宗像 充(むなかたみつる)
『子どもに会いたい親のためのハンドブック』『引き離されたぼくと子どもたち どうしてだめなの?共同親権』著者。
1975年生まれ。
2007年に連れ合いと別れた後、2年半子どもと引き離された。離婚後どちらかの親に親権を決める単独親権制度に疑問を持ち、共同親権運動ネットワークを発足し、法改正運動にかかわる傍ら、子どもに会いたい多くの親の話に耳を傾けてきた。
【ごあいさつ】
親どうしの関係と親子関係は別物です。
裁判所に行ってもよくて月に1度数時間程度しか子どもに会えないような社会環境は明らかにおかしい。
学校や地域で、片親が追い払われ、子育ての担い手は一方の親だけとされています。親は自分が否定されたような感覚になり傷つきます。
それだけでなく、親が親扱いされないことで周囲に大事にされていないと感じるのは子どもです。
「子どもにとって離婚は家が二つになること」
もっと自然に離婚後の親子が親子でいられるように、子どもが両方の親から育てられ、愛情を感じられるように、あなたのお話を聞かせてください。
今とは違う道筋をいっしょに探しましょう。
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共同親権運動
日本では、離婚時に子どもの親権をどちらかの親に決めることで離婚が成立します。裁判所では、親権は先に子どもを確保したほうに与えられます。親権者は子どもの養育責任を一身に負わされ、親権のない親は子どもと会う保証がありません。どちらの親も苦しく、子どもの気持ちは顧みられません。両親が子どもの成長にかかわり続けることで、子どもは親に大切にされているという実感を持つことができます。
共同親権運動は「別れた後の共同子育て」ができる社会と法制度づくりを進める運動です。
共同親権運動、親子引き離しについての活動・相談窓口
■長野県松川町での別居親自助グループ
毎月第3金曜日午後7時~9時
松川町社会福祉協議会相談室
→行き方
■全国無料電話相談
毎月第1、3金曜日午後7時~8時半
TEL0265-39-2116
改正民法の父母の協力義務は「フレンドリー・ペアレント」条項か?
改正民法の父母の人格尊重義務・協力義務
改正民法の817条12-2には「父母は、婚姻関係の有無にかかわらず、子に関する権利の行使又は義務の履行に関し、その子の利益のため、互いに人格を尊重し協力しなければならない。」という規定がある。
この条項をもって、子の連れ去りや引き離し行為をした親は非協力的な親として不適切とされ、それら行為が抑止されるととともに司法の親権選択において不利になるのではないかと期待する向きがある。
海外では司法判断において、裁判所が親権者を指定する際に、元配偶者と子の面会交流に肯定的な親を優先するという原則が「フレンドリー・ペアレントルール」として定着してきた。その日本版がこの条項に反映されたというのだ。
国会審議でもこういったことについて例示した上で質問され、法務省側は司法判断でそう判断することはありうるとしている。共同親権側で発言してきた弁護士たちもそう言っている。本当だろうか。
「バカ」と元妻に言ったら不適格な親
この条項は法制審議会の最終段階で具体的な文言が出されてきたものだ。
よそでこの条項がフレンドリー・ペアレントとして機能すると耳に入れてきた仲間に「ほんとにそうなの」と聞かれたとき、「会わせない相手にバカと言ったら不適切な親にされて親権はく奪の理由になるんじゃない」と答えた記憶がある。
「でも議員さんもそう説明している」というので、「決めるのは議員じゃなくて裁判所」と非情な事実を指摘した。法務省の答弁が「ありうる」のは当たり前で「ありえない」場合もありうる。
自然的な関係に対する倫理的な規定
この条項を受けて仲間内で議論したとき、司法に嫌な目に遭った面子ばかりだったので、否定的な反応が多かった。
この条項の問題点は、人格尊重や協力の義務が課されるのが「夫婦」ではなく「父母」である点だ。民法には752条で「夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない。」という規定がある。この条項自体は現在の司法運用では空文化している部分が多い。
とはいえ、この条項は婚姻制度という国の法規範のもとに個人が服することによって生じる規定である。この婚姻制度は人為的なものなので、中身も変えられる。不服なら服さないという選択肢も可能だ。
一方で、夫婦はもともと他人だが親子は人為的なものではない。子どもが生まれたら国に出生届を出そうが出すまいが親子は親子だ。子に対する権利義務は父母にはあると思うけど、その中身に協力義務や人格尊重義務といった道徳規範を盛り込むことはどうなのか。
「その子の利益」を国が決める
「その子の利益のため」とあるからいいじゃないか、という反論はあるだろうなと思う。問題は「その子の利益」を決めるのが父母であるとはされていないことだ。
例えば、アメリカなどでは、子の最善の利益について双方の親との関係維持が州の公共政策であるとの規定があったりする。どうしてこういう規定が可能かといえば、特定の子の利益についてまずもって考えるのは、その子の父母であって国も含めた他人ではない、という前提に気づいたからだ(要するに共同親権)。会えもせずに空想的に「子の利益」を父母が想像したところで、子には利益にならない。
父母の権利性がなければ裁判官の主観を肯定
この点、ちゃんと共同親権、共同親権プロジェクト、共同親権訴訟で2月7日に法務省に申し入れた意見書では、1 婚姻状態によらず、子の養育をする固有の権利を実父母が持ち、父母双方による養育環境を維持する責務を国が持つ理念規定を設けること、2 子の監護について「子の利益」を裁判所が判断する時の規制基準として、「男女平等(養育時間における父母同権)」「頻繁かつ継続的で直接的な親子関係を維持すること」を盛り込むこと、という規定の設置を求めた。
逆に言えば、父母の権利性についての具体的な言及が条文にない状態での、父母の人格尊重義務や協力義務は、裁判官の主観や古臭い判例を反映した「協力」や「人格尊重」の判断を肯定することになってしまう。
子どもに会えない親たちは、それに怒って法改正を求めたが、今は「裁判官様の主観は私たち親の未熟な判断より尊いのです」と喜んでいる。
子どもに「あんた」と言ったら不適格
ぼくにも経験がある。子どもに「あんた」と言ったら、子に不適切な発言をしたという理由にされて、監護に関する司法で負けた。出身地の大分県では、親しい相手に「あんた」というのは普通だけど、裁判官の悪意を自分の世間の狭さで正当化するとこういうことができてしまう。
人格尊重は別に父母に特別に課されるものでもないし、子どものために父母が協力する場面があるのは言うまでもない。ただし、父母がいつもいつもデレデレ仲良くするのを「演じる」ことが子の利益なのだろうか。
互いに和解できない場合には、相手の価値観に「関与しない」ということも協力だろう。子どもの利益は父母が喧嘩をしないこと、とすることにぼくが否定的なのはその理由だ。
子のために互いに真剣になれば喧嘩にもなって、その場合にたしかに国も含めた第三者が関与することも正当化されうるだろう。それを前提としない解決策は、一方が他方に常に服する、ことになる。しかしこれは単独親権制度で親権者の言いなりになって「いつまでたったら他人になれるんだ」と愚痴をこぼす、子どもを人質にとられた親の姿そのままではないか。
この規定は、国の家族支配と家父長制家制度の遺産を正当化するものであって、このままでは共同親権とは相いれない。(2024.7.31)
民法改正に尽力した議員を批判すべきではないのか?
2つの論点
共同親権に関する民法改正法案が成立して、法改正を改悪と捉える人の子どもに会えない親の中からは、この民法改正を与党内で旗を振ってきた例えば柴山昌彦議員に対する「裏切り者」と言った批判がある。それに対して改正に尽力した議員を批判すべきではないと言う人は、法改正は婚姻外に共同親権の選択肢を増やすもので前進だと強調している。
こういった議論は度々見かけるものだけど、端から見る人には意味不明の狭い世界の中の内輪もめ程度に捉えている。ただ自分も子どもに会えない親の一人なので、言及してみる。
こういった議論は、法改正を、前進と見るか、改悪と見るか、という法案そのものの議論と、政治家の役割とは何か、という2つの論点にかかわる。
前進か改悪か
法改正を前進と見る人は、いままで離婚後共同親権のような不可能な法案の選択肢が出てきたのでそう言いたいようだ。当たり前だがそれはこれから離婚する人には有効でも、一度単独親権が確定した人にはハードルが高いので他人事に思える。
また、将来の世代のために犠牲になってくれ、と言われても、当事者は自分の問題(特に子どもに会えない、差別で苦しむなど)の解決を求めてきたわけだから、「だまされた」「捨て駒かよ」ぐらいは思うだろう。
そういった感情を無視して政治家を批判する当事者を「バカだ」と言ったところで、「あんたそんなに偉いのか」程度にしかぼくは思わない。
改悪と捉えることは当たってないのだろうか。
ぼく自身は今法案は現行の違法な司法運用の合法化が本来の狙いであると思っているので、あながち外れではないと思っている。
現行の司法運用でひどい目にあった当事者からすれば、法改正を求めたら、将来世代も同じ目に遭うのかと思うのでいっそうやりきれない。この点、現行民法の違憲性を確定することが優先的な課題になる。最高裁の違憲判断の持つ意味は大きい。
改革偽装はどこに向かう?
ところで、違法な司法運用を合法化するにあたって、あからさまなやり方はできないので、ポーズの上では改正をうたわなくてはならない。ぼくが改革偽装と呼ぶ理由だ。
その点、父母の協力義務や人格尊重義務などを強調して、ラッピングはすぐ破けるクレラップじゃなくてデパートの包装紙(まあ破けるけど)だと言いたい人はいる。しかし、改正が目的化した中でのラッピングなので、これをホンモノと言うのは当事者をだますことにもなりかねない。このラッピングそのものの問題点は言及してきたのでここでは触れない。
問題はどこに向かっての前進で、いまどの段階だということを、政策決定に直接関与した政治家たちが示せなかったことにある。
家制度の撤廃に向けての前進である、というならそれはそうかもしれないと思うけど、偽装は家制度の守護神の司法運用を守るためのものだ。保守政治家が表立ってそう言うかといえば、そこまで深く考えていたとしても、党内配慮から表立って言いはしない。
では当事者は、政治家たちが言うように、将来世代のための捨て駒になるしかなかったのだろうか。
「夫婦の別れが親子の別れ」
国会審議では、夫婦の別れが親子の別れになっていいのか、それが法改正議論のきっかけだった、と小泉法務大臣は繰り返していた。もちろん法案は法制審議会を経るものなので、専門家に議論を委ねた法制審の出してきたものに対して与党は文句はつけにくい。
ただ聞いていて、子どもに会えない当事者としてはこの法案は誰の何のための改革なのか、明確なメッセージが一貫して欠けていた、という感想はある。
反対勢力と妥協するにしても、親どうしの関係如何にかかわらず親子関係が維持できるのが目的、実際の世話でもお金でも、というメッセージが明確には聞こえてこない。
それを繰り返し言及して現状を示すのは立法事実なので、反対意見を納得させることはできないまでも、議論の積み残しがどの部分なのか、それに向けてのスケジュールも見えてきただろうと思う。
結論の見えないダラダラ小説
正直、どこに向かうかわからないダラダラとしたヘタな小説を聞かせられているような気分が今もしている。
政治家としてはいろんなところで妥協を繰り替えしていたら、法改正という成果が大事で、中身は二の次、という気分になりやすいだろうなと思う。だけど、理想を示してそのための筋道を示し、希望を多くの人と共有するのもぼくとかは政治家の仕事だろうと思うので、政治家の成果のために犠牲になりたくはない、と最初から思っている。
当たり前だろう、政治家の野心よりも自分の子どものほうが大事だ。
途中から法改正の議論を主導することになった政治家としては、先行する司法の都合を前に難しいかじ取りだったろうなとは思う。だけど、理想を示して議論を開き、味方を増やして司法や法制審の議論を人々全体のためになるものに誘導していくのも、政治家の力量だろうなと思う。その上でされる批判はむしろ歓迎だろう。
ぼくが素直に味方になりがたかったのは、手打ちが先行したのが透けて見えたからだ。(2024.7.29)
最高裁申し入れと八丁堀の会
最高裁要請
共同親権訴訟の上告理由書を4月初めに最高裁に提出し、4月15日から最高裁判所前情宣を毎月始め、6月には署名を提出した。7月12日は4回目の最高裁行動で、申し入れを4人で行なった。最高裁では事件にかかっている案件について要請を受ける部屋が用意されていて17人まで入ることができる。担当者は事件係の町島さん。聞き役なのでひたすらメモを取っている。
ぼくは何度か最高裁の中に入ったことがあって、弁論も傍聴したことがある。西門側は通用門になっていて、昼休みになると職員が出てきてチラシを手渡すことができる。要請を受ける部屋もこちら側にある。事務棟の正面なのでマイクでしゃべると聞こえまくりだと思う。反対側のお堀端には最高裁裁判官の部屋が並んでいるという。こっちでしゃべると裁判官の耳にも入ると言われている。
この裁判は2019年に提起し、2024年で足掛け4年になり、1審、2審とも負けている。子どもに会えない親たちは、単独親権制度がおかしいからと法改正運動に注力してきた。できあがった改正民法はいかようにも解釈でき、結局最後は裁判官が決める、ということになっている。いままで裁判官が親子を引き離してきたのだから、運用に期待できると思っている人は裁判所利用者では多くはない。なので、改正前の現行法とその司法運用が違法だったと最高裁に言わせないと、司法運用は今まで通り、前例や裁判官の主観で引き離しを許すことになる。
具体的に言えば、養子縁組の同意権や居所指定権が憲法上の親の権利であることを司法が認めれば、連れ去りや養子縁組で親を入れ替える今の司法運用は違法となる。別居親のグループの中には、「難しいことわからない」と言いながら、司法官僚の手先となってぼくたちの裁判を批判してきた人もいる。一方で、意義を理解して署名を送ってくれる弁護士さんもいたりする。ぼくたちの申し入れも、人数は少ないが代理人弁護士といっしょに行っている。1審、2審で負けたのは、司法は下手人だから下級審で判断は出せなかったということなのだろう。
改正法案が国会で成立し、それについて調停で言及する職員もいる一方で、松本家裁のように人質取引について肯定し「それ前提で考えてください」なんて暴言を吐く家裁もあるので、それについて言及した。
「いくら長官が研修を強化しようと言ったところで、反省しないとそんなの無理でしょう」
と毎回言っている。次回は人数をもうちょっと増やしたい。
八丁堀で定例集会
毎月八丁堀でグループワークや自助グループ、学習会をする。昨日13日は人数が少なくて帰ろうかと思ってたら、親子ネットの定例会に出ていた仲間がやってきた。親子ネットは法改正を目標に掲げていたんだろうから、改正されて何で集まってるのかわからないけど、集まらないと不安なんだろうなとは思う。
ぼくは度々親子ネットを批判するけど、そもそも作った人間なので権利はある。親子ネットの名前、会報のタイトルもぼくがかかわっている。人のふんどしで相撲を取るそのままだし、入会案内の文章はぼくが書いたものだ。いくら市民運動は著作権フリーの部分が大きいとはいえ、ライターに対してなめすぎの泥棒根性はいただけない。
この会と分裂したのは、何だかとにかく会社組織や官僚みたいなこと言う人がやたらいて、市民運動の経験もないのに、代表のぼくに指導したがって、言うことを聞かないと会議で揚げ足をとるばかりで、うんざりしたからだ。当時の中心メンバーと新しい会(共同親権運動ネットワーク)を作ったのが実体だ。要するに追い出された。
官僚は自分たちが法律を作る際、当事者の支持を得ているという体裁を作る必要があるので、言いなりになる市民団体を物色し、白羽の矢を立てたのが親子ネットになる。だから法制審の委員にも選出されたわけで、別に団体の政治力が高いから、というわけでも委員の人品の問題でもない。なので、もともとこの団体は官僚に歯向かうということができない。
そもそも法制審で法案に賛成したのだから、その後のロビー活動も意味ないし、困った当事者が文句を言えば「我慢しろ」というのが役割ということになる。親子ネットがなくなれば、与党政治家と官僚は別の言いなりになる別居親団体を選任するだろう。
別に親子ネットに行く人がいてもかまわないけど、せっかく長野から上京した身としては出会える人が少ないと寂しいというのはある。司法にいじめられないだけの経験と力を付ける場というのはあったほうがいいので、ちょっとは役立てたらいいなとは思う。てなわけで来てくれてありがとう。この6月からメンズカウンセリング協会の認定を受けた。お金払ってみたよ。(2024.7.14)
日本国憲法VS「非合意・強制型の共同親権」という婚外子差別
「鰯の頭も信心から」
国会で離婚時の共同親権についての民法改正案が審議され、共同親権に対する関心が高まっている。国会審議では、「非合意・強制型の共同親権」というフレーズを用いて反対議員が、合意がないのに共同親権なんて子どものためにならない、と盛んに言っている。ところで、この「非合意・強制型の共同親権」というのは、憲法学者の木村草太が言いはじめたことだと記憶している。
最初聞いたとき、なんのこっちゃと思った。「親権の概念を変えて親責任にしよう」とか言ってる連中が、一方の意向で逃亡を免責する主張を一生懸命している。「鰯の頭も信心から」程度の理屈にしか思えなかった。
SNS上で同様の書き込みを見て、合意があって子どもが生まれたのに、こんなの生まれてこなければいいような理屈じゃないかと反論したところ、「こどもに関わる問題で意見が一致しない場合には事を運べなければ、被害者は子ども」と繰り返す。その次にDVの例を挙げ、共同親権でかかわりが必須になれば命にかかわる、ともいう。
親は離婚するが子どもは離婚するわけではない
ところで、配偶者間の殺人が問題になるのは婚姻中で、民法上は協力義務は一応あるので、であれば、主張するのは婚姻の禁止が正しい。また、子どもが殺害される事例は女性が9割の親権を得る単独育児の場合に度々起き、これは合意がない結果だ。なぜ子どものために親どうしの協力が可能な法や支援を求めないのか、ぼくは問い返すことになる。
親は離婚しても子どもは離婚するわけではない。子どもが片親を失うことの痛手について想像すらしない主張を大真面目に言う感覚に、性役割の浸透を見る。
戦後憲法の施行と婚姻中共同親権の来歴と構造
このところNHKの連ドラの「寅に翼」の影響で、戦前、女性が無能力者にされ、親権もとれなかった時代について紹介されている。戦前は家父長制戸主制度のもと、父親単独親権だったので、度々の民法改正の議論の中で、共同親権を求めていたのは女性たちだった。
民法改正は戦前は機会を失い、戦後、両性の本質的平等と個人の尊重が規定された日本国憲法のもとで共同親権がようやく実現している。共同親権は男女平等の成果だ。それに反対するということは、家制度への回帰を求める、と言われても反論はできないし、控えめに見ても女性が親権を取れる状態を維持したい既得権に他ならない。
ところで、1947年に8カ月間暫定的に規定された「日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律」では父母による共同親権を規定した上で、婚姻外においては協議による親権決定を可能とし、決まらなければ司法が決めるとしている。表面的には今回の民法改正案に近似している。
しかし実際の戦後民法改正は婚姻中のみに共同親権を適用し、しかも父母の意見の不一致の場合の調整規定を欠いていた。法の構成としては、戦前の単独親権制度の上に婚姻中のみ共同親権を部分的に導入している。
今回の民法改正案も単独親権制度
この範囲を離婚後と未婚時に一部広げたのが今回の民法改正案であり、しかも未婚時と出生前の離婚の場合は母親親権がメインとなっている。これは、父母の原則共同親権のもと、離婚時への手当を行なった応急措置法とは構成が逆になっている。現行民法改正案もまた大本は単独親権制度であり、故に意見の不一致の場合の司法決定として監護者の指定という形で、他方親の親権を無効化する規定を新たに設けている。
故に、この監護者指定の必須を要件に共同親権に反対することは、性の違いはあっても、構造的には戦前の家父長制の復権に他ならないし、言い方に誤解を与えるのなら、戸籍制度として生き残った家の温存を図るものだ。左派やリベラルにとっては本来、日本国憲法の理念を自ら空洞化する劇薬に他ならない。
「非合意・強制型の共同親権」という婚外子差別
ところで、共同親権反対の議論には、単独親権ではなければ社会的養護しかない、という主張もあり、こうなると家族とは国のために存在する、という国家思想を彷彿とさせる。
男女が子作りするときに、まさか自分が子育てできない身になるとは想像しない。また、子どもは親の不仲で片親を失うなんて納得がいかないと、よく両親がけんかしていたぼくは素直に思う。親の虐待を受けて育った子どもの体験は貴重だ。しかし、だから他の子も同じように親の養育を受けられなくても仕方がない、となれば、他の親子には迷惑この上ない。
ところが、親の不仲で父母双方から養育を受ける機会を子は失ってしかるべきだし、それが婚姻の内外で区別しうるという主張に、共同親権反対の人達は血道をあげている。それは婚姻外においては子は婚姻時に一応は法的に確保されうる権利を失うという意味で、婚外子差別にほかならない。
リベラル・左派の乱心
それはまた、ぼくたちが先の国家思想・家族思想と対峙している共同親権訴訟の下級審判決で「婚姻外の差別的取り扱いは合理的」と述べた、司法の姿勢を反映したものだ。実際、共同親権では「適時適切な意思決定ができない」という法務官僚の反論を下敷きにした司法決定を、共産党の議員がぼくたちの訴訟の判決文からそのまま引用している(たしかに判決文を本村伸子事務所に手渡した)。信義を損なってまでの司法官僚の手先ぶりは見事だ。
また、別姓事実婚を実践していた福島瑞穂のような政治家が、非婚の子の差別的取り扱いをすべきだと、率先して審議で主張して法律婚優先主義の強力な守護者となっているのを見ると、なんと身勝手な人間が護憲活動をしてきたことかと感嘆する。
「お金は分けられるけど子どもは分けられない。だから時間を分ける」
日本国憲法の精神を民法に活かすとするならば、婚姻内外問わず養育時間における男女同権が基本となる。それを共同親権と呼ぶのが気に食わないなら、双方親権と呼べばよい。呼び方の問題が重要ではない。(2024.5.2)
親権のきた道
久しぶりに日曜日に習志野市内の幕張本郷の交番に行くと、交番相談員のYさんが「最近は来ないから、どうしたかなあと思って」と口にした。
昨年の12月に下の子が18歳で成人した。それに先立って、最高裁の決定で月に1回4時間の面会交流の決定が取り消されていたため、元妻とその夫に面会交流を義務付ける決定はなくなっていた。なので毎月第2日曜日の午後2時からと決まっていた決定の日時をこちらが尊重する必要もなくなった。何かと都合がよかったので、土曜日に曜日を変えて習志野市まで行って交番に立ち寄り、娘の暮らす家に行ってチャイムを鳴らす。
土曜日の交番相談員は別の相談員でこの人も顔見知りだった。話は通じるものの、日曜日が担当のYさんは、毎月訪ねて来ていたのにどうしたかなと聞いてきたのだ。
「もう娘も高校3年になってこの春で卒業です。卒業したら家にいるかわからないから、ここに毎月来るのも今日が最後になるかもしれません。長い間ありがとうございました」
裁判所の決定では子どもとの合流場所がここになっていた。元妻やその夫(の元友人)が子どもについてやってきて、子どもが「帰る」というと、交番に子どもを連れ込んで引き離すというのを繰り返していた。交番の人もわりと公平に話は聞いてくれたと思うけど、面会交流の間に子どもを戻してくれはしなかった。いろいろあってその後家を訪問するときには、トラブル防止でYさんと交番には挨拶をすることにしていた。
洗濯物が出ているのに雨戸は閉められ、人は出てこない。あらかじめ書いておいた手紙を投函してそのまま駅に向かう。子どもが来なくなって家に行くようになって、いっしょに共同親権訴訟の原告のSさんが来てくれるようになっていた。何回も行っているので近所の人とも雑談をかわすようになっている。現れないのは子どもだけだった。
この通常国会で「離婚後の共同親権を導入」する民法改正案が提出され、つい先日衆議院を通過して、この調子だと成立する見込みだ。ぼくたちが2019年に単独親権制度の違憲性を訴えて国賠訴訟を提起したのとちょうど同じころ、国で論点整理の議論が始まり、その後法制審議会で要綱案がまとめられ、今年2月15日になって法務大臣に答申されている。
この法案の中身は親子を無法に引き離す現行の司法運用を合法化するものだったので、このまま立法されても困ると、「ちゃんと共同親権」という少人数で短期間のワーキングチームを年明けから作って活動を始めた。リーフレットを作り、法案が国会に上程されるタイミングで法案には反対を表明した。
この法案では、養育費徴収の強化については具体的な立法がなされたものの、親子関係の妨害を排除する手立ては努力規定に止まっている。「子どもに会えなくても金は払え」だった。それに離婚後に合意があれば共同親権を選べるとはいうものの、もめれば司法に一任されてDVなどの「おそれ」があれば親権を奪われる。また、仮に共同親権になったとしても、司法は監護権を一方に指定し、そうすると他方の親権者の権限が空洞化する。結局これだと単独親権制度の焼き直しになる。
父母双方に協力義務や人格尊重義務が課されているのは、結婚、未婚かかわらない。一方で、「離婚後」に共同親権が協議で可能となったのに、「未婚」や「出産前の離婚」は、母親単独親権メインになり、ここで離婚の場合と区別される。法律婚優先を維持するために、婚外の父母の法的関係を婚姻内とは区別し、かつ未婚でも場合分けする。子どもの側から見れば、非婚(未婚と離婚)でも、離婚や事実婚の場合は共同親権になり得ても、父親が逃げた未婚の場合は父親の養育を受ける芽はなくなる。二重の意味で婚外子差別を強化する。当事者間も分断を深める結果が予想できたのだ。
非婚の父親として最初から親権を放棄した人間としては、「共同親権が欲しい」ではなく、「親権がないことによる差別」が問題だったので、共同親権訴訟も基本的人権の尊重を明記した日本国憲法が素直に武器になった。この点については反対の中で強調したし、理解してくれる仲間がいた。
こういった点は親権決定における司法の基準である「子どもの利益」の解釈の議論に集約される。そもそも一般的な意味での「子どもの利益」なんて、虐待とか親が子に危害を加える場合には除外規定として特定できても、何が「子どもの利益」になるかなんて、普遍的なものがあるわけもない。特定の子の利益はその親がまずもって考えるわけで、他人が「買い食いよくないよ」とか言ったって、「うちの子のことですから」ですませられてしまう。
この場合の「子ども」は、単なる少年少女の意味じゃなくて、親に対する特定の子どもで、その子は父母2人から生まれる。だから双方とのつながりを維持することが海外では「子どもの利益」とされた。単独親権から共同親権へと法改正で転換していった理由だ。共同親権賛成、法案反対が基本姿勢ということになる。
ところで、難波さんも書いているように、この議論には熱烈な反対勢力がいて、もっぱらの反対理由はDV被害が継続するというものだ。この点についての反論はたくさんしたけど、特定の人が嫌な思いをしたからといって、見ず知らずの親子を生き別れにする権限なんて最初からない。
こういった反論とともに、法案の問題点を毎週上京して議員たちに説明し、一方でネットラジオで問題提起し続けた。立憲民主党がいろいろいちゃもんを付けても、反対したのは国会では共産・れいわ新選組だった。
ところで、昨年末に『結婚がヤバい 民法改正と共同親権』という本を出している。この本のメッセージは、結婚はぜいたく品になってしまって、それが戸籍制度に残る家制度による性役割に起因するというものだ。「正社員家庭」という言葉を作った。ぼくとかは「非正規」の家族関係だ。
共同親権を掲げる運動は当初から、「親子関係と親どうしの関係は別物」と言ってきて、それはまた、「結婚と親子関係は別物」ということでもあった。そうすると、出産子育てを前提に、氏による家の存続が至上価値になる日本の結婚は、親子関係を共同親権で保障することによって再編成されることになる。
日本国憲法は「婚姻は両性の合意のみによって成立する」と規定している。届出主義の戸籍結婚は、事実婚主義の憲法結婚が本来の姿だった。そうすると、夫婦別姓や同性婚の立法化が可能になる。だけど実際には、選択的夫婦別姓や同性婚の活動家から、共同親権は反発されている。みんな自分のことしか考えていない。
婚外子を犠牲にした民法改正に疑問を投げかけることで、結局、親権の議論をしていたつもりが結婚の議論をしていたことになる。娘も成人した。いくら法律が変わったといっても、国の法改正の動機は外圧なので、形通りの法改正ですみはしないだろう。自分も含めて家族はどこに行くのか、見届けるのは運動であって、趣味で、それもいのちきになるみたいだ。(2024.4.23 越路23号)
共同親権反対という改憲運動
左派系党派が共同親権反対を表明
4月16日に「離婚後の共同親権の導入」を盛り込んだ民法改正法案が衆議院を通過した。衆議院で法案に反対したのが確認できるのは、共産党、れいわ新選組になる。前後で左派系党派が反対をおっとり刀で表明している。みどりの党、生活者ネットなどだ。社民党は福島みずほや大椿ゆうこが反対集会で発言している。
中身を見てみると、DVが継続する、合意が得られない場合の混乱などがもっぱらで、かねてからこれらの批判は既得権にすぎないと批判してきた。海外では共同親権でも対策がとられるし、DVや虐待は年々認知件数は過去最高を記録し、単独親権制度にDVの抑止効果はない。それどころか、子の奪い合いや育児の孤立による事件はいくらでもあるからだ。
男性の側のDV被害も報道されるようになった。司法で女性が親権を得る割合は94%だから、親権者に多く加害者が含まれているのは明らかだからだ。これらは被害者保護や暴力抑止の失敗の末であり、共同親権を犯人に仕立て上げるのは無理がある。
共同親権は家父長制の復権は本当か?~家族主義的な反対論
共同親権反対には共同親権は家父長制の復権でバックラッシュだ、という根強い意見がある。
しかし、戦前は家父長制家制度のもと父親単独親権で、父母同権の共同親権を求めてきたのはもっぱら女性たちだった。
現行民法は日本国憲法が5月3日に施行された1947年に改正案がまとめられ、翌年から施行されている。今回と同じく法制審議会と法務省は関係団体に意見の照会をしている。
その際、当時の主要な女性の法律家や研究者、共産党や婦人民主クラブの活動家などからなる家族法民主化期成同盟会は、民法改正案における修正意見を出し、「氏」に実効的効力を求める規定の削除を求めた。そして、「婚姻、離婚、私生児認知などの場合に、子と氏を同じくする父母の一方のみが其の子に対し親権を有するのは不当であるから父母は親としての関係に基き常に子の監護、教育について権利・義務を有するものとすべきである。 」と父母による共同親権を求めている。
同盟会には法制審議会委員の川島武宜 もいて、戦前の家制度が「氏」によって夫婦と未婚の子の戸籍制度として温存されたその経緯を理解していたことがわかる。こういった意見は唐突なものではなく、戦前には実現しなかった民法改正の議論を踏まえたものだ。
男女同権や未婚の母の法的地位の確保という観点からは、共同親権を婚姻内にとどめる理由もない。実際、準備が間に合わずに憲法施行から翌年の現行民法の施行までの間に一時的に適用された「日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律」(応急措置法)では、婚姻内外問わず一律共同親権とされた。すべての子どもに親の保護を与えるのが狙いだったことを当時の裁判所は述べている。離婚や認知の場合の親権者は協議によって決めることも可能だった。実際共同親権で離婚したカップルもいた。
1948年から施行された民法は、共同親権を婚姻中のみにとどめ、たいした議論もないまま「氏」のもとに残った家制度と手打ちをしている。
「寅に翼」の時代~現代の女たちの勘違い
NHKの連ドラ「寅に翼」で戦前の女性たちが置かれた法的立場が注目されている(見てない)からか、共同親権の立法化が先行し、自民党の反対でとん挫した夫婦別姓が進まない女性たちのいらだちを、度々記事やネットで見かけることがある。しかし「寅に翼」の主人公「猪爪寅子」もまた、司法事務官和田嘉子としてこの期成同盟に名を連ね、共同親権を求めている。「ふぇみん」の赤石千衣子さんの婦人民主クラブや共産党の人も期成同盟にいる。
共同親権はバックラッシュだという女性たちの反発に、何を言っているんだろうと最初思った。女が親権をせっかくとれるようになったのに、また男(父親だけど)に口を出されるのかという心情は想像できる。実際、戦後初期は女が親権をとれない状況で、親権取得率の男女割合が逆転するのは1966年になる。
しかし、共同親権が父母同権を実現する手段であったなら、1966年後に男女ともに親権がとれるようになった時点で法改正をしておくべきだったのだ。しなかったのは、氏によって残存した家制度が法律婚優先主義の意識を定着させたので、「婚姻外の差別的取り扱い」に疑問を感じる感性が奪われたからだろう。歴史的経過を振り返れば、司法で女性が親権をとれる割合が94%になった時点で、共同親権に反対することは、いろいろ理由をつけようが既得権以外に説明のしようがない。
共同親権反対という改憲運動~男女同権の遺産を食いつぶしている
ところで、今次共同親権に反対論者や政治党派は、護憲を標榜する人が多い。自民党の改憲案が婚姻の自由と家族における個人の尊重と両性の本質的平等を規定した憲法24条の復古主義的な改正も視野に入れているので、その自民党が推進する共同親権法案について、警戒しているのはわかる。
実際、親権をもてない女性のための便宜であった監護権は共同親権であれば不要なものなのに、逆に共同親権時にも他方親を排除する権限として温存され、その点では危惧も根拠なしとしない(この点から単独親権制度の廃止を求めてきたぼくたちは法案には反対した)。
しかし、共同親権に反対する人たちが求めているのは、逆にこの監護権による事実上の母親単独親権の司法慣行の温存である。結果的に子を確保できる状況にない大部分の男と、女だけが子どもを見ることを潔しとしない少数の女が割を食う。
これでは戦前戦後と女たちが求め日本国憲法の施行によって実現した男女平等の成果を損なってしまう。自民党の狙い通りに家族の国家支配を強化し、改憲を促進するだけだろう。民法改正のこの時期に、護憲派が何をしたか、記憶に残すためにこのエッセイを記録に残すことにする。(2024.4.24)
立憲民主党の親権政策がチルドレンラストなわけ
民法改正法案委員会審議入り
この記事を書いている3月27日に衆議院法務委員会で「共同親権の導入」に関する民法の一部改正案の政府による趣旨説明が行われ、審議入りした。共同通信はDV、虐待をどう防げるかが焦点と早速議論を誘導している。あたかも単独親権制度がDV、虐待に貢献してきたかのような書きぶりだが、この間、一貫してDV、虐待の認知件数は増加し続けている。
与党がこの法案を通すという方針を決めて通常国会序盤で法案提出してきたので、野党の対応が注目され、この間、「ちゃんと共同親権」では、銘々野党議員に働きかけをしてきた。立憲民主党や共産党、れいわ新選組の議員には、共同親権に反対する議員が多いので、ぼくは親切でそれら議員事務所を訪問している(といっても1人でやっているので人数的にはたいしたことない)。門前払いが多い。
立憲民主党は単独親権擁護
3月24日には、長野県の地元の国会議員の杉尾秀哉氏さんのオンラインミーティングが共同親権について取り上げ、立憲民主党の法務担当の米山隆一さんがゲストとして招かれるという形で、党の政策が示された。
米山氏の説明によれば、まず、面会交流・養育費と共同親権の議論は関係ない。婚姻中は共同親権で問題ない。離婚後においては、協力できる父母は共同親権でいいけど、合意できなければ単独親権。親権者変更で親権のない親が共同親権を持つと困るので、要件を厳しくするような修正か付帯決議を付ける、というのが大方の方針のようだ。その後の立憲議員との面談でもおおむねこの方針は共通政策とされていることがわかる。DV支配の継続を防ぐというのがその理由とされていて、「そうすれば単独親権と変わらない」と支持者と議員の間で言い合っていたのが印象に残る。
改正法案では単独親権にしたいほうが立証義務を課されるのが危惧されるという。家裁は職権探知で証拠調べなんかまじめにしない。ただ1947年に施行された、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚する応急的措置を講ずることを目的とする、「日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律」は婚姻内外問わず共同親権とされ、すべての子どもに親の保護を可能とすることが目指された。歴史的経過から言えばむしろ歓迎してもよさそうだ。
とにかく不勉強
ところが米山氏は「 婚姻中は共同親権で問題ない」という。相当ずっこけた。この人は、各国で共同親権へと転換した家族法制が、婚姻と親権制度を分離することを最終的な着地点としてきたことを何も知らない(知ってて言ってるとしたら悪質なのだけど会話中にその素振りは感じられなかった)。
また面会交流・養育費と親権議論を分離するというのは、おそらく親権議論を決定権の問題に切り縮めるのが目的だ。改正法案は、養育費の徴収強化については立法化した。しかし面会交流についてはこれまで通り(か気休め程度の努力規定)。立憲民主党が面会交流の実現についての立法化の見送りに異議を唱えたとは聞いていない。「会わせたくないけど金はほしい」と言っているだけだ。
杉尾氏のオンラインミーティングでは、別居親がDVについては刑事で取り組むべきことと主張した。そうすると一斉に不満の声が参加者から湧きあがった。助け船を出そうかとも考えたけど、途中で米山氏、杉尾氏の知識不足に呆れ気味だったので、悪いけどしゃべる気力がなくなっていた。政策的に言えば、取り決めの不在が争いの継続を生むので、養育計画の策定を義務付けることが一助となる(「会わせたくないけど金はほしい」人はこれは避けたい)。
思考放棄と無責任
現在のDV施策は自力救済という逃亡支援という民事対応だ。なので子連れでうまく逃げられなかった人は男も女も見捨てられる。
米山氏は弁護士でもあったので、継続性の原則がおかしい、というぐらいの知識と自覚はあった。だけど、親権がほしかったら子どもと離れないように言わないと、クライアントから訴えられる、と「連れ去り」と呼ぶことは否定した。ここに親権を失った側への同情や、親と引き離された子どもの境遇への想像力は感じられない。「大した問題ではない」と思っているのだろう。
継続性の原則がおかしくて、だけど「連れ去り」とは呼ばないでほしい、というなら、「先にとったもの勝ちとならないような制度設計はいかなるものか」という問いに答えるのが政治家の役割となるはずだ。その答えが「単独親権制度の維持」なので、もはや思考放棄と無責任の合体技だとしか思えなかった。婚姻中の単独親権も主張すべきだ。海外の施策を少しでも調べればこんな結論にはなりようがない。
婚外子差別とチルドレンラスト
ところで今回の民法改正法案は、未婚や出生前の離婚においては母親親権メインが残り、離婚後の共同親権の導入を自己目的化して法が改変された分だけ婚外子差別を強化している。この点、立憲民主党の議員に陳情する場合のポイントとして強調してきた。米山氏の「婚姻中は共同親権で問題ない」は、逆に言えば「婚姻外の父母は問題ある」と言っているようなもので、共同親権訴訟で司法が言い放った、婚姻外の「差別的取り扱いは合理的」そのままで、司法と同様の差別思考だ。
そもそも婚姻の有無や親の不仲といった親の関係によって、親と会えたり会えなかったり、子どもから見たら理不尽そのもので、このこと自体が婚外子差別であるとともに、子どもに序列をつけている。法案が成立すれば、離婚後の「共同親権の導入」が現実となり、実際に共同親権での離婚が増え、父母間を行き来する子どもも増えることが予想される。そうすると、父母の不仲で片親との接触を禁じられた子どもは、境遇の差に理由を求めるだろう。
もし聞かれたら、「政治家たちはそのことを考えようとはしなかったんだよ。特に立憲民主党という政党の仕打ちはあなたに冷たかったよね」と説明しようと、今から思っている。(2024.3.28)
共同親権民法改正のタウンミーティング開催の陳情を大鹿村議会に出してみた
3対4で不採択
現在、共同親権についての民法改正案が国会の審議にかけられている。ぼくは子どもと引き離された経験があったので、長年民法改正運動に取り組んできた。そんな中で出てきた法案は、単独親権民法のもと親子を引き離してきた司法慣行を追認する欠陥法案だったので、法案には反対している。国が法改正を急ぐ理由は外圧なので、仮に法案ができなくても国はまた出し直さないとならない。欠陥車のリコールを求めているような形だ。
昨日14日に衆議院本会議で法案審議が始まった。そして陳情の趣旨説明があった8日には法案の閣議決定が行われている。そして今日15日に本会議採択が行われて結果は3対4で不採択となった(議員は計8人、議長は投票に加わらない)
日本でもっともダーティーな村議会
ところで、大鹿村議会は2つの常任委員会があり、陳情がかかったのは総務社協常任委員会で委員全員8人が出席している。委員会審議は非公開だ。陳情提出者は委員会で発言できるわけだけど、それを傍聴することもできない。
自治体議会の公開は地方自治法で定められている。委員会は議会が付託するものだから法の趣旨に従えば公開が原則となるはずだ。しかし村議会規則で委員長権限で公開・非公開を決められるようだ。多数決で非公開を決めているのだろう。悪質なことに、もう一つの委員会も8人全員が出席していて、結局案件の実質審議を密室でするために非公開にしているわけだ。
多分8人で昼間っから宴会でもしているのだろう(そうじゃないと言うなら公開にすればよい)。「村民に言えないようなこと話してるんでしょう」と陳情の趣旨説明の最初で8人全員に向かって言った。
大鹿村は日本でもっとも美しい村連合に加盟しているが、村議会は日本でもっともダーティーだ。村の空はいつも鉛色。
採択の中身
ところで、一応委員会の審議は本会議で委員長報告があって、伊波ゆかりさんが発表。中身を聞くと不採択意見は「法案に問題がない」「大鹿村だけでタウンミーティングをもとめても」というもの。採択は説明を聞きたいという当たり前のものだった。
委員会で意見が割れると、大鹿村議会の場合、賛成反対それぞれ代表者が1名ずつ出て討論をする。この辺茶番っぽい。
採択の意見は加藤哲夫さん。親権問題で悩んでいる人が知り合いで2人いて、離婚して前妻の子3人と年3回会っている人と、息子が離婚して子どもと会えなくなって、会いに行って警察沙汰になったことがあるという。どこでもあるんだなと思った。共同親権になって子どもに会うという面では進歩だし、公聴会で様々な意見を聞いて決めるのがいいのではないか、と陳情提出者としてうれしい意見を言ってくれた。反対は、松澤武裕さん。「内容を検討したが必要ない」という。「お前が議員に必要ないわ」と心の中で思ったけど、礼儀正しいのでヤジったりはしない。
ちなみに委員会審議では子どもと会うために5度裁判手続きをして、今は国を立法不作為で訴えているという自分の経過をしゃべった。そしたら「子どもの意思もあるのに親のエゴだ」という意見が田代久夫さんから出た。子どもに会いたいという気持ちを言わせない社会のほうが間違っているから、社会運動が成り立っているわけだ。否定した上で「子どもが会いたくないと言うのは理由があるけど、半分半分で子どもの養育ができていれば子どもが会いたくないとか言い出す機会は少なくなりますよね」と説明はしておいた。
大鹿村は島だ。離婚も多く、子どもがそこに巻き込まれないためにも、発言し続けるのは大事だなと思った。
採択の賛否は以下である。(2024.3.15)
採択 伊波ゆかり、加藤哲夫、宮崎純平
不採択 秋山光夫、松澤武裕、田代久夫、齋藤栄子
(議長 河本明代)
枝野幸男と面接交渉の思い出
自民党の野田聖子や立憲民主党の福山哲郎が、離婚後の親権に関する勉強会(「親権のあり方勉強会」)を2月9日に立ち上げ、それについての報道が一斉に流れた。この勉強会は法制審議会の要綱案というか、共同親権に反対する議員が中心で集まっている。この中に立憲民主党の創設者で前代表の枝野幸男がいる。2022年8月27日に彼はx上で共同親権に反対を表明している。その際のコメントが以下だ。
「171回国会、2009年のことだったと思います。 当時は、一部の円滑に行くケースについての共同親権はあり得ると認識していましたが、その後、制度を設けると一部にとどまらなくなるリスクが高いことと、制度を設けなくても問題は生じないことが確認できましたので、明確に反対するに至りました。」
実際に2008年5月8日に彼は非親権者と子の面接交渉についての質問主意書を提出している。当時は面会交流(親子交流)のことを面接交渉と呼んでいた。
ところで、 「親子の面会交流を実現する全国ネットワーク」という名前だけはたいそうな団体を立ち上げ、国会議員に法改正について頼むために、ぼくが議員会館に行き始めたのもこのころだったと思う。
そのころは国会議員の間で離婚後に親子関係が断たれることが問題だと認識している人はほとんどおらず、ほとんどの議員が「はじめて聞く話」という顔をしていた。しかし彼は違った。
「弁護士として最後に手がけたのが親権の問題だった。母親の側の弁護をして、どうやったって勝てると思ったのに、負けた。それだけが心残りだ」
議員事務所を訪問したぼくたちに、彼は悔しそうな表情を見せていた。
「なんでも持ってきてくれ。質問できるから。それから弁護士は運動のやり方を知っている。弁護士を中に引き入れるといい」
何とかしたいという思いが伝わってきたし、運動の手ほどきまで指南してくれた。
実際、ぼくたちのちょっと前からFather’s Websiteなどの「面接交渉連絡協議会」が議員会館で勉強会を開き始めていたものの、国会議員の中で、ぼくたちが議員会館を訪問する以前にこの問題に本気で取り組んでくれていたのは彼だけだった。地元埼玉での議員報告会でもこの問題について話題にしていた。ぼくより前から運動をはじめて、今国賠訴訟で原告としていっしょにやってくれている仲間は、後援会に入って彼を応援していた。千葉景子や福島瑞穂は、人権問題としてこの問題に理解を示していたが、彼は継続的に署名の紹介議員になるなど、初志を貫いていた。
それが一昨年に反対を表明してぼくは唖然とした。
政治家としての変節ぶりは言うに及ばず、彼が弁護士として最後に手がけた案件のクライアントは、どんな顔をして彼の今の態度を見ているのだろう。そして今までの14年以上の彼の取り組みはいったい何だったのだろう。
「制度を設けると一部にとどまらなくなるリスクが高いことと、制度を設けなくても問題は生じないことが確認できました」というのがウソだというのを一番知っているのが枝野本人だろう。
「政治家なんてそんなもの」かもしれない。だけど「寂しい人生だな」とも思う。
彼の変節の理由は何なのか。聞いたところで本音は言わないだろう。だけど議員会館での反対議員の勉強会の報道写真で、腕を組んで座っている彼の表情を見るにつけ、あのときの悔恨の表情を目にしたぼくは、それをどうしても聞きたくなる。(2024.2.11)
SNSで裁判官の名前を挙げると裁判で不利にされる?
このところ、SNSで裁判官の名前を挙げたり、司法批判をすると、司法判断で反社扱いされて不利にされた、という話を聞くのでその対策について取り上げたい。
離婚や面会交流の事件で子どもに会えない親が、司法の差別的扱いや暴言についてSNSで触れることはよくあり、ぼくも勧めたりする。というのも、もともと裁判所職員は公務員なので、勤務時間中の名前が非公開なんてありえないし、裁判官は裁判所という組織の名のもとに判断を下すわけだから、最低限名前を名乗ることぐらいが、彼らの責任なのは当然だからだ。そして、単独親権制度のもとの司法では、他方の親を差別することで運営が成り立っているので、必ず彼らの言動に差別的なところがあるのは当たり前で、言わないと改善しないからだ。
ところで、ぼくもSNSを始めて、裁判中の元妻側の弁護士(森公人と森元みのり等、森法律事務所の面々)に、そこでの書き込みを書証として裁判所に提出されたことがある。ちょっとでも司法批判につながる部分があると、それをプリントアウトして、司法批判をするような反社会的な人間だ、ということを印象付けて裁判官の心象を悪くして有利にするということというのが、彼らの手法だ。それ以外に論理的な主張など彼らにはほとんどない。
「こんな野蛮人の言い分なんかかなくていいですよ」と裁判官に仕向ける。別に悪いことしてるわけでもないのだけど、裁判官に「あんたの悪口言ってますよ」と告げ口するために、森法律事務所では年がら年中、訴訟の相手方のSNSを監視している。また森が調停委員をしていたように、裁判所と癒着しているので、滅多なことでは裁判所からたしなめられない、と高をくくってもいる。
ところで、こういったことがなされた場合の対抗手段としては、ぼくはSNSで裁判所批判をするときには、「#森元みのり の書証提出希望」「#森公人 の書証提出希望」と書き添えて投稿することにした。「いいことだからやってくれ」と対戦相手に言われてやるバカはいない。これでほぼ書証提出はされなくなった。
また、彼らには父親のぼくのことを娘に「つきまという」という暴言があったので、これについては、彼らの主張書面をもとに名誉棄損での裁判と弁護士会への懲戒請求をした。そのことにつき、SNSに事実関係を公表した。子育ては母子密着が多いが、「つきまとう」とか言ったりしないからだ。法曹業界は、別居親差別を前提にした単独親権ワールドなので、手続きは通らなかったが、裁判にあたって彼らの文章表現がやや慎重になった。
要するに、実名明記の書き込みをするにあたっては、「あいつらが気に入らない」というレベルじゃなくて、それが人権問題なので告発したという体裁をとると、必要な書き込みで世の中のためという理由が立つ。したがって、そのための形式をとるために、「~という人権侵害を受けました」「~というパワハラがありました」「~というセクハラ発言を受けました」といちいち書くのが安全パイだ。あるいは、人権機関への通報や弁護士会や法務局への人権救済申し立て、懲戒請求、司法手続きなどをとり、その事実を公表したり、人権機関に公表してもらうというのが個別アカウントへの攻撃を避けるためには必要なことだ。人権窓口の相談についてのポストがSNSに流れてきたりすることもあるので、そこに事実関係を書き添えてリポストすれば牽制にもなる。
「家庭裁判所監視団」という団体名で「家庭裁判所チェック」というブログを運営し、寄せられた情報をもとに、「利用者にとって有益な情報提供」という名目で、裁判官や弁護士の実名告発を続けてきたが、このブログにつき意味のある削除要請などは一度もなかった。また、別居親団体はいろいろあるけど、告発があったら団体名で事実を公表したり、裁判所に電話をかけて職員の名前を挙げて苦情と改善を申し入れる、ということは度々した。裁判所は「個別の事件につき対応できない」と逃げるが、人権問題についてその対応はありえないので、「伝えてくださいね」と総務課の職員に言うと、もちろん裁判所職員の態度は変わる。
近年では裁判官の実名告発につき、裁判の中で報復的に不利な判決を下されるという話も聞くことがあるが、途中で暴言があったときにだけ名前をSNSに投稿するとこういう事態を招きかねない。最初に言ったように、裁判官の名前は公開情報だ。SNSを利用する意図があるなら、手続きを始めた時点で名前を聞き、担当者の名前を最初からSNSに公表しておくのを勧める。いずれにしても、司法は「仕返しされそうだからやめておく」程度の礼儀正しさが通用するような世界ではない。(2024.1.14)