別居親がまとまれないから法制化ができなかった?

という意見を持つ人が別居親の中には少なからずいるようだ。自分は別に何かまとめるためのことをしてるでもなく「経緯を知ってる」顔をして批評しているダサい人もいると聞く。

 こういう意見は本当だろうか。

国会議員に陳情に行くと、議員から「ばらばら来られて困る。まとまってくれないか」と言われることはときどきある。とはいえ、議員というのは人々から意見を聞いて政治に反映させるのが仕事なので、むしろ似た課題で多くの人が意見を届けに来るというのは、それだけ大きい社会問題だと認識してもよさそうなものだ。

 また、まとまったからといって、政治課題が実現できるかと言えば、例えば、朝鮮民主主義人民共和国の拉致問題の家族会は、共同親権運動よりも歴史もあり、以前から一枚岩で、別居親の何十倍も世間の同情を買っているが、「拉致被害者の全員帰還」という政治課題をいまだに実現できていない。

政治課題には政治課題なりの課題の大きさの違いがあるのだから、まとまったらすぐに目的が叶うわけではないだろう。例えば、2011年の民法766条改正のときには、別居親団体は今よりも数も少なくて、ある程度足並みをそろえた部分があったけど、目標としたのは民法766条改正ではなかったはずだ。別居親が声を挙げなければ実現しなかったかもしれないけど、今と同じでハーグ条約加盟圧力という外圧もあり、国がガス抜き的に国内法をいじったのが実態だ。

 ぼくも何回か経験があるけど、当選者1人の選挙やらは、ある程度足並みをそろえれば当選可能性が高まる場合もあるので、そういうやり方も有効な場合がある。ただ、足並みをそろえることは、政策を実現することとイコールではないから、当たり前だけど、動きが悪くなる場面も当然出るし、場合によっては足を引っ張られることもある。

 逆に、団体がばらばらしているから有効な場合も当然ながらある。例えば、ハーグ条約や共同親権反対の運動はこの10年間一貫してある。いつも彼らが政策をすり合わせて議員ロビーでも足並みをそろえていたかと言えば、そんなこともないだろう。バラバラ議員に訴えかけて、うんざりさせて、それで目的を達しているのだから、彼らから見習うことは多い。

 議員の側からすれば、団体がまとまっていれば、団体のトップの頭を押さえつけていれば原則的な意見(多く少数派だったりする)や違う観点からの懸念を、直接聞くこともなく団体の幹部のせいにしてあらかじめ調整させることができる。これはずいぶん仕事が楽だ。共同養育支援法案のプロセスではこれが見られた。

 以前も書いたけど、何を実現したいのかの獲得目標のない運動など、しても意味ない。短冊に願い事を書いても人任せで、願いが叶う保証もない。法律を作るのは議員だけど、彼らに税金を払って仕事をさせているのはぼくたちで、彼らもまた、多くの人が納得のいく解決策を真剣に考えて提示したっていい。法務官僚に法案を書かせても、今のままが楽だから現状維持の法案を作りがちだ。

 団体がまとまるのが目的ではなく、政策を実現するのが目的なら、実現する政策をまず決めないと、「どれでもいいから実現できそうなものからしてください」なら、「どれも無理そうだから全部だめ」とぼくが政治家なら言うだろう。目的のために組織という手段があるので、目的のはっきりしない団体の民主主義を論じたところで意味はない。こういう場合、「目的は一緒だから」は「俺の言うことを聞け」と同義だ。

単独親権前提で、それを微修正して積み上げるというやり方は、結局、「私には関係ない」という当事者が多すぎて、当事者をまとめるなんてできないし、反対意見にも対抗できない。一部の当事者をヘイトすれば法案を潰せるのだから反対派にも楽だ。

一方、単独親権制度を撤廃、という逆方向の提案は、「それって関係ないと思っていたけど私にも関係あるかも」という人が多く出てくる。家族の形や性役割から派生する問題は多くの人にとっての課題で、そういう問題意識を共有できる。

当事者がまとまるなんて結果であって、何の課題の当事者か、というのでまとまる対象も変わってくる。たしかに、十年前は誰も共同親権なんて知らなかったから、現実味を感じなかったけど、これだけ共同親権という言葉も出回ってきていて、別居親が「単独親権制度を終わらせよう」と今言わないと、政策論争なんて永遠にできない。

目的意識のない別居親ももちろんいるだろうけど、そういう人は別に単独親権制度のままでいいから、いっしょにやる必要は全然ない。無理にいっしょになればお互いの足を引っ張ろうとして、根拠のない中傷を垂れ流し主導権争いに血道を上げる。ただし、「自分が子どもと会えればいい」という主張だけなら、それを政治課題の上位に上げてくれるほど、世間の人はお人よしには思えない。

 あと、宗像は運動から金をもらわないと生活できないから、法案ができないようにしている、なんていう批判もあるそうだ。今までの説明からそういう批判は根拠がないことはわかるだろう。というか、社会事業家が経済的に暮らしていけることはいいことなのに、そんなしみったれた批判をよく思いつくものだ。今年の大河ドラマ見ろ。

ちなみにぼくの本業はライターだ。楽な暮らしではないけどそこそこ人生を楽しんでいる。(2021.01.21)

女たちの離婚サバイバル

西牟田靖『子どもを連れて、逃げました。』

 著者の西牟田さんは、前作『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』に続いて、離婚と子どもの問題を、当事者たちから話を聞き出して、ルポとしてまとめている。

 ぼくは自分も子どもと引き離された経験があるから、どっちの本も読み始める前は自分の経験と反響して身につまされたり、しんどくなったりするんじゃないかなあと思っていた。だけどどちらも単純に読み物としておもしろく読み進められた。なぜなんだろう。

 自分の体験をベースにして、他の人のこともよく理解しようと話を聞き進める著者の姿勢とプロセスには、率直さを感じて好感が持てる。もう一つは、話をしてくれた方の体験は、どこにでもいそうな「普通の人」であるにもかかわらず、一人ひとりドラマを抱えているというのにあらためて気づくからではないかなと思った。今回は女性の側が離婚を乗り越えていくプロセスを聞き取っていくのだけど、それらを読んで感じたのは「たくましさ」だ。

 本の帯には、DV、モラハラ、浮気、貧困とあるし、語ってくれた女性たちの経歴も、マジシャン、イベント屋、弁護士などいろいろ、そして結婚や子どもができるに至った経過も、学生のときの同級生や国際結婚、父親には子どものことを告げていないなど共通する部分もあまりなくて、次の人の話はどんなだろうなと思って読み進めることができる。

そして、離婚というのは、そういうドラマを引き起してかつ、それぞれの人に試練を与える冒険なんだろうなと読んで思った。帯には「困難な状況をどのように生き抜いたか」と書かれているけど、つまりこの本は、彼女たちのサバイバル体験を収録している。多分、そういった体験は、離婚体験のない人にとっても興味を掻き立てる。「界隈の人」向け本として読まれるのはもったいない。

そして、そう思わせるのは、著者本人の「違った世界を見てみたい」という好奇心の強さが背景にあるような気がする。シングルマザーの本であれば、被害者目線で多くまとめられていたと思うけど、この本はそういったカテゴリーから抜け出ていて、新しい取り組みだと思う。そういう意味では、前作も、子どもに会えなくて泣いている男、という世間一般の基準で言えば、かっこよさとはマッチしないところが、おもしろ味につながっていたのだと思う。

著者の西牟田さんは、本人も子どもと引き離された経験があるのだけど、彼女たちの話を一人ひとり聞き取っていくにつれて、自分の家族との体験や思い込みが客観的に見られるようになり、心が揺さぶられている過程を率直に書いていて、それが本書のもう一つの「見どころ」になっている。

例えばDVの扱いでは、前作を作る過程では、親子の引き離しやでっち上げDVについて取り上げ、なんてひどいことをすると感じたと本書にはある。それに対して戦闘モードでやってきた編集者との出会いから、じゃあ逆の立場はどうなんだと取材を重ねる。そして今度は多くの女性が父親から引き離したいとは思っていない、DVの危険がある場合は、簡単には会わせられないと述べるようになっている。

課題も見えそうだ。子どもに会いたい側がいて、父親への関与を望む側もいて、だけど危険があれば引き離していい、となっていること自体が、現在の制度の限界だろう。著者は、共同親権・共同養育の知識があって、登場人物たちの発言や行動について相対化したり、自分の経験をジェンダー的な観点から振り返りもするけど、基本的には、父親が会いたい側、母親が会わせる側という対照軸になっている。どうしても、その発想の中からの異性の置かれた立場に対する視点の欠如への振り返りという感覚になりやすい。

それ以外の性役割を超えた実践をしている人、例えば、子どもに会えない母(一部本書にも出てくる)や、同居父などの経験は周辺的な問題として制度を扱う場合に考えられやすい。また、危険性という観点からのDVと引き離し問題の扱いだけでは、では子どもが両親から愛情を受けて育つにはどうするのか、という視点が弱くなる。

これらはいずれも本書をまとめるにおいては著者の関心の範疇外だったと思うので、「ないものねだり」であるのは確かだ。だけど、体験談と制度を両方見据えて本書をまとめているので、課題として出てくるのは避けられないかなあと思う。(2021.1.17)

虚偽DV、でっちあげDVはあるよ

今SNS上では、虚偽DV、でっち上げDVと言わないようにしよう、という議論があるというのを人から聞いた。そういう議論は昔からあって、ぼくも「DV冤罪」とか言わないほうがいいんじゃないのと言ったことはある。ただ、当たり前だけど、離婚家庭支援をしていて、この問題は相当の害悪なのは明らかだ。

冤罪というのは、やってないのにやったと言われて罪を問われることだ。ただ日本の定義ではDVは主観的なものだ。つまり「思ったらDV」なので、被害を主張する人の主観を否定してもしょうがない。

なので、「冤罪」かどうかを議論しても永遠に結論は出ない。表現は微妙だ。DVは日本語に直せば家庭内暴力のことなので、それ自体で言えば、DV罪というようなものはなく、傷害罪や暴行罪で取り締まられることになる。

ただし、日本のDV対応は民事対応なので、家庭内暴力の被害を訴えても、警察は捜査せず「シェルターに言ってください」となる。また、シェルターに行かなくても、支援措置で相談履歴だけで住所非開示がなされるので、実際に暴力がなくても「暴力があった」と言えば、「逃げる」ことができる。

ここに虚偽やでっち上げがあれば、制度の信頼性が低まって制度自体が使えなくなることにもなり、実際にDVの人が「嘘言ってるでしょう」と言われて行政から信頼されなくなる原因にもなる。 共同親権の議論とは関係なく、むしろ社会問題としてきちんと対処しないとならない。虚偽やでっち上げで人を貶める行為は、それ自体人権侵害だし、場合によっては法廷侮辱罪や虚偽申告罪になるし、DV被害者の敵だ。

実際、裁判書類とかを見ても、「馬乗りになって首を絞められた」とかワンパターンで描写しているものが別の事件で見られたりして、虚偽やでっち上げが横行しているのはよくわかる。こんなことがされていること自体がDV施策が失敗している証拠だ。実際、単独親権の中、DV・虐待の申告は年々増え続けている。単独親権に何の抑止効果もないのに、共同親権のために虚偽DVと言わないようにしようというのは、制度上何の整合性もない。

ただし、なぜ、「虚偽DVと言わないようにしよう」というのかはわかる。

現在、国会議員の間で進んでいる議論は、共同親権はやむなしだから、いかに抜け穴を作ろうか、というものが考えられる。こんなのはこの10年間、親子断絶防止法の議論のときから繰り返しされてきたことだ。つまり「DVや虐待のおそれ」の場合は、「特別な配慮」をすべきことをどこかの条文に潜り込ませるのが、多分狙われている。

共同養育支援議連というのは、そのための団体なので、あそこに所属すれば「虚偽DVと言わないようにしよう」と言い出す流れになる。主張を一致させるために、当事者を選別して切り捨てるということがこういう場合よく起きる。

「虚偽DVがある」なんてことになれば、「DVや虐待のおそれ」に「特別な配慮」をして引き離しを容認することができなくなる。つまり、虚偽申告罪や法廷侮辱罪など、実際の犯罪であっても、家庭内暴力の場合は罪に問わないなんてことにもなる。濡れ衣を着せられた人にとっては、悔しい思いをすることだろう。実際にないことにもかかわらず、「父親はDV」と言われて引き離された子どもにとっては、親から裏切られ、社会からも裏切られ、二重に裏切られることになる。子どもの権利の観点からも、断じて容認できない。

妻から別れを切り出された側が、実際に自分のことを内省する機会を得ることは重要だ。しかしそれは別に妻の側だって同じく重要だ。現在のDV施策は、女性の側が善意であることを前提に組み立てられている、ということは内閣府の男女共同参画局の役人が言っていたことだ。

「虚偽DVと言わないようにしよう」という主張は、男女ともにDVの加害者にも被害者にもなり、多くDVは双方向的なのもだということを無視していて、DVの防止には何にも結びつかないどころか、むしろ相手を陥れる道具にDV施策を使うことを許す。しかもその対象が男性限定という点で、男性差別だし、女性は被害者という性役割に根付いたものだ。親権議論を進めるために、こういった犯罪を容認するとしたら、何のための共同親権だ。

しかし実のところ、家族に関する価値観が別れてきた中、民事不介入は自力救済と同義になり、単独親権制度があるが故に、裁判所に基準がなく、だから先に連れ去ったものに既成事実として親権を与えるしかない。しかも女性が被害者しか想定されていなくて、相談や支援は女性しか対処しない。そうなると、とにかく女性が訴えればなんでもDVになってしまうわけだから、男性の側が不満を抱くのは当たり前。それを「虚偽DVと言わないようにしよう」なんて言ったら、男は被害を受けても泣き寝入りをしろ、と同義になる。軽率すぎる。

むしろ、DV施策については、とにかく男性も女性も加害も被害もあるのだから、相談も支援も男女平等にするしかない。そうなれば、女性のみを「保護」するのではなく、男女ともに刑事罰で対処されることになり、適正な手続きのもとで、実際に罪があれば贖うこともできる。被害者が逃げるより、加害者がまず収監されて一時的に引き離される。DV加害者が親権をもって、子どもを虐待する可能性も低まるだろう。女性支援に携わる人が「男はとにかく危険」と偏見で見ることもなくなる。

DVは家庭内のものだから、立証するのが難しいのはあるだろう。だけど立証が難しいのは何もDVに限らないし、多くの殺人事件は家族関係のもとで起きている。それでも「冤罪」はあるかもしれない。だけど、虚偽が「ない」とされていればそれに対処できないけど、「ある」のが前提なら、それに応じた対処の仕方ができる。

国会議員やらと仲良くなって「あるある」は、自分もまるで為政者であるかのように勘違いして、そういう発想で利害の調整を先に想定して考えてしまうということだ。たしかに法律を決めるのは国会だし、それを使って施策を打つのは行政だ。だけど、彼らが何のどの利害を代表して行動するかは、声や道理を通じて民衆が訴えかけること、要求を届けることで左右される。

国会議員と仲良くなったから、同じSNSで議論できているからと、自分が偉いなんて思い込んで 当事者をコントロールしようとするのは、分断を当事者に持ち込むだけだ。政治は市民がするものだ。

後藤富士子さんの「選択的単独親権」論

「選択的単独親権」とは

 毎年弁護士の後藤富士子さんから年賀状が届く。小さい字でみっしりと、家族法に関するコラムを毎年書いてくれていて、今年は何を書いてくれてるんだろうなあと思ったら、今年も共同親権のことには触れていた。特に、今年のコラムは婚姻制度と、同姓/別姓、共同親権/単独親権のことに言及していて、婚姻制度との関係について興味深かった。

 後藤さんは、自民党内での「選択的夫婦別姓」議論について、「夫婦同姓」原則を永続化するだけではないかと述べ、民法上の規定は性中立的だから、女性差別には該当しないという。何を「女性差別」と呼ぶかは議論があるだろうけど、以下年賀状の内容が論文みたいなので引用してみる。

「むしろ、夫婦同姓の強制は法律婚を優遇する制度に根差しており、『事実婚差別』というべきもの。また夫婦同姓の強制は、結婚によって夫婦のどちらか一方が氏を喪失するから、『個人の尊重』と両立しない。」

 憲法上の価値を踏まえると、夫婦別姓を原則とし、同姓を選択制にする「選択的夫婦同姓」が「合理的」となるという。

 この論理を単独親権制度にスライドさせると、事実婚では原則として母の単独親権で、これも「事実婚差別」。離婚によって父母のどちらか一方が親権を喪失するのは、『個人の尊重』と両立しなくなる。そうなると「未婚・離婚を問わず、父母の共同親権を原則とする。例外は、婚姻中でさえ認められる辞退や親権喪失宣告など家裁の処分のほかに、父母の自由な選択による単独親権を認められてよい」とある。この場合、引き離しの被害者が親権放棄を迫られる事態や養育放棄の問題はなくなりはしないけど、考え方の筋道としてはすっきりする。

家庭生活を国から個人に取り戻す

 夫婦同姓の強制や婚姻外の単独親権規定は、後藤さんの言うように、婚姻制度を優遇してそれ以外の家族形態を差別するために必要な規定だ。一夫一婦制でみんな結婚できるし、子どもを作って一人前、みたいな感覚を定着、広めるためには、その型にはまらない家族関係との間で、法的な差別を設けるということになる。

というか世帯単位の戸籍を先につくったから、それに合わせた民法になっているのだけど、世帯を通じて徴税や徴兵を行い、国の意思を体現させるために家庭が役割を果たした。後藤さんは「家庭生活を国家の統制・管理に委ねず、『個人の幸福追求』の線上に取り戻すことが肝要ではないでしょうか?」と結んでいる。

 共同親権訴訟では、親の養育権を憲法13条の幸福追求権として位置づけて、原告は単独親権規定によってこれを侵害している国を訴えた。相手との関係が婚姻しているしていない(未婚・離婚の場合)によって、子どもと会えなかったり、子どもを一人で引き受けさせられたり、不公平じゃないかと述べた。

これに対して国側は「婚姻制度の意義」を反論として前面に出してきた。訴訟では、「だったらその意義って何なのよ」と国側に聞いている。

後藤さんの言うように、だいたい婚姻中共同親権と言ったって、子どもに関するすべてのことを共同決定している夫婦は少ない。共同生活していれば、「学校のことは母親、進路のことは父親」「ごはんを出すのは母親、保育園の送迎は父親」(性役割的になっている場合も少なくない)とか、何となく役割分担している夫婦もいるけど、これは何も婚姻外や別居中でも、取り決めがありさえすればできるわけだから、婚姻内外でそれを区別する理由がそもそもない。

もともと子どもの両親は二人いるんだから、原則は共同親権でしょう(時に応じて決定権をそれぞれに渡すことはある)というのがものの道理だし、共同親権運動の主張だ。後藤さんのコラムは、法律的にそれを裏書きしてくれている。

ちなみに、現在国が主張したり、早稲田の棚村さんやらが主張している、選択的共同親権は、実質、単独親権をどうやったら温存できるかという議論なので、今の連れ去り・引き離しの違法行為を規制するつもりはさらさらない(女の人が「かわいそう」だし、男は黙って金出せ、子どもに会えないくらいがまんしろ、というまったく古臭い理由)。

共同親権と個人の尊重をともに

先日、共同養育ができる親の資質みたいな記事が出ていたけど、共同養育なんて関係の問題なのだから、別居親の側の資質だけ議論したところで見当はずれでもある。別居親の話を聞いていればわかるけど、別居親の側に対する引き離し行為が長期化するのは、同居親側に、親家族の支援がある場合が結構な割合である(別居親側の主張の背景に跡継問題がある場合も少なくない)。

一時的にシェルターに入って女性支援の手を借りても、結局は実家やその近くで暮らして、他に養育を手助けしてくれる人がいたり、その人たちが引き離しを肯定してくれたりしている場合だ。別居親が主張し続けると、それなしに引き離し行為をし続けるのは難しい。だから双方に共同親権を前提にした支援がなされるのが、これからの支援の目指す方向だ。

以前は親権取得割合は男性のほうが多かったのが、1966年を境に、女性が親権を取得していく割合が高まっていく。その理由は不明だけど、その間に核家族化が進んでいって、むしろ強まったのは子育ては女性の仕事という性役割かもしれない。後藤さんも言っているように、「今も昔も家制度。父系が母系になっただけ」ということなのだろう。

そういう意味では、原則共同親権にして、親の法的地位の異動にかかわらず、子どもから見たら父母がいて当たり前という感覚が浸透していくことと、家族関係はそもそも個人間のもので個人が幸せになるための手段(つまり家があってどう所属するかの問題ではない)という感覚を個々人がどう身に着けていくということは、同時並行で目指されるべきことだ。

共同親権は子育て支援の切り札

共同親権になっても過剰な期待はできない?

 アエラの12/27配信記事に、「共同親権になっても別居親は「子どもに会えない」? 共同養育ができる親の“資質”とは」という記事が出ていた。

ちょっと違和感があった。

子どもと引き離された親にそれぞれパーソナリティーがあるのはわかるけど、記事のタイトルからわかるように、共同養育ができる親の条件を資質の問題にしていいのだろうか。ぼくも引き離し問題の支援にかかわる中で、多くの別居親たちに会ってきたけど、何かしら学ぶところはあるし、切羽詰まって状況に適応できなくて悩んでいる人は多い。でも平均してみれば世の中一般の人と変わらないと思う。

そんな中、法的な手続きにしろ、心理的な対処にせよ、どちらも支援だと思って当事者の話を聞いている。日本の場合、子どもと引き離された側の支援の場合、法的な対処がきわめて限定されているうえに、単独親権制度という制度が問題を引き起こしているので、紛争が起きやすくなっていて、勢い、心理的なサポートの比重も高くなっている。

特に現在の制度的な枠組みでは、もっぱら女性の側を被害者と推定した支援しか行われておらず、法的にはDV法によるDV被害者支援や、その後の離婚係争支援がなされ、男性の側での公的な支援がほぼまったくない状況になっている。

引き離された側の支援は、一部の弁護士や民間の手にゆだねられていて、こういった支援の偏りが、双方に対する公平な支援を不可能にしている。それが当事者たちが制度の不公平感に目を向け、その改変のために働きかける動機になっている。

この記事は、こういった構造の不公平さをあまり考慮していないように感じられた。支援の不足の問題を当事者の資質の問題にすり替えているように思えなくもない記事だった。共同養育が可能になるのは、別居親が同居親に理解を示してはじめて可能なのだろうか。つまり、現行の「子育てするのは女の仕事」という社会常識を前提に議論が組み立てられていると感じた(その意味では「単独親権ワールド」)。

共同親権は共同養育権

アメリカで共同養育という言葉が用いられる場合、半々の養育時間の配分か、あるいはそれにより近い養育時間の配分割合の場合を指していて、単純に双方が子育てにかかわるという意味ではないと理解してきた(2019年の国連子どもの権利委員会の勧告の邦訳にあたり、CRC日本は「共同親権」ではなく「共同養育権」という言葉を選んだ)。

例えば、年100日以上の「相当な面会交流」と呼ばれる養育日数は、面会交流権で共同養育権とは呼べないと思うのだけど、この記事の趣旨で言えば、日本のように、月に2時間の面会交流でも「共同養育」と呼べることになる。つまり、子どもに親が二人いる以上、「権利」として実質平等の養育時間(かそれにより近い養育時間)の配分を相手に求める共同養育(請求)権が本来双方にあるのだという前提を、意図的に避けているように思える。

 離婚を切り出された側が、まずは相手の気持ちを受け止めたり、謝ったりしたほうが、協力関係を築きやすい場合があるのはそうだし、ぼくも自分の経験を語って支援することはある。だけど、ぼくもそうだったけど、実際問題本人がそうできないのは、構造に対する不公平があるのに、自分だけがそれを求められるのはしんどいからだ。

支援者が構造の問題について目をつぶり、本人の努力だけを求めるのは乱暴だ。結局本人の気づきを待つしかないという実情がある(これに対して女性支援の側は単純だ。女性は被害者なので、「あなたは悪くない」ということになる)。

単独親権制度を撤廃することが、最低限かつ最大の子育て支援

 特に支援者側が、構造の不公平を自覚しながら、当事者が声を上げるのを待つとなると、当事者の側は当然「え、わかっててあなたは声を上げてくれないの」と思うだろう(記事の発言者がそうしていないというわけではない)。

 共同親権になったからといって会えない親がいるのは制度の趣旨を理解し得ない人や、制度を悪用する人がいるのだから当たり前で、それは共同親権の国でも会えない親がいることからわかる(といっても、日本とはその量と質は全然違う)。

専門家や共同親権の議論を意図的に避けてきた国会議員や一部の当事者グループの間では、共同養育という言葉を用いるべきだという議論があるけど、一般には共同親権という言葉が浸透しているし、法的な支援の不足を議論する場合、むしろ単独親権と共同親権という対照のさせ方のほうが理解しやすい。共同養育は親から見た養育のあり方の問題だけど、子どもから見たら「パパもママも」という実態を直接的に表現するのは共同親権だろう。

つまり、共同養育という言葉だと、単独親権制度があるが故に生じる、支援の障壁や支援のメニューの不足、その背景にある構造の不公正が見えにくくなるのだ(だから個人の資質の問題に行きやすい)。

「子育て改革のための共同親権プロジェクト」が問題提起したのは、「ジェンダーギャップ指数(男女格差指数)」は153か国中121位という数字でもときどき語られるように、結局、根強いこの国の性役割(性差別)意識が単独親権制度を温存させてきたということだ。

逆に言えば、「子どものことで妻とけんかしてもどうせ勝てないでしょう」という、単独親権制度があるが故のあきらめが、「だったら子育ては女がすればいいじゃん」という意識を生み、男性の育児分担が進まない原因になる。引いては女性の社会進出も進まない。

だとすると、単独親権制度を撤廃することが、最低限かつ最大の子育て支援であり、日本の沈滞した社会構造を大きく変える起爆剤になる。この点を積極的に打ち出すことが、今、共同親権運動で求められていることだ。別居親の主張が正義を勝ち得るとしたら、自分たちのことだけ心配していても響かないだろう。

以上指摘して、アエラの記事の執筆者、発言者にも本稿で議論を投げかけたい(読んでくれたらだけどね)。

家に行ったら警察を呼ばれないですか?

子どもを連れ去られたり、約束を守ってもらえなくなったりして、裁判所も味方になってくれないとき、子どもの居場所が分かっていれば、「家に行ったら」と勧めることがよくある。

別に親が子どもに会うだけのことだし、子どもが住む家に様子を見にいくのは当たり前のことだ。

だけど、「弁護士に止められます」「警察を呼ばれたりするんじゃないでしょうか」「裁判官の心象が悪くならないでしょうか」と子どもと引き離された親は不安でいっぱいになる。

通常弁護士や裁判所は、司法の場以外のところで何かされることを嫌がる傾向がある。司法の場であれば、勝ち負けも含めてある程度の結果が出て、それにクライアントや利用者が従ってくれたら仕事は楽だ。負けても「別居親の弁護は難しい」とかとりあえず言っておけば着手料だけはとりっぱぐれない。

弁護士にとっては、争点が増えるので、裁判で有利に事を運びたいと思ったら、できればクライアントが不確定要因を生じさせることは避けてほしいと考える人は多い(もちろんあえて争点を増やすやり方を戦略としてとることはある)。

裁判官も同じで、「余計なことをして」と苦々しく思う人はいるかもしれないが「いいことじゃないですか。裁判官さんは喜んでくれると思ってたのになあ」とか言ってれば別に問題にならない。

そもそも会えていない状況で、弁護士が会わせてくれるでもなし、司法もあてにならないのなら、今以上に悪くなる要因がない。むしろ何をやっても自由だ、と考えたほうがいい。

だけど、警察を呼ばれたらどうしよう。

相手が面会を拒否しているときに、実際に警察に呼ばれるのもよくあることだ。こういう場合、会いに行く名目は「安否確認」だ。警察も「安否確認」が目的だと、一概に追い払えないし、トラブル防止のため寄り付くなと言われたら、「だったらあなたたちが安否確認に行ってください」というと、実際に行ってくれたケースもある。

トラブルが予想できるとき(多くの場合予想できる)、あらかじめ警察の生活安全課に相談して、「もしかしたら向こうが警察を呼ぶかもしれませんし、呼ばれたら来ないといけない立場はわかりますが、こうして相談しているのもわかるように、事件性はないですし、そもそも民事不介入ですから」と言えば、呼ばれたところで問題は起きないし、警察も双方の利害の調整は民事不介入でできない。何回も行っていれば警察もなれて呼ばれてもめんどくさくなってかかわらなくなる。

事件になるのは、敷地に入ったり、相手の挑発に乗ってフィジカルなトラブルになったりする場合だ。ストーカーに関して言えば、男女間の問題なので、子どもに対してはまず適用されない(親が子に会うだけなので当たり前だ)。

今年、オーストラリア人のジャーナリストのマッキンタイアさんが住居侵入で逮捕され有罪になったので、自分もそうなったらどうしようと心配するのはわかる。マッキンタイアさんの場合は、部外者立ち入り禁止のマンションのオートロックのドアの内側に入ったことが罪に問われたけど、通常住居侵入の扱いは略式で罰金刑にされる(10~20万)ので、裁判まで行くのはめったにない。事後逮捕だったし、見せしめの弾圧だったのはついてなかった。

夜討ち朝駆けのジャーナリストたちは時々逮捕されることもある。だけど、たいがいの場合は会社が罰金を払ってくれる。逮捕されるのはあまり気持ちのいい経験ではないけど、最長でも23日の勾留で、起訴されることはめったにないし、起訴されたら、「子どもに会うのは正当な理由」と構成要件を争うこともできる(マッキンタイアさんは戦略的に争わなかったので有罪になったけど、争っていたら憲法裁判になって判例になったかもしれない)。もし逮捕されたら連絡してくれたら救援を組むこともできる。

だけど、家まで行ってピンポンを押して、「〇〇ちゃんいますか。安否確認に来ました」と言って、ポストに手紙でも入れて引き上げれば通常は問題にならない。向こうから挑発されてエキサイトするのを避けたり、後々証人になってもらうことを考えたら、録音や撮影の用意をできるだけして、弁護士、カウンセラー、親家族、友人と誰かに同行してもらうのがいい。ぼくはカウンセリングの後に同行支援もすることがある。

家まで行っても子どもに会える場合は多くはないかもしれない。ぼくは実際に会えたケースも見たし、親だけが出てきたときもある。当人同士が顔を会わせると何か言いたくなって、言い合いになると別居親には不利なので、「今日は会わせないということですね。ではまた来ます」と同行者に言ってもらうのがいい。

定期的に何回か行っていると、話し合いを拒否していた相手が話し合いに応じたり、調停を申し立てたりすることがある。そのときに、「実際に家に行っているんだから」という実績は大きい意味を持つ。そもそもトラブルになってないし制約は今更できない。「家まで行っても会わせないのは向こう」と言いやすい。

何よりも子どもの周りの環境にこっちもなれるし、会いに来ること自体が大げさなことではないと向こうも学ぶし、よくしたら、子どもの家の周りの人と知り合いになれるかもしれないし情報も得られる。子どもとあえなくても、子どもは親が来たことくらいはわかるので、その場では会えなくても後々意味がわかるだろう。そして行動することは、会えない親にとっては大きな安心感につながる。

そういう実績が広がっていけば、親が子どもに会いに来るのは当たり前のことという社会環境が広がるし、人々が共同親権という考え方に接するいい機会になる。やってみてね。

Fielder【vol.55】反権力 生活の 勧め(後半)

長崎県川棚町川原 ー元祖・ふるさとを守るたたかいー

長崎県川棚町川原地区。町の中心から十分ほどの谷間に一三戸約五〇人が暮らす。ここに石木ダムの建設計画が浮上したのは半世紀以上前。建設を進める長崎県は強制収用によって昨年九月、地区内の土地をすべて取り上げた。それでも建設工事を止めるため、地区の「おじさんおばさん」は毎日座り込みを続ける。一週間いっしょに座って、ダム反対の川原ライフに入門した。
文・写真 宗像 充


盛り土の上でイスに腰掛ける?

「ここはおれのふるさとたい」

地区総代の炭谷猛さんが建設現場を案内してくれた。朝早く墓地に続く道を登り、砂利道を下った先の赤茶けた土の上に、二〇人ほどの男女がイスを出して座っていた。炭谷さんとぼくは、そこと工事現場を分ける柵を越え、高台から現場を見下ろした。

「炭谷さん、困りますよ。工事現場内を勝手に歩かないでください」

大丈夫なのかなと思っていたところに、長崎県の職員の一人が寄ってきた。炭谷さんが言い返したのが冒頭の言葉だ。口論になって脇で見ていたぼくも「あなたは誰だ」と名前を聞かれた。「答える必要あるんですか」と問うと、「不満があるなら裁判すればいい」と言い放った。

前日の一〇月二六日が、長崎県が示した物品撤去の期限だった。イスを入れる物置や旗竿、テーブルとベンチの写真を載せた看板がある。県側は「道路区域内の不法占有物」として撤去の要請をしている。そのテーブルでぼくは地区の女性たちが出すコーヒーをすすった。

ここは県道の付け替え道路(三・一キロ)の建設予定地の一画だ。一六日に抜き打ちで土砂が運び込まれ、だから赤土の上に座っている。それまで平日の午前中だけだった座り込みを午後と土曜も実施するようになった。この日、座り込みは九四二日を数えていた。

炭谷猛さんは地区の総代で、川棚町の町議会議員。選挙ではトップ当選だったが、町議会では唯一のダム反対派。

「小さなダムの大きな闘い」

背後の鋭鋒、虚空蔵山から流れ出た二つの支流が身を寄せ合うように合流する場所に、川原地区はのびやかに棚田を広げ、家々が点在している。夏にはホタルの群舞が見られるという。その集落を回り込むように、付け替え道路が森を切り開きながら鎌首をもたげた蛇のように這い上がっている。

川原にダム計画が浮上したのは一九六二年。長崎県と佐世保市が二級河川川棚川の支流、石木川に計画した。堰堤高は五五・四メートル、総貯水量五四八万トン(東京ドーム四・四個分)。総事業費は五三八億円の多目的ダムだ。虚空蔵山の頂上から見下ろすと、きんちゃく袋のような地勢の川原は、格好のダム予定地に見える。

「最初はハウステンボスに水を使うと言ってたとよ。それが今は佐世保市の渇水に備えてとなっている」

現地で座る女性たちのまとめ役の岩下すみ子さんは佐世保市出身だ。石木ダムは当初、針尾工業団地の水がめとして計画された。ところがこの計画はとん挫し、予定地は現在テーマパークのハウステンボスになっている。

「県はそこで計画を見直さなかったし、次は治水と目的を変えていく」

岩下さんが憤る。建設側が理由とする一九九四年の渇水も「全国的な渇水で佐世保市だけじゃなかった。納得できない」。実際、ダムのできる石木川は川棚川全体の一割の流域面積しかなく、ダムを作っても洪水は防げない。

当時の建設省がダム計画を認可すると、住民たちは「石木ダム絶対反対同盟」を作り立ち上がった。同盟の幹部が切り崩されると同じ名前の同盟を再結成し、一九八二年には機動隊一四〇名を投入しての強制測量を実力阻止。「小さなダムの大きな闘い」と呼ばれた。集落内には、櫓や反対看板があちこちにあって、人々はその中で暮らし、世代を重ねている。

一〇年前に付け替え道路の建設が始まると、重機の下に座り込むなど建設阻止の衝突が再び起き、その末に今の座り込み場所がある。土地は取り上げられても「一三軒住んでいてダムができるとは思わない」と岩下さんがきっぱり言う。女性たちは柵を乗り越え「みんなの土地」を見て回る。

初日に長崎県の職員と言い合いになった後、ジャーナリスト向けに出された掲示。施工業者が筆者の車を撮影するなど建設側の警戒感が伝わってくる。

2017年、夜間抜き打ちで重機が持ち込まれた。住民たちは重機の下に座り込んだ。(撮影・山下良典)

佐世保市の水道局には「石木ダム建設は市民の願い」の垂れ幕が。川原からは車で40分ほどかかり導水時には途中の峠はポンプアップする。

「石木ダム絶対反対同盟」の幟旗は「室原王国旗」。ダム建設史上最大の紛争と呼ばれる、松原・下筌ダム闘争で一三年間の反対を貫いた室原知幸が作った。熊本・大分の県境を流れる筑後川の山間に「蜂の巣城」と呼ばれる砦を築き、国の強制代執行と「交戦」した「蜂の巣城の闘い」は松下竜一の『砦に拠る』で読むことができる。「日の丸」を反転させた王国旗は、人民が権力を囲む。川原で反権力の命脈を保ってきた。

昨日も今日も明日も座る

週に何回くらい来るのかと聞くと、「毎日よ」という答えで驚いた。これは一週間やってみるしかない。

休み時間には茶菓子とコーヒーが出て「いつもよりサービスがいい」と軽口をたたく。

それが二日座っただけで消耗する。埃っぽいし日差しも強い。朝、目の前の柵の向こうに出勤する県職員が去れば、監視カメラで見張られる。これを雨の日も風の日も一年中続けている。

「今日私たち温泉に行くんだけど行くかな」と岩下さんに火曜日に言われて飛びついた。「若い男を連れてきた」と受付でわざわざ言うお隣の岩本菊枝さんの言葉を、「もう若くないです」と否定する。町内の入浴施設に隣近所三人組の女性たちで週二回通う。そうでもしないと体がもたないのがわかる。

一〇年前に付け替え道路の建設が始まるときに、最初に抗議行動を組んだのは、一三軒の家の女性たちだった。顔が識別されないようにマスクをし、お揃いの法被を着、人数を水増しするために案山子をつくって出陣した。ゲートの前に後ろ向きで並んで歌を歌った。今も座り込みの主力で半日交代でやってくる。そのときの「川原の歌」を現場で合唱してくれた。春風がそよぐような歌詞とメロディーがやさしい。

「男は生まれてからずっといる。女はよそから来る。それが男よりがんばってるんだから」と男性陣の石丸勇さんは感嘆する。

「女は女で苦労をともにしてきた。長男の嫁でばあちゃんもいて、みんな同じ立場だった。出ていく人もいる中で、隣近所、仲間は大事。反対して助け合いながらなんでも正直に本音でつき合える。この重さはお金では代えられない」

岩下さんは付け替え道路の工事が始まるまで、一〇戸を移転させた水面下の切り崩しを振り返る。

「この人賛成やろか、反対やろかと人が信じられない。だからって付き合わないわけにはいかない。一三軒になって結束は強くなったけど、その間はきつかった。私たちの年代で中止にせんと、子どもたちに申し訳ない」

隣近所3人組で温泉に連れて行ってくれた。左が岩下すみ子さん、真ん中が岩本菊枝さん、右が岩永信子さん。

座り込み現場で「川原の歌」を歌う地区の女性たち。「日本うたごえ祭典」でも合唱した。歌詞は「自然を守る人が住む」と結ばれる。

「土地を取られても何も変わらない」

「住民たちは追い詰められている」

虚空蔵山に登った帰り、川原の上流、全戸移転した無人の岩屋地区でぼくが撮影していると、川を眺めていた年配の男性が話しかけてきた。「懐かしいからきた」という。

「ダムができないと何のために出ていったかわからないからでは」

川原に戻ると地区に暮らすイラストレーターの石丸穂澄さんに道で出会った。「怖い人たち」と見られがちな住民たちの横顔をイラストで発信している。自宅の田んぼはずさんなダム関連の道路工事で水路が切られ、来年から営農できるか未定だ。

「脅しや嫌がらせは昔から受けていて慣れている。無理して作れば予算は何千億円もかかって困るのは県民。追い詰められているのは県のほう。土地を取られても何も変わっていない」

妹が川原に嫁いだという男性も隣町から座り込みに来ていた。

「妹は住み続けるという。法的には不法侵入。どうするのとは聞けない」

そう言いながらも週に一度は加勢に来る。新聞を見てはじめて来た男性、この問題はおかしいと志願してきた新聞記者、そして近隣から集まってくる支援者たち。一四〇メートルの阻止現場の奥行きは、思った以上に広かった。

石木川にはヤマトドジョウなど約20種の川魚がいて種類が多いのが特徴。シーボルトの標本採集も石木川でなされたのではないかと言われている。(絵・石丸穂澄)

「神主さんが来ているので死体が出たかと思った」とカメラを持って飛び出してきた石丸穂澄さんは「風景が変わっていく」と嘆く。神主は移転した家の屋敷神を合祀する神事を行っていた。

未来を取り戻すために

週末、川原の一画にティピと呼ばれるテントが出現した。満月の日に合わせ「田んぼフェス」が開かれ、コンサートや神事、法話、餅つきまで盛りだくさんだった。

主催した越智純さんは、次は本体工事という時期に「里山の暮らしはこうだった。原点回帰としてキャンプしてここでみんなで感じてダム計画を考えてみよう」と外部から祭りを持ち掛けた。セイタカアワダチソウが茂っていたかつての田んぼは「無断使用」。でもそれは地区内どこも同じ。

「農機で起こした人が『土が喜びよるごたる』と言っていた。来年は稲を植えられれば。ここはダムのおかげで砂防堰堤もない。まるで地区全体がビオトープでタイムカプセル。今の時代に向いたアウトドアやエコロジーライフの実験場にできないでしょうか」

集落に一歩入ると感じるなつかしさの正体はそれだった。もともと町にも近く、災害もなく住みやすい。新築した家も多い。だけどここは行政サービスの埒外だ。公民館も古くて、農地の区画整理も河川の護岸整備もない。

「時間が取れなくて畑の草は伸び放題」と石丸さんが週末にやってきたお孫さんと芋ほりをしている。岩本さんが「ここは県が買収したとこ」と畑で大根を抜いていた。座り込み現場で見る人も、平日は勤めの現役世代も、農作業に汗を流し、物珍しそうにお祭り会場に現れた。河原では子どもたちが遊んでいる。華やいだ週末だった。

「よく考えたらふるさとに守られてきたんだなあ」

ステージでスピーチした炭谷さんが口にした。川があれば子どもが遊ぶ、畑があれば野菜を育てる、イノシシがいれば罠を仕掛ける、月をめで広場があればお祭りをする……それはずっと昔からの人間本来の姿に見えた。ふるさとを守る闘いは、そんな未来をぼくたちの手に取り戻すことだろう。

週末に現れたテント村でフェスが開かれた。手前が越智純さん。

週末に孫がやってきて芋ほりをする。右が石丸勇さん。

目的意識のない当事者運動

宗像が当事者たちを分断させてきた

 この間、当事者の間(主にネット)でそういった批判がある、というのを何回か知り合いに聞かされた。ツイッターではぼくの個人名を挙げて、集めた金を使い込んでいる、という根も葉もない批判がなされている(らしい)というのも教えられている。

 こういった行為は名誉棄損で刑事犯だから、告訴したらどうかと親しい人には促されるのだけど、感想で言えば「またやってら」と思った。こういう行為は別居親当事者が何回となく繰り返してきたことだ。公金横領は犯罪なのだから、ツイッターに書きこむほどの証拠があるなら、刑事告発すればよい。

 とはいえ、単独親権制度を温存するための訴訟妨害を放置するのもなんだから、共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会(進める会)のホームページには、会員向けに出した案内を掲示した。

きっかけは、「子育て改革のための共同親権プロジェクト(プロジェクト)」が発行した提言書を、進める会が会員向けに郵送して、会費更新の郵振を同封していたことをきっかけにしている。進める会は訴訟に勝つために、世論を盛り上げるプロジェクトの提言書発行に、知恵出しや発行費用の分担という形で協力しているのだから、その対価で受け取った冊子を会員向けに配ることに何の問題もない。その点を明記した案内文をつけて会員向けに配ったにすぎない。

振込用紙を入れたのを「金集めでおかしい」という批判もあると聞いて、頭の中に「?」マークがいっぱいついた。市民運動をいくつかやっていると(市民運動じゃなくても同窓会や趣味の団体でも)いろんな団体から会報といっしょに振込用紙が入っているのを日常的に見かける。こういう批判をする人は、その経験がないのだろう。

今後、こういう批判をした人は、カンパ集めとかクラウドファンディングとかいった「金に汚い」行為は一切しないだろうから、すべて手弁当でがんばってほしい。

金を集めて獲得目標を手に入れろ

市民運動をするときに、資金をどうするか知恵を絞るのは、アメリカの大統領選挙で、資金獲得競争が話題になるのを見ればわかるけど、当たり前のことだ。

例えば、2014年には平等な養育を求めて、アメリカの中間選挙に合わせ、北ダコタ州で住民投票が行われている(http://kyodosinken-news.com/?p=7816)。この州は人口67万人のだが、「北ダコタ親の権利イニシアティブ」は、州の法律の修正を求めて、15,001筆の署名を集め、うち14,400筆が有効(住民投票のためには13,452筆が必要)と判定された。

この修正案が成立すれば、両方の親は、離婚後も原則的に、親として等しい権利を持ち、子どもの養育を等しく行うことになるはずだった。修正案への賛成運動を行うための活動資金として、主に個人から計268万円が寄付され、修正案への反対運動を行うための活動資金として、北ダコタ弁護士会から500万円、北ダコタ弁護士会の家族部門から200万円、計700万円が寄付されている。そしてこの修正案は住民投票で否決されている。父親の権利運動が地道な取り組みをしても、反対組織に金を積まれればひとたまりもない。

進める会がファンディングで支援していただいた額は300万円余だが、活動を継続するために資金が必要なことぐらいはわかる人はいるので、ありがたいことに重ねて入金してくださった方は少なくない。

政治家の汚職事件が問題になるのも、目的を達成するためには金が必要になって、それがルール違反の場合にしょっ引かれるにすぎない。当事者間の主導権争いのために、個人攻撃に血道を上げるくらいだったら、みんなが金を出したくなるような企画を出すほうがよっぽど民法改正につながるだろう。

とはいえ、やりたいのは民法改正ではなく主導権争いだから、こういう中傷や足の引っ張り合いが何回となく繰り返されている。やるなら、山本太郎やら、もっと有名どころを狙えばいいのに、それはやらない。こういうのは有名になると払う税金のようなもので、そのことで注目も集まるという仕掛けにもなっている。「出る杭は打たれる」けど、「出過ぎた杭は放置される」。

早期民法改正は半年、それとも三か月?

 宗像が当事者運動を分裂させてきたと言われることが多い。足並みをそろえるために「宗像さんは引退してもらって」とかいう人もいて、「活動したい人に活動を提供するために運動してたんじゃないよ」と馬鹿らしくなる。あまり市民運動の経験がない人たちが多いので、会社的な組織を作って、上から指示を出してもらわないと安心できないのだろうという感覚を持つ人がいるのは何となくわかる。だけど、ぼくは会社勤めをしたことがないので、それを「常識」と言われても、「ぼくは非常識」としか答えられない。

非常識な人を「常識がない」と言うのは誉め言葉だ。まさかこの時期に、大宴会とかしないよね(非常識なぼくはやっても文句言われないけどね)。

ところで、最初に親子ネットという団体を作って、全国組織として運動を大きく見せるという仕掛けを作ったのはぼくだ。それで院内集会とかをするようになったら、「国会で勉強会を開くような団体なんだからちゃんとしないと」と会社のような組織を作ろうとする人が出てきた。身なりや発言に至るまで、やたらやることに足かせをかけようとする人がいて、会議が成り立たなくなった。目的と組織という手段が入れ替わった瞬間だった。だから、親子ネットの最初の代表はぼくだということになるようだけど、その団体の人が批判している(という話を聞く。直接は言ってこない)。だったらすっきり名前変えればいいのに。いくら人数集めても、目標がはっきりしなければ目標に達しないのは当たり前だ。最初から目標がないんだから。

運動を継続するために、共同親権運動という言葉を作り、それを担う運動体として作ったのが、共同親権運動ネットワークだった。それもやってると親子ネットと同じことが起きたので、やることを明確にするために、「私たち抜きに私たちのことを決めるな」と訴訟を始めた。獲得目標は民法改正だ。

「プロジェクト」は来年の民法改正を目標に掲げた。ああだこうだという人たちは、一年よりもっと早くそれを実現してくれるなら、全然文句はありません。みんな結集すると思うよ、やんないの?

単独親権制度のメリットはDV加害者を引き離せること?

他人のブログの記事を読んでいて、単独親権制度のメリットとして「例えばパートナーからDVを受けていて、子どもにも被害が及んでいる場合などは、相手が全くこちらに接触できないようにできます。」というものがあった。この方は共同親権賛成の立場から発言しているのだけど、実際には単独親権制度で加害者からの引き離しが可能だという、反対派からの主張を真に受けている。実際はどうなのか。

単独親権制度は養育の責任の所在を明確にする規定

 単独親権制度は、養育の責任の所在を明確にする規定だ。民法で言えば818条や819条に記載がある。ちなみに、離婚後の単独親権制度ばかりが別居親の間では注目されるが、民法818条3項に「親権は、父母の婚姻中は、父母が共同して行う。」という規定がある通り、単独親権制度の対象は「婚姻外」である。

単独親権制度の規定は、嫡出子/非嫡出子の規定と、離婚時の規定と、民法内で別々に規定されていた二つの流れが、たまたま単独親権規定で合流したという経緯がある。したがって、「単独親権制度廃止/撤廃」というのは、これら婚姻外の単独親権規定を撤廃するにほかならず、「単独親権制度廃止は言葉が強い」とか言っている人はただの勉強不足だ。民法改正とか言う資格ない。

民法818条にも「ただし、父母の一方が親権を行うことができないときは、他の一方が行う。」とあるように、子どものために親が子どもの面倒をみたり、子どものことを決めるというのは、父母にそもそも求められていることだ。どちらもが養育したくないというのでもない限り、双方が養育への関与を望んでいるときに、単独親権制度には合理的な理由はない。もしあるとしたら、一方が面倒をみることで子どもに弊害が生じたりする場合に、他方に親権者を変更したりできることがある場合だろう。

ところが、818条2項では「子が養子であるときは、養親の親権に服する。」とされ、その父母を養父母に読み替えての条文の適用が819条でなされる。そのため、代諾養子縁組で親権のない親が養子縁組に関与できない場合においても、親権者変更ができないという実情があり、実際に最高裁はそれを肯定している。つまり、現状の単独親権制度では、「あらかじめ決定権の所在を明確にすれば子どものことでもめない」し、なおかつ柔軟に親権者を変更できれば、見られる親が子どもを見るという、あるとしたら唯一の「単独親権制度のメリット」がなく、したがって、憲法違反にあたるというのが、ぼくたち、共同親権集団訴訟の主張だ。

だから、「例えばパートナーからDVを受けていて、子どもにも被害が及んでいる場合などは、相手が全くこちらに接触できないようにできます。」なんていう条文解釈は、民法を見ている限り見当たらない。

なぜこんな勘違いが生まれる?

 「例えばパートナーからDVを受けていて、子どもにも被害が及んでいる場合などは、相手が全くこちらに接触できないようにできます。」ということを民法の上でできる規定は、単独親権制度ではなく、親権喪失や親権停止の規定になる。それぞれの制度の適用には、あいまいなものながら審査基準と裁判所の審査を経る必要がある。これら条文は親権者に適用されるものだから、何もわざわざ婚姻外に限ってあらかじめ単独親権者にする必要はなく、単独親権制度を廃止すれば、これらの審査が等しく平等に親権者に適用されることになる。これも共同親権集団訴訟の主張だ。

 とはいっても、これら規定も、実際には子どもを養育すること、子どものことを決定することを制約する規定にほからならず、だから「一切関与を絶たなければならない」なんてことは規定されていない。

 こういった「断絶」という現象は、特別養子縁組制度や、あるいはDVや虐待における保護措置の過程で生じるもので、単独親権制度の条文から本来導き出されるものではない。

 ただし、「別れたらどっちかの親が子どもを見ればよく、もう一方の親は関与しなくていい」という制度に由来する思想は、こういった「断絶」現象を、あたかも条文から導き出される「合理的な差別」であるかのように感じさせる。つまり「親権者じゃないんだから学校に来ないでください」「監護者の言うことを聞くのが普通でしょう」ということになり、差別に基づく様々な行政措置(つまり反別居親慣行)を正当なものとして、別居親が子どもにかかわるハードルを上げ、結果的に別居親に子どもをあきらめさせる。

 つまり、「例えばパートナーからDVを受けていて、子どもにも被害が及んでいる場合などは、相手が全くこちらに接触できないようにできます。」をメリットとして、単独親権制度を維持しようという主張の人は、これら結果を逆立ちしてそもそも前提であるかのように勘違いしている。

しかし、これら「男は加害者、女は被害者」「男は仕事、女は家庭」という性役割に根差した差別思想を、差別とは感じさせずに実行するために、単独親権制度を維持しようとする勢力は存在する。ただ一般にこういった思想は浸透しているのだけど、こういった思想に基づく認識は実は制度があることによって再生産されている。

単独親権制度の廃止が男女平等社会に向けての一丁目一番地、という理由はそこにある。

セミナー・グループワーク・交流会 「もっと知りたい共同親権」

共同親権訴訟の発起人で『子どもに会いたい親のためのハンドブック』著者が贈る、子どもに会いたい親、別れても共同での子育てを願う人たちのためのセミナー・グループワーク。

【日時】2020年2月13日、3月13日、4月10日、5月8日、6月12日(毎月第2土曜日)10時~12時 女と男のグループワーク
13時~15時 共同親権カフェ(交流会)
15時半~17時 ミニセミナー「もっと知りたい 共同親権」
【場所】全労会館会議室(開催日ごとに部屋が変わるので1階の掲示板でご確認ください)
東京都文京区湯島2-4-4(JR御茶ノ水駅御茶ノ水橋口徒歩8分)
http://www.zenrouren-kaikan.jp/kaigi.html#08
【ファシリテーター・講師・応談】宗像 充
(ライター。共同親権訴訟発起人、 『子どもに会いたい親のためのハンドブック』著者)
【参加費】2000円(一日共通・どの枠に出ても同じ)
*枠毎に要予約(5~9名。部屋に応じて定員が変わります)

【女と男のグループワーク内容】親子の引き離し、DV(家庭内暴力)、仮面夫婦、不登校・引きこもりetc
……悩みを共有し、家族や自分のこといっしょに考えます。性別、大人/子ども問いません。
【ミニセミナー「もっと知りたい 共同親権」各回内容】
現状の制度や支援の問題点、共同親権にどんな可能性があるのか、問題提起していっしょに考えます。
<第1回>2月13日(土)「共同親権運動って何? その歩み」
<第2回>3月13日(土)「実子誘拐とDV—何が問題?」
<第3回>4月10日(土)「どうしてダメなの? 家庭裁判所」
<第4回>5月8日(土)「必要な支援って何? 単独親権/共同親権」
<第5回>6月12日(土)「単独親権から共同親権、家族はどう変わる?」
【相談について】
セミナーの前後に個人相談が可能です。お問い合わせください。(要予約50分3000円)
主催 おおしか家族相談 協賛 共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会
(予約先)TEL0265-39-2116(共同親権運動) メールmunakatami@k-kokubai.jp
URL https://munakatami.com/category/family/