共同親権出でて忠孝滅ぶ(後) 

離婚は親の選択なのに、子どもに会わせないなんておかしい、という主張をするようになるとさまざまな反応と出くわした。一番多いのは、「でも養育費を払わない男もいる」。だから会いたければ金を払え? 似たバージョンで「家庭にお金を納めなかったような男にどうして会わせるの」。こういうコメントをブログにもらったとき「家庭にお金を納めない女は掃いて捨てるほどいますけどね」と書きこんだ。別居親のグループには女性もそこそこいる。彼女たちが「お母さんが会えないなんてつらいでしょう」と声をかけられることがある。日本語に翻訳すると、「お父さんが会えないなんてたいしたことない」。ぼくたちの運動に協力してくれている社民党の議員を呼んで話をしてもらったことがある。「うちの瑞穂(福島瑞穂)が、『父親たちが子育てしたがる』って言うんですよね」と嘆いていた。彼女は男性の子育ては望まないらしい。せいぜい世間一般の認識なんてこの程度だ。

女性が社会的に割を食っている、という主張からすれば、優位にいるはずの男性が男女平等を言うことは「バックラッシュ」ということになる。一時期ぼくもそれはそうかなと思ったりもした。でも、ぼくたちが子どもに会えない、ということに対する反発は、冒頭挙げたような内容ばかりだ。男女平等とは無縁の主張をまじめに考える意味はないと思うようになった。

フェミニズムの主張に「個人的なことは政治的なこと」というものがある。だけどそう主張して運動のリーダーとなった女性たち(男性もいる)が、ぼくたちが男性に対する権利侵害を告発しようとすると、「あの運動は危険」と言う。そんなのただのパワーポリティクスでしかない。実際問題、子どもに会えなくて苦しんでいる父親が目の前にいて、毎年のように自殺する人もいる。自分もそうだったので無視はできない。主義主張より自分の娘のほうが大事なので、ご都合主義のフェミニストの主張に共感する気はない。

一方で、ぼくたちが声を上げることを応援してくれたフェミニストもいる。「私は義父の介助の役割をせざるをえなくって」と、育児、介助者としての男性の役割をぼくたちが表明することを歓迎してくれた。婚外子差別の問題に長らく取り組んできたフェミニストは、法的な婚外子差別が解消されることから、共同親権と子育ての平等な分担についてぼくたちの主張に共感してくれた。民法上、未婚の子は母親が親権を持つ。父親の側の養育責任を現在の制度は問いにくいのだ。

子どもに会えないのはかわいそう、と心情に訴えかけるのは意味がないことはない。しかし温情にすがるだけで権利が回復できるとも思えない。DVの場合もある、ひどい父親もいる、という別の被害感情に訴えれば人を見る目が変わる。だから権利を保障する必要がない、ということになれば差別になる。週刊金曜日が「問題のある別居親」とアピールしてやったことは、その典型だ。

何よりも、会わせてください、と温情にすがる訴えは、別居親は同居親と対等でない関係性にあることを前提にしている。別居親の一人は離婚後親権者となった元夫に「対等だと思ってるの」と言われたという。経験の長い女性の活動家が共同親権に反発する背景には、「せっかく女が親権を取れるようになったのに」共同親権でまた別れた後も口を出されるのか、という思いがあるということを、直接ではなく人づてに言われることもある。そういう人にとっての離婚とは、男性が決定権を握っていて、平等を求める女性が家父長制の桎梏から解放されるための権利だ。

戦前、親権は家長としての男性にあった。それが男女平等の憲法ができて、婚姻中のみ共同親権になった。婚姻中は対等の関係が模索できる。それができなければ権利として離婚ができる。しかし家族秩序を破壊した側が親権を主張することはできない。したがって、戦後も長く、女性が親権を取ることは難しかった。子どもは家のものだったのだ。

ただし、親権取得に性別による限定はない。家父長制を基盤にした家制度と、先進的すぎた男女平等憲法の妥協の産物が単独親権制度だ。実際問題、「主婦」という言葉も、「主人」に対抗する中での女性の権利主張の中から生じた言葉だ。経済面で男性に依存し、家事育児で女性に依存することが、それぞれの分野での発言権の平等を保障することはありそうもないので、役割分担の中での責任の所在を言葉に込めることで平等性を見せかける。当時、性役割の中での対等性が男女平等であるということに疑問を持つことはなかなか難しかっただろう。

男女の親権取得率が逆転するのは1966年を境にする。高度成長とともに女性が経済力をつけ手当が得られれば、別れた相手に頼らなくても養育もできるので、親権が得られるようにもなる。アメリカでは共同親権のもと養育時間を男性と分け合うことは女性の社会進出にも好都合なので、フェミニストが共同親権を当初提唱したというのも聞いたことがある。

一方で、女性保護の側面からフェミニストが成立を目指し支援の担い手になったDV法は、各国とも法制度が整えられていった。ただし、海外では刑事事件として扱われるDVは、日本の場合民事対応なので、実際に暴力の有無と関係なく行政支援が動き、親子分離が横行する。父子関係を取り戻すための行政上の手続きは用意されていない。DV被害者支援の側は、「加害者」の危険を煽って分離を継続し、一方で自立のための支援を行おうとする。

しかし、もともと子連れで住所を隠し保護の対象となるのは専業主婦がもっぱらだ。というのは、男性や仕事を持つ女性はそれまでの社会生活の継続が困難になるので子連れでシェルターに入るのを躊躇する(男性にはシェルターがない)。結果、社会生活の経験のない女性は支援がなければ夫の元に帰ることになる。支援は離婚が前提だし、自立のためには夫から金をぶんどることが必要だ。そのために子どもを人質取引に使うのが、弁護士の常とう手段となる。つまり、DV法は親権と離婚を得るための手っ取り早い解決法だ。一時的な分離はできても、当人たちの関係性の困難は何も解決しない。単独親権で暴力やモラハラが防止できるなど想定できない。この援助の現状は、「主婦」概念に依存することによって女性の解放を目指すという、普通に考えれば無理筋の方法論によっていて、それで男女平等は実現しない。

しかし、女性の側からすれば、男性支配から逃れたということで正当化されるこの手段は、男性の側からすれば子どもを奪われる拉致だし、親権をはく奪して男性を弾圧するための差別となる。結局のところ、親権というのは奪い合うことしかできないし、家庭における権力闘争に女性が勝利する手段として拉致とDV法がある。養育時間を分け合うことは、この権力闘争に女性が勝てないことを意味する。ここでの親権は、子どもに対する支配権そのままで、子どもが自身の意見表明を手続き上保障されるのは、親と分離された後でしかない。これは家庭における忠孝秩序の現代的なバージョンだ。父系から母系に変わっただけの家制度の変更はない。

関係が困難になっているのに、共同での子育てはできるのか。答えは単独親権制度があるから関係は困難になるし、支援があれば共同での子育ては可能だ。女性支援はそのノウハウがないから、「DV男は変わらない」としか言えない。

しかし、共同親権、子育ての機会均等を前提にした支援のあり方は、家を前提にした忠孝秩序の基盤を損なう。戸籍とは臣民簿である。戦前の天皇制支配を支えた最少単位としての家では、関係としての家族と場としての家庭は一致し、上意下達の忠孝秩序がそれを支える。しかしそんなことは最初から無理な話だ。戦後は核家族をモデルにした家族幻想が振りまかれ、体裁、世間体が家族関係を規定し、今DVや引きこもりという形でそのひずみが顕在化している。

家族関係を家から解放し、複数の家庭の存在を前提にし、「選ばなくていい。パパの家、ママの家」なんて言ったら、戸籍はどうするという話になる。不平等条約の解消のために、民法典の編纂が目指されたとき、「民法出でて忠孝滅ぶ」と論争が起きた。今日本は外圧を受けて、国際離婚に関しては国際的な子の奪取の民事面に関するハーグ条約を批准し、国際的な人権保障の枠組みに入った。家族関係の再編に戸籍の形しか許さない国内の体制は続いている。それが続く以上、再編手段としての日本の国内拉致の解決を求める外圧は止まらない。木村草太が言っているのは、「共同親権出でて忠孝滅ぶ」にというそれに対するリアクションだ。

(宗像充、「越路」9号、2018年12月)

子どもに会えない親たちの運動10年

ぼくは2007年に元妻から出された人身保護請求によって子どもと引き離された。当時彼女とは事実婚(法的には未婚)だったため、民法上親権は女性の彼女にあり、それを根拠にぼくが子どもたちを拘束しているとされた。引き渡したときに子どもには「会わせる」との約束があったけれど守られず、その結果10年の間に5回裁判をすることになった。

この国では親の別れが親子の別れに直結する。子どもと離れて暮らす親が子どもに会いたいと言えば、「ワガママ」「権利ばかり主張して」と罵声を浴びせられてきた。それだけならともかく、「加害者」「DV男」「子どもに執着している」……ぼくたちが声を上げたときに投げかけられた言葉には果てしがない。

10年前の2008年に、当時住んでいた国立市の議会に離婚後の親子交流の法制化の陳情を出したことでぼくは運動を始めた。当時は「シングルマザー」という言葉はあっても、「別居親」という言葉はなかった。子どもと離れて暮らす親は、親というより「シングル」とみなされていたのだ。

しかし、離婚時に親権をどちらか一方の親に決めるという必要性はどの程度あるだろうか。実際には「子どもにとって離婚とは家が二つになること」という当たり前の事実に気づいた海外の国々は、欧米を中心に共同親権へと移行していった。この流れは世界的なもので、中国やお隣の韓国も法制度的には共同親権だ。子どもは両親から生まれる、という事実は、家の都合や親権をめぐる男女の主導権争いを凌駕していったのだろう。いったい何のため、誰のために単独親権制度を守るのだろうか。

運動が無視できない状況になってくると、今度は「問題のある別居親」(週刊金曜日)とぼくたちは呼ばれるようになった。この問題に限って言えば、別居親や、その多くを占める男性に対するヘイトをためらわないのは、むしろ、左派・リベラルである。親権なんか別居親に渡すと、被害者のDVやモラハラの被害が継続するというのだ。しかし、彼らが「被害者」であるのは、子どもを確保しているからである。

男女の親権取得率は女性が8割を占めるが、それは夫婦間に葛藤を生じたときに、相談に行って逃げる場所(多く「シェルター」などが用意される)を用意されているのは女性だけだからだ。そして裁判所は子どもを確保しているほうにまず間違いなく親権を認める。つまり親権目的の子の連れ去り=拉致が生じる。この点から見れば、別居親は被害者である。しかし別居親を批判する側は、これを被害とは認めない。

なぜだろうか。

それは男性が子育てに関わることの権利性を認めないからだ。そうなると、そんなやつらのために法整備を認めるなんてとんでもない、ということになる。「問題がある」のが別居親ではなく、別居親は「問題がなければならない」のだ。原因と結果が倒錯しているように感じるが、そう感じないとしたら、あなたが性別役の罠にどっぷりはまっているからだ。何のために単独親権制度を守るのかと言えば、それは家制度=戸籍である。

ぼくは事実婚という男女のパートナーシップのあり方をとってこうなっているので、親権が欲しいわけではない。しかし、ぼくたちが「親子が親子である」ためには、こういった現在の法制度とそれを支える社会の偏見を取り除くしかなかった。男が仕事しないで子育てできる、そうなれば、男女のパートナーシップのあり方はもっと多様になっていくだろう。

(宗像 充「月刊まなぶ」2019年1月号)

誰のための単独親権制度?

今年7月17日の記者会見で、当時の上川陽子法相は「親子法制の諸課題について、離婚後の単独親権制度の見直しも含めて広く検討したい」と表明している。すでにこれに先立ち、4月にはイタリアとフランスの大使が、EU加盟各国連名の書簡とともにこの問題の解決を求めて法相を訪問している。オウム真理教幹部への死刑が執行されて一週間が経ち、その野蛮さに、日本への国際的な批判が最高潮に達した時期だった。法相の発言は、同じくその野蛮さが国際的な批判の的となっている、子どもの連れ去り問題へのアドバルーンだったのだろう。

ぼくは2007年に人身保護請求によって子どもを元妻に引き渡し、その後子どもと引き離された経験を持つ。事実婚だったので親権がなく、その後子どもとの関係を維持するためだけに、10年の間に5回裁判をすることになった。会わせたくない親の感情はいろいろだろう。でも「だから会わせなくていい」となれば、それは引き離された側からは「責任転嫁」でしかない。そう市民運動の現場でことあるごとにこの問題を訴えてきたが、被害者保護を損なうものと冷ややかな視線も感じてきた。


この国では親の別れが親子の別れに直結する。「権利ばかり主張して」「DV男」「執着している」……ぼくたちが被害を訴えたときに投げかけられた言葉には果てしがない。10年前に運動をはじめたころには、「シングルマザー」という言葉はあっても、「別居親」という言葉はなかった。子どもと離れて暮らす親は、「シングル」でしかなかった。


運動が無視できない状況になってくると、今度は「問題のある別居親」(週刊金曜日)とぼくたちは呼ばれるようになった。この問題に限って言えば、別居親や、その多くを占める男性に対するヘイトをためらわないのは、むしろ、左派・リベラルである。親権なんか別居親に渡すと、被害者のDVやモラハラの被害が継続するというのだ。しかし、彼らが「被害者」であるのは、子どもを確保しているからだ。女性の別居親が被害を訴えたところで、公的支援は何もない。


男女の親権取得率は女性が8割を占める。それは夫婦間に葛藤を生じたときに、相談に行って逃げる場所(多く「シェルター」など)を用意されているのは女性だけだからだ。裁判所は子どもを引き離された側から親権を奪う。親権目的の子の連れ去り=拉致が生じる所以だ。この点から見れば別居親は被害者である。しかし別居親を批判する側は、これを被害とは認めない。男性が子育てに関わることへの権利性を認めないからだ。そうなると、それは過剰な権利主張で、そんなやつらのための法整備なんて必要ない、となる。別居親は「問題がなければならない」のだ。原因と結果が倒錯しているが、そう感じないとしたら、あなたが性別役割分業の罠にどっぷりはまっているからだ。


しかし、男社会を批判し、女性が割を食っている、という観点からすれば、男性の側がジェンダーバイアスによって割を食っている部分があるということには無頓着で、むしろ男性の側に反省を求めることが「進歩的」になる。たとえば、憲法学者の木村草太は、「別居親が、主観的に『自分との交流は子の利益になる』と思っていても、DV・虐待・ハラスメントなどの要因で客観的にはそう認定できないことがある。そうした場合には、面会交流は避けるべきだし、ましてや親権を与えるべきではない。面会交流の不全は、裁判所か、別居親の問題であり、親権制度とは関係がない。」(沖縄タイムス8月19日ネット配信)」と別居親へのヘイトを正当化する。


ぼくは、事実婚(つまり未婚)でこうなっている。木村は、非婚の父を倫理的でないと責めるのだろうか。「男が仕事しないで子育てできる世の中を」とぼくは主張するが、フェミニストの社会学者は、「共同親権が成立したら変わること―養育費はゼロになる?」とヤフーニュースに投稿する(千田有紀、7月18日)。男の子育てより、男が家庭に金を納めないのが問題なのかと思うと、家制度にどっぷりつかったその主張をもはや「進歩的」などとぼくは呼ばない。アメリカでは、イガリタリアン(平等主義者)がフェミニストと対抗するようになったとも聞く。その気持ちはよくわかる。


ちなみにぼくもDV家庭の援助にかかわっているし、ぼく自身も当事者だったので、実際の暴力の現場で親権の有無が役に立たないことくらいは知っている(一方親権をめぐっての争いが暴力に至る事件はよくある)。DVの被害者は専ら女性というのも事実ではない。2014年の内閣府の最新の調査では、既婚者のうち、DVの被害を受けたことがあると答えた性の割合は、女性が23・7%に対し、男性は16・6%。さらに配偶者からの被害経験を「この1年間」で見ると、男性が39・3%、女性が37%と男性の被害経験の方が女性を上回っている。


DV防止法で女性を逃がして離婚させることができても、そもそもそこに「客観的な認定」などないし、それは裁判所も指摘している(4月25日名古屋地裁判決)。日本のDVは民事対応なので、仕返しを恐れた当事者は告訴よりも連れ去りという手段を取る。実際には暴力の有無にかかわらず男性を家庭から排除し、「お母さんだから拉致OK」なんて、暴力そのものだ。多くの国々は、単独親権から共同親権へと移行していった。この流れは世界的なものだ。子どもは両親から生まれる、親どうしの関係は子どもから見て対等という事実は、家の都合や親権をめぐる男女の主導権争いを凌駕していったのだろう。


日本でも多くの父親母親が、過去単独親権制度の違憲、撤廃を求めてくり返し裁判を闘ってきた。憲法の観点からこの問題の解決を求める学者や法律家も出始めている。何より、婚外子差別の解消を求めてきたり、義父の介助という嫁の役割を断れなかったりした経験のある女性たちは、ぼくたちの運動を励ましと共感をもって迎えてくれた。性にとらわれない個人の解放を求めるならば、ぼくたちがすべきは、異性への敵意を煽るより、「結びつける言葉」をどう見つけだすかではないか。

 (「反改憲」運動通信No.6、2018.11.30、宗像 充)

自己責任の価値の暴落

 安田順平が拘束から解放されて日本に帰ってきた。安田氏とはフリーランスという以外に共通点はないし面識もない。そうはいっても、安田氏が取材先で拘束されて、戻ってくる度に「自己責任」という批判が起こることには、かなり違和感がある。

 その理由の一つに、安田氏は、何回か拘束されても殺されずに戻ってきている、ということがある。もちろん次は死ぬかもしれないし、拘束されずに戻ってきて、現地の様子を伝えるということも、ジャーナリストとしては本分かもしれない。だけど拘束されて殺されずに戻ってくる体験が何度もできる人は普通いない。それだけですごいことのように思えるし、実際殺される人がいたのだから、単に運が良かっただけでない、生き残るための技術があったとのではと思う。例えば離婚体験のない人が、離婚の実像を当事者にインタビューして伝えるのと、何回か離婚した経験のある人が離婚について語るのとでは、表現の巧拙の違いはあっても、説得力の違いがあると思う。それって単純にぼくは知りたいと思う。

 それに、安田氏は身近な人に心配をかけたのはあるにしても、何か誰かに迷惑をかけたのだろうか。国が行くなと行ったところに行ったのだから……と批判する人がいたとする。しかし、そう批判した本人に安田氏は何か迷惑をかけたか。税金を無駄に使われたから不満なのだろうか。国が自国民を守らなければ国がある意味もなさそうなので、適正な税の支出方法だとも思える。

そもそも現地の人はジャーナリストに利用価値があると思えば殺さない。自分たちの声を外部に伝えてくれるものであると期待できるとしたら、むしろ利用する。ジャーナリストとして利用価値がなければ人質にして金と引き換えにもしよう。

ジャーナリストでもなければ自分たちの声が外部に伝わらないという状況は、ジャーナリストにとっては飯のタネだけれど、その声は見捨てられた現地の人の不満なのだから、それを代弁しようとすれば、そういった状況を作った側に批判的になるのは当たり前だ。そうしてほしくない国の政府はそこには行くなと言うに決まっている。だから、そもそもジャーナリストが国を批判するのは当たり前で、批判しなかったらジャーナリストじゃない、ということになる。

ジャーナリストが何かということは別にしても、つまり政府が行くなという場所を設定するのは、その地域の実情が伝わることが、その国にとって都合が悪いからだ、ということが本音に思える。だから小泉政権のもと、アメリカのイラク侵略をいち早く支持した日本政府は、イラクの人質事件が起きたときには「自己責任だ」という本音を丸出しにしたし、今回も「現場で救助に当たっている職員の努力やプロ意識を損なうので自己責任だなんてやめてほしい」とたしなめたりしない。

ちなみに、現場の苦労を理由に遭難ヘリの有料化が議論されたりしたとき、救助に当たる人からの違和感を聞いたことがある。「お前らはどうせ金で動いてるんだろ」と言われているようなものだからだ。ヨーロッパの国立公園では、クライマーの遭難に対してどれだけ充実した救助体制を持っているかを誇りとしている地域もあると、国立公園の研究者に聞いたことがある。自分は行かないで部下や他人に金と権力で仕事をさせる人間が言う「自己責任」などまじめに議論する必要があるのだろうか。今「自己責任だ」とか言っている連中は、そもそも救助をしようという発想すらない。見殺しにしても関係ない(つまり迷惑じゃない)からだ。

最後に、政治的にこの問題を論じることは一面的だ。安田氏がジャーナリストの職務とか言っているのは、自分の仕事の意義を見出したい人間にとっては普通だ。しかしそもそもの動機は、誰も見たことがない場所に行って自分の目で見てみたい、という思いだろう。行って自分だけが知ったことがあれば、だれかに伝えたくなるのは人情だろう。それが結果的にジャーナリズムとして成り立っている。

それを批判する人間は、そもそも自分が知らない世界に対してあえて知ろうとしないか、自分ができないことを他人がやることについて、「おれが我慢してるのにあいつだけ」とねたみや嫉妬から言葉を発する。

自己責任という言葉でリスクの伴う登山に出かける人はいる。それはそもそもリスクを引き受ける側の人間が使ってきた言葉であって、そのつもりもない人間が、他人のミスを見つけて足を引っ張るための言葉ではなかったはずだ。この自己責任論に対して、ダルビッシュや野口健といった、どちらかというと一匹狼や異端児が批判的なのは、そういった他人の感情とずいぶんたたかった経験があるからだろうと思う。しかしぼくたちが、彼らが何か失敗したときに、「自己責任だ」と言うとしたら、ずいぶん下品だと感じないだろうか。

(府中萬歩記、2018年12月号)

共同親権出でて忠孝滅ぶ(前) 

子どもに会えない親たちの運動をはじめて10年になった。今年は法務大臣が7月に共同親権について「検討する」と発言したため、共同親権という言葉が報道されたので、それなりに関心を持った人もいただろう。もちろん反対論も出ている。反対論は通常「保守」として括られる陣営から出されるのではなく、護憲や革新、人権などの言葉となじみ深い人たちから出され、それが議論の混迷を招いている。そこでここでは、親権問題をめぐる論点の所在を探る試みをしてみたい。

昨年から共同親権反対の論陣を張るようになった憲法学者の木村草太は、沖縄タイムスへの連載エッセイで、以下のように主張する。

「別居親が、主観的に『自分との交流は子の利益になる』と思っていても、DV・虐待・ハラスメントなどの要因で客観的にはそう認定できないことがある。そうした場合には、面会交流は避けるべきだし、ましてや親権を与えるべきではない。面会交流の不全は、裁判所か、別居親の問題であり、親権制度とは関係がない。」(木村草太の憲法の新手(86)共同親権 親権の概念、正しく理解を 推進派の主張は不適切、8月19日ネット配信)」「この点、『裁判所は、別居親に監護の機会を与えてくれない』という批判の声もある。しかし、それは、裁判所の人員や運用に問題があって、裁判所が適切な判断をできていないか、あるいは、客観的に見て別居親の監護が『子の利益』にならないことによる。法律の定めるルールの内容に問題があるわけではない。」(同(87)続・共同親権 父母の関係悪いと弊害大きい、9月2日ネット配信)。

こういった主張は世間一般の先入観の所在をよく指摘してはいるけれど、デマだ。裁判所は子どもと引き離された側の親権を単独親権のもと奪うので、親権目的の子の連れ去りが横行する。子どもと引き離された親が裁判所に子どもに会いたいと申し出ても、取り決め率は54%。そのうち4割が約束を守られず会えなくなっている。彼が弁護士だったら100%勝てない。

親権争いでDV・虐待・ハラスメントなどの主張が同居親側から出るのは普通だ。しかしそもそも子連れで家を出るときにそれらの客観的な認定があるわけではない。男性の親権取得は裁判所を経由すれば1割だ。それは男性が子どもを連れて出たところで、女性のシェルターのような行き場所がないことによる。そもそも虐待の加害者の割合で一番高いのは実母で、DV被害も男性の5人に1人は受けている。「子の利益」にならないのは同居親も同居カップルの親にも当てはまり、裁判所の人員の問題ではない。

こういう発言は、昨年週刊金曜日でも「問題のある別居親のための法律はいらない」という記事で登場している。週刊金曜日には抗議後、公開質問状を提出し、投書して誌面で公開討論会を呼びかけた。しかし週刊金曜日は黙殺している。この結果、ぼくは取引先を一つ失った。現在不買運動をしている。

沖縄タイムスにも電話して担当者と話した。「木村さんは性別で区別をしていませんよね。男性へのヘイトではないんでは」という担当者に、「でも被害者は女性しか想定していませんよね」と言って、先ほどの暴力被害の実情を数値で指摘した。「それは知りませんでした。周りでも聞かず、どうしてそういう実情を知る機会がなかったのか」と逆に聞かれた。「それは男性は被害を言うのが『男らしくない』からでは」と答えた。沖縄タイムスには公開質問状を出した。

弁護士グループが出版も行なったり、女性のDV被害者支援団体が集会をもっているので、共同親権反対の運動は組織的になされていることは明白だ。人権問題として女性問題を取りあげることは、リベラルなオピニオン誌では普通なので、女性の運動が男性の危険性を主張すれば彼らが正義感をもってそれに答える。したがって、男性の多い別居親の主観は前提として否定するが、女性の多い同居親の主観で別居親子の権利侵害がなされることには無頓着だ。

DVは精神的なものが含まれる(モラハラ)。であれば男性の側の主観からの被害者意識もまた制度的な保証が与えられるべきだ。女性の側は主観で居所秘匿がなされる制度保証はある。しかし、男性の側がDVと言っても子どもに会えたり親権を得られたりしない。これは子どもと引き離された女性においても同様だ。

実は、「虚偽DVなんてない」「被害者が逃げてきているのがDVの証拠」という言説自体が、DV被害者支援の制度的な欠陥、つまり男性の側の権利侵害への無自覚を自ら語っているに過ぎない。しかしこれは世の中は家父長制社会、男性優位社会である、ということをもって正当化される。そして、社会的弱者である女性の側からの被害の訴えに耳を貸すのが優位にある男性の側の理解ある態度となる。たとえ男性の側の権利侵害があったとしてもそれは女性からの過剰防衛の結果として罪が問われない。そして木村や週刊金曜日が無自覚に別居親に反省を促す。

 なぜこんな不毛とも言える対立が生じるのだろうか。

今年、アメリカの男性の権利運動について紹介した映画「レッドピル」を上映した。この映画は性役割に基づく生きづらさは、女性のみならず男性にもある、という当たり前のことを主張すると、いかにその主張がフェミニストからの猛反発を受けるかをうまく描写している。またぼくが、この10年の間に体験したことそのままでもあったので、「あるある」と思って見ていた。

この映画をぼくたちに紹介した翻訳家の久米泰介さんは、「日本じゃフェミニスト対保守派、みたいな対立軸で考えられているけど、アメリカでは、イガリタリアン(平等主義者)対フェミニスト、という対立軸になってきている」と指摘していた。男性の側が被害を訴えることは男女平等のためには歓迎されるべきなのに、実際には女性が優位を占めていた部分での権益を侵害されると受け止められ、その不利益の指摘が封じられるということのようだ。結果男性差別は市民権を得られず、男性の被害の訴えは嘲笑の対象となる(ミサンドリーと呼ばれる)。

久米さんは、「男性も損しているのに、どうして家父長制、男性優位社会なんて言えるんでしょうか」とこの概念への違和感を表明していた。仮に家父長制という概念がなりたつにしても、少なくともそれは男性のみで支えているものではない。女性がポジティブアクションを求めるのは、政治家や経営者、マスコミなど権力を持っているところだ。東京医大の差別入試問題では、同じ成績でも性別で差があり、職業選択の自由を侵害されるのはもちろん不公正なのだけれど、その不公正を医師が激務だからと正当化する理由には男も怒っていい。「バカでもいいから男は過酷な仕事しろ」という本音が込められているからだ。

男女平等のためには、権力の集中をどう等配分していくのかというのが同時並行的になされる必要があるのだろう。共同親権運動は、子育ての領域におけるアファーマティブアクションを求める運動だ。そうすると、それへの反対意見は、権力を奪われる側からの反発であって、必ずしも男女平等の視点からのものではないということになる。(つづく)

(宗像 充、2018年10月7日、「越路」8号、たらたらと読み切り148)

共同親権リテラシー

上川法務大臣が共同親権の検討について言及してから、共同親権の是非について議論がポチポチではじめている。この中には、別居親への潜在的な敵意を煽ることで現状の同居親による実効支配と片親引き離しの慣行を維持するためになされるものがあるので、千田有紀武蔵大学教授の「共同親権が成立したら変わることー養育費はゼロになる?」をベースに若干の検討をしてみたい。


前提として拉致は問わない


 共同親権と日本の単独親権を比較する場合、どの主張でもまず触れないのが実子誘拐への対応の違いである。その上で「日本でもここ10年間ほど、とくに民法766条の改正以後、裁判所は原則面会交流を命じている」として、これを海外並にするのがいいのかどうかに疑問を呈するというパターン化した議論に持ち込むことになる。こういった主張は、子と引き離された側が根拠なく(多くDVの)加害者として正当化することで可能となるが、暴力の認定はどこでもされないのが実態だ。この論理を守るためには、証拠主義に基づく刑事的な手続きを拒否するしかないが(つまり民事的にDV法を用いた実効支配)、殺人事件の多くが家族関係で生じているところ、夫婦間の(夫から妻への)暴力だけがその手続きから除外することは、正当な理由がない。本来問われるべきは、このように手続きの不備が明らかな中、「原則引き離し」がなぜ正当化できるのかという問いである。もちろんこういった主張をする人間は男性の権利を不当に軽視することを、実際は「伝統」や「文化」をもとに正当化しているにすぎない。


経済的な分担を拒否する


 千田氏は「面会交流は、非同居親(多くの場合父親)の支払う養育費を抑制し、同居親(多くの場合母親)と子どもの貧困を作り出しました」という。正直、同居親への経済負担が続くので養育費減額への不満を述べるとしたら、こういった非難は、多くの人が潜在的に持つ、男性が子育ての主体となることへの不満や懐疑を意図的に掻き立てる主張でしかない。よく面会交流や共同養育の援助にかかわる人が男性が子育てを「やりたがる」という言い方をすることがある。

また、父親に会わせたくない母親からの不満で、「家庭には金を納めなかったくせに(そんな女性は履いて捨てるほどいるが)」というものがある。つまり、こういった主張は男性に子育てを「やらせたくない」し、「家庭生活で経済的な責任を男が負うのは男性(女性は責任者であるべきではないのに)」という、伝統に根差した批判である。ここでわざわざ千田氏が「同居親(多くの場合母親)」と明記しているのがいい証拠だ。同居親が父親なら、「そんなの負担して当然、甘えるな」という批判がすぐ出るからだ。つまり、こういった主張の前提は性別役割分業に根差した「甘え」であって、ジェンダー研究の社会学者の主張として見るとかなりしらける。


男性は経済的責任、子どもの権利は女の裁量


 そのような観点から、千田氏やアンチ平等主義の研究者たちは、別居親の権利主張についてとことん敵視する。しかしここでいう別居親はもちろん「男性」限定である。たとえば、「さまざまな親の立場から子どもへの責任を分かち合う(share)という考え方への転換です。それなのに日本で共同親「権(利)」を目指すといったような、このような時代に逆行した動きが、なぜいま出てくるのか、それが大きな驚きでもあります」と千田にインタビューされた小川(出典:オーストラリアの親子断絶防止法は失敗した―小川富之教授[福岡大法科大学院]に聞く)は日本以外のどこの国民でも通用しない発言をしているが、もちろん、共同親権から単独親権に戻した国などどこにもない。

その上、責任を分かち合うのならば、養育費や養育時間について「分かち合う」のがなぜ本質的に避けるべきなのか、説明が立たない。千田氏は「子どもを連れての転勤(リロケーション)、海外への移動などに相手の同意が必要となるなど、離婚した親は大きな拘束を互いに強いられるようになる。裁判所の関与の部分が高まり、気軽に協議離婚はできなくなるだろう」と述べるが、最後の部分は「気軽に拉致できなくなるだろう」の誤植だろう。つまり、拉致した親が、拉致被害者から子どものことで四の五の言われるようになれば、拉致し甲斐がなくなるのだ。

千田氏も小川氏も結局、言いたいことは、(女性である)同居親が決めることに子どもや別居親が差し出がましくあれこれ言うなというのを、海外の事例をつまみ食いして正当化しているにすぎない。もちろんこれは「子育ては女の専権事項」という伝統に根差した考えであり、平等を求める男女の権利主張のことを、彼らは「時代への逆行」と呼んでいる。男性が責任を求められるのは、金銭的な負担においてのみである。(宗像 充、「共同親権運動」No.41)

結婚と単独親権

最近、別姓訴訟やLGBTの運動が活性化しているからか、事実婚や婚姻外パートナーシップ関係の法的保障の議論が賑やかだ。入籍=法律婚が、相手との約束じゃなくて、実のところ国との約束だと気づくと、事実婚はいいようにも思える。でも子どもができると親権は片一方に限定されるので、関係が壊れた場合いったいどうするか。

ぼくは、事実婚での家庭生活の解消も経験しているので、その場合、「親権がない」ことが、いかに別居親や男性への差別を正当化する理屈に刷り替わるかを見てきた。事実婚の破たんと同時に相手に親権を主張された父親の相談も何件か受けたので、今の日本で事実婚(法律婚も)は男にはリスクが高すぎるとも思う。子どもの姓と親権を夫婦で分け合っても、別れる段になれば一方の親の片親排除という実力行使を防げない。

単独親権は戸籍の枠にはまらない家族関係を選別し、一方の親子関係を「内縁化」する。子どもに会えない親もつらいが、別居親が授業参観に行っても、「親権がないから」と教師たちに親が他人以下に扱われる差別を、子どもは日常的に味わっている。単独親権で守られているものは、ほんとは「戸籍と男女平等の先送り」だって気づいてる?

(反天皇制運動Alert27、2018.9.4、宗像 充 共同親権運動ネットワーク)

親子を引き離して儲ける離婚ビジネスの実態~その2 第三者機関の拡大戦略

最近の別居親からの相談の中で、第三者機関の利用を子どもを会せる条件にされているという相談がよくある。

第三者機関というのは、面会交流の親どうしの関係を調整したり、面会交流の付き添い業務を担ったりする団体だ。子どもの側を一方的に拉致しておいて離婚を切り出し、面会交流については第三者機関を介するという提案を母親(父親)側がするのが最近のパターンだ。これは弁護士が面会交流の付き添いなどを休日をつぶしてやるのは手間がかかるので、利用を進めるという事情も背景にある。

しかし、父親(母親)の側は子どもを拉致された上に虐待の加害者扱いされ、その上子どもに会うためにお金を積まないとならないという理不尽な状況に陥る。これはそもそも、共同親権という発想が家庭裁判所に欠け、同居親側の養育妨害行為に対して、養育権者を変更したり、強制執行などによって厳しく対処するなどの措置を自ら放棄していることが大きい。逆に言えば、家裁や弁護士が実子誘拐や引き離し行為の違法化に強く抵抗すれば、本人たちに自覚はなくても、引き離し利権を維持できることにもなる。

最近では、もともと第三者機関などのない地方の連れ去り事件で、第三者機関の利用を母親(父親)側が提示し、不可能な提案でもって引き離しを図るという相談もある。そうすると、地方にも第三者機関が必要だということになり、その期待を集めるのは、「公益社団」の体裁を取る家庭問題情報センター(FPIC)のような団体ということになる。

この団体が全国展開すれば、この団体が持つ、月に1回3時間1万5千円(しかも往々にして別居親が負担する)といったふざけた交流基準も全国標準にされるだろう。ちなみにFPICの人たちは、自分たちは「年寄り」なので、月に1回がやっととその基準について正当化する。「公益性」を掲げながら、「子どもの福祉」とは無関係のこの言い分は世間には通用しないが(通用すると思ってこういったプロ意識の欠落した発言を、公の席でしているところがこの団体の浮世離れの程度を示している)、経営的に見ても、スタッフの労働者性を認めないため、シフトの問題として対処すべきことを年齢の問題にすり替えているようにしか見えない。

第三者機関の中には、ジェンダーギャップから生じる双方のコミュニケーション不全のサポートができる団体も中にはあるが、伝統的な性役割に基づいて当事者に接している(あえて「支援」とは呼ばない)団体が少なくない。

そうなると、本来子育ての主体である母親の感情を過剰に重視して、親どうし対等な立場だと思って一方的な場所やプレゼントの額の制約について不当性を訴える父親に対し、「会わせてもらっているのになんだその態度は」という姿勢で接し、無自覚に挑発して援助を引きあげる口実にすることが少なくない。NPOの中で幹部どうしで「男ってバカよね」と言い合っているという団体の話も聞くことがあるが、こういう差別感情とつきあいながら成長する子どもは本当にかわいそうだ。

別居親当事者が支援者になったり、女性支援の文脈から面会交流支援に乗り出してきたりする団体についても似たり寄ったりの状況のようだ。「女性は被害者」という前提が払しょくできないまま、本来なら中立的な当事者支援など成り立たないだろう。

「中立的」が何かを言うのは難しいが、少なくとも、同居親/別居親で要求する項目が違っていたり(例えば別居親に対してのみ学校に行くことやプレゼントの額を制約すること)、そのときどきの同居親の要求をのめない別居親に対して、「合意」ができないと援助できないと、もともとの取り決めを無視するような援助の仕方をしたりする団体については、中立的とは呼べないだろう。

ぼくはFPICがこのような人権侵害行為をしていたのを、利用者として身をもって体験したが、他の団体についても同様の行為をしているところを知っている。(宗像 充 2018.8.7)

共同親権ニュースドットコム

目黒区虐待死事件の真相

目黒区で3月、5歳の女児が虐待によって亡くなったことが世間を騒がせ、児童相談所の介入強化や、里親・特別養子縁組制度が議論されているという。この「子殺し」事件は「両親」によるものとされているが、実際は母親とその再婚相手によるものだ。父親は別にいて、殺された結愛さんは「前のパパが良かった」と書き残している。つまり自分の父を「前のパパ」としか呼べなかったのだ。

子殺しに歯止めがかからないまでにこの「家族」が孤立したのは、戸籍制度に厳しく限定された家族関係の中でしか当事者たちが振る舞えなかったからだ。家への所属を明確にし(両属を許さず)、親子関係を断つために単独親権制度が機能し、母による代諾養子縁組で再婚相手は「父」となった。「個人の尊厳と両性の平等」はどこふく風、同姓の父母のもとにいることこそが「子どもの福祉」だったのだ。

娘を同じく再婚相手の養子に入れられ、「パパが二人いて困る」とぼやく娘にぼくは、「充はパパで、〇〇さんは新しいパパ」と説明した。(宗像 充  第14期「『反改憲』運動通信」No.2 、2018.7.30)

親子を引き離し、関係をこじれさせることで儲ける“離婚ビジネス”の実態

2018.07.21

「親から子どもを引き離したほうが弁護士はカネになります」  

そう断言するのは「男の離婚相談」を掲げる五領田有信弁護士。受け持った事件の中で特に理不尽に感じるのは、妻が浮気して出ていった場合の妻側弁護士の対応だという。この場合、妻のほうに原因があるので、夫が拒否すれば普通は離婚できない。

「しかし『子どもの養育をともに担えるなら』と、妻に愛想をつかした夫も離婚に同意しようとします。その場合、養育を等分に分け合うなら養育費は当然発生しません」(五領田弁護士)

弁護士は、離婚時の養育費算定が多いほど利益を得られる

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 政府は現在、日本以外では朝鮮(いわゆる「北朝鮮」)やイスラム諸国、アフリカ諸国に残存する単独親権制度を転換。離婚後も両親が養育にかかわる共同親権制度に向けて、民法改正の検討を始めた。共同親権の国では珍しくなく、単独親権の日本でも制度上は否定されているわけではない。しかし、子どもが手元にいる妻側の弁護士は「そんなことは聞いたことがない」と強く出る。  そうなると、夫の側は子どもとの絆が断たれることを恐れて親権を手放さず、離婚に同意しない。 「関係を壊した妻側が、婚姻費用を請求してくる。離婚しないならカネを払え……と。妻側の弁護士はまるで暴力団です」(同)  さらに五領田さんが疑問視するのは、法律サービスを身近なものにするために政府が設けた日本司法支援センター(「法テラス」)の成功報酬基準だ。

 離婚時に起こした養育費請求調停で、夫から毎月10万円の養育費を受け取る約束ができたとする。法テラスの算定基準では養育費の2年分が「受けた利益」として報酬算定される。たとえば月額養育費が10万円であれば、「10万円×24か月=240万円の10%+税」が報酬になる。

「子どものためのお金なのに、弁護士がやっていることはピンハネ。月々10万円をとれるクライアントを10人見つければ、月10万円が固定収入になる。顧問契約の2件分です。国が作った機関が、養育費から報酬を得られるようにするなんて、離婚を奨励しているようなものです」

弁護士が「事件を作っている」という批判も

 法テラスを利用すると、30分の相談が3回まで無料だ。一方、弁護士は1回の相談につき5000円を法テラスから受け取る。相談者が法テラスの弁護士に依頼すると事件の種類に応じて決まった額の着手金が弁護士に支払われ、依頼者は分割で法テラスに償還する。中でも扶養料や慰謝料の請求は成功報酬の対象になる。  母親が主婦のまま子連れで別居して、生活保護を受けていれば法テラスへの支払いも免除される。「クライアントは金銭負担を感じることなく、弁護士をつけて調停・裁判を起こせる」と解説するのは、親子関係回復のための面会交流事件を多く手がける古賀礼子弁護士だ。  

例えば生活保護を15万円受けている母子家庭で、婚姻費用を請求して月々10万円を受け取ることができたとする。「実際は回収した婚姻費用は収入に認定され、生活保護費からの国庫への返還になるので、母親が得る生活費は変わりません」(古賀弁護士)。  

しかし父親からの婚姻費用の支払い先は母親側の弁護士の口座が指定され、そこで1万円が差し引かれ。残りの9万円分が生活保護費から返還されることになる。 「父親からしてみれば婚姻費用を支払っているのに、子どもには会えず、妻も子どもも全然生活水準が上がらないということになります」(同)  

それなのに、なぜ婚姻費用を申し立てるのだろうか。 「夫の側は、妻の扶養分を減額するために早く離婚しようと考える場合があるからです。本来婚姻費用の分担は、婚姻した夫婦がお互い協力しあうことが前提の制度なのに、離婚を促すために使われているのが現状です」(同)  弁護士があえて「事件」を作り出し、売上を得る仕組みを「離婚ビジネス」と酷評するのは笹木孝一さん(仮名、50歳)。妻側の弁護士から、婚姻費用の支払い先を弁護士の口座に指定された。  

妻側の弁護士は家事事件について「国内トップレベル」を標榜する弁護士だった。笹木さんの場合、別居時に妻が5歳の息子名義の口座を持っていったので、婚姻費用はその口座に支払っていたのだ。  

笹木さん夫婦はもともと共働きで、生活に必要な諸経費は笹木さんが支払い、笹木さんの預金に余裕ができたら妻の口座に移動していた。摂食障害のある妻のために、食事も笹木さんが作っていたという。  

妻側に経済的な不満があるようには思えないが、「妻は精神的に不安定で離婚を口走り、子どもにも暴力を振るいました」という。困った笹木さんは円満調停を家庭裁判所に申し立てた。「有利な証拠を得るためか、妻はリビングに録音機を置きました」(笹木さん)。

子どもに会うために、毎回1万5000円を公益法人に払う

父と娘

 2016年のある日、保育園に子どもを送り届けた後、妻と子どもがそのまま行方不明になった。すぐに妻側の代理人を名乗る弁護士から「妻子や親族に連絡を取ろうとするとあなたが不利になる」と連絡が入った。  

その後家庭裁判所で調停になり、担当の女性裁判官は「裁判所が関与すべきものではない」と事件性を否定。隔週で6時間という父子交流を取り決めた。ところが高裁では月に1回3時間の交流に短縮され、どちらかが望めば父子交流に付き添いを付けることが可能になった。「つきそいを望むのは母親しかいない。監視ですよね」と笹木さんが嘆息する。  

母親側が指定してきたのは、面会交流の支援を手がける家庭問題情報センター(FPIC=エフピック)だ。「FPICのスタッフには『私たちのところを利用するようにという審判書になったわね』と笑われました」。FPICは月に1回3時間までしか面会交流の支援をしない。 「妻側はエフピック以外では会わせないと言ってきましたから、選択の余地はありません。にもかかわらず、当初1回1万5000円の利用料は、相手方弁護士の主張で全額を私が払わされました」(笹木さん)

「子どもに会うのにその都度カネを払わないと会えないなんて屈辱そのもの」と憤るのは先の五領田弁護士。「司法によって利用が指示されるなら、それは裁判所や行政の仕事。なぜ公益社団法人がそれを肩代わりしているんでしょうか」  FPICは家庭裁判所の調査官OBによる公益社団法人。2015年から3年間、養育費相談支援事業などに1億5400万円を国から得ている。「家庭裁判所職員の再雇用先確保のためのカモにされているとしか思えません」と笹木さんも指摘する。  

笹木さんとの交流場所はFPICが児童館を指定した。理由について笹木さんが聞くと、「子どもの安全のためという。これは私が危険だということですから、FPICに抗議したのです。そうすると『信頼関係がない』と援助を引きあげられました」。現在、笹木さんは息子さんに会えていない。離婚も裁判で決着した。 「営利目的で子どもを連れ去り、親同士の関係を壊して親子を引き離し、子どもの貧困を招く。そんな奴らが裁判所を闊歩しているなんて」  

共同親権は、離婚ビジネスが生み出す子どもの貧困を根絶できるだろうか。 <取材・文/宗像充>


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