マスクの効用

 先日、お隣で一人暮らしをしていたおじいさんが救急車で運ばれて、しばらくして亡くなった。上蔵には5つの班がある。一番標高の高いぼくの暮らす斑は峯垣外班と言って、5軒が暮らしていた。班は冠婚葬祭のためのもので、このような場合に以前は必要とされていたんだろう。今は葬式も簡素化され、葬儀屋さんに頼めばやってくれるので、今回も出る幕はなかったみたいだ。

 ここ1、2年ほど、上蔵のお年寄りたちが救急車で運ばれたり、亡くなったりして、姿を見なくなるというのが続いている。お年寄りといっても、世代的には80代になったうちの両親と同世代だ。空き家も増えた。上蔵集落にはぼくが越してきたときには30軒以上いたのが、現在は30軒を割っている。大鹿村は2023年3月現在で、959人の人口となっている。この数年で200人ぐらいの人口減というのが実際だろう。

 新型コロナが2019年末から話題になりはじめ、翌年から取りざたされるようになった時点で、ぼくは感染については2年は続くし、そのうち、高齢者から亡くなっていくので空き家が増えるだろうなと予測し、そう言っていた。実際は感染が収束したわけでもなく、一方で感染で亡くなる方は少なくなり、亡くなった人は、心筋梗塞や脳梗塞などの人が多かったのだろう。空き家が増えているのは当たった。

大鹿村は一時長野県内でも陽性率が一番高くなった時期があり、ワクチンを一生懸命打った人もいただろう。ワクチンの副作用で亡くなった人も中にはいたと思う。遺伝子組み換え食品には血相を変えて反対していた人が、壮大な人体実験の遺伝子操作の伴うワクチンの普及には何も言わない。年よりに孫と会うなと言えば、楽しみもなくして運動不足と相まって免疫力は低下しただろう。

枯葉剤の取材とかしたことがあったので、日本で使用される薬剤が、アメリカの製品の廃棄物や中間生成物の出来損ない、であるということ学ばされた。現場を歩くと、処理を押し付けられた薬剤の消化に、日本の田んぼや国有林が選ばれてばらまかれている。おかげで日本の田んぼのダイオキシン含有量は今も高く、国有林内には今もそれが埋められたままだ。要するに日本は戦争や世界中の多国籍企業のゴミ捨て場なのだ。遺伝子組み換えの種子とセットでラウンドアップとかを売ってきた。

2020年には東京でオリンピックがあった。無理に開催したから感染が急拡大したと批判された。一方で、その時報道を注意していたら、感染が急拡大したのは東京ではなく、ワクチンの接種が積極的に取り組まれていた大阪である。オリンピックなんかやめればよかったと今も思うけど、隔離という感染の拡大防止のための措置は絶対的なものではなく、権利として対抗しえるものがあるなら、経済活動だろうが、人とのコミュニケーションだろうが、バランスをとるしかない。

今週東京から帰って熱を出した。この時期毎年花粉症で熱を出して数日寝込むというのが続いている。背に腹は代えられず数年前から薬を飲むようになった。息苦しいので寝るときにマスクをして寝ている。

ここ最近、国はマスク着用について個人の判断でするように言い出した。「じゃあ誰の判断でマスクしてたんだよ」と思う。2020年にはマスクが不足して、国がマスクを2つずつ郵送していた。その後マスクの着用率は上がってほぼ100%になった。しかしそれで感染の拡大が止まったなんてことはない。

もとより新型コロナはウイルスなので、マスク程度は通過する。科学者たちはマスクがどのように効果があるのかの実証データを出してきて、そのための論文が大流行りする。

小学生のころ見たテレビで、風邪の時期に研究者が出てきて「マスクでウイルスは防げないので無駄です」と話していたのが印象的だった。「しないよりもしたほうが効くからしましょう」というのがこの間だったけど、「効果が全体に及ぼす影響が読みがたければほかの方法を考えましょう」とは言わない。科学的の中身なんてこの程度の話だ。

バカバカしいので、花粉症の季節以外最初からマスクなんかほとんどしなかった。みんなが家から出てこない時期も、月に1度東京に行って、離婚されたりした。ただおかげで、世の風潮に従わない人に対して、世の中の人がどのようにふるまうかを観察することもできた。見たところ、マスクをしない人に対して批判することによって、自分はいじめられないから、という程度の話だというのがよくわかる。中学校の校則といっしょで、中身は理不尽なほうがよい。本当に恐がっている人は、マスクをしていないぼくが隣に座ると席を移ったりしていた。じゃあ家から出なければいいのに毎回思う。マスクをした隣の人が感染者なら意味がないからだ。注意するときも「マスクもってないんですか」とさも、「自分とあなたは同じ考えでしょ」と心配する風を装う。

うちの母親は、「テレビがそう言ってるんだから。あんたテレビ買いなさい」とぼくに電話で言ってきた。その話を、ワクチンを打たなかった友人にすると、「うちの母親も同じこと言ってたから、電話してワクチンはやめろって説得したよ」という。

友人の一人は乗車拒否までする飛行機でも「肺が悪いんです」とマスクをしなかったという。事情があればマスク着用の例外になってもよさそうなのに、「診断書を出せ」と言われたという。国が「自分の判断で」と言ったところで、「指示してくれなければ困る」という人がマスクをし続けている。

多分、こういう人たちが、戦争中は「非国民」とはだしのゲンの家族に石を投げたんだろうなと思う。たいして親しくもないのに、ぼくがマスクをしていないというと、電話してきてマスクの効用を話す人もいた。「非国民だからほっといてください」というようにしている。

感染症の拡大以前に忘れていたものは、人の死はそんなに社会生活にとって縁遠いものではなく、日常の延長にあるということだ。「いつお迎えが来てもいい」と言っていた年寄が、「コロナは怖い」と言って、国の政策に従わない若い人を批判するなんてことは、野生動物としてはいただけない。力のある者に従うかどうか、周囲が部外者をどう受け入れるかどうかで、他人を判断し、身内であっても容赦なく切り捨て常識人ぶる。もちろん、そんなやさしくない社会でも、そうじゃない人もいる。(越路33号、2023.4.17 たらたらと読み切り173)