10月9日のAbemaTVでは、憲法学者の木村草太氏が元家庭裁判所調査官の伊藤由紀夫氏とともに登場し、共同親権反対論を展開した。
ここで木村氏は、共同親権運動に対し、「家裁予算10倍運動」を提唱している。「共同親権運動」という言葉はぼくが作ったので、この木村氏の番組での発言に対して若干の反論を加えておく。「若干の」というのは、そもそもまじめに議論するほど、彼が現場を知っているとはとても思えないからだ。
ただし、不勉強なのは彼の研究者としての能力の問題だが、「知ってて言っている」なら悪意がある。
番組作りの不公平
最初に指摘しておくと、9月25日の討論番組には、木村氏に限らず、制度だけでなく、現在の法運用のあり方の不平等について現場の実情を踏まえて指摘できる人はいなかったようだ。だから議論も抽象的か現場職員の愚痴に終わってつまらない。その上、木村氏に「共同親権運動をされている方は」と一方的にしゃべらせるぐらいなら、最初から「共同親権運動をされている方」を呼べばよかったのだ。
つまり、キャスティングミスでなければ「共同親権運動への文句付け」が番組の目的なので、最初から公平な番組作りとは言えない。
その上で、木村氏の主張を要約すれば、円満に離婚できた夫婦に共同親権はOKだが、そうじゃない場合にはDV被害が永続する。だから合意ができたカップルにだけ親権を付与する選択的共同親権だったらよい、というものだ。
なお、木村氏は、法律上親権を持っていないからといって親じゃない、ということはないし、子どもと会うこともできないことないと主張する。だったら自分で運動の存在を認めるほど、何で共同親権運動がこんなに流行るのか。番組では彼の解説はスルーされている。単独親権では実際には法律上親と呼ばれても中身がない、というのはほかの出演者は理解している。
ちなみに家裁に調停・審判を起こしての面会交流の取り決め率は55%。そのうち4割が約束を守られず会えなくなっている。
単独親権あるある「家裁はちゃんと判断している」
木村氏は「お互いがいい関係を築けていれば、離婚しても相談すると思う」と述べる。「そもそもいい関係を築いた夫婦は別れないんじゃ?」という疑問は置いておいて、話し合えないから子どものためにならないのなら、どう話し合える環境づくりを整えるかに話がいくはずなのだけど、そうはならない。
「単独親権はDV被害からの防波堤の役割を果たしている」からと、単独親権の効果を肯定するからだ。今回の議論、連れ去り問題についての言及が慎重に排除されていて、DVのために共同親権には制約を課すべきだという予定調和の中でなされている。
本当にそうかと言えば、現在の家裁の運用は、子どもを確保している側に自動的に親権を与えるので、被害者側が親権者であるかどうかなんて関係ない。例えば、男性の親権取得は裁判所を経由すれば1割だ。しかし虐待の加害者の割合で一番高いのは実母で、DV被害も女性は3人に1人に対し、男性の5人に1人の割合だ(その上この数字の男女差は過去1年間を見ると逆転する)。性構成を見ても、虐待加害女性が多く親権者となり、DV被害男性が多く親権を奪われているのはわかる。
DV、虐待、モラハラの加害者が単独親権者であることなんてざらにあるのだが、なぜそれが「DV被害からの防波堤の役割を果たしている」のかわからない。木村氏は(暴力の加害被害問わず)子ども奪取者の権利擁護とは言えないから、無理やり単独親権者をDV・虐待の被害者にしているだけだ。そもそも、男性の側が親権をとれないのは、男性が子どもを連れて出たところで、女性のシェルターのような行き場所がないことによる。
だから裁判所の人員を増やしたところで、DV施策の男女差別、連れ去り前提の裁判所の運用が変わらない限り、連れ去り・引き離し被害が増えるだけで、そんなことを共同親権運動が求めるわけがない。いくら連れ去られ親が、DVや虐待防止の観点から、自身のDV被害を訴え、連れ去り時に子どもの意見が聞かれなかったことを訴えても、調査の対象にならないからだ。
選択的共同親権の正体
同時に、「合意した場合に限り共同親権」というのも無責任な主張だ。
そもそも合意したくないから、みんな親権を得るために連れ去る。そこに暴力のあるなしは関係ない。暴力の被害者が避難したところで、子連れで逃げなければ守ってもらえないし親権もとれない、という現在の運用が問題ではないのか。だったら、相手が暴力の加害者であっても、きちんと子どもの面倒を見させるのも含めて養育の責任を負わせる、というのは、あってしかるべきだ。何しろ、一人ではなく二人で子どもを作ったのだから。
単独親権制度のもとでの「連れ去った者勝ち」というルールは、暴力があろうがなかろうが、自分の主観(被害感情)で一方的な決定を相手に押しつけていいというものだ。だから相手の側の暴力被害も被害感情(主観)も一切無視してよい。
授業参観を見に行きたいといっても「合意がないから」、子どもと電話したいと言っても「合意がないから」で制限される。(そもそも連れ去ってよい、引き離してよいという同意がないにもかかわらず)こんな状況で引き離された側が合意するわけなく、そうなると親権は得られず、下手をすると子どもとは会えない。これが木村氏の言う選択的共同親権だ。
むしろ相手の親権取得を排除するために係争を続けるカップルがあることは想定できる。実際選択的共同親権のアメリカでもそういった係争を芸能人が繰り広げているのをニュースで見る。しかし、連れ去って引き離せば相手の親権取得を妨害できるとは限らないので、それを活用して生じる紛争は抑止が期待できる。
これは何も現在の単独親権制度のもとでも、家庭裁判所の運用が、連れ去った親に対して「じゃあ相手に子どもを見させます」と言えば、引き離し事件は抑止できるのだから、家裁の予算を10倍にしなくてもよい。問題は、「子育ては母親」という発想から抜け出せない、家裁の裁判官や木村氏のような古臭いメンタリティーなのだから。
なお、民法766条は単に話し合いの努力規定なので、離婚や別居時に強制できないし、離婚裁判においても、付帯処分を求めない限り、裁判所が決めるのは離婚の是非だけで、親子関係の取り決めなどなされない。もちろん、子どもを引き離したことによって、それまで暴力などふるったことのない父親に母親や子どもが殺される事件も日本で起きている。単独親権制度だからだ。そもそも単独親権制度で暴力が防げるなど、暴力防止の観点からすれば軽率すぎる。
木村氏にアドバイスされるほど共同親権運動は落ちぶれてない
共同親権運動は、子育てにおける格差是正を常に念頭に置いてきた。あまりにも人権侵害が放置されているので、憲法を武器に国の責任を問うことにした。木村氏の主張は、性差を口にはしないが、女性の側が親権取得者でなければ、ここまで単独親権制度を擁護していただろうかと疑問に感じる。そういう意味では彼の発想はジェンダーロールに根付くもので、彼の親権論議で憲法的解説を聞いたことは一度もない。
日本の単独親権制度がDVの防波堤になるという発想も「家庭に法は入らず」という家制度を基盤としており、海外のように、家族間暴力に刑事介入が積極的になされる国の議論とは本質的に次元が違う。職権探知の家裁システムの中で、家庭裁判所調査官は古い発想の裁判官の使い走りになりがちだ。それが著しく彼らのプロ意識を損なう。なり手がいないのは当たり前だ。職員を増員するより、調査に関しては外部に出さなければ公平な判断など期待のしようもない。
ちなみに、子どものプライバシーを立てに当事者の実名告発を抑止させる主張。子どもを人質にとっての口封じにほかならず、人権侵害も甚だしい。そもそも離婚は恥ずべきものという社会認識こそが、多くの男女と子どもを苦しめているのではないか。
共同親権運動は憲法を忘れた憲法学者にアドバイスされるほど落ちぶれてはいない。