2つの論点
共同親権に関する民法改正法案が成立して、法改正を改悪と捉える人の子どもに会えない親の中からは、この民法改正を与党内で旗を振ってきた例えば柴山昌彦議員に対する「裏切り者」と言った批判がある。それに対して改正に尽力した議員を批判すべきではないと言う人は、法改正は婚姻外に共同親権の選択肢を増やすもので前進だと強調している。
こういった議論は度々見かけるものだけど、端から見る人には意味不明の狭い世界の中の内輪もめ程度に捉えている。ただ自分も子どもに会えない親の一人なので、言及してみる。
こういった議論は、法改正を、前進と見るか、改悪と見るか、という法案そのものの議論と、政治家の役割とは何か、という2つの論点にかかわる。
前進か改悪か
法改正を前進と見る人は、いままで離婚後共同親権のような不可能な法案の選択肢が出てきたのでそう言いたいようだ。当たり前だがそれはこれから離婚する人には有効でも、一度単独親権が確定した人にはハードルが高いので他人事に思える。
また、将来の世代のために犠牲になってくれ、と言われても、当事者は自分の問題(特に子どもに会えない、差別で苦しむなど)の解決を求めてきたわけだから、「だまされた」「捨て駒かよ」ぐらいは思うだろう。
そういった感情を無視して政治家を批判する当事者を「バカだ」と言ったところで、「あんたそんなに偉いのか」程度にしかぼくは思わない。
改悪と捉えることは当たってないのだろうか。
ぼく自身は今法案は現行の違法な司法運用の合法化が本来の狙いであると思っているので、あながち外れではないと思っている。
現行の司法運用でひどい目にあった当事者からすれば、法改正を求めたら、将来世代も同じ目に遭うのかと思うのでいっそうやりきれない。この点、現行民法の違憲性を確定することが優先的な課題になる。最高裁の違憲判断の持つ意味は大きい。
改革偽装はどこに向かう?
ところで、違法な司法運用を合法化するにあたって、あからさまなやり方はできないので、ポーズの上では改正をうたわなくてはならない。ぼくが改革偽装と呼ぶ理由だ。
その点、父母の協力義務や人格尊重義務などを強調して、ラッピングはすぐ破けるクレラップじゃなくてデパートの包装紙(まあ破けるけど)だと言いたい人はいる。しかし、改正が目的化した中でのラッピングなので、これをホンモノと言うのは当事者をだますことにもなりかねない。このラッピングそのものの問題点は言及してきたのでここでは触れない。
問題はどこに向かっての前進で、いまどの段階だということを、政策決定に直接関与した政治家たちが示せなかったことにある。
家制度の撤廃に向けての前進である、というならそれはそうかもしれないと思うけど、偽装は家制度の守護神の司法運用を守るためのものだ。保守政治家が表立ってそう言うかといえば、そこまで深く考えていたとしても、党内配慮から表立って言いはしない。
では当事者は、政治家たちが言うように、将来世代のための捨て駒になるしかなかったのだろうか。
「夫婦の別れが親子の別れ」
国会審議では、夫婦の別れが親子の別れになっていいのか、それが法改正議論のきっかけだった、と小泉法務大臣は繰り返していた。もちろん法案は法制審議会を経るものなので、専門家に議論を委ねた法制審の出してきたものに対して与党は文句はつけにくい。
ただ聞いていて、子どもに会えない当事者としてはこの法案は誰の何のための改革なのか、明確なメッセージが一貫して欠けていた、という感想はある。
反対勢力と妥協するにしても、親どうしの関係如何にかかわらず親子関係が維持できるのが目的、実際の世話でもお金でも、というメッセージが明確には聞こえてこない。
それを繰り返し言及して現状を示すのは立法事実なので、反対意見を納得させることはできないまでも、議論の積み残しがどの部分なのか、それに向けてのスケジュールも見えてきただろうと思う。
結論の見えないダラダラ小説
正直、どこに向かうかわからないダラダラとしたヘタな小説を聞かせられているような気分が今もしている。
政治家としてはいろんなところで妥協を繰り替えしていたら、法改正という成果が大事で、中身は二の次、という気分になりやすいだろうなと思う。だけど、理想を示してそのための筋道を示し、希望を多くの人と共有するのもぼくとかは政治家の仕事だろうと思うので、政治家の成果のために犠牲になりたくはない、と最初から思っている。
当たり前だろう、政治家の野心よりも自分の子どものほうが大事だ。
途中から法改正の議論を主導することになった政治家としては、先行する司法の都合を前に難しいかじ取りだったろうなとは思う。だけど、理想を示して議論を開き、味方を増やして司法や法制審の議論を人々全体のためになるものに誘導していくのも、政治家の力量だろうなと思う。その上でされる批判はむしろ歓迎だろう。
ぼくが素直に味方になりがたかったのは、手打ちが先行したのが透けて見えたからだ。(2024.7.29)