狼と暮らした男

朝日新聞には山岳専門記者がいる。今は、長野支局にいる近藤幸夫さんがしている。

大鹿村に引っ越してきてから、『ニホンオオカミは消えたか?』という本を出して、勇んで村まで取材に来たのが近藤さんだった。信州大学山岳部のOBで、以前なら退職の年らしいけど、「定年がのびたんだ」と山ネタを書き続けている。ヒマラヤの雪男、イエッティの取材もしたことがあるそうで、こういう話が大好きだ。

ニホンオオカミの生存説については、戦後、近藤さんの先輩の斐太猪之介という元朝日新聞記者が、『オオカミ追跡一八年』ほか、著書を何冊も出して、「もういない」が定説のアカデミズムに挑戦状を叩きつけた。以来、影響を受けてオオカミを探しを続ける人が今もいる。 

『ニホンオオカミは消えたか?』では、その中の一人で秩父でオオカミ探しを続ける八木博さんを登場人物に取り上げて本にまとめた。近藤さんも子どものころに影響を受けて、斐太に手紙を書いたことがあるそうだ。

今、その本では入りきれなかったニホンオオカミに関する謎の続きを、アウトドアの雑誌のフィールダーの連載で紹介している。連載を始めるとまた、近藤さんが興味を持って村までやってきた。

近藤さんは、『怪奇秘宝 「山の怪談」編』というムック本のコピーを持ってきてくれた。それを見ると、「三重県山中に存在した『ニホンオオカミ』の痕跡―〝変な犬〟を飼っていたひとりの男」という記事が出ていた。それは大台ケ原を源流とする大杉谷の山荘で一人暮らしをする男性が、ある日道で出会った「変な犬」としばらくの間いっしょに暮したという記事だった。写真も出ていて、なんだか犬ともキツネともつかない動物の写真が2枚ある。

このイヌ科動物のことを、ぼくは八木さんのところで聞いたことがあり、そのとき写真も何枚か見たことがあった。西田智さんという元高校の校長先生が、大分の祖母山系で2000年に撮影して、当時のニホンオオカミ研究の第一人者、今泉吉典氏がニホンオオカミと鑑定した写真の動物と当てはまる特徴があるように見えた。この動物のことを、存命中の今泉氏から教えてもらって直接本人のところに出向いて写真を入手した八木さんは、半信半疑だったようだ。そんなわけでぼくも行っても成果があるかなあとそのままになっていた。

記事を見ると、この犬についても、今泉吉典氏本人の鑑定が手紙でなされていたことがわかった。オオカミとニホンオオカミのF1雑種だという。現金なもので、専門家の鑑定意見があれば自分でも検証してみたくなる。フィールダーの編集部に話して行ってみることにした。

せっかくなので、斐太さんの本に登場する山の作家、宇江敏勝さんにも取材を申し込んだ。斐太の『オオカミは生き残った』という本に、宇江さんと斐太が紀伊半島の谷で夜釣りをして、おもしろいほどウナギがとれたエピソードが出てくる。その中で、以前宇江さんが山仕事をして造林小屋にいたとき、飼い犬がオオカミに食べられたという話もある。宇江さんからオオカミの糞も送られてきたともあるという。

宇江さんの自宅は、今は田辺市になっている熊野古道の中辺路、野中にある。熊野大社からもそんなに遠くない。山の作家なので古民家に住んでいるのかと思ったけど、家は比較的新しい。本に囲まれた書斎で、原稿用紙に短くなった鉛筆で仕事をしているようだった。

宇江さんに、斐太さんの本に登場するご本人の下りを読んでもらうと、「これは斐太さんの創作」とあっさり否定した。

「斐太さんの文章はおもしろいんだけど、あんまり科学的じゃない。例えば、山にシカの足跡があったとする。斐太さんは『鹿がたくさんいる。だからオオカミもいる』という。別のときに山でシカの足跡が見られなかった。そうすると『オオカミがシカを追い払った』という」

そんなの何とでも言えるじゃないですか、と宇江さんに突っ込んでも仕方がない。実際斐太さんの文章はそういう強引なところがあって、だからおもしろい部分もある。

「ぼくは実際にオオカミは見たことはないから姿かたちはわからない」

そう断る宇江さんに、「オオカミ見かけたら教えてください」と頼むと、まじめな顔で「はい」と言ってくれた。

その日のうちに大杉谷に移動した。かつては人跡未踏の魔境でく、紀伊藩主だった徳川吉宗が探索と開発を命じて人が入るようになったという。宮川の源流に向かって散在する集落を経て、無人の登山センターに着くころには暗くなっていた。さらに奥、吊り橋を軽自動車で渡り、林道の東屋で一泊。翌朝早く、今は営業していない大杉谷山荘に8時に着くと、半裸のTさんが「10時と言ってたのに自分都合だな」と言いながら出てきた。ぼくもそう思う。

「勉強してきたか」と大きな声で話すTさんにテラスのテーブルに案内された。しばらくの間犬といっしょに暮した「オオカミ」の写真を見せられた。何となく、というか一見犬に見える。

「おれがこれをオオカミというのは形じゃない。生態から。犬とは全然違う。そのころうちには犬を飼ってたけど、他の犬がそいつを避ける。餌をやると鍋がこんなに曲がる。すごい顎の力だ。ぴょんぴょん跳ねて走る。走るのは犬より遅いけど、歩くのはトロットで犬より速い。犬は呼んだらまっすぐ来る。そいつは木に隠れながらやってくる」

ほかにもいろいろ聞いたのだけど、じゃあ自分がどの程度オオカミの生態を知っているかというとおぼつかない。とはいえ、動物好きのTさんの解説は詳しく、「帰っていろいろ調べてみます」と言って話を終えた。録音したテープで遠吠えを聞くと迫力がある。

長野に帰る前に、大杉谷を途中までさかのぼった。どこまで行っても岩壁を穿った道が上流へと続き、途中大滝や美しい淵が広がる。たどり着いた淵でインスタントラーメンを食べようと足を投げ出すと、なんだか襟の周りがかゆく、手を伸ばすとヒルがいた。ほかにも靴の中やシャツの間にヒルがいて、血を吸って大きくなったものもいた。

景色は美しいけど落ち着かず、天気もそれほど持たないかもしれないと思ってそそくさと帰路に着いた。途中山荘によって挨拶すると、Tさんはこまめに庭仕事をしていた。40まで会社勤めをしていたというTさんは、やりたいことをやろうと山荘を買い取ってここで一人暮らしをして30年。「仙人」と呼ばれているそうだ。

ぼくが帰ると告げると、「ヒルがついているからよく確かめろよ。靴下の中までいるから」という。「わかってます」と言ってなんだかかゆい腹を見ようとシャツをめくると、小指ほどのヒルが吸い付いていた。

(「越路」17号、2020.7.21、たらたらと読み切り157)

(詳細はフィールダー8月発売号で)