選択的夫婦別姓における子の氏の強制
選択的夫婦別姓についての議論がにぎわっている。その中で別姓になった場合に、子の姓(民法では氏)はどうするのか、という論点が注目されるようになってきた。民法改正派の中では、子の氏について婚姻時にするのか、子の出生時にするのか意見が別れているそうだ。
父母間で意見が別れれば司法に持ち込まれるが、明確な判断基準などありえるはずもない。そして離婚時においては、子といっしょにいるほうの親(司法判断では94%母親)に氏を合わせるべきだ、と福島瑞穂は国会で主張していた。
事実婚をした福島が他人の親の子には同姓を強制するのか、とそのいい加減ぶりに心底呆れたものだ。というのは、ぼくは事実婚であったがゆえに子といっしょの姓になったことが一度もないからだ。親権者になったことすらない。戸籍上父であることをもって、子との関係維持を訴える社会運動を続けてきた。
元妻との間の子は離婚して300日以内においては元夫の姓とするという民法規定に基づいて、元夫の姓となっていたため、司法がそれを認めるまで、元妻の姓の元妻とその連れ子、元妻の夫の姓の娘、それに自分の姓のぼくと、4人家族に3つの姓がある状態だった。しかしそのことで社会生活上支障となることはなく、上のお姉ちゃんの保護者としてぼくは園に顔を出していたし、他人から家族ではないといった扱いを受けることもなかった。
妻とは別れたものの、子どもたちと別れたわけでもないので、2人の子どもたちには会っていたし、養育費も2人分20歳になるまで支払っているし支払っていた。情のある父親か、無責任な女の敵か、裁判になると前者はぼく、後者は元妻が主張することになる。後は子どもが自分で考えればよい。
長く書いてきたけど、彼女は所属の問題として「私が親権者だから」とぼくが提案して決まったことをもめると持ち出し、ぼくは「家族は中身(つまり関係)だから」と今に至るまで態度で示しているにすぎない。したがって子の姓にもさほどこだわりが薄かった。
手続法が実体法を規定する
選択的夫婦別姓の議論において、反対意見の中からは戸籍制度の解体につながり日本の伝統を壊すことになる、との意見が大きい。それに対してリベラルの側は、そもそも戸籍なんて明治以降の歴史だし、現在の形になったのだって戦後と反論をしている。
しかしもともと戸籍とは、登録手段の一つであって、実体法という民法を実現するための手続法である。だから戸籍に明記された父子関係を司法も否定することはできなかった。
そもそも手段で目的を縛る議論そのものがおかしいのだ、という主張をとんと見かけたことがない。なぜならば、戸籍に登録され(入籍)、国家に認められることこそが、正統の証であるから、そもそも選択的夫婦別姓の主張自体が、それを認められない人々の差別を前提とする矛盾含みの主張であるからにほかならない。
伝統の議論がなかった共同親権民法改正
そんなわけで選択的夫婦別姓の活動家が、共同親権に反対するのは何の不思議でもない。十字軍の貴族がアウトローの反乱の殲滅戦に没頭していただけだ。保守政権側がまともだったとは思わないけど、よっぽど賛否両方の意見を踏まえて物を言っていたのは事実だ。
そしてリベラルな貴族側は、共同親権運動がバックラッシュの保守的な運動(要するに伝統)だとキャンペーンを貼ろうとして、ぼくのようなゲリラに、「この貴族どもめ」「復古主義者が」「母性神話のマッチョどもめ」と石礫を投げつけられていた。いい気味だ。
単独親権制度撤廃とは
たとえが先走った。
日本国憲法に施行に伴った戦後の民法改革においては、戸主制度と家督相続、それに3代戸籍という家の継承を前提とする家父長制が廃止されはしたけど、夫婦と未婚の子に氏という団体名を付した戸籍が家として生き残っている。親権は父親単独親権から婚姻中のみ共同親権となり、婚姻外のみ単独親権が温存された。親権もまた戸籍に準じたのだ。
ぼくたちは共同親権の実現ではなく、単独親権制度の撤廃を目標に掲げてきた。実現だけなら改正民法で夢が叶うのだけど、撤廃なら道半ば。
一方で、ここで撤廃を口にするその中身とは何だろう。
婚姻関係の如何に問わず、親子関係は不変のはずなのに、実際は親権の有無(つまり婚姻内外の差別的取り扱い)によって親子関係が保障されない。仮に共同親権になったとしても、第三者から見て、いちいち関係性があったかいなかで判断するより、正統/非正統、つまり貴族/アウトローの差を国は判断基準にしたがる。
家族の一体性やそれ以外との区別を強調するのを家族主義と呼んでよさそうだ。所属の問題である。
しかし家族がつながりであるとするなら、それは権利と呼んでよさそうだ。そもそも結婚に子をなすことにまで、国が得点とセットで法的保障を与えるのも、その形成が本来権利であるからで、そうであるなら、選択的夫婦別姓の活動家たちは、等しく共同親権にも理解を示さなければ「自分のことしか考えてない」と言われるのがおちだ。結婚・未婚・離婚は父母の選択の問題かもしれないけど、その不利益を子に及ぼすことは子どもの権利の疎外になるだろう。
所属が人間関係を疎外する
逆だ。
子どもの権利を侵害しない限り、男女は自分の選択を権利と主張することが可能となる。
逆転した物言いをするならば、夫婦同姓とは、姓の単独親権制度である。子は親を知り養育される権利があり、それを単独親権制度(家制度)が疎外してきた。親たちにとっても、所属に応じて子を捨てることは罪の意識を問われなかった。そんな環境で育った子どもが他者への思いやりを育みにくいのは想像に難くはない。
姓を権利と主張したいなら、それは所属意識ではなく、つながりとしてはじめて可能となる。子が親とのつながりやそのルーツを保つ手段として姓が役立つならそれは否定することではない。しかし、子にどちらの姓を「名乗らせる」かという問いは、所属の問題としてしか説明できようがないことではないか。他方の姓(ルーツ)を名乗らせない(奪う)ことでもって、子の所属を明確化するのであるのだから。
もちろん双方に所属の取り合いがあればそれが和解不能な子の奪い合いに陥ることは、親権争いと同様である。というか親権争いとは、家と家との子の奪い合いに他ならない。
法が関係性を疎外する。それは単独親権制度であり、姓の単独親権制度としての夫婦同姓、つまり、夫婦と未婚の子に氏を付し一体感を強制する戸籍制度である。結婚時や出生時に子の姓を決める、という程度の小手先で、子どもの権利は保証されない。