山よりな暮らし

「お前ここに住むのか」

 はじめて大鹿村にやってきた父は、山に囲まれた村の風景を見ながらそうつぶやいた。8年前の2016年のことだ。いろいろあったけど何とかここで暮らしていけている。

「長野県の人は住まない」

 ここから強制執行の実力阻止をわざわざ取材しに行った千葉県の三里塚で、隣町の松川町出身の現闘の女性が、大鹿村のことをそう言っていた。隣町だというのに、峠と渓谷で隔てられた山の向こうの隠れ里は距離以上に遠い。

 長野県に来てから北アルプスの山は一度も行っていないのに、南アルプスやその周辺の山々は近いからかしょっちゅう登っている。来た最初の1、2年は生活を軌道に乗せるのに必死で、山の中なのにほとんど山には行かずに、たまに登った山で膝を痛めストックを買った。昨年末から雪の時期の山小屋での小屋番を始めて、今年の夏はほぼ毎週末山小屋の手伝いに行った。おかげで膝の故障も起きず、ストックも今年一度も使っていない。

だけどまだまだ行っていない山がたくさんある。冬は寒くて厳しいけど、山が好きな人にとっては山の麓に住むのが正解だとようやく感じられるようになった。

 住んでみると、あちこちの山間地を往来してきた林業の人たちや、山好きの人たちが毎年集まっては散っていく山小屋、村にある諏訪大社はじめ山間地の神社は広がりを持ち、歌舞伎もまた旅芸人から習ったもので、それぞれに独自のつながりはあることがわかる。

「どうやって暮らしてるんだろう」というのが、村を訪問した人たちの謎だけど、一見何やってるか説明できない日々の暮らしの猥雑とも言える多様さは、今時のトピックと言えるんじゃないだろうか。なんでもかんでもお金に変えられてそれで価値が測られる都市生活とは、まるで霞を食べても生きていけるかのような暮らしぶりの中身は、住んでみてはじめて見えてくる。そんなわけで、山好きの移住者の暮らしぶりを「山よりな暮らし」というタイトルで登山の雑誌に売ってみたけど、買い手がつかなかった。山やの望む山暮らしは安曇野近辺止まりらしい。「耳寄りな話」のはずなのに。

 北条時行の供養塔を2年前に見つけ出して、今年の7月から少年ジャンプの連載漫画『逃げ上手の若君』がアニメ放映されたのに便乗して、伝承地の取材でこの辺をあちこち行った。北条時行は、北条宗家の得宗家最後の当主、北条高時の遺児で、大鹿村の桶谷も伝承地の一つ。供養塔もここにしかない。

 秋葉街道沿いに諏訪近辺まで散在する時行の潜伏場所をつなぐと、それぞれの場所が軍事上の拠点であるとともに交通の要衝であり、同時にそれぞれの拠点どうしが山間地の尾根道や往還道でつながっているのがわかる。地の利がある人間にとっては自由回廊だけど、そうじゃない人にとっては鬼か盗賊の棲む魔境に見えるだろう。

 大分県の主要河川の大野川中流域の犬飼町出身の父は、「弱えやつらが行くところ」と、平地で土地を持てない次男三男や何等かの事情があって隠れ住み、山間地を新天地とした人々のことをそう評した。大鹿村に住んでみてどの人がどこから来たか聞いてみると、島流しか落ち武者、それにゲリラしかここにはいないことがわかる。もっぱら山間地の小さな小学校に好んで赴任していた父や、今さらここでの暮らしが気に入っているその息子もその一画を占めている。

 一昨年は村の駐在の交通違反への取り締まりが厳しかったのか、シートベルトをしてなくてチケットを切られた人が大勢出た。村の人が連れ立って、1時間もかけて飯田署まで抗議に出かけたというのが村の話題になっていた。そんな恥ずかしいことしないでほしいと思うけど、それが当然とも思える中央権力との距離感は理解できる。

「そもそも宗良親王や北条時行と言ったって、今みたいに顔写真があるわけでもなし、どうやってそれが本人だってわかるんだ」

 御所平という地名の残る、入笠山の牧場で歴史を調べていた方は、そんなもっともな疑問を口にした。それが本人であるかどうかはそんなに本質だったのだろうか。

亡命政府から派遣され、あるいは都を追われたプリンスは、山間地で毎年毎年変わり映えのしない暮らしを送っている人たちにとっては、危険な劇薬かもしれないし、自分たちの境遇を変えてくれる宝くじかもしれない。

 そんな彼らの鬱積した思いに逃げ道を与えてくれる思想もまた同時にやってくる。「農村から都市を包囲する」戦略で中国革命は勝利に至り、伊那谷に広がった国学思想は水戸の志士たちが通過するのを容易にし、遠山は自由民権運動の激化事件の舞台の一つになった。熊本県の秘境の宿屋に泊まったときには「うちのばあ様も西郷軍が来たときには炊き出しに行った」と思い出話を聞かされた。命懸けで西郷軍を支えた民衆の権利意識を目覚めさせたものとして、延岡の郷土史家たちは西南戦争を捉えている。

 平和な時代なら「お上に弓を引く」という恐れ多い行為は、単なる鬱憤晴らしではなく理があるものとしての抵抗へと変換される。乱世と思想とそして細々ながら綿々と受け継がれてきた経験が、山間地の人々に勇気を与えることだろう。

 「失われゆく山の民俗」とか本の帯につけると興味を引きやすい。背景には進歩的な歴史観では物質的な豊かさによる社会の発展は避けがたいという、ぼくも含めた多くの人々の思い込みがある。『山を忘れた日本人』という本は、グローバリゼーションの時代には資源はよそからやってくるので都市に人が集まり、鎖国が強まると資源を求めて人々は山に目を分け入るという。必要があれば人の目は山に向き、必要が経験を引き出し、経験は技術となる。

大分で出会った古代史家の藤島寛高さんは、山の民は歴史の転換点でバランスを取る動きをするという。『キングダム』という漫画が実写版でヒットして見ていたら、秦の始皇帝の嬴政が一時権力を追われた際、山の民の力を得て王位を奪回する場面が出てきた。斜陽の南朝を支えたのも楠木正成に代表される山岳ゲリラであり、その正体は日ごろは歴史の表舞台に登場しないこの辺の山村住民たちだ。武力にものを言わせた統一は水面下の人々のつながりを断ち切って人々を序列化し、危機感や正統性への渇望が、抵抗を長引かせるのではないだろうか。

 ちなみに伊那谷とも縁の深い柳田国男は、「願はくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」という序文から『遠野物語』をまとめている。サンカ取材の中で出会った、神楽面やサンカ研究をしている宮崎県の高見乾司さんは、柳田が晩年山人研究から稲の研究へとシフトしていったことについて、軍国主義の傾向が強くなっていく中で、「高級官僚だし、ヤバいと思って言わなくなったんじゃないかな」と指摘していた。

『遠野物語』が出た1910年は、国民統合の結果対外戦争を成功させ、次の戦争へと至る戦間期に当たっている。そこに山人論は水を差す結果にもなる。やりすぎると自分の立場もヤバくなる。逆に言えば、柳田は山村の人々の持つ潜在的なパワーに気づいた、その時点では守る側の都市住民ということになる。

リニアであれ移住であれ、どうもこの国は東京のためにできているようだ。移住の掛け声は植民地への開拓キャンペーンみたいなものだ。この国は、都市と田舎という2つの国からなる。そして3つ目に、都市にも田舎にも、アジールや解放区と呼ばれる地域がある。仮に解放区が力を持ち始めているとするならば、現行秩序の息苦しさに人々は気づきつつある結果だろう。

人が多ければ文化が生まれる。しかし人が多いだけでは生まれない文化もある。都市生活の砂上の楼閣ぶりを辺境ライフが侵食していくならば、「平地人を戦慄せしめよ」という言葉もリアリティーを持つだろう。

(越路41 たらたらと読み切り181 2024.9.26)