父を送る顛末記

その日は午前中に好天予報が出ていた。雨ばかりの日が続いた9月だった。3度も小屋を数日離れていたので、その日を逃せば下山するまで出かけられそうになかった。荷物に小さな骨壺を入れて小河内岳に向かった。

父が亡くなったのは8月の末のことだった。

一昨年にガンの手術をして、それが今年再発したのがわかった。6月末に三伏峠小屋の管理人として小屋に上がる直前だった。電話の向こうの母の話によれば、長くて半年だという。社長に無理を言って入山して一週間で休みをいただいて、実家のある大分を目指した。

毎年、三伏峠の手伝いに繁忙期に小屋に上がっていたのが、今年は管理人として6月の末から9月の末まで3カ月間小屋にいた。

いるのが管理人の仕事なので、いくら父親の先が長くないといっても、小屋を留守にするのは気が引ける。小屋の予約が少ない日を選んで離れたとはいっても、小屋を空ければ社長が代わりに登ってきたのでなおさらだった。かといって帰らないという選択肢もこの場合取りにくかった。

2615mの三伏峠から大分の実家に帰るにあるのは標高差だけじゃない。調べてみると、朝早く小屋を出れば夜には実家に着くことがわかる。登山口まで1時間半歩いて車に乗って自宅に立ち寄る。身支度をして再び車に乗ってお隣の松川町のインターまで行く。高速バスに乗って名古屋まで行く。新幹線に乗り換えて小倉まで行く。大分行きの特急に乗って、さらに大分から普通車で30分。犬飼駅に夜8時過ぎに着く。迎えは来ないので、汗をかいて坂を登り、歩いて15分で玄関の引き戸を開ける。

昨年手放したので、何代かにわたってずっといた犬の出迎えもない。「ただいま」と言って居間に入ると、母に「あんまり大きい声出しなさんな」という。入ってきた姉も「お父さんが寝てるから静かにして」という。じゃあ呼ぶなよ、と思う。翌日父親が救急車で病院に運ばれるまで口をきかなかった。親が死ぬときって、遠くから帰っても、誰も歓迎しないんだなと思った。兄は仕事が遅くて帰ってこない。

その日、父は容態が悪くて、お隣の大分市の大きな病院の、緩和ケアの病棟に入っていた。姉はこの日東京に戻ったので、母と病院に行った。何日も休めないので、翌々日にはぼくも山小屋に戻らなければならなかった。父は「話がある」と母に席を外させて、ベッドの脇に呼び寄せた。

骨と皮の姿になって、何を言うのかと思ったら、「お前は人前で疲れたとか言うな。みっともない」とか説教が始まった。「充はおれの言うことはきかん」と周りには言っていたようなので、今まで説教されることはあまりなかった。説教って、聞いてるほうは早く終わんないかなとしか思わない。親が死に前でも多分それは変わらない。適当に相槌をうちながら我慢して聞いていたら、続ける体力もないのか終わった。

2度目は8月の後半に、もう一週間持つかどうかというので再び帰った。急いで帰る気には今度はならず、大鹿の家で一泊して翌日帰った。今度は頬がこけて骸骨みたいになった父は、また母に席を外させ説教を始めた。「村で対立する人がいても協力しながらやらんといけんこともある」。何を言い出すかと思ったら、村にいる元妻ともうまくやれというのだ。

「いやです」

すぐ言った。死に前なら自分の願望を叶えてもらえると思ってもらっても困ります。父の眉根が明らかにゆがんでいた。この場合、素直に聞くのが孝行とは思えない。

家父長らしく、頼んでもないのに姉には財産管理を、兄には家を、ぼくには自分の希望をと割り振っていた。南アルプスに散骨しろというのも父の希望だ。

「お父さんは、ほかの人には『私が山が好きでしたから、あん子も山が好きで山小屋で働いています。ワガママな奴でしたががんばってます』って見舞いに来た人にはいいよるんよ」

身体がつらい父の八つ当たりに疲れ気味の母は、それでも別室で素直じゃない父をかばっていた。

「それでお父さん、南アルプスに登ったことあったかな」

大鹿村には度々来ていたものの、山に登っていた記憶はないし、実際なかった。ワガママはどっちだよ。

散骨する分と、残りは、自分が死んだらひとりで墓に入るのか、という母の意向を父も聞いて、本家のお墓に入れることにした。父の父は戦死しているので、骨は本家の墓に入っていた。その後父の母は家を出ているので、家に残された父は、戦争孤児と自分のことを言っていた。

父のもう一つのお願いは、そこにあるおじいさんの骨壺の中身を確かめてほしいということだ。明らかに重さがないその骨壺は、死んで80年以上も経ったというのに、誰も中をあらためたことがない。国が自分の父親にどんな仕打ちをしたか知りたい、というのが父の最後の希望だった。

そんなのは自分でやればいいんじゃないか、とは思った。とはいっても、体も弱っているし、自分でそれをやる気力もわかないだろうことはわかるので、それも引き受けた。兄や姉は山にも登らない上、そういうことには興味がない。結局ぼくしかいなかった。

3度目の帰郷は父が亡くなった後だった。母と兄が看取った。自宅に一時帰宅して病院に戻ってしばらくして亡くなったと、山小屋で電話越しに母から聞いた。「お前いつこっち帰るんか」と兄が電話してきて、葬儀等の日程をあらためた。

「急いでも着かんわ。待たんで先にすませてくれたほうがぼくも気が楽よ」

そんなわけで朝の山小屋の掃除をしてから下山した。途中で登ってくる社長に出会って香典を渡された。父親死んだんだなと思った。今度は名古屋に一泊して、翌日の日中に帰ると、父は骨壺になっていた。

近所には由緒あるお寺がある。それが、住職がパチンコをしてそれがもめごとになったらしく、実家は檀家を抜けていた。そんなわけで身近な親族のみで無宗教で葬儀もすませたようだ。位牌もなくて、近所の写真好きの人が撮ったという父の写真が飾ってあった。犬を引いた父はいい笑顔だった。そういえば前はあった仏壇もなくなっていた。その辺はいさぎいい。

ぼくは連絡のつかない子どもたちに3度はがきを出した。姉と兄には子どもはいないので、父の唯一の孫たちになる。結局連絡はなかったけれど、親の言うことを聞くように育てていない。その辺は父もわかっていたことだろう。

父の骨壺は大きいのと小さいのがあり、小さいのがぼくが散骨する分だった。村まで持ち帰って、自宅に置きっぱなしにするのもどうかと思ったので、小屋まで持って上がった。

小河内岳には避難小屋があって、この時期は無人になる。小屋の奥のほうまで行くと眺めがいい。正面に荒川岳が見え、この日は富士山もよく見えた。ここは南アルプスの真ん中だった。骨をそこらの石で砕いた。つかんで空に向かって投げた。これで父とお別れだと思うと寂しくもなり涙が出てきた。

兄も姉もどこにいつ散骨するのか聞いてこなかった。ひとりぼっちのお葬式なんだとわかった。小河内岳を見れば父を思い出す。そうすると、ここは父のお墓だった。

なるほど、山好きの父が散骨してほしいという理由はこういうことか、とここまで来てやっと思い至るのだった。

(2026.10.30 「越路」52、たらたらと読み切り192)

「天国に一番近い村」と日本一高い峠

「三カ月山小屋で仕事して、年末年始とゴールデンウィークも合わせると、120日くらいはここで仕事することになる」

 三伏峠小屋の小屋開けの準備のために、事前に4人で峠まで上がった。小屋開け前に、水源地からポンプ小屋まで水を引く作業と、太陽光発電のパネルの覆いを取り外して、小屋の前で休んでいた。梅雨の中休みのお日様の光が心地よくて言葉が漏れる。小屋開け前の平日なのに、登山者の姿もテントもあった。

「山の人になっちゃいますね」

 作業に上がった人たちは、小屋番や設備の整備などで以前から小屋にかかわりある人たちだ。歩いて山に登らないと職場に着かない仕事なんて、好き好んでくる人のほうが少ないので、程度の差じゃないかなと思う。

 今年から三伏峠小屋の夏の管理人を引き受けることにした。

 三伏峠小屋は南アルプスのちょうど中間にある2615mの三伏峠にある。峠は「日本一高い峠」と言われている。塩見岳と小河内岳を経て荒川三山に向かう登山の基点となる。周辺に里に降りる道がほかにないため、登山者が集中する。

そのため、小屋の収容人数は100人程度で、幕営地には連休ともなるとすし詰めのテント村が現れる。一昨年、前の管理人さんが引退した後、管理人不在で昨年一年回していたのが、やはり管理人がいるということになり、オーナーに頼まれて引き受けることにした。

この小屋は里にある山塩館が経営していて、現在の社長で4代目になる。昨年までは山小屋の手配は3代目の会長さんがやっていた。こちらも代替わりになった。

村の人が管理人をする小屋があることで、村の人と登山者のつながりができるといいと思った。大鹿村は以前は、小渋川を溯った先にある広河原小屋と、そこから尾根を登った先の荒川小屋を持っていたのが、村は経営を手放し、荒川小屋は現在静岡側の会社の経営になっている。また、三伏峠に行くルートは、現在の鳥倉ルートのほかに、塩川ルートもあったものの、林道の不通で塩川ルートは10年以上不通となっている。おかげでここにあった塩川小屋も営業をやめた。

現在村にかかわる小屋は、三伏峠小屋と広河原小屋だけで、広河原小屋は無人のため、営業小屋としては三伏峠小屋だけになった。前の管理人さんも、大鹿村出身の人がしていた。今年から昨年一年小屋を回した椎名さんも村に引っ越してきた。今のところ、小屋でバイトすることでもないと、登山者は登山口に直接行くだけなので、村の人は登山者と接点がほとんどない。

営利事業とはいっても、山小屋には公益的機能があると最近では強調されることが多く、それは国立公園のサービスを担う側面として法にも定められている。コロナ以後、山小屋利用の登山者は減っている。山があることが村の人にとってもいいことだという感覚が育たなければ、経営も管理も意義は感じにくくなる。村の人にとっては、夏にお祭り騒ぎをしているだけで、登山者は、車の往来で騒々しいだけの、時に迷惑な存在とも受け止められる。そしてぼくは村人で登山者だった。とはいっても、現場のことは椎名さんのほうが詳しいので、椎名さんはマネージャーとなり、ぼくは今年は管理人の見習いだ。

三伏峠の登山口は、日本で一番3000mのピークに近い集落の釜沢がある。そしてうちは三伏峠に一番近い民家でもある。ここは「天国に一番近い村」だ。

この時期、朝5時に起きて田んぼに行く。

水を入れて田車を押したり、草を刈ったり農作業をして、家に帰って朝ご飯を食べる。原稿書きやら仕事をして5時になったらやめて晩御飯を食べて8時には寝てしまう。一人だと買い物や家の中のこともいろいろある。昼間は忙しくて平日は疲れてしまう。

夏になるとそんな感じが9月ごろまで続いていた。本業はライターなのに、一年の3分の1は山で過ごしている。

年を取るごとに、年々生活平均高度が上がって行って、今年はもしかしたら2000mくらいじゃないだろうか。田んぼを続けていたのも山小屋の管理人を引き受けられなかった理由だった。結局、入山までギリギリ田んぼをして、上にいる間の水の管理は、お金を払って村の人に頼むことにした。

春先に小さな畑に苗を植えたり種を撒いたりした。だいぶ大きくはなってきたものの、まだ食べられるのは小松菜くらいしかない。だいたい毎年真面目にやってなかったのが、今年はもう来週は家を離れるので、せっかく植えたのに食べごろには小屋にいる。山に行く前に書こうと思っていた原稿も結局書かず、でも毎週一応はどこかの山に登っていた。

静岡県で今月にもリニアの工事が始まるのではないかとも言われていたので、署名活動を始めてみた。せいぜい1000筆も集まればいいかなと思っていたのが、思いのほか反響があって、2週間で1万5000筆を超えた。そっちにも手を取られる。

1年以上延期していた、死んだ訴訟の原告仲間の墓参りに、車で富山に行った。お母さんがまだ健在で仲間が死んだあとに仲間になった。ぼくの両親より年長だ。そのまま大阪で討論集会に出る。慣れないことをしたからか、目的地の駐車場に入る手前で、一時停止の反則切符を生れてはじめて切られる。

この間やってることを並べるだけでも、案の定慌ただしい。こんなはずじゃなかった。山小屋に入るまでは原稿書きに専念しようと思っていたのが、単行本の仕事は止まってしまう。

母は最近大分に帰ってくるように促していた。83歳になる父の容態はあまりよくないらしい。昨年末に帰ったので、まだ先でいいんじゃないかなと思っていたら、母から電話がかかってきた。ガンが再発してあまり長くはないという。

覚悟なんてしてなかったにしろ、生きているうちに聞いておきたいこともある。実家に預けていた時期もあったので、ぼくの子どもたちに会わせられないのを考えると、心残りの思いは募る。だけど、「人はずっとは生きられない」。そう口にすると眠くなった。

来週から山に上がる。散らばった日常はうっちゃったままだ。だからといって、天国まですぐに上がれはしない。

(2026.6.23 越路51 「たらたらと読み切り」191)

「伊那谷民族解放戦線」

「大鹿村にないものは、コンビニと信号と人権です」

 連休に三伏峠小屋に手伝いで上がると、小屋番3年目で今年から大鹿村で暮らしはじめた椎名さんが、山小屋仲間にそう説明していた。

 コンビニと人権がない地域はどこにでもあるけど、島でもないのに村に信号がないところはあまりない。信号なんかできたら切符切られる理由を警察に与えるだけだ。一番交通量の多い役場のそばの落合の交差点には一時停止の停止線もない。切符をやたら切りすぎる駐在は苦情が来て交代させられるみたいだ。ただ単に人口が少ないだけかもしれない。

 夏シーズンに今年最初に山小屋に上がったのは7月の海の日の連休だった。このときはちょうど参議院議員選挙の最中で、連休中日が投票日だった。公選ハガキも来ないけど、ダム反対で現地で暮らす友達から、ほかにダムのことで質問してくれる人いないから嘉田由紀子に入れてくれ、とお願いされた。「維新かあ」と思いながらほかに入れたい候補もいなくて共同親権の件では知り合いだし、全国区は入れた。長野県区は世襲の立憲と同じ大学出の女性の元外交官。それに参政党とチーム未来だった。

秘境の選挙掲示板にも初日から参政党候補者のポスターが貼ってあった。勢いがある。一週間ほどしてチーム未来の候補者が貼りだした。どっちにしたって、中央政府の連中がこの辺で暮らす人に目配せする政治をするなんて想像できない。大鹿村に選挙カーが回ってきた記憶もない。考えるのめんどくさくて白票。

期日前投票を役場ですませて小屋に上がると、「投票用紙は来ません」と小屋番仲間たちから言われる。「投票用紙も投票箱もないんだね。刑務所でも投票できると思うよ」とぼくが言うと、「ここには人権ないんだあ」と相当ショックを受けていた。

歩荷さんも登ってきて、山小屋は連休中お客さんもスタッフも大人数で賑わった。それでも昨年の繁忙期のように、テント場にテントが収まりきらず、小屋の周りまで張ってもらうような事態にはならなかった。全員忙しく動き回って月曜日の海の日の朝は選挙も終わっていた。

イーロンマスクのおかげでスターリンクの山小屋WiFiはこの小屋にもある。朝の食事時に厨房でみんなでスマホ動画で選挙結果を見る。参政党の議席が二桁になっている。

「おれ言ってなかったけど実は参政党の党員なんだ」

 同年配の歩荷さんがしゃべりはじめる。

「参政党の党員ってどうやったらなれるんですか」

 とりあえず聞いてみる。

「ネットで1000円払うだけだよ」

 すでに飯田下伊那地域で参政党の党員は数百人規模になっているという。共産党なんか凌駕している。後で調査結果を見ると、ユーチューブ動画の再生回数は長野県でも参政党が一番多かった。候補者もそこそこ票を獲得している。

「やっぱ神谷さんだよ。日本人ファーストだって」

半年前は「やっぱ国民民主だよ」って言ってた気がする。

「でも日本人だけで考えたらぼくたち多分ファーストにならないと思いますよ」

 ぼくも歩荷と小屋番の手伝いをしにくるけど、世間的にはファーストだと思われていない仕事の地位向上が「日本人ファースト」で実現するとは思えない。

「それよか、ぼく『長野県民ファースト党』を作りました。入山料を都民から100万とりましょう。それで歩荷のキロ単価1000円にします」

 40㎏上げたら4万円。

「党費いくらなの」

 ちょっと乗ってきた。

「1000円です。野口健が日本も外国人から入山料ヒマラヤ並みにとれって言ってんじゃないですか。長野県独立するんです。富士見で国境管理して入国1人2万円とりましょう」

「党費参政党と同じじゃん。入るよ」

「チョロいな」

 投票できなかった外野が冷めて突っ込む。

「いやでも今んとこ宗像さんだけでしょ。もうちょっと大きくなったらやっぱ考える」

「はい、掃除掃除……」

 ぼくは連休に山小屋に上がって手伝っている。今年はお盆にも上がって人員が増えた分、ほかのスタッフがお盆休みを取っていた。お盆の15日には、大鹿の南隣の遠山谷の木沢小学校に事務所を置く登山家の大蔵喜福さんを呼んで、「ガイドブックにない道」というテーマで対談イベントを小屋前の東屋でした。ヒマラヤやデナリなど海外の記録を多く持っているけど、今は携帯トイレを普及させての「エコ登山」というのを、大蔵さんは聖岳や光岳で広めている。

南アルプスは3000mの稜線が県境になっている。だけど大蔵さんの話を聞くと、長野県側の遠山と静岡県側の井川では人の往来がかねてからあって、「日本のチロル」と呼ばれる険しい傾斜に、坂畑と家々が散在する下栗の里の人たちも、井川から来たのだという。歩けば沢伝いに2日かかる行程も、焼畑が生業の暮らしでは一連の山並みに見えるのだろうか。

近所に暮らす方が世界中を旅した人でタイ・ビルマ国境のカレン族のことにも詳しく、『森の回廊』という本を貸してくれた。著者の吉田敏浩さんは立川反戦ビラ弾圧のときに取材に来てくれたフリーのジャーナリストで、一時越路の前身の「並木道」も購読してきれていた。

めぐりあわせだなと思って読みはじめると、「少数民族」と呼ばれる人たちが、かねてから暮らすところに国境が引かれ、それぞれの政府から遠い地域は辺境に勝手にされる。それが迫害の理由にもなる。でも人々は、道の真ん中に引かれた国境を縦横に行き来して暮らしている、という。

飯田市出身の大蔵さんも「天竜川の西岸は中央政府が押さえ、東岸は伝統的に反乱軍の拠点」とぼくが飯田の人に聞いた説明をすんなり受け入れて、当日も登山者たちにしゃべっていた。大蔵さんが拠点にする木沢小学校のゆるゆるの雰囲気に「日本の解放区」とぼくが雑誌で付けると、出入りのおじいちゃんたちに大人気の呼び名になっていた。

もはや中央の政党政治が安定的な状況ではなく、選挙結果は民衆が乱世を選んだことを示している。山岳地域に暮らす人々は、世が乱れ、中央権力が割れるとバランスを取る役割を伝統的に果たす、というのは、在野の古代史研究家の藤島寛高さんが言っていたことだ。

大鹿村は後醍醐天皇の息子、宗良親王が30年間拠点を置いた。圧倒的に劣勢の中、「南北朝時代」と呼ばれる時代を画して南朝が生きながらえるのも、山岳地域の住民の支持なくして不可能だった。

朝の掃除の時間、そんな話を布団をたたみながら小屋仲間に話した。

「ああそれミャンマーとかそうなってますよ。軍事政権と民主化勢力、少数民族の三つ巴で争ってますからね。旅行するとあちこちに料金所が設けられて金をとられる」

 料金所を設けて活動資金にするというのは、伝統的な反乱軍の手法なんだろう。秩父あたりじゃ、夜中になると暴走族が勝手に料金所作って金取ってるって話を聞いたのは、ぼくが学生のころだ。

 とりあえず実行部隊の名称に「伊那谷民族解放戦線」とつけてみた。

(2025.8.22、「越路」46、たらたらと読み切り186)

ついに「嵐」となった共同親権について、本気で考えてみようというすべての活動家へ

評者の森さんは、三多摩の運動仲間で20年来の友人です。三多摩労働者法律センターの「運営委員会ニュース」に『共同親権革命』の書評を書いてくれました。 昨年たたかっていたのは、子どもに会えない親たちだけではありませんでした。それを知ってほしくて、本人の許可を得て掲載します。

宗像充『共同親権革命 民法改正と養育権侵害訴訟』

購入は直接本人まで→munakatami@gmail.com @は英数文字

裁判が負けたのは悔しかったけど、民法改正は実現した。単独親権制度から共同親権への転換は革命的な発想だと今でも思っている。だけど子どもの前に立ちはだかった国と制度の介入を排除し、困難に陥ったすべての親子が関係を取り戻す道筋をつけることはできていない。

四六判、1800円、自費出版

2024年5月、共同親権に関する改正民法が成立。
前後して、単独親権民法の違法性を訴え、国に償いと謝罪を求める訴訟が行われていた。

ぼくたちは何を目指したか?

Ⅰ 共同親権運動とは何か
Ⅱ 国を訴えろ 共同親権訴訟の歩み
Ⅲ 民法改正と立ちすくむメディアたち
Ⅳ 「差別的取り扱いは合理的」対ちゃんと共同親権

辛酸の旅

 大鹿村に来たのは2016年のことだ。娘が千葉にいたので、当初は学校行事などにも頻繁に参加し、同時に月に1度の子どもに会えない親たちの自助グループを都内で開催してきた。娘も成人し、2019年から続いてきた単独親権制度の改廃を求める国賠訴訟もこの1月に負けて終わっている。先日その総括会議を都内で行って会の解散を決めた。東京はいよいよ他人の土地になったのだろうか。

 その会議の後、平日の1日を使って都内の山の店や自然保護団体の友人のもとを訪ねた。理由はぼくの暮らす大鹿村内で工事が続いているリニア新幹線の反対の集会を松本でするので、チラシを置いてもらったりその支援を求めるためだ。

 この工事はぼくが2016年に引っ越してきた年に着工している。よく「リニアに反対するために引っ越してきた」と言われることがある。ぼくが大鹿村に越してきたのは村の女性と結婚したからで、それも2020年に別れている。彼女がリニアに反対していたので半分当たっているけど半分外れている。

 その後「お前どうするの」といろんな人に聞かれて、ここにいる理由が「ほかに行くところがないから」という言葉以外に出てこなかった。

 それから5年が経ち、ここで一人暮らしをした歳月のほうが長くなっている。田んぼなんか一人でできるのかと当初思ったけど、東京の友人たちの手を借りたりして4回もできた。山小屋のバイトから冬期営業も始めるようになって、そんな暮らしも悪くないよね、と思えるようにもなってきた。

 別れた後はリニア反対の運動にもちっとも手が回らなかったけど、JRは相変わらず地元を無視して有害残土を起き、ダンプを走らせ、愛着の深まった南アルプスには穴が開けられ続けている。忌々しいと思っても、村で目だって反対の声をあげる人はほかにおらず、助けを求めるのはやはり山やだった。「おれもリニアは反対だから」と集会でしゃべるのを引き受けてくださった。山に登る人たちにアピールする集会を自分で組むのは大鹿村に来たとき以来だろうと思う。

 そんなわけで、仲間と県内の山の店や施設を回った後、東京での滞在をのばしてあちこち人に会って説明した。新聞テレビやネット情報で実際に暮らす人の心情までは伝わらない。国策に不都合なことを大手メディアはなかなか取り組みたがらない。それでも、共同親権を日本一毛嫌いした信濃毎日もわりとリニアのことはわりとやる。山やが中にいるからだ。

 自然保護団体にいる山の仲間がポスターを黙って引き取ってくれた。家族や仕事の事情で忙しいというのに会いに来てくれてとりとめのない話と村の話をいっしょにしてくれる人もいた。橋を待ち合わせ場所にしていたら、鵜が一羽羽を伸ばし、船に乗った2人が楽しそうに話していた。釣り好きの兄の影響でとにかく川を見るのが好きだ。

 橋の上はセカセカとした人たちばかりで、ぼくがのんびりと鵜を見ていると、何かいるのかといっしょに川を見下ろす。鵜や船の人たちは、計画性の上に人々や自然をひれ伏せさせる現代文明の楼閣が、実はそんなものは蜃気楼だと教えてくれる。つまらないものを見たと思ったろうか、それともぼくが止まって感じた橋の揺れを同じく感じただろうか。

 子どもに会えなくなった親たちと山の仲間と一見接点はない。だけれども、まっとうと呼ばれる社会生活と遠く離れた部分に足を踏み入れ、まったく別の世界の存在に気づいたという点では同じだろう。それを深淵と恐怖するか、パイオニアワークの平原と歓喜するかは人による。

 東京にいる間、足尾鉱毒事件の被害を訴えるために上京し、大杉栄やらの活動家や支援者を訪ねて歩いた田中正造のことがちらちらと頭によぎった。リニアの環境や生活被害も公害だ。正造は自由民権運動で勝ち取った帝国議会に衆議院議員として乗り込み、足尾鉱毒事件を訴え、やがて下野して家を強制収用されて穴居生活を送る谷中村の人々と暮らしている。村を危機に導いた権力中枢の街を行き何を思って人を頼ったのだろうか。

 ぼくは2022年に地元の郷土史家の赤神剛さんに案内されて、谷中村から足尾まで雑誌の取材で訪問している。谷中村の解説看板には、大杉栄と伊藤野枝の訪問についての記述もあった。このとき赤神さんが紹介してくれた本に城山三郎の『辛酸』という小説がある。この小説は前半は正造の生涯を、後半は正造亡き後の谷中村の住民たちのその後が描かれている。今は渡良瀬遊水地になっている場所は、その後も住民たちの生活権のための抵抗が続き、共同墓地の前で旧住民が重機を止めたのは1972年のことだ。

 社会問題への取り組みで何かを成し遂げるということは、獲得目標という点では重要なことだ。しかしそれよりも大切なのは、心を動かされた人々の記憶や経験であり、そこで伝えられ引き継がれていくものではないだろうか。

 このときの旅で一番驚いたのは、足尾の街で入った食堂で赤神さんが「おやじ何でここにいるの」と声をかけられたときだ。たまたま友人と旅をしてきた息子さんが隣にいたのだ。それは偶然であり必然でもあったと思う。正造の事績を掘り起こし顕彰する赤神さんがいなければ息子さんはここにはいなかったからだ。

 誰かの記憶に自分を残したいと願うことでは、人の心に残りはしないということを、おそらくそれは、物語っている。

 

中日新聞への抗議文

中日新聞「人生のページ」ご担当者様、代表取締役社長大島宇一郎様

 私は、2月2日と2月9日の「人生のページ欄」に弁護士の太田啓子氏が「誤解だらけの共同親権」というタイトルで寄稿した件について、2月13日に中日新聞に質問という形で意見をさせていただきました。2024年10月13日と27日に原稿依頼を受けて私も同コラムで原稿を書きました。

この度、ご担当者様より「掲載の意図や経緯、見解などを説明することは控えさせていただきます」という回答拒否の書面をいただきました。理由は、「もともとこの「人生のページ」は、人生について考えるきっかけとなりそうな話題やテーマを、さまざまな立場の方に、ご自身の生き方や体験などを踏まえて書いていただき、読者に提供するというのが趣旨です。」とのものでした。

 ところで、これは理由に当たらないことは、私が指摘した太田啓子氏執筆の記事について、「ご自身の生き方や体験」が一切ないことを踏まえれば、中日新聞も十分に分かっておられることと思います。

 以下の内容は中日新聞への抗議となってしまうのが、本当に残念です。

 一つには執筆依頼者に対する度を越した中日新聞の尊大な態度です。

 私はすでに後半の記事を12日に書き終えて添削を終えた時点で、前半の記事が13日に掲載され、その後後半の記事は一週間掲載延期となりました。理由は私が私の個別事情や前半記事中の記載の真偽について中日新聞から膨大な説明を求められたからです。質問には執筆依頼者への不愉快な内容もありましたが、私は自分の体験を語ることは社会的意義があると思い、裁判の審判書きまで提示し、司法統計や国会答弁による裏付けを付し、回答することで、後半の記事を大幅に書き換え中日新聞の要請に応えました。

 ところがその後、私がした説明を無視して、それとは相いれない太田氏の主張を載せました。今回の回答拒否は、内容以前の問題として、太田氏より原稿依頼をした私を低く扱ったという以外に説明のしようがありません。

 さらに一つには、離婚経験者や子と離れて暮らす親への差別です。

 私の原稿と太田氏の原稿の決定的な差は、司法に行って手続きをとれば子に会えるかどうかの現状把握です。私はこれに対して司法統計の根拠をあげて返事をしました。費やした時間は3日以上です。

これについては、民法改正の議論において子と引き離されたか否かの立法事実にかかわり、中日新聞は司法に行けば会える、との無責任な識者のコメントをこの間垂れ流し、私どもの国賠訴訟の会も質問したことがあります。しかし、中日新聞は事実の指摘に対し、頑なに司法に行けば会える、との主張を垂れ流し続けました。

 昔水俣病患者たちは、チッソの廃液に水銀は含まれていないとの風評に悩まされ、街を発展させたチッソを批判するのか、と孤立させられました。その間多くの被害者が出続けました。中日新聞が共同親権反対でなしたキャンペーンは、それらと同様の行為です。

実際、私と同様に子と会えない親たちが毎年命を絶っています。被害者を罵倒差別するものにほかならず、それは迫害であり報道ではありませんでした。汚点だったと思います。人倫に反した会社にこのような辱めを受ける覚えはありませんので、原稿料はお返しいたします。週明けに郵送しますのでご査収ください。

中日新聞から受けた質問(2024.10.17)

宗像のコラム(上)が10月13日に掲載された後に以下の質問を中日新聞から受け、掲載が一週延期になりました。

■宗像充さんに確認をお願いしたい内容

・今回、東京新聞に原稿が載ることを、元妻の方には伝えていますか。
・人身保護法による引き渡し請求が認められるのは、一般的には相当な事態ですが、元妻の請求が認められた理由はなんだったのでしょうか。
・「娘は元妻の再婚相手の養子とされ、会えなくなった」とありますが、子どもが実子であれば第三者の養子になっても面会交流は請求できるため、養子縁組は面会できなくなったこととは関係ないはずだという指摘がありました。会えなくなった理由は何だったのでしょうか。
・「日本で司法に訴えても面会交流の約束を取り付けられるのは5割」の根拠となるデータは何でしょうか。
・「裁判所ではいまも元配偶者(やその夫)がマジックミラー越しに監視する中、子と会うよう仕向けられており」と書かれているが、面会交流でそのような仕組みはないという指摘があります。面会交流そのものではなく、試行面会のことでしょうか。
・「『会いたかったら運動をやめろ』と親権者が子を用いてする人質取引」とは、どんなことを指すのでしょうか。元妻側からそのような取引を持ちかけられたということでしょうか。また、「運動」とは共同親権を求める運動のことでしょうか。
・2カ月に1度の面会交流を月1回にするのがなかなか認められなかった理由は何か。裁判所からはどんな理由を伝えられていたのか。

「人生のページ」中日新聞からの回答

太田啓子氏の記事掲載に対してした質問に対し、中日新聞編集局読者センターからの回答です。

以下。

宗像充さま

お問い合わせありがとうございます。

宗像さまに寄稿をお願いしたときにも担当者から説明があったかと思いますが、もともとこの「人生のページ」は、人生について考えるきっかけとなりそうな話題やテーマを、さまざまな立場の方に、ご自身の生き方や体験などを踏まえて書いていただき、読者に提供するというのが趣旨です。

宗像さまのご意見はご意見として受け止めますが、ひとつひとつの記事について、掲載の意図や経緯、見解などを説明することは控えさせていただきます。

質問内容については以下です。なお、2月14日付で中日新聞に対しては、太田啓子氏の記事掲載に至った経過について問う追加質問を送っています。

拝啓 中日新聞様 2月2日、9日、「人生のページ」について

中日新聞「人生のページ」ご担当者様、代表取締役社長大島宇一郎様

長野県下伊那郡大鹿村大河原2208  宗像 充

お世話になります。私は単独親権違憲・違法の認定を司法に求めた国家賠償請求訴訟の原告で、10月13日と27日の貴紙「人生のページ」欄に上下2回で「親子の面会交流 共同親権で解消なるか」というタイトルの原稿を書かせていただきました。

2月2日と2月9日の「人生のページ欄」に弁護士の太田啓子氏が「誤解だらけの共同親権」というタイトルで寄稿しております。私は中日新聞に原稿依頼をされて何度も修正を求めた上で原稿を書いたため、その記載や根拠をまったく無視して太田氏が書いた原稿を中日新聞がそのまま掲載した経過に、相当にびっくりしました。そこで、質問という形で意見をさせていただきます。2月28日までに貴紙の真摯な回答を求めます。

1 10月13日の私の原稿では「日本で司法に訴えても面会交流の約束を取り付けられるのは5割。それも会える保障はない。」とあります。一方で、太田氏は2月2日の原稿で「面会調停・審判の運用において、家裁はよほどのことがなければ別居親と子の何らかの交流を命じている。認められないこともあるがその理由は個々の事案次第で、虐待DVが背景にあることもある」とあります。

 私は「5割」という数字の根拠は中日新聞に説明しております。しかし太田氏は、何の根拠もなく先の見解を述べました。中日新聞も何の説明もしていません。これは私の見解を否定するために太田氏の主張を誌面化したと読者は受け止めかねません。かつ私は虐待やDVの加害者と読者が受け取っても私は抗弁ができません。中日新聞の意図はそういうものでしょうか。

2 対抗言論として、太田氏の原稿を中日新聞が掲載することはありえることですが、であれば、私の主張を踏まえ、それを引用する形で根拠を示しながら反論をするのが本来です。ところが私も紙面で触れたように、司法は私たちの訴訟で、婚姻外の親の「差別的取り扱いは合理的」と述べて、法制度や政策によって、非婚(離婚・未婚)のへの差別を公然と認めており、「その理由は個々の事案次第で、虐待DVが背景にあることもある」とする主張は当たりません。

この裁判は1月22日に上告棄却で確定し、太田氏の原稿が出るまで中日新聞は十分に取材する時間がありました。中日新聞はそれらについて自分で調べなかったのですか?

3 2月9日の太田氏の原稿において、協力できない元夫婦の共同親権が子の不利益になる根拠として「日本の離婚のほとんどは裁判所が関与しない協議離婚なので、共同親権にすべきではい事案を当事者が共同親権にしてしまうことについて専門家がチェックする仕組みがない」と述べています。

 法制審議会の審議において、離婚時の養育時間の分担や養育費についての検討がなされました。その際、共同親権への民法改正を求める人たちは、それらの取り決めを養育計画として義務付けることを求め、共同親権に反対する人たちは離婚がしにくくなるという理由で、養育計画の義務化に反対しました。

中日新聞はそのような法制審の議論の経過については知らなかったのですか。

4 私は10月13日の原稿で「司法で情勢が親権を取る割合は94%に上る」と触れており、一方で、太田氏はそれはジェンダー平等の問題ではないと否定しています。中日新聞はこの現状に基づいて現状のように女性が親権を持ち続けるのは望ましいと考えて、この見解を私の見解の後にあえて載せたと考えてよいでしょうか。

拝啓 信濃毎日「ともにあたらしく」取材班様

ご担当者様

大鹿村に在住の宗像と申します。
共同親権訴訟の原告として、信濃毎日に度々紹介していただきました。ありがとうございました。

1月30日号の冒頭にジェンダーを地域から考えるテーマでの特集が組まれ、意見募集があったため、感想と意見をお送りします。

ぼくたちは、共同親権訴訟に取り組み、先日1月22日に最高裁から門前払いの決定を受け、信濃毎日からも取材を受けました。東京の記者さんには、「親権問題はジェンダーの問題」と説明しておきました。

今回の企画では結婚で改姓した女性が94.5%で、改姓を余儀なくされた女性について、ジェンダー問題の典型的な事例として取り上げられています。
姓の問題はもっぱら女性のジェンダーの問題として取り上げられ、大方ジェンダー問題に取り組む人も女性が多いのですが、親権についても、司法で94%の割合で女性が親権者に指定されます。

結婚は、入り口と出口で性役割を規定しますが、ジェンダーの問題に熱心な方ほど、共同親権を敵視してきました。
信毎でも共同親権に反対の論説を5回も出したため、昨年原告男女で抗議に伺いました。

憲法に訴えた訴訟で下級審は、非婚の親の「差別的取り扱いは合理的」と言及していました。この問題では憲法学者の木村草太などが、司法で会えない割合は1.7%と会えない親が問題であるかのように述べていますが、面会交流の申立件数のうち取り決めできる割合は司法統計では5割なため、ウソであると同時に、司法もこれが制度や政策上の差別であることを認めています。

DVを理由にこの問題に反対してきた信濃毎日の記事について、それが母性神話であることを論説主幹には説明しておきました。DVの被害割合は別居親、同居親ともに7割で変わりません。

前置きが長くなりましたが、記事を読んでの感想は、両論併記で親権問題について一方では人権問題、一方では共同親権は危険な制度、と読者を明らかに惑わせる記事を量産してきたのですから、きちんとジェンダーの視点から実子誘拐や親権問題について説明をする責任があるのではないかというものです。

女性が名前を奪われ人格を損なわれたと感じるなら、男性もまた(女性も)、子を奪われ親としての人格を奪われたと感じるというのは、別姓の問題を深刻に感じれば当然だと思いますが、男性が子を奪われるにおいては「女性が子を見ているんだから」という、無責任な主張が、別姓運動の方から散見されます。

夫が妻を殴れば暴行罪です。当然ながら母親が子を連れ去っても誘拐罪です。そう考えられないのは家制度が思考に浸透しているからです。

記事では家制度は廃止されたとありますが、廃止されたのは戸主制と家督相続で、夫婦と未婚の子をベースとする戸籍制度が家制度として存続し、したがって、家制度に基づいた同氏の法律婚を優先するため、婚姻外の単独親権制度への批判は戦後の民法改正議論の中で重視されませんでした。

寅に翼の主人公はじめ、女性たちが求めてきたのが共同親権ですが、親権取得の割合が逆転すれば共同親権に反対するなど、ジェンダーを都合よく利用していると言われても仕方がないと思います。

上記は、この間の親権と同姓婚に関する議論から必然的に今後議論が生じるものですが、家制度は世襲制度のために必要とされるわけですから、そこに切り込まない選択的夫婦別姓にみなさん共感を得にくいのは一定理解できることです。

ぼく自身も子どもに会えない問題を17年取り組んできて、単独親権制度は男性の養育障壁なのに、女性たちは養育の機会均等に道を開く共同親権に反対して、職場で平等なポジションを得るなど、実際問題男女ともに難しい、と何度も指摘してきました。

信濃毎日の妨害活動のおかげで、ぼくたちの訴訟は敗訴に終わり、成人した自分の子どもとも再開できる見込みが立ちません。これらは家制度の意識が深く作用した結果だと思いますが、ジェンダーに取り組む方々も結局家制度に根付いた母性神話の枠組みの中での男女平等しか考えられないんだなというのが、信濃毎日の記事を見ての感想です。

親権問題と別姓問題について、家制度の観点からきちんと取り上げる記事を作って問題提起をし、混乱させた読者に責任を果たすのは信濃毎日の仕事だと思います。いつでも取材に応じます。

以上感想でした。