大鹿村に来たのは2016年のことだ。娘が千葉にいたので、当初は学校行事などにも頻繁に参加し、同時に月に1度の子どもに会えない親たちの自助グループを都内で開催してきた。娘も成人し、2019年から続いてきた単独親権制度の改廃を求める国賠訴訟もこの1月に負けて終わっている。先日その総括会議を都内で行って会の解散を決めた。東京はいよいよ他人の土地になったのだろうか。
その会議の後、平日の1日を使って都内の山の店や自然保護団体の友人のもとを訪ねた。理由はぼくの暮らす大鹿村内で工事が続いているリニア新幹線の反対の集会を松本でするので、チラシを置いてもらったりその支援を求めるためだ。
この工事はぼくが2016年に引っ越してきた年に着工している。よく「リニアに反対するために引っ越してきた」と言われることがある。ぼくが大鹿村に越してきたのは村の女性と結婚したからで、それも2020年に別れている。彼女がリニアに反対していたので半分当たっているけど半分外れている。
その後「お前どうするの」といろんな人に聞かれて、ここにいる理由が「ほかに行くところがないから」という言葉以外に出てこなかった。
それから5年が経ち、ここで一人暮らしをした歳月のほうが長くなっている。田んぼなんか一人でできるのかと当初思ったけど、東京の友人たちの手を借りたりして4回もできた。山小屋のバイトから冬期営業も始めるようになって、そんな暮らしも悪くないよね、と思えるようにもなってきた。
別れた後はリニア反対の運動にもちっとも手が回らなかったけど、JRは相変わらず地元を無視して有害残土を起き、ダンプを走らせ、愛着の深まった南アルプスには穴が開けられ続けている。忌々しいと思っても、村で目だって反対の声をあげる人はほかにおらず、助けを求めるのはやはり山やだった。「おれもリニアは反対だから」と集会でしゃべるのを引き受けてくださった。山に登る人たちにアピールする集会を自分で組むのは大鹿村に来たとき以来だろうと思う。
そんなわけで、仲間と県内の山の店や施設を回った後、東京での滞在をのばしてあちこち人に会って説明した。新聞テレビやネット情報で実際に暮らす人の心情までは伝わらない。国策に不都合なことを大手メディアはなかなか取り組みたがらない。それでも、共同親権を日本一毛嫌いした信濃毎日もわりとリニアのことはわりとやる。山やが中にいるからだ。
自然保護団体にいる山の仲間がポスターを黙って引き取ってくれた。家族や仕事の事情で忙しいというのに会いに来てくれてとりとめのない話と村の話をいっしょにしてくれる人もいた。橋を待ち合わせ場所にしていたら、鵜が一羽羽を伸ばし、船に乗った2人が楽しそうに話していた。釣り好きの兄の影響でとにかく川を見るのが好きだ。
橋の上はセカセカとした人たちばかりで、ぼくがのんびりと鵜を見ていると、何かいるのかといっしょに川を見下ろす。鵜や船の人たちは、計画性の上に人々や自然をひれ伏せさせる現代文明の楼閣が、実はそんなものは蜃気楼だと教えてくれる。つまらないものを見たと思ったろうか、それともぼくが止まって感じた橋の揺れを同じく感じただろうか。
子どもに会えなくなった親たちと山の仲間と一見接点はない。だけれども、まっとうと呼ばれる社会生活と遠く離れた部分に足を踏み入れ、まったく別の世界の存在に気づいたという点では同じだろう。それを深淵と恐怖するか、パイオニアワークの平原と歓喜するかは人による。
東京にいる間、足尾鉱毒事件の被害を訴えるために上京し、大杉栄やらの活動家や支援者を訪ねて歩いた田中正造のことがちらちらと頭によぎった。リニアの環境や生活被害も公害だ。正造は自由民権運動で勝ち取った帝国議会に衆議院議員として乗り込み、足尾鉱毒事件を訴え、やがて下野して家を強制収用されて穴居生活を送る谷中村の人々と暮らしている。村を危機に導いた権力中枢の街を行き何を思って人を頼ったのだろうか。
ぼくは2022年に地元の郷土史家の赤神剛さんに案内されて、谷中村から足尾まで雑誌の取材で訪問している。谷中村の解説看板には、大杉栄と伊藤野枝の訪問についての記述もあった。このとき赤神さんが紹介してくれた本に城山三郎の『辛酸』という小説がある。この小説は前半は正造の生涯を、後半は正造亡き後の谷中村の住民たちのその後が描かれている。今は渡良瀬遊水地になっている場所は、その後も住民たちの生活権のための抵抗が続き、共同墓地の前で旧住民が重機を止めたのは1972年のことだ。
社会問題への取り組みで何かを成し遂げるということは、獲得目標という点では重要なことだ。しかしそれよりも大切なのは、心を動かされた人々の記憶や経験であり、そこで伝えられ引き継がれていくものではないだろうか。
このときの旅で一番驚いたのは、足尾の街で入った食堂で赤神さんが「おやじ何でここにいるの」と声をかけられたときだ。たまたま友人と旅をしてきた息子さんが隣にいたのだ。それは偶然であり必然でもあったと思う。正造の事績を掘り起こし顕彰する赤神さんがいなければ息子さんはここにはいなかったからだ。
誰かの記憶に自分を残したいと願うことでは、人の心に残りはしないということを、おそらくそれは、物語っている。