その日ぐらし村

 「庭にフクジュソウがあるみたいで『ここにあるから踏むな』とか言うんですよね」

 最近村内に越してきた山小屋仲間の椎名美恵さんがうちにやってきて、お茶を出すと村の驚き体験を披露してくれていた。

「私が家主なのに何でそんなの言われるんだって……」

近所の人たちのペースに合わせてたら、引っ越し作業はどんどんずれ込み、その上家主なのに自分ちの注意を受ける。

「ぼくも家で電話出てるときに上蔵(わぞ、この集落)の人がやってきて、『今電話出てます』とか返事したら『電話なんか切っちまえ』って言われたからね」

 ギャハハと椎名さん。

「そういうの楽しめないと大鹿にはいれないんだなあ」

という彼女に「大鹿外国だからね」と説明したら肯いてた。最初から異文化なら「こんなはずでは」という程度も小さい。

ちなみにそのときぼくが玄関先に出ると、広報物を手渡され、うちの庭先の丸太を見てその人は「カラマツは腰掛けにはダメだ。とげが刺さる。カラマツはやめとけ」とひとしきり講釈を垂れ去っていった。

頼んでもないのに勝手に保護者になってお節介をお節介とも思わない。そこそこのところで「自分はそういうの無理なんで」と言えない人はたしかに苦労するだろう。

周囲に合わせて保護者たちの助言に従い、最終的には有力者の言うことを聞けば、それはそれでとりあえずは波風は立たない。だけども周囲に合わせるのに疲れて何のためここで暮らしてるんだ、と思う人が都会を離れて田舎暮らしをはじめるわけだから、そこはとりあえずもめごと必至なわけだ。

昨年4月から1年間、自治会長の役が回ってきた。上蔵には5つの班があって、順番にお世話班を回していて、お世話班が自治会長を出す。ぼくの暮らす峯垣外班ではさらに自治会長は中で順番で回しているから、20年か25年周期で自治会長は回ってくる。その1回目がうちにきた。

年に一度の村集会(上蔵の人は「村」と呼んでいる)の前の班長会で自治会の役を決める。班長会で決めればみんな従うのが以前のルールだったようで、ぼくも引っ越した一年目にいきなり役を告げられた。事前の依頼で決まらなかった役をその場で決めて集会で告げると、「聞いてない」「根回し不足だ」と大もめにもめて、まあ21世紀だしね、と思いはするけど、その間の調整に右往左往するのが自治会長の最初の仕事だった。

お世話班と自治会長の仕事はやってみると、役場の下請けの割り振りと、お祭り等のしきたりの段取り、がほとんどで、どんど焼きにしろお祭りにしろ、別にぼくがあれこれ指示しなくても村の人が勝手に動いてくれる。

ぼくが自治会長権限でやったのは、前年はまったく呼ばれなかった空き家対策の会議の様子が前任者からの引継ぎでは全然わからないので、村の担当者と決めて委員会として立ち上げたことと、コロナで途絶えていたお祭りの直会(神事後の宴会)がやるやらないでもめそうだったので、「やったほうがめんどくさくない」と実行したことぐらいだ。

ちなみに前年呼ばれなかった空き家対策の会議は有志でしていたけど、ぼくが呼ばない理由を「宗像さんはほかの人と仲良くしないから」とみんなの前で言われたことがある。自由だなあと思ったけど、次の会議で「自分のことをすぐに理解してもらおうとか思うてませんよ。そういうこと言われるとつらいわあ」と言いはした。

東京から越してくると、都会の人、ぐらいの印象は持たれるのだけど、実際はぼくは田舎育ちだ。親戚がいたとはいえ、父と母は農家ばかりの9軒の集落へのはじめての移住者だ。一升瓶を持っていったりとなにかれと周囲に気を使っているのを見ている。ぼくたち兄弟も、放し飼いのポチが隣の畑を荒らすと、「謝ってこい」と父の命令で隣のおばちゃんに頭を下げにいく、なんていう今考えると理不尽な体験もしてもいる。

ぼくがここで暮らし始めたとき、母は「部落んし(人)に歯向かうなよ」とありがたい助言を下さっている。父と母は今では長老格になっている。

退職してから自治会長をしていた父に大分に帰ったときに村のもめごとの話をしたら、笑いながら「上津尾(こうずお、実家の集落)でんみんな今も好きなこと言いよるわ。それでん部落っちゅうのはおもしりいよ。お父さんも若いころはいろいろ言うてみて、みんなが賛成せんかったら『早かったかな』とゆうて引き下がった。じゃあけんどだいたい昔言うたことは今そうなっちょるわ」という。そして「お前もみんなに信頼されるようにしよ」と言葉を足した。

何かと衝突してきた父子なのだけど、このときは多少うんざりもしていたので「どうしたらそうなるん」と素直に聞いた。「なるべく公平にしよ」と父は一言付け足した。

「お前んとこの親父が来ると法事が長くなる」と近所の人にはぼくたち兄弟は言われている。 「ただ酒飲んで長居して」と言われた父は、「借りは作らん」と次から自分の分の一升瓶は持っていくようにしたそうだ。それくらいで早めには切り上げたりしない。

村のリニア連絡協議会に自治会長だから呼ばれて、最初のときに「自治会に報告とかないわけだし、本来村の代表は村長と議員なんだから協議会やんなくてよくないですか」と発言してみた。すると「JRの説明はほしい」「出たくなければ来なければよい」との発言があり、これは任意の会議になる。村の担当者に「謝礼はいりません」というと、「それは困る」ということなので自治会に寄付した。

JRは本来であれば管理型処分場に持ち込むと環境アセスで言っていたヒ素入りの有害残土を、上蔵の川原の変電所施設の下部に埋め込むという。上蔵に事前に相談もなく村で説明会をしたJRの姿勢を4回にわたり「ぼくはきちんと説明を受けたとは思ってませんからね。当該自治会の自治会長として賛成したとはみなさないでくださいね」と念を押した。

道路の通行止めに関しては業者は自治会長の承認印をもらいにくるので、これで在任期間中は止められるかと思ったけど、実際は道路の通行止めはなかった。それでも期間中の工事をJRはせず、理由を聞いても答えなかった。

先日次のお世話班に集会場で引継ぎをした。明治時代から続く集会録も含め、昔はリヤカー一杯の引継ぎ物品を次の班へと持っていったという。今は石油ストーブの大きさぐらいの引継ぎ書類に、神社の蔵や福徳寺の鍵、余った一升瓶やらを渡す。

有害残土を置くことに、地区で反対決議を上げても業者には有効ではなさそうだ。行政は任意団体は小馬鹿にするけど、自治会の意向はなかなか無視できない。そこで、登山口につながる鳥倉林道のマイカー規制を、今日の集会の議題にかけるように、引継ぎでお願いした。地区の静かな環境維持のために一つぐらいは置き土産はしておこうと思った。

どんな意見が出るか、楽しみではある。(村集会ではそのまま了承されました)

(2025.3.24越路44 たらたらと読み切り184)

東京新聞に原稿料を返却する(後)

2024年10月、東京新聞の日曜版「人生のページ」で「民法改正で解消なるか 親子の面会交流」の記事が出た。年が明けると東京新聞は弁護士の太田啓子に、ぼくの書いたコラムの内容を真っ向否定する記事を同コラムで書かせている。その後東京新聞(中日新聞)には事実関係について確認し、経緯を明らかにする質問を送ったもののまともな回答は来なかったため、原稿料を大島宇一郎社長宛に返却した。

「日本で司法に訴えても面会交流の約束を取り付けられるのは5割」?

ところでぼくは東京新聞に苦情が来るだろうなということは想定していたけど、東京新聞の取材力がこの程度まで低いということはちょっと予想外だった。東京新聞内にも共同親権に賛成の立場で記事を書いていた記者は過去複数いたので、ここまで初歩的な質問が社名で寄せられるとは思いもせずに呆れたところはある。

なかでも最初から最後までぼくとAさんが対応に追われたのが、ぼくが書いた「日本で司法に訴えても面会交流の約束を取り付けられるのは5割」という記載についてだ。

これはその年の面会交流の調停・審判の決定・合意成立の件数を新規申し立て件数で割った数字で、目安になる数字で過去別の弁護士も論文で用いている。データをいちいち司法統計から拾い出す必要があるけど、ぼくは経年経過がわかるので毎年その作業をしており、その割合がほぼ5割程度で変化がないという点について触れたにすぎない。

ところが国会では憲法学者の木村草太が、却下されるのはわずか1.7%と公言して、だから司法に訴えて会えない親は相当問題がある、つまり家庭内暴力の加害者ということの根拠にしている。

東京新聞に寄せられた質問もこの点について根拠を述べよと言ったようで、次回でこの件について書くようにとしつこく言われた。この点についてぼくは自分のサイトに記事を書いて根拠を説明し(木村草太「面会交流事件のうち却下されるのは1.7%」のインチキhttps://munakatami.com/column/kimuraintiki/)、合わせて木村のデータの操作による両者の数字の差を説明した。

この部分は共同親権反対のキャンペーンの中で東京新聞や他のメディアでも、度々岡村や木村等々、識者コメントとして引用して子どもに会えない親を悪者にする根拠に挙げてきた。この捏造キャンペーンでメディアは被害者を加害者のクレーマーに変えてきた。だからこの点についての反論をぼくができないわけもない。

ぼくの記事への東京新聞への意見は、賛成が反対を凌駕したようだ。記事は後編に至り記事内で根拠を示すということも結局なかった。

その間「子を奪われた」等々のぼくの記載に細かい注文が入り、東京新聞がいかに反対派を恐れているかがよくわかった。原稿は社長も目を通したという。

社内には掲載させないという意見もあったから、記事が出たこと自体は勝利だったのだろう。

「誤解だらけの共同親権」岡村晴美から太田啓子へ

その後、2月2日と9日に弁護士の太田啓子の記事が出たのは述べた通りだ。

この「誤解だらけの共同親権」という記事の1回目で太田は、「面会調停・審判の運用において、家裁はよほどのことがなければ別居親と子の何らかの交流を命じている。認められないこともあるがその理由は個々の事案次第で、虐待DVが背景にあることもある」とあっさり書いている。ぼくは愕然とした。

いったい自分が頼んだ原稿依頼者にその根拠を散々立証させ、その後その立証内容を別の外部の人間に書かせて否定させる、などという暴力行為をする新聞社があるだろうか。しかも「人生のページ」と言いつつ、太田啓子は自分の人生について一言も語っていない。政治的な意図だけで書かれた記事であることは明らかだった。

ぼくのコラムでは娘のことも触れざるを得なかったけど、太田は何の危険も冒さずぼくの家族関係を結果として愚弄する。子の親として素直に悔しかった。

Aさんに電話すると、「私には太田の原稿が載ることも含め何の連絡もない」と蚊帳の外だったと弁明している。この時点で愛知の弁護士からの苦情が入ったことをAさんは明らかにしており、岡村晴美の名前を出しても否定はしなかった。

岡村はすでに2024年のぼくへの原稿依頼から記事掲載に至るまでの8月にインタビュー記事が出ており、共同親権反対の同志弁護士の太田が、今回ぼくの原稿を否定する役回りになったということだろう。実際岡村はこの記事を大喜びでXで宣伝している。

「チッソの廃液に水銀は含まれていない」と同じ

しょうがないので、手続きをとった。

東京新聞にこの記事掲載に至る経過を明らかにするように質問を送り(https://munakatami.com/blog/chunichi/)、冒頭の回答が2週間という十分な回答期間の最終日に「中日新聞編集局読者センター」からあった。原稿料を払った相手にする態度とは思えなかった。

その後、ぼくは抗議文を「読者センター」宛に送り、先の司法で子どもに会えるかどうかの点について、こう説明した。

「これについては、民法改正の議論において子と引き離されたか否かの立法事実にかかわり、中日新聞は司法に行けば会える、との無責任な識者のコメントをこの間垂れ流し、私どもの国賠訴訟の会も質問したことがあります。しかし、中日新聞は事実の指摘に対し、頑なに司法に行けば会える、との主張を垂れ流し続けました。

昔水俣病患者たちは、チッソの廃液に水銀は含まれていないとの風評に悩まされ、街を発展させたチッソを批判するのか、と孤立させられました。その間多くの被害者が出続けました。中日新聞が共同親権反対でなしたキャンペーンは、それらと同様の行為です。」

この場合ぼくの原稿料は東京新聞がした口封じ行為を容認する賄賂ということになる。原稿料の額はぼくが費やした労力で到底賄えないレベルのものだ。

受け取れるわけもなく受け取る価値もないので、社長宛に現金書留で郵送した。後日東京新聞編集局庶務部長の石井敬名義で手書きの手紙と受領証が郵送されてきた。

「お粗末」とはこのためにある言葉だろう。

東京新聞に原稿料を返却する(前)

東京新聞の日曜版の上下2回のコラムで10月13日27日、共同親権の民法改正と、子どもに会えない親たちで提起していた共同親権訴訟について触れる原稿を書いた。ところが年が明けて2月2日と9日、東京新聞は弁護士の太田啓子に、ぼくの書いたコラムの内容を真っ向否定する記事を書かせている。

その後東京新聞(中日新聞)には事実関係について確認し、経緯を明らかにする質問を送った。まともな回答は来なかったため、原稿料を大島宇一郎社長宛に返却した。その経過をまとめる。

共同親権と真っ向勝負していた東京新聞

10月に掲載予定のコラムに東京新聞の知り合いの記者のAさんから原稿依頼をされたのは、昨年6月のことだ。東京新聞は中日新聞東京本社のことなので、以下は東京新聞とし必要に応じて中日新聞と言及する。

コラムは「人生のページ」というもので、後に東京新聞に出した質問状の回答によれば「人生について考えるきっかけとなりそうな話題やテーマを、さまざまな立場の方に、ご自身の生き方や体験などを踏まえて書いていただき、読者に提供するというのが趣旨」だ。ぼくもその趣旨に基づいて原稿を用意している。

コラムを担当するAさんとは、2008年に国立市議会への陳情活動から始まった法改正運動の初期に取材していただき、何度か特報欄で問題提起してもらっている。当時の記者でその後も何年も運動の会報誌の送付を続けてきた方は何人かいる。Aさんもその一人だ(唯一会費の納入をしてくれていた)。

ぼくの友人は東京新聞の読者だけど「ある時期まで賛成反対両方載せてたのに、ある時からピタッと賛成の記事はやめたよね」とぼくに言ったことがある。一般読者が気づくくらい東京新聞の方針変換は露骨だったようだ。あるとき社内研修で共同親権反対の旗頭の岡村晴美を呼んで以来のことのようだ。

ぼくもこのことは聞き伝えていて、親子の引き離しという人権問題を度々イデオロギー対立の問題にすり替えて、もみ消してきた東京新聞の報道姿勢をSNSを中心に批判してきた。小林由比、大野暢子などの女性記者名をよく見た。だからこそそこに書く意味があると、原稿を引き受けた。

書くにあたっては、原稿依頼がされた後、2024年8月2日の「あの人に迫る」という小林由比記者による岡村晴美への「DV被害を軽視 危うい共同親権」というタイトルのインタビュー記事を参照した。

一連の東京新聞記事では、ぼくたち子どもに会えない親をとにかく危険視し、ぼくたちの側への取材を一切しなかった点では徹底しており、故にコラム欄とはいえぼくの記事はそれに対する対抗言論としての意味合いもあったからだ。

2回目掲載に至るまでの攻防

1回目原稿が出たのが10月13日。

通常このコラムは2週連続で記事を載せ、東京新聞だけでなく中日新聞管内でも掲載される。1回目記事が出た後、多くのクレームが会社に寄せられたのをAさんから教えられ、後編記事の改変に取りかかることになる。というのも前半記事が出た時点で後編記事はすでに書き終え校正も終えていたからだ。

念のため言っておけば、ぼくは登山の雑誌がモンベルに移管するまで東京新聞発行の岳人に長らく編集者・ライターとしてかかわってきた。そのため先の岡村の研修も含め、社内事情はAさんだけから得るわけではない。

とはいえ今回の原稿はぼくは外部の人間として依頼された側なので、読者の反応を受け改変するにしてもぼくのほうにも言い分があり、あまりに失礼な内容については「改変はいいけどぼくの名前は消してくれ」と、「抵抗」してもいる。

人生のページというだけに、ぼくの原稿は子どもと引き離されてから今日に至るまでの経過も触れている。その内容自体は過去の東京新聞の記事や他の報道でも紹介されることがあった。しかしAさんは、審判の決定文を見せてくれという社内の意向を伝えてきた。どうもクレームの中に暴力の加害者に書かせるのかという批判が含まれているようだ。

この点についてぼくは、元妻を引っぱたいたことがある点については隠していないし、過去公にしてきた。それを自分の手記で出版して出しているので、暴力の加害者に書かせるのかという批判は、被害者の訴えではなく加害者の独白から来ているので意味がない。

しかし新聞社はそうではないようだ。刑務所暮らしした人や横領政治家のインタビューは載せても、女性に手を出す人間は無条件に人間外の存在になる。第三者の人間関係にまで自分たちの価値観を押し付けて断罪し、当事者間の関係を損なう。この場合被害を受けるのはまずもってぼくの子どもだろう。

東京新聞の取材不足が露呈

とはいっても、ぼくが見せた審判書きでは暴力が争点になっておらず決定でも言及がない。彼女の側も相当のことをしていて、しかもぼくの友人と家庭を作って養子縁組して子を引き離しているので、司法も同情しにくかったという事情もある。現在ぼくは性や加害被害を問わない脱暴力支援を行なうカウンセラーでもある。

この審判書きは担当部長も目を通して、以後「原稿を依頼された側」というぼくの立場に配慮を示すようになっている。「こんなに苦情くるの望月衣塑子以来」とAさんに教えられた。

苦情の中身は質問という形で列挙され、その内容はぼくのホームページで後に抗議文を送った際に同時に公開している(https://munakatami.com/blog/chunichikougi/)。

この内容を見ると、東京新聞内部では再婚養子縁組で司法が面会を制約するとか、マジックミラー越しに元配偶者が監視する中で試行面会が行われるとか、人質取引がされるとか、2月に1回の面会を増やすのが通常はあり得ないとか、離婚や面会交流の実態について調べればすぐわかるような初歩的なことも共有されていないことがよくわかる。Aさんもそれはわかっていたようで「取材してないんですよ」と憤りつつぼくに伝えてきている。

ぼくは馬鹿正直にこれらについて口頭、文章で回答し、まとめるとA 4で10枚は超えている。Aさんもそれを取りまとめるのに多大な労力を費やしたようだ。東京新聞内部の数年分の取材不足のつけをぼくたちが払わされた格好だ。

Aさんは「一週間こればっかりしている」と愚痴っていた。

辛酸の旅

 大鹿村に来たのは2016年のことだ。娘が千葉にいたので、当初は学校行事などにも頻繁に参加し、同時に月に1度の子どもに会えない親たちの自助グループを都内で開催してきた。娘も成人し、2019年から続いてきた単独親権制度の改廃を求める国賠訴訟もこの1月に負けて終わっている。先日その総括会議を都内で行って会の解散を決めた。東京はいよいよ他人の土地になったのだろうか。

 その会議の後、平日の1日を使って都内の山の店や自然保護団体の友人のもとを訪ねた。理由はぼくの暮らす大鹿村内で工事が続いているリニア新幹線の反対の集会を松本でするので、チラシを置いてもらったりその支援を求めるためだ。

 この工事はぼくが2016年に引っ越してきた年に着工している。よく「リニアに反対するために引っ越してきた」と言われることがある。ぼくが大鹿村に越してきたのは村の女性と結婚したからで、それも2020年に別れている。彼女がリニアに反対していたので半分当たっているけど半分外れている。

 その後「お前どうするの」といろんな人に聞かれて、ここにいる理由が「ほかに行くところがないから」という言葉以外に出てこなかった。

 それから5年が経ち、ここで一人暮らしをした歳月のほうが長くなっている。田んぼなんか一人でできるのかと当初思ったけど、東京の友人たちの手を借りたりして4回もできた。山小屋のバイトから冬期営業も始めるようになって、そんな暮らしも悪くないよね、と思えるようにもなってきた。

 別れた後はリニア反対の運動にもちっとも手が回らなかったけど、JRは相変わらず地元を無視して有害残土を起き、ダンプを走らせ、愛着の深まった南アルプスには穴が開けられ続けている。忌々しいと思っても、村で目だって反対の声をあげる人はほかにおらず、助けを求めるのはやはり山やだった。「おれもリニアは反対だから」と集会でしゃべるのを引き受けてくださった。山に登る人たちにアピールする集会を自分で組むのは大鹿村に来たとき以来だろうと思う。

 そんなわけで、仲間と県内の山の店や施設を回った後、東京での滞在をのばしてあちこち人に会って説明した。新聞テレビやネット情報で実際に暮らす人の心情までは伝わらない。国策に不都合なことを大手メディアはなかなか取り組みたがらない。それでも、共同親権を日本一毛嫌いした信濃毎日もわりとリニアのことはわりとやる。山やが中にいるからだ。

 自然保護団体にいる山の仲間がポスターを黙って引き取ってくれた。家族や仕事の事情で忙しいというのに会いに来てくれてとりとめのない話と村の話をいっしょにしてくれる人もいた。橋を待ち合わせ場所にしていたら、鵜が一羽羽を伸ばし、船に乗った2人が楽しそうに話していた。釣り好きの兄の影響でとにかく川を見るのが好きだ。

 橋の上はセカセカとした人たちばかりで、ぼくがのんびりと鵜を見ていると、何かいるのかといっしょに川を見下ろす。鵜や船の人たちは、計画性の上に人々や自然をひれ伏せさせる現代文明の楼閣が、実はそんなものは蜃気楼だと教えてくれる。つまらないものを見たと思ったろうか、それともぼくが止まって感じた橋の揺れを同じく感じただろうか。

 子どもに会えなくなった親たちと山の仲間と一見接点はない。だけれども、まっとうと呼ばれる社会生活と遠く離れた部分に足を踏み入れ、まったく別の世界の存在に気づいたという点では同じだろう。それを深淵と恐怖するか、パイオニアワークの平原と歓喜するかは人による。

 東京にいる間、足尾鉱毒事件の被害を訴えるために上京し、大杉栄やらの活動家や支援者を訪ねて歩いた田中正造のことがちらちらと頭によぎった。リニアの環境や生活被害も公害だ。正造は自由民権運動で勝ち取った帝国議会に衆議院議員として乗り込み、足尾鉱毒事件を訴え、やがて下野して家を強制収用されて穴居生活を送る谷中村の人々と暮らしている。村を危機に導いた権力中枢の街を行き何を思って人を頼ったのだろうか。

 ぼくは2022年に地元の郷土史家の赤神剛さんに案内されて、谷中村から足尾まで雑誌の取材で訪問している。谷中村の解説看板には、大杉栄と伊藤野枝の訪問についての記述もあった。このとき赤神さんが紹介してくれた本に城山三郎の『辛酸』という小説がある。この小説は前半は正造の生涯を、後半は正造亡き後の谷中村の住民たちのその後が描かれている。今は渡良瀬遊水地になっている場所は、その後も住民たちの生活権のための抵抗が続き、共同墓地の前で旧住民が重機を止めたのは1972年のことだ。

 社会問題への取り組みで何かを成し遂げるということは、獲得目標という点では重要なことだ。しかしそれよりも大切なのは、心を動かされた人々の記憶や経験であり、そこで伝えられ引き継がれていくものではないだろうか。

 このときの旅で一番驚いたのは、足尾の街で入った食堂で赤神さんが「おやじ何でここにいるの」と声をかけられたときだ。たまたま友人と旅をしてきた息子さんが隣にいたのだ。それは偶然であり必然でもあったと思う。正造の事績を掘り起こし顕彰する赤神さんがいなければ息子さんはここにはいなかったからだ。

 誰かの記憶に自分を残したいと願うことでは、人の心に残りはしないということを、おそらくそれは、物語っている。

 

夫婦同姓は「姓の単独親権制度」

選択的夫婦別姓における子の氏の強制

 選択的夫婦別姓についての議論がにぎわっている。その中で別姓になった場合に、子の姓(民法では氏)はどうするのか、という論点が注目されるようになってきた。民法改正派の中では、子の氏について婚姻時にするのか、子の出生時にするのか意見が別れているそうだ。

父母間で意見が別れれば司法に持ち込まれるが、明確な判断基準などありえるはずもない。そして離婚時においては、子といっしょにいるほうの親(司法判断では94%母親)に氏を合わせるべきだ、と福島瑞穂は国会で主張していた。

 事実婚をした福島が他人の親の子には同姓を強制するのか、とそのいい加減ぶりに心底呆れたものだ。というのは、ぼくは事実婚であったがゆえに子といっしょの姓になったことが一度もないからだ。親権者になったことすらない。戸籍上父であることをもって、子との関係維持を訴える社会運動を続けてきた。

元妻との間の子は離婚して300日以内においては元夫の姓とするという民法規定に基づいて、元夫の姓となっていたため、司法がそれを認めるまで、元妻の姓の元妻とその連れ子、元妻の夫の姓の娘、それに自分の姓のぼくと、4人家族に3つの姓がある状態だった。しかしそのことで社会生活上支障となることはなく、上のお姉ちゃんの保護者としてぼくは園に顔を出していたし、他人から家族ではないといった扱いを受けることもなかった。

 妻とは別れたものの、子どもたちと別れたわけでもないので、2人の子どもたちには会っていたし、養育費も2人分20歳になるまで支払っているし支払っていた。情のある父親か、無責任な女の敵か、裁判になると前者はぼく、後者は元妻が主張することになる。後は子どもが自分で考えればよい。

 長く書いてきたけど、彼女は所属の問題として「私が親権者だから」とぼくが提案して決まったことをもめると持ち出し、ぼくは「家族は中身(つまり関係)だから」と今に至るまで態度で示しているにすぎない。したがって子の姓にもさほどこだわりが薄かった。

手続法が実体法を規定する

 選択的夫婦別姓の議論において、反対意見の中からは戸籍制度の解体につながり日本の伝統を壊すことになる、との意見が大きい。それに対してリベラルの側は、そもそも戸籍なんて明治以降の歴史だし、現在の形になったのだって戦後と反論をしている。

しかしもともと戸籍とは、登録手段の一つであって、実体法という民法を実現するための手続法である。だから戸籍に明記された父子関係を司法も否定することはできなかった。

そもそも手段で目的を縛る議論そのものがおかしいのだ、という主張をとんと見かけたことがない。なぜならば、戸籍に登録され(入籍)、国家に認められることこそが、正統の証であるから、そもそも選択的夫婦別姓の主張自体が、それを認められない人々の差別を前提とする矛盾含みの主張であるからにほかならない。

伝統の議論がなかった共同親権民法改正

 そんなわけで選択的夫婦別姓の活動家が、共同親権に反対するのは何の不思議でもない。十字軍の貴族がアウトローの反乱の殲滅戦に没頭していただけだ。保守政権側がまともだったとは思わないけど、よっぽど賛否両方の意見を踏まえて物を言っていたのは事実だ。

そしてリベラルな貴族側は、共同親権運動がバックラッシュの保守的な運動(要するに伝統)だとキャンペーンを貼ろうとして、ぼくのようなゲリラに、「この貴族どもめ」「復古主義者が」「母性神話のマッチョどもめ」と石礫を投げつけられていた。いい気味だ。

単独親権制度撤廃とは

 たとえが先走った。

日本国憲法に施行に伴った戦後の民法改革においては、戸主制度と家督相続、それに3代戸籍という家の継承を前提とする家父長制が廃止されはしたけど、夫婦と未婚の子に氏という団体名を付した戸籍が家として生き残っている。親権は父親単独親権から婚姻中のみ共同親権となり、婚姻外のみ単独親権が温存された。親権もまた戸籍に準じたのだ。

 ぼくたちは共同親権の実現ではなく、単独親権制度の撤廃を目標に掲げてきた。実現だけなら改正民法で夢が叶うのだけど、撤廃なら道半ば。

 一方で、ここで撤廃を口にするその中身とは何だろう。

婚姻関係の如何に問わず、親子関係は不変のはずなのに、実際は親権の有無(つまり婚姻内外の差別的取り扱い)によって親子関係が保障されない。仮に共同親権になったとしても、第三者から見て、いちいち関係性があったかいなかで判断するより、正統/非正統、つまり貴族/アウトローの差を国は判断基準にしたがる。

 家族の一体性やそれ以外との区別を強調するのを家族主義と呼んでよさそうだ。所属の問題である。

しかし家族がつながりであるとするなら、それは権利と呼んでよさそうだ。そもそも結婚に子をなすことにまで、国が得点とセットで法的保障を与えるのも、その形成が本来権利であるからで、そうであるなら、選択的夫婦別姓の活動家たちは、等しく共同親権にも理解を示さなければ「自分のことしか考えてない」と言われるのがおちだ。結婚・未婚・離婚は父母の選択の問題かもしれないけど、その不利益を子に及ぼすことは子どもの権利の疎外になるだろう。

所属が人間関係を疎外する

逆だ。

子どもの権利を侵害しない限り、男女は自分の選択を権利と主張することが可能となる。

 逆転した物言いをするならば、夫婦同姓とは、姓の単独親権制度である。子は親を知り養育される権利があり、それを単独親権制度(家制度)が疎外してきた。親たちにとっても、所属に応じて子を捨てることは罪の意識を問われなかった。そんな環境で育った子どもが他者への思いやりを育みにくいのは想像に難くはない。

 姓を権利と主張したいなら、それは所属意識ではなく、つながりとしてはじめて可能となる。子が親とのつながりやそのルーツを保つ手段として姓が役立つならそれは否定することではない。しかし、子にどちらの姓を「名乗らせる」かという問いは、所属の問題としてしか説明できようがないことではないか。他方の姓(ルーツ)を名乗らせない(奪う)ことでもって、子の所属を明確化するのであるのだから。

もちろん双方に所属の取り合いがあればそれが和解不能な子の奪い合いに陥ることは、親権争いと同様である。というか親権争いとは、家と家との子の奪い合いに他ならない。

 法が関係性を疎外する。それは単独親権制度であり、姓の単独親権制度としての夫婦同姓、つまり、夫婦と未婚の子に氏を付し一体感を強制する戸籍制度である。結婚時や出生時に子の姓を決める、という程度の小手先で、子どもの権利は保証されない。

中日新聞への抗議文

中日新聞「人生のページ」ご担当者様、代表取締役社長大島宇一郎様

 私は、2月2日と2月9日の「人生のページ欄」に弁護士の太田啓子氏が「誤解だらけの共同親権」というタイトルで寄稿した件について、2月13日に中日新聞に質問という形で意見をさせていただきました。2024年10月13日と27日に原稿依頼を受けて私も同コラムで原稿を書きました。

この度、ご担当者様より「掲載の意図や経緯、見解などを説明することは控えさせていただきます」という回答拒否の書面をいただきました。理由は、「もともとこの「人生のページ」は、人生について考えるきっかけとなりそうな話題やテーマを、さまざまな立場の方に、ご自身の生き方や体験などを踏まえて書いていただき、読者に提供するというのが趣旨です。」とのものでした。

 ところで、これは理由に当たらないことは、私が指摘した太田啓子氏執筆の記事について、「ご自身の生き方や体験」が一切ないことを踏まえれば、中日新聞も十分に分かっておられることと思います。

 以下の内容は中日新聞への抗議となってしまうのが、本当に残念です。

 一つには執筆依頼者に対する度を越した中日新聞の尊大な態度です。

 私はすでに後半の記事を12日に書き終えて添削を終えた時点で、前半の記事が13日に掲載され、その後後半の記事は一週間掲載延期となりました。理由は私が私の個別事情や前半記事中の記載の真偽について中日新聞から膨大な説明を求められたからです。質問には執筆依頼者への不愉快な内容もありましたが、私は自分の体験を語ることは社会的意義があると思い、裁判の審判書きまで提示し、司法統計や国会答弁による裏付けを付し、回答することで、後半の記事を大幅に書き換え中日新聞の要請に応えました。

 ところがその後、私がした説明を無視して、それとは相いれない太田氏の主張を載せました。今回の回答拒否は、内容以前の問題として、太田氏より原稿依頼をした私を低く扱ったという以外に説明のしようがありません。

 さらに一つには、離婚経験者や子と離れて暮らす親への差別です。

 私の原稿と太田氏の原稿の決定的な差は、司法に行って手続きをとれば子に会えるかどうかの現状把握です。私はこれに対して司法統計の根拠をあげて返事をしました。費やした時間は3日以上です。

これについては、民法改正の議論において子と引き離されたか否かの立法事実にかかわり、中日新聞は司法に行けば会える、との無責任な識者のコメントをこの間垂れ流し、私どもの国賠訴訟の会も質問したことがあります。しかし、中日新聞は事実の指摘に対し、頑なに司法に行けば会える、との主張を垂れ流し続けました。

 昔水俣病患者たちは、チッソの廃液に水銀は含まれていないとの風評に悩まされ、街を発展させたチッソを批判するのか、と孤立させられました。その間多くの被害者が出続けました。中日新聞が共同親権反対でなしたキャンペーンは、それらと同様の行為です。

実際、私と同様に子と会えない親たちが毎年命を絶っています。被害者を罵倒差別するものにほかならず、それは迫害であり報道ではありませんでした。汚点だったと思います。人倫に反した会社にこのような辱めを受ける覚えはありませんので、原稿料はお返しいたします。週明けに郵送しますのでご査収ください。

中日新聞から受けた質問(2024.10.17)

宗像のコラム(上)が10月13日に掲載された後に以下の質問を中日新聞から受け、掲載が一週延期になりました。

■宗像充さんに確認をお願いしたい内容

・今回、東京新聞に原稿が載ることを、元妻の方には伝えていますか。
・人身保護法による引き渡し請求が認められるのは、一般的には相当な事態ですが、元妻の請求が認められた理由はなんだったのでしょうか。
・「娘は元妻の再婚相手の養子とされ、会えなくなった」とありますが、子どもが実子であれば第三者の養子になっても面会交流は請求できるため、養子縁組は面会できなくなったこととは関係ないはずだという指摘がありました。会えなくなった理由は何だったのでしょうか。
・「日本で司法に訴えても面会交流の約束を取り付けられるのは5割」の根拠となるデータは何でしょうか。
・「裁判所ではいまも元配偶者(やその夫)がマジックミラー越しに監視する中、子と会うよう仕向けられており」と書かれているが、面会交流でそのような仕組みはないという指摘があります。面会交流そのものではなく、試行面会のことでしょうか。
・「『会いたかったら運動をやめろ』と親権者が子を用いてする人質取引」とは、どんなことを指すのでしょうか。元妻側からそのような取引を持ちかけられたということでしょうか。また、「運動」とは共同親権を求める運動のことでしょうか。
・2カ月に1度の面会交流を月1回にするのがなかなか認められなかった理由は何か。裁判所からはどんな理由を伝えられていたのか。

「人生のページ」中日新聞からの回答

太田啓子氏の記事掲載に対してした質問に対し、中日新聞編集局読者センターからの回答です。

以下。

宗像充さま

お問い合わせありがとうございます。

宗像さまに寄稿をお願いしたときにも担当者から説明があったかと思いますが、もともとこの「人生のページ」は、人生について考えるきっかけとなりそうな話題やテーマを、さまざまな立場の方に、ご自身の生き方や体験などを踏まえて書いていただき、読者に提供するというのが趣旨です。

宗像さまのご意見はご意見として受け止めますが、ひとつひとつの記事について、掲載の意図や経緯、見解などを説明することは控えさせていただきます。

質問内容については以下です。なお、2月14日付で中日新聞に対しては、太田啓子氏の記事掲載に至った経過について問う追加質問を送っています。

拝啓 中日新聞様 2月2日、9日、「人生のページ」について

中日新聞「人生のページ」ご担当者様、代表取締役社長大島宇一郎様

長野県下伊那郡大鹿村大河原2208  宗像 充

お世話になります。私は単独親権違憲・違法の認定を司法に求めた国家賠償請求訴訟の原告で、10月13日と27日の貴紙「人生のページ」欄に上下2回で「親子の面会交流 共同親権で解消なるか」というタイトルの原稿を書かせていただきました。

2月2日と2月9日の「人生のページ欄」に弁護士の太田啓子氏が「誤解だらけの共同親権」というタイトルで寄稿しております。私は中日新聞に原稿依頼をされて何度も修正を求めた上で原稿を書いたため、その記載や根拠をまったく無視して太田氏が書いた原稿を中日新聞がそのまま掲載した経過に、相当にびっくりしました。そこで、質問という形で意見をさせていただきます。2月28日までに貴紙の真摯な回答を求めます。

1 10月13日の私の原稿では「日本で司法に訴えても面会交流の約束を取り付けられるのは5割。それも会える保障はない。」とあります。一方で、太田氏は2月2日の原稿で「面会調停・審判の運用において、家裁はよほどのことがなければ別居親と子の何らかの交流を命じている。認められないこともあるがその理由は個々の事案次第で、虐待DVが背景にあることもある」とあります。

 私は「5割」という数字の根拠は中日新聞に説明しております。しかし太田氏は、何の根拠もなく先の見解を述べました。中日新聞も何の説明もしていません。これは私の見解を否定するために太田氏の主張を誌面化したと読者は受け止めかねません。かつ私は虐待やDVの加害者と読者が受け取っても私は抗弁ができません。中日新聞の意図はそういうものでしょうか。

2 対抗言論として、太田氏の原稿を中日新聞が掲載することはありえることですが、であれば、私の主張を踏まえ、それを引用する形で根拠を示しながら反論をするのが本来です。ところが私も紙面で触れたように、司法は私たちの訴訟で、婚姻外の親の「差別的取り扱いは合理的」と述べて、法制度や政策によって、非婚(離婚・未婚)のへの差別を公然と認めており、「その理由は個々の事案次第で、虐待DVが背景にあることもある」とする主張は当たりません。

この裁判は1月22日に上告棄却で確定し、太田氏の原稿が出るまで中日新聞は十分に取材する時間がありました。中日新聞はそれらについて自分で調べなかったのですか?

3 2月9日の太田氏の原稿において、協力できない元夫婦の共同親権が子の不利益になる根拠として「日本の離婚のほとんどは裁判所が関与しない協議離婚なので、共同親権にすべきではい事案を当事者が共同親権にしてしまうことについて専門家がチェックする仕組みがない」と述べています。

 法制審議会の審議において、離婚時の養育時間の分担や養育費についての検討がなされました。その際、共同親権への民法改正を求める人たちは、それらの取り決めを養育計画として義務付けることを求め、共同親権に反対する人たちは離婚がしにくくなるという理由で、養育計画の義務化に反対しました。

中日新聞はそのような法制審の議論の経過については知らなかったのですか。

4 私は10月13日の原稿で「司法で情勢が親権を取る割合は94%に上る」と触れており、一方で、太田氏はそれはジェンダー平等の問題ではないと否定しています。中日新聞はこの現状に基づいて現状のように女性が親権を持ち続けるのは望ましいと考えて、この見解を私の見解の後にあえて載せたと考えてよいでしょうか。

拝啓 信濃毎日「ともにあたらしく」取材班様

ご担当者様

大鹿村に在住の宗像と申します。
共同親権訴訟の原告として、信濃毎日に度々紹介していただきました。ありがとうございました。

1月30日号の冒頭にジェンダーを地域から考えるテーマでの特集が組まれ、意見募集があったため、感想と意見をお送りします。

ぼくたちは、共同親権訴訟に取り組み、先日1月22日に最高裁から門前払いの決定を受け、信濃毎日からも取材を受けました。東京の記者さんには、「親権問題はジェンダーの問題」と説明しておきました。

今回の企画では結婚で改姓した女性が94.5%で、改姓を余儀なくされた女性について、ジェンダー問題の典型的な事例として取り上げられています。
姓の問題はもっぱら女性のジェンダーの問題として取り上げられ、大方ジェンダー問題に取り組む人も女性が多いのですが、親権についても、司法で94%の割合で女性が親権者に指定されます。

結婚は、入り口と出口で性役割を規定しますが、ジェンダーの問題に熱心な方ほど、共同親権を敵視してきました。
信毎でも共同親権に反対の論説を5回も出したため、昨年原告男女で抗議に伺いました。

憲法に訴えた訴訟で下級審は、非婚の親の「差別的取り扱いは合理的」と言及していました。この問題では憲法学者の木村草太などが、司法で会えない割合は1.7%と会えない親が問題であるかのように述べていますが、面会交流の申立件数のうち取り決めできる割合は司法統計では5割なため、ウソであると同時に、司法もこれが制度や政策上の差別であることを認めています。

DVを理由にこの問題に反対してきた信濃毎日の記事について、それが母性神話であることを論説主幹には説明しておきました。DVの被害割合は別居親、同居親ともに7割で変わりません。

前置きが長くなりましたが、記事を読んでの感想は、両論併記で親権問題について一方では人権問題、一方では共同親権は危険な制度、と読者を明らかに惑わせる記事を量産してきたのですから、きちんとジェンダーの視点から実子誘拐や親権問題について説明をする責任があるのではないかというものです。

女性が名前を奪われ人格を損なわれたと感じるなら、男性もまた(女性も)、子を奪われ親としての人格を奪われたと感じるというのは、別姓の問題を深刻に感じれば当然だと思いますが、男性が子を奪われるにおいては「女性が子を見ているんだから」という、無責任な主張が、別姓運動の方から散見されます。

夫が妻を殴れば暴行罪です。当然ながら母親が子を連れ去っても誘拐罪です。そう考えられないのは家制度が思考に浸透しているからです。

記事では家制度は廃止されたとありますが、廃止されたのは戸主制と家督相続で、夫婦と未婚の子をベースとする戸籍制度が家制度として存続し、したがって、家制度に基づいた同氏の法律婚を優先するため、婚姻外の単独親権制度への批判は戦後の民法改正議論の中で重視されませんでした。

寅に翼の主人公はじめ、女性たちが求めてきたのが共同親権ですが、親権取得の割合が逆転すれば共同親権に反対するなど、ジェンダーを都合よく利用していると言われても仕方がないと思います。

上記は、この間の親権と同姓婚に関する議論から必然的に今後議論が生じるものですが、家制度は世襲制度のために必要とされるわけですから、そこに切り込まない選択的夫婦別姓にみなさん共感を得にくいのは一定理解できることです。

ぼく自身も子どもに会えない問題を17年取り組んできて、単独親権制度は男性の養育障壁なのに、女性たちは養育の機会均等に道を開く共同親権に反対して、職場で平等なポジションを得るなど、実際問題男女ともに難しい、と何度も指摘してきました。

信濃毎日の妨害活動のおかげで、ぼくたちの訴訟は敗訴に終わり、成人した自分の子どもとも再開できる見込みが立ちません。これらは家制度の意識が深く作用した結果だと思いますが、ジェンダーに取り組む方々も結局家制度に根付いた母性神話の枠組みの中での男女平等しか考えられないんだなというのが、信濃毎日の記事を見ての感想です。

親権問題と別姓問題について、家制度の観点からきちんと取り上げる記事を作って問題提起をし、混乱させた読者に責任を果たすのは信濃毎日の仕事だと思います。いつでも取材に応じます。

以上感想でした。

発言しながら暮らすという選択~子どもと会えなくなってから

 2025年1月22日、単独親権制度の違憲・違法性を訴えて国を訴えた立法不作為の上告を最高裁が棄却して5年間にわたる訴訟が終結した。

 子どもに会えないのは個人の問題ではなく、社会や制度の問題だと訴えてきた。裁判では負けたものの、非婚(未婚や離婚)の親の「差別的取り扱いは合理的」という下級審の文言を引き出した。それを最高裁が追認したことで司法は自ら墓穴を掘り、ぼくたちのやってきたことは逆に正当性を得た。子どもに会えない程度の被害はたいしたことではないので、その程度の差別は無視してよい、という司法の思い上がりがぼくたち原告やその仲間の考えとは違う。

 2008年に国立市議会への陳情で始まった親子引き離し解消の市民運動は多く、単独親権制度という現行制度の改廃を目指す立法運動として収斂してきた。昨2024年に民法は改正されたものの、ぼくたちは改正民法の単独親権部分の撤廃を引き続き司法で訴え続け、裁判で負けてもそれは変わらない。

 ところでぼくは、当事者の法改正の活動に市民運動としての手法を意識して持ち込んだ。しかしその間、運動が高揚しかけるとそれが市民運動としての形をとっていること自体を嫌って当事者から批判されることが度々あった。悪いけどあまり耳を貸さない。

 運動というのは他者への働きかけによって特定の目的を達成することだ。そのために多くの人の理解を得て大衆の支持を得るという手法をとれば、大衆運動や市民運動と呼ばれる。そんな経験のない人にとって見れば、政治は政治家がやるものなので、そんな徒党を組んでする行為自体、卑怯で過激に映ることはあるかもしれない。

 しかしそうしている人も好き好んでやってるとは限らない。金も権力もない人間は、時間と労力とときに知恵を使って自分の発言を確保し続ける。しかし自分が信じてきた政治権力から裏切られて社会から白眼視される存在になったとき、いままで「サヨク」「共産党」と呼んで遠ざけ、時に罵倒してきた連中と同じことを自分がするのか、と躊躇する気持ちはわかる。

 「住民運動は行政との信頼関係が壊れたときに起きる」という言葉を聞いたことがある。

 でも多くの市民運動に携わった経験のある者にとっては、国をはじめとした権力機構への不信は前提だ。言わなければ賛成したことに数えられてしまう。当たり前だけど、権力はその手段を進んで提供してくれないし、マスコミは話題性のないものに目を向けない。したがって発言する手段は自分で確保するしかない。ぼくがそのために選んだのが国をお白須に引っ張り出す法廷という場だったいうだけで、それが市民運動であること自体は変わらない。

 今の世の中は平和だ。日本国憲法があるおかげで、国や為政者と違うことを言ったからといって、戦前のように拷問で殺されたりしない。しかし周囲の雰囲気に忖度して発言をやめたり、発言したことで孤立したりいじめられたりして死ぬことは昔と同じようにある。それでも発言するということは、自分が見知った範囲の世間ではなく、社会という水面に向けて石を投げることにほかならない。そこではじめてその人は社会的存在となり、波風を立ててでも争点を立てようとする意志が政治と呼ばれる。政治は政治家ではなく本来そこらへんにいる人が行うものなのだ。

 子どもに会えなくなった親たちの多くが、いままで自分が培ってきた処世術が通用しないことに愕然として、権力や統治機構への疑いの目を向けることになる。周囲に合わせて多少の理不尽でも上の人の言うことを聞いていれば波風立たず平凡に暮らせたのに、理不尽に対し声をあげなければ自分のアイデンティティの重要な要素である子どもを永遠に奪われる。おまけに落伍者のレッテルを貼られかねない。そして相手も社会も責められなければ、自分を責めてときには自殺したりする。

 それで徒党を組んで発言したからといって、社会がすぐに目を向けてくれるとも限らない。だけど言わないから、聞いてくれなかったらどうしようと思い迷うのだろう。誰かが、それを言っているのは誰だろうと気にしだしたときに、実名や顔出しすれば、こそこそするようなことはしていない、とそれだけで強いメッセージで伝えることができるし、メッセージを直接受けとめることもできる。誰にでも後ろ指さされるようなことはあるだろうけど、批判を恐れてする発言に共感できる人の範囲も限られている。それでもそこで得た経験や仲間の存在は財産になる。やった人でしか見えない世界だ。

 市民運動なんて勝てることのほうが少ない。なので国賠訴訟は結果が出るまで希望はあったけど、負けたからといって絶望したりもしない。「お上にたてつく」という言葉がある中で、いいことやってると思った時点で国に揚げ足を取られるだろう。趣味で上等だと思う。仕事は金のためにやるものだけど、趣味に命や財産をかける人は少なくないだろう。子どもや家族のため、が趣味であるとするならば、子育てや家族を持つことは、義務から権利に変わるだろう。

 ずいぶん勝手なことを言っているとは自覚している。ぼくは言いたいことを言ってるだけだから。