民法改正サバイバル

不当判決か、反動判決か

 1月25日に控訴審判決日を迎え、結果は不当判決だった。

 判決を傍聴席で聞けばいいだけなのに、当日の昼休み、裁判所前の門前集会を呼びかけたら、仲間が4人集まってくれた。

 2019年に提訴したときは仲間は多く集まってくれたけど、チラシを見て怪訝な顔をする人も多かった。昨年ごろから自分でチラシを受け取りに来る人が増えた。そして今回は「なんだ共同親権賛成のチラシ配りか」と悪態をつく道行く人が現れた。インターネット上ではアンチとの死闘が日々続けられている。それが現実世界にもあふれ出てきた。運動も認知されたんだなと思う。

 そうはいっても、高裁判決(土田昭彦裁判長、大寄久裁判官、園部直子裁判官)は一審判決を追認して輪をかけてひどいものだった。親の「人格的利益」を「重要な利益」と言い換えてみたり、婚姻外で協力できない状況を一審は「類型的」としていたのを「一般的」としてみたり幼稚。人を見下す人間は自分が見下されることになる。

 敵意むき出しの東京高裁の近年の反動ぶりは際立っている。

 この間、今まで勝てていた債務不履行の民事訴訟でも、こと面会交流事件に限っては負けさせるという事例が度々ある。一方で家裁では今までよりいい頻度での面会交流が取り決められる、という報告もある。実際家裁が原則交流に前向き決定を出しても、握りつぶしてきたのが東京高裁だ。官僚主義と自分第一のわがままぶりの延長上に今回の判決がある。敵を上陸させて一斉掃射するような戦法が、兵力の差を前にいつまでも通用するはずもない。

 どうして子育ての平等はダメなのか。親が子どもを育てることをどうしてこうまで国が否定するのか。「子どもの利益」などというマジックワードであからさまな差別意識が正当化されるのか。終了後の記者会見や院内集会でもこういった観点からの司法への不信が噴出した。

メディアと司法の癒着

 一方で、こういった司法の腐敗が外の世界に知られていないのは運動の側の限界であり、敗因とも言える。記者会見で参加した社は5社ほど。門前の旗だしには一社も集まらず、判決に批判的な記事を書いたのは、外国人記者が熱心に取材したネットメディアだった。

 敗訴なのでニュース価値が低いのはわかる。しかし、法制審の答申が出る直前のまさにドンピシャのテーマに、反対側の意見ならホイホイと書く共同通信は配信すらしななかった。声明でメディアの姿勢も批判したが、司法の高圧姿勢は、マスコミ批判などおそるるに足らずの慢心故でもある。ことほど左様に、既得権とマスコミの癒着は深い。

 親権関連の他の国賠訴訟はすべて不当判決となっている。その中でも本訴訟での司法の敵意は露骨だ。立論がまずいからではないだろう。逆に核心をつき動員も終盤まで減らないので、司法はいらだちを隠せない。この腐敗をどれだけ表に出せるかが、裾野を広げた民法改正論争の帰趨を占う重要な要素である。記者会見で上告を表明。舞台は最高裁に移った。

法制審の答申「それで自分の状況は何か改善するのか?」

 司法がこんな状況なので、司法に規制をかける理由は本来ならふんだんにあるはずだ。しかし民法改正案を答申する法制審議会の事務局は裁判官出身の司法官僚である。出てきた法案の骨子は、共同親権はありうるにしても、もめたら司法が決めて単独親権にもなる。共同親権でも片方に監護権を寄せられる。その基準はない。再婚養子縁組でやっぱり親が交換される、等々、これまでの司法の独裁にお墨付きを与える分、改悪にもなる。そのうえ、DVや虐待の「おそれ」があれば単独親権になって子を囲い込める。

 やっぱり、アリバイ作りのための司法都合の改革偽装だった。対象は離婚家庭にとどまらない。基準のない家族への介入で、家族は国家の都合で振り回される。

「それでいったい自分の状況は何かよくなるんですか?」

 これから答申を審査する政治家たちには、率直な疑問や不安をぶつけるがいい。その疑問に応えられない立法活動は、結局司法官僚の手の内で踊っているだけだろう。 

これまでの法改正パターン

 だいたいこれまでの法改正のパターンは、当事者が議員に働きかける。議員は司法官僚と法案を作る。反対派の意見を入れるという名目で「おそれ」を理由に片親を排除する法制度が提示される。別居親内で賛否が起き、分裂、迷走、先送り、というものだ。この場合、既得権を手放さない司法官僚と「改革」議員には当事者のパートナーが必要で、今までは親子ネットやらがその役割を果たしてきた(今回は法制審委員のポストを与えられた)。

 しかしこういった「折衷案」という名の既得権の擁護が法案になるのは、与党議員と司法官僚のなれあいの結果である。そもそもが現在の体制によって生じた問題は何か、そしてその原因を特定しないで「改革」など無理筋だ。病因が不明なのに治療を施しても体調は戻らない。

ちゃんと共同親権「司法VS市民」

 この構図自体はさして目新しいものはない。しかし国を訴えて見えてきたものは、これらの「改革」が政策論の中でなされるので偽装を許すということだ。国は家族に序列をつけ統制する役割を手放さない。故に、ぼくたちの国賠訴訟では、親の権利や婚姻内外の地位の平等について、司法はその権利性を否定してきた。

 でも、国の法律があるからといって、易々と子どもや家族を人々は諦められるのだろうか。そうではないから、子どもに会えない親たちの反乱が起きた。議員と役人が忖度しあうのも、国が家を介して個人を統制する家制度の枠組みを手放すことに二の足を踏んだから。であるとするなら、正面からそれを議論するしかない。

 司法の専横に市民が気づくのは、この国の家族支配の体制が可視化されたときである。その時はじめて「司法VS市民」の対立軸が鮮明になる。そうでもしないと司法は自らの果たした残虐行為に向き合えない。最高裁判決と法制審の民法案の国会上程を前にして、いまそのための活動有志として、「ちゃんと共同親権」を立ち上げた。混沌とした法改正議論のジャングルを仲間とともに生き残る。駆け抜けた先に新しい大地にたどり着きたい。(2024.1.28、共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会巻頭コラム)

記者会見の仕方

 ぼくは「市民参加」という言葉があんまり好きじゃない。政治はもともと市民がするものだと思うようになったからだ。ついでに言うと、もともと市街地出身者ではなかったので「市民」という言葉もいまいちピンと来ない。英語でいうPEOPLEに当たる便利な言葉が日本には根付いていないと言うけれど、それは対権力との関係で民衆が適切に位置づけられていなかったことにあるのではないかと考えたりする。

だいたいが、意思を取りまとめたり、利害を調整したり、理念を実現したり、というのが政治だとするならば、別に日米安保は高度に政治的だとした統治行為論も、夫婦喧嘩を調停するのも、どっちがより政治的かなんて議論してもはじまらない。そんなこんなを考えるようになったのは、国立に住んでいくつかの運動にかかわるようになってからだけれど、意思はあってもやり方を知らない、やり方はなんとなくわかるけどビビってやらない、というレベルでやる前からあきらめられてきたことは思ったよりも多い。その末に、「そういうやり方は」ときちんと発言しようとする人の足を引っ張ることになれば、発言するのはますます特殊な人と捉えられてしまう。

なので、並木道の会で、表題のシリーズをすることにしました。毎回持ち回りでやります。

第一回 記者会見の仕方

★記者クラブとは 

テレビを見ていると、記者会見は政府の高官や芸能人がやるものだというイメージがあるし、テレビや新聞に出る人はそれなりに話題性がある人や出来事だと思いがちだ。でも、話題というのはある程度意図的に作っていくものだという意識がないと、継続的な政治運動にはならない。それに話題を求める記者のほうも、常に話題になりそうな情報を求めているし、特に地方の支局あたりだと、そういった宣伝物や売り込みのチラシやファックスは毎日のように支局や記者クラブに届いている。

新しい問題を広めたり、イベントに多くの人に参加を呼びかけたりする場合、その情報がマスコミに流れる影響も反響も大きい。もちろん、企画がしっかりしている、という前提あってこそだけれど、マスコミの活用ができるに越したことはない。

 国立市周辺の場合、立川市の市役所内に記者クラブがある。記者クラブというのは、加盟新聞社やテレビ局に定期的に役所の情報を流すために、役所が設ける特権クラブのようなもので、ぼくのようなフリーランスは加盟できない。マスコミというのは「第四の権力」と言われたりするけれど、実際には半官半民だ。行政からタダで情報を仕入れて、それを売る実入りのいい商売なので、実際には本気で権力を監視しようと思っているわけでもなさそうに思える。海外にはない記者クラブもそういう馴れ合いの中から生まれた制度なので、批判にもさらされるものの、実際問題そういうものとして捉えればぼくたちにとっても、一括して情報発信することができるという点で、便利なところだ。

ただし、そういう事情なので、住民からの情報については行政情報よりは軽視する傾向があるのではないかと思う場面は度々ある。これは左派系が住民の話を聞いて、右派系はそうじゃない、というような単純なことではなくて、むしろ、朝日の記者はお役所的な雰囲気を持つ人が少なくないし(身なりもいい)、読売の記者に地方の情報を積極的に取り上げようとする人も少なくない(実際地方面は読売が一番充実している)。

★どこの記者クラブに流すか

 地域でのイベントの場合は立川の記者クラブ。裁判の提訴や判決の場合は霞が関の裁判所の司法記者クラブ(地方の場合は県警に司法関係の記者クラブがある)。都政や国政に関わることなら、都庁(県庁)や霞が関の関係官庁にそれぞれ記者クラブがある。

ただ、中央官庁の記者クラブの場合は、市民団体からの記者会見は受け付けなかったり(外務省とか)、リリースするのに申請書を書かせたりするところもある。また、幹事社が情報の重要度を事前審査して、断ったり記者会見をしないように勧めることもある。記者クラブは官庁にしかない。税金を使って官庁の一角を占める記者クラブの利用者が、そのような態度を納税者に対して示すのは本来おかしい。しかし、たしかに記者会見をしたからといって記事にするかどうかは新聞社・局次第なので、その辺は、費用対効果をこちらも考えてどうするか判断することになる。

★リリース文

 いつもイベントの案内で作るようなイベント名、日時場所時間内容等が明記されたチラシと、「別紙のようにイベントを開催しますので、取材の上、貴紙・貴局で取り上げていただけますか」という連絡先の入った頭書きがあれば十分だと思う。「日本で(この地域で)はじめてのイベント」というような情報の希少性があれば、記者の関心は高まるかもしれない。要は記者が(世の中の人も)おもしろいと思うかどうかだ。

★ファックス送信・チラシ配布

 彼らに情報を流す場合、一番簡単なのが記者クラブに電話して幹事社を教えてもらって、その幹事社の記者と話してファックスの掲示をお願いすることだ。立川の記者クラブの場合、記者はいなくても担当の職員はいるので、幹事社に連絡をつけることができる(他の記者クラブでも誰かが出る)。幹事社というのは、一カ月ごとに各社の持ち回りで担当しているもので、ぼくたちに関係のある仕事としては、外部から記者クラブへの情報を受け付けて、必要があれば、告知や記者会見などの段取りをとるということだ。

普通記者クラブには掲示板があって、立川のような小さな記者クラブの場合、記者は記者クラブに常駐していなくても、何か情報がないか出入りはしているので、来れば掲示板にも目を通したり、チラシが届いていればそれも見たりすることになる。記者が興味を持てば後日電話がかかってきたりする。

 掲示では物足りないと思ったら、直接記者クラブにチラシ等の資料を人数分持ち込むことだ。加盟社の数は記者クラブに聞けば教えてくれる。行くと、担当職員や幹事社に人数分を渡して配布してくれるように頼むか、都庁の記者クラブのように、各社のポストがあって、そこに投げ込むこともある。

★各社戸別配布

 直接記者に説明したいという場合は、記者会見をするか、各社の所在地を調べて、こちらから出向いて記者を呼び出して説明することになる。立川だとだいたい駅の周辺から自転車に行ける距離に各社の支局があるので、こういうことができる。各社のファックス番号を調べて(一括登録しておくと何かと便利)ファックスでリリースする。メールよりは目に留めやすいようだ。都内の大手マスコミの本社などもに同様にできるけれど、来る情報が多いからかあまり取り上げられる確率は高くない。J—WAVEの夜の番組とかは社会問題を取り上げることが少なくないし、マイテレビも地域の話題は取り上げる。週刊金曜日のイベント欄は、情報を送ればだいたい取り上げてくれる。

 希少性のある情報の場合、「他の社にはまだお知らせしていません。お宅にだけ流す情報です」と言って確実に記事にしてもらうことができれば、それに越したことはない。記者の気持ちになってみれば、そういうやり方も考えられるし、記者が関心を持てば向こうから出向いてくれることもある。東京新聞の記者はフットワークの軽い人が、毎日新聞の記者は丁寧な記事を作る人が多い気がする。どういう手段をとるかは、持つ情報の性質と拡散の目的によるだろう。

一人理解してくれる記者をつかまえて、小さな情報でもマメに記事にしてもらって、コンスタントに話題にできれば、運動を広げる力になる。各社とも無視できなくなって追随するようになればしめたものだ。

★記者会見

 各社が関心を持つと予想される重要な情報がある場合、記者会見をすることもできる。ぼくがやった中では、子どもに会えない親として顔出ししてやった記者会見が、同情を引いたのか各社とも記事にしてくれた。当事者が実情を訴えるというのが、記者の心を動かすという面では一番記者会見の有効性を感じるところだ。

記者会見は幹事社と日程を調整して開催日を決める。新聞社としては、午後のあまり遅くない時間までに開催すると、翌日の朝刊に間に合う、という事情があるようだ。裁判の提訴などだと、自分でやると自作自演っぽいので、弁護士や学者といった肩書のある人を同席して解説してもらうと、記者も専門家のコメントをとる手間が省けて都合がいいようだ。記者会見に限らないけれど、あんまり論点をいろいろ言うよりは、特殊な問題でも普遍性のあるところはどこなのか、意識しながら説明すると記者も記事にしやすい。離婚後に子どもに会えないのはそのための制度がないからだ、と訴えるような場合だ。

立川の記者クラブだと、ソファがあってそこで記者に対してレクチャーする(記者レク)という感じだ。あまり市民に開いていない中央官庁の記者クラブだと写真撮影がそこでできないようなところもあり、とりあえず記者と知り合いになってレクチャーをする場として捉えたほうがいい。

司法記者クラブだとテレビで見慣れた会見席がある。判決や提訴が続くと会見場が埋まっていたりするし、印象としては司法記者クラブの記者は来ている情報を流すだけの記者が多いので、外からの持ち込みには冷淡な印象を受ける。立川の支局でも映像に撮られることはあるので、誤解されないような言葉遣いはしたほうがいい。

記者クラブが借りられなければ、独自で会見場を用意することになる。その場合は、記者も独自で集める。やり方はこれまでのやり方を活用してください。(宗像 充)

(「並木道」144号、2016.2.14)

SNSで裁判官の名前を挙げると裁判で不利にされる?

 このところ、SNSで裁判官の名前を挙げたり、司法批判をすると、司法判断で反社扱いされて不利にされた、という話を聞くのでその対策について取り上げたい。

 離婚や面会交流の事件で子どもに会えない親が、司法の差別的扱いや暴言についてSNSで触れることはよくあり、ぼくも勧めたりする。というのも、もともと裁判所職員は公務員なので、勤務時間中の名前が非公開なんてありえないし、裁判官は裁判所という組織の名のもとに判断を下すわけだから、最低限名前を名乗ることぐらいが、彼らの責任なのは当然だからだ。そして、単独親権制度のもとの司法では、他方の親を差別することで運営が成り立っているので、必ず彼らの言動に差別的なところがあるのは当たり前で、言わないと改善しないからだ。

 ところで、ぼくもSNSを始めて、裁判中の元妻側の弁護士(森公人と森元みのり等、森法律事務所の面々)に、そこでの書き込みを書証として裁判所に提出されたことがある。ちょっとでも司法批判につながる部分があると、それをプリントアウトして、司法批判をするような反社会的な人間だ、ということを印象付けて裁判官の心象を悪くして有利にするということというのが、彼らの手法だ。それ以外に論理的な主張など彼らにはほとんどない。

 「こんな野蛮人の言い分なんかかなくていいですよ」と裁判官に仕向ける。別に悪いことしてるわけでもないのだけど、裁判官に「あんたの悪口言ってますよ」と告げ口するために、森法律事務所では年がら年中、訴訟の相手方のSNSを監視している。また森が調停委員をしていたように、裁判所と癒着しているので、滅多なことでは裁判所からたしなめられない、と高をくくってもいる。

 ところで、こういったことがなされた場合の対抗手段としては、ぼくはSNSで裁判所批判をするときには、「#森元みのり の書証提出希望」「#森公人 の書証提出希望」と書き添えて投稿することにした。「いいことだからやってくれ」と対戦相手に言われてやるバカはいない。これでほぼ書証提出はされなくなった。

 また、彼らには父親のぼくのことを娘に「つきまという」という暴言があったので、これについては、彼らの主張書面をもとに名誉棄損での裁判と弁護士会への懲戒請求をした。そのことにつき、SNSに事実関係を公表した。子育ては母子密着が多いが、「つきまとう」とか言ったりしないからだ。法曹業界は、別居親差別を前提にした単独親権ワールドなので、手続きは通らなかったが、裁判にあたって彼らの文章表現がやや慎重になった。

 要するに、実名明記の書き込みをするにあたっては、「あいつらが気に入らない」というレベルじゃなくて、それが人権問題なので告発したという体裁をとると、必要な書き込みで世の中のためという理由が立つ。したがって、そのための形式をとるために、「~という人権侵害を受けました」「~というパワハラがありました」「~というセクハラ発言を受けました」といちいち書くのが安全パイだ。あるいは、人権機関への通報や弁護士会や法務局への人権救済申し立て、懲戒請求、司法手続きなどをとり、その事実を公表したり、人権機関に公表してもらうというのが個別アカウントへの攻撃を避けるためには必要なことだ。人権窓口の相談についてのポストがSNSに流れてきたりすることもあるので、そこに事実関係を書き添えてリポストすれば牽制にもなる。

 「家庭裁判所監視団」という団体名で「家庭裁判所チェック」というブログを運営し、寄せられた情報をもとに、「利用者にとって有益な情報提供」という名目で、裁判官や弁護士の実名告発を続けてきたが、このブログにつき意味のある削除要請などは一度もなかった。また、別居親団体はいろいろあるけど、告発があったら団体名で事実を公表したり、裁判所に電話をかけて職員の名前を挙げて苦情と改善を申し入れる、ということは度々した。裁判所は「個別の事件につき対応できない」と逃げるが、人権問題についてその対応はありえないので、「伝えてくださいね」と総務課の職員に言うと、もちろん裁判所職員の態度は変わる。

 近年では裁判官の実名告発につき、裁判の中で報復的に不利な判決を下されるという話も聞くことがあるが、途中で暴言があったときにだけ名前をSNSに投稿するとこういう事態を招きかねない。最初に言ったように、裁判官の名前は公開情報だ。SNSを利用する意図があるなら、手続きを始めた時点で名前を聞き、担当者の名前を最初からSNSに公表しておくのを勧める。いずれにしても、司法は「仕返しされそうだからやめておく」程度の礼儀正しさが通用するような世界ではない。(2024.1.14)

 

陳情の出し方

 議会というのは、大勢では議論を集約するのがたいへんなので、代表者を選出して決めさせ、便宜的にそれがみんなの意見ということにするというつまんない組織だ。民主主義社会だから議会で決まったことには従わないと、とまじめな顔で言う人もいるが、議会は手段であって目的ではないのだから、悪法はきちんと破る、という心構えも民主主義のためには必要だということにもなる。だから、議会が使えそうなときは有効活用しよう。使えそうにない議会は変えればよいし、どうしようもない議員は、選挙で落とすなりしてきちんとやめさせよう。

 国立の市議会はよく国に意見書を出すことが多い。その場合、議員が自分たちで決議することもあるけれど、市民が陳情を出すことも少なくない。議会で議決されれば、それが市議会の意見ということになる。機運を作るのに役立つし、同じような地方議会の意見がたくさん上がって国政を動かすこともある。それにこれはあまり語られないけれど、議員に選択を突き付けて、賛否を明確にさせるという効果もある。こういった賛否を一覧表にして配ったりすると、投票の際の参考にもなるし議員への圧力にもなる。

議員質問、陳情・請願

 自分が持つ問題を議会に取り上げてもらう際、一番しやすいのは議員に質問してもらい、行政の見解を問うことだ。それであまりいい答えが得られないとしても、公の場面で問題が知られるし、何度も質問してもらうことで、いずれは解決しないとならない問題だと行政や他の議員に認識させることもできる。協力してくれる議員を見つけよう。

 陳情というのは、国立市の場合は市民が独自に出すもので、議員の紹介のあるものは請願と使い分けている。他の議会のことはあまり知らないのだけれど、出すなら請願にしろというところもあるようだし(国会とかはそうかもしれない)、いずれにせよ、こういうのがあまり嫌いじゃない議員に事前にやり方や、その議会の習わしを相談でればそれに越したことはない。

出すとき

 議会の始まる前数週間と締め切りが決まっている。議会事務局に聞けば教えてくれる。陳情(請願)項目のついた趣旨文を作って持っていく。議員は最終的には陳情項目に賛否を表明することになるので、文章は仲間と練った方がいいだろう。保守系の議員には、陳情そのものが出ることを嫌がる人もいるので、何かと陳情文はケチを付けられやすい。事実誤認や誤字があるからという理由で不採択にする議員もいる。議会事務局に文章を見せると事務局の人も念入りにチェックをする。資料があるなら人数分用意してくれと言われることもある。新聞記事とかわかりやすい資料を用意しておくといいだろう。いっしょに署名集めをして採択日までに集め、議員への圧力にすることもできる。

議員回り

 陳情を出しっぱなしということもありうるけれど、採択してほしいなら議員に趣旨を説明したほうが丁寧だ。電話して会派の代表者と会って説明することになる。議会が始まってから控室を回ることもできるけれど、最近は事務局を通せとうるさくなった。議員側もまったく知らない内容の場合は、議員が全員聞いてくれる会派もいるし、議会事務局から何度電話しても「今打ち合わせ中」と会おうとしない議員もいていろいろだ。

 味方になってくれそうな議員に、どこの誰から話した方がいいか事前に聞いておくとやりやすい。普通は大きい会派のほうから回らないと軽んじられたと思うのか、ケチを付けられたりしやすい。一方で与野党が拮抗していたりすると、中間派の議員から回ると有効なときもある。いずれにしても議員には難しい人が多い。議員に通りそうにないから取り下げたら、と言われることがある。泣き寝入りを強いる場合や、自分の支持者が割れていて意見表明したくないような場合などが考えられる。そういう議員は自分の仕事が何かわかってないと思ったほうがいいい。従う必要はない。

趣旨説明

 委員会で希望すれば趣旨説明の時間がある。議会事務局はなるべく短く、と言うけれど、必要なことであればきちんとしゃべったほうがいい。議員に質問されることもあるので質問は予想していたほうがいい。仲間に来てもらえれば心強いし、知り合いの議員にあらかじめ質問してもらうことを頼んでもいい。以前は市民の趣旨説明は休憩時間にされて議事録に残らなかったけれど、最近は違っているかもしれない。

採択・趣旨採択・継続審議・不採択

 国立市議会の場合、議員がそれぞれ意見表明して上記のどれかに手を上げ、過半数以上がなければ採択にならない。趣旨採択というのは、趣旨はいいけど……と議員が逃げを打てるあまりよくない制度だ。意見書の提出は全会一致じゃないとダメというところもある。不採択になって反省してもいいけど、わからんちんの議会が否決したと思えばそれだけのことだ。もともと少数派の市民運動なら大勢に影響はない。(宗像充、2016.2.14「並木道」144号)

「法を私たちの手に」、そして未来を切り開くために

 年の瀬に柳原さんの墓参りに原告の小畑といっしょに行った。柳原賢(まさる)さんは、一昨年亡くなり、半年以上経ってからお母さんから連絡があり、押っ取り刀で富山に向かった。「賢のことでできることはほかにないから」とお母さんは原告を引き継いでくれた。賢さんが亡くなったのは心労を重ねたからのようだ。賢さんの娘さんたちとはお母さんも連絡が途絶えているので、賢さんのことをほかに話せる相手もぼくたち以外に多くはないようだった。

2019年の11月に12人で始めた共同親権訴訟は、その間2名が原告を外れ、柳原さんのご両親が原告を引き継いでくれているので、現在11人で控訴審に望み1月25日は判決日だ。訴訟を継続できる条件の人がその人数だったということだ。先日、古い仲間に電話したら体を壊しているという。沈殿した恨みや憎しみは心身に影響を与える。

ぼくの娘は昨年末に18歳で成人した。勝ちにいまだ至らない訴訟に拘泥する父親を娘は「無駄なことを」と思うだろうか。それとも「なんのために」と興味を持つだろうか。2008年に民法改正の市民運動を始め、多くの仲間たちがその間に病んで亡くなった方もいる。力不足を感じるとともに、「仇をとってやる」とも思う。

控訴審判決に楽観はできない。しかし、一審判決で非婚の親の「差別的取り扱いは合理的」と述べて、自らが抵抗勢力であると旗幟を鮮明にした司法が、どのような理屈で自身の正当化を図るのか、それとも幾分たりとも反省を示すのか、見物ではある。

ところで、ぼくたちは司法の判断をただ漫然と手をこまねいて待っていただけではない。本訴訟と同時並行で国は法制審議会を開催し、訴訟の相手方として法務省民事局から面談を拒否された(請願法違反)ぼくたちは、「私たち抜きに私たちのことを決めないで(“Nothing about us without us”)」という障害者運動のフレーズを借りて、そのための手段として本訴訟を位置付けてきた。

訴訟でぼくたちは、憲法的な観点からの単独親権民法を批判してきただけでなく、現行民法が家制度との妥協の産物であることを、歴史的な経過の中から明らかにしてきた。この観点から見ると、現在の法制審議会の議論が、いかに家制度の枠組みにつかった官僚司法の体制を温存するか、という当事者不在の視点で進んでいるかがよくわかる。

たとえば、法務省お抱えの学者委員の棚村政行は 「今回の共同親権とか監護をめぐる問題でも、特別なルールにするというより、合意ができないときに現行の制度や仕組みを維持するとか、そういうルールを採用しているという前提で、その延長線上で認めるということなのだと思っています。」(32回議事録)と、司法官僚の意図を代弁している。

この発言は、今回の民法改革が、最大の抵抗勢力である司法官僚による、自作自演の「改革偽装」であることの証明でもある。「当事者の救済」ではなく「司法の不都合解消」が国の側の改革のやはり意図であった。

であるとするなら、国の側のスケジュールに合わせて、同情を誘って一定の成果を得るやり方はナイーブすぎるだろう。改革に必要性があるのは国であり、そこでいかに彼らの矛盾を明らかにして世論に訴えるのかが「法を私たちの手にするために」今必要なことである。対抗軸を示しつつ、未完の戦後民法改革の完遂を司法官僚と立法府に迫る、それはぼくたちの共同親権訴訟の狙いでもある。

おもしろいことに、足並みをそろえて、子どもに会えない親たちの罵倒を繰り返してきた、しんぐるまざあず・ふぉーらむの赤石千衣子やフローレンスの駒崎弘樹らが、NPO法人運営の杜撰さの批判の矢面に立ち失脚した。権力は単独親権制度の既得権者の保護を解除しはじめた。ところが、それに逆行するように、もう一つの既得権勢力である弁護士たちは、養育費徴収手続きの報酬の国庫補助を得ることに成功している。パワーバランス上の政策矛盾が露見した格好だ。だとするなら、ここは突かない手はない。出口を止めれば水は別の方向に流れ始める。

この半年間が民法改正論争の最大の山場を迎えることが予想される。いま反撃の準備をしている。負けを重ねてぼくたちが得た経験の中に次世代に引き継がれるものもあるだろう。しかし、幕も上がっていないのに幕引きはありえない。(宗像 充、2024.1.8 「共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会」巻頭コラム)

山の郵便配達

 郵便屋さんはお昼ごろ手紙やハガキを玄関脇のポストに入れにくる。

 上の道路から家へと下ってくる道にバイクの音が聞こえると、奥の仕事部屋から慌ただしく玄関に向かう。上がり框に置いておいた郵便物を拾い上げ、ポストに手紙を入れようとしている郵便屋さんに「これお願いします」と手渡す。

 実家の母はポストに手紙を出しに行く代りに、家に来た郵便屋さんに度々手渡していた。それを見ていたので、東京のアパートでも郵便屋さんがやってきたら手渡していた。東京の郵便屋さんはちょっと戸惑った表情を見せていた。

大鹿村で一番近いポストはぼくの暮らす上蔵地区の家が集まっている下の平の道路脇にある。出しに行くには、車道とは反対側に下る。隣の家までは尾根の上、そこから田んぼの脇、空き家になった家と家の間の道、最後に薬缶のお化けが出ると言われる南天畑の坂を下ると10分でポストまで着く。戻ってくるのは倍かかるから1通出すのに30分はかかる。

子どもへの手紙、裁判の書類、市民活動の会報や署名、様々な郵便物がここから出て行き、そしてやってくる。忙しいときに限って郵便物も多いので、歩いて出しに行くより郵便屋さんに手渡したほうが早い。毎日のように頻繁に手紙を出しているとき、手渡しにぼくが表に出ないと、郵便屋さんが「こんにちは」と表で挨拶をしているのが聞こえてくる。時間指定はできない山の郵便配達は、御用聞きはしくれる。

「山の郵便配達」は学生のときに見た中国映画だった。長年山岳地域の郵便配達を担っていた老齢の父が引退し、その息子が仕事を引き継ぐために父といっしょに郵便配達の旅に出る。字の読めないおばあさんの代りに手紙を代読したり、悲しませないようにその手紙の内容を創作したり、郵便配達の仕事は手紙を届けるだけじゃない、ということを息子は感じ取るというのがざっとした内容だった。

この時の父子は、徒歩での泊りでの旅だったけど、日本でも徒歩で郵便物を届ける地域がある。飯田線の静岡県側、秘境駅周辺に取材に行った際に、そんな郵便配達の女性と山中で出会ったことがある。山奥の集落には林道が通じているのだけど、大回りすぎて徒歩で郵便物を届けているのだった。新聞をとると新聞屋さんにはなるべく道に近いところに新聞受けを用意できないかと言われる。郵便屋さんは玄関脇にポストがあればそこまでいちいち郵便物を届けにきてくれる。電報や速達は玄関まで出向くものだからそれはそうなのかもしれない。

小学生のころに父親に連れられて時々行った藤河内渓谷には、数軒の平家の落人の集落がある。当時は大分県宇目町の隠れ里だった。ここには下流からの道ではなく、峠道を越えて、木浦鉱山から郵便物を届けていた。というのも、峠越えの未舗装の道を父親の車で藤河内に向かっていた時、郵便配達のバイクに出会ったのだ。大切峠と呼ばれる峠の周辺は現在は人家もなく、鉱山で亡くなった女郎の墓が山中にあるような寂しい場所なので、なおさら郵便配達のバイクの記憶が鮮明に残ったのだと思う。

峠越えの道を郵便物が行きかうのは、かつては山奥へと続く道では珍しくない光景だったのかもしれない。今年歩いた飯田から遠山への伊那山地を越えて入る小川路峠でもそんな郵便物の受渡をする施設があったことが、峠沿いの案内看板を見ると知ることができた。転勤を命じられた先生たちが、絶望のあまり赴任する前に辞職したという、別名「辞職峠」と呼ばれる峠道でも、郵便物は辞職して引き返したりしない。

長崎県の石木ダムの建設予定地である石木地区に昨年2月の長崎県知事選挙の取材で訪問した時にも、郵便配達の人の姿を見かけた。この地域は13世帯の家族が、強制収用で土地を取り上げられても、反対の座り込みを続けながら暮らしている。ちょうど取材に入ったとき、カメラマンの村山嘉昭さんが選挙用の動画撮影のために滞在していた。その動画の最後にも郵便配達の人の姿が写り込んでいる。「郵便屋さんが来るというのは生活があるってことだから」と、わざわざ郵便配達の人が来るまで何時間も粘ったという村山さんが、その意味を説明してくれた。

大切峠の郵便配達の人に再会したのは、ニホンオオカミの取材で木浦鉱山を訪問したときだった。木浦鉱山の郵便局員のYさんは徒歩で藤河内に郵便を届けに行く途中、大切峠で「ヤマイヌ」と出会ったという。送り狼と郵便屋さんはかつては旅の友だったのだろう。

大鹿村にいながらリニアや共同親権の運動の会活動をしているので、大量の会報発送などでお世話になる大河原郵便局の、ぼくはヘビーユーザーだ。数百通の会報発送時にはラップやらの景品をくれ、よそに転勤していった郵便局員さんと転勤先の郵便局で出会うと挨拶もしてくれる。頼んでもないのにゆうパックの伝票の発送元の印字までしてくれていた。

郵便物の量はネットの発達で全体的に減っている。聞くと郵便物の取り扱い量は考慮されるようだ。取扱量が減れば郵便局も閉鎖され、移住者がやってきて郵便局の格が上がることもあるみたいだ。友人は、手紙を入れると歌舞伎の声が出るポストを作って、村の道の駅に設置した。局ごとに違う風景印は村の郵便局の地味な顔にもなっている。

今は郵便屋さんになっているけど、飛脚を見ればわかるように、村々をつなぐ連絡網は、権力の支配機構とは別の人々のネットワークとして発達した部分もある。だから大鹿村のような秘境が南朝の拠点になれたし、横浜の情報がダイレクトに伝わった五日市で憲法草案も起草された。草莽の人たちに文を届けるのは、命懸けの行為でもあった。

うちの上の家で暮らすMさんのところに村の広報を持って行くと、Mさんが「この間郵便屋さんが包帯していた」と話し出した。「どうしたんだ、その怪我」とMさんが聞くと、「お前んところの犬に噛まれた」と言い返されたという。

うちの家の玄関脇のポストには昨年足長バチが巣をかけた。やってきた郵便屋さんに「そこ蜂の巣がありますから気を付けてください」と注意すると、「もう刺されたわ」と怯え顔で直接郵便を渡された。

(2023.12 越路37号、たらたらと読み切り177)

リニアは無理ゲー

 今年の夏は暑くて、草の成長がものすごい。家や田んぼの周りの草刈りも切ったばかりなのにすぐ伸びて、年中している気分になる。コロナ以後、ぼくの暮らす上蔵の人口も減っているので、部落総出の草刈り作業も以前のように手分けが行き届かず、刈り残した部分が出ている。家の周囲は4回くらい草刈りをした。人間も動物なので、夏の間は活動が活発になるからそれもできる。

あちこち取材に出かけ、山小屋の手伝いや遠方の友人を案内している間に気づけば8月は終わっていた。初夏に隣のKさんが来て蜂の巣があると教えてくれてそのままにしていたら、9月には蔵の下に大きなスズメバチの巣ができていた。また母屋の屋根裏にも巣があるようで、やはり暑いので出入りが活発になっていた。

1年前に注文した薪ストーブができあがり、それを運び込むときに刺激したのか、そのうちの1匹に刺された。動悸がして息苦しくなってKさんに車に乗せてもらって診療所に行き、点滴を打ってもらった。「次刺されたら救急車呼んでください」と看護師さんが言っている。

家にいるとあれこれしてしまうので、8月の末、ハチに刺される前に大分の実家に帰ってしばらく休んだ。自堕落な暮らしをしていると母が「大分に帰ってくればいいじゃない」という。理由は「こっちのほうが便利やろ」のようだ。息子が縁もゆかりもない山奥に離婚して取り残されひとりぼっちで寂しく暮らしている、というイメージなのだろう。

生活するとなると別の苦労も生じるだろうけど、たしかに大鹿村よりは買い物とかは便利なところはある。どうして大鹿村に来たんですか、と聞かれると「結婚したから」と答えてたけど、最近はその説明はかえって面倒なので「山が近いから」と答えるようにしている。

そう思うと、それは随分適切な理由に自分でも思えてくる。家から森や山が見え、思い立ったらすぐ山にでかけられる環境での暮らしは自分にとって重要だ。だからリニアにも反対している、とも思える。山登りは趣味だ。だとするとリニアに反対するのも趣味だよなと思う。仕事は金を稼ぐだけかもしれないけど、趣味は生活や命をかけたりする。

7月18日はストップリニア訴訟の判決日だった。訴訟自体の勝訴は原告の人たちも期待してなかったようだ。それでも、あまりに国とJRの言い分そのままの判決文は、権力の側の焦りと責任放棄を反映しているようにも見える。判決前後には、静岡が足を引っ張っているという川勝批判の記事がネットにはあふれた。運動も敗北して後は静岡だけ、と言いたいようだ。全線の工事の遅れや失敗が訴訟を契機に話題にされても困る。「工期や開業の遅れは川勝のせい」と批判を集中させて問題が出るのを避ける意図は見え見えだ。判決後しばらくすると、ぱったり記事がやんだ。お金も動いただろう。

認可の違法性を問うリニア訴訟でも、認可後の「事後アセス」って何だよという批判が出た。なされるべきだった手続きを求め続けると工事は遅れる。計画が杜撰だからだ。これまで2度工事を止めた。実際には事故は多発し、勝手に工事は止まったし、工事の遅れは目に見えるようになっている。

山梨の山岳会に呼ばれて現地を見に行く機会があった。テレビ報道では、「山梨は着々と工事は進んでいて、静岡が足を引っ張っている」というキャンペーンが貼られていた。同じ現場を見に行くと、工期は2026年までになっている。その後開業まで2年かかるというJR東海の説明を入れれば、やはり山梨でも工期は間に合わない。

というか「掘削が始まっています」とテレビが言ってた現地に行って、後ろを振り返ると街並みは以前と変わっていない。記者たちはこの光景を見ていながらJRの言い分を宣伝するためにニュースを作った。会場に来ていたリニア訴訟の川村さんが、県内の橋脚の建設ペースをもとに計算してみると、完成まで60年かかるという。果てしない。

この状況は長野県側でもさして変わっていない。

飯田市のサイトを見ると、リニア工事の工期一覧が出ている。おしなべて2026年度(2027年3月まで)が完成年になっていて、これは2027年にするとさすがに開業に間に合わないというのがバレるので、前年に一応設定しているというのが理由だろう。実際にはこれでも間に合わない。川村さんが言ってたけど、そもそも2027年に開業できるなんて根拠がなかった。

大鹿村でも、南アルプストンネルの昨年度の進捗状況をもとに、静岡県境までの工期を計算してみると、あと10年かかる。長野県は沿線の中で一番工事が進んでいる県だろう。仮に「静岡県が足を引っ張っている」なら、他県はその分工事は進んでいないとおかしい。2027年まであと約3年。ウソがばれる日は近い。

長野県や県内でリニアを進めてきた下伊那の自治体は、JR東海に開業時期の再設定を求めている。リニアを理由にまちづくりや公共事業を進めてきたので当然だろう。だけど、JRとしては、2027年にあまりに近いとやはり間に合わないし、あまりに先に開業時期を設定すると、計画が無謀だったのかバレる。なので言わないだろう。「リニアは無理ゲー」というこの状況は遠くない未来に露見する。

大鹿村では、住民の不満や反発を無視して村政はJRに利益誘導してきた。柳島村政から変わった熊谷村政は、ことリニアに関して言えば、むしろJRの側に立った言動が目立つ。最近では、長野県が新たに作った盛り土条例に基づいた、大規模盛り土の説明会の開催が課題になった。

JRは村と協議して、この説明会の開催を直近の自治会の釜沢だけに実施した。しかしこの盛り土計画は、県に申請する段階で一度事前審査でダメだしされた。盛り土の上に土を盛るにもかかわらず、上部部分の設計しか説明していなかったという。

では釜沢の説明会自体も無効ではないか。釜沢は丘の上だ。実際に影響を受けるのは、下流の自治会だ。しかし豊丘村ではした下流域の説明会を大鹿村ではしなかった。

この点についての疑問を直接長野県の盛り土担当の部署と飯田建設事務所の職員と懇談という名目で実施した。久々の行政交渉に松川の仲間2人と4人で行った。この条例は熱海の盛り土崩壊を受けたもので、本庁の行政担当者としても、いい加減な運用がされると今後にかかわるという気もあったのか、むしろぼくたちの側の話を積極的に聞いてきた。

それで「リニアは無理ゲー」という先ほどの説明をすると、それはほんとなのかと笑い話に聞こえたようだ。これは仏頂面で迷惑顔のリニアを進めてきた飯田建設事務所の連中とは対照的だった。彼らにしてみれば市民の前で恥をかかされた、ということになる。

その後、大鹿村の担当者とも懇談した。

総務課長とリニア担当者と職員が3人出てきた。以前は副村長の長尾が、「意見が違うから」とか「業務妨害だ」とか舐めた態度で市民の意見をつぶしてきたのが勇退。

「村長としては工事を進めて早く終えてもらっていなくなってほしいという思いだと思う」

と課長が言うので、「リニアは無理ゲー」という説明をする。

「あんたたち、リニアができるからと住民の不満をつぶしてきたんだけど、工事はあんたたちが協力したところで終わんないよ。そろそろこっちの話を聞いた方がいいんじゃないか。大鹿だけだよ、こんなに協力して住民が我慢し続けてんの。ずっと我慢させるのか」

上蔵では、要対策土という名の有害残土の実証実験が始まっている。村に質問状を送り、そこで言及された資料を物色すると、有害残土の不溶化材による処分法というのは、高速道路のトンネルなどの大量の残土発生に、安価な処理方法として研究されていることがわかる。福島の原発の汚染水の排出も、他の方法が金がかかるから安価で無策な処分法として反対の声をつぶして実行される。

リニアの有害残土の問題は岐阜県の御嵩町でも生じている。近くで民間業者が要対策土の再処理工場を作っても、JR東海は金がかかるからそこには運び込まず、町有地も含めた処分地計画を進めようとする。公害というのは、業者の営利主義を行政が止めなかったり後押ししたりすることで生じる。水俣病を見ればわかる話だ。

「説明会なんかJRにやらせとけばいいんだから、わざわざ間に入ってもめごとを作り出す必要ないんだよ」

 と念を押した。ちなみにJRに説明会実施の要望書を本社向けに送ると、はじめて地元の事務所から電話で「やんない」という回答が来た。電話口で工事の回覧は自分たちで配って自治会に下すなと言うと、はじめて戸別配布が実現した。文句を言い始めて7年目だった。

 ぼくが県と懇談をしたと村の課長に説明すると、「県からは説明会をしたほうがいいと電話がきました」と小さな声で言っていた。

趣味には根気強さも必要だ。

(2023年10月、「越路」36、たらたらと読み切り176)

 

司法の迷走と「逆コース」

一審は「差別的取り扱いは合理的」

6月22日の一審における不当判決から4カ月が経ち、共同親権訴訟は11月2日に控訴審の弁論が始まる。通常控訴審は1回で結審することも少なくないため、初回結審を阻止するために多くの方に参加傍聴をお願いする。

一審判決で古庄研裁判長、石原拓裁判官は非婚の父母の「差別的取り扱いは合理的」と原告の訴えを退けた。法制審議会で単独親権制度の現行制度を維持する選択肢が事実上排除されたと報道される中、この極端な反動ぶりは司法の感情的な反発と組織防衛の反映である。判決内容自体も矛盾をはらむ。原告側の議論の提示を否定するために先行判例を物色したものの、先行判決との論点の違いを司法が解消できなかった結果である。

結果、母親(父親)が孤立した子育てをするのも、婚姻外の子どもが親を知らないのも、制度の問題ではないと判示してしまった。これは婚外子差別に反対し、ひとり親の困窮をアピールする人たちにとっても、素直に喜べない結果だろう。

司法の逆コース

 9月27日には、連れ去り国賠訴訟で東京高裁の不当判決が出ている。高裁はあえて「(現行の)家裁実務に対し、強い批判があることは窺われない」との文言を判決文に入れ込んだ。また、当裁判の原告の宗像が問うた面会交流不履行に対する損害賠償請求や、他の複数の面会交流不履行の損害賠償請求訴訟で、このところ高裁での棄却判決が出ている。以前は債務不履行として司法が判例を積み重ねてきたのにだ。

昨今の実子誘拐批判、連れ去り容認司法批判の中で、権利回復を求める被害者の訴えを逐一否定することによって、司法は権利主張そのものを抑え込もうと必死だ。しかしこれらは、司法決定自体を司法自身が守らなくてよい、と対外的にアピールするに等しく、組織防衛でありながら自身の存在意義を否定する劇薬である。

であるとするなら、この司法の腐敗ぶりをどこまで公然化することができるかが、この民法改正運動の帰趨を制すると言ってよい。相変わらず養育費のピンハネや男性の被害者性に対して沈黙しているが、マスコミ報道は「連れ去り」の存在を解禁した。テレビドラマでも「実子誘拐」や子どもを取引材料に使う弁護士たちの悪行が徐々に取り上げられるようになってきた。この傾向は、逆コースに走る裁判所にとっては、おちおちできない事態だろう。高裁弁論期日の「ハチャメチャ家裁祭」に結集を。

自己改革不能な司法官僚システムと家制度

 ところで、各国で進められてきた単独親権から共同親権への転換とは、共同親権による父母の共同責任の明示によって、父母の法的な関係と、親子関係を分離することが最終的に目指された。親権制度の改革とはそれを呼ぶ。父母は結婚していようがいまいが父母である。

本国賠訴訟の狙いもそこにある。父母間の不平等の根拠となっているのは、婚姻外の父母の「差別的取り扱い」そのものである。そのことによって婚姻中も含め親の養育権が侵害されるため、父母の共同責任が否定される。よって原告は現行民法と司法のやりたい放題の憲法による規制を求めた。そもそも単独親権に、他方の親の子育てを否定する目的などない。

現在、法制審議会の司法村の住人たちが取りまとめようとしている答申案は、この点を意図的にスキップしている。父母の意見が別れたらわざわざ単独監護者を指定するなど、今と同じ国の過剰介入である。それに対して保守的立場から民間法制審が取りまとめた法案も、結局のところ父母を婚姻による親権者とする点で、婚姻制度に親権制度を従属させている。いくらいい提案をしたところで、大本で対抗案となっていない。現行の婚姻制度は結婚を戸籍、つまり家への所属の問題としているため、戸籍の不合理性を問いかけなければ「差別的取り扱いは合理的」というイデオロギーに取り込まれるのだ。

「部外者」だから合理化される差別的取り扱い

本件一審判決は単独親権制度の立法目的を子どものために「適時適切な意思決定」ができることであると言及している。戦前においては、子も親権のない親(母)も親権者(父)の決定に服する。この場合でも、家に所属する子の処遇を親権者が決めることで、他方親の養育を否定することが目的ではない。しかし、家(戸籍)に所属しない親の場合、「部外者」がその権利性を司法によって正当に尊重されることがあっただろうか。「差別的取り扱いは合理的」とは、「部外者」であるからこそ肯定され、それが家父長制家制度の目的である。

この部外者排除システムの元においては、共同親権は家内部の親に与えられた称号以上の意味はもともとない。国や一審判決の言う「適時適切な意思決定」が単独親権制度の目的なら、共同親権など本来望ましくないからだ。したがって、共同決定ができない場合には、前倒しでその称号がはく奪されて無権利状況に陥る。家制度の番人の司法のもと、個人の尊重と男女同権は敗北を重ねてきた。

戸籍は単なる登録簿ではなくイデオロギーである。イデオロギーでなければ、戸籍に忖度して親権制度の改革を手控える必要は本来ない。そして体制内部の自己改革の道に展望は見いだせない。ぼくたちは、憲法を武器に、控訴審での国の矛盾を引き続きつきながら、彼らのイデオロギーの源泉を白日のもとにさらしていく。「犬神家の一族」のふるさと、諏訪での集会「犬神家の民法改正」もその一手である。(2023.10.29宗像充、共同親権訴訟冒頭コラムから)

共同親権 学習会とグループワーク

なんてこった!「子どもに会えない」なんて

共同親権 学習会とグループワーク

『共同親権』『子どもに会いたい親のためのハンドブック』の著者とともに、子どもの連れ去り、離婚後の共同子育て、家庭裁判所について体験を共有しながら、共同親権への理解を深めます。

【日時】2023年10月~2024年1月の原則第2土曜日、各回13:00~17:00

【場所】日本橋公会堂会議室(東京都中央区日本橋蛎殻町1-31-1)

「水天宮前」駅6番出口から徒歩2分、日比谷線「人形町」駅A2出口から徒歩5分

https://www.nihonbasikokaido.com/shisetsu#access

*入口の掲示板で場所を確認ください。開催場所が変更される場合があります。変更情報は「共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会」のサイト、SNS等でお知らせします。

【講師・司会】宗像 充(ライター。共同親権訴訟原告、『子どもに会いたい親のためのハンドブック』著者、『結婚がヤバい』を刊行予定。15年にわたって親子引き離しの相談・支援をしてきた)

【資料代・運営協力費】1000円*予約不要

<家族を修復するグループワーク> 

13:00~14:00

連れ去り、親子引き離し、離婚、DV(家庭内暴力)、モラハラ、不登校 etc 否定のない自由な語り合いで気づく、あんなこと・こんなこと。あなたにあった「いい関係」をいっしょにつくります。

【学習会「フォー・ビギナーズ 共同親権」】各回内容(予定)

14:10~15:00

どうして「子どもに会えない」? どうしたらいい? をいっしょに考えます。

<第1回>10月14日(土)フォー・ビギナーズ 子どもの連れ去り・引き離し

お話 染木辰夫「引き離され歴30年の父親が見た日本の司法と家族法」

「子どもの連れ去りとは何か」「引き離されたらどうしたらいいか」を考えます。

<第2回>11月11日(土)フォー・ビギナーズ 家庭裁判所

「司法で理屈が通じないのはなぜか」「家裁とは何か」をいっしょに考えます。

<第3回>12月9日(土)フォー・ビギナーズ 家制度と民法改正

お話 島津友彦(戸籍研究家・出版業)「戸籍制度が家族関係に果たす役割」

民法改正や国賠訴訟の論点、現行民法と家制度(戸籍制度)について意見交換します。

<第4回>2014年1月13(土)フォー・ビギナーズ 別れた後の共同子育て

実際の共同親権での子育ての仕組みやいまできることについて共有します。

<自助グループ> 

15:00~17:00

子どもと離れて暮らす親、別れても共同での子育てがしたい方、互いに気持ちや事情を聴いて、 勇気や知恵を出し合う場です。

主催 共同親権運動・日本橋の会

TEL0265-39-2116メールmunakatami@k-kokubai.jp URL https://munakatami.com/category/family/

【訂正】クサガメ/イシガメ

 先日2017年に出した『ニホンオオカミは消えたか?』の読者からメールが来た。

「本の冒頭あたりに、オオカミの再導入に関する例え話として「在来種のクサガメ」という表記があります。しかし現在では、クサガメは外来種とされる説が濃厚です。これは「イシガメ」の誤りでしょうか?

クサガメ外来種説に関して、一部に議論は分かれる部分もあるようですが、日本固有種のイシガメの存在を脅かす存在であることは事実です(ウンキュウという交雑種も存在しています)。

そのような問題がある中で、この本としてあえてクサガメを在来種と表記するリスクはないのかなと思いました。特に本の内容として「種」に触れる場面が多いので、クサガメを在来種と書くことで、宗像さんの評価にケチがついてしまうのが心配です。」

評価にケチがつく、という部分でいえば、たしかにケチがつくような実績しかないのであんまり心配してないのだけど、調べて訂正する記事を書くとお礼ととともに返事をした。

指摘の部分は、本書の15ページ目で、オオカミ導入論がある中で、ニホンオオカミが独立種だとすると外来種の導入で在来種が駆逐される場合のたとえ話として、「在来種のクサガメ」が外来種の「ミドリガメ」に駆逐されていることについて触れたものだ。

この「在来種のクサガメ」が外来種ではないかという指摘だ。ウィキペディア等ネット情報を見るだけでも、実際イシガメ(ニホンイシガメ)が日本固有種であることに争いはないものの、クサガメについては本州以南のものはかつて自然分布と考えられていたが、今は朝鮮半島から18世紀末に移入されたと考えられているという。

長野県では現在では外来種とされているハクビシンがかつては天然記念物だった。DNAの研究の進展で論争に決着がついた例もある。そうはいっても、外来種によって固有種が危機にさらされているということについて例を挙げようとして、論争や研究成果などきちんと調べもせずに不用意に書いた間違いで、ご指摘通り「イシガメ」と書けば問題はなかった。いったいいつからいるものが「固有種」なのかという論点はたしかにある。ただそこはこの場合論点ではないので余計な詮索を招いたという点でも例としては不適切だ。

書いたのは7年前で記憶も古くなっている。クサガメはイシガメ属でもあるので、その辺も混同の理由かもしれないものの、この本はほかにも調査不足からの間違いを指摘されているので、軽率な態度が招いたものとして反省する。重版の際にはもちろん訂正する。(2023.8.31)