徳仁は山岳雑誌にも寄稿する。というか、編集者が徳人に、例えば「700号記念号」などへの原稿依頼を出す。ほかにも徳仁は自分が所属する日本山岳会の年報「山岳」にも寄稿したりしているそうだけれど、今回は過去の記念号とともに検索が間に合わなかった。
ぼくが以前仕事をもらっていたのは、東京新聞が発行していた「岳人」で、当時は「山と渓谷」と並んで、山の雑誌の二大誌だった。山と渓谷は今もそうだけれど登山の有名どころを紹介する商業誌。岳人は東京新聞の文化事業なので、同人誌的な傾向が残っていて、新ルートの開拓とかも紹介していた。ぼくはその担当を何年かしていた。そういうわけで、当時の皇太子が記念号の巻頭で紹介されても、自分の趣味とは違うので「へー」と思って見ることもなかった。
今日この連載のために2006年に出された記念号をはじめて読んだ。この号では徳仁は「徳仁親王 秋山の思い出」というタイトルで寄稿している。10月号なのでそういうお題を出したのかもしれない。
編集部にいた知り合いに聞いたところによると、皇太子には手紙で直接原稿依頼をするのがルールのようだ。郵便物は並べられてその中から本人が取り上げて読むという。ちなみに担当編集者が以前話してくれたところによると、徳仁は、直接東京新聞7階の岳人編集部まで来て写真を打ち合わせしたりしたのだという。700号では10ページにわたって秋山の思い出が語られ、2ページで担当記者の同行記が参考記録一覧とともに掲載されている。10ページだと10万以上になるはずだけど、原稿料を受け取ったのかまでは聞いていない。岳人だけでなく山と渓谷も記念号では徳仁の原稿を掲載している。
当時も今も徳仁の登山に興味はないし、原稿を見ても友人ではないので退屈に感じてしまう。ただあまり飾った文章ではないようなので、素直な人なのだろうと思う。写真も悪くなく時間をかけているのだろう。岳人では雅子の写真も紹介している。雲取山や那須の姥ヶ平の紅葉の写真が掲載されていて、こちらも悪くない。1998年の長野県車山登山の二人の写真を見ると、徳仁はキャノンを、雅子はオリンパスを使っているようだ。
同行記者は徳仁が「疲れた。休みたい」と自分から言い出したことはないと思い出話を書いている。関東の大学山岳部では、年に一度皇居周回の対抗マラソン・駅伝大会を開くのだけど、そこでは「皇太子はかなり足が早い」と噂になっていた。体力もそこそこあったのだろう。
ただ、経歴的に見れば平凡なので、頼まれても同人誌の巻頭に寄稿するのは、ぼくだったら恥ずかしい。当時の岳人は「アルピニスト野口健」は芸能人規定してハブっていたので、そう考えると徳仁に12ページ割くのは節操がない。(2020.3.25「府中萬歩記」73号)