その日は午前中に好天予報が出ていた。雨ばかりの日が続いた9月だった。3度も小屋を数日離れていたので、その日を逃せば下山するまで出かけられそうになかった。荷物に小さな骨壺を入れて小河内岳に向かった。
父が亡くなったのは8月の末のことだった。
一昨年にガンの手術をして、それが今年再発したのがわかった。6月末に三伏峠小屋の管理人として小屋に上がる直前だった。電話の向こうの母の話によれば、長くて半年だという。社長に無理を言って入山して一週間で休みをいただいて、実家のある大分を目指した。
毎年、三伏峠の手伝いに繁忙期に小屋に上がっていたのが、今年は管理人として6月の末から9月の末まで3カ月間小屋にいた。
いるのが管理人の仕事なので、いくら父親の先が長くないといっても、小屋を留守にするのは気が引ける。小屋の予約が少ない日を選んで離れたとはいっても、小屋を空ければ社長が代わりに登ってきたのでなおさらだった。かといって帰らないという選択肢もこの場合取りにくかった。
2615mの三伏峠から大分の実家に帰るにあるのは標高差だけじゃない。調べてみると、朝早く小屋を出れば夜には実家に着くことがわかる。登山口まで1時間半歩いて車に乗って自宅に立ち寄る。身支度をして再び車に乗ってお隣の松川町のインターまで行く。高速バスに乗って名古屋まで行く。新幹線に乗り換えて小倉まで行く。大分行きの特急に乗って、さらに大分から普通車で30分。犬飼駅に夜8時過ぎに着く。迎えは来ないので、汗をかいて坂を登り、歩いて15分で玄関の引き戸を開ける。
昨年手放したので、何代かにわたってずっといた犬の出迎えもない。「ただいま」と言って居間に入ると、母に「あんまり大きい声出しなさんな」という。入ってきた姉も「お父さんが寝てるから静かにして」という。じゃあ呼ぶなよ、と思う。翌日父親が救急車で病院に運ばれるまで口をきかなかった。親が死ぬときって、遠くから帰っても、誰も歓迎しないんだなと思った。兄は仕事が遅くて帰ってこない。
その日、父は容態が悪くて、お隣の大分市の大きな病院の、緩和ケアの病棟に入っていた。姉はこの日東京に戻ったので、母と病院に行った。何日も休めないので、翌々日にはぼくも山小屋に戻らなければならなかった。父は「話がある」と母に席を外させて、ベッドの脇に呼び寄せた。
骨と皮の姿になって、何を言うのかと思ったら、「お前は人前で疲れたとか言うな。みっともない」とか説教が始まった。「充はおれの言うことはきかん」と周りには言っていたようなので、今まで説教されることはあまりなかった。説教って、聞いてるほうは早く終わんないかなとしか思わない。親が死に前でも多分それは変わらない。適当に相槌をうちながら我慢して聞いていたら、続ける体力もないのか終わった。
2度目は8月の後半に、もう一週間持つかどうかというので再び帰った。急いで帰る気には今度はならず、大鹿の家で一泊して翌日帰った。今度は頬がこけて骸骨みたいになった父は、また母に席を外させ説教を始めた。「村で対立する人がいても協力しながらやらんといけんこともある」。何を言い出すかと思ったら、村にいる元妻ともうまくやれというのだ。
「いやです」
すぐ言った。死に前なら自分の願望を叶えてもらえると思ってもらっても困ります。父の眉根が明らかにゆがんでいた。この場合、素直に聞くのが孝行とは思えない。
家父長らしく、頼んでもないのに姉には財産管理を、兄には家を、ぼくには自分の希望をと割り振っていた。南アルプスに散骨しろというのも父の希望だ。
「お父さんは、ほかの人には『私が山が好きでしたから、あん子も山が好きで山小屋で働いています。ワガママな奴でしたががんばってます』って見舞いに来た人にはいいよるんよ」
身体がつらい父の八つ当たりに疲れ気味の母は、それでも別室で素直じゃない父をかばっていた。
「それでお父さん、南アルプスに登ったことあったかな」
大鹿村には度々来ていたものの、山に登っていた記憶はないし、実際なかった。ワガママはどっちだよ。
散骨する分と、残りは、自分が死んだらひとりで墓に入るのか、という母の意向を父も聞いて、本家のお墓に入れることにした。父の父は戦死しているので、骨は本家の墓に入っていた。その後父の母は家を出ているので、家に残された父は、戦争孤児と自分のことを言っていた。
父のもう一つのお願いは、そこにあるおじいさんの骨壺の中身を確かめてほしいということだ。明らかに重さがないその骨壺は、死んで80年以上も経ったというのに、誰も中をあらためたことがない。国が自分の父親にどんな仕打ちをしたか知りたい、というのが父の最後の希望だった。
そんなのは自分でやればいいんじゃないか、とは思った。とはいっても、体も弱っているし、自分でそれをやる気力もわかないだろうことはわかるので、それも引き受けた。兄や姉は山にも登らない上、そういうことには興味がない。結局ぼくしかいなかった。
3度目の帰郷は父が亡くなった後だった。母と兄が看取った。自宅に一時帰宅して病院に戻ってしばらくして亡くなったと、山小屋で電話越しに母から聞いた。「お前いつこっち帰るんか」と兄が電話してきて、葬儀等の日程をあらためた。
「急いでも着かんわ。待たんで先にすませてくれたほうがぼくも気が楽よ」
そんなわけで朝の山小屋の掃除をしてから下山した。途中で登ってくる社長に出会って香典を渡された。父親死んだんだなと思った。今度は名古屋に一泊して、翌日の日中に帰ると、父は骨壺になっていた。
近所には由緒あるお寺がある。それが、住職がパチンコをしてそれがもめごとになったらしく、実家は檀家を抜けていた。そんなわけで身近な親族のみで無宗教で葬儀もすませたようだ。位牌もなくて、近所の写真好きの人が撮ったという父の写真が飾ってあった。犬を引いた父はいい笑顔だった。そういえば前はあった仏壇もなくなっていた。その辺はいさぎいい。
ぼくは連絡のつかない子どもたちに3度はがきを出した。姉と兄には子どもはいないので、父の唯一の孫たちになる。結局連絡はなかったけれど、親の言うことを聞くように育てていない。その辺は父もわかっていたことだろう。
父の骨壺は大きいのと小さいのがあり、小さいのがぼくが散骨する分だった。村まで持ち帰って、自宅に置きっぱなしにするのもどうかと思ったので、小屋まで持って上がった。
小河内岳には避難小屋があって、この時期は無人になる。小屋の奥のほうまで行くと眺めがいい。正面に荒川岳が見え、この日は富士山もよく見えた。ここは南アルプスの真ん中だった。骨をそこらの石で砕いた。つかんで空に向かって投げた。これで父とお別れだと思うと寂しくもなり涙が出てきた。
兄も姉もどこにいつ散骨するのか聞いてこなかった。ひとりぼっちのお葬式なんだとわかった。小河内岳を見れば父を思い出す。そうすると、ここは父のお墓だった。
なるほど、山好きの父が散骨してほしいという理由はこういうことか、とここまで来てやっと思い至るのだった。
(2026.10.30 「越路」52、たらたらと読み切り192)

