6・22共同親権訴訟不当判決「家父長制を隠して守り続けよ」

不当判決

 6月22日に共同親権訴訟の判決が出て不当判決だった。東京地裁(古庄研裁判長、石原拓裁判官)は請求を全面棄却している。

 当日は記者席の申請に13席があり、広い法廷の傍聴席が満席になった。被告国から事前に判決要旨の請求が裁判所にあり、国側としてもこの判決で司法が何か言うのではないかと思ったのではないだろうか。というのも、法制審議会の審議を受けて4月18日には単独親権制度の見直し報道がなされていたのだ。ぼくたちとしても、「見直し」と国が言っているのに、現行制度を司法が擁護することは理屈的には難しいので、何か中身のあることを言ってくれるんじゃないかと期待した。提訴からすでに3年半の歳月をかけており、前裁判長は国側に立法目的等の説明を求めてもいた。今さらゼロ回答はないよな……。

ところが唖然。今回の判決は、これまでの親権関連の訴訟の中でももっとも後ろ向きで、かつ差別を積極認定した。通常請求棄却の場合は主文だけ読み上げていなくなるのが多いのが、裁判長は法廷で判決要旨を読み上げた。それが「仕事しない言い訳」を10分も聞かされているようで苦痛だった。

理屈はハチャメチャ

 判決内容についてはこれから弁護団とも検討して控訴審に向けて作戦を練っていくので詳細はここでは述べない。理屈としては単独親権制度による非婚(離婚・未婚)の親への「差別的取り扱い」は、非婚の親どうしの関係が類型化できない以上、子どもについての適時適切な決定ができなくなりうるので合理的。その「差別的取り扱い」を正当化するために、親の養育権が基本的人権であることを否定している。多分に国側の言い分をそのまま取り入れる部分が多く、かつ過去の親権裁判の判例を踏襲して原告側の請求を否定したり、言ってもいない理屈を付け加えたりしている。

 差別の積極肯定なんて理屈はこれまでの親権裁判でもなかったものだ。前例踏襲だけでは原告側の論理を否定しきれず、過剰に非婚の親の権利性を否定し、差別に合理的裏付けを与えなければ自らの理屈自体立てられなかったということなのだろう。そういう意味ではハチャメチャな理屈ではあったものの、「偉い人達って反省できないよね」「そういうことしか言えないんだぁ」と司法への一般大衆の幻滅を最大限に掻き立ててくれて画期的だった。

SNS上では、本判決を書いた古庄裁判長への批判と注目が最大限に集まっている。前例踏襲の司法決定を出した判事への注目が、ここまで集まることはなかったと思う。裁判官的には、前向きな判断は司法の自己否定になるので、渦中の栗を拾う勇気はなかったということだろう(そもそもめんどくさそうだ)。決定後の論争の開始と注目は、負けたとは言っても控訴審に向けて大きな足掛かりになった。逃げ回る司法に追撃を。

組織防衛と改革偽装

 ところで、古庄と石原の両裁判官は、単独親権制度の立法目的について、適時適切な判断をするためと考えられると推測でものを言っている。しかし、前日に公開になった法制審議会の議事録(2023.4.18)では、沖野委員が、「現行法ですけれども、共同生活を営まない父母が親権を共同して行使することは事実上不可能であると考えられたためということだといたしますと、それはその時点においても果たして正確な認識であったのかということが疑われると思います。」と両裁判官の認識自体を否定している。

 そもそも単独親権制度は戸主に全権的な決定権を付与していた戦前の家父長制の名残りにしか過ぎないので、それを「子どもの利益」を理由に正当化すること自体が本質的に無理である。実際古庄と石原の2人組は無視したものの、1947年の応急措置法は個人の尊重と両性の本質的平等という憲法的な価値を反映して、非婚の親への差別を否定して婚姻内外問わず共同親権としている。故に、1947年の段階ですでに「合理的」などという余地はなく、現行民法で残ったのは家父長制と妥協した以外の理由はあり得ないし、実際当時の議論を見ればそれは明らかである。2人組の認定は立法の効果では仮にあっても目的ではありえない。歴史の捏造である。

さらに沖野委員は続ける。

「けれども、現在においては一層妥当しないものになっていると考えられます。したがいまして、第819条を支える考え方というのが現在は維持できないのではないかということでございます。 そうしたときに、子の利益からどれほど望ましくても、また、当事者がそれをどれだけ望もうとも、法的には一方のみに親権者としての法的な地位を与え、それとともに権限や責任を負わせ、他方には親権者としての法的な地位は一切与えないしそれがもたらす権限も責任も持たせないという法制度というのが、果たして適切な法制度の設計であるのかということは、大いに疑問です。」

沖野委員は、法制度の成り立ちの歴史を踏まえた法学者としての常識的な意見を述べたに過ぎない。古庄と石原の2人組は見直しそのものを否定していない。であるとするなら、本判決は「改革偽装」の勧めである。見直し議論は政策論で人権問題ではないと言っているに他ならないのだから。本判決が明らかにしたことは、本当の敵は家父長制にあるということだ。

マスクの効用

 先日、お隣で一人暮らしをしていたおじいさんが救急車で運ばれて、しばらくして亡くなった。上蔵には5つの班がある。一番標高の高いぼくの暮らす斑は峯垣外班と言って、5軒が暮らしていた。班は冠婚葬祭のためのもので、このような場合に以前は必要とされていたんだろう。今は葬式も簡素化され、葬儀屋さんに頼めばやってくれるので、今回も出る幕はなかったみたいだ。

 ここ1、2年ほど、上蔵のお年寄りたちが救急車で運ばれたり、亡くなったりして、姿を見なくなるというのが続いている。お年寄りといっても、世代的には80代になったうちの両親と同世代だ。空き家も増えた。上蔵集落にはぼくが越してきたときには30軒以上いたのが、現在は30軒を割っている。大鹿村は2023年3月現在で、959人の人口となっている。この数年で200人ぐらいの人口減というのが実際だろう。

 新型コロナが2019年末から話題になりはじめ、翌年から取りざたされるようになった時点で、ぼくは感染については2年は続くし、そのうち、高齢者から亡くなっていくので空き家が増えるだろうなと予測し、そう言っていた。実際は感染が収束したわけでもなく、一方で感染で亡くなる方は少なくなり、亡くなった人は、心筋梗塞や脳梗塞などの人が多かったのだろう。空き家が増えているのは当たった。

大鹿村は一時長野県内でも陽性率が一番高くなった時期があり、ワクチンを一生懸命打った人もいただろう。ワクチンの副作用で亡くなった人も中にはいたと思う。遺伝子組み換え食品には血相を変えて反対していた人が、壮大な人体実験の遺伝子操作の伴うワクチンの普及には何も言わない。年よりに孫と会うなと言えば、楽しみもなくして運動不足と相まって免疫力は低下しただろう。

枯葉剤の取材とかしたことがあったので、日本で使用される薬剤が、アメリカの製品の廃棄物や中間生成物の出来損ない、であるということ学ばされた。現場を歩くと、処理を押し付けられた薬剤の消化に、日本の田んぼや国有林が選ばれてばらまかれている。おかげで日本の田んぼのダイオキシン含有量は今も高く、国有林内には今もそれが埋められたままだ。要するに日本は戦争や世界中の多国籍企業のゴミ捨て場なのだ。遺伝子組み換えの種子とセットでラウンドアップとかを売ってきた。

2020年には東京でオリンピックがあった。無理に開催したから感染が急拡大したと批判された。一方で、その時報道を注意していたら、感染が急拡大したのは東京ではなく、ワクチンの接種が積極的に取り組まれていた大阪である。オリンピックなんかやめればよかったと今も思うけど、隔離という感染の拡大防止のための措置は絶対的なものではなく、権利として対抗しえるものがあるなら、経済活動だろうが、人とのコミュニケーションだろうが、バランスをとるしかない。

今週東京から帰って熱を出した。この時期毎年花粉症で熱を出して数日寝込むというのが続いている。背に腹は代えられず数年前から薬を飲むようになった。息苦しいので寝るときにマスクをして寝ている。

ここ最近、国はマスク着用について個人の判断でするように言い出した。「じゃあ誰の判断でマスクしてたんだよ」と思う。2020年にはマスクが不足して、国がマスクを2つずつ郵送していた。その後マスクの着用率は上がってほぼ100%になった。しかしそれで感染の拡大が止まったなんてことはない。

もとより新型コロナはウイルスなので、マスク程度は通過する。科学者たちはマスクがどのように効果があるのかの実証データを出してきて、そのための論文が大流行りする。

小学生のころ見たテレビで、風邪の時期に研究者が出てきて「マスクでウイルスは防げないので無駄です」と話していたのが印象的だった。「しないよりもしたほうが効くからしましょう」というのがこの間だったけど、「効果が全体に及ぼす影響が読みがたければほかの方法を考えましょう」とは言わない。科学的の中身なんてこの程度の話だ。

バカバカしいので、花粉症の季節以外最初からマスクなんかほとんどしなかった。みんなが家から出てこない時期も、月に1度東京に行って、離婚されたりした。ただおかげで、世の風潮に従わない人に対して、世の中の人がどのようにふるまうかを観察することもできた。見たところ、マスクをしない人に対して批判することによって、自分はいじめられないから、という程度の話だというのがよくわかる。中学校の校則といっしょで、中身は理不尽なほうがよい。本当に恐がっている人は、マスクをしていないぼくが隣に座ると席を移ったりしていた。じゃあ家から出なければいいのに毎回思う。マスクをした隣の人が感染者なら意味がないからだ。注意するときも「マスクもってないんですか」とさも、「自分とあなたは同じ考えでしょ」と心配する風を装う。

うちの母親は、「テレビがそう言ってるんだから。あんたテレビ買いなさい」とぼくに電話で言ってきた。その話を、ワクチンを打たなかった友人にすると、「うちの母親も同じこと言ってたから、電話してワクチンはやめろって説得したよ」という。

友人の一人は乗車拒否までする飛行機でも「肺が悪いんです」とマスクをしなかったという。事情があればマスク着用の例外になってもよさそうなのに、「診断書を出せ」と言われたという。国が「自分の判断で」と言ったところで、「指示してくれなければ困る」という人がマスクをし続けている。

多分、こういう人たちが、戦争中は「非国民」とはだしのゲンの家族に石を投げたんだろうなと思う。たいして親しくもないのに、ぼくがマスクをしていないというと、電話してきてマスクの効用を話す人もいた。「非国民だからほっといてください」というようにしている。

感染症の拡大以前に忘れていたものは、人の死はそんなに社会生活にとって縁遠いものではなく、日常の延長にあるということだ。「いつお迎えが来てもいい」と言っていた年寄が、「コロナは怖い」と言って、国の政策に従わない若い人を批判するなんてことは、野生動物としてはいただけない。力のある者に従うかどうか、周囲が部外者をどう受け入れるかどうかで、他人を判断し、身内であっても容赦なく切り捨て常識人ぶる。もちろん、そんなやさしくない社会でも、そうじゃない人もいる。(越路33号、2023.4.17 たらたらと読み切り173)

入管と共同親権

 入管問題で梅村みずほ参議院議員が、支援者にも問題があったのではないかと国会で質問して問題になり、その後、彼女が所属する維新は、法務委員会からの更迭を決めた。この件では、ハッシュタグをつけて彼女を支持する書き込みをSNSでこの間多く見た。

 正直追っかけてきた問題ではないし、彼女の質問の意図もあまりわからなかったけど、支援者が問題だというなら、周囲がどうこう詮索することより直接本人が支援者に聞けばいい。この問題に何年も前から取り組んでいる友人のジャーナリストもそうSNSで指摘していた。展開は逆で質問は「ためにする」ものだったのが見て取れた。それで支持はできない。

 オーバーステイや在留資格が何等かの理由でなくなったりする人が入管に収容され、多くの人が帰国する。それでも帰国すれば身の危険があったり、家族がバラバラになったり、何等かの事情がある人が日本に止まり、先の見えないまま入管では非人道的な扱いを受ける。そういうのは彼のようなジャーナリストが明らかにしてきたので繰り返さない。仮に支援団体に何か問題があったにしても入管に責任はある。別居親団体にも問題は多々あるけど、だから家庭裁判所に責任がないわけではない。

 彼女が法務委員会で共同親権賛成の立場で質問を繰り返していたので、子どもと引き離された親たちが梅村議員を支持したがる理由はわかる。一方で彼女の発言が間違ってないというなら、自分たちが支えるから更迭した維新なんてやめちまえ、と言えばよさそうだけど、そういうのはまだ見てない。

 ところで、入管の問題は、ハーグ条約に加盟する前にそれこそ日本にいる主にアジア太平洋地域からの外国人に対する支援者から話を持ち掛けられたことがある。オーバーステイや在留資格が何等かの理由でなくなったりした場合に、担当部局が退去させることはあるけど、日本の場合は家族がいても引き離して退去させるのをいとわない。アジア地域からの労働者が日本に来て日本人と結婚して子どもができて日本にいられるようになっても、離婚したらいられなくなる。日本にいてもなかなか会えないけど、そうなると日本には来られなくなるので会う見込みはなくなる。また日本に生活の拠点ができてしまえば、母国といってももはや外国だ。そんな状況でも家族を引き離すのを厭わない。

 こういう情け容赦ないことをしているのは日本だけだし、ちょうどぼくたちがハーグ条約の加盟の時期に共同親権を主張していたのもあって、親子を引き離すのを厭わない日本の家族法に問題があるのではと訪ねてきたのだ。当時ぼくは東京で子どもに会えない親たちの相談を受けながら運動もしていた。10年以上前だ。非人道的な日本の家族法の影響を受ける人は大勢いるんだなと当時思ったものだ。

今日のように共同親権に関心を示す人はほとんどいない状況だった。そこに別居親団体以外で、似た問題関心を持つグループの存在はとても励みになった。彼らは積極的に法務省に申し入れ活動をしていたし、ほかの別居親団体と協力していたりしていた。ぼくも相談に来たアジア出身者をその団体に紹介したりもした。その後その団体の担当者がいなくなったので、交流もなくなった。

日本の国籍取得は血統主義なので、外国籍の親に子どもが生まれても在留資格はない。子どもだけ退去を言われることもあると、友人のジャーナリストに聞いた。そんな無茶なと思うけど、要は日本にいられるかどうかの判断基準がない。その要件を決めるのも入管ということになるので、日本から出されれば危険な状況になったり生活の見込みの立たない人にとっては不安で仕方がない状況になる。というような話は多く出回っているので詳しく書かない。戸籍があって共同親権がないというのが、日本特有の事情だけど、だから先の支援者も関心をもって訪ねてきたのだろう。

梅村議員が用いた「不法滞在者」という用語にしてもメディアでは不適切という指摘があった。「非正規滞在者」という表現もあったので、先の友人に聞くと、在留資格が付与されない、更新されないなどの受け身の状況の人にそれを用いるのべきではないという立場からは、入管のようにいっしょくたに「不法滞在者」とは呼べない。そういう事情の例えばAさんについて書くにしても、「入管から『不法滞在者』として扱われている」はセーフで「日本に長らく不法滞在をしている」はアウトになる。「仮釈放」と「仮放免」についてはぼくも誤って用いたことがある。ぼくも無関心で偏見で見ていたということになる。彼女に意図はあったにしても、状況は同じだったのではないかと思う。

この問題に関心を持って見てみると、彼らが置かれた状況は、子どもに会えない親たちとそっくりだなと思えてくる。在留資格は親権みたいなものだ。無権利状況で、司法に事情を訴えても基準もないまま子どもとの関係を維持できるかどうかは同居親の意向次第。権利がないだけで犯罪者のように見られるところまで同じだ。入管法の改正の論点もこの点にあるようだ。彼らを管理と差別の対象としか見なければ、自分たちもそうされても文句は言えない。(2023.5.22)

家庭裁判所解体

 5月13日に行った学習会では、明石書店の『共同親権と面会交流』を引き離され仲間の大山直美さんが解説してくれた。本を読めば離婚事件において家庭裁判所に対する不満は、父母双方に存在することがわかるようだ。そんな中で「家庭裁判所解体」の主張は危険視される向きがあるので、もうちょっと論理的に精緻化したほうがよいのではないかという講師からの提案だった。家庭裁判所には家事事件以外にも少年事件があるので、全否定するのもどうかというものだ。

 「家庭裁判所解体」というのはデモのコールだし、「家庭裁判所の家事部門廃止」とかノリがよくないよね、とか適当に答えたと思う。少年事件がそんなにまともに処理されているようにも思えないけど、解体した後に少年事件裁判所でも作ればいい気もする。こういう批判は、「言えば聞いてくれる」みたいなことを思っている人が言いやすい。要はそういうレベルかということだ。

実際問題、家庭裁判所で嫌な思いをした人は多いし、理屈はまったく通じない。理屈が通じないのがわかっていて、揚げ足をとって裁判所に都合のいい結論に持って行こうとする。どうしてそうなるのかといえば、結局家庭裁判所は戸籍事務の専門機関だということに尽きると思う。戸籍事務というのは、家制度枠内で人々をどう配属して問題が生じればその範囲で温情を施すというのが仕事になる。歯向かえば治安管理の対象にする。

彼らが見ているのは生身の人間の関係性ではなく、どこの家に所属した方がいいかということだけだ。もとよりそれがこの国の治安政策でもあり福祉政策でもあった。民生委員は無戸籍児に戸籍を与えたりしたし、血縁よりも戸籍の形に当てはめることが優先されるので、再婚養子縁組に司法手続きは必要ない。しかし別戸籍になった親権のない親が、家の意向に反して子どもに会いたいと望めば司法が弾圧する。

理屈が通じないのは、せっかく所属がはっきりしたのに、それを乱す振る舞いに見えるからだ。子どもを会わせるように言われることへの同居親の不満は、司法が意義を認めていないことに従わされることへの理不尽さだろう。「月に1回くらい会わせたっていいいじゃない」なんて説得は、「嫌なものよね。でも向こうがうるさいから裁判所のために我慢して」と言っているのと同じだ。

ところで、一体全体、戸籍事務の処理機関の家庭裁判所が、では民法の改革や戸籍の廃止抜きに、現代的な価値観をもった利用者のための実務を行えるだろうか。無理に決まっているが、無理なら無理なりに、実務に携わる職員が、裁判官も含めて改革の提案をするのがあってもいい。ぼくが会った家庭裁判所改革の旗振り役の中山直子は、戸籍実務の枠組みから一歩も出ない古臭い価値観で、ぼくの揚げ足をとることに血道を上げるだけの人だった。

法制審議会の家庭裁判所代表は「ちゃんとやっている」としか言わないで、利用者の不満の所在が何なのかを把握しようとする気すら感じられない。同居親・別居親の対立の問題ではない。家庭裁判所がよって立つ価値観が現代の価値観に合っているかどうかを問い返す人に、家庭裁判所関係者の中でこれまで出会ったことがないというだけだ。こういう現状の家庭裁判所に、解体以外の何か期待できるのだろうか。(2022.5.16)

議会政治と共同親権運動

 5月14日に『面会交流と共同親権』という、共同親権反対のための本の学習会をして、反対意見にどういう反論や対応をしていくのか、という議論を10数人でした。大山直美さんが本を読んで論点をまとめてくれた。

 この本は、これまで出てきた反対意見を整理・焼き直しているということのようだ。もちろん都合のいいデータや事例も盛り込まれている。タイトルだけ見たら、反対派の本とは思わないので、購入した人は共同親権へのマイナスの印象を持つという仕掛けだ。

この間、共同親権への反対意見は、政党で言えば共産党やれいわの所属の人が目立って発言している。護憲派とも言われる。一方で、共同親権に賛同して発言する議員は、維新や自民に多い。一般に改憲勢力と見られている。

通常であれば人権問題は護憲派が取り組み、改憲派が反対することが多いので、この問題においてはねじれて見える。子どもに会えない親の中にも、この賛成反対の構図から、政権政党の言うことを聞けば法改正につながると思って、左派なら何でも目の敵にしたがる人がいる。補助金の杜撰処理が民間人から指摘されて問題化したコラボの問題では、コラボ側の弁護士が共同親権反対で目立っている人とかぶっているので、いっしょになって暇空茜を応援している人がいる。そんなに単純な話なのだろうか。

大山さんは、反対意見の人たちが懸念しているのは、かねてより自民党の改憲運動でも意図されてきた憲法24条改憲で、国家が家族に介入することへの嫌悪感ではないかと指摘している。

現行憲法は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。 二 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」となっている。

自民党憲法草案は以下だ。

「一 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。 家族は、互いに助け合わなければならない。 二 婚姻は、両性の合意に基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」

自民党草案からは、「個人の尊厳と両性の本質的平等」という文言が抜けている。一方で1項はもっともらしく見えるものの、「家族」が何を指すのか曖昧だ。この「家族」が「戸籍」ということであれば、戦前の家父長制の復権ということに直結する。

「赤いネットワーク」と左派のことを言いたがる連中は、社会主義は家族を解体する危険思想だとレッテルを貼りたがる。じゃあ日米合同委員会で、大日本帝国憲法を廃止したアメリカと政治交渉したほうがいいんじゃないかと思うけど、そういうことは言わない。

ぼくは現行憲法を守る意思のない政権政党が改憲を推し進めたところで、論理的に考えて新しい憲法を守る見込みは0なので、そんな改憲なんて「俺様の言うことに歯向かうな」以外の意味はないと思う。一方で、「個人の尊厳と両性の本質的平等」という現行憲法の価値を掲げて憲法訴訟をはじめたぼくたちに対する、左派政党や知識人の冷淡どころか敵対行為を見ると、お前ら同じ穴のムジナじゃないか、と素直に思う。右翼が危険思想とか言いたがる理由もわからないでもない。少なくとも護憲派なんて掲げないでほしい。

ぼくは市民運動をしてきた経験から、右だろうが左だろうが政権政党の不正は敏感になりやすい。権力を握っているのでその影響は甚大だ。一方で、コラボのように社会的弱者の支援を掲げて活動をしている団体だからといっても、なんでもかんでも味方するわけでもない。議会政治優先の政治活動家はそうしたがるけど、共同親権に賛同してくれるからといって、その議員の活動に何でも賛成するわけでも擁護するわけでもない。

別に不偏不党とか正義感からそういうふうにしているわけじゃない。よく知りもしない問題に対して、やってる人間がかぶるからと敵対すれば、敵の敵を味方にするしかない。そうすることで自分が知りもしない人を敵に回すことにもなる。自分で判断するのを放棄しているだけだし、逆に言えば、「同じ陣営」と自分が名乗り出た側が問題や不祥事を起こせば、否応なく巻き込まれるからだ。

そんなことを考えていたら、早速共同親権賛成で歯切れのいい質問をしていた梅村みずほ議員の入管法問題での発言が話題になっていた。この件についてぼくは詳しくない。ただ、法務省が親子を平気で引き離して強制送還する問題があることは知っている。過去離婚に伴い強制退去になり家族と引き離される外国籍出身者の支援をするグループと、ささやかながら運動もしたことがある。

そのことを思い出して、ちょっと前にこの問題に取り組む友人のジャーナリストに電話して、「そんな野蛮なことをするのは日本だけ」と再度確かめた。彼は梅村議員の発言に対して、さっそく「病気になれば仮放免してもらえる」という例がないとSNSで述べていた。

日本人の未決囚が病気だから釈放してもらえるなんてことがないわけだから、入管がそんな人道的な扱いをするなどありそうにない。もとより離婚に伴い親権を失った親たちは、戸籍を異にする他人なのに、その枠を脅かす「アウトロー」として弾圧されてきた。「日本人」の証としての戸籍にすら入れない外国出身者の地位はなおさらだろう(友人によれば、欧米諸国とそれ以外の国の出身者では差別があるということだ)。(2023.5.15)

拝啓 立川憲法集会様

明日は憲法記念日です。4月29日付で、立川の憲法集会の主催者に、子どもに会えない親へのヘイトを繰り返す木村草太の起用について見解を求めましたが、5月2日になっても返事がなかったので公開します。以下。

立川憲法集会担当者様

お世話になります。大鹿村に住んでおります宗像です。
国立に住んでおりました。現在共同親権訴訟の原告です。子どもと引き離された父親です。

5月3日に、憲法集会で木村草太さんの講演を予定されておられるとお聞きし、メールしました。
私たちは2019年に単独親権民法の違憲性を問う憲法訴訟を起こしました。
木村さんはそれ以前から、共同親権に反対の立場をとり、それはそれで意見の違いでいいのですが、子どもに会えない親を、罵倒する発言を連日SNS、大手メディア等で繰り返しており、私たちの会や個人で、度々質問状を出したり、反論をしてきたところです。

昨日もこのような書き込みをツイッターにしていました。

https://twitter.com/SotaKimura/status/1651925458488000512
様々な情報を総合すると「離婚後原則共同親権」は ①元配偶者を誘拐罪で告発する人 ②親権者の同意なしに子の写真等を公表する人
③養育費を払ってこなかった人 ④家裁に子との面会を止められた人 にも親権を与える制度のことという理解でよいのだろうか。
それとも①~④型は「例外」なのだろうか。


意見の違いはあってしかるべきですが、特定の意見をもった人間を、問題のある人間と決めつけて連日発言し続ける行為は、法によって子どもと引き離された当事者として、怒りを感じるとともに許しがたい行為です。
このような行為が、戦争に反対する人、憲法を擁護する人、部落差別や障害者差別、人種差別等に反対する人に向けられたら、そういう人をよりによって、平和や人権の価値を擁護する憲法集会に呼ぶことはやらないと思いますが、いかがでしょうか。

この件についての木村さんの憲法上の問題点については、記事にまとめました。

復古主義者の木村草太を憲法集会でしゃべらせるのか?
https://munakatami.com/family/sotakenpou/

これらはほんの一部ですが、一連の木村さんの言動は、日本国憲法の平和主義や人権尊重の価値を冒涜するものです。
憲法集会主催者はこのような木村の発言を知って、彼を起用するのでしょうか。

正直、ぼくも立川の憲法集会ではいろいろ勉強させていただきましたし、こういうメールはお送りしたくありません。
ですが、木村さんのSNSでのヘイトスピーチは意図してやっているのが明らかで、看過できないと感じました。
私たちの憲法訴訟も6月22日には判決が出ます。
立川の市民運動にはいろいろ世話になったので、今回の人選は本当に残念で、私たち子どもに会えない親を傷つける行為だということをお伝えしたく、連絡しました。主催者の見解を聞きたいところです。


宗像 充(むなかたみつる)【共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会】

6・22判決 国はいったい何とたたかっているのか

「なぜそうまでして見ず知らずの親子を引き離したいんですか?」

 3月23日の最終弁論では、原告の柳原賢さんの母親のみきさんの意見陳述を古賀礼子弁護士が読み上げた。息子の離婚で子どもと会えなくなり、自身も孫と会えなくなったお母さんにとって、目の前で悩む息子の姿と抱えた問題は、当たり前だけど他人事とすますことはできなくなっていた。みきさんは原告を引き継いだ。

 子どもと引き離されたことによる心痛は筆舌に尽くしがたいものがある。しかし引き離されても「そういうものだ」とあまり悩まない父親も少なくない。「男は仕事をしてなんぼ」という考えは根強い。そういう意味では父親としての自意識も社会によって培われる。

親は子どもが一番最初に出会う社会だ。社会にA面があればB面もあることを、子どもは両親のバックグラウンドを知ることで学ぶ。子どもから親を奪うということは、社会のB面に触れる機会を奪うということでもある。わざわざ一体何のため?

 法制審議会の議論で、単独親権制度の現状維持を外すという方向性が4月18日に一斉に報道された。サミットを前に批判を避けるために政府が家族法改正のポーズを見せるのは以前もあった(G20大阪サミット前の家族法研究会設置表明)。このメッセージが外向けのガス抜きなのは明らかだ。

法制審の委員たちは、自民党の政治介入は許されないと血相を変えて反発していた。今回は与党議員が自慢するこの顛末に、法制審の委員もメディアも反応が薄い。自作自演だったわけだ。しかし一方で、その効果はけして小さくはない。

 子どもの通学先の非開示や家庭裁判所の不公正や人権侵害に対する反発が各段に減った。ぼくたちの訴訟提起以来、一貫して妨害を繰り返してきた憲法学者の木村草太は、相変わらず別居親へのヘイトを繰り返している。しかし「なぜそうまでして見ず知らずの親子を引き離したいんですか?」という問いかけは、以前よりも重い。

金さえあれば子どもは育つ?

 法制審議会のミッションは、「いかに別居親に権利を与えず養育費を徴収するか」である。そのために監護権という屁理屈をひねり出し、選択肢を増やしたのはいいけど、監護権選択の基準を示せずドツボにはまった。「パパお金、ママ家事育児」の性役割の強制が、男性を搾取し、女性のアンペイドワークを正当化する。

もとより、お金と子どもの世話は父母がする、それが可能なように周囲が支え、国が環境を整える。変更を目指すならここなのに、フェミニストが何人もいる審議委員は「男女平等」の言葉すら口にしない。

「金さえあれば子どもは育つ」なんて「餌を与えれば動物園のパンダは死にはしない」といったいどう違う?(実際「面会交流しなくても死にはしない」と吐き捨てた国会議員がいた)。こんな非道な理屈の箔付けはたしかに専門家でないとできそうにない。ただ未来の世代に誇れる議論とは程遠い。

出そろった国賠訴訟一審判決

 4月21日、東京地裁の鈴木わかな裁判長は、自然的親子権訴訟の原告側の請求をいずれも棄却した。これで、単独親権制度(父親個人のもの、最高裁で確定)、連れ去り、面会交流等の損害と立法不作為を訴えた各国賠の一審判断が出そろった。

各訴訟は不当判決ではあるものの、司法は親子関係への人格的利益を肯定している。4月21日の東京地裁判決も、引き離した側の行為の問題で制度の問題ではないと逃げて立法不作為を否定したものの、権利侵害自体は否定していない。

これら一連の国賠訴訟が得た成果はけして小さいものではない。しかし、ぼくたちの共同親権訴訟(養育権侵害訴訟)の立論も政治状況も違いがある。

 一つには、一審判断の出た一連の訴訟では、それぞれ平等権侵害を訴えているものの、それは親権の有無による差別に焦点を当てている。親権は職責であることを、鈴木わかな裁判長は言及しているが、職責であるのは親権によって実現される親の固有の権利(養育権)があるからである。そして親の権利の固有性は憲法そのほかで各国で明示され、婚姻内外問わず共同親権を適用するように法改正を進めてきた。単独親権制度では親の職責を果たせなくなる事態が必然的に生じるからである(この点は鈴木裁判長も認めている)。本件訴訟は、婚姻内外の不平等を問い、それら矛盾をダイレクトに問うものとして提示し、司法の逃げ道を絶った。

 一方、単独親権制度の立法目的を、子どもについて適時適切な決定ができるようにするものとして、一定の合理性を認めた過去の判断に対しては、それは親権調整規定が欠けていることによって生じる問題だ。これでは婚姻内に共同親権を採用した理由が説明できなくなるのだ。

司法が単独親権民法を拒む理由は?

何よりも、新憲法施行時に旧民法の適用を除外した応急措置的に定めた時限立法は、父母の共同親権について、婚姻内外の区別を設けていない。個人の尊重と両性の本質的平等を実現するためだ。婚姻外に単独親権を残した現行民法自体が不合理な要素を内包しており、その改正を75年にもわたって怠って親子の引き離しと単独育児を放置してきた国の責任は重い。

反対意見があるから立法不作為に当たらないという議論は、行政府の意向や立法府の議論に司法は従属するものだと述べているに等しく、司法の独立を自ら放棄したものとして許されない。単独親権制度の維持を法制審が示した直後の司法判断に、裁判官は1名しか署名せず、他の裁判官は「差支え」を理由にする。合議ですらない判断に理由も示さないのは違法である。

いったい国は何とたたかっているのか。このような状況で、憲法判断を避け立法不作為を追認するものならば、その理由は「司法の既得権保護」以外にあるだろうか。6月22日の判決、見逃せない。

2023.05.01 宗像 充

そうだったのか!共同親権
https://k-kokubai.jp/2023/05/02/%ef%bc%9622hanketu/

復古主義者の木村草太を憲法集会でしゃべらせるのか?

憲法学者の木村草太を立川の市民運動は憲法集会で呼ぶという。

やめとけ、と知り合いに言ったけど、やるようなので、彼がどういうことをツイッターで日々言っているかを紹介しておく。

なおぼくは、子どもと引き離された経験のある父親であり、現在、現行単独親権民法の違憲性と立法不作為を訴えて訴訟をしている。司法手続きは主なものでも5度ほどとっているが、現在子どもと会えていない。木村の言うほど司法は公平ではない。

木村の主張は母性神話を性中立的な装いをとりつつ刺激する形で、家制度を擁護するものだが、日本国憲法施行時、1947年には現行民法施行までの半年間、応急措置法により、婚姻内外問わず、共同親権を適用しており、共同親権で離婚した夫婦もいる。

この応急措置法はその第一条で「この法律は、日本国憲法の施行に伴い、民法について、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚する応急的措置を講ずることを目的とする。」と述べている。

天皇制と戦争を支えた明治民法の家制度が、GHQの指示により外見上、廃止させられたが、憲法の理念を徹底したのは応急措置法であり、現行民法ではなかったことが明白である。

家父長制を構成した親権制度は戦前は一律父親単独親権だった。戦後民法は、婚姻中のみ共同親権を適用し、法律婚の保護による家制度の温存を、個人の尊厳と男女同権に優先させた結果だという歴史的な事実がある。

憲法学者の木村が、この事実を知っていたなら悪質だし、知らなかったらただのバカだが、もちろん、ぼくが憲法訴訟を提起してからの彼の言動は、訴訟妨害にしかならなかった。

平和を語る集会テーマで、復古主義の学者を起用するのは人選ミスかコントにしか思えない。

なお、親権問題については、市民運動や左派政党は、議論から逃げまくって今日に至るが、そういうズルい態度はいずれしっぺ返しを受けるのは目に見えているので、前から指摘しているけど今回も指摘しておく。

以下木村のツイッター。

木村草太

@SotaKimura

·4月6日

離婚後に子どもに会いたいのなら、面会交流を公的に支援するシステムの導入を求めて活動した方がいいと思う。

「子連れ別居の一般的な違法化」も「非合意強制型の共同親権」も、おそらく実現しないし、仮に実現しても、子どもに会えるわけではないから。

木村草太

@SotaKimura

·4月12日

私も、主張内容を精査すればするほど、「支配権を離れたこと」への怒りが、共同親権を目指す人たちの原動力なのだと考えるに至った。

木村草太

@SotaKimura

·4月12日

「ある日帰ったら、子どもと共に配偶者がいなくなった。子どもに会えなくて辛い」という割には、面会交流の手続きを取らなかったり、面会交流支援団体を使いたがらなかったり。司法も含め、第三者の支援を断るところが、「子どもに会いたい」より「自分の思い通りにしたい」にしか見えないんだよね。

彼を憲法集会で呼ぶということ自体、もう憲法擁護の活動ではないということを最後に述べておく。

諏訪 ★ 共同親権実践セミナー2023

『共同親権』『子どもに会いたい親のためのハンドブック』の著者による、子どもに会いたい親、子育てにおける共同親権を考えてみたい人のための、経験を活かした実践子育てシリーズ。

【日時】2023年4月~7月の第3土曜日、各回14:00-15:20

【場所】諏訪湖ハイツ(長野県岡谷市)315会議室(子どもの遊具あり)

(長野県岡谷市長地権現町4丁目11番50号)

http://www.suwako-haitsu.jp/index.php/page-43/

*第4回目のみ、大鹿村「良山泊」(下伊那郡大鹿村大河原2208)で開催。問い合わせください。

【講師・司会】宗像 充(ライター。共同親権訴訟原告、『子どもに会いたい親のためのハンドブック』著者、「大鹿民法草案」起草者、15年にわたって親子引き離しの相談・支援をしてきた)

【参加費】1000円*予約不要

(下記のグループワークと2コマで1500円)

【各回内容】

<第1回>4月22日(土)「ゼクシィ見るより民法読め」

家族法の民法改正の議論が話題になり国の立法不作為を問う国賠訴訟も提起されています。でもなぜ法律が子育ての障害になるのでしょう?現行民法の問題点を「大鹿民法草案」をテキストに考えます。

<第2回>5月27日(土)「共同親権反対論」

共同親権の議論が深まらないのは、根強い反対運動の存在があります。彼らの考える司法システムや家族観について検討し、何が養育の障壁なのか考えます。

<第3回>6月24日(土)「知っておこう!家庭裁判所の人権侵害」

当たり前のように行われる人質取引、マジックミラー越しに監視される試行面会、子どもに「会いたくない」と言わせる調査官調査、そして時間を空費するだけの調停。家裁の暗黒を共有します。

<第4回>7月22日(土)「子育て家庭倍増計画・実践編」@大鹿村「良山泊」

「子どもにとって離婚とは家が二つになること」。なのに一つの家にしか帰宅できない子どもたち。家が2つになることで何が起きる?共同子育てに近づくためにできることは?

*終了後懇親会予定

<家族を修復するグループワーク> 

同日15:30-17:00【参加費】1000円 *予約不要 

親子引き離し・離婚・DV(家庭内暴力)・モラハラ・不登校 etc否定のない自由な語り合いで気づく、あんなこと・こんなこと、あなたにあった「いい関係」をいっしょにつくります。

*当日の個人相談(有料、1時間3000円)を希望の方は事前にお問い合わせください。

主催 おおしか家族相談 協力 共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会

TEL0265-39-2116メールmunakatami@k-kokubai.jp URL https://munakatami.com/category/family/

山形県大江町でのカワウソ体験談

 夕方に山形県の方から電話があった。伊藤康博さんは今から20年ほど前のカワウソらしき動物の目撃情報を寄せてくれた。昨日テレビ番組でカワウソが出るものあったらしく、それで以前の体験を思い出し、ネットを検索してぼくのサイトを見つけたという。

 伊藤さんは以下のように目撃談を思い起こしてくれた。

「20年前の7月か8月。夏だったと思います。夜中の10時くらいに、近所の人が飼っている猟犬が吠えたので外に出て様子を伺いました。そうすると近くの側溝から3匹の動物がこっちに向かって走ってきました」

 「動物好き」という伊藤さんはある程度動物の種類を見分けることもできると強調する。

「タヌキでもハクビシンでもない。思い当たるのはカワウソです。カワウソの形態は理解しているつもりです。尻尾を入れないで1mほど。色は黒褐色でした。けっこう早かった」

 ニホンカワウソの場合、尻尾を入れて1m前後の個体が多いので、尻尾を入れないで1mとなるとかなり大きめの部類になる。3頭とも大きさは同じくらいだったという。3頭は伊藤さんのいるところを通り過ぎて、反対側にある大き目の側溝の方角へと消えていった。その先側溝の先1.5㎞ほどのところに、最上川の支流の月布川がある。当日は「月が出ていて明るかった」のを覚えている。足跡が残っていた。

 形状をカワウソの特徴をほのめかしながら確認すると、「尻尾は長くて3~40㎝ほどあった。付け根は太かったです。頭を下げて猫背でした。ほんとに一瞬で時間にすれば10数秒の出来事です。顔は見ています。カワウソしかありません」という。

 伊藤さんの家の近くは田んぼや家や工場がある、よくある「田舎の村」という。丘や果樹園もある。

伊藤さんの話を聞いて、「カワウソの可能性はあると思いますが、絶対カワウソとはぼくも言えません。近くだったら現場検証に行くのですが、遠いので機会がありましたら訪問させてください」と伝えて、カワウソ調査の仕方について一応一通り説明した。

本人は「絶滅しているとは知っていたのでまさかこんなところにいるはずはない」と考え、お連れ合いに言っても「酔ってたんでしょ」と否定され、誰にも言えなかったという。「今日聞いてもらえて胸のつかえがとれました」とすっきりとした口調で言っていた。

環境省がニホンカワウソを絶滅種にしたのは2012年。当時の絶滅の判断は、生息が確認された四国のカワウソの情報がないことが理由としている(実際は今に至るまで情報がある)。山形県立博物館のサイトを見ると、山形県では「大正時代まで見られた」という記述があった。ぼくのほうに入って来た情報では山形県からのものはなく、東北では十和田湖での目撃情報がある。

「貴重な情報をありがとうございました」と言って受話器を置いた。(2023.3.27)