木村草太「面会交流事件のうち却下されるのは1.7%」のインチキ

「面会交流事件で却下されるのは1.7%」?

 10月13日に東京新聞の「人生のページ」に「親子の面会交流 共同親権で解決なるか?」というエッセイを書いた。いろいろな反響が新聞社のほうに寄せられているようで、掲載後に事実確認についていくつか新聞社から問い合わせがあった。

 その中で「日本で司法に訴えても面会交流の約束を取り付けられるのは5割」と書いたところ、根拠を求められた。読者が憲法学者の木村草太は、家裁における面会交流の申し立ては1万件で会えない割合は1.4%と言っているという。

 探すと2024年5月7日の参議院法務委員会の参考人質疑で、「例えば令和2年に終結した面会交流事件は1万件ありますけれども、うち却下されたケースは1.7%にとどまるということで、面会交流の申し立てを利用していただくのがよろしいのではないか」いう発言があった(議事録文字起こしhttps://note.com/nao302198765/n/n158468981cad)。

国民民主党の河合孝典参議院議員の「会いたいのに会わせてもらえないというところをどのように見極めていくのかということですね」という問題提起に答えたものだ。木村は似たような発言を繰り返しているわけだ。

 木村は法制審議会における参考資料として最高裁判所が提出したものを典拠としているようだ(「子の監護に関する処分事件の事件動向について」https://www.moj.go.jp/content/001347793.pdf)。

この資料の3-(2)に、「子の監護に関する処分事件(面会交流)・終局区分割合(全家庭裁判所)」との折れ線グラフとその区分別件数の数字が出ており、その最新の令和2年(2020年)の数字が1.7%となっている。

 木村は面会交流を申し立てれば司法で会えるようになるのだから、現在会えていないぼくのような人間は問題があるからだという主張をSNS等で繰り返している。1.7%はその根拠で読者もそれをうのみにしたのだろう(数字は不正確だが)。

98.3%は会えているのか? 半分が諦めている

 木村があげる「却下された割合」1.7%は僅少なので、会えないのは相当問題のある人達と思うだろう。ところが、同じ統計から数字を拾えば、調停の成立率は57.8%で、審判の認容率は65.2%にとどまる。残りは調停不成立や取下げとなる。そして法制審の資料には審判の割合も出ていて、この年は9.1%となっている。

 最高裁もズルいと思うけど、審判は調停・審判の1割に満たないのに、その1割に満たない審判での却下の件数を、調停・審判合わせた総数で割ったところで低く見積もられるのは当たり前だ。この統計には調停不成立の数字も外されており、司法統計を見ると2711件ある(法制審の資料は速報値のためズレがある)。司法統計の既済の総数は調停11619件、審判1619件で13238件(法制審資料だと10776件)。司法統計による割合は20.5%。取下げは27.2%。

根拠数字のズレはあるものの、総数のうち不成立・取下げ・却下の割合を合わせれば実に49.4%が面会交流を諦めるか認められていない。

 木村が「別居親は問題がある」と言うために悪意で数字を切り取るにしても、素人をだますにしてはやりすぎだろう。

取り決め率は47.3%

総数は何年も継続しているものも含むので、その年の新受件数のうちの調停成立・認容の割合を「取り決め率」とぼくは呼んでいる。過去棚瀬孝雄弁護士が用いていたので独自のものではない。正確に言えばその年申し立てたものがその年のうちに処理されとは限らないけど、過去申し立てたものも順繰りに処理されるのでだいたいの目安になる。この数字は過去10年以上、司法統計で追い続けている。

法制審の資料で見れば、令和2年は新受は調停で12929件、審判で1939件、合わせて14868件。審判認容は804件、調停成立は6227件、合わせて7031件。

7031件/14868件=47.28%。およそ半分になる。

取り決めても3割は会えなくなる

この取り決め率を、毎年司法統計から数字を拾い出して折れ線グラフを作っている(https://k-kokubai.hp.peraichi.com/「誤解その3」)。取り決め率の推移がわかるようになっていて、件数は年々増加しているのの、この割合は約半分で一定している。

面会交流調停については、多くの場合、連れ去られて会えなくなったので申し立てるので、この割合の増加は連れ去り件数の増加と大方一致するだろう(離婚事件おける面会交流がどのように扱われているかはこの中に入っていない)。

つまり、裁判所が面会を拒否してくれるのが見えるので、連れ去り件数も増加し、被害者は他に手段がないので司法に頼って「約束を取り付けられてるのは5割。それも会える保障はない」。

言うまでもなくこれは取り決めの割合で、この中には「会わない」「手紙のやり取り」などの取り決めもある。子育て改革のための共同親権プロジェクトによれば、合意がある場合であっても、子どもとは32.7%が会えなくなっているという調査結果がある(http://cdn.joint-custody.org/files/20220808-report-lbp-summary.pdf)。

家裁が月に1回2時間、写真送付などの間接交流を多く面会交流として取り決める現状で、そうなるのは当たり前である。

この資料は司法記者クラブで記者発表したものだけど、立ち見も出た中、一社も記事にしなかった。(2024.10.18)

「天国に一番近い村」大鹿楽園計画<その1>車を麓に下ろしたら

 長野県大鹿村に住んでいる。ここに住むようになったきっかけは、南アルプスを通るリニア新幹線についての取材で村を訪問し、地元の人と結婚したからだ。とはいえ、別れたので今は一人で暮らしている。

2016年にこの村にやってきて今年で8年目になる。だんだんここでの暮らしも愛着が湧いてきて見えてきたものも多くなってきた。そこで秘境や中山間地と呼ばれる地域での生活をもっと楽しむために、これまで気づいたことを書いていこうと思う。

近年都会から田舎へと移住を希望する人も増えたので、ここでの個人的な経験も多少は役立つ情報だと思う。また似たような状況で暮らす人にとっても参考になればと思っている。大鹿村の人はこの文章に触れる機会は少ないかもしれない。いろいろ異論や反論はあると思うけど、当然個人的見解なので、言いたいことがあったら伝えてほしい。

「天国に一番近い村」

 最新の村の広報を見ると大鹿村の人口は873人になっている。大鹿村の高齢化率は45.5%になっていて、全国平均(28.7%)よりも16.8ポイント高いというデータがある。この割合は長野県内でも高くて以前は10位以内にランキングしていた。長野県は全国トップの長寿県なので、大鹿村は全国でも指折りの高齢化率の高い村ということになる。

なので「天国で一番近い村」だと言ったら村で怒られそう。

でも逆に言えば、それだけお年寄りが元気に暮らしている村だということも言える。以前「消滅可能性自治体」として選定されたこともあるけど、近年はそこから外れている。お年寄りが亡くなったのかもしれないけど、小さい子を育てる子育て世代もそこそこいる。以前から移住者は多い。

接点のない村民と登山者

 大鹿村のことを村役場は「南アルプスと歌舞伎の里」と呼んでいる。歌舞伎は一生懸命取り組んでいるけど、南アルプスについてはリニア新幹線を受け入れているくらいだから、あんまり好きな人が大勢いるようにも思えない。それに登山者は大鹿村を素通りして登山口に向かうので、村の人が登山者と触れ合う機会は多くない。山に登る人間としてははなはだ残念な状態が続いている。

 でも標高1000mの上蔵という集落の一画で暮らしていると、近所の人たちが猟をしたり薪をとったりキノコや山菜を採ったり……と身近な山に親しんでいることがよくわかるし、自分もそういう暮らしは楽しいのでいろいろ習ったりしている。

なんというか、外から来る登山者と、山を生活の一部としている村の人の接点がないのだ。これは両方の立場にいる自分としてはとても残念に思える。

 村に来て登山者目線で村の登山者への扱いを見たとき、そもそも眼中にない、という気がした。そして村民目線で登山者を見たとき、麓の暮らしに目を向けたらもっと楽しいのに、と思う。だけど登山者は暗いうちに登山口の駐車場に着いて歩き出すのでそもそもどこをどう通って来たのか印象がない人も少なくない。

マイカー規制は架け橋

 よその登山口は、マイカー規制による登山バスを走らせ、麓の駐車場から登山者を登山口まで運ぶことが少なくない。先日仙丈ケ岳と甲斐駒ヶ岳の登山口、同じ南アルプスの北沢峠に行ったら、麓の戸台から10台くらいの登山バスを走らせて、それでも乗り切れずに2回戦目でようやく1時間ほどバスに揺られて峠に着いた。麓には登山者向けの入浴施設と食堂があった。

車内放送では、このバスが自然保護運動の中でも有名な、南アルプススーパー林道反対運動の結果実現したマイカー規制によって生まれたものだと車内放送があった。大鹿村の登山口の越路ゲートまでは延々40分ほど曲がりくねった鳥倉林道を車を走らせ、登山者にとっても運転に気を遣う。

また上蔵を通って鳥倉林道に合流する道もあって、休日ともなるとバイクの音とかがわりと気になる。そもそも鳥倉林道は林道なので、林業関係者から見ても自家用車は通行の障害になるという声も聞いた。

なので、麓に駐車場を用意してマイカー規制をすれば、登山者は麓にプールされて村の店舗に金を落とすこともあるだろう。登山口に着く時間が固定化されれば、宿泊施設の利用も増えると思う。

屋久島とかに行けばわかるけど、登山者向けの弁当屋が島のあちこちにあったりする。要するに登山者に向けた小銭稼ぎ程度の産業化が実現するし、登山者もバスを待っている間に村に目を向ける時間ができる。

なんてことを考えたのが8年前。誰彼に言ってたら、そこそこ「いいんじゃない」という人も増えてきた。(2024.8.19)

共同親権訴訟、最高裁で逆転を

現在最高裁に係属中

 今年 1月25日に共同親権訴訟の高裁判決が出て結果は不当判決だった。現在最高裁にかかっていて、結果待ちになっている。月例で最高裁に申し入れや情宣を行なっている。司法の判断は概ね世論なので、人権問題に取り組む多くの裁判体や支援団体が最高裁に働きかけをしていて、裁判所もそれを聞くために部屋を用意している。

下級審で負けていて最高裁にかかっている時点で勝ち目がないと思っている人もいるかもしれない。必ずしもそうではない。

合戦「民法改正」

 高裁判決の後、国会に改正民法案が提出され、「離婚後の共同親権の導入」に関する改正民法が成立した。この法案に対してぼくたちは仲間とともに反対してきた。改正民法で親子が引き離されるという原告の被害が解消されるのだろうか。もしそうなら、「訴えの利益がない」と言われて司法で負けても悔いはないけど、そうは思えなかったからだ。

 この法案の問題点は、違法な司法運用を法で追認するのが主眼の、司法官僚主導の法改正だということだ。したがって、「法案に協力義務や人格尊重義務って書いてあるじゃないか」と言えば言うほど、司法の権限を強めてしまう結果になる。

 この法案に対して、親の権利の固有性を明記すること、子どもの利益については、父母双方の平等の養育を受ける機会を明記することが記載されていれば、司法判断も妥当になる、とぼくは集中的に国会議員と世論に働きかけた。この点が明白でなければ、法案による父母の責務は、国家による道徳の押し付けになる。

あの腐敗した支配層、わけても司法に人の道を教えてもらうのか。逆だろう。

強すぎる親権/弱すぎる親の権利

親になったからには子どもの世話はせっせと自己犠牲的にするのは確かだろう。しかし、それは国が求める人材に自分の子を育て上げるためになすことだろうか。であれば、親でなくてもそれはできる。

親が子育てするにおいて、善悪の価値判断も含めて、自分が培った価値観をもとに子に接していると自覚していない人が、親の権利性を否定するのではなかろうか。そもそも「親には権利がない」とか言う人は、国も含めた第三者が子育てに口を出してきたとき一度も反発したことがないのだろうか。

たしかに、子育てが周囲に合わせることに価値が置かれてなされる部分が多いから、この点あまり自覚されなかったというのはあるだろう。

「普通が一番」「他人に迷惑をかけちゃだめ」と言いたがる人は多い。学校は自発性を育てるよりも、上の命令に従順な人材を育てるサラリーマン養成学校になっている。家は国家に必要な人材を供給する国家の下部機関であり、学校もまたそのための人材養成機関であったからにほかならない。

この秩序を維持していたのが、戸主や親権者、学校長という専制的なミニ天皇たちだ。従わなければ追い出される。

戸主制は廃止された。子の家への帰属を明示させる権限者として親権者は残った。

勘違いされている。日本においては家秩序の体現者としての親権者の権限は強い。しかし国も含めた第三者に対して親の権利は弱い。

だから、親権のない親の権限は養子縁組にすら口を出せないほど無に等しい。子に会えない程度の泣き言は、被害ですらないというのが、司法の発想であり、そしてそれを内面化した少なくない人々の認識でもある。

 この点をジェンダーバイアスを刺激することで運動化したのが、共同親権反対運動というの名の、国家主義的な別居親差別運動である。

しかしながら彼らは当て馬に過ぎなく、司法の権限を守るために司法官僚が子どもに会えない親とのつぶし合いをしかけただけだ。その点では対抗馬に担ぎ出された親子ネットはじめとした別居親団体も、同じ司法官僚の手のひらの上で踊っていたにすぎない。

ささやかながらぼくたちが仲間と張った論陣は、反対意見の矛盾とその意図、なぜそれが出てくるのかの仕組みを可視化することで、法案は通ったにしても、司法官僚にせよそこそこの打撃を受けたと思っている。司法への不信が国会議員の間でも口にされる結果になったからだ。

共同親権とは、婚姻制度と親子関係を分離させること

 ところで、法案自体は通ったものの、運用についての詳細はこれからだ。そして既得権を守るために現行法制度の不公平な運用を温存させようという勢力はそれなりにいる。

 司法は自身の裁量の幅は守った体裁はとっているので、これから前例や主観に基づく司法判断を、放っておけば出し続けることは想定できるストーリーだ。これに対して現在、司法の専横を縛る可能性があるのが共同親権訴訟の最高裁判断になる。

 共同親権とは、婚姻制度と親子関係を分離させることを言う。

婚姻制度とは、婚姻中に生まれた子を嫡出と推定することによって成り立つ制度だけど、必然的にこの制度によって非嫡出子という存在が必要とされる。

父母と子の関係が婚姻に左右されないことになれば、そもそも「婚姻外の差別的取り扱い」の意味がなくなる。親においては婚姻内外の地位の不平等を問うた本件訴訟は、子における差別もまた解消する。

この点、高裁レベルの下級審においても判断がばらついだ。そもそも司法が違法な判断の下手人である以上、自分たちの責任逃れをするためには、訴えた原告たちを被害者とするわけにはいかない。下級審の判断における倒錯した論理は、この結論から導かれる。

 通常の国賠訴訟であれば、下級審で積極的な憲法判断がなされ、最高裁は保守的な場合が多いけど、この問題に限って言えば逆になる、と今さらながらぼくたちは気づいた。

自分たちの保身のために、被害者を生み続けた最高裁を、いっしょに謝らせよう。(2024.8.7)

「2027年開業って何か根拠があったんですか?」

 久しぶりにJR東海が開いた工事説明会が6月3日、4日にあった。その2日目の4日の説明会で、手を挙げてJR東海のリニア建設の担当部長、古谷佳久さんに聞いてみた。

 JR東海は今年3月、2027年開業予定を正式に取り下げた。長らくJR東海はリニア工事の遅れを静岡県のせいにしてきて、マスコミもその主張に同調してきた。

 そんなとき、静岡県の川勝平太知事が自分の失言で知事職を続けられなくなった。JRとしてはリニア工事阻止のシンボルを表舞台から引きずり下ろすことができた。一方で、工事の遅れを静岡県のせいにするという作戦が大手メディアともども使えなくなり、前からわかっていた工事全般の遅れを公表せざるをえなくなった。「いいものが来るんだから」と完成を前提に協力を強い、生活被害を我慢させてきた沿線自治体の首長たちも、JRに住民に対して工期を示すように求めてきたので、この日の説明会に至った。

 表題の質問は、2日目の説明会でしたものだ。2日間説明会があったのは、有害残土(JRは「要対策土」と呼ぶ)を置いてその上に変電施設を作る計画を、関連自治会向けにJR東海がすることにしたからで、1日目は大河原地区の住民向けの説明会だった。説明会の後半では村内のリニア工事の遅れとその工期の設定をした。JRは3~4年の工期の遅れを地図に進捗状況を落とした工程図を示しながら表明している。この日は住民が意見を言えるようにとマスコミは入れなかった。

 2日目の説明会は、村民全体を対象に説明会を実施して、説明の順番は工期の遅れと工期の説明が前半、後半が有害残土の設置計画の順番になっていた。JRが工期の遅れを静岡県以外で正式に表明する機会なため、マスコミの取材要請が殺到し、この日JRは一社1人の入場制限を課し、フリーランスについては断っている。といっても、名前を書かされるわけでもないので、記者も村外の人も住民席に入って聞いていた。だいたい住民席の後ろ側は業者が多く占めているので席は余っている。

 記者の制限は今回が初めてだけど、撮影は冒頭のみという制約には、住民として長らく抗議してきた。というのも、実際、報道されて困るのは質問にまともな根拠がなく答えられないJRの側だからだ。

 冒頭の質問は、ぼくが1日目の資料を見て計算しなおしたところ、工期は3~4年の遅れではなくて、実際には2035年になり遅れはざっと9年になることを示した後にしたものだ。

「もともと難しいのわかってたんだから、遅れた時点で事業としては失敗です」

 JRが示したデータをもとにぼくが計算しなおした工期を説明した後に、JRに問うた。もともと2027年開業なんて、死んだ会長の葛西の願望か、名古屋までの開業後にいったん工事を中止し、大阪までの開業への資金をためる期間を設ける、というJR都合の予算スケジュールに合わせたもの以外の説明ができない。

 「2027年開業って何か根拠があったんですか?」という質問に報道席からちょっとどよめきがあった。そんな質問記者がしとけよ、と思う。

 ところで、工期のスケジュールがJRの予想では全然あまあまだという質問へのJRの回答は、ぼくが出した月進50m程度という計算式を肯定していた。その上で、これまでは災害による道路の不通や残土置き場の確保、それに掘削に手こずったなどの理由で遅れた。今後はそれらについてクリアできるからもっと早く進むので大丈夫という、まったく根拠のないものだった。

 説明会終了後に大鹿村の交流センターの玄関を出ると、記者とカメラに取り囲まれた。日頃は全然村に来ないくせに現金な連中だとは思うけど、自分も同業者なので断ったりしない。「JRは今後は工事がスムーズに進むと言っていますが」とやり取りについての質問があったので、「これまでトラブル続きだったから、今後もトラブル続きと考えるのが普通じゃないでしょうか」と答えたら、NHKでコメントが使われていた。

 この日からさらにJR工事の説明会を受ける機会は6月中に2回あった。1回は村長以下、役場の理事者が地区ごとにやってくる住民懇談会での村からの説明。もう1回は定例議会後に開かれる村のリニア連絡協議会での県や業者も含めた工事の説明。

 ぼくにはこの4月から上蔵地区の自治会長の役が回ってきていたので、懇談会の日程調整や協議会での自治会代表委員として出席を求められたのだ。一方で、JRが主催した最初の住民説明会では、有害残土の恒久処分がなされる当該自治会の自治会長であるにもかかわらず、事前に自治会への日程調整や趣旨説明が何もなかった。

 この点について1日目の説明会で、「上蔵の人は子どもじゃないんだから、自分たちのことは自分たちで決められますよ」と怒って言ったら、「家に行ったけど不在だったからこちらで全戸配布をした」という。2日目でも白々しく同じ説明をするので、「そういうことじゃなくてどういう説明の仕方を受けるかを決めるのはこっちのほうという意味だよ」と念を押した。

 JRとはこういうやり取りが多すぎる。リニアに賛成の人もJRの態度に怒ってしまう。これも工事が進まない原因の一つだ。ちなみにJRは説明会の案内では、「変電所の建設説明会」と示して、「要対策土」という言葉すら記載していなかった。その上2日目の説明会の時間も場所も書いていなくて、それについて突っ込む質問まであった。

 その一方で、ぼくが発言して再質問して3度目になると、司会は賛成派の住民を指名してしばらく嫌がらせでぼくを指名しないという作戦を実行。その住民は、リニアのおかげで道がよくなったと言い、「そういう質問は後で個人的にやってくれ」と注文を付けるといういつものお芝居も見ものだった。

 再度指名されたときに、「今日はJRがみんなの意見を聞く会なんでしょう。みんなにもかかわるものだから質問をしている。そんなこと言われたらみんな自分の意見言えなくなるでしょう」と言い返した。

 それでも説明会は2日ともJRにとってみれば厳しい意見が出たし、日頃おとなしいと評判の村民が出席して、ダンプの往来についての窮状を切々と訴える場面もあった。

 終了後に記者たちに囲まれたとき「住民の間で分断も起きていたようですが」と聞かれたので「それは仕込みでしょ」と答えておいた。絵にはならないのはわかっている。

(2024.7.17「越路」40号、たらたらと読み切り180)

改正民法の父母の協力義務は「フレンドリー・ペアレント」条項か?

改正民法の父母の人格尊重義務・協力義務

 改正民法の817条12-2には「父母は、婚姻関係の有無にかかわらず、子に関する権利の行使又は義務の履行に関し、その子の利益のため、互いに人格を尊重し協力しなければならない。」という規定がある。

 この条項をもって、子の連れ去りや引き離し行為をした親は非協力的な親として不適切とされ、それら行為が抑止されるととともに司法の親権選択において不利になるのではないかと期待する向きがある。

海外では司法判断において、裁判所が親権者を指定する際に、元配偶者と子の面会交流に肯定的な親を優先するという原則が「フレンドリー・ペアレントルール」として定着してきた。その日本版がこの条項に反映されたというのだ。

国会審議でもこういったことについて例示した上で質問され、法務省側は司法判断でそう判断することはありうるとしている。共同親権側で発言してきた弁護士たちもそう言っている。本当だろうか。

「バカ」と元妻に言ったら不適格な親

 この条項は法制審議会の最終段階で具体的な文言が出されてきたものだ。

 よそでこの条項がフレンドリー・ペアレントとして機能すると耳に入れてきた仲間に「ほんとにそうなの」と聞かれたとき、「会わせない相手にバカと言ったら不適切な親にされて親権はく奪の理由になるんじゃない」と答えた記憶がある。

「でも議員さんもそう説明している」というので、「決めるのは議員じゃなくて裁判所」と非情な事実を指摘した。法務省の答弁が「ありうる」のは当たり前で「ありえない」場合もありうる。

自然的な関係に対する倫理的な規定

 この条項を受けて仲間内で議論したとき、司法に嫌な目に遭った面子ばかりだったので、否定的な反応が多かった。

 この条項の問題点は、人格尊重や協力の義務が課されるのが「夫婦」ではなく「父母」である点だ。民法には752条で「夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない。」という規定がある。この条項自体は現在の司法運用では空文化している部分が多い。

とはいえ、この条項は婚姻制度という国の法規範のもとに個人が服することによって生じる規定である。この婚姻制度は人為的なものなので、中身も変えられる。不服なら服さないという選択肢も可能だ。

 一方で、夫婦はもともと他人だが親子は人為的なものではない。子どもが生まれたら国に出生届を出そうが出すまいが親子は親子だ。子に対する権利義務は父母にはあると思うけど、その中身に協力義務や人格尊重義務といった道徳規範を盛り込むことはどうなのか。

「その子の利益」を国が決める

「その子の利益のため」とあるからいいじゃないか、という反論はあるだろうなと思う。問題は「その子の利益」を決めるのが父母であるとはされていないことだ。

例えば、アメリカなどでは、子の最善の利益について双方の親との関係維持が州の公共政策であるとの規定があったりする。どうしてこういう規定が可能かといえば、特定の子の利益についてまずもって考えるのは、その子の父母であって国も含めた他人ではない、という前提に気づいたからだ(要するに共同親権)。会えもせずに空想的に「子の利益」を父母が想像したところで、子には利益にならない。

父母の権利性がなければ裁判官の主観を肯定

この点、ちゃんと共同親権、共同親権プロジェクト、共同親権訴訟で2月7日に法務省に申し入れた意見書では、1 婚姻状態によらず、子の養育をする固有の権利を実父母が持ち、父母双方による養育環境を維持する責務を国が持つ理念規定を設けること、2 子の監護について「子の利益」を裁判所が判断する時の規制基準として、「男女平等(養育時間における父母同権)」「頻繁かつ継続的で直接的な親子関係を維持すること」を盛り込むこと、という規定の設置を求めた。

逆に言えば、父母の権利性についての具体的な言及が条文にない状態での、父母の人格尊重義務や協力義務は、裁判官の主観や古臭い判例を反映した「協力」や「人格尊重」の判断を肯定することになってしまう。

子どもに会えない親たちは、それに怒って法改正を求めたが、今は「裁判官様の主観は私たち親の未熟な判断より尊いのです」と喜んでいる。

子どもに「あんた」と言ったら不適格

 ぼくにも経験がある。子どもに「あんた」と言ったら、子に不適切な発言をしたという理由にされて、監護に関する司法で負けた。出身地の大分県では、親しい相手に「あんた」というのは普通だけど、裁判官の悪意を自分の世間の狭さで正当化するとこういうことができてしまう。

 人格尊重は別に父母に特別に課されるものでもないし、子どものために父母が協力する場面があるのは言うまでもない。ただし、父母がいつもいつもデレデレ仲良くするのを「演じる」ことが子の利益なのだろうか。

互いに和解できない場合には、相手の価値観に「関与しない」ということも協力だろう。子どもの利益は父母が喧嘩をしないこと、とすることにぼくが否定的なのはその理由だ。

子のために互いに真剣になれば喧嘩にもなって、その場合にたしかに国も含めた第三者が関与することも正当化されうるだろう。それを前提としない解決策は、一方が他方に常に服する、ことになる。しかしこれは単独親権制度で親権者の言いなりになって「いつまでたったら他人になれるんだ」と愚痴をこぼす、子どもを人質にとられた親の姿そのままではないか。

 この規定は、国の家族支配と家父長制家制度の遺産を正当化するものであって、このままでは共同親権とは相いれない。(2024.7.31)

民法改正に尽力した議員を批判すべきではないのか?

2つの論点

 共同親権に関する民法改正法案が成立して、法改正を改悪と捉える人の子どもに会えない親の中からは、この民法改正を与党内で旗を振ってきた例えば柴山昌彦議員に対する「裏切り者」と言った批判がある。それに対して改正に尽力した議員を批判すべきではないと言う人は、法改正は婚姻外に共同親権の選択肢を増やすもので前進だと強調している。

 こういった議論は度々見かけるものだけど、端から見る人には意味不明の狭い世界の中の内輪もめ程度に捉えている。ただ自分も子どもに会えない親の一人なので、言及してみる。

 こういった議論は、法改正を、前進と見るか、改悪と見るか、という法案そのものの議論と、政治家の役割とは何か、という2つの論点にかかわる。

前進か改悪か

 法改正を前進と見る人は、いままで離婚後共同親権のような不可能な法案の選択肢が出てきたのでそう言いたいようだ。当たり前だがそれはこれから離婚する人には有効でも、一度単独親権が確定した人にはハードルが高いので他人事に思える。

また、将来の世代のために犠牲になってくれ、と言われても、当事者は自分の問題(特に子どもに会えない、差別で苦しむなど)の解決を求めてきたわけだから、「だまされた」「捨て駒かよ」ぐらいは思うだろう。

そういった感情を無視して政治家を批判する当事者を「バカだ」と言ったところで、「あんたそんなに偉いのか」程度にしかぼくは思わない。

改悪と捉えることは当たってないのだろうか。

ぼく自身は今法案は現行の違法な司法運用の合法化が本来の狙いであると思っているので、あながち外れではないと思っている。

現行の司法運用でひどい目にあった当事者からすれば、法改正を求めたら、将来世代も同じ目に遭うのかと思うのでいっそうやりきれない。この点、現行民法の違憲性を確定することが優先的な課題になる。最高裁の違憲判断の持つ意味は大きい。

改革偽装はどこに向かう?

ところで、違法な司法運用を合法化するにあたって、あからさまなやり方はできないので、ポーズの上では改正をうたわなくてはならない。ぼくが改革偽装と呼ぶ理由だ。

その点、父母の協力義務や人格尊重義務などを強調して、ラッピングはすぐ破けるクレラップじゃなくてデパートの包装紙(まあ破けるけど)だと言いたい人はいる。しかし、改正が目的化した中でのラッピングなので、これをホンモノと言うのは当事者をだますことにもなりかねない。このラッピングそのものの問題点は言及してきたのでここでは触れない。

問題はどこに向かっての前進で、いまどの段階だということを、政策決定に直接関与した政治家たちが示せなかったことにある。

家制度の撤廃に向けての前進である、というならそれはそうかもしれないと思うけど、偽装は家制度の守護神の司法運用を守るためのものだ。保守政治家が表立ってそう言うかといえば、そこまで深く考えていたとしても、党内配慮から表立って言いはしない。

では当事者は、政治家たちが言うように、将来世代のための捨て駒になるしかなかったのだろうか。

「夫婦の別れが親子の別れ」

国会審議では、夫婦の別れが親子の別れになっていいのか、それが法改正議論のきっかけだった、と小泉法務大臣は繰り返していた。もちろん法案は法制審議会を経るものなので、専門家に議論を委ねた法制審の出してきたものに対して与党は文句はつけにくい。

ただ聞いていて、子どもに会えない当事者としてはこの法案は誰の何のための改革なのか、明確なメッセージが一貫して欠けていた、という感想はある。

反対勢力と妥協するにしても、親どうしの関係如何にかかわらず親子関係が維持できるのが目的、実際の世話でもお金でも、というメッセージが明確には聞こえてこない。

それを繰り返し言及して現状を示すのは立法事実なので、反対意見を納得させることはできないまでも、議論の積み残しがどの部分なのか、それに向けてのスケジュールも見えてきただろうと思う。

結論の見えないダラダラ小説

正直、どこに向かうかわからないダラダラとしたヘタな小説を聞かせられているような気分が今もしている。

政治家としてはいろんなところで妥協を繰り替えしていたら、法改正という成果が大事で、中身は二の次、という気分になりやすいだろうなと思う。だけど、理想を示してそのための筋道を示し、希望を多くの人と共有するのもぼくとかは政治家の仕事だろうと思うので、政治家の成果のために犠牲になりたくはない、と最初から思っている。

当たり前だろう、政治家の野心よりも自分の子どものほうが大事だ。

途中から法改正の議論を主導することになった政治家としては、先行する司法の都合を前に難しいかじ取りだったろうなとは思う。だけど、理想を示して議論を開き、味方を増やして司法や法制審の議論を人々全体のためになるものに誘導していくのも、政治家の力量だろうなと思う。その上でされる批判はむしろ歓迎だろう。

ぼくが素直に味方になりがたかったのは、手打ちが先行したのが透けて見えたからだ。(2024.7.29)

拝啓 共同テーブル様

2024年7月24日付でメールしました。

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はじめてご連絡差し上げます。
共同親権訴訟の原告でライターの宗像と申します。

貴団体の7.26 共同テーブルの「第11回シンポジウム「共同親権」が憲法24条を壊す!?〜離婚してもDVから逃げられない・・」の案内を見てご連絡差し上げます。

私は子どもと引き離された経験をした親として、現在の単独親権制度の民法の改正を求めて長らく活動してきました。(略)

貴団体のご案内を見て、まるで共同親権が憲法の趣旨を損ない、離婚してもDVから逃げられなくなるかのようなタイトルは事実と異なるし、誤解も与えるものと考えますので、主催者の皆様と一度ご面談いただいて、懇談の機会を得させていただけないかとメールしました。

というのも、私たちは男女平等と個人の尊重という、日本国憲法の理念を活かすために、憲法訴訟をたたかっており、その上告審が継続しているので、その点、ご存じないか、知っているなら憲法解釈について各国や過去の民法改正の議論について一方的な情報を聞いてイベントをしているのではないかと考えたからです。

この間、市民運動や左派やリベラルの方から共同親権の危険性が多く主張されました。しかし、私は長く市民運動をしてきて、多くの当事者がそういった運動や政治党派の主張に疑問や不満を持ってきたのを聞いてきました。
右だろうが左だろうが、離婚は誰でもあるし、単独親権制度で親権をとるのは9割女性なのですから、不公平だと考えるのは男女ともにいるのですから当たり前です。
もとより、戦後の民法改革で憲法の趣旨を活かすために共同親権を求めたのは、女性を中心とした活動家や法曹でした。単独親権制度が家制度の根幹にかかわる制度であることを見抜いていたからです。

こういった点については、きちんと歴史を踏まえた議論をされるべきだと思うのですが、共同親権に反対してきた人たちは、議論を受け入れず制度の被害者である私たち子どもに会えない親を差別してきました。正直、市民運動を担ってきた人間としてがっかりしました。

私たちは今回の民法改正では共同親権には賛成したものの、法案には反対しました。
本法案が単独親権制度の家制度を温存したから反対したのですが、家制度をめぐって議論の混乱があるのは私どもではないのではないでしょうか。その点、一度直接意見交換の機会を持っていただければ幸いです。

なお、私はカウンセラーで現場で男女問わず脱暴力支援の活動も長く続けていることについては申し添えます。

長野県に住んでいますため、東京であれば直接出向きます。可能なら日程の調整をしていただければ努力します。ご検討ください。


宗像 充(むなかたみつる)
【共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会】
〒399-3502 長野県下伊那郡大鹿村大河原2208
T・F 0265-39-2116
Mailto munakatami@k-kokubai.jp
https://k-kokubai.jp/

日本国憲法VS「非合意・強制型の共同親権」という婚外子差別

「鰯の頭も信心から」

 国会で離婚時の共同親権についての民法改正案が審議され、共同親権に対する関心が高まっている。国会審議では、「非合意・強制型の共同親権」というフレーズを用いて反対議員が、合意がないのに共同親権なんて子どものためにならない、と盛んに言っている。ところで、この「非合意・強制型の共同親権」というのは、憲法学者の木村草太が言いはじめたことだと記憶している。

最初聞いたとき、なんのこっちゃと思った。「親権の概念を変えて親責任にしよう」とか言ってる連中が、一方の意向で逃亡を免責する主張を一生懸命している。「鰯の頭も信心から」程度の理屈にしか思えなかった。

SNS上で同様の書き込みを見て、合意があって子どもが生まれたのに、こんなの生まれてこなければいいような理屈じゃないかと反論したところ、「こどもに関わる問題で意見が一致しない場合には事を運べなければ、被害者は子ども」と繰り返す。その次にDVの例を挙げ、共同親権でかかわりが必須になれば命にかかわる、ともいう。

親は離婚するが子どもは離婚するわけではない

ところで、配偶者間の殺人が問題になるのは婚姻中で、民法上は協力義務は一応あるので、であれば、主張するのは婚姻の禁止が正しい。また、子どもが殺害される事例は女性が9割の親権を得る単独育児の場合に度々起き、これは合意がない結果だ。なぜ子どものために親どうしの協力が可能な法や支援を求めないのか、ぼくは問い返すことになる。

親は離婚しても子どもは離婚するわけではない。子どもが片親を失うことの痛手について想像すらしない主張を大真面目に言う感覚に、性役割の浸透を見る。

戦後憲法の施行と婚姻中共同親権の来歴と構造

 このところNHKの連ドラの「寅に翼」の影響で、戦前、女性が無能力者にされ、親権もとれなかった時代について紹介されている。戦前は家父長制戸主制度のもと、父親単独親権だったので、度々の民法改正の議論の中で、共同親権を求めていたのは女性たちだった。

民法改正は戦前は機会を失い、戦後、両性の本質的平等と個人の尊重が規定された日本国憲法のもとで共同親権がようやく実現している。共同親権は男女平等の成果だ。それに反対するということは、家制度への回帰を求める、と言われても反論はできないし、控えめに見ても女性が親権を取れる状態を維持したい既得権に他ならない。

 ところで、1947年に8カ月間暫定的に規定された「日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律」では父母による共同親権を規定した上で、婚姻外においては協議による親権決定を可能とし、決まらなければ司法が決めるとしている。表面的には今回の民法改正案に近似している。

しかし実際の戦後民法改正は婚姻中のみに共同親権を適用し、しかも父母の意見の不一致の場合の調整規定を欠いていた。法の構成としては、戦前の単独親権制度の上に婚姻中のみ共同親権を部分的に導入している。

今回の民法改正案も単独親権制度

この範囲を離婚後と未婚時に一部広げたのが今回の民法改正案であり、しかも未婚時と出生前の離婚の場合は母親親権がメインとなっている。これは、父母の原則共同親権のもと、離婚時への手当を行なった応急措置法とは構成が逆になっている。現行民法改正案もまた大本は単独親権制度であり、故に意見の不一致の場合の司法決定として監護者の指定という形で、他方親の親権を無効化する規定を新たに設けている。

故に、この監護者指定の必須を要件に共同親権に反対することは、性の違いはあっても、構造的には戦前の家父長制の復権に他ならないし、言い方に誤解を与えるのなら、戸籍制度として生き残った家の温存を図るものだ。左派やリベラルにとっては本来、日本国憲法の理念を自ら空洞化する劇薬に他ならない。 

「非合意・強制型の共同親権」という婚外子差別

 ところで、共同親権反対の議論には、単独親権ではなければ社会的養護しかない、という主張もあり、こうなると家族とは国のために存在する、という国家思想を彷彿とさせる。

男女が子作りするときに、まさか自分が子育てできない身になるとは想像しない。また、子どもは親の不仲で片親を失うなんて納得がいかないと、よく両親がけんかしていたぼくは素直に思う。親の虐待を受けて育った子どもの体験は貴重だ。しかし、だから他の子も同じように親の養育を受けられなくても仕方がない、となれば、他の親子には迷惑この上ない。

ところが、親の不仲で父母双方から養育を受ける機会を子は失ってしかるべきだし、それが婚姻の内外で区別しうるという主張に、共同親権反対の人達は血道をあげている。それは婚姻外においては子は婚姻時に一応は法的に確保されうる権利を失うという意味で、婚外子差別にほかならない。

リベラル・左派の乱心

それはまた、ぼくたちが先の国家思想・家族思想と対峙している共同親権訴訟の下級審判決で「婚姻外の差別的取り扱いは合理的」と述べた、司法の姿勢を反映したものだ。実際、共同親権では「適時適切な意思決定ができない」という法務官僚の反論を下敷きにした司法決定を、共産党の議員がぼくたちの訴訟の判決文からそのまま引用している(たしかに判決文を本村伸子事務所に手渡した)。信義を損なってまでの司法官僚の手先ぶりは見事だ。

また、別姓事実婚を実践していた福島瑞穂のような政治家が、非婚の子の差別的取り扱いをすべきだと、率先して審議で主張して法律婚優先主義の強力な守護者となっているのを見ると、なんと身勝手な人間が護憲活動をしてきたことかと感嘆する。

「お金は分けられるけど子どもは分けられない。だから時間を分ける」

日本国憲法の精神を民法に活かすとするならば、婚姻内外問わず養育時間における男女同権が基本となる。それを共同親権と呼ぶのが気に食わないなら、双方親権と呼べばよい。呼び方の問題が重要ではない。(2024.5.2)

親権のきた道

 久しぶりに日曜日に習志野市内の幕張本郷の交番に行くと、交番相談員のYさんが「最近は来ないから、どうしたかなあと思って」と口にした。

 昨年の12月に下の子が18歳で成人した。それに先立って、最高裁の決定で月に1回4時間の面会交流の決定が取り消されていたため、元妻とその夫に面会交流を義務付ける決定はなくなっていた。なので毎月第2日曜日の午後2時からと決まっていた決定の日時をこちらが尊重する必要もなくなった。何かと都合がよかったので、土曜日に曜日を変えて習志野市まで行って交番に立ち寄り、娘の暮らす家に行ってチャイムを鳴らす。

 土曜日の交番相談員は別の相談員でこの人も顔見知りだった。話は通じるものの、日曜日が担当のYさんは、毎月訪ねて来ていたのにどうしたかなと聞いてきたのだ。

「もう娘も高校3年になってこの春で卒業です。卒業したら家にいるかわからないから、ここに毎月来るのも今日が最後になるかもしれません。長い間ありがとうございました」

 裁判所の決定では子どもとの合流場所がここになっていた。元妻やその夫(の元友人)が子どもについてやってきて、子どもが「帰る」というと、交番に子どもを連れ込んで引き離すというのを繰り返していた。交番の人もわりと公平に話は聞いてくれたと思うけど、面会交流の間に子どもを戻してくれはしなかった。いろいろあってその後家を訪問するときには、トラブル防止でYさんと交番には挨拶をすることにしていた。

 洗濯物が出ているのに雨戸は閉められ、人は出てこない。あらかじめ書いておいた手紙を投函してそのまま駅に向かう。子どもが来なくなって家に行くようになって、いっしょに共同親権訴訟の原告のSさんが来てくれるようになっていた。何回も行っているので近所の人とも雑談をかわすようになっている。現れないのは子どもだけだった。

 この通常国会で「離婚後の共同親権を導入」する民法改正案が提出され、つい先日衆議院を通過して、この調子だと成立する見込みだ。ぼくたちが2019年に単独親権制度の違憲性を訴えて国賠訴訟を提起したのとちょうど同じころ、国で論点整理の議論が始まり、その後法制審議会で要綱案がまとめられ、今年2月15日になって法務大臣に答申されている。

 この法案の中身は親子を無法に引き離す現行の司法運用を合法化するものだったので、このまま立法されても困ると、「ちゃんと共同親権」という少人数で短期間のワーキングチームを年明けから作って活動を始めた。リーフレットを作り、法案が国会に上程されるタイミングで法案には反対を表明した。

この法案では、養育費徴収の強化については具体的な立法がなされたものの、親子関係の妨害を排除する手立ては努力規定に止まっている。「子どもに会えなくても金は払え」だった。それに離婚後に合意があれば共同親権を選べるとはいうものの、もめれば司法に一任されてDVなどの「おそれ」があれば親権を奪われる。また、仮に共同親権になったとしても、司法は監護権を一方に指定し、そうすると他方の親権者の権限が空洞化する。結局これだと単独親権制度の焼き直しになる。

父母双方に協力義務や人格尊重義務が課されているのは、結婚、未婚かかわらない。一方で、「離婚後」に共同親権が協議で可能となったのに、「未婚」や「出産前の離婚」は、母親単独親権メインになり、ここで離婚の場合と区別される。法律婚優先を維持するために、婚外の父母の法的関係を婚姻内とは区別し、かつ未婚でも場合分けする。子どもの側から見れば、非婚(未婚と離婚)でも、離婚や事実婚の場合は共同親権になり得ても、父親が逃げた未婚の場合は父親の養育を受ける芽はなくなる。二重の意味で婚外子差別を強化する。当事者間も分断を深める結果が予想できたのだ。

非婚の父親として最初から親権を放棄した人間としては、「共同親権が欲しい」ではなく、「親権がないことによる差別」が問題だったので、共同親権訴訟も基本的人権の尊重を明記した日本国憲法が素直に武器になった。この点については反対の中で強調したし、理解してくれる仲間がいた。

こういった点は親権決定における司法の基準である「子どもの利益」の解釈の議論に集約される。そもそも一般的な意味での「子どもの利益」なんて、虐待とか親が子に危害を加える場合には除外規定として特定できても、何が「子どもの利益」になるかなんて、普遍的なものがあるわけもない。特定の子の利益はその親がまずもって考えるわけで、他人が「買い食いよくないよ」とか言ったって、「うちの子のことですから」ですませられてしまう。

この場合の「子ども」は、単なる少年少女の意味じゃなくて、親に対する特定の子どもで、その子は父母2人から生まれる。だから双方とのつながりを維持することが海外では「子どもの利益」とされた。単独親権から共同親権へと法改正で転換していった理由だ。共同親権賛成、法案反対が基本姿勢ということになる。

ところで、難波さんも書いているように、この議論には熱烈な反対勢力がいて、もっぱらの反対理由はDV被害が継続するというものだ。この点についての反論はたくさんしたけど、特定の人が嫌な思いをしたからといって、見ず知らずの親子を生き別れにする権限なんて最初からない。

こういった反論とともに、法案の問題点を毎週上京して議員たちに説明し、一方でネットラジオで問題提起し続けた。立憲民主党がいろいろいちゃもんを付けても、反対したのは国会では共産・れいわ新選組だった。

ところで、昨年末に『結婚がヤバい 民法改正と共同親権』という本を出している。この本のメッセージは、結婚はぜいたく品になってしまって、それが戸籍制度に残る家制度による性役割に起因するというものだ。「正社員家庭」という言葉を作った。ぼくとかは「非正規」の家族関係だ。

共同親権を掲げる運動は当初から、「親子関係と親どうしの関係は別物」と言ってきて、それはまた、「結婚と親子関係は別物」ということでもあった。そうすると、出産子育てを前提に、氏による家の存続が至上価値になる日本の結婚は、親子関係を共同親権で保障することによって再編成されることになる。

日本国憲法は「婚姻は両性の合意のみによって成立する」と規定している。届出主義の戸籍結婚は、事実婚主義の憲法結婚が本来の姿だった。そうすると、夫婦別姓や同性婚の立法化が可能になる。だけど実際には、選択的夫婦別姓や同性婚の活動家から、共同親権は反発されている。みんな自分のことしか考えていない。

婚外子を犠牲にした民法改正に疑問を投げかけることで、結局、親権の議論をしていたつもりが結婚の議論をしていたことになる。娘も成人した。いくら法律が変わったといっても、国の法改正の動機は外圧なので、形通りの法改正ですみはしないだろう。自分も含めて家族はどこに行くのか、見届けるのは運動であって、趣味で、それもいのちきになるみたいだ。(2024.4.23 越路23号)

共同親権反対という改憲運動

左派系党派が共同親権反対を表明

 4月16日に「離婚後の共同親権の導入」を盛り込んだ民法改正法案が衆議院を通過した。衆議院で法案に反対したのが確認できるのは、共産党、れいわ新選組になる。前後で左派系党派が反対をおっとり刀で表明している。みどりの党、生活者ネットなどだ。社民党は福島みずほや大椿ゆうこが反対集会で発言している。

 中身を見てみると、DVが継続する、合意が得られない場合の混乱などがもっぱらで、かねてからこれらの批判は既得権にすぎないと批判してきた。海外では共同親権でも対策がとられるし、DVや虐待は年々認知件数は過去最高を記録し、単独親権制度にDVの抑止効果はない。それどころか、子の奪い合いや育児の孤立による事件はいくらでもあるからだ。

 男性の側のDV被害も報道されるようになった。司法で女性が親権を得る割合は94%だから、親権者に多く加害者が含まれているのは明らかだからだ。これらは被害者保護や暴力抑止の失敗の末であり、共同親権を犯人に仕立て上げるのは無理がある。

共同親権は家父長制の復権は本当か?~家族主義的な反対論

 共同親権反対には共同親権は家父長制の復権でバックラッシュだ、という根強い意見がある。

 しかし、戦前は家父長制家制度のもと父親単独親権で、父母同権の共同親権を求めてきたのはもっぱら女性たちだった。

 現行民法は日本国憲法が5月3日に施行された1947年に改正案がまとめられ、翌年から施行されている。今回と同じく法制審議会と法務省は関係団体に意見の照会をしている。

 その際、当時の主要な女性の法律家や研究者、共産党や婦人民主クラブの活動家などからなる家族法民主化期成同盟会は、民法改正案における修正意見を出し、「氏」に実効的効力を求める規定の削除を求めた。そして、「婚姻、離婚、私生児認知などの場合に、子と氏を同じくする父母の一方のみが其の子に対し親権を有するのは不当であるから父母は親としての関係に基き常に子の監護、教育について権利・義務を有するものとすべきである。 」と父母による共同親権を求めている。

 同盟会には法制審議会委員の川島武宜 もいて、戦前の家制度が「氏」によって夫婦と未婚の子の戸籍制度として温存されたその経緯を理解していたことがわかる。こういった意見は唐突なものではなく、戦前には実現しなかった民法改正の議論を踏まえたものだ。  

 男女同権や未婚の母の法的地位の確保という観点からは、共同親権を婚姻内にとどめる理由もない。実際、準備が間に合わずに憲法施行から翌年の現行民法の施行までの間に一時的に適用された「日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律」(応急措置法)では、婚姻内外問わず一律共同親権とされた。すべての子どもに親の保護を与えるのが狙いだったことを当時の裁判所は述べている。離婚や認知の場合の親権者は協議によって決めることも可能だった。実際共同親権で離婚したカップルもいた。

 1948年から施行された民法は、共同親権を婚姻中のみにとどめ、たいした議論もないまま「氏」のもとに残った家制度と手打ちをしている。

「寅に翼」の時代~現代の女たちの勘違い

 NHKの連ドラ「寅に翼」で戦前の女性たちが置かれた法的立場が注目されている(見てない)からか、共同親権の立法化が先行し、自民党の反対でとん挫した夫婦別姓が進まない女性たちのいらだちを、度々記事やネットで見かけることがある。しかし「寅に翼」の主人公「猪爪寅子」もまた、司法事務官和田嘉子としてこの期成同盟に名を連ね、共同親権を求めている。「ふぇみん」の赤石千衣子さんの婦人民主クラブや共産党の人も期成同盟にいる。

 共同親権はバックラッシュだという女性たちの反発に、何を言っているんだろうと最初思った。女が親権をせっかくとれるようになったのに、また男(父親だけど)に口を出されるのかという心情は想像できる。実際、戦後初期は女が親権をとれない状況で、親権取得率の男女割合が逆転するのは1966年になる。

 しかし、共同親権が父母同権を実現する手段であったなら、1966年後に男女ともに親権がとれるようになった時点で法改正をしておくべきだったのだ。しなかったのは、氏によって残存した家制度が法律婚優先主義の意識を定着させたので、「婚姻外の差別的取り扱い」に疑問を感じる感性が奪われたからだろう。歴史的経過を振り返れば、司法で女性が親権をとれる割合が94%になった時点で、共同親権に反対することは、いろいろ理由をつけようが既得権以外に説明のしようがない。

共同親権反対という改憲運動~男女同権の遺産を食いつぶしている

 ところで、今次共同親権に反対論者や政治党派は、護憲を標榜する人が多い。自民党の改憲案が婚姻の自由と家族における個人の尊重と両性の本質的平等を規定した憲法24条の復古主義的な改正も視野に入れているので、その自民党が推進する共同親権法案について、警戒しているのはわかる。

 実際、親権をもてない女性のための便宜であった監護権は共同親権であれば不要なものなのに、逆に共同親権時にも他方親を排除する権限として温存され、その点では危惧も根拠なしとしない(この点から単独親権制度の廃止を求めてきたぼくたちは法案には反対した)。

 しかし、共同親権に反対する人たちが求めているのは、逆にこの監護権による事実上の母親単独親権の司法慣行の温存である。結果的に子を確保できる状況にない大部分の男と、女だけが子どもを見ることを潔しとしない少数の女が割を食う。

 これでは戦前戦後と女たちが求め日本国憲法の施行によって実現した男女平等の成果を損なってしまう。自民党の狙い通りに家族の国家支配を強化し、改憲を促進するだけだろう。民法改正のこの時期に、護憲派が何をしたか、記憶に残すためにこのエッセイを記録に残すことにする。(2024.4.24)