2025年1月22日、単独親権制度の違憲・違法性を訴えて国を訴えた立法不作為の上告を最高裁が棄却して5年間にわたる訴訟が終結した。
子どもに会えないのは個人の問題ではなく、社会や制度の問題だと訴えてきた。裁判では負けたものの、非婚(未婚や離婚)の親の「差別的取り扱いは合理的」という下級審の文言を引き出した。それを最高裁が追認したことで司法は自ら墓穴を掘り、ぼくたちのやってきたことは逆に正当性を得た。子どもに会えない程度の被害はたいしたことではないので、その程度の差別は無視してよい、という司法の思い上がりがぼくたち原告やその仲間の考えとは違う。
2008年に国立市議会への陳情で始まった親子引き離し解消の市民運動は多く、単独親権制度という現行制度の改廃を目指す立法運動として収斂してきた。昨2024年に民法は改正されたものの、ぼくたちは改正民法の単独親権部分の撤廃を引き続き司法で訴え続け、裁判で負けてもそれは変わらない。
ところでぼくは、当事者の法改正の活動に市民運動としての手法を意識して持ち込んだ。しかしその間、運動が高揚しかけるとそれが市民運動としての形をとっていること自体を嫌って当事者から批判されることが度々あった。悪いけどあまり耳を貸さない。
運動というのは他者への働きかけによって特定の目的を達成することだ。そのために多くの人の理解を得て大衆の支持を得るという手法をとれば、大衆運動や市民運動と呼ばれる。そんな経験のない人にとって見れば、政治は政治家がやるものなので、そんな徒党を組んでする行為自体、卑怯で過激に映ることはあるかもしれない。
しかしそうしている人も好き好んでやってるとは限らない。金も権力もない人間は、時間と労力とときに知恵を使って自分の発言を確保し続ける。しかし自分が信じてきた政治権力から裏切られて社会から白眼視される存在になったとき、いままで「サヨク」「共産党」と呼んで遠ざけ、時に罵倒してきた連中と同じことを自分がするのか、と躊躇する気持ちはわかる。
「住民運動は行政との信頼関係が壊れたときに起きる」という言葉を聞いたことがある。
でも多くの市民運動に携わった経験のある者にとっては、国をはじめとした権力機構への不信は前提だ。言わなければ賛成したことに数えられてしまう。当たり前だけど、権力はその手段を進んで提供してくれないし、マスコミは話題性のないものに目を向けない。したがって発言する手段は自分で確保するしかない。ぼくがそのために選んだのが国をお白須に引っ張り出す法廷という場だったいうだけで、それが市民運動であること自体は変わらない。
今の世の中は平和だ。日本国憲法があるおかげで、国や為政者と違うことを言ったからといって、戦前のように拷問で殺されたりしない。しかし周囲の雰囲気に忖度して発言をやめたり、発言したことで孤立したりいじめられたりして死ぬことは昔と同じようにある。それでも発言するということは、自分が見知った範囲の世間ではなく、社会という水面に向けて石を投げることにほかならない。そこではじめてその人は社会的存在となり、波風を立ててでも争点を立てようとする意志が政治と呼ばれる。政治は政治家ではなく本来そこらへんにいる人が行うものなのだ。
子どもに会えなくなった親たちの多くが、いままで自分が培ってきた処世術が通用しないことに愕然として、権力や統治機構への疑いの目を向けることになる。周囲に合わせて多少の理不尽でも上の人の言うことを聞いていれば波風立たず平凡に暮らせたのに、理不尽に対し声をあげなければ自分のアイデンティティの重要な要素である子どもを永遠に奪われる。おまけに落伍者のレッテルを貼られかねない。そして相手も社会も責められなければ、自分を責めてときには自殺したりする。
それで徒党を組んで発言したからといって、社会がすぐに目を向けてくれるとも限らない。だけど言わないから、聞いてくれなかったらどうしようと思い迷うのだろう。誰かが、それを言っているのは誰だろうと気にしだしたときに、実名や顔出しすれば、こそこそするようなことはしていない、とそれだけで強いメッセージで伝えることができるし、メッセージを直接受けとめることもできる。誰にでも後ろ指さされるようなことはあるだろうけど、批判を恐れてする発言に共感できる人の範囲も限られている。それでもそこで得た経験や仲間の存在は財産になる。やった人でしか見えない世界だ。
市民運動なんて勝てることのほうが少ない。なので国賠訴訟は結果が出るまで希望はあったけど、負けたからといって絶望したりもしない。「お上にたてつく」という言葉がある中で、いいことやってると思った時点で国に揚げ足を取られるだろう。趣味で上等だと思う。仕事は金のためにやるものだけど、趣味に命や財産をかける人は少なくないだろう。子どもや家族のため、が趣味であるとするならば、子育てや家族を持つことは、義務から権利に変わるだろう。
ずいぶん勝手なことを言っているとは自覚している。ぼくは言いたいことを言ってるだけだから。