共同親権訴訟、最高裁で逆転を

現在最高裁に係属中

 今年 1月25日に共同親権訴訟の高裁判決が出て結果は不当判決だった。現在最高裁にかかっていて、結果待ちになっている。月例で最高裁に申し入れや情宣を行なっている。司法の判断は概ね世論なので、人権問題に取り組む多くの裁判体や支援団体が最高裁に働きかけをしていて、裁判所もそれを聞くために部屋を用意している。

下級審で負けていて最高裁にかかっている時点で勝ち目がないと思っている人もいるかもしれない。必ずしもそうではない。

合戦「民法改正」

 高裁判決の後、国会に改正民法案が提出され、「離婚後の共同親権の導入」に関する改正民法が成立した。この法案に対してぼくたちは仲間とともに反対してきた。改正民法で親子が引き離されるという原告の被害が解消されるのだろうか。もしそうなら、「訴えの利益がない」と言われて司法で負けても悔いはないけど、そうは思えなかったからだ。

 この法案の問題点は、違法な司法運用を法で追認するのが主眼の、司法官僚主導の法改正だということだ。したがって、「法案に協力義務や人格尊重義務って書いてあるじゃないか」と言えば言うほど、司法の権限を強めてしまう結果になる。

 この法案に対して、親の権利の固有性を明記すること、子どもの利益については、父母双方の平等の養育を受ける機会を明記することが記載されていれば、司法判断も妥当になる、とぼくは集中的に国会議員と世論に働きかけた。この点が明白でなければ、法案による父母の責務は、国家による道徳の押し付けになる。

あの腐敗した支配層、わけても司法に人の道を教えてもらうのか。逆だろう。

強すぎる親権/弱すぎる親の権利

親になったからには子どもの世話はせっせと自己犠牲的にするのは確かだろう。しかし、それは国が求める人材に自分の子を育て上げるためになすことだろうか。であれば、親でなくてもそれはできる。

親が子育てするにおいて、善悪の価値判断も含めて、自分が培った価値観をもとに子に接していると自覚していない人が、親の権利性を否定するのではなかろうか。そもそも「親には権利がない」とか言う人は、国も含めた第三者が子育てに口を出してきたとき一度も反発したことがないのだろうか。

たしかに、子育てが周囲に合わせることに価値が置かれてなされる部分が多いから、この点あまり自覚されなかったというのはあるだろう。

「普通が一番」「他人に迷惑をかけちゃだめ」と言いたがる人は多い。学校は自発性を育てるよりも、上の命令に従順な人材を育てるサラリーマン養成学校になっている。家は国家に必要な人材を供給する国家の下部機関であり、学校もまたそのための人材養成機関であったからにほかならない。

この秩序を維持していたのが、戸主や親権者、学校長という専制的なミニ天皇たちだ。従わなければ追い出される。

戸主制は廃止された。子の家への帰属を明示させる権限者として親権者は残った。

勘違いされている。日本においては家秩序の体現者としての親権者の権限は強い。しかし国も含めた第三者に対して親の権利は弱い。

だから、親権のない親の権限は養子縁組にすら口を出せないほど無に等しい。子に会えない程度の泣き言は、被害ですらないというのが、司法の発想であり、そしてそれを内面化した少なくない人々の認識でもある。

 この点をジェンダーバイアスを刺激することで運動化したのが、共同親権反対運動というの名の、国家主義的な別居親差別運動である。

しかしながら彼らは当て馬に過ぎなく、司法の権限を守るために司法官僚が子どもに会えない親とのつぶし合いをしかけただけだ。その点では対抗馬に担ぎ出された親子ネットはじめとした別居親団体も、同じ司法官僚の手のひらの上で踊っていたにすぎない。

ささやかながらぼくたちが仲間と張った論陣は、反対意見の矛盾とその意図、なぜそれが出てくるのかの仕組みを可視化することで、法案は通ったにしても、司法官僚にせよそこそこの打撃を受けたと思っている。司法への不信が国会議員の間でも口にされる結果になったからだ。

共同親権とは、婚姻制度と親子関係を分離させること

 ところで、法案自体は通ったものの、運用についての詳細はこれからだ。そして既得権を守るために現行法制度の不公平な運用を温存させようという勢力はそれなりにいる。

 司法は自身の裁量の幅は守った体裁はとっているので、これから前例や主観に基づく司法判断を、放っておけば出し続けることは想定できるストーリーだ。これに対して現在、司法の専横を縛る可能性があるのが共同親権訴訟の最高裁判断になる。

 共同親権とは、婚姻制度と親子関係を分離させることを言う。

婚姻制度とは、婚姻中に生まれた子を嫡出と推定することによって成り立つ制度だけど、必然的にこの制度によって非嫡出子という存在が必要とされる。

父母と子の関係が婚姻に左右されないことになれば、そもそも「婚姻外の差別的取り扱い」の意味がなくなる。親においては婚姻内外の地位の不平等を問うた本件訴訟は、子における差別もまた解消する。

この点、高裁レベルの下級審においても判断がばらついだ。そもそも司法が違法な判断の下手人である以上、自分たちの責任逃れをするためには、訴えた原告たちを被害者とするわけにはいかない。下級審の判断における倒錯した論理は、この結論から導かれる。

 通常の国賠訴訟であれば、下級審で積極的な憲法判断がなされ、最高裁は保守的な場合が多いけど、この問題に限って言えば逆になる、と今さらながらぼくたちは気づいた。

自分たちの保身のために、被害者を生み続けた最高裁を、いっしょに謝らせよう。(2024.8.7)