フリーランスのジャーナリストの牧野佐千子さんと、牧野さんの記事(「『娘が車のトランクに』日本で横行する実子誘拐」2019.10.10)を配信したプレジデント社に対し、東京地方裁判所(衣斐瑞穂裁判長、川口藍裁判官、東郷将也裁判官)は3月17日、名誉棄損とプライバシー侵害を理由に、合計110万円の損害賠償とオンライン記事の削除を命じた。
記事はフランス人のヴィンセント・フィショ氏が2018年、3歳の息子と11カ月の娘から日本人妻(当時、その後離婚)によって同意なく引き離された行為を「実子誘拐」として問題提起した。一審は、牧野さんの記事をプライバシー侵害とし(前回記事参照)、牧野さんがヴィンセント氏から提供された防犯カメラの動画を見て書いた、妻が車のトランクに子どもを入れて誘拐した、という部分について名誉棄損とした。
妻は子どもをフィショさんに会わせているのか?
フィショさんの妻が子どもを連れ出したのは、車のトランクに娘を入れた映像が撮影された8月20日の10日前の8月10日だった。一審はそれを取り上げ、「確実な資料ないし根拠に基づく確認をしたとは認められない」という。
「それで元妻はフィショさんに子ども会わせてるんですか?」とぼくは牧野さんに聞いた。会わせてないなら、それを「連れ去り」と呼ぼうがトランクに入れたのがいつだろうが、そもそも不名誉なことだとぼくは思う。名誉棄損を主張するようなことだろうか。
牧野さんの答えは「やっぱりね」だった。
牧野さんにしてみたら、父子を引き裂く行為が国際的には犯罪として違法化されているんだから、同様の行為は日本でも許されないと言いたかった。ところが司法は、日本では問題ではない行為なんだから、間違いがあれば記者の側が責任を負うべきだ、という。
不正確な点が一つでもあれば、問題提起自体が否定されるのだろうか。
しかしこの点についてはたしかに世論とそして司法決定も揺れている。フィショさんの妻側が訴えた3件の訴訟も、一件は妻側が負け(最高裁で確定)、もう1件はその逆だ。会わせないことについても、司法は約束や決定があれば債務不履行については認めることがある。でも会わせないこと自体を違法とすることはない。まして刑事事件として立件することはこの時点ではなかった(2025年4月7日にインド国籍の父親を逮捕した事例がある)。
一審は問題提起自体を否定した。
元妻側への裏付け取材は必要なのか?
それでは、牧野さんには110万円余を支払うほどの手落ちがあったのだろうか。
「10日後だろうが何だろうが、子どもをトランクに入れて連れ去りましたは事実なんだから、そこをそこまで問題にすることか」(牧野さん)
ぼくもライターなので、違法行為や悪事の告発については、現場を押さえることも含めて慎重を期す。後で間違いがあったりすると、告発自体の正当性が問われかねないからだ。記者は「取材不足」と言われることをことのほか嫌がる。
しかしだからといって、フィショさんの元妻側が主張したように、元妻側に事前に確認を取らないと取材不足になるとは思わない。
例えば、環境省が2012年に絶滅宣言をしたニホンカワウソについて、対馬でカワウソの撮影動画が公開された際、絶滅を主張するカワウソ研究者のコメントがないからといって、動画自体が否定されるだろうか。通説に挑戦する側に、通説による裏付けは不要だ。
また裁判官が問題視したように、取材のメモや録音を残すことが記者として決定的に重要なこととも思わない。牧野さんの取材にぼくは録音はとっていない。録音やメモをとるかどうかは、取材の性質や記者の手法にもよる。十分な裏付けと話の客観性が成り立てば記事として成立する。
牧野さんは記事公表後の10月17日に、妻側の当時の代理人の露木肇子弁護士に対し、反論を求めるファックスを送信している。反論が正当なものなら記事の修正もありうるし、実際ぼくもそうした場合がある。しかし反論はないままに、フィショさんの妻とその代理人は牧野さんたち3組を提訴し、記者会見でそれを公表した。牧野さんからすれば「抜き打ち」で、牧野さんも名誉棄損で対抗している。しかし一審はこの点考慮しなかった。
妻側は車の後部座席とつながっているからと、牧野さんが「トランク」と呼ぶこと自体否定的だ。だけど車の後部を開ければそこは普通トランクだ。娘が車に後部から入れられ、そのまま車がガレージから出ていった防犯カメラの映像を牧野さんは見て記事にした。
不適切に思える行為だからこそ、それを誘拐と絡めることをフィショさんの妻側は問題視した。適切な行為ならその後子どもと会わせなくなったことも含めて、そう言えばよい。
「訴えられてはじめて裁判所ってこんなに冷たいんだな、と思いました」(牧野さん)
女性侮辱罪があるのか?
2022年12月14日の日本外国特派員協会でのフィショさんの妻側の記者会見を見ていて驚いた記憶がある。
会見に出席した神原元弁護士が、記者の一人が足を組んでいたのを見とがめて「女性に失礼」という言葉で非難したのだ。「足を組むのが失礼」ではなく、「女性に足を組む」ことが失礼にあたる。逆に言えば相手が男性なら問題ない。これは親権をめぐっての、司法関係者の間でのジェンダー意識を象徴する出来事だとぼくは思った。
一審は、牧野さんが単独親権制度のもとで生じている親による子の連れ去りを問題提起するためであったとしても、子の「親(元妻)の氏名が推知される情報や連れ去り行為の具体的態様を記事に掲載する必要は認められ」ないから、プライバシーの保護に優先する法益がないという。そんなことがあるだろうか。
フィショさんも子の親なのに、これでは権利を侵害された側が実名で告発する行為自体が許されない。罰せられるのは父親の側で「なければならず」、母親の行為は不問とされ「なければならない」(連れ去られた母親はなおのこと無視される)。
母性神話であるがゆえに成り立つ理屈だとぼくは思うけど、司法関係者にはその自覚がないか、むしろそれを知った上で勝つために利用する。女の敵は誰だという気もする。
それを告発した牧野さんも女だ。
「牧野さんは裏切りもんってことなんでしょうね」
そう彼女に説明しながら、日本の男女平等の薄っぺらさをぼくは思った。