SNSで裁判官の名前を挙げると裁判で不利にされる?

 このところ、SNSで裁判官の名前を挙げたり、司法批判をすると、司法判断で反社扱いされて不利にされた、という話を聞くのでその対策について取り上げたい。

 離婚や面会交流の事件で子どもに会えない親が、司法の差別的扱いや暴言についてSNSで触れることはよくあり、ぼくも勧めたりする。というのも、もともと裁判所職員は公務員なので、勤務時間中の名前が非公開なんてありえないし、裁判官は裁判所という組織の名のもとに判断を下すわけだから、最低限名前を名乗ることぐらいが、彼らの責任なのは当然だからだ。そして、単独親権制度のもとの司法では、他方の親を差別することで運営が成り立っているので、必ず彼らの言動に差別的なところがあるのは当たり前で、言わないと改善しないからだ。

 ところで、ぼくもSNSを始めて、裁判中の元妻側の弁護士(森公人と森元みのり等、森法律事務所の面々)に、そこでの書き込みを書証として裁判所に提出されたことがある。ちょっとでも司法批判につながる部分があると、それをプリントアウトして、司法批判をするような反社会的な人間だ、ということを印象付けて裁判官の心象を悪くして有利にするということというのが、彼らの手法だ。それ以外に論理的な主張など彼らにはほとんどない。

 「こんな野蛮人の言い分なんかかなくていいですよ」と裁判官に仕向ける。別に悪いことしてるわけでもないのだけど、裁判官に「あんたの悪口言ってますよ」と告げ口するために、森法律事務所では年がら年中、訴訟の相手方のSNSを監視している。また森が調停委員をしていたように、裁判所と癒着しているので、滅多なことでは裁判所からたしなめられない、と高をくくってもいる。

 ところで、こういったことがなされた場合の対抗手段としては、ぼくはSNSで裁判所批判をするときには、「#森元みのり の書証提出希望」「#森公人 の書証提出希望」と書き添えて投稿することにした。「いいことだからやってくれ」と対戦相手に言われてやるバカはいない。これでほぼ書証提出はされなくなった。

 また、彼らには父親のぼくのことを娘に「つきまという」という暴言があったので、これについては、彼らの主張書面をもとに名誉棄損での裁判と弁護士会への懲戒請求をした。そのことにつき、SNSに事実関係を公表した。子育ては母子密着が多いが、「つきまとう」とか言ったりしないからだ。法曹業界は、別居親差別を前提にした単独親権ワールドなので、手続きは通らなかったが、裁判にあたって彼らの文章表現がやや慎重になった。

 要するに、実名明記の書き込みをするにあたっては、「あいつらが気に入らない」というレベルじゃなくて、それが人権問題なので告発したという体裁をとると、必要な書き込みで世の中のためという理由が立つ。したがって、そのための形式をとるために、「~という人権侵害を受けました」「~というパワハラがありました」「~というセクハラ発言を受けました」といちいち書くのが安全パイだ。あるいは、人権機関への通報や弁護士会や法務局への人権救済申し立て、懲戒請求、司法手続きなどをとり、その事実を公表したり、人権機関に公表してもらうというのが個別アカウントへの攻撃を避けるためには必要なことだ。人権窓口の相談についてのポストがSNSに流れてきたりすることもあるので、そこに事実関係を書き添えてリポストすれば牽制にもなる。

 「家庭裁判所監視団」という団体名で「家庭裁判所チェック」というブログを運営し、寄せられた情報をもとに、「利用者にとって有益な情報提供」という名目で、裁判官や弁護士の実名告発を続けてきたが、このブログにつき意味のある削除要請などは一度もなかった。また、別居親団体はいろいろあるけど、告発があったら団体名で事実を公表したり、裁判所に電話をかけて職員の名前を挙げて苦情と改善を申し入れる、ということは度々した。裁判所は「個別の事件につき対応できない」と逃げるが、人権問題についてその対応はありえないので、「伝えてくださいね」と総務課の職員に言うと、もちろん裁判所職員の態度は変わる。

 近年では裁判官の実名告発につき、裁判の中で報復的に不利な判決を下されるという話も聞くことがあるが、途中で暴言があったときにだけ名前をSNSに投稿するとこういう事態を招きかねない。最初に言ったように、裁判官の名前は公開情報だ。SNSを利用する意図があるなら、手続きを始めた時点で名前を聞き、担当者の名前を最初からSNSに公表しておくのを勧める。いずれにしても、司法は「仕返しされそうだからやめておく」程度の礼儀正しさが通用するような世界ではない。(2024.1.14)

 

陳情の出し方

 議会というのは、大勢では議論を集約するのがたいへんなので、代表者を選出して決めさせ、便宜的にそれがみんなの意見ということにするというつまんない組織だ。民主主義社会だから議会で決まったことには従わないと、とまじめな顔で言う人もいるが、議会は手段であって目的ではないのだから、悪法はきちんと破る、という心構えも民主主義のためには必要だということにもなる。だから、議会が使えそうなときは有効活用しよう。使えそうにない議会は変えればよいし、どうしようもない議員は、選挙で落とすなりしてきちんとやめさせよう。

 国立の市議会はよく国に意見書を出すことが多い。その場合、議員が自分たちで決議することもあるけれど、市民が陳情を出すことも少なくない。議会で議決されれば、それが市議会の意見ということになる。機運を作るのに役立つし、同じような地方議会の意見がたくさん上がって国政を動かすこともある。それにこれはあまり語られないけれど、議員に選択を突き付けて、賛否を明確にさせるという効果もある。こういった賛否を一覧表にして配ったりすると、投票の際の参考にもなるし議員への圧力にもなる。

議員質問、陳情・請願

 自分が持つ問題を議会に取り上げてもらう際、一番しやすいのは議員に質問してもらい、行政の見解を問うことだ。それであまりいい答えが得られないとしても、公の場面で問題が知られるし、何度も質問してもらうことで、いずれは解決しないとならない問題だと行政や他の議員に認識させることもできる。協力してくれる議員を見つけよう。

 陳情というのは、国立市の場合は市民が独自に出すもので、議員の紹介のあるものは請願と使い分けている。他の議会のことはあまり知らないのだけれど、出すなら請願にしろというところもあるようだし(国会とかはそうかもしれない)、いずれにせよ、こういうのがあまり嫌いじゃない議員に事前にやり方や、その議会の習わしを相談でればそれに越したことはない。

出すとき

 議会の始まる前数週間と締め切りが決まっている。議会事務局に聞けば教えてくれる。陳情(請願)項目のついた趣旨文を作って持っていく。議員は最終的には陳情項目に賛否を表明することになるので、文章は仲間と練った方がいいだろう。保守系の議員には、陳情そのものが出ることを嫌がる人もいるので、何かと陳情文はケチを付けられやすい。事実誤認や誤字があるからという理由で不採択にする議員もいる。議会事務局に文章を見せると事務局の人も念入りにチェックをする。資料があるなら人数分用意してくれと言われることもある。新聞記事とかわかりやすい資料を用意しておくといいだろう。いっしょに署名集めをして採択日までに集め、議員への圧力にすることもできる。

議員回り

 陳情を出しっぱなしということもありうるけれど、採択してほしいなら議員に趣旨を説明したほうが丁寧だ。電話して会派の代表者と会って説明することになる。議会が始まってから控室を回ることもできるけれど、最近は事務局を通せとうるさくなった。議員側もまったく知らない内容の場合は、議員が全員聞いてくれる会派もいるし、議会事務局から何度電話しても「今打ち合わせ中」と会おうとしない議員もいていろいろだ。

 味方になってくれそうな議員に、どこの誰から話した方がいいか事前に聞いておくとやりやすい。普通は大きい会派のほうから回らないと軽んじられたと思うのか、ケチを付けられたりしやすい。一方で与野党が拮抗していたりすると、中間派の議員から回ると有効なときもある。いずれにしても議員には難しい人が多い。議員に通りそうにないから取り下げたら、と言われることがある。泣き寝入りを強いる場合や、自分の支持者が割れていて意見表明したくないような場合などが考えられる。そういう議員は自分の仕事が何かわかってないと思ったほうがいいい。従う必要はない。

趣旨説明

 委員会で希望すれば趣旨説明の時間がある。議会事務局はなるべく短く、と言うけれど、必要なことであればきちんとしゃべったほうがいい。議員に質問されることもあるので質問は予想していたほうがいい。仲間に来てもらえれば心強いし、知り合いの議員にあらかじめ質問してもらうことを頼んでもいい。以前は市民の趣旨説明は休憩時間にされて議事録に残らなかったけれど、最近は違っているかもしれない。

採択・趣旨採択・継続審議・不採択

 国立市議会の場合、議員がそれぞれ意見表明して上記のどれかに手を上げ、過半数以上がなければ採択にならない。趣旨採択というのは、趣旨はいいけど……と議員が逃げを打てるあまりよくない制度だ。意見書の提出は全会一致じゃないとダメというところもある。不採択になって反省してもいいけど、わからんちんの議会が否決したと思えばそれだけのことだ。もともと少数派の市民運動なら大勢に影響はない。(宗像充、2016.2.14「並木道」144号)

「法を私たちの手に」、そして未来を切り開くために

 年の瀬に柳原さんの墓参りに原告の小畑といっしょに行った。柳原賢(まさる)さんは、一昨年亡くなり、半年以上経ってからお母さんから連絡があり、押っ取り刀で富山に向かった。「賢のことでできることはほかにないから」とお母さんは原告を引き継いでくれた。賢さんが亡くなったのは心労を重ねたからのようだ。賢さんの娘さんたちとはお母さんも連絡が途絶えているので、賢さんのことをほかに話せる相手もぼくたち以外に多くはないようだった。

2019年の11月に12人で始めた共同親権訴訟は、その間2名が原告を外れ、柳原さんのご両親が原告を引き継いでくれているので、現在11人で控訴審に望み1月25日は判決日だ。訴訟を継続できる条件の人がその人数だったということだ。先日、古い仲間に電話したら体を壊しているという。沈殿した恨みや憎しみは心身に影響を与える。

ぼくの娘は昨年末に18歳で成人した。勝ちにいまだ至らない訴訟に拘泥する父親を娘は「無駄なことを」と思うだろうか。それとも「なんのために」と興味を持つだろうか。2008年に民法改正の市民運動を始め、多くの仲間たちがその間に病んで亡くなった方もいる。力不足を感じるとともに、「仇をとってやる」とも思う。

控訴審判決に楽観はできない。しかし、一審判決で非婚の親の「差別的取り扱いは合理的」と述べて、自らが抵抗勢力であると旗幟を鮮明にした司法が、どのような理屈で自身の正当化を図るのか、それとも幾分たりとも反省を示すのか、見物ではある。

ところで、ぼくたちは司法の判断をただ漫然と手をこまねいて待っていただけではない。本訴訟と同時並行で国は法制審議会を開催し、訴訟の相手方として法務省民事局から面談を拒否された(請願法違反)ぼくたちは、「私たち抜きに私たちのことを決めないで(“Nothing about us without us”)」という障害者運動のフレーズを借りて、そのための手段として本訴訟を位置付けてきた。

訴訟でぼくたちは、憲法的な観点からの単独親権民法を批判してきただけでなく、現行民法が家制度との妥協の産物であることを、歴史的な経過の中から明らかにしてきた。この観点から見ると、現在の法制審議会の議論が、いかに家制度の枠組みにつかった官僚司法の体制を温存するか、という当事者不在の視点で進んでいるかがよくわかる。

たとえば、法務省お抱えの学者委員の棚村政行は 「今回の共同親権とか監護をめぐる問題でも、特別なルールにするというより、合意ができないときに現行の制度や仕組みを維持するとか、そういうルールを採用しているという前提で、その延長線上で認めるということなのだと思っています。」(32回議事録)と、司法官僚の意図を代弁している。

この発言は、今回の民法改革が、最大の抵抗勢力である司法官僚による、自作自演の「改革偽装」であることの証明でもある。「当事者の救済」ではなく「司法の不都合解消」が国の側の改革のやはり意図であった。

であるとするなら、国の側のスケジュールに合わせて、同情を誘って一定の成果を得るやり方はナイーブすぎるだろう。改革に必要性があるのは国であり、そこでいかに彼らの矛盾を明らかにして世論に訴えるのかが「法を私たちの手にするために」今必要なことである。対抗軸を示しつつ、未完の戦後民法改革の完遂を司法官僚と立法府に迫る、それはぼくたちの共同親権訴訟の狙いでもある。

おもしろいことに、足並みをそろえて、子どもに会えない親たちの罵倒を繰り返してきた、しんぐるまざあず・ふぉーらむの赤石千衣子やフローレンスの駒崎弘樹らが、NPO法人運営の杜撰さの批判の矢面に立ち失脚した。権力は単独親権制度の既得権者の保護を解除しはじめた。ところが、それに逆行するように、もう一つの既得権勢力である弁護士たちは、養育費徴収手続きの報酬の国庫補助を得ることに成功している。パワーバランス上の政策矛盾が露見した格好だ。だとするなら、ここは突かない手はない。出口を止めれば水は別の方向に流れ始める。

この半年間が民法改正論争の最大の山場を迎えることが予想される。いま反撃の準備をしている。負けを重ねてぼくたちが得た経験の中に次世代に引き継がれるものもあるだろう。しかし、幕も上がっていないのに幕引きはありえない。(宗像 充、2024.1.8 「共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会」巻頭コラム)

山の郵便配達

 郵便屋さんはお昼ごろ手紙やハガキを玄関脇のポストに入れにくる。

 上の道路から家へと下ってくる道にバイクの音が聞こえると、奥の仕事部屋から慌ただしく玄関に向かう。上がり框に置いておいた郵便物を拾い上げ、ポストに手紙を入れようとしている郵便屋さんに「これお願いします」と手渡す。

 実家の母はポストに手紙を出しに行く代りに、家に来た郵便屋さんに度々手渡していた。それを見ていたので、東京のアパートでも郵便屋さんがやってきたら手渡していた。東京の郵便屋さんはちょっと戸惑った表情を見せていた。

大鹿村で一番近いポストはぼくの暮らす上蔵地区の家が集まっている下の平の道路脇にある。出しに行くには、車道とは反対側に下る。隣の家までは尾根の上、そこから田んぼの脇、空き家になった家と家の間の道、最後に薬缶のお化けが出ると言われる南天畑の坂を下ると10分でポストまで着く。戻ってくるのは倍かかるから1通出すのに30分はかかる。

子どもへの手紙、裁判の書類、市民活動の会報や署名、様々な郵便物がここから出て行き、そしてやってくる。忙しいときに限って郵便物も多いので、歩いて出しに行くより郵便屋さんに手渡したほうが早い。毎日のように頻繁に手紙を出しているとき、手渡しにぼくが表に出ないと、郵便屋さんが「こんにちは」と表で挨拶をしているのが聞こえてくる。時間指定はできない山の郵便配達は、御用聞きはしくれる。

「山の郵便配達」は学生のときに見た中国映画だった。長年山岳地域の郵便配達を担っていた老齢の父が引退し、その息子が仕事を引き継ぐために父といっしょに郵便配達の旅に出る。字の読めないおばあさんの代りに手紙を代読したり、悲しませないようにその手紙の内容を創作したり、郵便配達の仕事は手紙を届けるだけじゃない、ということを息子は感じ取るというのがざっとした内容だった。

この時の父子は、徒歩での泊りでの旅だったけど、日本でも徒歩で郵便物を届ける地域がある。飯田線の静岡県側、秘境駅周辺に取材に行った際に、そんな郵便配達の女性と山中で出会ったことがある。山奥の集落には林道が通じているのだけど、大回りすぎて徒歩で郵便物を届けているのだった。新聞をとると新聞屋さんにはなるべく道に近いところに新聞受けを用意できないかと言われる。郵便屋さんは玄関脇にポストがあればそこまでいちいち郵便物を届けにきてくれる。電報や速達は玄関まで出向くものだからそれはそうなのかもしれない。

小学生のころに父親に連れられて時々行った藤河内渓谷には、数軒の平家の落人の集落がある。当時は大分県宇目町の隠れ里だった。ここには下流からの道ではなく、峠道を越えて、木浦鉱山から郵便物を届けていた。というのも、峠越えの未舗装の道を父親の車で藤河内に向かっていた時、郵便配達のバイクに出会ったのだ。大切峠と呼ばれる峠の周辺は現在は人家もなく、鉱山で亡くなった女郎の墓が山中にあるような寂しい場所なので、なおさら郵便配達のバイクの記憶が鮮明に残ったのだと思う。

峠越えの道を郵便物が行きかうのは、かつては山奥へと続く道では珍しくない光景だったのかもしれない。今年歩いた飯田から遠山への伊那山地を越えて入る小川路峠でもそんな郵便物の受渡をする施設があったことが、峠沿いの案内看板を見ると知ることができた。転勤を命じられた先生たちが、絶望のあまり赴任する前に辞職したという、別名「辞職峠」と呼ばれる峠道でも、郵便物は辞職して引き返したりしない。

長崎県の石木ダムの建設予定地である石木地区に昨年2月の長崎県知事選挙の取材で訪問した時にも、郵便配達の人の姿を見かけた。この地域は13世帯の家族が、強制収用で土地を取り上げられても、反対の座り込みを続けながら暮らしている。ちょうど取材に入ったとき、カメラマンの村山嘉昭さんが選挙用の動画撮影のために滞在していた。その動画の最後にも郵便配達の人の姿が写り込んでいる。「郵便屋さんが来るというのは生活があるってことだから」と、わざわざ郵便配達の人が来るまで何時間も粘ったという村山さんが、その意味を説明してくれた。

大切峠の郵便配達の人に再会したのは、ニホンオオカミの取材で木浦鉱山を訪問したときだった。木浦鉱山の郵便局員のYさんは徒歩で藤河内に郵便を届けに行く途中、大切峠で「ヤマイヌ」と出会ったという。送り狼と郵便屋さんはかつては旅の友だったのだろう。

大鹿村にいながらリニアや共同親権の運動の会活動をしているので、大量の会報発送などでお世話になる大河原郵便局の、ぼくはヘビーユーザーだ。数百通の会報発送時にはラップやらの景品をくれ、よそに転勤していった郵便局員さんと転勤先の郵便局で出会うと挨拶もしてくれる。頼んでもないのにゆうパックの伝票の発送元の印字までしてくれていた。

郵便物の量はネットの発達で全体的に減っている。聞くと郵便物の取り扱い量は考慮されるようだ。取扱量が減れば郵便局も閉鎖され、移住者がやってきて郵便局の格が上がることもあるみたいだ。友人は、手紙を入れると歌舞伎の声が出るポストを作って、村の道の駅に設置した。局ごとに違う風景印は村の郵便局の地味な顔にもなっている。

今は郵便屋さんになっているけど、飛脚を見ればわかるように、村々をつなぐ連絡網は、権力の支配機構とは別の人々のネットワークとして発達した部分もある。だから大鹿村のような秘境が南朝の拠点になれたし、横浜の情報がダイレクトに伝わった五日市で憲法草案も起草された。草莽の人たちに文を届けるのは、命懸けの行為でもあった。

うちの上の家で暮らすMさんのところに村の広報を持って行くと、Mさんが「この間郵便屋さんが包帯していた」と話し出した。「どうしたんだ、その怪我」とMさんが聞くと、「お前んところの犬に噛まれた」と言い返されたという。

うちの家の玄関脇のポストには昨年足長バチが巣をかけた。やってきた郵便屋さんに「そこ蜂の巣がありますから気を付けてください」と注意すると、「もう刺されたわ」と怯え顔で直接郵便を渡された。

(2023.12 越路37号、たらたらと読み切り177)

リニアは無理ゲー

 今年の夏は暑くて、草の成長がものすごい。家や田んぼの周りの草刈りも切ったばかりなのにすぐ伸びて、年中している気分になる。コロナ以後、ぼくの暮らす上蔵の人口も減っているので、部落総出の草刈り作業も以前のように手分けが行き届かず、刈り残した部分が出ている。家の周囲は4回くらい草刈りをした。人間も動物なので、夏の間は活動が活発になるからそれもできる。

あちこち取材に出かけ、山小屋の手伝いや遠方の友人を案内している間に気づけば8月は終わっていた。初夏に隣のKさんが来て蜂の巣があると教えてくれてそのままにしていたら、9月には蔵の下に大きなスズメバチの巣ができていた。また母屋の屋根裏にも巣があるようで、やはり暑いので出入りが活発になっていた。

1年前に注文した薪ストーブができあがり、それを運び込むときに刺激したのか、そのうちの1匹に刺された。動悸がして息苦しくなってKさんに車に乗せてもらって診療所に行き、点滴を打ってもらった。「次刺されたら救急車呼んでください」と看護師さんが言っている。

家にいるとあれこれしてしまうので、8月の末、ハチに刺される前に大分の実家に帰ってしばらく休んだ。自堕落な暮らしをしていると母が「大分に帰ってくればいいじゃない」という。理由は「こっちのほうが便利やろ」のようだ。息子が縁もゆかりもない山奥に離婚して取り残されひとりぼっちで寂しく暮らしている、というイメージなのだろう。

生活するとなると別の苦労も生じるだろうけど、たしかに大鹿村よりは買い物とかは便利なところはある。どうして大鹿村に来たんですか、と聞かれると「結婚したから」と答えてたけど、最近はその説明はかえって面倒なので「山が近いから」と答えるようにしている。

そう思うと、それは随分適切な理由に自分でも思えてくる。家から森や山が見え、思い立ったらすぐ山にでかけられる環境での暮らしは自分にとって重要だ。だからリニアにも反対している、とも思える。山登りは趣味だ。だとするとリニアに反対するのも趣味だよなと思う。仕事は金を稼ぐだけかもしれないけど、趣味は生活や命をかけたりする。

7月18日はストップリニア訴訟の判決日だった。訴訟自体の勝訴は原告の人たちも期待してなかったようだ。それでも、あまりに国とJRの言い分そのままの判決文は、権力の側の焦りと責任放棄を反映しているようにも見える。判決前後には、静岡が足を引っ張っているという川勝批判の記事がネットにはあふれた。運動も敗北して後は静岡だけ、と言いたいようだ。全線の工事の遅れや失敗が訴訟を契機に話題にされても困る。「工期や開業の遅れは川勝のせい」と批判を集中させて問題が出るのを避ける意図は見え見えだ。判決後しばらくすると、ぱったり記事がやんだ。お金も動いただろう。

認可の違法性を問うリニア訴訟でも、認可後の「事後アセス」って何だよという批判が出た。なされるべきだった手続きを求め続けると工事は遅れる。計画が杜撰だからだ。これまで2度工事を止めた。実際には事故は多発し、勝手に工事は止まったし、工事の遅れは目に見えるようになっている。

山梨の山岳会に呼ばれて現地を見に行く機会があった。テレビ報道では、「山梨は着々と工事は進んでいて、静岡が足を引っ張っている」というキャンペーンが貼られていた。同じ現場を見に行くと、工期は2026年までになっている。その後開業まで2年かかるというJR東海の説明を入れれば、やはり山梨でも工期は間に合わない。

というか「掘削が始まっています」とテレビが言ってた現地に行って、後ろを振り返ると街並みは以前と変わっていない。記者たちはこの光景を見ていながらJRの言い分を宣伝するためにニュースを作った。会場に来ていたリニア訴訟の川村さんが、県内の橋脚の建設ペースをもとに計算してみると、完成まで60年かかるという。果てしない。

この状況は長野県側でもさして変わっていない。

飯田市のサイトを見ると、リニア工事の工期一覧が出ている。おしなべて2026年度(2027年3月まで)が完成年になっていて、これは2027年にするとさすがに開業に間に合わないというのがバレるので、前年に一応設定しているというのが理由だろう。実際にはこれでも間に合わない。川村さんが言ってたけど、そもそも2027年に開業できるなんて根拠がなかった。

大鹿村でも、南アルプストンネルの昨年度の進捗状況をもとに、静岡県境までの工期を計算してみると、あと10年かかる。長野県は沿線の中で一番工事が進んでいる県だろう。仮に「静岡県が足を引っ張っている」なら、他県はその分工事は進んでいないとおかしい。2027年まであと約3年。ウソがばれる日は近い。

長野県や県内でリニアを進めてきた下伊那の自治体は、JR東海に開業時期の再設定を求めている。リニアを理由にまちづくりや公共事業を進めてきたので当然だろう。だけど、JRとしては、2027年にあまりに近いとやはり間に合わないし、あまりに先に開業時期を設定すると、計画が無謀だったのかバレる。なので言わないだろう。「リニアは無理ゲー」というこの状況は遠くない未来に露見する。

大鹿村では、住民の不満や反発を無視して村政はJRに利益誘導してきた。柳島村政から変わった熊谷村政は、ことリニアに関して言えば、むしろJRの側に立った言動が目立つ。最近では、長野県が新たに作った盛り土条例に基づいた、大規模盛り土の説明会の開催が課題になった。

JRは村と協議して、この説明会の開催を直近の自治会の釜沢だけに実施した。しかしこの盛り土計画は、県に申請する段階で一度事前審査でダメだしされた。盛り土の上に土を盛るにもかかわらず、上部部分の設計しか説明していなかったという。

では釜沢の説明会自体も無効ではないか。釜沢は丘の上だ。実際に影響を受けるのは、下流の自治会だ。しかし豊丘村ではした下流域の説明会を大鹿村ではしなかった。

この点についての疑問を直接長野県の盛り土担当の部署と飯田建設事務所の職員と懇談という名目で実施した。久々の行政交渉に松川の仲間2人と4人で行った。この条例は熱海の盛り土崩壊を受けたもので、本庁の行政担当者としても、いい加減な運用がされると今後にかかわるという気もあったのか、むしろぼくたちの側の話を積極的に聞いてきた。

それで「リニアは無理ゲー」という先ほどの説明をすると、それはほんとなのかと笑い話に聞こえたようだ。これは仏頂面で迷惑顔のリニアを進めてきた飯田建設事務所の連中とは対照的だった。彼らにしてみれば市民の前で恥をかかされた、ということになる。

その後、大鹿村の担当者とも懇談した。

総務課長とリニア担当者と職員が3人出てきた。以前は副村長の長尾が、「意見が違うから」とか「業務妨害だ」とか舐めた態度で市民の意見をつぶしてきたのが勇退。

「村長としては工事を進めて早く終えてもらっていなくなってほしいという思いだと思う」

と課長が言うので、「リニアは無理ゲー」という説明をする。

「あんたたち、リニアができるからと住民の不満をつぶしてきたんだけど、工事はあんたたちが協力したところで終わんないよ。そろそろこっちの話を聞いた方がいいんじゃないか。大鹿だけだよ、こんなに協力して住民が我慢し続けてんの。ずっと我慢させるのか」

上蔵では、要対策土という名の有害残土の実証実験が始まっている。村に質問状を送り、そこで言及された資料を物色すると、有害残土の不溶化材による処分法というのは、高速道路のトンネルなどの大量の残土発生に、安価な処理方法として研究されていることがわかる。福島の原発の汚染水の排出も、他の方法が金がかかるから安価で無策な処分法として反対の声をつぶして実行される。

リニアの有害残土の問題は岐阜県の御嵩町でも生じている。近くで民間業者が要対策土の再処理工場を作っても、JR東海は金がかかるからそこには運び込まず、町有地も含めた処分地計画を進めようとする。公害というのは、業者の営利主義を行政が止めなかったり後押ししたりすることで生じる。水俣病を見ればわかる話だ。

「説明会なんかJRにやらせとけばいいんだから、わざわざ間に入ってもめごとを作り出す必要ないんだよ」

 と念を押した。ちなみにJRに説明会実施の要望書を本社向けに送ると、はじめて地元の事務所から電話で「やんない」という回答が来た。電話口で工事の回覧は自分たちで配って自治会に下すなと言うと、はじめて戸別配布が実現した。文句を言い始めて7年目だった。

 ぼくが県と懇談をしたと村の課長に説明すると、「県からは説明会をしたほうがいいと電話がきました」と小さな声で言っていた。

趣味には根気強さも必要だ。

(2023年10月、「越路」36、たらたらと読み切り176)

 

司法の迷走と「逆コース」

一審は「差別的取り扱いは合理的」

6月22日の一審における不当判決から4カ月が経ち、共同親権訴訟は11月2日に控訴審の弁論が始まる。通常控訴審は1回で結審することも少なくないため、初回結審を阻止するために多くの方に参加傍聴をお願いする。

一審判決で古庄研裁判長、石原拓裁判官は非婚の父母の「差別的取り扱いは合理的」と原告の訴えを退けた。法制審議会で単独親権制度の現行制度を維持する選択肢が事実上排除されたと報道される中、この極端な反動ぶりは司法の感情的な反発と組織防衛の反映である。判決内容自体も矛盾をはらむ。原告側の議論の提示を否定するために先行判例を物色したものの、先行判決との論点の違いを司法が解消できなかった結果である。

結果、母親(父親)が孤立した子育てをするのも、婚姻外の子どもが親を知らないのも、制度の問題ではないと判示してしまった。これは婚外子差別に反対し、ひとり親の困窮をアピールする人たちにとっても、素直に喜べない結果だろう。

司法の逆コース

 9月27日には、連れ去り国賠訴訟で東京高裁の不当判決が出ている。高裁はあえて「(現行の)家裁実務に対し、強い批判があることは窺われない」との文言を判決文に入れ込んだ。また、当裁判の原告の宗像が問うた面会交流不履行に対する損害賠償請求や、他の複数の面会交流不履行の損害賠償請求訴訟で、このところ高裁での棄却判決が出ている。以前は債務不履行として司法が判例を積み重ねてきたのにだ。

昨今の実子誘拐批判、連れ去り容認司法批判の中で、権利回復を求める被害者の訴えを逐一否定することによって、司法は権利主張そのものを抑え込もうと必死だ。しかしこれらは、司法決定自体を司法自身が守らなくてよい、と対外的にアピールするに等しく、組織防衛でありながら自身の存在意義を否定する劇薬である。

であるとするなら、この司法の腐敗ぶりをどこまで公然化することができるかが、この民法改正運動の帰趨を制すると言ってよい。相変わらず養育費のピンハネや男性の被害者性に対して沈黙しているが、マスコミ報道は「連れ去り」の存在を解禁した。テレビドラマでも「実子誘拐」や子どもを取引材料に使う弁護士たちの悪行が徐々に取り上げられるようになってきた。この傾向は、逆コースに走る裁判所にとっては、おちおちできない事態だろう。高裁弁論期日の「ハチャメチャ家裁祭」に結集を。

自己改革不能な司法官僚システムと家制度

 ところで、各国で進められてきた単独親権から共同親権への転換とは、共同親権による父母の共同責任の明示によって、父母の法的な関係と、親子関係を分離することが最終的に目指された。親権制度の改革とはそれを呼ぶ。父母は結婚していようがいまいが父母である。

本国賠訴訟の狙いもそこにある。父母間の不平等の根拠となっているのは、婚姻外の父母の「差別的取り扱い」そのものである。そのことによって婚姻中も含め親の養育権が侵害されるため、父母の共同責任が否定される。よって原告は現行民法と司法のやりたい放題の憲法による規制を求めた。そもそも単独親権に、他方の親の子育てを否定する目的などない。

現在、法制審議会の司法村の住人たちが取りまとめようとしている答申案は、この点を意図的にスキップしている。父母の意見が別れたらわざわざ単独監護者を指定するなど、今と同じ国の過剰介入である。それに対して保守的立場から民間法制審が取りまとめた法案も、結局のところ父母を婚姻による親権者とする点で、婚姻制度に親権制度を従属させている。いくらいい提案をしたところで、大本で対抗案となっていない。現行の婚姻制度は結婚を戸籍、つまり家への所属の問題としているため、戸籍の不合理性を問いかけなければ「差別的取り扱いは合理的」というイデオロギーに取り込まれるのだ。

「部外者」だから合理化される差別的取り扱い

本件一審判決は単独親権制度の立法目的を子どものために「適時適切な意思決定」ができることであると言及している。戦前においては、子も親権のない親(母)も親権者(父)の決定に服する。この場合でも、家に所属する子の処遇を親権者が決めることで、他方親の養育を否定することが目的ではない。しかし、家(戸籍)に所属しない親の場合、「部外者」がその権利性を司法によって正当に尊重されることがあっただろうか。「差別的取り扱いは合理的」とは、「部外者」であるからこそ肯定され、それが家父長制家制度の目的である。

この部外者排除システムの元においては、共同親権は家内部の親に与えられた称号以上の意味はもともとない。国や一審判決の言う「適時適切な意思決定」が単独親権制度の目的なら、共同親権など本来望ましくないからだ。したがって、共同決定ができない場合には、前倒しでその称号がはく奪されて無権利状況に陥る。家制度の番人の司法のもと、個人の尊重と男女同権は敗北を重ねてきた。

戸籍は単なる登録簿ではなくイデオロギーである。イデオロギーでなければ、戸籍に忖度して親権制度の改革を手控える必要は本来ない。そして体制内部の自己改革の道に展望は見いだせない。ぼくたちは、憲法を武器に、控訴審での国の矛盾を引き続きつきながら、彼らのイデオロギーの源泉を白日のもとにさらしていく。「犬神家の一族」のふるさと、諏訪での集会「犬神家の民法改正」もその一手である。(2023.10.29宗像充、共同親権訴訟冒頭コラムから)

共同親権 学習会とグループワーク

なんてこった!「子どもに会えない」なんて

共同親権 学習会とグループワーク

『共同親権』『子どもに会いたい親のためのハンドブック』の著者とともに、子どもの連れ去り、離婚後の共同子育て、家庭裁判所について体験を共有しながら、共同親権への理解を深めます。

【日時】2023年10月~2024年1月の原則第2土曜日、各回13:00~17:00

【場所】日本橋公会堂会議室(東京都中央区日本橋蛎殻町1-31-1)

「水天宮前」駅6番出口から徒歩2分、日比谷線「人形町」駅A2出口から徒歩5分

https://www.nihonbasikokaido.com/shisetsu#access

*入口の掲示板で場所を確認ください。開催場所が変更される場合があります。変更情報は「共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会」のサイト、SNS等でお知らせします。

【講師・司会】宗像 充(ライター。共同親権訴訟原告、『子どもに会いたい親のためのハンドブック』著者、『結婚がヤバい』を刊行予定。15年にわたって親子引き離しの相談・支援をしてきた)

【資料代・運営協力費】1000円*予約不要

<家族を修復するグループワーク> 

13:00~14:00

連れ去り、親子引き離し、離婚、DV(家庭内暴力)、モラハラ、不登校 etc 否定のない自由な語り合いで気づく、あんなこと・こんなこと。あなたにあった「いい関係」をいっしょにつくります。

【学習会「フォー・ビギナーズ 共同親権」】各回内容(予定)

14:10~15:00

どうして「子どもに会えない」? どうしたらいい? をいっしょに考えます。

<第1回>10月14日(土)フォー・ビギナーズ 子どもの連れ去り・引き離し

お話 染木辰夫「引き離され歴30年の父親が見た日本の司法と家族法」

「子どもの連れ去りとは何か」「引き離されたらどうしたらいいか」を考えます。

<第2回>11月11日(土)フォー・ビギナーズ 家庭裁判所

「司法で理屈が通じないのはなぜか」「家裁とは何か」をいっしょに考えます。

<第3回>12月9日(土)フォー・ビギナーズ 家制度と民法改正

お話 島津友彦(戸籍研究家・出版業)「戸籍制度が家族関係に果たす役割」

民法改正や国賠訴訟の論点、現行民法と家制度(戸籍制度)について意見交換します。

<第4回>2014年1月13(土)フォー・ビギナーズ 別れた後の共同子育て

実際の共同親権での子育ての仕組みやいまできることについて共有します。

<自助グループ> 

15:00~17:00

子どもと離れて暮らす親、別れても共同での子育てがしたい方、互いに気持ちや事情を聴いて、 勇気や知恵を出し合う場です。

主催 共同親権運動・日本橋の会

TEL0265-39-2116メールmunakatami@k-kokubai.jp URL https://munakatami.com/category/family/

【訂正】クサガメ/イシガメ

 先日2017年に出した『ニホンオオカミは消えたか?』の読者からメールが来た。

「本の冒頭あたりに、オオカミの再導入に関する例え話として「在来種のクサガメ」という表記があります。しかし現在では、クサガメは外来種とされる説が濃厚です。これは「イシガメ」の誤りでしょうか?

クサガメ外来種説に関して、一部に議論は分かれる部分もあるようですが、日本固有種のイシガメの存在を脅かす存在であることは事実です(ウンキュウという交雑種も存在しています)。

そのような問題がある中で、この本としてあえてクサガメを在来種と表記するリスクはないのかなと思いました。特に本の内容として「種」に触れる場面が多いので、クサガメを在来種と書くことで、宗像さんの評価にケチがついてしまうのが心配です。」

評価にケチがつく、という部分でいえば、たしかにケチがつくような実績しかないのであんまり心配してないのだけど、調べて訂正する記事を書くとお礼ととともに返事をした。

指摘の部分は、本書の15ページ目で、オオカミ導入論がある中で、ニホンオオカミが独立種だとすると外来種の導入で在来種が駆逐される場合のたとえ話として、「在来種のクサガメ」が外来種の「ミドリガメ」に駆逐されていることについて触れたものだ。

この「在来種のクサガメ」が外来種ではないかという指摘だ。ウィキペディア等ネット情報を見るだけでも、実際イシガメ(ニホンイシガメ)が日本固有種であることに争いはないものの、クサガメについては本州以南のものはかつて自然分布と考えられていたが、今は朝鮮半島から18世紀末に移入されたと考えられているという。

長野県では現在では外来種とされているハクビシンがかつては天然記念物だった。DNAの研究の進展で論争に決着がついた例もある。そうはいっても、外来種によって固有種が危機にさらされているということについて例を挙げようとして、論争や研究成果などきちんと調べもせずに不用意に書いた間違いで、ご指摘通り「イシガメ」と書けば問題はなかった。いったいいつからいるものが「固有種」なのかという論点はたしかにある。ただそこはこの場合論点ではないので余計な詮索を招いたという点でも例としては不適切だ。

書いたのは7年前で記憶も古くなっている。クサガメはイシガメ属でもあるので、その辺も混同の理由かもしれないものの、この本はほかにも調査不足からの間違いを指摘されているので、軽率な態度が招いたものとして反省する。重版の際にはもちろん訂正する。(2023.8.31)

「ここが変だよ」法制審議会親権法要綱たたき台

法制審議会家族法制部会では2023年8月29日に、事務局から要綱のたたき台が示された。報道では今年中に意見を取りまとめて要綱を答申することが予定されている。実際に家庭裁判所の手続きを経て子どもとの関係を絶たれた親として内容を一瞥してみた。

親子関係と婚姻制度との分離

多くの国が婚姻外は単独親権限定だったのが、婚姻内外問わず共同親権へと移行していきました。海外の親子法の改革の肝は、父母の共同責任を法制化することによって、親どうしの関係の婚姻制度と切り離すことに本来の狙いがありました。フランスの民法のように、親の法的地位の変動に、親権制度は影響を受けない、とあえて明記している国もあります。

そうしないと、家や親の意向で共同親責任を果たすことが困難になり(養育放棄や子の囲い込みなど)、子どものためにならないという発想です。そのために、平等な養育時間が法原則として採用されました。

ところが、昨日出された法制審のたたき台は、改革のターゲットを婚姻外に当初絞ったために、この分離が不徹底に終わった点に最大の問題があります。

もともと今回の法制審は、なるべく現状の司法慣行をいじらないで、養育費の徴収率を上げる、というのが当初の狙いでした。そういった狙いは、親子間の交流については前提とせず、一方養育費については法定額を問答無用で課すなど、現状の「会えないのに金は払う」という、搾取体制を正当化するものです。

不平等な司法慣行を反映

「搾取」と呼ぶのは大げさではありません。

たたき台では、父母間で親権についての合意が得られない場合、司法の判断にゆだねることになります。ところが現在の司法では女性が94%の割合で親権を得ます。要するに男女がともに仕事や養育を担うのではなく、男性が稼いだ金を女性に移して子育てさせる、という家族モデルを前提としています。

一方が逃げたり子を囲い込めば、共同親権で合意を得るのは期待できません。そうなったらいくら司法に決めさせても、司法は女性を親権者(監護者)にする(男性の親権をはく奪する)し、引き離したら手紙送付でも交流になるんだから、現状と何も変わりません。

法制審では面会交流について、「試行的実施の必要性や相当性を判断する前提」が必要で、「実施に当たって家庭裁判所調査官等の第三者の関与について定めておく」「さらに、安全・安心な状態で親子交流の試行的実施をするためには、一定の遵守事項を定めておくことが望ましい」などハードルを課しています。

これらは、現在子を連れ去られた親が、被害者であるにもかかわらず様々な要件を課せられ、できもしない無実の証明を課せられる司法慣行を反映したものです。

しかも、たたき台の解説文によれば、「親子交流」について「親子交流を実施する方法としては、対面での交流のほか、電話やウェブ会議などを通じた交流や、子の写真、動画等の送付による交流など、様々なものが含まれ得る。」とされます。司法は「高葛藤」によって写真や手紙の送付ですますのは目に見えており、法的お墨付きが与えられる分改悪です。

違憲、子どもの条約違反

また、婚姻外の規定のみに法改正を絞ったために、性中立的に共同親権を可能としながら、「子の出生前に父母が離婚した場合又は(母と法律上の婚姻関係のない)父が子を認知した場合には、親権は、母が行うものとする。ただし、父母の協議で、父母の双方又は父を親権者と定めることができるものとする。」と、今度は不合理に女性を親権者とするという、明らかに「両性の平等」に反する違憲規定が登場する結果になっています。

さらに、家の存続のための再婚養子縁組制度を温存したため、「養子となる者が15歳未満であり、その父母双方が親権者である場合には、当該父母が共同で縁組の代諾をするものとし、当該父母間の意見対立時には上記第2の1⑶の規律により調整する」と、司法の審査を得るべきとする子どもの権利条約の規定や勧告にも反する規定も盛り込まれました。

改革を「婚姻外」に絞った結果、かえって婚姻外の「差別的取り扱いは合理的」(東京地裁)という司法慣行による婚外子差別と、親どうしの不平等を強化するたたき台。なぜ日本で単独親権制度を変えられないのか?家父長制を起源とする単独親権制度を払しょくできないのはなぜか?はもっと議論されていいでしょう。(2023.8.30)

子の連れ去り訴える選挙ポスターで逮捕 羽田ゆきまさ報道局弾圧事件

獄中からの出馬表明

 現在東京拘置所に収監されている金村まことさんは8月2日、獄中から8月27日に告示予定の立川市長選に立候補を表明した。声明文では、4月の大田区区議会議員選挙(4月23日投開票)に立候補し、「その選挙ポスターに記載された事項について名誉毀損に問われた」と収監の理由を説明している。

大田区在住の金村さんは、羽田ゆきまさのペンネームで、ネットメディア、羽田ゆきまさ報道局を作り、選挙や議員活動、社会問題を動画で配信している(「羽田ゆきまさ」のほうが通っているため、以後羽田さんとする)。動画配信のコンテンツには、「子どもの連れ去り」という枠もあり、ぼくも出演したことがある。

ぼくは子どもに会えない親として、2008年から親権問題についての活動をしてきた。親子の引き離しの被害者たちの自助グループも開催していて、羽田さんもそこに顔を見せていた一人だ。

現在共同親権への民法改正が度々話題になっている。離婚や未婚の際に子どもと会えなくなった親たち(父親が多い)が運動を続けてきた。ぼくもそのために国を訴える訴訟を起こしているので、羽田さんにも動画を配信してもらった。

 8月2日の出馬宣言は、羽田さんの代理人の下村大気弁護士から記者クラブとぼくにも送られてきた。電話をしても通じない羽田さんが東京拘置所にいるのがわかったのは、7月20日の下村弁護士からの「取材してほしい」という連絡でだった。5月22日の逮捕後、6月22日に起訴されていた。8月4日に長野県から小菅の東京拘置所に向かった。

顔写真・「DV妻」のポスター

こちらが質問する間もあまりないまま、羽田さんは間仕切り越しに経過を説明した。

大田区議会議員選挙で羽田さんが貼りだしたポスターは、子ども2人の写真を載せ「子ども連れ去りの被害者」と説明している。2人の脇に目の部分に黒の横線を入れた女性の顔写真が挿入され、「DV妻のこどもたちへの暴力を田園調布警察や児相に相談していました」とある。このポスターを選挙掲示板98カ所に貼ったのが逮捕起訴された理由だ。

子どもたち2人の名前も入っている。見た人はそれが羽田さんの妻と子どものことだと思うし(実際そう)、知り合いなら目に黒線を入れていても子どもの顔名前が出ているので母親も特定できる。

暴力の存否

ポスターの記載について本人や下村弁護士の説明をまとめると次のようになる。

羽田さんは車を運転中に後部座席の妻から助手席をけられたのをきっかけに、田園調布警察署に相談した。2019年のことだ。警察と、警察から連絡を受けた児童相談所が双方に話を聞き、しばらく沈静化したものの、翌2020年4月には子どもが水をこぼしたことで妻が子どもを折檻する。この際妻が子どもを連れて実家に行き、以来羽田さんは子どもと会えていない。

羽田さんの口調からは悔しさがにじみ出ていた。母親の児童虐待事件は日々事件になっているし、相談を受けている限り女性が暴力をふるうのは珍しくない。

もちろん、妻の側は暴力の事実については否定して羽田さんを告訴したため、捜査機関としては名誉毀損容疑で逮捕起訴したという流れになっている。この点は裁判で争われる。

連れ去り事件?

羽田さんのポスターには「こども連れ去り反対」の主張もある。「連れ去り」という用語を使うかどうかが、共同親権の賛否にかかわり政治化している。現状維持派は「避難だ」と言い、変革派は「連れ去りだ」と言う。どっちにしても子どもを「囲い込まれた」と言えば実体が理解しやすいかもしれない。 

羽田さんは、この選挙ポスター以外にも複数の種類の「連れ去り」をアピールするポスターを用意している。羽田さんとしては自身が受けた理不尽な扱いが社会問題だと、選挙を機会に広く知ってもらいたかったのだろう。

「名誉毀損 vs  スラップ」

 ところで、親権問題を報じるメディアについての「名誉毀損事件」がこのところ度々起きていて、報道する側は委縮しがちだ。

昨年12月には、マクロン仏大統領来日と東京五輪開催に合わせてハンガーストライキをしたフランス人男性、ヴァンサン・フィショ氏の妻側が、名誉毀損で出版社などを訴えた。今年の4月にも別のメディアやライターへの提訴が続いた。

プライバシー侵害も争点になっている。不思議なのは、当の母親は記者会見で発言しつつ、情報の発信元のはずのフィショさん本人は訴えず、メディアだけを訴えている点だ。もちろん訴えられた側は、訴権の濫用としてアメリカなどでは規制法もある「スラップ(Strategic Lawsuit Against Public Participation)訴訟=口封じ訴訟」としてアピールし対抗している。

親権に関する事件の場合、これらの手法は、女性の側の被害者性を前提とし、男性の側の被害を否定することで世間にアピールしているという点を理解しないと混乱する。「連れ去り」と言うこと自体、男性の側がもっぱら被害者という点でこれまでの「女性=被害者、男性=悪」という構図を崩すものであり、故に感情的な反発も強い。

母性神話

日本外国特派員協会でフィショさんの妻側の記者会見を見ていて驚いた記憶がある。会見の弁護士の一人が、記者の一人が足を組んでいたのを見とがめて「女性に失礼」という言葉で非難したのだ。「足を組むのが失礼」ではなく、「女性に足を組む」ことが失礼にあたる。逆に言えば相手が男性なら問題ない。これは親権をめぐっての家族の問題でも当てはまる。

警察としては羽田さんに仮に暴力被害があっても「問題ない」。しかし彼女の側が被害を訴えると見過ごせない。ある憲法学者は「連れ去られた」と男性の側が被害を訴えると、母親の側の言い分も聞かないと不公平だと訴える。しかし男性の側が虚偽DVを主張すると、「それがDVの証拠」「被害者を疑ってかかるなんて」と途端に両論併記が吹っ飛ぶ。

これは一般的に言って母性神話だと思うが、司法で女性が94%の割合で親権を指定される現行制度と運用が是正されない原因ともなっている。羽田さんが選挙で不当性を訴えたかったのはこの部分だろう。それへの逮捕起訴は故に弾圧だ。

選挙で子どものことをアピールする

 ところでぼくは羽田さんが大田区の選挙に出馬するときに、ポスター貼りの人集めの協力要請を受け、接見でも立川市の市長選挙で同様の依頼をされた。とはいえ、自分の名前をアピールするでもなく、主義主張だけで人は動かない。他人を巻き込む気もなくて断っている(そもそも事前にポスターを見ていない)。

 ただ、警察も児童相談所にも不信がある中、羽田さんが不当性をアピールする手段としてとったのが選挙ポスターというのはわかる。

子どもや母親が特定される形でのポスターはどうだろう。

連れ去りは誘拐なので、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の拉致問題になぞらえてアピールする当事者たちは多い。もちろん拉致被害者の顔写真を出さないと世間にはアピールしないから、国はそれを並べたポスターを作り、メディアは北朝鮮の政治指導者の名前を、「名誉を毀損するから」と報じなかったりはしない。

「子どもがいじめられる」という懸念は出やすい。一方これが子どもへの被害の告発だとすると、父親の羽田さんは子どもに周囲の監視の目が行くように配慮したとなる。こうなると、親でもない他人がとやかく言うことかとも思う。民事不介入なら母親の告発だけを警察が事件化する理由もない。

 名誉毀損罪は公共の利害に関する場合には例外になるので、裁判ではその点が争点になる。そもそも初犯で起訴なんてと思う。逃亡も証拠隠滅の恐れもないのに勾留は2か月を超えた。検察側からすると、98カ所の量の多さと羽田さんが妻側に接触するのではという懸念から、羽田さんの拘束を解かない。しかし本人は父親として制度を変えるために選挙活動をするのが本位だろう。

公判は8月9日14時半、東京地方裁判所828号法廷で第一回目が始まる。(2023年8月6日)