を当事者に持ち込むだけだ。政治は市民がするものだ。

後藤富士子さんの「選択的単独親権」論

「選択的単独親権」とは

 毎年弁護士の後藤富士子さんから年賀状が届く。小さい字でみっしりと、家族法に関するコラムを毎年書いてくれていて、今年は何を書いてくれてるんだろうなあと思ったら、今年も共同親権のことには触れていた。特に、今年のコラムは婚姻制度と、同姓/別姓、共同親権/単独親権のことに言及していて、婚姻制度との関係について興味深かった。

 後藤さんは、自民党内での「選択的夫婦別姓」議論について、「夫婦同姓」原則を永続化するだけではないかと述べ、民法上の規定は性中立的だから、女性差別には該当しないという。何を「女性差別」と呼ぶかは議論があるだろうけど、以下年賀状の内容が論文みたいなので引用してみる。

「むしろ、夫婦同姓の強制は法律婚を優遇する制度に根差しており、『事実婚差別』というべきもの。また夫婦同姓の強制は、結婚によって夫婦のどちらか一方が氏を喪失するから、『個人の尊重』と両立しない。」

 憲法上の価値を踏まえると、夫婦別姓を原則とし、同姓を選択制にする「選択的夫婦同姓」が「合理的」となるという。

 この論理を単独親権制度にスライドさせると、事実婚では原則として母の単独親権で、これも「事実婚差別」。離婚によって父母のどちらか一方が親権を喪失するのは、『個人の尊重』と両立しなくなる。そうなると「未婚・離婚を問わず、父母の共同親権を原則とする。例外は、婚姻中でさえ認められる辞退や親権喪失宣告など家裁の処分のほかに、父母の自由な選択による単独親権を認められてよい」とある。この場合、引き離しの被害者が親権放棄を迫られる事態や養育放棄の問題はなくなりはしないけど、考え方の筋道としてはすっきりする。

家庭生活を国から個人に取り戻す

 夫婦同姓の強制や婚姻外の単独親権規定は、後藤さんの言うように、婚姻制度を優遇してそれ以外の家族形態を差別するために必要な規定だ。一夫一婦制でみんな結婚できるし、子どもを作って一人前、みたいな感覚を定着、広めるためには、その型にはまらない家族関係との間で、法的な差別を設けるということになる。

というか世帯単位の戸籍を先につくったから、それに合わせた民法になっているのだけど、世帯を通じて徴税や徴兵を行い、国の意思を体現させるために家庭が役割を果たした。後藤さんは「家庭生活を国家の統制・管理に委ねず、『個人の幸福追求』の線上に取り戻すことが肝要ではないでしょうか?」と結んでいる。

 共同親権訴訟では、親の養育権を憲法13条の幸福追求権として位置づけて、原告は単独親権規定によってこれを侵害している国を訴えた。相手との関係が婚姻しているしていない(未婚・離婚の場合)によって、子どもと会えなかったり、子どもを一人で引き受けさせられたり、不公平じゃないかと述べた。

これに対して国側は「婚姻制度の意義」を反論として前面に出してきた。訴訟では、「だったらその意義って何なのよ」と国側に聞いている。

後藤さんの言うように、だいたい婚姻中共同親権と言ったって、子どもに関するすべてのことを共同決定している夫婦は少ない。共同生活していれば、「学校のことは母親、進路のことは父親」「ごはんを出すのは母親、保育園の送迎は父親」(性役割的になっている場合も少なくない)とか、何となく役割分担している夫婦もいるけど、これは何も婚姻外や別居中でも、取り決めがありさえすればできるわけだから、婚姻内外でそれを区別する理由がそもそもない。

もともと子どもの両親は二人いるんだから、原則は共同親権でしょう(時に応じて決定権をそれぞれに渡すことはある)というのがものの道理だし、共同親権運動の主張だ。後藤さんのコラムは、法律的にそれを裏書きしてくれている。

ちなみに、現在国が主張したり、早稲田の棚村さんやらが主張している、選択的共同親権は、実質、単独親権をどうやったら温存できるかという議論なので、今の連れ去り・引き離しの違法行為を規制するつもりはさらさらない(女の人が「かわいそう」だし、男は黙って金出せ、子どもに会えないくらいがまんしろ、というまったく古臭い理由)。

共同親権と個人の尊重をともに

先日、共同養育ができる親の資質みたいな記事が出ていたけど、共同養育なんて関係の問題なのだから、別居親の側の資質だけ議論したところで見当はずれでもある。別居親の話を聞いていればわかるけど、別居親の側に対する引き離し行為が長期化するのは、同居親側に、親家族の支援がある場合が結構な割合である(別居親側の主張の背景に跡継問題がある場合も少なくない)。

一時的にシェルターに入って女性支援の手を借りても、結局は実家やその近くで暮らして、他に養育を手助けしてくれる人がいたり、その人たちが引き離しを肯定してくれたりしている場合だ。別居親が主張し続けると、それなしに引き離し行為をし続けるのは難しい。だから双方に共同親権を前提にした支援がなされるのが、これからの支援の目指す方向だ。

以前は親権取得割合は男性のほうが多かったのが、1966年を境に、女性が親権を取得していく割合が高まっていく。その理由は不明だけど、その間に核家族化が進んでいって、むしろ強まったのは子育ては女性の仕事という性役割かもしれない。後藤さんも言っているように、「今も昔も家制度。父系が母系になっただけ」ということなのだろう。

そういう意味では、原則共同親権にして、親の法的地位の異動にかかわらず、子どもから見たら父母がいて当たり前という感覚が浸透していくことと、家族関係はそもそも個人間のもので個人が幸せになるための手段(つまり家があってどう所属するかの問題ではない)という感覚を個々人がどう身に着けていくということは、同時並行で目指されるべきことだ。

共同親権は子育て支援の切り札

共同親権になっても過剰な期待はできない?

 アエラの12/27配信記事に、「共同親権になっても別居親は「子どもに会えない」? 共同養育ができる親の“資質”とは」という記事が出ていた。

ちょっと違和感があった。

子どもと引き離された親にそれぞれパーソナリティーがあるのはわかるけど、記事のタイトルからわかるように、共同養育ができる親の条件を資質の問題にしていいのだろうか。ぼくも引き離し問題の支援にかかわる中で、多くの別居親たちに会ってきたけど、何かしら学ぶところはあるし、切羽詰まって状況に適応できなくて悩んでいる人は多い。でも平均してみれば世の中一般の人と変わらないと思う。

そんな中、法的な手続きにしろ、心理的な対処にせよ、どちらも支援だと思って当事者の話を聞いている。日本の場合、子どもと引き離された側の支援の場合、法的な対処がきわめて限定されているうえに、単独親権制度という制度が問題を引き起こしているので、紛争が起きやすくなっていて、勢い、心理的なサポートの比重も高くなっている。

特に現在の制度的な枠組みでは、もっぱら女性の側を被害者と推定した支援しか行われておらず、法的にはDV法によるDV被害者支援や、その後の離婚係争支援がなされ、男性の側での公的な支援がほぼまったくない状況になっている。

引き離された側の支援は、一部の弁護士や民間の手にゆだねられていて、こういった支援の偏りが、双方に対する公平な支援を不可能にしている。それが当事者たちが制度の不公平感に目を向け、その改変のために働きかける動機になっている。

この記事は、こういった構造の不公平さをあまり考慮していないように感じられた。支援の不足の問題を当事者の資質の問題にすり替えているように思えなくもない記事だった。共同養育が可能になるのは、別居親が同居親に理解を示してはじめて可能なのだろうか。つまり、現行の「子育てするのは女の仕事」という社会常識を前提に議論が組み立てられていると感じた(その意味では「単独親権ワールド」)。

共同親権は共同養育権

アメリカで共同養育という言葉が用いられる場合、半々の養育時間の配分か、あるいはそれにより近い養育時間の配分割合の場合を指していて、単純に双方が子育てにかかわるという意味ではないと理解してきた(2019年の国連子どもの権利委員会の勧告の邦訳にあたり、CRC日本は「共同親権」ではなく「共同養育権」という言葉を選んだ)。

例えば、年100日以上の「相当な面会交流」と呼ばれる養育日数は、面会交流権で共同養育権とは呼べないと思うのだけど、この記事の趣旨で言えば、日本のように、月に2時間の面会交流でも「共同養育」と呼べることになる。つまり、子どもに親が二人いる以上、「権利」として実質平等の養育時間(かそれにより近い養育時間)の配分を相手に求める共同養育(請求)権が本来双方にあるのだという前提を、意図的に避けているように思える。

 離婚を切り出された側が、まずは相手の気持ちを受け止めたり、謝ったりしたほうが、協力関係を築きやすい場合があるのはそうだし、ぼくも自分の経験を語って支援することはある。だけど、ぼくもそうだったけど、実際問題本人がそうできないのは、構造に対する不公平があるのに、自分だけがそれを求められるのはしんどいからだ。

支援者が構造の問題について目をつぶり、本人の努力だけを求めるのは乱暴だ。結局本人の気づきを待つしかないという実情がある(これに対して女性支援の側は単純だ。女性は被害者なので、「あなたは悪くない」ということになる)。

単独親権制度を撤廃することが、最低限かつ最大の子育て支援

 特に支援者側が、構造の不公平を自覚しながら、当事者が声を上げるのを待つとなると、当事者の側は当然「え、わかっててあなたは声を上げてくれないの」と思うだろう(記事の発言者がそうしていないというわけではない)。

 共同親権になったからといって会えない親がいるのは制度の趣旨を理解し得ない人や、制度を悪用する人がいるのだから当たり前で、それは共同親権の国でも会えない親がいることからわかる(といっても、日本とはその量と質は全然違う)。

専門家や共同親権の議論を意図的に避けてきた国会議員や一部の当事者グループの間では、共同養育という言葉を用いるべきだという議論があるけど、一般には共同親権という言葉が浸透しているし、法的な支援の不足を議論する場合、むしろ単独親権と共同親権という対照のさせ方のほうが理解しやすい。共同養育は親から見た養育のあり方の問題だけど、子どもから見たら「パパもママも」という実態を直接的に表現するのは共同親権だろう。

つまり、共同養育という言葉だと、単独親権制度があるが故に生じる、支援の障壁や支援のメニューの不足、その背景にある構造の不公正が見えにくくなるのだ(だから個人の資質の問題に行きやすい)。

「子育て改革のための共同親権プロジェクト」が問題提起したのは、「ジェンダーギャップ指数(男女格差指数)」は153か国中121位という数字でもときどき語られるように、結局、根強いこの国の性役割(性差別)意識が単独親権制度を温存させてきたということだ。

逆に言えば、「子どものことで妻とけんかしてもどうせ勝てないでしょう」という、単独親権制度があるが故のあきらめが、「だったら子育ては女がすればいいじゃん」という意識を生み、男性の育児分担が進まない原因になる。引いては女性の社会進出も進まない。

だとすると、単独親権制度を撤廃することが、最低限かつ最大の子育て支援であり、日本の沈滞した社会構造を大きく変える起爆剤になる。この点を積極的に打ち出すことが、今、共同親権運動で求められていることだ。別居親の主張が正義を勝ち得るとしたら、自分たちのことだけ心配していても響かないだろう。

以上指摘して、アエラの記事の執筆者、発言者にも本稿で議論を投げかけたい(読んでくれたらだけどね)。

家に行ったら警察を呼ばれないですか?

子どもを連れ去られたり、約束を守ってもらえなくなったりして、裁判所も味方になってくれないとき、子どもの居場所が分かっていれば、「家に行ったら」と勧めることがよくある。

別に親が子どもに会うだけのことだし、子どもが住む家に様子を見にいくのは当たり前のことだ。

だけど、「弁護士に止められます」「警察を呼ばれたりするんじゃないでしょうか」「裁判官の心象が悪くならないでしょうか」と子どもと引き離された親は不安でいっぱいになる。

通常弁護士や裁判所は、司法の場以外のところで何かされることを嫌がる傾向がある。司法の場であれば、勝ち負けも含めてある程度の結果が出て、それにクライアントや利用者が従ってくれたら仕事は楽だ。負けても「別居親の弁護は難しい」とかとりあえず言っておけば着手料だけはとりっぱぐれない。

弁護士にとっては、争点が増えるので、裁判で有利に事を運びたいと思ったら、できればクライアントが不確定要因を生じさせることは避けてほしいと考える人は多い(もちろんあえて争点を増やすやり方を戦略としてとることはある)。

裁判官も同じで、「余計なことをして」と苦々しく思う人はいるかもしれないが「いいことじゃないですか。裁判官さんは喜んでくれると思ってたのになあ」とか言ってれば別に問題にならない。

そもそも会えていない状況で、弁護士が会わせてくれるでもなし、司法もあてにならないのなら、今以上に悪くなる要因がない。むしろ何をやっても自由だ、と考えたほうがいい。

だけど、警察を呼ばれたらどうしよう。

相手が面会を拒否しているときに、実際に警察に呼ばれるのもよくあることだ。こういう場合、会いに行く名目は「安否確認」だ。警察も「安否確認」が目的だと、一概に追い払えないし、トラブル防止のため寄り付くなと言われたら、「だったらあなたたちが安否確認に行ってください」というと、実際に行ってくれたケースもある。

トラブルが予想できるとき(多くの場合予想できる)、あらかじめ警察の生活安全課に相談して、「もしかしたら向こうが警察を呼ぶかもしれませんし、呼ばれたら来ないといけない立場はわかりますが、こうして相談しているのもわかるように、事件性はないですし、そもそも民事不介入ですから」と言えば、呼ばれたところで問題は起きないし、警察も双方の利害の調整は民事不介入でできない。何回も行っていれば警察もなれて呼ばれてもめんどくさくなってかかわらなくなる。

事件になるのは、敷地に入ったり、相手の挑発に乗ってフィジカルなトラブルになったりする場合だ。ストーカーに関して言えば、男女間の問題なので、子どもに対してはまず適用されない(親が子に会うだけなので当たり前だ)。

今年、オーストラリア人のジャーナリストのマッキンタイアさんが住居侵入で逮捕され有罪になったので、自分もそうなったらどうしようと心配するのはわかる。マッキンタイアさんの場合は、部外者立ち入り禁止のマンションのオートロックのドアの内側に入ったことが罪に問われたけど、通常住居侵入の扱いは略式で罰金刑にされる(10~20万)ので、裁判まで行くのはめったにない。事後逮捕だったし、見せしめの弾圧だったのはついてなかった。

夜討ち朝駆けのジャーナリストたちは時々逮捕されることもある。だけど、たいがいの場合は会社が罰金を払ってくれる。逮捕されるのはあまり気持ちのいい経験ではないけど、最長でも23日の勾留で、起訴されることはめったにないし、起訴されたら、「子どもに会うのは正当な理由」と構成要件を争うこともできる(マッキンタイアさんは戦略的に争わなかったので有罪になったけど、争っていたら憲法裁判になって判例になったかもしれない)。もし逮捕されたら連絡してくれたら救援を組むこともできる。

だけど、家まで行ってピンポンを押して、「〇〇ちゃんいますか。安否確認に来ました」と言って、ポストに手紙でも入れて引き上げれば通常は問題にならない。向こうから挑発されてエキサイトするのを避けたり、後々証人になってもらうことを考えたら、録音や撮影の用意をできるだけして、弁護士、カウンセラー、親家族、友人と誰かに同行してもらうのがいい。ぼくはカウンセリングの後に同行支援もすることがある。

家まで行っても子どもに会える場合は多くはないかもしれない。ぼくは実際に会えたケースも見たし、親だけが出てきたときもある。当人同士が顔を会わせると何か言いたくなって、言い合いになると別居親には不利なので、「今日は会わせないということですね。ではまた来ます」と同行者に言ってもらうのがいい。

定期的に何回か行っていると、話し合いを拒否していた相手が話し合いに応じたり、調停を申し立てたりすることがある。そのときに、「実際に家に行っているんだから」という実績は大きい意味を持つ。そもそもトラブルになってないし制約は今更できない。「家まで行っても会わせないのは向こう」と言いやすい。

何よりも子どもの周りの環境にこっちもなれるし、会いに来ること自体が大げさなことではないと向こうも学ぶし、よくしたら、子どもの家の周りの人と知り合いになれるかもしれないし情報も得られる。子どもとあえなくても、子どもは親が来たことくらいはわかるので、その場では会えなくても後々意味がわかるだろう。そして行動することは、会えない親にとっては大きな安心感につながる。

そういう実績が広がっていけば、親が子どもに会いに来るのは当たり前のことという社会環境が広がるし、人々が共同親権という考え方に接するいい機会になる。やってみてね。

目的意識のない当事者運動

宗像が当事者たちを分断させてきた

 この間、当事者の間(主にネット)でそういった批判がある、というのを何回か知り合いに聞かされた。ツイッターではぼくの個人名を挙げて、集めた金を使い込んでいる、という根も葉もない批判がなされている(らしい)というのも教えられている。

 こういった行為は名誉棄損で刑事犯だから、告訴したらどうかと親しい人には促されるのだけど、感想で言えば「またやってら」と思った。こういう行為は別居親当事者が何回となく繰り返してきたことだ。公金横領は犯罪なのだから、ツイッターに書きこむほどの証拠があるなら、刑事告発すればよい。

 とはいえ、単独親権制度を温存するための訴訟妨害を放置するのもなんだから、共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会(進める会)のホームページには、会員向けに出した案内を掲示した。

きっかけは、「子育て改革のための共同親権プロジェクト(プロジェクト)」が発行した提言書を、進める会が会員向けに郵送して、会費更新の郵振を同封していたことをきっかけにしている。進める会は訴訟に勝つために、世論を盛り上げるプロジェクトの提言書発行に、知恵出しや発行費用の分担という形で協力しているのだから、その対価で受け取った冊子を会員向けに配ることに何の問題もない。その点を明記した案内文をつけて会員向けに配ったにすぎない。

振込用紙を入れたのを「金集めでおかしい」という批判もあると聞いて、頭の中に「?」マークがいっぱいついた。市民運動をいくつかやっていると(市民運動じゃなくても同窓会や趣味の団体でも)いろんな団体から会報といっしょに振込用紙が入っているのを日常的に見かける。こういう批判をする人は、その経験がないのだろう。

今後、こういう批判をした人は、カンパ集めとかクラウドファンディングとかいった「金に汚い」行為は一切しないだろうから、すべて手弁当でがんばってほしい。

金を集めて獲得目標を手に入れろ

市民運動をするときに、資金をどうするか知恵を絞るのは、アメリカの大統領選挙で、資金獲得競争が話題になるのを見ればわかるけど、当たり前のことだ。

例えば、2014年には平等な養育を求めて、アメリカの中間選挙に合わせ、北ダコタ州で住民投票が行われている(http://kyodosinken-news.com/?p=7816)。この州は人口67万人のだが、「北ダコタ親の権利イニシアティブ」は、州の法律の修正を求めて、15,001筆の署名を集め、うち14,400筆が有効(住民投票のためには13,452筆が必要)と判定された。

この修正案が成立すれば、両方の親は、離婚後も原則的に、親として等しい権利を持ち、子どもの養育を等しく行うことになるはずだった。修正案への賛成運動を行うための活動資金として、主に個人から計268万円が寄付され、修正案への反対運動を行うための活動資金として、北ダコタ弁護士会から500万円、北ダコタ弁護士会の家族部門から200万円、計700万円が寄付されている。そしてこの修正案は住民投票で否決されている。父親の権利運動が地道な取り組みをしても、反対組織に金を積まれればひとたまりもない。

進める会がファンディングで支援していただいた額は300万円余だが、活動を継続するために資金が必要なことぐらいはわかる人はいるので、ありがたいことに重ねて入金してくださった方は少なくない。

政治家の汚職事件が問題になるのも、目的を達成するためには金が必要になって、それがルール違反の場合にしょっ引かれるにすぎない。当事者間の主導権争いのために、個人攻撃に血道を上げるくらいだったら、みんなが金を出したくなるような企画を出すほうがよっぽど民法改正につながるだろう。

とはいえ、やりたいのは民法改正ではなく主導権争いだから、こういう中傷や足の引っ張り合いが何回となく繰り返されている。やるなら、山本太郎やら、もっと有名どころを狙えばいいのに、それはやらない。こういうのは有名になると払う税金のようなもので、そのことで注目も集まるという仕掛けにもなっている。「出る杭は打たれる」けど、「出過ぎた杭は放置される」。

早期民法改正は半年、それとも三か月?

 宗像が当事者運動を分裂させてきたと言われることが多い。足並みをそろえるために「宗像さんは引退してもらって」とかいう人もいて、「活動したい人に活動を提供するために運動してたんじゃないよ」と馬鹿らしくなる。あまり市民運動の経験がない人たちが多いので、会社的な組織を作って、上から指示を出してもらわないと安心できないのだろうという感覚を持つ人がいるのは何となくわかる。だけど、ぼくは会社勤めをしたことがないので、それを「常識」と言われても、「ぼくは非常識」としか答えられない。

非常識な人を「常識がない」と言うのは誉め言葉だ。まさかこの時期に、大宴会とかしないよね(非常識なぼくはやっても文句言われないけどね)。

ところで、最初に親子ネットという団体を作って、全国組織として運動を大きく見せるという仕掛けを作ったのはぼくだ。それで院内集会とかをするようになったら、「国会で勉強会を開くような団体なんだからちゃんとしないと」と会社のような組織を作ろうとする人が出てきた。身なりや発言に至るまで、やたらやることに足かせをかけようとする人がいて、会議が成り立たなくなった。目的と組織という手段が入れ替わった瞬間だった。だから、親子ネットの最初の代表はぼくだということになるようだけど、その団体の人が批判している(という話を聞く。直接は言ってこない)。だったらすっきり名前変えればいいのに。いくら人数集めても、目標がはっきりしなければ目標に達しないのは当たり前だ。最初から目標がないんだから。

運動を継続するために、共同親権運動という言葉を作り、それを担う運動体として作ったのが、共同親権運動ネットワークだった。それもやってると親子ネットと同じことが起きたので、やることを明確にするために、「私たち抜きに私たちのことを決めるな」と訴訟を始めた。獲得目標は民法改正だ。

「プロジェクト」は来年の民法改正を目標に掲げた。ああだこうだという人たちは、一年よりもっと早くそれを実現してくれるなら、全然文句はありません。みんな結集すると思うよ、やんないの?