ガサガサしてみる

 大学の資料室から問い合わせがあって、『南アルプスの未来にリニアはいらない』を取り寄せたいという。大学の先生から購入依頼があったようだ。自費出版で出版社が倒産したので直接問い合わせが来る。あと5冊くらいしか手元にない。最近は死亡事故も起きて注目され、リニア関連の新刊も何冊か出ている。

 ぼくが大鹿村を取材で訪問したのが2012年。今年で10年目になる。出版を目指して原稿を書いてお蔵入りもあった。派手な反対運動もなく小頓挫は表に出ない。リニアに関心がある人も少なかった。おまけにぼくも有名じゃない。

 現地ルポは、ほかには樫田秀樹さんの本くらいしかない。研究者が調べものをするときに、参考にするということなのかもしれない。

 あまり売れない代わりにマニアには受けるのか、ニホンオオカミの本は、理系の大学の国語の入試問題になったことはある。そういえば、最初に出した立川反戦ビラの本は、出版当時は本を読んだ方から100万円が救援会に寄付されたというのもあった(ぼくの懐は変わらなかった)。もう20年も前の本だけど昨年はアメリカの研究者から写真の使用について問い合わせがあった。この本も出版社が倒産している。

 うちの父親は小学校の先生をしていて、若いころは山村の小さな学校に赴任することが多く、そのうち2校は生徒数の減少で閉校している。疫病神とは言わないけど、本を出してもらった出版社もぼくは2社が倒産している。「子どもは親の言うことは聞かないけど、親のするようにする」という。

 親が学校の先生をしていてよかったなと思ったことの一つは、学校の先生も間違えるし知らないことも多いということに早く気付いたことだ。わからないことを父親に聞いて答えられなかったことがあった。「学校の先生なのに」と悪態をつくと「学校の先生だって知らんことはある」と父は答えていた。

 そんなわけで、娘と2か月に1度会っていたときに、学校の話題が出たときには、「先生だって間違うことあるよ」「学校で教えることなんて目安だよ、目安」と教えておいた。娘は「目安って何」といぶかし気に聞いてきた。

「だいたいのところってこと。学校で教えているから正しいってことじゃない」

 経験の中でそのうち意味がわかるかもしれない。すくすくと育った娘は、親に反抗して会いに来ず、裁判所が用意した茶番の子ども代理人に、父親への悪態をしっかりついていた。

リニアのことを書いたところで、出版までたどり着くのが遠そうなので、昨年末にカワウソと共同親権の本を二冊出版した。カワウソは高知でテレビ番組になったりして本も出ているようだ。高知市の図書館では5冊入れたカワウソ本が全部貸し出し中になっているという。一方、長野県内の本屋で売っているのを見たことがない。長野県は教育県と呼ばれているけど教育は間違っている。

地方紙にしても、行政情報の垂れ流しの翼賛報道か、東京の識者のインタビュー記事だけのページ構成と極端だ。たまにリニアのことでコメントを求められることもある。紙面を見るとどう見ても長野県には珍しい「活動家枠」扱いになっている。自分のことを活動家と呼ぶ人もいるけど、ぼくに言わせれば活動家というのは、動きが多くてガサガサしている人のことしかイメージできない。間違ってないかも。

あと最近、プロ市民とか呼ばれることもある。政治は市民がするものだ。ぼくに言わせれば、金もらって政治活動しているのは政治家なんだから、こういう呼称は民衆の政治活動を「特別なことと」思わせる呼称だろうなと思う。

そういえば、南アルプス本も、大鹿村の郷土文化館からJR東海の室長の指示で教育長が撤去させた。毎日一社ずつ新聞に電話して教育長に電話させたけど、あのときは新聞記者も「たいへんなことですよね」と言いつつ、記事にはしてくれなかった。リニア関連の市民団体に声明を出してほしいとお願いしてもどこも応じてくれなかった。

表現の自由を特別な人のものとする感覚が、自分たちの表現の幅を狭めていく。というか、言論弾圧なんて大げさ、小さな村の出来事でしょう、という態度の長野県の新聞記者や編集者もいて、その感覚はJR東海や村役場と変わらない。愚痴ったところで生活は豊かにならないので「大鹿村公認禁書」として箔をつけて宣伝しやっと完売。

最近はインターネットで個人が発信するのも簡単になった。ぼくもカワウソ本と共同親権本を売るために、ツイッターを始めた。大鹿村を「悪政のふるさと大鹿村」「日本でもっとも美しくない村役場」として絶賛売り出し中。大鹿村は人口が1000人を切った。人が出ていくのはいたくない村の環境だからだと役場の人は気づいていない。

同じ南信州で椋鳩十の出身地の喬木村は、「椋文学の里」で売り出している。ぼくもいっぱい本を出して大鹿村を「反権力文学の里」で売り出そう。宗良親王とかななおさかきとか、先人には事欠かない。大鹿に移住するとその日から悪政とたたかえる特典付き。

共同親権本のほうは、原稿料じゃなくて現物支給だったし、メディアでの宣伝も期待できないので、がんばって自分で売る。リニアには反対してくれる、共産党や社民党、週刊金曜日も絶賛共同親権にも反対してくれる。リニアのことでは勇ましい共産党の本村伸子事務所にこの件で連絡すると、面談を拒否される。彼らの中には昔は「北朝鮮が拉致するなんてありえない」と言っていた人もいただろう。

国際的には日本は実子誘拐の拉致国家だと批判の嵐になっている。子どもに顔を見せたいだけの親が外圧を期待して国際社会に訴えている姿は、外から見ると滑稽だろう。

カワウソの取材の中でキャッチした河童のことを聞くために延岡に行く。彼の地ではひょーひょーという声で山を登っていくことからひょうすぼと呼ばれる。それはホイッスルのような声を出すカワウソのことではないのですか、と聞くと、「あんた河童を知らんのな」といかにも世間知らずのように馬鹿にされるのだ。

お年寄り3人に集まってもらって話を聞く。「対馬でもおじいさんが河童と相撲を取ったという方に出会いました」と言うと、「それはあるだろう」という顔で見返されるのだった。案内してくれた地元の郵便局の橋本多都也さんは、夜釣りでドボンドボンと何十発と石を水に投げ込んだような音を聞いていて、そうするとカワウソとも説明しにくい。

橋本さんに聞くと「比叡山の千日回峰行の修行をテレビで見ましたが、山の中での暮らしは感性も研ぎ澄まされるので、私たちには見えないものも見えるということかもしれません」という。そうすると、そういった話を迷信や科学的じゃないと馬鹿にすることこそが、無知蒙昧な気がしてきた。自分で知った範囲のことでしか物事を考えずに、それを他人に押し付けることを科学の進歩と呼んで、夢のリニアは進むようだ。

帰りに実家の大分県犬飼町の書店「書林」に本を置かせてもらえないかと頼みに行く。

「いいよ。奥付に大分出身ち書いちょるな。ポップもいっしょに送っちょくれ」

 店長は姉の同級生で、都会の書店で修業して戻ってきた直後は書籍も多かった。今は、昔はなかったパソコン教室の面積が増え、白髪の増えたおばちゃんの化粧品売り場はこじんまりと続き、最近は本は雑誌がメインで遠慮がちだ。なのにオオカミ本もいっしょに置いてくれるという。

大鹿では効かないつぶしだなとは思いつつも、大分に帰ったら帰ったで、大鹿のような目に遭う未来が見えないでもない。大分では「ガサゴ」と呼ばれていた。ガサガサして落ち着かない子どもはそう呼ばれる。

 大鹿に帰ると水道管は止めていたのに、蛇口が1つと風呂の薪をくべる釜が凍結で壊れていた。隣の豊丘村も含め、死傷事故を起こしたJR東海は、豊丘村での工事を再開するという。やれやれと思って、「書林」に送る本を荷造りする。

(「越路」 たらたらと読み切り166 、2022.1.28)

写真は馬を引きに来るカッパ除けの猿の手を掲げた馬屋

12月10日『共同親権』発売開始!

親子の引き離しの現実を共有する語りの建白書。

共同親権は離婚を経験した親子だけの問題ではない。夫婦別姓や婚外子、同性婚、養子縁組や虐待、相続についても、あらゆる家族の問題で共同親権をどうするかがテーマになる。

それは家族をめぐる個々人の希望がもはや一つではなく、そしてにもかかわらず多くの人が家族に希望を求めていることの裏返しだ。共同親権とともに変わる、社会と家族のあり方の今後を考えてみたい。

「二ホンカワウソは生きている」レビュー

われらの宗像先生が書いた「二ホンカワウソは生きている」。本書は「二ホンオオカミは消えたか」に続く第二弾。感想文を書いてくれ、ということで本が送られてきた。

まずは著者紹介を確認。「大分県生まれ。ジャーナリスト。一橋大学卒業。大学時代は山岳部に所属。登山、環境、平和、家族問題などをテーマに…」とある。私は途端に不機嫌になった。「これウソじゃん。研究の意味がわからず大学院を中退したことや、最初のカミさんが家出したこととか書いてないじゃん!」。確かに記載されている情報は正しいのだが、宗像君の本質を示す重要な中身が抜け落ちている。この著者紹介では、宗像君がいかにも勉強ができて社会問題にも関心を示す素晴らしい人、みたいにしか表現されていない。ということで、半分ムカつきながら渋々読んだ。

しかし読み進めていくと、中身はそれなりに面白かった。またこれも事実ですな。

この本のキーワードは、「絶滅宣言」と「二ホンカワウソとは何だ」、そして「見ようとしないものは見えない」という三つ。

二ホンカワウソという存在についていろいろな「仮説」が飛び出してくるあたりは、推理小説にも似た論理展開のスリルを感じます。その存在の概念規定に迫るあたりは、哲学的-思想的深みを感じ取ることができる。そしてかつて東京の国立で平和運動に携わり、各種選挙を手伝ったりした「活動家」でもあった著者ならでは感性-国家・社会批判の感性をも感じる。まぁ、こうした感性でものを書くのが宗像君の特徴なんだろうし、だから私みたいなものが読んでも面白いんだろうな。

本書では環境省が出した二ホンカワウソに対する「絶滅宣言」に対する疑問が話の経糸として貫かれている。そこに緯糸としての目撃談や証言がからみながらカワウソという存在に迫っていく。

「国がいないと言えばいなくなるのか。『見かけない』ことは『いない』ことの証拠だろうか。少なくとも言えることは、その判定もまた人間が決めるものである以上、『絶滅』という現象も人間社会の出来事だということだ」(本書P16)。という言葉に、「絶滅宣言」の理不尽さとともに、その存在の有無さえ規定するかのような国家の―社会の在り方に対する怒りを感じるのは私だけであろうか?

また著者はカワウソの激減を論じるくだりで、「話が先走りすぎた」と言いながらこう主張している。

「一瞥してわかるのは、これらはすべて人間が原因を作っているということだ。カワウソは(略)人間が天敵でその活動が大きな減少要因だ。(略)カワウソ減少の理由について『富国強兵』という言葉を使っていた。北方への戦争のための防寒着に毛皮の需要が高まれば、カワウソは高級品として狩猟圧が高まるし、戦後は国内の自然を攻撃することで経済を活性化させることを繰り返していた。だから、もはや経済成長の見込みが立たない時期に、再発見と絶滅宣言が同時に出るのは、何を反省するかという点のやはり分岐点になる」(本書P99)。

そのほかにもベトナム戦争で使われた枯葉剤と薬剤散布の関係を詳説している。著者はこの薬剤散布がカワウソ激減の要因の中で唯一、「関連性をある程度推察できるのがこれだ」と言い切っている。

反戦運動の活動家が書きそうな文句だね。そこが好きだけど。

そして二ホンカワウソの存在が確認できない主要因に、そもそも探さない、というか調査しないという観点を強調している。そう、「見ようとしないものは見えない」のだ。ちなみに、新本格派と言われ現代推推理小説の巨匠でありメフィスト賞第一回受賞者である京極夏彦先生の傑作、「姑獲鳥の夏」もかかる観点がテーマです。そして、著者紹介も「見ようとしない人には見えない」のだよ。

まだまだ、色々書きたいけど紙幅の関係で、この辺で…。最後に、私が本書を読み終えて感じたのは、人間が勝手に殺し、勝手に「絶滅宣言」を出し、勝手に「二ホンカワウソとは?」と論争している間に、とうのカワウソは人里離れたところで悠々と泳いでいる光景。それは人間の浅知恵を超えた自然の力強さの表れなのかもしれない。(難波 広)

追伸。最後に出てくる大月の二人ってエクスペリエンスじゃん!(難波広)

*編集部注 家を出たのは宗像が先です。

「越路」25号、2021.11.11