子育て改革のための共同親権プロジェクトが記者会見
12月16日、子育て改革のための共同親権プロジェクトが7月に行なった「学校における別居・離婚後の父母対応の実態および共同親権制度への移行に伴う要望調査」の結果を衆議院第二議員会館にて記者発表した。
この会見で質問したフリーランスのライターとして、また共同親権運動にかかわってきた者として、今年5月に改正され、2年後の2026年から施行される民法の婚姻外の共同親権規定について学校がどのように準備するかについて、ここで考えたことを触れたい。
ぼくは現在婚姻中のみしか共同親権を許さず、婚姻外は単独親権を強制する民法規定の違憲性を唱えて国を訴え、立法不作為の国賠訴訟を2019年に提起している。「子育て改革のための共同親権プロジェクト」(以下「プロジェクト」)は同時期に市民運動として立ち上げ、ぼくも呼びかけ人に名を連ねている。
とはいっても、今回のプロジェクトの学校アンケートについてはカンパはしたけど、結果が出るまで直接かかわっていない。呼ばれていないのでまあちょっと寂しいよね、とは思うけど、誰かやってくれるんならそれでいいんじゃないとも思う。
プロジェクトはこの日、文部科学省と子ども家庭庁に3745筆の賛同署名とともに要望書を提出し、アンケート結果の結果を記者発表している。
「親として耐え難い」
アンケート結果から伺えるのは学校機関が根拠もなくいわゆる「別居親」を学校から追い払っている現状だ。
発言した田中さんは「普通のサラリーマン」の父親で娘たちと30分しか会えていないという。校長に連絡すると110番通報され、後の妻からの虚偽のDV保護命令の通報がなされていたことがわかった。
同じく石原さんは14歳と7歳の子の母親だ。協議離婚した末に長男を連れ去られ、その途端に小学校から連絡が来なくなり、以来学校関係者からは無視されている。「親としてつらく耐え難い」と言葉にしていた。
現在子どもたちと会えないぼく自身も、似た経験がある。「会わせる」という合意書があったにもかかわらず子どもと引き離されて、学校行事で子どもたちと度々会ってきた。しかし学校側の対応は校長の考え一つで友好的になったり排除的になったりする。背景に母親やその弁護士の学校への排除の要請を学校側が真に受けてしまったことがある。
「父母」が子育ての主体
これに対しプロジェクトは婚姻状態によらず、父母が子育ての主体であることを教育機関に周知することを国に求めた。
具体的には、親権者と非親権者の違いである「子の重要事項に関する意思決定権限」となる進学や転校について、入学願書に2名の親権者欄を設け、両親権者の同意を必須とすること、学齢簿の保護者欄を2枠以上設定し、親権を有しない実父母の情報も保護者登録票、家庭状況調査票に記載することを必須とすること、がその中身になる。
これを見てぼくは質問してみた。
「学校は行政機関でもあり、行政機関は(法に定めのない)不必要な個人情報の入手はできないことになっている。いわゆる『隠し子』の場合などのように、現在の状況で父母両方を申告しなくても誰も困っていない場合においてはどうするのか」
これに対してプロジェクト代表の松村直人さんは「趣旨は父母対等ということです」と発言しており、質問の意図とはずれる回答だったけれど、困らせるのが目的ではない。
保護者とは誰か?
学校教育法においては保護者は親権者となっている。
しかしそれは保護者の権限を定めたものではなく義務を定めた中においてであり、保護者規定のあるほかの法規も同様だ。学校は子どものいる世帯主に就学通知を出し回答のあった者を保護者としているだけであり、それが実父母であるかどうかなど誰も把握していないし、把握する必要もなかった。
では保護者欄に記載のなかった親が現れ、実際戸籍等を持ち出して実父母であることが分かり、かつ親権者でなかった場合、学校はそれを「保護者ではない」と言えるだろうか。実際事実婚で子どもを育て、親権者でなくとも保護者である親はいる。
つまるところ保護者とは自己申告制である。プロジェクトの要請の趣旨は、保護者は父母でなければならない、ということではないとは思うけど、そこで自らは申告を望まない実父母の情報を必須事項とする根拠は何だろう。
松村さんのいう「父母対等」というのは、要するに父母がもめた場合において、学校の一存や一方の主張だけ聞いて一方を追い払うことはできない、ということだろうと思う。
実際問題別に離婚してなくても、父母間のもめごとを学校に持ち込まれれば「それは夫婦の問題なのでよく話し合ってください」と学校は多くの場合言うだろうし、離婚した場合においても本来は同様だ。そうしないともめごとに巻き込まれる。
共同親権への民法移行後も学校は基本的にはこれを徹底することになる。必要な場合に、共同監護の取り決めや司法決定、さらには保護命令などの規制の有無も把握する。話し合えなければ双方関与しないという合意になり、学校は2つの家に対応することになる。子どもにとって離婚は家が2つになることだ。
学校や園はこれら民法上の取り決めの範囲においていつ休ませるか、誰が送迎するか、学校情報は誰に届けるか等々、子どもや父母に対応することになる。しかし不必要な個人情報の入手は逆に学校が双方の関係に口を出し、巻き込まれることにもつながりかねない。
教育は誰のもの?
こういった問いはいったい教育とは誰が本来責任を持つべきものなのか、という問いにつながる。親は自身が望む教育を子どもに授けたいと願うので、私立学校や民族学校、さらには塾などが存在する。しかし学校の先生が「うちはこういう教育をしたいので」と逐一親に口を出さされれば「じゃあ自分で教えて下さい」となるだろう。それもいいけど、多くの人は結果公立学校に通わせる。
しかし学校は国家や地域が求める人材を育てる場でもある。この傾向が強まりすぎれば不登校などの問題が生じる。本来教育は子ども中心のものなのだ。
したがって学校や保護者が協議会を作って話し合いの中で問題を解決したほうがうまくいく、といって学校協議会などが作られてきた。子どもにとって地域も含め多くの大人が教育にかかわったほうがよい、ということにもなり、であれば保護者を父母に限定することは本来する必要のないことかもしれない。
問題は親権差別
では何が問題なのだろう。
親権がないとはいえ、父母であることがはっきりしているのに、行政機関の担当者(校長や担任)の判断一つで自ら関与を望む父母を、地域の人以上に排除できるだろうか、ということではないか。父母対等はもちろん理念としてはあり、しかし権限の差は双方の取り決めや国の関与で設けられる場合がある。しかし、他人以下に親を扱い、親としての地位を損なってまで親権の有無による差別を許すことができるだろうか。
海外では親権差別禁止を法で定めることがあるという。親には自身の子の教育と養育への責任と固有の権利がある。現在共同親権訴訟で争っていることである。学校から親を締め出し、子どもの情報を与えないなどの行政措置は、人権侵害であり職権乱用行為にほかならない。(2024.12.18)