改正民法の父母の協力義務は「フレンドリー・ペアレント」条項か?

改正民法の父母の人格尊重義務・協力義務

 改正民法の817条12-2には「父母は、婚姻関係の有無にかかわらず、子に関する権利の行使又は義務の履行に関し、その子の利益のため、互いに人格を尊重し協力しなければならない。」という規定がある。

 この条項をもって、子の連れ去りや引き離し行為をした親は非協力的な親として不適切とされ、それら行為が抑止されるととともに司法の親権選択において不利になるのではないかと期待する向きがある。

海外では司法判断において、裁判所が親権者を指定する際に、元配偶者と子の面会交流に肯定的な親を優先するという原則が「フレンドリー・ペアレントルール」として定着してきた。その日本版がこの条項に反映されたというのだ。

国会審議でもこういったことについて例示した上で質問され、法務省側は司法判断でそう判断することはありうるとしている。共同親権側で発言してきた弁護士たちもそう言っている。本当だろうか。

「バカ」と元妻に言ったら不適格な親

 この条項は法制審議会の最終段階で具体的な文言が出されてきたものだ。

 よそでこの条項がフレンドリー・ペアレントとして機能すると耳に入れてきた仲間に「ほんとにそうなの」と聞かれたとき、「会わせない相手にバカと言ったら不適切な親にされて親権はく奪の理由になるんじゃない」と答えた記憶がある。

「でも議員さんもそう説明している」というので、「決めるのは議員じゃなくて裁判所」と非情な事実を指摘した。法務省の答弁が「ありうる」のは当たり前で「ありえない」場合もありうる。

自然的な関係に対する倫理的な規定

 この条項を受けて仲間内で議論したとき、司法に嫌な目に遭った面子ばかりだったので、否定的な反応が多かった。

 この条項の問題点は、人格尊重や協力の義務が課されるのが「夫婦」ではなく「父母」である点だ。民法には752条で「夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない。」という規定がある。この条項自体は現在の司法運用では空文化している部分が多い。

とはいえ、この条項は婚姻制度という国の法規範のもとに個人が服することによって生じる規定である。この婚姻制度は人為的なものなので、中身も変えられる。不服なら服さないという選択肢も可能だ。

 一方で、夫婦はもともと他人だが親子は人為的なものではない。子どもが生まれたら国に出生届を出そうが出すまいが親子は親子だ。子に対する権利義務は父母にはあると思うけど、その中身に協力義務や人格尊重義務といった道徳規範を盛り込むことはどうなのか。

「その子の利益」を国が決める

「その子の利益のため」とあるからいいじゃないか、という反論はあるだろうなと思う。問題は「その子の利益」を決めるのが父母であるとはされていないことだ。

例えば、アメリカなどでは、子の最善の利益について双方の親との関係維持が州の公共政策であるとの規定があったりする。どうしてこういう規定が可能かといえば、特定の子の利益についてまずもって考えるのは、その子の父母であって国も含めた他人ではない、という前提に気づいたからだ(要するに共同親権)。会えもせずに空想的に「子の利益」を父母が想像したところで、子には利益にならない。

父母の権利性がなければ裁判官の主観を肯定

この点、ちゃんと共同親権、共同親権プロジェクト、共同親権訴訟で2月7日に法務省に申し入れた意見書では、1 婚姻状態によらず、子の養育をする固有の権利を実父母が持ち、父母双方による養育環境を維持する責務を国が持つ理念規定を設けること、2 子の監護について「子の利益」を裁判所が判断する時の規制基準として、「男女平等(養育時間における父母同権)」「頻繁かつ継続的で直接的な親子関係を維持すること」を盛り込むこと、という規定の設置を求めた。

逆に言えば、父母の権利性についての具体的な言及が条文にない状態での、父母の人格尊重義務や協力義務は、裁判官の主観や古臭い判例を反映した「協力」や「人格尊重」の判断を肯定することになってしまう。

子どもに会えない親たちは、それに怒って法改正を求めたが、今は「裁判官様の主観は私たち親の未熟な判断より尊いのです」と喜んでいる。

子どもに「あんた」と言ったら不適格

 ぼくにも経験がある。子どもに「あんた」と言ったら、子に不適切な発言をしたという理由にされて、監護に関する司法で負けた。出身地の大分県では、親しい相手に「あんた」というのは普通だけど、裁判官の悪意を自分の世間の狭さで正当化するとこういうことができてしまう。

 人格尊重は別に父母に特別に課されるものでもないし、子どものために父母が協力する場面があるのは言うまでもない。ただし、父母がいつもいつもデレデレ仲良くするのを「演じる」ことが子の利益なのだろうか。

互いに和解できない場合には、相手の価値観に「関与しない」ということも協力だろう。子どもの利益は父母が喧嘩をしないこと、とすることにぼくが否定的なのはその理由だ。

子のために互いに真剣になれば喧嘩にもなって、その場合にたしかに国も含めた第三者が関与することも正当化されうるだろう。それを前提としない解決策は、一方が他方に常に服する、ことになる。しかしこれは単独親権制度で親権者の言いなりになって「いつまでたったら他人になれるんだ」と愚痴をこぼす、子どもを人質にとられた親の姿そのままではないか。

 この規定は、国の家族支配と家父長制家制度の遺産を正当化するものであって、このままでは共同親権とは相いれない。(2024.7.31)