横行する養育費ピンハネビジネス

ピンハネビジネス続々

 6月23日に共同親権運動のグループで、「養育費のピンハネは人権侵害」という緊急声明を出して、メディアや官庁に送付した。

 ネットでは、ZOZOの前澤友作社長が作った「小さな一歩」という会社が、養育費の取り立ての代行事業を毎日宣伝している。同居シングルマザーを雇用して事業を展開するという話題で注目を集め、メディアも好意的に報じている。その内容が、回収する養育費のうちの15%を保証料として徴収するというもので、ピンハネになっている。

 前々から離婚弁護士たちが養育費の支払いを自分の口座名義に指定し、ピンハネして残金を母親(父親)に支払うというやり方がとられているということは知られていて、ぼくもそれについてルポを書いたことがある。今日見つけた「日本法規情報」という会社の「養育費安心サポート」という事業では、「保証料」は毎月の養育費の50%になる。

この会社の場合、「保証料」を払えば、支払いが滞った場合でも半額が振り込まれる。この会社は全国1500事務所の弁護士・税理士のネットワークだそうだ。それだけの数の事業所が、この会社1社のピンハネビジネスのすそ野ということになる。

大学の初年度費用と同じ額がピンハネされる


 怖いのは、先の二つの会社が養育費を「子どもの権利」と言っていることだ。養育費は子どものためのお金だという自覚はある。支払うほうもそのつもりで支払う。母親(父親)が何でも自由に使っていいお金ではなく、過去の判例では、父親に使用明細を送るという家裁の決定も見たことがある。

 父親(母親)が自分のためにお金を使って養育費を未払いにするのと同じように、母親(父親)が子どものための養育費を自分の生活費に充てることは当然ある。こんなのは夫のお小遣制がある日本では、婚姻中にも普通にあることだ。つまり申し込み手続きにおける母親(父親)の、養育費の民間会社へのピンハネの同意は、父親(母親)の同意なく子どものためのお金を使い込む同意ということになる。養育権の侵害行為でもある。

 「母親が子どものためのお金を使って何が悪い」という人のために試しに計算してみよう。

 例えば、子どもが3歳のときに父親が連れ去りに遭い、その後母親が「小さな一歩」を利用したとする。養育費の額が4万だとすると、毎月6000円を「小さな一歩」が保証料としてピンハネする。年間だと7万2000円。成人する18歳までの15年間で、6000円×12カ月×15年で108万円になる。文系の公立大学の初年度入学金・授業料ほどの「子どものためのお金」を「小さな一歩」がとることになる。養育費の額が6万だとこの額は162万円になる。

母親だってピンハネされる

 憲法学者の井上武史氏はツイッターで、「養育費については,もっぱら子に対するものであること(同居親の生活費は含まない),同居親にも子に対する扶養義務があること,が忘れられていると思います。制度論としては,同居親は自らの生活費+子の養育費分を稼ぐ必要があるはずで,別居親からの養育費名目の金銭は自らのために使用できません。」と述べている。

 「母親が子どものためのお金を使って何が悪い」という発想からは、こういった意見に反発も出るだろう。しかし実際には、連れ去り・引き離しが横行している昨今、母親のほうが養育費の請求対象になることもある。

その場合、子どもを連れ去った父親が、「小さな一歩」にスマホで申し込んで、ピンハネされた額を受け取ることももちろん可能だ。子どもにも会えずにお金をピンハネされながら「小さな一歩」に養育費を支払い続ける母親は悲惨だともし思ったら、男性だって同じ目にあったら悲惨だと想像できるだろうか。

子どものお金の分捕りに手を貸す自治体と国

 「小さな一歩」を見ると、「保証料への助成制度」という形で、ピンハネの一部立て替えを行政がしている。ピンハネ事業を応援する自治体は、宮城県仙台市、千葉県船橋市、東京都港区、東京都豊島区、神奈川県横須賀市、愛知県知立市、滋賀県湖南市、大阪府大阪市、兵庫県神戸市、兵庫県明石市、岡山県津山市、福岡県福岡市、福岡県飯塚市の各自治体である。

これは子どもへの支援ではなく、明らかに子どものためのお金分捕り支援だ。誰もおかしいと思わなかったのだろうか。

 ピンハネを批判すると弁護士たちの間から、「ただ働きしろというのか」という反発が出てくる。ほかの国では日本と違って時間毎の報酬体系になっていて、トータルでは日本よりもずっと高い弁護士費用になりがちだという指摘もある。とはいえ、日本にもピンハネしない弁護士はいるし、養育費徴収のための弁護士報酬が108万円になることは日本でもめったにない。養育費ピンハネビジネスで儲けること自体がいけないことだくらいは、弁護士業界以外では普通に思う。

 この件で厚生労働省の担当課に電話して行政指導を促したら「法的に難しい」と渋っていた。「だからって子どものためのお金をピンハネするのを許していていいんですか。これはまずいでしょう」と言うと、職員は唸っていた。

弁護士たちは反発して「離婚ビジネス」についてのぼくの記事をヤフーニュースから削除させるくらいのことはするけど、指摘されたらまずいくらいの自覚はある。

そもそも報酬支払能力がない人が多くてビジネスとして成り立たず、それでも子どもが成長するための費用を確保することが社会的に必要だというなら、これは裁判所や行政がやる仕事なのだ。そうなればビジネスを維持するためではなく、税金の無駄遣いという批判を避けるために、未払いの原因を探り、いかに主体的に支払いたくなるか(共同親権)を考えるのは、あってもよさそうな発想だ。それも無理なら、コロナのもとにおいてお試しでなされたように、すべての子どもに対する直接の給付ということになる。

 そうなると困る人はいる。よくないとわかっててやっている部分があると、議論を封じるという対応はわかりやすい。そういう人は共同親権という言葉は出したくないし、カモを逃がすのも困るので、別居親の不満を抑えるための「面会交流は促進」と口では言う。

流行り病に右往左往

4月の前半に朝起きると頭痛がした。熱を測ると37.2度あった。新型コロナウィルスの感染者の増加が続いていて、飯田でも感染者が出たりしていた。テレビは毎日この話題だ。久美さんのお父さんが毎日体温を携帯メールで聞いてきていた。ぼくもだいぶ時間が経ってはいても、東京や京都に行くことはあったし、保健所の電話番号を知らされて電話して症状を話した。

「その症状だとコロナの可能性は高くないかもしれません。なるべく家から出ないようにして、ご家族の方とタオルを共有するとかはやめてもらって……」

 検査を受けるでもなく、可能性は低いのに自宅待機を言われた。数日後に千葉に娘に会いに行くと言うと、否定されるわけでもない。念のため電話番号を聞かれて電話を切った。 

熱はその日の昼には引いて、一日寝ていたら体調もましになった。前日に野外の杉の木の下で薪割りをした。この時期、野外で作業をすると花粉症で熱を出して寝込むこともあったので、その後の症状とかを見ても例年通りの花粉症だったのだろうと思う。

でももしかしたら軽症の新型コロナだったかもしれない。だけど検査自体が希望しても受けられなければ、感染者などわかりようもない。これは感染者が増えるわけだと思う。自分が病気かどうかを毎日気に病んでいるほうが病気になると思い、体温を測るのはやめた。

 別れた連れ合いとの間に娘がいるので、月に一度千葉県の習志野市に会いに行っている。裁判所の手続きで取り決めもある。母親はもちろんだけど、その再婚相手ももともとぼくの友人だ。それが12年前にぼくに黙って母親と娘を呼び寄せて、その後裁判になったので、後ろめたさもあるのか、向こうのほうから進んで連絡をしてくることはほぼない。子どもたちはいっしょに2年暮らした上のお姉ちゃんも含めて取り決めがある。母親と再婚相手は何かにつけて理由を付けて会わせなかったことがあり、約束の不履行には裁判で被害を償ってもらったこともある。

そんなわけで、向こうはぼくが言わない限り約束を守り、娘も父親を慕う心を周囲に否定されながらぼくに顔を見せる。いろいろと悪態をついたり無礼な態度をわざととったりするけれど、待ち合わせ場所の駅前に顔を見せには来る。千葉はコロナの感染者が初期の段階で出た地域だ。母親からの連絡は期待できないだけに、のこのこ出かけて元気かどうかを確かめる。自分が東京に出かけること自体、周囲には言いにくい雰囲気がある。そうはいっても、親がこそこそにしか会いに来られないと子どもが知れば、子どもの心を傷つける。

松川から乗ったバスには7~8人の乗客しかいない。毎月第2日曜日が娘と過ごす日だ。4月に乗ったときは、4月7日の緊急事態宣言の直後で、ぼくのほかにはもう一人しか乗客がいなかったから、これでも増えている。家族連れと何人かが立川で降り、新宿で降りたのは3人だった。

新宿では月に一度のぼくの上京に合わせて毎月開かれる、別居親たちの交流会を開催した。こういうときこそ困っている人はいるので場を持った。いつもの会場は借りられなくなっていて、有料の貸し会議室はおんぼろアパートの4階でエレベーターもなかった。だけど室内は小ぎれいで窓は開け放たれていた。

この日集まったのは6人。みんなマスクをしている。コロナを理由に引き離された話は、引き離され業界の最近の流行りだ。新型コロナの自宅待機を国が呼びかけ、子どもと会えなくなった親たちが増えていて、アンケートをとったりするとそれがニュースになった。オンラインでの子どもとの交流が提案されたりするけど、コロナをきっかけに子どもを引き離す親は、もともと会わせなくてもいいと思っている。そんなわけで、引き離された側がオンラインでの子どもとの面談を求めたところで実現しない。感染者数が少ない県に住む子どもに会いに行こうとすると、感染者数の多い地域から来た人と接触すると、教育機関から子どもが自宅待機を命じられるという。そんな対応を前に親たちは迷っていた。親が教育機関に子どもを預けるのだから、だったら教育機関が子どもの教育を保障するために知恵を絞るべきなのだ。やっていることは逆だった。

東京にいたときから続けている障害者介助の仕事も一日だけさせてもらっている。介助の世界でも感染の防止というのはテーマになっている。介助先のAさんがヘルパー向けの動画を事業所といっしょに作って登場していた。手を洗おうとかいう呼びかけは予想がつくけど、ご飯はいっしょに食べずに時間をずらして食べろというのも呼びかけられていた。そんなわけでAさんにご飯を用意して待っていると、「そっちの机で食べればいいんだ」と台所のテーブルを示された。「いっしょにご飯食べて感染するんなら、もううつってるんじゃないですか」と突っ込んではみたけど、議論するのも虚しさを感じる。

Aさんには東京の様子をいろいろと聞かされた。国立の感染者数は6人と公表されているそうだ。どこの誰かはわからない。Aさんについて買い物に出ると、大通りの大学通りの店舗は大部分が営業していた。新宿辺りの店は閉まっているのに、国立では人通りもそこそこある。

「国立のほうが立川より規制が緩い。公園も使えて図書館もしばらくはしていた。立川の人はものすごいスピードで車を走らせ市内に入る。それで日ごろ見かけない人がいるから出ていけと喧嘩になる。図書館はバイトだけにカウンター業務をやらせていて、指摘されて改善した」

 殺伐としたいがみ合いとむき出しの差別感情が表に出てきている。テレビを見ると、営業店舗に「自粛しろ」と張り紙を出す「自粛警察」が紹介されていた。そういえば数日前に取材で訪問した南木曾では、観光関係の方にお話を聞いた後、登山者姿でゴーストタウンとなった妻籠宿を歩いていると、地元のおじいさんが待ち構えていた。

「マスクをしてください。それから入村はお控えください。17日からはいいですから」

 日本語に直すと「お前たちは出ていけ。汚いから」になる。それを自宅待機を守らない人から言われるのは気分が悪い。少なくとも、17日になったところで二度と来たいとは思わない。

 長野県では、恐怖感情を背景に閉鎖体質が表面化している。新聞を見ると、県外ナンバーの車は注意を受けるので、車に「地元の住民です」という表示を作って掲げる取り組みが美談として新聞記事になっていた。感染者に出ていけという村の話を聞いたりもする。登山口には自粛の呼びかけとともに、「救助隊が感染症の予防のために救助が遅れる可能性がある」との長野県の標示が張り出された。救急車の利用は同じ理由で自粛を呼びかけないのが、遭難者に限って見殺し宣言の掲示をして恥じないのが「世界級のリゾート 山の信州」の正体だ。国境稜線で足を踏み外すなら他県に落ちたほうがいい。

 どこかで体験したことだと頭をめぐらせると、中学校の校則がこんなだったなと思い出す。規制にまともな理由は感じられないけど、違反は連帯責任を負わされたりするので、風紀委員が目を光らせる。規則は暴動(校内暴力)が起きない程度であれば、理不尽であればあるほど支配者にとって都合がいい。

 考えてもみれば、感染者に「出ていけ」と言えば、自分が感染しても周囲には言えない。そうすれば対応は後手になり感染は広がる。そもそも「封じ込め」が緊急事態宣言だけでできるとも思えない。クルーズ船内で感染者が培養された範囲が今は東京都にクルーズ船がなっているだけだ。規制を緩めれば他県に広がる。そのころ東京都の感染が鎮火されていれば、毛嫌いされるのは今度は長野県民だ。

こういう時期にわざわざ出かける人は理由がある。遊びや仕事かもしれないけれど、遊びが不要不急で仕事が必要など誰が決める。遊ぶために仕事をする人は死ねと言われているのと同じだ。

 コロナで経済活動が停滞する中、大気汚染が改善し、オゾン層が急速に回復しているという。「地球のためには人間はいなくなったほうがいい」とぼくも思うけど、それは事実だったらしい。戦争や環境破壊の旗をふってきた連中が言う「命を大切に」という呼びかけのもとになされる政策を、まとも聞いて命を粗末にしてはいないか。少なくとも感染したところで「お前が悪い」と行政や周囲が言うならば、リスクがたとえあっても「それはお互い様」の関係を維持するほうがまだましだ。なぜならぼくも「命が惜しい」から。

(越路16号 2020年5月12日)

子どもが病気かどうかも知らされない親たちがいます 「パパかママか」(単独親権)から「パパもママも」(共同親権)へ

◆コロナパニックのさ中に子どもの安否がわからない

 毎日新型コロナウィルスの感染拡大のニュースがテレビから流れている。学校は休みになって、仕事と子育ての間で悩む「ひとり親」の苦境が伝えられる。でも、こんな状況になっても自分の子どもの健康状態すら知ることができない親たちがいる。離婚や未婚で子どもと引き離された親たちだ。

 日本では子育てに両親が責任を負う「共同親権」は法律で「婚姻中」に限定されている。離婚や未婚の場合は、どちらか一方に親権を決めなければいけない(単独親権)。だから、親権をめぐっての子の奪い合いが生じ、会わせるともう一方の親に子どもがなついてしまうかもしれないという不安から、子どもを連れ去り囲い込む。

 その結果私たちは自分の子どもと引き離された。会わせるという約束があったのに守ってもらえず、子どもが成人したのに、子どもの住所までわからないという父親もいる。そうやって失われた子どもとの時を国に償わせるために、私たちは単独親権制度は違憲、制度を放置してきたのは違法と裁判を起こした。

◆国際社会から批判を受ける日本の家族法

 ドイツやイタリアは日本への渡航に注意を呼び掛けている。コロナウィルスのことじゃない。日本の「子連れ別居」はいまや“拉致”と国際的な批判を受けている。離婚したら母親が子どもを見るのが当たり前。男性は女性への配慮が足りなかったから、不仲で母親が子どもを連れて家を出て会わせないところで問題ない。そんな日本の「常識」は海外では犯罪とされている。

他人がしても親がしても誘拐は誘拐。他人が殴っても夫が殴っても暴力は暴力。ともに犯罪。共同親権に転換した多くの国では、人々が「別れた後の共同子育て」を暮らしの中で受け入れ、子どもは「パパの家」と「ママの家」を日常的に行き来している。国際離婚も増えてきたため、日本で子どもと引き離される外国籍の親たちも増えてきた。

いま、そういった国内拉致の是正圧力を海外から日本は受けている。EU議会で請願が審議され、議長は日本国内の拉致の横行に吐息をついた。

「とても21世紀の話とは思えない、17世紀の歴史書を読んでいるようだ」。

◆放置してきたのはなぜ? 婚姻外の親子関係を差別してきたから

国は引き離したのは元妻(夫)であって国ではない、と責任を逃れようとしている。水俣病もチッソが水銀が入った廃液を垂れ流したのを行政が見過ごし放置したことで被害が拡大した。コロナウィルスだって同じこと。国が単独親権という病理を放置してきたことが、おびただしい数の引き離された親子や、苦境にあえぐ「ひとり親」を量産してきた。「子どもがほしければちゃんと結婚して離婚するな」。私たちは一つの家族の形を強制されている。私たちのような親子が日々生まれるのは、婚姻外の家族関係を差別したが故の人災。あなたは一体どんな家族を生きていきたい?

(2020.3.17共同親権運動チラシから 宗像充)

分離家族、それは家父長制のリニューアルか?

議論が全然古くなってないので、2017年1月の記事を採録します。

2ヵ月に1度の家族


先日、縁あって長野県大鹿村に引っ越した。大鹿村に引っ越したのは新しく家族ができたからだ。一方で千葉に住む娘と会うのには遠くなった。

2008年に元妻と別れて娘と引き離され、現在2カ月に一度一回4時間、子どもと定期的に会っている。


先日、娘の学校で学級崩壊があったことを保護者懇談会で知った。学級の現状について直接担任と話そうとしても電話窓口は校長だ。元妻である母親が一時子どもを会わせなくしたこともある。親に渡されるプリントの種類や部活動の見学を、別居親であるが故に制約されてもいる。

このような形でしか親として生きられない体験を8年間続けることに惨めさはつきまとう。同じような差別と悩む親たちの問題を解決するため、親どうしの関係の格差是正の運動を共同親権運動と名づけ、会を作り、別居親たちとつながってきた。死別でもないときにあえて、「ひとり親」や「シングルマザー」と名乗り、そこに他方の親は無視していいという意図があれば、それは差別だ。

ぼくはDV男か?


ここ数年、親子断絶防止法(※父母の離婚等の後における子と父母との継続的な関係の維持等の促進に関する法律案)という名前の法律の立法活動があって、ぼくも当初かかわっていたけれど、議員主導の立法活動で及びでないので途中で抜けた。それでも昨年、無断連れ去りの禁止や面会交流、養育費の分担を書面で取り決めるよう促す強制力のない理念法として、国会上程を目指そうとした。そこに女性たちの中から「家父長制のリニューアル」と法律への批判の声が挙がった。


朝日新聞(2016.9.29「「親子断絶」防ぐ法案に懸念」)には「しんぐるまざぁずふぉーらむ」の赤石千衣子さんがDVや虐待家庭における面会の困難や「連れ去り」の正当性を理由に、「子の意見も聞かない法律ができれば、20年以上前に時計の針を戻すことになる」とこの法律の背後にある考えを批判していた。離婚後に分かれて住む親と会いに行く場合にだけ「会いたくない」という子どもの意思は尊重される。

いったい子どもが親の顔が見たくないと家出して、子の意見を尊重して下宿を用意して納得する親はどの程度いるのだろうか。意味が分からず質問状を出したが返事がない。ここにも、別居親の住む場所は、子どもの「本来の」家であってはならないという、単独親権に基づく拭い難い差別がある。


ぼくたちは実子誘拐の非合法化を目指してきた。路上で人を殴るのと同様、家庭内で夫が妻を殴っても暴力は暴力とDVの非合法化が目指された。子どもを連れ去って会わせないのも、他人でも親でも誘拐は誘拐だ。


ハーグ条約(※国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約)のときでも、過去の同様の立法活動のときでも、事務局不明の全国組織のホームページができ、反対運動が展開されてきた。その主張は、親子断絶を規制するより先に養育費の義務化が先、DV被害者が逃げられなくなるので合法誘拐は継続、面会交流の父親の主張は別れた妻への支配とコントロールが目的とされる(暗にほのめかしている)。


この主張だと、8年も面会交流の調停・審判を繰り返しているぼくなんかは、更生のしようのないDV男だ。どう呼ばれようがぼくはかまわないけれど、子どもに会えないというだけで、DV男と言われ続ける男性の社会への憎悪は容易に想像ができる。子どもが手元にいないだけで、「虐待母」と陰口を叩かれるのとその構造は同じだ。


つまりこういった主張には別居親や男性へのヘイトがある。子と離れた女性は想定外で、特定のグループをあぶりだしてDV加害者や、加害者予備軍としてレッテル貼りする。差別意識を背景にして、裁判所も子どもを確保していない親に冷たい。

結果、先に子どもを確保したほうに親権がいくので実子誘拐が横行し、2カ月に1度などという親子双方の人格を傷つけるだけの面会交流の頻度がまかり通る。親権がほしければ子どもを連れて逃げろという、弁護士や女性支援団体のサイトを見ることも多い。しかし、子どもを連れて逃げるような命がけのことをしなければ、親権が獲れないような法制度自体がそもそも問題ではないか。

単独親権という隔離政策


単独親権と実子誘拐が放置される背景には、男は黙って金を稼げという性別役割分業意識がある。別居親の相談を受けていると、「ぼくはATMじゃない」と悔しがって涙する父親の姿を見ることもままある。会えないのに金を払うのかという当然の主張は「男らしくない」からか、「泣き言」として捨てておかれる。

その末に、宇都宮城址で周囲を巻き込み爆死した元自衛官の事件があった。子どもと一生会えないかもしれないという恐怖心は不当に軽く扱われ、その上社会から白眼視されるので、絶望して毎年別居親が何人か自殺している。いったい男たちを何人殺したら、この隔離政策は終わるのだろう。「もともとそういう事件を起こすような人たち」と放置してきたことこそが差別だ。


先日ぼくたちの会が、弁護士を呼んで会で講演会を企画したとき、日弁連の両性の平等委員会の弁護士が所属を名乗って、「あの団体と付き合うとよくない」と人を通じてその弁護士に出席を取りやめるように求める事件が、勇気を持って講演を引き受けてくれた弁護士の告発で発覚した。市民運動への不当な介入事件に対し、日ごろリベラルを標榜するメディアも含めて、運動で声を挙げてくれたところは一つもない。市民運動を担ってきた一人として、ことのほか寂しい経験だった。


現在のDV支援策は、法的には一方の主張だけでDVが成り立ち、異議申し立てもできず、しかも加害者とされるのは男性のみとなっている。保護命令の発令に裁判所の審査はあるものの、現在は住所秘匿の措置が申し出のみでなされるので、裁判所で暴力のねつ造を立証できても、住所秘匿の支援措置が取り消せなくなり、子どもと会う希望は断たれてしまう。男性へのヘイトが、このような超法規的な措置の10年以上にわたる放置を容認してきた。暴力の防止を理由に差別を放置するなら、何のための暴力防止だろうか。


引っ越した先の家は子どもの家でもある。子どもにとって離婚とは家が二つになること、それは事実だ。8年経っても自宅に帰宅できない娘に、赤石さんのアドバイスのもと、あなたは家父長制の被害者だから我慢しろと、親として言う気はさらさらない。

(『市民活動のひろば』147号掲載)

コロナによる片親引き離し

コロナパニックの親子たち

 新型コロナウィルスの感染者があちこちで増え、緊急事態宣言が出されて行動が制約されるようになり、子どもと過ごす約束を守ってもらえなくなった親たちの声がいろいろと聞こえてくるようになった。

世は単独親権である上に、社会は家族であっても分離強化に向かっているので、同居親の苦境はニュースにしやすいが、彼らが実行しているかもしれない親子分離は「やむを得ないこと」とされやすいのは想像がつく。

「近所でコロナの人が出たので中止するつもりはないが、当面自粛してほしい」

「こんな状況で会わせるなんて考えられない」

「不要不急の外出はやめるべきと国も言っている」

 という理由でいとも簡単に親子関係が絶たれ、そうなると事態の収束が見えないだけに、このまま引き離されてしまうのではないかという恐怖は強まる。同居親のほうは子どもと一対一の関係でストレスを感じ、別居親は不安で体調を崩す。免疫も落ちるだろうから、素人考えでも感染症対策として不適切だ。

いっしょにいる時間が長くなるから、DVも虐待も増えるだろうなと予想したけど案の定だった。「コロナ離婚」を煽っている人もいるが、こんな状況で親権を奪われれば子どもとの今生の別れとなることは誰もが想像がつき、子の奪い合いが勃発すれば、自殺やストレスで死人が何人出るか想像がつかない。こういうとき、修復的な援助だけでなく、親子関係を維持したまま、離婚を選択肢にできる共同親権がないことは致命的だろう。

単独親権制度の日本で月に一度2時間程度の「面会」は、「会わせなくてもよい」「家族外の他人」という発想を生むが、子どもにとっては友達のみならず親とも引き離され、寂しい気持ちは周囲は理解できず、感染症は暗い思い出になって心に刻み込まれる。

父親が危険なのと同じくらい母親も危険

 一方で、イギリスのように、政府が別居親子の関係維持を指針として出したところが複数あるということも伝わってきている。日本でこういった指針を政府に求めるとどうなるか。 

一部の自治体では、卒入学式に別居親の参加を認めないという通達を「コロナ対策」として教育委員会が出したという報告がある。親どうしが特に出席について問題視していなくても、こういった措置がなされる点で、明らかな差別にあたる。たとえば白人と黒人が愛し合って結婚しようとして自治体に届け出を持って行ったけど、黒人との結婚は認めないと自治体が拒否するようなものだ。この場合、同居親の親族であれば何人であっても出席できるとすると、もはや合理的な理由などありえない。

 感染症対策としてはどうだろう。

親であっても接触の対象となり、そういう意味では子どもに感染するリスクはある。しかし別居親が社会生活を送っているのと同じように同居親も社会生活を送っている。ここで同居親は多く家事育児を担う女性で家庭にいることが多いのでリスクが低い、などという理由で同居親側の拒否を認めるのであれば、男は外で感染してもかまわないということになる(まさかこれが男性の死亡率が高い理由でもないだろうが)。もちろん「シングルマザーの苦境」は社会問題としてありえない。こんな理屈は実は親どうしが同居していても同じなのだ。

つまり子どもから見れば、同居だろうか別居だろうが、父親(母親)が危険なのと同じくらい母親(父親)も危険だ。同じ程度のリスクがあるなら、いっしょに過ごす時間が長い親のほうから感染させられる確率が高いに決まっている。

感染症対策として別居親との引き離しを認めるのであれば、同居親もまた育児から手を引くべきだ。どちらかの親が感染しているのが明らかならば、現状どちらかの親は入院させられるなりして分離させられる。そういう場合も見越せば、もう一方の親との関係をあらかじめ絶っておくことは、子どもにとって極めて危険だ。

「不要不急の外出」ではなく「必要な帰宅」

不要不急の外出は控えるべきだというならば、別居親が社会活動を送るよりも低い程度に、自分が外に出て気晴らしし、買い物するのもやめておかないとならないだろう。何より子どもにとって、親が暮らす場所自体が二つの家で、親といっしょに過ごすことは、「不要不急の外出」ではなく「必要な帰宅」にほかならない。

コロナの感染が拡大する中でも親子関係の維持を指針として掲げる国がある理由は、子ども視点に立てば明らかだ。単独親権制度はこういった冷静な判断を許さず、同居親の側の恐怖心からくる不合理な判断を子どもを理由に正当化する。「子育ては女性の専権事項」という固定観念がこういった不合理な判断を支える。子どもが感染症にかかるリスクを少しでも減らそうと考えるなら、家に恋人を上げること自体控えるべきだが、嫌いな人間ならすぐに感染症予防を持ち出すなら、それはハラスメントにほかならない。

小野田紀美(参議院議員)が言うように「親に会わなくても子どもは死にはしない」なら、マンションの一室に子どもを閉じ込め、ご飯だけ与えておくというのが一番の感染症対策となる。それを児童虐待と呼ぶならば、もはやそれはコントだろう。

(2020.4.14書き下ろし)

「シングルマザーの思想」が親たちを苦しめる ~コロナパニックを男性の子育ての導火線に ~

社会が引き離しと親子の対立を作り出す

 先日、千葉県に住む娘に会いに行った。

娘が中学生になる前、月に1度4時間という養育時間を裁判所の決定でぼくは得ている。それ以前は隔月4時間だったので倍に増えたのだけれど、実際には娘は途中で帰るようになり、娘の行動はそれとしてぼくは4時間という時間を持っているので娘についていくと、途中で娘の母親やその再婚相手(養父)が待ち構え、「ストーカー」や「つきまとう」と娘の前で呼ばれて妨害を受け、胸を痛めた。

それだけでなく、母親に娘といっしょに警察を呼ばれたり、娘の安否確認をしようと思って娘の家に行こうとすると、着いてもいないのに母親の再婚相手に警察を呼ばれたりした(いわゆる「予防拘禁」)。さすがに約束を破っているのは先方なので、警察で逮捕されることはないけれど、「これは明らかに名誉棄損で犯罪ですからね」と警察には伝えている。

 彼らは新しい家庭を作っており邪魔だてするのはぼくだというのだろう。実際に娘は、娘の学校に現れるぼくのことを「迷惑」と言い、現在行っている中学校がどこかを教えない。母親とその再婚相手に聞いても「娘の意思がある」と教えない。養父から「つきまとうな」と言われたときには、「何様なんだろう」と実父が思うのは普通だ。共同親権の発想からすると彼らのやっていることは無茶苦茶だけど、家制度の発想からするとまっとうになる。

「お父さんなんだからきちんと話し合わないとだめよ」「あなたが悪態ついても毎月来てくれるって素敵なことじゃない」と娘の周囲の誰かが言えばすむことかもしれない。父親の表現の仕方が突拍子がなくても「ユニークね」で終わることが、同居しない家族が同居家族の平穏を乱すのが問題、という発想だと「DV支配が続く」「ストーカー」と呼ぶことが正義となる。娘の周囲にはぼくのことを「迷惑」と呼んではばからない人がいるのだろう。

「親に向かってなんだその言いぐさは」と古い人間なら一言言いたくなるが、それが「DVの証拠」となり、行政や裁判所はもともと家制度的な人たちが運営しているので、こっちの発想に流される。

 彼らの周りには共同親権の発想をする人はいないし、いてもそういう人は避けるだろう。ぼくからすれば別れて13年なのに、まだぼくに付きまとうのかと思うけど、彼らは自分たちの家庭を守っているだけ、ということになる。つまり、社会が彼らの行動を支えている。

「シングルマザーが悲鳴」、そんなに同情できないわけ

 新型コロナウィルスで「シングルマザーが悲鳴」を上げているという記事を見かけるようになった。仕事がなくなり収入減になりそう人は、自分も含めて身近にうようよいるので、「すぐに現金給付を」ということなら、シングルマザーに限らず全員にすればよいと思う。

しかし「働かざる者食うべからず」という資本主義ずぶずぶの発想だと、誰が一番苦境かと、「苦境タイトル争奪戦」が始まる。つまり限られたパイの中で優先的に予算配分を得るためには、がんばっている姿を見せてなおかつ苦しい「いい弱者」が必要になる。「いい弱者」は被害者でなければならず、一般的なイメージで言えば女性だ。「しんぐるまざぁずふぉーらむ」やらがえらいのは、そういう仕掛けがよくわかっており、すぐに調べてデータ化し「見える化」する力があるところだろう。

養育費や婚姻費用の額も上がっている。一定額が給料から天引きされる父親の場合は、支払いができなくて自殺したりする人も出てくるかもしれないが、彼らは多く男性なので、経済的な側面での「苦境タイトル争奪戦」では負けがこみやすい。

 だから別居親が、「シングルマザーだけ特別視する必要がない」と言いたくなる感情はわかる。何しろしんぐるまざぁずふぉーらむの赤石千衣子さん自身が、引き離し運動のイデオローグの一人だから「何を虫のいいこと言ってるんだ」とぼくも思う。子どもには両親がいるのに、「男はいなくても女は幸せになれる」というなら、誰もいない密林の奥地で実現してくれと思う。おっといけない、これじゃ小学生の「男子対女子」の喧嘩と同じだ。

 「私がいなくなったら子どもはどうする」「1対1だと煮詰まる」と、父親がまるでいないかのような発想で言われると、「ひとり親」団体のリーダーが煽ってきた「男への敵意」と日常的に接する側の人間としては、「だったら父親に子どもを見させろ。父親に子育てがどんなにたいへんかこの機会に思い知らせろ」と支援者は言うべきだと思う。これで心中(子殺し)されてはたまらない。最終的に保育園や親(祖父母)に見させるなら、別居親との感染だけをことさら恐れるのは理由にならない。このパニックは父親の子育てを促すチャンスだ。

「ひとり親」支援はもはや同居親のニーズに答えられていない

 あまり知られていなし、多くの別居親団体にはその受け皿がないけれど、電話窓口を開いていると同居親の側からの相談をときどき受ける。何しろぼくも同居親をしていた時期があるので、「あなたたちにシングルマザーのたいへんさなんかわからない」と言外に言われると、「自分で勝手に大変になってて、甘えてんじゃないよ」と言いたくなる。

 以前から相談であるのが、「どうやって会わせていいかわからない」「会わせたいけど相手にはかかわりたくない」というものだ。また、「相手が会いに来ない」という相談や、「父親に子育てもあてにしたいんだけど、弁護士や周囲からはそんなのおかしいと言われる」という相談もある。

「共同親権」はこれらすべての悩みをいっぺんに解決できる魔法の言葉ではない。しかし、「相手に面倒見させればいいじゃないですか」という言葉は現状の支援ではないのはわかる。来た人に「被害者」という立場でいてもらわないと、現状の「ひとり親」支援や女性支援の意味がなくなる。「加害者」として男性を敵視してきたなら、どうやっていいか、具体的な方法がわかるわけもない。そういう意味では、彼らの「シングルマザーの思想」と女性支援は、男社会が永続することに依存している。そしてそういったマッチポンプの支援の正体に当事者たちは気づき始めている。何しろ「共同親権」という別の選択肢があるということを、知ってしまったのだ。

だからこそ単独親権の維持は必要になる。何しろそれは離れていても家族でいることを拒み、家父長制を支えた家制度にとって、もう一方の「別居シングルペアレント」を二級市民とするために欠くべからざる道具だからだ。「単独親権制度」という「錦の御旗」がありさえすれば、「引き離し」という行為は「正当な手段」として免罪される。

だからぼくは子どもに「ストーカー」と言われている。

(2020.4.13書き下ろし)

山とナルヒト 第3回 山岳雑誌に寄稿

 徳仁は山岳雑誌にも寄稿する。というか、編集者が徳人に、例えば「700号記念号」などへの原稿依頼を出す。ほかにも徳仁は自分が所属する日本山岳会の年報「山岳」にも寄稿したりしているそうだけれど、今回は過去の記念号とともに検索が間に合わなかった。

 ぼくが以前仕事をもらっていたのは、東京新聞が発行していた「岳人」で、当時は「山と渓谷」と並んで、山の雑誌の二大誌だった。山と渓谷は今もそうだけれど登山の有名どころを紹介する商業誌。岳人は東京新聞の文化事業なので、同人誌的な傾向が残っていて、新ルートの開拓とかも紹介していた。ぼくはその担当を何年かしていた。そういうわけで、当時の皇太子が記念号の巻頭で紹介されても、自分の趣味とは違うので「へー」と思って見ることもなかった。

今日この連載のために2006年に出された記念号をはじめて読んだ。この号では徳仁は「徳仁親王 秋山の思い出」というタイトルで寄稿している。10月号なのでそういうお題を出したのかもしれない。

 編集部にいた知り合いに聞いたところによると、皇太子には手紙で直接原稿依頼をするのがルールのようだ。郵便物は並べられてその中から本人が取り上げて読むという。ちなみに担当編集者が以前話してくれたところによると、徳仁は、直接東京新聞7階の岳人編集部まで来て写真を打ち合わせしたりしたのだという。700号では10ページにわたって秋山の思い出が語られ、2ページで担当記者の同行記が参考記録一覧とともに掲載されている。10ページだと10万以上になるはずだけど、原稿料を受け取ったのかまでは聞いていない。岳人だけでなく山と渓谷も記念号では徳仁の原稿を掲載している。

 当時も今も徳仁の登山に興味はないし、原稿を見ても友人ではないので退屈に感じてしまう。ただあまり飾った文章ではないようなので、素直な人なのだろうと思う。写真も悪くなく時間をかけているのだろう。岳人では雅子の写真も紹介している。雲取山や那須の姥ヶ平の紅葉の写真が掲載されていて、こちらも悪くない。1998年の長野県車山登山の二人の写真を見ると、徳仁はキャノンを、雅子はオリンパスを使っているようだ。

 同行記者は徳仁が「疲れた。休みたい」と自分から言い出したことはないと思い出話を書いている。関東の大学山岳部では、年に一度皇居周回の対抗マラソン・駅伝大会を開くのだけど、そこでは「皇太子はかなり足が早い」と噂になっていた。体力もそこそこあったのだろう。

 ただ、経歴的に見れば平凡なので、頼まれても同人誌の巻頭に寄稿するのは、ぼくだったら恥ずかしい。当時の岳人は「アルピニスト野口健」は芸能人規定してハブっていたので、そう考えると徳仁に12ページ割くのは節操がない。(2020.3.25「府中萬歩記」73号)

慎重な議論の行き着く先

慎重な弁護士のデマ

コロナパニックで傍聴席は間引かれたものの、3月12日に共同親権訴訟の第一回口頭弁論が開かれた。ぼくはこの訴訟の原告なので、この日、冒頭意見陳述をした。一方で2月28日には、「シングルマザー」のグループは、「慎重な議論」を求める署名を1万人分集めて提出している。記者クラブの雰囲気が若干共同親権に「慎重」になった、と感想を述べた記者もいるので、効果はあったようだ。

この記者会見では、こういうデマを相変わらず弁護士たちは述べていたようだ。

「これについて離婚に詳しい弁護士からは『程度(時間や頻度)の問題はあるが、面会交流はほぼ実現している。現在、裁判所によって、面会を制限されることは、そうせざるを得ない事情が認定された、例外的な措置』との指摘もある。」(弁護士ドットコム)

何度も言うけど、家庭裁判所に面会交流を申し立てた場合の取り決め率はここ数年55%くらいで、4割が取り決めを守ってもらえていない。「ほぼ実現している」がどの程度の割合か教えてほしいものだ。この署名はデマに基づいて集められたのだろうか。

同居シングルマザー全国団体

赤石さんもがんばるなあ、と思うけど、今度は「シングルマザーサポート団体全国協議会」というのを作ったようだ。名前は正確に「同居シングルマザーサポート団体全国協議会」にしたほうがいい。別居親もシングルペアレントなのだけれど、多分赤石さんのグループには入れないだろう。「シングルマザーじゃないから」と入会を断られた別居母もいる。この辺は差別そのもの。

「がんばるなあ」と思うのは、以前も「ハーグ慎重の会」とかで上野千鶴子やら戒能民江やらの有名どころを集めて活動していたグループがあったからだ。

「なんだよシンチョーって」とそのころ別居シングルファーザーたちで悪態をついたものだ。「反対」と言えば対案を求められる。それはできそうにないから「慎重」になる。今回も同じパターン。実際はハーグ条約の加盟を阻止するために最大限がんばっていた。

共同親権訴訟で国側は「子どもを会わせないのは同居親の問題で、国に責任はない」と主張していた。子どもに会えなくなった当事者としては無責任な主張だと思うけど、「会わせない」ことがよくない、ということは国は理解しているようだ。「たいしたことない」と言いたいらしい。(避難だから)「連れ去りと言わないでほしい」という主張もある。こういう理屈は、「心の平衡を保つために喫煙は必要だから、受動喫煙と言わないでほしい」という主張とどう違うのだろう。

ハーグ条約加盟反対運動で何がされたかというと、体の大きい外国人は怖い、と最大限の人種差別がキャンペーンでなされて、それはないよなあと思ったものだ。それで加盟やむなしのハーグ条約実施のための国内法では、DVや虐待のおそれがある場合において「特別な配慮」がなされることが目的にされ、実際そういう条文がある。

親子断絶防止法(共同養育支援法)でも同じような運動があって、法案が修正されて、DVや虐待のおそれがある場合には「特別な配慮」がなされ、そういった場合には関係断絶もありうるべきことが修正案に盛り込まれ、ぼくたちは反対した。「おそれ」を判断するのは結局のところ同居シングルペアレントになるからだ。以前赤石さんにインタビューされたとき、危険な場合はどうするの、と聞かれて「じゃあそれ誰が判断するんですか」と聞くと黙っていたので、図星だろう。

差別条項を挿入させろ

「骨抜き」という批判がなされているけどそうでなはない。これは別居親差別条項なので、そのような法案を積極拒否したにすぎない。ばかばかしいことに、別居シングルペアレントたちの多くは、自分たちが差別される法案を一生懸命作ろうとしていた。もし法案化されていたら、この差別条項を撤廃するために、また何年もかかっただろう。成立しなくてほんとによかった。

お気づきのように、共同親権「シンチョー」の議論でも、この差別条項の明文化がおそらく目的とされるだろう。先だって、訴訟のグループに取材依頼があった。フリーランスの記者だったけど、電話で問い合わせることもなく、質問項目と自分のサイトのURLだけを書いて一週間以内に回答をよこせ、というメールが送られてきた。同業者としてはずいぶんな仕事の仕方だなと思い、電話よこしたら回答すると答えたら、電話してきた。

「私は中立」と言いつつ、「会のホームページを読んでも虐待の場合とか、子どもの視点からの記述がなく、それを書いていないと賛同が得られないんじゃないか」と一生懸命話していた。被害を受けている人が別にいるから手立てを考えないと賛同できない、という主張は要するに「あなたたち加害者でしょ」ということになる。虐待の加害者は母親が多いですよ、と言うと黙っていた。「こうやって話したらわかるけど、書いていないから誤解を受ける」というけど、だったら最初から電話すればいいのに。

質問の仕方も思い込みが大きいのだけど、こういう問いがあった。「現行法では、子どもは親権者の良心にのみ期待するしかなく、子どもは自分の進路すら親と交渉して勝ち取らなければならないものになっています。その交渉相手が離婚後も2人のままだと、子どもは交渉に2倍の労力がかかり続け、両親の意見が異なれば、その争いに巻き込まれて悩み苦しむことになります。このように子どもが苦しまないようにするために、離婚後の共同親権を成立させる際に、どんな付帯条項をつけるつもりですか?」
自分たちが二級市民だという差別条項を設けないと、立法活動は認めがたいという主張にはこう答えた。


「それは婚姻中の共同親権においても同じことですので、もしこういった付帯条項の必要性があるというなら、戦前のように婚姻中も単独親権にするのが一番いいのではないでしょうか。なお、子どもの福祉の観点と男女平等の観点から、戦前の単独親権制度は戦後は婚姻中においてのみ共同親権になっています。共同親権が子どものためにいいからです。婚姻外の共同親権に付帯条項が必要と考えるのは、別居親は養育にかかわるのは望ましくないという偏見に基づくものです。」

(宗像 充 2020.03.16)

山とナルヒト 第2回「山のベテラン」

 徳仁が天皇になるときに、「山のベテラン」として紹介する記事を見かけることがある。実際どうなのかとネットを検索すると、彼の登山歴をまとめたリストが出ていた。こんなことまで調べる人間がいるのかと思ったけど、この連載には都合がいいので見てみると、1960年生まれの徳仁は、1965年の離山で登山を始めたようだ。別荘のある軽井沢にいたときに父親と標高差200mの山に登っている。大人なら1時間程度で登れる。

このときが5歳で、翌年には15座の山に登っている。平均すればだいたい年に5回ほど登っているようだ。次に多いのは26歳の1986年のようで9つの山に登っている。このときは、留学から帰ってきて体力もあっただろうし、八ヶ岳から南アルプス、北海道利尻岳まであちこち足を延ばしている。そんなわけで翌年日本山岳会に入ったというわけだ。

 一般にベテランという言葉は、熟練者という意味らしいので、毎年あちこちの山を登ってきたという面ではそうなのだろうなあと思う。無雪期の山に関しては、日本の3000m級の山も含めてよく登っている。ただ、山学同志会に入って谷川の岩壁をガシガシ登ったり、日本山岳会に入ってもヒマラヤを目指したりというわけでもなさそうなので、ベテランだからと言って、「雪山教えてください」と頼んでも無理だろうし、「クライミング連れてってください」と頼んでも無理そうだ。あと、山小屋にはあちこち泊まっているようだけど、テント泊はほぼないようだ。ベテランにもいろいろいるし、趣味なので、本人が楽しければそれでいいと思うけど、皇室なのでめんどくさいところもある。

 友人の記者に、奥多摩の棒ノ折山に徳仁が来たときの様子を聞いた。リストを見ると1986年に登っていて、気に入ったのか、雅子を連れてそのあとも来ている。ベテランでも手ほどきができるのは妻子限定で、他人が評価しようがない。

「登山に限らずだけど、皇室が来たら分秒単位で行程が決まった本みたいな計画書が事前に配られるよ。見なかったけど。それで、必ず地元の案内人がついて、案内の人は、事前に何回も下見してたみたいだし、皇太子来ると道はよくなる。

当日は案内の人と二人で登ってきた。ぼくたち記者は事前に登って待ち構えていて、頂上に登ってきた瞬間を撮っていいと言われる。立ち位置は決まっているよね。護衛? 来てただろうけど気付かなかったなあ。山の中にいたのかなあ。一般登山者は規制されていないから、その中に紛れていたのかもしれない。記者は10人くらいいて、宮内庁記者以外は質問しちゃだめらしくい。メモもとっちゃだめだったみたいだけど、ぼくはとってた。仕事としてはつまんないよね」

 若いころから、こんなに他人に気を遣わせてきたベテランもどうかと思う。

(「府中萬歩記」71号、2020.1.30)

安否確認弾圧

オーストラリア人スポーツジャーナリストのスコット・マッキンタイアさんは、1月15日、東京地裁で懲役6月、執行猶予3年の有罪とされた。彼は、妻の両親の暮らすマンションの共用部分、オートロックドアの内側に、住民のあとについて入り、ピンポンを鳴らしたのが「住居侵入」とされた。妻に子どもを連れ去られ、行方不明になっていたので、安否を聞くための行動だ。当日は、甚大な被害が出た台風19号が関東地方を襲った日だ。

日本では子どもを連れ去られたことが加害者の証明になる。しかし共同親権の国では連れ去ったほうが誘拐罪とされる。現在多くの別居親たちが警察署に告訴を続けているが、検察が起訴した事例はない。判決後、彼は共同親権を海外メディアに訴えた。オートロックドアの内部にはNHKの集金もやってくるが、一月半後の別件逮捕は政治弾圧にほかならない。「一目会いたい」という法廷でのスコットさんの言葉は、東日本大震災のときに、ぼく自身が感じた感情だ。「親子が親子であるということ、それは人権」。

(『反改憲』運動通信 No.8 2020.1.30)