年をとっても変わらない

 国立の大貫さんから冊子が届いた。郵便の包装をとると「並木道」の懐かしい表紙が出てきた。大貫淑子さんは国立市でいっしょに「並木道」というミニコミを作っていた仲間だ。月間で150号まで出して休刊した。

半年くらい前、反原発運動について並木道に書いたのをまとめて本にするから、表紙書いた別の仲間に連絡とりたいと電話してきた。

 以前大貫さんが出した本が『マイ ファースト』という驚きのタイトルだったので、今度は『マイ ファースト2』かと思ったら、昔の「並木道」の表紙をそのまま使っていた。

お礼の電話が来て「もう本出すのこれで最後だと思う」というので、「そんなことないと思いますよ」と口から出る。

「それで大貫さん、何歳になったんですか」

「93よぉ」

「あと30年くらい死なないと思いますよ」とは言わない。

 どんないやなやつでも一つくらいは見習うところがある、と思ってはいる。だけど、年寄りだから敬わないといけない、とは思っていない。そのせいか、90を過ぎた友人が何人かいる。他人の善意に甘える人間には子どもでも露骨に不機嫌になる。そのわりには犬と子どもには懐かれることが多い。

 一昨年父親がガンの手術をして、昨年になって転移しているのがわかった。抗がん剤治療をするという深刻そうな電話を母がしてきた。80も半ばだし、進行もそんなに早いわけでもないだろうから、医者の言う通りにする必要もあるのかと思うけど、「しなきゃ死んでしまうからなあ」という母の言葉に「よう生きたと思うで」と電話口で答える。

 母によれば、7つ違いの姉が転職を機に11月に帰省して父といっしょに病院に出かけ、「どうなるかわかんないってことだから、くよくよしても仕方ないってことですよね」と聞いた。「しっかりした娘さんで」と医者は言いつつ、抗がん剤治療のレベルを下げたという。「薄情者」という批判を何となく感じるので、時間ができて帰省したところ、久しぶりに帰るんやないか」と母が言う。7月に帰ったばかりだというのに。

 実家の近くには宗像さんが数軒ある。言い伝えだと秀吉の時期に改易された豊後の守護・大友家の家臣だったようで、大友家のお姫様と伝わる墓もある。九州では2番目に大きい大野川を望む段丘の上にある。父が若いころに移住してきたときには、畑はあっても水の便も悪い場所に9戸の農家があった。

いろいろと気になる石塔があるので、2年前に帰ったときに、近所の宗像さんに「おいちゃんおるな」と謂われを聞きに行った。父より少し上で、うちの3人姉弟とそこの3人兄妹は性別が入れ違いでだいたい年が似通っていた。

 何年か前に、おいちゃんたち夫婦が近くの道を歩いているのを二階から眺めて驚いたことがある。おばちゃんの後に腰の曲がったおいちゃんが歩いていたのが、ずいぶん前に死んだその家のじいちゃんにそっくりだったのだ。

 話を聞きに行くのもはじめての気がしない。というのも、中学生のときの夏休みの自由研究で、宗像の家の歴史について調べにじいちゃんに話を聞きに来たことがあったからだ。そのときもおばちゃんが隣で聞いていた。

 うちには家系図がある。田心姫命から書き出すこの系図は、明治になって「流れた」と父は聞いている。おいちゃんに見せると「見るのははじめてじゃ」と言って、「戸次(へつぎ、大分市)の質屋に預けていたときに、洪水で流された」という。

あちこち訪ね歩いて再現されたこの系図には、先祖が移り住んだこの上津尾部落のことを「高津尾城」と記載してある。「お姫様がいたからじゃないか」とおいちゃんは言う。父の実家はここから少し下った丘の中腹の堀川という地区にある。前に川が流れこれを掘に見立てれば、ここは攻めるに難しい城に確かに見える。

 この話を聞いてすぐ後、おいちゃんは亡くなった。もっと聞いておけばと思ったけど、最後に聞いておいてよかったなとも思う。

 抗がん剤治療やらでしばらく元気がなかったという父は、「動けんごとなる」と毎日1時間ほど車を運転して、実家近くの神社や寺を見に行くのを日課にしていた。様子見舞いは、父の神社見学への同行だった。

 手術のときに帰省したときに「中古車と同じやからあちこち故障もするわ」というと、父は「中古車どころかポンコツよ」と言っていた。

今回は「最近なちょっとは食欲湧いちきた」という。一時、相当気が滅入って母を煩わせたようだ。

「人間そんなに簡単には死なんよ」

登山なんかやっていると、山で死ぬ友達も少なからずいたので、遺族の無念さに度々接する機会がある。かといって、「やめときゃよかったんだよ」とか言えるわけもない。

あっけなく死ぬやつがいると思えば、生き残りたいという思いの末に多くの人の今がある。そんなことを戦争で父を亡くして母とも別れた父に説明したところで、とも思う。

ちょうど紅葉の時期で、寺や神社の紅葉の名所を父はよく知っている。その土地の歴史を知るには神社を訪ねるしかない。数をこなして父なりに傾向を見て、土地や人の由来を考えるのが好きらしい。

「死んだら南アルプスに散骨しちくれぃ」

 と父は言うのだけど、ほかの家族は山なんか登らないので、ぼくしかできない。

 鉄道の用地買収であぶく銭が手に入って調子に乗ったのか、家系図を質屋に入れるくらいだから、何代か前には本家が凋落した時期があった。分家の父の家も困窮したらしい。農地改革前に土地をずいぶん手放している。

「それでよかったんよ。ほかんところはみな人が減っちょるに、ここだけ家は増えたんやから」

ぼくが言えば、父も笑っている。

だいたい帰省で話し相手になるのは母のほうだ。

「おかあさんな、ゆうちゃったんや」という枕言葉がことのほか多い。最近気づいたけど、どうも威張る人間に何か言わないでは気がすまないらしい。

「パチンコするけんな、帳簿を見せろとかいうてん見せん。どーくっちょる(ふざけてる)。みんなの見本にならにゃいけんにぃ」

隣近所の世間話をひとしきり聞いて帰るのだけど、今回もお寺が話題だった。その末に檀家を抜けたらしい。だから南アルプスに散骨しろとか言うのか。

帰宅してしばらくしたら母から電話がかかってきた。

「この間お父さんと病院行ったら、みんな娘さんが付き添いよ。お父さんな私が付いて行って幸せやなあと思うてな」

 ちょっとしんみりした調子だ。

「それ自分で言いよるんな。だいたい娘がついていった方が幸せんようにあるけんどな」

 一言言わないではいられない息子が、大鹿村に一人いる。

(20245.1.20「越路」43号、たらたらと読み切り183)