後藤富士子さんの「選択的単独親権」論

「選択的単独親権」とは

 毎年弁護士の後藤富士子さんから年賀状が届く。小さい字でみっしりと、家族法に関するコラムを毎年書いてくれていて、今年は何を書いてくれてるんだろうなあと思ったら、今年も共同親権のことには触れていた。特に、今年のコラムは婚姻制度と、同姓/別姓、共同親権/単独親権のことに言及していて、婚姻制度との関係について興味深かった。

 後藤さんは、自民党内での「選択的夫婦別姓」議論について、「夫婦同姓」原則を永続化するだけではないかと述べ、民法上の規定は性中立的だから、女性差別には該当しないという。何を「女性差別」と呼ぶかは議論があるだろうけど、以下年賀状の内容が論文みたいなので引用してみる。

「むしろ、夫婦同姓の強制は法律婚を優遇する制度に根差しており、『事実婚差別』というべきもの。また夫婦同姓の強制は、結婚によって夫婦のどちらか一方が氏を喪失するから、『個人の尊重』と両立しない。」

 憲法上の価値を踏まえると、夫婦別姓を原則とし、同姓を選択制にする「選択的夫婦同姓」が「合理的」となるという。

 この論理を単独親権制度にスライドさせると、事実婚では原則として母の単独親権で、これも「事実婚差別」。離婚によって父母のどちらか一方が親権を喪失するのは、『個人の尊重』と両立しなくなる。そうなると「未婚・離婚を問わず、父母の共同親権を原則とする。例外は、婚姻中でさえ認められる辞退や親権喪失宣告など家裁の処分のほかに、父母の自由な選択による単独親権を認められてよい」とある。この場合、引き離しの被害者が親権放棄を迫られる事態や養育放棄の問題はなくなりはしないけど、考え方の筋道としてはすっきりする。

家庭生活を国から個人に取り戻す

 夫婦同姓の強制や婚姻外の単独親権規定は、後藤さんの言うように、婚姻制度を優遇してそれ以外の家族形態を差別するために必要な規定だ。一夫一婦制でみんな結婚できるし、子どもを作って一人前、みたいな感覚を定着、広めるためには、その型にはまらない家族関係との間で、法的な差別を設けるということになる。

というか世帯単位の戸籍を先につくったから、それに合わせた民法になっているのだけど、世帯を通じて徴税や徴兵を行い、国の意思を体現させるために家庭が役割を果たした。後藤さんは「家庭生活を国家の統制・管理に委ねず、『個人の幸福追求』の線上に取り戻すことが肝要ではないでしょうか?」と結んでいる。

 共同親権訴訟では、親の養育権を憲法13条の幸福追求権として位置づけて、原告は単独親権規定によってこれを侵害している国を訴えた。相手との関係が婚姻しているしていない(未婚・離婚の場合)によって、子どもと会えなかったり、子どもを一人で引き受けさせられたり、不公平じゃないかと述べた。

これに対して国側は「婚姻制度の意義」を反論として前面に出してきた。訴訟では、「だったらその意義って何なのよ」と国側に聞いている。

後藤さんの言うように、だいたい婚姻中共同親権と言ったって、子どもに関するすべてのことを共同決定している夫婦は少ない。共同生活していれば、「学校のことは母親、進路のことは父親」「ごはんを出すのは母親、保育園の送迎は父親」(性役割的になっている場合も少なくない)とか、何となく役割分担している夫婦もいるけど、これは何も婚姻外や別居中でも、取り決めがありさえすればできるわけだから、婚姻内外でそれを区別する理由がそもそもない。

もともと子どもの両親は二人いるんだから、原則は共同親権でしょう(時に応じて決定権をそれぞれに渡すことはある)というのがものの道理だし、共同親権運動の主張だ。後藤さんのコラムは、法律的にそれを裏書きしてくれている。

ちなみに、現在国が主張したり、早稲田の棚村さんやらが主張している、選択的共同親権は、実質、単独親権をどうやったら温存できるかという議論なので、今の連れ去り・引き離しの違法行為を規制するつもりはさらさらない(女の人が「かわいそう」だし、男は黙って金出せ、子どもに会えないくらいがまんしろ、というまったく古臭い理由)。

共同親権と個人の尊重をともに

先日、共同養育ができる親の資質みたいな記事が出ていたけど、共同養育なんて関係の問題なのだから、別居親の側の資質だけ議論したところで見当はずれでもある。別居親の話を聞いていればわかるけど、別居親の側に対する引き離し行為が長期化するのは、同居親側に、親家族の支援がある場合が結構な割合である(別居親側の主張の背景に跡継問題がある場合も少なくない)。

一時的にシェルターに入って女性支援の手を借りても、結局は実家やその近くで暮らして、他に養育を手助けしてくれる人がいたり、その人たちが引き離しを肯定してくれたりしている場合だ。別居親が主張し続けると、それなしに引き離し行為をし続けるのは難しい。だから双方に共同親権を前提にした支援がなされるのが、これからの支援の目指す方向だ。

以前は親権取得割合は男性のほうが多かったのが、1966年を境に、女性が親権を取得していく割合が高まっていく。その理由は不明だけど、その間に核家族化が進んでいって、むしろ強まったのは子育ては女性の仕事という性役割かもしれない。後藤さんも言っているように、「今も昔も家制度。父系が母系になっただけ」ということなのだろう。

そういう意味では、原則共同親権にして、親の法的地位の異動にかかわらず、子どもから見たら父母がいて当たり前という感覚が浸透していくことと、家族関係はそもそも個人間のもので個人が幸せになるための手段(つまり家があってどう所属するかの問題ではない)という感覚を個々人がどう身に着けていくということは、同時並行で目指されるべきことだ。

共同親権は子育て支援の切り札

共同親権になっても過剰な期待はできない?

 アエラの12/27配信記事に、「共同親権になっても別居親は「子どもに会えない」? 共同養育ができる親の“資質”とは」という記事が出ていた。

ちょっと違和感があった。

子どもと引き離された親にそれぞれパーソナリティーがあるのはわかるけど、記事のタイトルからわかるように、共同養育ができる親の条件を資質の問題にしていいのだろうか。ぼくも引き離し問題の支援にかかわる中で、多くの別居親たちに会ってきたけど、何かしら学ぶところはあるし、切羽詰まって状況に適応できなくて悩んでいる人は多い。でも平均してみれば世の中一般の人と変わらないと思う。

そんな中、法的な手続きにしろ、心理的な対処にせよ、どちらも支援だと思って当事者の話を聞いている。日本の場合、子どもと引き離された側の支援の場合、法的な対処がきわめて限定されているうえに、単独親権制度という制度が問題を引き起こしているので、紛争が起きやすくなっていて、勢い、心理的なサポートの比重も高くなっている。

特に現在の制度的な枠組みでは、もっぱら女性の側を被害者と推定した支援しか行われておらず、法的にはDV法によるDV被害者支援や、その後の離婚係争支援がなされ、男性の側での公的な支援がほぼまったくない状況になっている。

引き離された側の支援は、一部の弁護士や民間の手にゆだねられていて、こういった支援の偏りが、双方に対する公平な支援を不可能にしている。それが当事者たちが制度の不公平感に目を向け、その改変のために働きかける動機になっている。

この記事は、こういった構造の不公平さをあまり考慮していないように感じられた。支援の不足の問題を当事者の資質の問題にすり替えているように思えなくもない記事だった。共同養育が可能になるのは、別居親が同居親に理解を示してはじめて可能なのだろうか。つまり、現行の「子育てするのは女の仕事」という社会常識を前提に議論が組み立てられていると感じた(その意味では「単独親権ワールド」)。

共同親権は共同養育権

アメリカで共同養育という言葉が用いられる場合、半々の養育時間の配分か、あるいはそれにより近い養育時間の配分割合の場合を指していて、単純に双方が子育てにかかわるという意味ではないと理解してきた(2019年の国連子どもの権利委員会の勧告の邦訳にあたり、CRC日本は「共同親権」ではなく「共同養育権」という言葉を選んだ)。

例えば、年100日以上の「相当な面会交流」と呼ばれる養育日数は、面会交流権で共同養育権とは呼べないと思うのだけど、この記事の趣旨で言えば、日本のように、月に2時間の面会交流でも「共同養育」と呼べることになる。つまり、子どもに親が二人いる以上、「権利」として実質平等の養育時間(かそれにより近い養育時間)の配分を相手に求める共同養育(請求)権が本来双方にあるのだという前提を、意図的に避けているように思える。

 離婚を切り出された側が、まずは相手の気持ちを受け止めたり、謝ったりしたほうが、協力関係を築きやすい場合があるのはそうだし、ぼくも自分の経験を語って支援することはある。だけど、ぼくもそうだったけど、実際問題本人がそうできないのは、構造に対する不公平があるのに、自分だけがそれを求められるのはしんどいからだ。

支援者が構造の問題について目をつぶり、本人の努力だけを求めるのは乱暴だ。結局本人の気づきを待つしかないという実情がある(これに対して女性支援の側は単純だ。女性は被害者なので、「あなたは悪くない」ということになる)。

単独親権制度を撤廃することが、最低限かつ最大の子育て支援

 特に支援者側が、構造の不公平を自覚しながら、当事者が声を上げるのを待つとなると、当事者の側は当然「え、わかっててあなたは声を上げてくれないの」と思うだろう(記事の発言者がそうしていないというわけではない)。

 共同親権になったからといって会えない親がいるのは制度の趣旨を理解し得ない人や、制度を悪用する人がいるのだから当たり前で、それは共同親権の国でも会えない親がいることからわかる(といっても、日本とはその量と質は全然違う)。

専門家や共同親権の議論を意図的に避けてきた国会議員や一部の当事者グループの間では、共同養育という言葉を用いるべきだという議論があるけど、一般には共同親権という言葉が浸透しているし、法的な支援の不足を議論する場合、むしろ単独親権と共同親権という対照のさせ方のほうが理解しやすい。共同養育は親から見た養育のあり方の問題だけど、子どもから見たら「パパもママも」という実態を直接的に表現するのは共同親権だろう。

つまり、共同養育という言葉だと、単独親権制度があるが故に生じる、支援の障壁や支援のメニューの不足、その背景にある構造の不公正が見えにくくなるのだ(だから個人の資質の問題に行きやすい)。

「子育て改革のための共同親権プロジェクト」が問題提起したのは、「ジェンダーギャップ指数(男女格差指数)」は153か国中121位という数字でもときどき語られるように、結局、根強いこの国の性役割(性差別)意識が単独親権制度を温存させてきたということだ。

逆に言えば、「子どものことで妻とけんかしてもどうせ勝てないでしょう」という、単独親権制度があるが故のあきらめが、「だったら子育ては女がすればいいじゃん」という意識を生み、男性の育児分担が進まない原因になる。引いては女性の社会進出も進まない。

だとすると、単独親権制度を撤廃することが、最低限かつ最大の子育て支援であり、日本の沈滞した社会構造を大きく変える起爆剤になる。この点を積極的に打ち出すことが、今、共同親権運動で求められていることだ。別居親の主張が正義を勝ち得るとしたら、自分たちのことだけ心配していても響かないだろう。

以上指摘して、アエラの記事の執筆者、発言者にも本稿で議論を投げかけたい(読んでくれたらだけどね)。

家に行ったら警察を呼ばれないですか?

子どもを連れ去られたり、約束を守ってもらえなくなったりして、裁判所も味方になってくれないとき、子どもの居場所が分かっていれば、「家に行ったら」と勧めることがよくある。

別に親が子どもに会うだけのことだし、子どもが住む家に様子を見にいくのは当たり前のことだ。

だけど、「弁護士に止められます」「警察を呼ばれたりするんじゃないでしょうか」「裁判官の心象が悪くならないでしょうか」と子どもと引き離された親は不安でいっぱいになる。

通常弁護士や裁判所は、司法の場以外のところで何かされることを嫌がる傾向がある。司法の場であれば、勝ち負けも含めてある程度の結果が出て、それにクライアントや利用者が従ってくれたら仕事は楽だ。負けても「別居親の弁護は難しい」とかとりあえず言っておけば着手料だけはとりっぱぐれない。

弁護士にとっては、争点が増えるので、裁判で有利に事を運びたいと思ったら、できればクライアントが不確定要因を生じさせることは避けてほしいと考える人は多い(もちろんあえて争点を増やすやり方を戦略としてとることはある)。

裁判官も同じで、「余計なことをして」と苦々しく思う人はいるかもしれないが「いいことじゃないですか。裁判官さんは喜んでくれると思ってたのになあ」とか言ってれば別に問題にならない。

そもそも会えていない状況で、弁護士が会わせてくれるでもなし、司法もあてにならないのなら、今以上に悪くなる要因がない。むしろ何をやっても自由だ、と考えたほうがいい。

だけど、警察を呼ばれたらどうしよう。

相手が面会を拒否しているときに、実際に警察に呼ばれるのもよくあることだ。こういう場合、会いに行く名目は「安否確認」だ。警察も「安否確認」が目的だと、一概に追い払えないし、トラブル防止のため寄り付くなと言われたら、「だったらあなたたちが安否確認に行ってください」というと、実際に行ってくれたケースもある。

トラブルが予想できるとき(多くの場合予想できる)、あらかじめ警察の生活安全課に相談して、「もしかしたら向こうが警察を呼ぶかもしれませんし、呼ばれたら来ないといけない立場はわかりますが、こうして相談しているのもわかるように、事件性はないですし、そもそも民事不介入ですから」と言えば、呼ばれたところで問題は起きないし、警察も双方の利害の調整は民事不介入でできない。何回も行っていれば警察もなれて呼ばれてもめんどくさくなってかかわらなくなる。

事件になるのは、敷地に入ったり、相手の挑発に乗ってフィジカルなトラブルになったりする場合だ。ストーカーに関して言えば、男女間の問題なので、子どもに対してはまず適用されない(親が子に会うだけなので当たり前だ)。

今年、オーストラリア人のジャーナリストのマッキンタイアさんが住居侵入で逮捕され有罪になったので、自分もそうなったらどうしようと心配するのはわかる。マッキンタイアさんの場合は、部外者立ち入り禁止のマンションのオートロックのドアの内側に入ったことが罪に問われたけど、通常住居侵入の扱いは略式で罰金刑にされる(10~20万)ので、裁判まで行くのはめったにない。事後逮捕だったし、見せしめの弾圧だったのはついてなかった。

夜討ち朝駆けのジャーナリストたちは時々逮捕されることもある。だけど、たいがいの場合は会社が罰金を払ってくれる。逮捕されるのはあまり気持ちのいい経験ではないけど、最長でも23日の勾留で、起訴されることはめったにないし、起訴されたら、「子どもに会うのは正当な理由」と構成要件を争うこともできる(マッキンタイアさんは戦略的に争わなかったので有罪になったけど、争っていたら憲法裁判になって判例になったかもしれない)。もし逮捕されたら連絡してくれたら救援を組むこともできる。

だけど、家まで行ってピンポンを押して、「〇〇ちゃんいますか。安否確認に来ました」と言って、ポストに手紙でも入れて引き上げれば通常は問題にならない。向こうから挑発されてエキサイトするのを避けたり、後々証人になってもらうことを考えたら、録音や撮影の用意をできるだけして、弁護士、カウンセラー、親家族、友人と誰かに同行してもらうのがいい。ぼくはカウンセリングの後に同行支援もすることがある。

家まで行っても子どもに会える場合は多くはないかもしれない。ぼくは実際に会えたケースも見たし、親だけが出てきたときもある。当人同士が顔を会わせると何か言いたくなって、言い合いになると別居親には不利なので、「今日は会わせないということですね。ではまた来ます」と同行者に言ってもらうのがいい。

定期的に何回か行っていると、話し合いを拒否していた相手が話し合いに応じたり、調停を申し立てたりすることがある。そのときに、「実際に家に行っているんだから」という実績は大きい意味を持つ。そもそもトラブルになってないし制約は今更できない。「家まで行っても会わせないのは向こう」と言いやすい。

何よりも子どもの周りの環境にこっちもなれるし、会いに来ること自体が大げさなことではないと向こうも学ぶし、よくしたら、子どもの家の周りの人と知り合いになれるかもしれないし情報も得られる。子どもとあえなくても、子どもは親が来たことくらいはわかるので、その場では会えなくても後々意味がわかるだろう。そして行動することは、会えない親にとっては大きな安心感につながる。

そういう実績が広がっていけば、親が子どもに会いに来るのは当たり前のことという社会環境が広がるし、人々が共同親権という考え方に接するいい機会になる。やってみてね。

目的意識のない当事者運動

宗像が当事者たちを分断させてきた

 この間、当事者の間(主にネット)でそういった批判がある、というのを何回か知り合いに聞かされた。ツイッターではぼくの個人名を挙げて、集めた金を使い込んでいる、という根も葉もない批判がなされている(らしい)というのも教えられている。

 こういった行為は名誉棄損で刑事犯だから、告訴したらどうかと親しい人には促されるのだけど、感想で言えば「またやってら」と思った。こういう行為は別居親当事者が何回となく繰り返してきたことだ。公金横領は犯罪なのだから、ツイッターに書きこむほどの証拠があるなら、刑事告発すればよい。

 とはいえ、単独親権制度を温存するための訴訟妨害を放置するのもなんだから、共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会(進める会)のホームページには、会員向けに出した案内を掲示した。

きっかけは、「子育て改革のための共同親権プロジェクト(プロジェクト)」が発行した提言書を、進める会が会員向けに郵送して、会費更新の郵振を同封していたことをきっかけにしている。進める会は訴訟に勝つために、世論を盛り上げるプロジェクトの提言書発行に、知恵出しや発行費用の分担という形で協力しているのだから、その対価で受け取った冊子を会員向けに配ることに何の問題もない。その点を明記した案内文をつけて会員向けに配ったにすぎない。

振込用紙を入れたのを「金集めでおかしい」という批判もあると聞いて、頭の中に「?」マークがいっぱいついた。市民運動をいくつかやっていると(市民運動じゃなくても同窓会や趣味の団体でも)いろんな団体から会報といっしょに振込用紙が入っているのを日常的に見かける。こういう批判をする人は、その経験がないのだろう。

今後、こういう批判をした人は、カンパ集めとかクラウドファンディングとかいった「金に汚い」行為は一切しないだろうから、すべて手弁当でがんばってほしい。

金を集めて獲得目標を手に入れろ

市民運動をするときに、資金をどうするか知恵を絞るのは、アメリカの大統領選挙で、資金獲得競争が話題になるのを見ればわかるけど、当たり前のことだ。

例えば、2014年には平等な養育を求めて、アメリカの中間選挙に合わせ、北ダコタ州で住民投票が行われている(http://kyodosinken-news.com/?p=7816)。この州は人口67万人のだが、「北ダコタ親の権利イニシアティブ」は、州の法律の修正を求めて、15,001筆の署名を集め、うち14,400筆が有効(住民投票のためには13,452筆が必要)と判定された。

この修正案が成立すれば、両方の親は、離婚後も原則的に、親として等しい権利を持ち、子どもの養育を等しく行うことになるはずだった。修正案への賛成運動を行うための活動資金として、主に個人から計268万円が寄付され、修正案への反対運動を行うための活動資金として、北ダコタ弁護士会から500万円、北ダコタ弁護士会の家族部門から200万円、計700万円が寄付されている。そしてこの修正案は住民投票で否決されている。父親の権利運動が地道な取り組みをしても、反対組織に金を積まれればひとたまりもない。

進める会がファンディングで支援していただいた額は300万円余だが、活動を継続するために資金が必要なことぐらいはわかる人はいるので、ありがたいことに重ねて入金してくださった方は少なくない。

政治家の汚職事件が問題になるのも、目的を達成するためには金が必要になって、それがルール違反の場合にしょっ引かれるにすぎない。当事者間の主導権争いのために、個人攻撃に血道を上げるくらいだったら、みんなが金を出したくなるような企画を出すほうがよっぽど民法改正につながるだろう。

とはいえ、やりたいのは民法改正ではなく主導権争いだから、こういう中傷や足の引っ張り合いが何回となく繰り返されている。やるなら、山本太郎やら、もっと有名どころを狙えばいいのに、それはやらない。こういうのは有名になると払う税金のようなもので、そのことで注目も集まるという仕掛けにもなっている。「出る杭は打たれる」けど、「出過ぎた杭は放置される」。

早期民法改正は半年、それとも三か月?

 宗像が当事者運動を分裂させてきたと言われることが多い。足並みをそろえるために「宗像さんは引退してもらって」とかいう人もいて、「活動したい人に活動を提供するために運動してたんじゃないよ」と馬鹿らしくなる。あまり市民運動の経験がない人たちが多いので、会社的な組織を作って、上から指示を出してもらわないと安心できないのだろうという感覚を持つ人がいるのは何となくわかる。だけど、ぼくは会社勤めをしたことがないので、それを「常識」と言われても、「ぼくは非常識」としか答えられない。

非常識な人を「常識がない」と言うのは誉め言葉だ。まさかこの時期に、大宴会とかしないよね(非常識なぼくはやっても文句言われないけどね)。

ところで、最初に親子ネットという団体を作って、全国組織として運動を大きく見せるという仕掛けを作ったのはぼくだ。それで院内集会とかをするようになったら、「国会で勉強会を開くような団体なんだからちゃんとしないと」と会社のような組織を作ろうとする人が出てきた。身なりや発言に至るまで、やたらやることに足かせをかけようとする人がいて、会議が成り立たなくなった。目的と組織という手段が入れ替わった瞬間だった。だから、親子ネットの最初の代表はぼくだということになるようだけど、その団体の人が批判している(という話を聞く。直接は言ってこない)。だったらすっきり名前変えればいいのに。いくら人数集めても、目標がはっきりしなければ目標に達しないのは当たり前だ。最初から目標がないんだから。

運動を継続するために、共同親権運動という言葉を作り、それを担う運動体として作ったのが、共同親権運動ネットワークだった。それもやってると親子ネットと同じことが起きたので、やることを明確にするために、「私たち抜きに私たちのことを決めるな」と訴訟を始めた。獲得目標は民法改正だ。

「プロジェクト」は来年の民法改正を目標に掲げた。ああだこうだという人たちは、一年よりもっと早くそれを実現してくれるなら、全然文句はありません。みんな結集すると思うよ、やんないの?

単独親権制度のメリットはDV加害者を引き離せること?

他人のブログの記事を読んでいて、単独親権制度のメリットとして「例えばパートナーからDVを受けていて、子どもにも被害が及んでいる場合などは、相手が全くこちらに接触できないようにできます。」というものがあった。この方は共同親権賛成の立場から発言しているのだけど、実際には単独親権制度で加害者からの引き離しが可能だという、反対派からの主張を真に受けている。実際はどうなのか。

単独親権制度は養育の責任の所在を明確にする規定

 単独親権制度は、養育の責任の所在を明確にする規定だ。民法で言えば818条や819条に記載がある。ちなみに、離婚後の単独親権制度ばかりが別居親の間では注目されるが、民法818条3項に「親権は、父母の婚姻中は、父母が共同して行う。」という規定がある通り、単独親権制度の対象は「婚姻外」である。

単独親権制度の規定は、嫡出子/非嫡出子の規定と、離婚時の規定と、民法内で別々に規定されていた二つの流れが、たまたま単独親権規定で合流したという経緯がある。したがって、「単独親権制度廃止/撤廃」というのは、これら婚姻外の単独親権規定を撤廃するにほかならず、「単独親権制度廃止は言葉が強い」とか言っている人はただの勉強不足だ。民法改正とか言う資格ない。

民法818条にも「ただし、父母の一方が親権を行うことができないときは、他の一方が行う。」とあるように、子どものために親が子どもの面倒をみたり、子どものことを決めるというのは、父母にそもそも求められていることだ。どちらもが養育したくないというのでもない限り、双方が養育への関与を望んでいるときに、単独親権制度には合理的な理由はない。もしあるとしたら、一方が面倒をみることで子どもに弊害が生じたりする場合に、他方に親権者を変更したりできることがある場合だろう。

ところが、818条2項では「子が養子であるときは、養親の親権に服する。」とされ、その父母を養父母に読み替えての条文の適用が819条でなされる。そのため、代諾養子縁組で親権のない親が養子縁組に関与できない場合においても、親権者変更ができないという実情があり、実際に最高裁はそれを肯定している。つまり、現状の単独親権制度では、「あらかじめ決定権の所在を明確にすれば子どものことでもめない」し、なおかつ柔軟に親権者を変更できれば、見られる親が子どもを見るという、あるとしたら唯一の「単独親権制度のメリット」がなく、したがって、憲法違反にあたるというのが、ぼくたち、共同親権集団訴訟の主張だ。

だから、「例えばパートナーからDVを受けていて、子どもにも被害が及んでいる場合などは、相手が全くこちらに接触できないようにできます。」なんていう条文解釈は、民法を見ている限り見当たらない。

なぜこんな勘違いが生まれる?

 「例えばパートナーからDVを受けていて、子どもにも被害が及んでいる場合などは、相手が全くこちらに接触できないようにできます。」ということを民法の上でできる規定は、単独親権制度ではなく、親権喪失や親権停止の規定になる。それぞれの制度の適用には、あいまいなものながら審査基準と裁判所の審査を経る必要がある。これら条文は親権者に適用されるものだから、何もわざわざ婚姻外に限ってあらかじめ単独親権者にする必要はなく、単独親権制度を廃止すれば、これらの審査が等しく平等に親権者に適用されることになる。これも共同親権集団訴訟の主張だ。

 とはいっても、これら規定も、実際には子どもを養育すること、子どものことを決定することを制約する規定にほからならず、だから「一切関与を絶たなければならない」なんてことは規定されていない。

 こういった「断絶」という現象は、特別養子縁組制度や、あるいはDVや虐待における保護措置の過程で生じるもので、単独親権制度の条文から本来導き出されるものではない。

 ただし、「別れたらどっちかの親が子どもを見ればよく、もう一方の親は関与しなくていい」という制度に由来する思想は、こういった「断絶」現象を、あたかも条文から導き出される「合理的な差別」であるかのように感じさせる。つまり「親権者じゃないんだから学校に来ないでください」「監護者の言うことを聞くのが普通でしょう」ということになり、差別に基づく様々な行政措置(つまり反別居親慣行)を正当なものとして、別居親が子どもにかかわるハードルを上げ、結果的に別居親に子どもをあきらめさせる。

 つまり、「例えばパートナーからDVを受けていて、子どもにも被害が及んでいる場合などは、相手が全くこちらに接触できないようにできます。」をメリットとして、単独親権制度を維持しようという主張の人は、これら結果を逆立ちしてそもそも前提であるかのように勘違いしている。

しかし、これら「男は加害者、女は被害者」「男は仕事、女は家庭」という性役割に根差した差別思想を、差別とは感じさせずに実行するために、単独親権制度を維持しようとする勢力は存在する。ただ一般にこういった思想は浸透しているのだけど、こういった思想に基づく認識は実は制度があることによって再生産されている。

単独親権制度の廃止が男女平等社会に向けての一丁目一番地、という理由はそこにある。

単独親権でも共同養育はできる?

一昨日、長野県庁で記者会見をした。

勝手連で「子育て改革のための共同親権プロジェクト」を長野駅でした後、賛同運動と長野市と大鹿村に陳情を提出した件について、会見を開いた。県内で共同親権陳情は初めてなので、信濃毎日が記事にしてくれた。

会見では、記者数名と県庁の職員も来て聞いていた。

地方紙の記者は、「単独親権でも共同養育はできる」という議論があるけどどう思うか、とこの問題でよくある疑問をぶつけてきた。予習している。

単独親権でも共同養育できるカップルがいるのは当たり前だけど、だったら共同親権でそういうカップルが増えたらもっといいじゃないと思う。だからこういう質問は意味はない。

だけど記者には、「単独親権で共同養育はほんとうにできるんですか」と聞いた。

問題は親権がなかったら子どもに会う保証がなくなるということだ。どちらかに親権を決めないといけないとなると、親権を奪うために連れ去ったりもするし、相手になつかれたくないから引き離しもする。

お互いの関係が法的にも対等であること、男女平等が進むこと、離婚しても子どもから見たら双方の親の地位が変わらないこと、それが明確であれば、相手より優位に立とうと相手の養育を妨害する動機がなくなる。つまり、単独親権で共同養育という状態を維持することはできるが、それは常に猜疑心との闘いになる。実際、しばらくは別れても子どもと会えていたのに、再婚や別のきっかけで子どもと会えなくなる親はとても多い。

宗像さんは共同養育に反対してるのか?

という問いがうわさされているというのを仲間に聞いた。そんなの直接聞けばいいのに、と思う。そもそも共同養育は状態なので、状態に反対してもしょうがないと思う。

というかこういう問いを出す人は共同親権に反対なのだろうか。

ぼくが共同親権を強調するのは、共同養育という状態を作り広めるためには共同親権が大前提だからだ。だいたい共同養育を求めている別居親たちは、単独親権でも共同養育ができていない自分の状態は何が原因だと思っているのだろうか。権利が対等でないことは問題ではないのだろうか。そもそも100日の面会を求めるといっても、それが権利なら、あえて共同養育を強調することに何が意味があるのだうか。

親の権利はもううんざり、とか言ってる人たちは、子どもの視点から見て双方の親が決定にかかわって責任を分け合うことは子どものためとは考えないのだろうか。そもそも子どものためには共同親権ができたほうがよくて、それができる制度と支援を広めたほうがいいと思うのだけど、それに反対するのはどうしてだろう。

「権利ばかり言って」という批判を恐れてということなら、そもそも運動なんてする意味あるのだろうか。「権利ばかり言って」なんて女性運動でも、少数民族の運動でも、差別される側は何度も繰り返し言われてきたことだ。運動したくないならそれもいいけど、だったら他人のことを品評しなくてもよさそうなものだ。

養育費に悩んでます

新算定基準が親たちを苦しめる

 単独親権制度の撤廃を求めて国を訴えた、共同親権運動のホームページに養育費のピンハネ問題について声明文が載せたからか、相談やホットラインで養育費に関することについて問い合わせが増えた。

 DVに苦しんだシングルマザーが精神的に不安定になって虐待するといったような記事は少なくない。別居親のほうも、一様に家族と引き離されて不安定になっていたり、鬱状態になっていたりすることは多い。相手からはDVがある場合も少なくないけど、子どもとの引き離しは虐待だし、強いられた環境に不適応になるので、そうなるのは当たり前だ。男性の場合は支援も行き届かない。

 そんなわけで、仕事を続けられなくなって転職や休職をしたり、部署替えで給与を減らされたりすることも多い。そうなるとこれまでの養育費は支払えなくなるので、元妻(夫)と話したり、減額調停を裁判所に申し出て負担を軽くせざるをえない。双方が一時的な環境の変化によって子育てが困難になったら、国が児童扶養手当という形で母子(父子)世帯を支援することになる。

 ところが、昨年12月に最高裁判所が提示した新算定表で計算しなおすと、減額どころか増額になり、減額調停を取り下げる判断をせざるをえなくなったという話が入るようになった。ほかにも減額調停を申し出たほうがいいんでしょうかという相談を受けるのだけど、あらかじめ算定表で確認しないと、調停を申し出たばかりに負担が増えるということになりかねない。

 こういった相談が入る時点で、この新算定基準は失敗だったということがよくわかる。

入った相談は父親たちだった。彼らは払う意欲があるけど、負担が大きいので減額したいと言っている。別れた後も養育にかかわろうとするいい父親を虐待してどうするのだ。やがて意欲を失って支払わなくなったらどうする。

勃興する養育費産業

 そこで登場するのが、養育費ピンハネビジネスだ。すでにピンハネは子どもの権利侵害だという認識は広まりつつあるので、相談が入る。

 特に問題なのが、こういったビジネスが、元夫(妻)とのかかわりをもちたくない人をターゲットになされているところだ。特に相手との関係が面倒になって子どもを引き離し、そうなると父親(の場合)のほうも養育費を支払いたくなくなって滞る。そこで母親の側はスマホで手軽に申し込める徴収代行ビジネスにアクセスする。

 父親のほうは子どもと会えれば支払う意欲はあるのだから、徴収代行ビジネスの弁護士事務所から弁護士口座に振り込むように連絡が来ると、事情を話してその点についての元妻との話し合いを弁護士事務所のオペレーターに提案する。しかし、オペレーターは交渉事務は非弁行為になってできないので(すでにこの時点で非弁行為の可能性はある)、一方的にもともとある取り決めでの徴収業務に進むことになる。

 もともと支払えなければ自己破産も選択肢だけど、社会的信用は失う。しかし、自分の生活を犠牲にしてまでピンハネに協力するのは納得がいかない。

 ここで得をするのは誰だろう。

 父親から直接母親の口座に振り込むことができたなら、母親側は子どものためのお金を満額受け取り使うことができる。しかし父親は母親と話ができず、子どもと会えもしない状況では、そのお金がほんとうに子どものために使われたか不信を抱き、支払いを躊躇する。徴収代行ビジネスはこういった父親からも、もともとの取り決めに基づき取り立てることはできるだろう。子どもは父親への思慕を絶たれ、母親は受け取れるはずの養育費が目減りし、そして、徴収代行ビジネスは子どもが成人するまで毎月一定の額を手にすることができる。こんなおいしいビジネスやめられない。

母親側のマイナス感情から、こんな産業が成長しつつあるけれど、やってることは子どもと別居親の搾取だ。奴隷貿易と変わらない。

決まったこと以外は子どもに会っていけないのか?

こういった質問を受けることがままある。

 裁判所に面会交流を申し立てると、月に1度2~3時間という決定が出されたりすることがあり、あまりに頻度や時間が少ないので疑問が出やすい。また調停委員も、「監護者の同意なく子どもには会えない」と平気で言う人がいる。実はぼくもつい先日の調停でそう言われた。

面会交流とは何か?

 取り決めがなければこういった疑問が湧く余地もない。何しろ「親が子どもに会うだけのこと」を制約する法律はどこにもない。ぼくも「そんな法律ないよ」と調停委員に言った。

 民法766条は、離婚後の子の監護については協議で決め、協議ができないときは裁判所が決めるという規定だ。2011年に「面会交流」と養育費についての規定が付け加えられた。それ以前は、「子の監護をすべき者その他監護について必要な事項は、その協議で定める」だけだった。

当時、榊原富士子弁護士が、この規定をもとに、単独親権においても共同監護は否定されていないと主張していた。裁判所は、親権と監護権は一体であると見るほうが楽なので、面会交流を監護とは認めない傾向が強く、したがって、月に一度2時間程度の、監護とは言い難い頻度の決定を出しがちだ(実際には、月に1回3時間以内という、FPICの支援基準に沿っているだけ)。

しかし、2011年の改正において、「この場合においては、子の利益を最も優先して考慮しなければならない。」と付け加えられたように、子どものためには面会交流がよいという趣旨の法改正だから、面会交流は「別居親の養育時間」としての監護(「身の回りの世話」程度の意味の法律用語)と呼ぶほうが、法解釈としては素直だ。

背景にある親権差別

 調停委員や一部の法曹には、単純に「親権者(監護者)が子どもの面倒を見るのだから、別居親の関与はその許可がいる」と考える者がいる。特に子どもを連れ去り引き離すことが親権確保の手法として定着しているので、別居親が同意なく子どもに関与すれば「業界の掟」が保てず、法律家としての権威が損なわれる(ついでに儲からない)。

 しかし考えてもみれば、子どもが日常的に他人に会っている中、「親であるが故に親権者の許可を得なければならない」となれば、もはや親としての人格否定で人権侵害だ。こういった発想は、同じ親なのに、別居親(親権のない親)は同居親(親権者)の意思に従わなければならないという点で、親権差別だ。

 例えば、子どもを話題に持ち出しさえすれば、「周囲をうろつくな」「引っ越して来るな」「学校に来るな」という主張が、まるで正当な主張であるかのようになされることがある。これはそれぞれ、移動の自由、居住・移転の自由、親の養育権にかかわる。これら憲法上の権利が、相手がこと親に限ってやすやすと制約できるという発想は、この場合の「子どもの福祉」が「同居家庭の安定=同居親の意思」と同一視できるので、問題ないという発想からくる。別居親の中には、同居親から「対等だと思ってるの」と言われて傷ついた人がいる。

しかし、親には親として、子どもに対して他人とは別個の固有の権利がある。そもそも「親権者だから」という理由で、親であること自体を否定できるような権限はない。親権議論で「子ども」を主語に話さないことに不満を述べる人がいるけど、親の権利が明確でなければ子どもの権利が守れないことには気づかない。

「私も監護している」

 実際、監護についての処分を裁判所が出せるにしても、民法766条4項では「監護の範囲外では、父母の権利義務に変更を生じない。」と断っているくらいだ。これがなければ、養育費を徴収する法的根拠すら出てこない。

 冒頭のような質問が出され、「周囲をうろつくな」……と言ったような無茶な主張がなされれば、「私もあなたと同じ親なんだから親権者だからといってそんな権限はない」と言えばよい。あるいは、「親権のない親は親権者の召使や部下ではない」「二級市民として見下すのはよしてほしい」と答えてもよい。そして、「私も監護者」で、取り決めがあれば、時間がたとえ2時間でも「その間は監護している」ときちんと主張しよう。

特に面会交流が債権として定められていた場合、債権債務の関係では、義務者が権利者の権利を制約できるわけもない。取り決め外の面会交流を制約できることなど嫌がらせ以外には不可能だ。

二つの家庭の自律性を保つための面会交流(養育時間)

 では何のために養育時間(面会交流)を定めるのか。子どもにとって離婚とは家が二つになることだ。しかし、それぞれの家庭は子どもを共有していても自立した別個のものだ。たしかに双方がそれぞれ子どもと接する権利はある。しかし、いつでもどこでもどんなときでもとなれば、それぞれの家庭は、いつ別の家庭の親がやってきても文句は言えないし、そうなると日常生活は送れない。だから双方の家庭が自立した生活を送るためには、お互いの養育時間を取り決め、それぞれ面倒を見ている間は他方が干渉しないのが平和なのだ。

 ぼくの場合は、元妻とその夫が、わずか4時間の面会交流に度々現れて監視したり、娘を交番に連れ込んだり、ぼくの知り合いに子どもを会わせることにいちいち口を出して制約の理由とする。しかし、ぼくが彼らの家で子どもが誰かと会っていることに口を出せば、彼らも憤慨するだろう。差別意識がなければこういったことはできない。

 逆に言えば、それぞれの家庭が別個にかかわれる学校行事などへの参観が制約される理由はないし、安否確認や偶発的な接触、家庭外での日常における触れ合いを親権者の意思一つで制約することはできないし、実際問題それは不可能だ。

だから、住居侵入や学校における庁舎管理、つきまとい規制など、本来子の親に対して用いられれば親子関係が成り立たないような法規定でもって、別居親への勾留や別件逮捕を権力が親権者と結託して加えるようなことがままある。これらは権利濫用の弾圧にほかならない。(2020.9.6)

親の権利を言おう

「面会交流の権利性」

 子どもとの面会交流は憲法上の権利で、実現のための立法措置を国会が怠っているのは違法だとして、国を訴えた訴訟の控訴審判決が13日、東京高裁であった。白石史子裁判長は原告の請求を退けた一審東京地裁判決を支持、訴えを棄却した。

判決は「憲法上保障された権利とは言えない」と述べ、「面会交流の法的性質や権利性自体に議論があり、別居親が権利を有していることが明らかとは認められない」と述べたという。

かねてより、面会交流の権利性が議論の的になり、その場合、親の権利か子どもの権利か、あるいは親に権利性はあるのか、について論争が続いている。どんな権利も議論はあるけど、「法的性質や権利性自体に議論がある」こと自体が、別居親の権利性を否定する根拠になるわけない(櫻井智章「面会交流権の憲法上の権利性」法学教室2020年3月号)。

「権利ではなく義務」というその理由

「面会交流は親の権利ではなく子どもの権利」

「親権は権利じゃなくて子どもへの親の義務」

という主張をよく聞く。親が会いに行かなければ子どもは親に会えないのだから、親子双方に権利があるに決まっているし、子どもの面倒を親が見ないで他人が子どもの権利を主張したところで意味はない。「あなたやあなたの兄弟や親せきに子どもがいるなら、施設に入れてからまず議論したら」と言い返すことにしている。

一方で、海外では、親責任や親の配慮と、親権という概念自体が変化してきた。だから親の権利性自体を否定したがる議論が、共同親権に賛成の人の中でも多い。法務省の議論もそれをなぞっている。

こういった議論は論点のすり替えに陥りやすい。権利の概念を個別に論じることで、親の役割が社会の基準でいかようにも規定されることになりがちだ。単独親権制度では親権のない親の権利を否定しても、それが親の役割ならば肯定される。

例えば、ドイツが「親の配慮」と親権の概念を変えても、ドイツの連邦基本法には、子の養育と教育は、親の自然的権利とある。アメリカは親権に関する考え方から、子どもの権利条約に入っていない。フランスでは「親の権威」という言葉を使うけど、父母に固有のものであるとの規定もある。そしてどの国も共同親権に移行し、親の関係と親子関係は分離されている。

日本ではもともと「裁判所は親権指定においてフェアである」「親権指定されなかった側は『問題がある』」という誤った推定があり、しかも、こういったデマを法律家がまきちらしている。現状権利ではなく義務や責任だけ強調すれば、親権のない側の権利性だけを否定し、親権差別の根拠にできる。だから、単独親権温存派は、あえて権利性を否定するために親の義務を強調する。単独親権制度の立法事実を否定するための親権議論だ。

単独親権制度とは男女平等の否定と性役割の強制

 例えば、職場で女だけがお茶くみをさせられたりすることに対し、不平を言ったら「義務を果たしてから権利を主張したら」と言われたら、どんな気分になるだろう。親権議論とはリンクさせず養育費の義務化のみを主張することは、日本語に翻訳すれば、「男が子育てなんて、義務(金)を果たしてから権利(子育て)を主張したら」ということになる。

 白石裁判長が、「法的性質や権利性自体に議論がある」ことを理由に、権利性を否定するというのは、要するに、「四の五の言わずに男は黙って金払え」ということだ。

 「面会交流を親子交流にしよう」(親子はそもそも交流する対象ではない)とか、「支援がないから共同親権は無理」(DVシェルターに公的資金を投入するためにDV法をつくったのに)とか、そんなことを言っているぐらいなら、「共同親権が最大の子どもと家族への支援」と、別居親たちもなぜ言わないのだろう。

 権利とは幸せになるための選択だ。

だったら、子どもと触れ合う十分な時間をもつことが権利でなくてなんだというのだ。奴隷のように働き、「ちゃんとした親」を演じるために、疲れ切っていても絵本の読み聞かせをするのはたしかに義務かもしれないけど、それがあなたがやりたいことか。男も女も、好きなことができ、子育てでも仕事でも余裕のある日常を送れる。それを阻んでいるのが、性役割を強制する単独親権制度だ。

子育て改革なくして働き方改革はないし、単独親権撤廃はそのための一丁目一番地だ。

「裸の子ども」の福祉

 先日、子どもに会いに千葉まで行ったら、子どもが待ち合わせ場所の駅前の交番前まで来て「帰る」という。娘は録音を命じられていた。「ちょっとまってよ」と追いかけたら、胸元にスマホを入れ(て録音する)た元妻の夫が現れた。何の事件性もないのに、娘を受け渡し場所の交番に連れ込む。先日は、彼が面会交流を近所の銀行のロビーで監視していた。前回は元妻といっしょに娘を引き連れて現れて、娘の顔を見せてぼくの前に立ちはだかった。

「今はぼくが子どもを見る時間だから帰ってください」と何度もお願いすると「つきまとうのをやめたら……」という。彼は法律上の養父だが、今は面会交流の義務者だし、なんで親が他人に、「つきまとう」と言われるのかと思うと傷つく。そもそもぼくのもとに娘を送り出したのは母親と彼なので戸惑いもする。

娘は彼の味方をするのに必死で、ぼくの言葉をなんでも否定するので会話にならない。娘は「お前なんか親じゃない」とぼくに言い、「こっちがパパだ」と彼を指す横で、彼は黙ったまま。元友達だし、まだ赤ちゃんだった娘をぼくが育てる様子を彼も知っている。娘の言葉より彼の態度に唖然とする。

子どもが親を決めるのだろうか。

親の権利を否定すれば彼の態度も娘の態度も妥当に思える。

だけど、親権や面会交流を論じるときに「子ども」と言ったとき、その意味するところは二種類ある。「親に対する子ども」と、「年少の子ども」だ(共同親権訴訟の稲坂弁護士が発見した)。親に対する子どもの権利や福祉を論じるときに、「年少の子ども」を対象とする権利を論じても意味はない。これを「裸の子ども」とぼくたちは呼ぶ。

親のことを第一に考えられるのは両親で、第一義的責任を負うのも両親だという前提のもと、子どもの権利条約における、「親に対する子ども」の権利は構成されている。それを「年少の子ども」の意味で使えば話がかみ合わない。「万引き家族」はこの二つの「子ども」の間のズレをめぐって引き起こされるドラマだ。

「年少の子ども」の福祉を自分なりに考えて、彼は「つきまとう」とぼくに言ったとしてみよう。だけど、「親に対する子ども」をもとに論じれば、面会交流は子育ての時間だ。娘とぼくが言い合うのも親子喧嘩だ。娘が帰ろうとしても、子育ての時間に責任があるのはぼくになる。そこに子どもが望んだとしても登場すれば養育妨害になる。

「あなたのお父さんだから行ってきなよ。意見が通らなくてもあなたが解決しなきゃ」と、親子の権利を尊重して、子どもを送り出す親やその結婚相手も当然いる。もちろん最初からそう言っていたら、娘の態度も違っている。(2020.8.15)

共同親権・夏期セミナー

共同親権訴訟の発起人で『子どもに会いたい親のためのハンドブック』著者が贈る、子どもに会いたい親、別れても共同での子育てを願う親たちのための夏期セミナー。

【日時】2020年7月11日、8月8日(土)、各回13:00~14:45

【場所】全労会館304会議室 東京都文京区湯島2-4-4

(JR御茶ノ水駅御茶ノ水橋口徒歩8分) http://www.zenrouren-kaikan.jp/kaigi.html#08

【進行】宗像 充

(ライター。共同親権訴訟原告、 『子どもに会いたい親のためのハンドブック』著者)

【参加費】1500円(共同親権運動会員は1000円)*要予約5名まで

【各回内容】

<第1回>2020年7月11日(土)「子どもに会いに行ったらいったいどうなる?」

家庭裁判所は開かれないし、調停は開かれても意味がない。だったら子どもの家や学校に行ったらどうなる? 安否確認も親の責任。実例を交えて解説します。

<第2回>2020年8月8日(土)「裁判所で共同親権を言ったらどうなる?」

そうはいっても、裁判所は公平で中立の機関のはず。単独親権であっても子どもの親は二人。そこで共同親権という未来の選択肢は使えるか、使えないか。刑事や民事、直接交渉……個別のケースで共同親権の考え方をどう扱うか、いっしょに考えます。

<共同親権相談会> 

同日9:00~12:00【相談料】50分3000円【応談】宗像 充

*要予約3名まで。2日前までに予約してください

<共同親権カフェ> 

同日15:00~17:00【参加費】500円

(ただしセミナー参加者は無料)*5名まで 

子どもと離れて暮らす親、別れても共同での子育てがしたい方、互いに気持ちや事情を話して支え合い、 知恵を出し合う場です。会員でなくても参加できます!

主催 おおしか家族相談 協賛 共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会

(予約先)TEL0265-39-2116(共同親権運動) メールmunakatami@k-kokubai.jp

URL https://munakatami.com/category/family/