「差別的取り扱いは合理的」というアウト・ロー宣告

2019年から5年間国と争ってきた共同親権訴訟では、一審は非婚の親の「差別的取り扱いは合理的」と述べ、この文言は二審でも踏襲され、最高裁で不当判決が確定した。

最高裁判決に対して、抗議文替わりに「判決不受理」の決定文を最高裁に届けて、ぼくは市民運動としての共同親権訴訟にケリをつけた。その時、何人かから戸惑いを表明された。

何言おうが負けは負けだろう、権力には黙って従え、ということだと思う。でもぼくはこう言い返した。司法が不当な判決を出したときに、黙って従うのは主権在民か。

三多摩で市民運動をしていると、教育社の労働組合の争議団のメンバーと接する機会が度々あった。教育社は雑誌「ニュートン」を発行している会社で、そこで争議が起き、会社は争議つぶしに刑事弾圧含めあらゆる手段を用いた。争議の長さは42年間。最後は組合員が全員退職して争議が集結している(その後社長は刑事事件に問われて逮捕されている)。

組合の人たちは「司法に決定を委ねてはいけない」という。当時のぼくも「何言ってんだろう」「司法決定に逆らうなんてできんのか」と思った。情宣禁止の仮処分やなんやかや、憲法や労働法を無視した司法の決定は実際不当だった。組合は決定が出ても情宣はやめなかったけど、実際はダメージを抑えるためにギリギリの線で争議を続行していた。

そういう事例は三里塚から石木ダムまで、実はこの世にたくさんあり、自分が同じ目に遭うまでみんな他人事として見ていたに過ぎない。

非婚の親の「差別的取り扱いは合理的」と司法は敵意むき出しだった。結局ぼくたちの主張が正しかったのだ。子どもに会えないのは個人の問題という主張を司法も否定せざるをえなかった。やはり法制度の問題だった。でも司法は子どもに会えない程度でギャーギャー言うな、と言いたいのだ。

彼らが守ろうとしてきたのは家制度だ。自分の事例は家制度(戸籍)とは関係ないという人はいる。しかしあからさまかどうかの違いで、一方の家に子を囲い込めば家の外の家族関係は内縁化し、親権があってすら権利がなくなるというのは、家制度がなければ理屈や感情として正当化できない。

日本は違法行為が厳格に適用されて何でも法律で解決する国ではなく、仲間外れを作っていじめるやり方を踏襲してきた。家は仲間外れの正当化の道具だ。問題はこれが戸籍という形で国家体制の中に組み込まれていることだ。家系の存続に伝統や安心感を得る人はいる。だけどそれは家系図でやればよい。家系図を国が戸籍として管理して家の存続教を民に押し付け、従わなければ仲間外れにして殺す。

そうすると、非婚の親の「差別的取り扱いは合理的」というのは、「お前らは『家秩序という法』の枠外の人間だ」という宣告であるということがわかる。これは、国家によるアウト・ローの宣告そのものであり、日本語では「法喪失」や「法外放置」と訳される。市民権はく奪だ。子どもが相手の家に囲い込まれれば、無権利状態に陥る人の態様をよく表している。

アウト・ローの有名人としてはロビン・フッドがいる。ジョン王の圧政に従わなかったフッドはアウト・ロー宣告を受ける。アウト・ローはチンピラみたいなイメージが強いけど、実際にはまつろわぬ民は国にはチンピラに見えるというだけだ。国家による支配を受ける前の採集民社会などは、国によればチンピラで野蛮なアウト・ロー集団である。

子どもに会えない親たちも、今回アウト・ロー宣告を受けた。その中には、国会議員や大企業のエリート社員も、金持ち経営者やあるいは司法関係者もいるかもしれない。だけど、社会的な地位はあっても被差別民であることは変わらない。

国によれば、共同親権運動は本質的に反体制運動である。権力にすり寄って条件を勝ち取るか、まだ見ぬ未来のために仲間たちとともにシャーウッドの森から矢を射かけるか、あなたは選ぶことができる。辛亥革命を起こした孫文は「今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬となるか、或は東洋王道の干城となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります」と神戸で大アジア主義を掲げている。誰と手をつなぎ何に立ち向かうかもあなたは選ぶこともできる。