誰のための単独親権制度?

今年7月17日の記者会見で、当時の上川陽子法相は「親子法制の諸課題について、離婚後の単独親権制度の見直しも含めて広く検討したい」と表明している。すでにこれに先立ち、4月にはイタリアとフランスの大使が、EU加盟各国連名の書簡とともにこの問題の解決を求めて法相を訪問している。オウム真理教幹部への死刑が執行されて一週間が経ち、その野蛮さに、日本への国際的な批判が最高潮に達した時期だった。法相の発言は、同じくその野蛮さが国際的な批判の的となっている、子どもの連れ去り問題へのアドバルーンだったのだろう。

ぼくは2007年に人身保護請求によって子どもを元妻に引き渡し、その後子どもと引き離された経験を持つ。事実婚だったので親権がなく、その後子どもとの関係を維持するためだけに、10年の間に5回裁判をすることになった。会わせたくない親の感情はいろいろだろう。でも「だから会わせなくていい」となれば、それは引き離された側からは「責任転嫁」でしかない。そう市民運動の現場でことあるごとにこの問題を訴えてきたが、被害者保護を損なうものと冷ややかな視線も感じてきた。


この国では親の別れが親子の別れに直結する。「権利ばかり主張して」「DV男」「執着している」……ぼくたちが被害を訴えたときに投げかけられた言葉には果てしがない。10年前に運動をはじめたころには、「シングルマザー」という言葉はあっても、「別居親」という言葉はなかった。子どもと離れて暮らす親は、「シングル」でしかなかった。


運動が無視できない状況になってくると、今度は「問題のある別居親」(週刊金曜日)とぼくたちは呼ばれるようになった。この問題に限って言えば、別居親や、その多くを占める男性に対するヘイトをためらわないのは、むしろ、左派・リベラルである。親権なんか別居親に渡すと、被害者のDVやモラハラの被害が継続するというのだ。しかし、彼らが「被害者」であるのは、子どもを確保しているからだ。女性の別居親が被害を訴えたところで、公的支援は何もない。


男女の親権取得率は女性が8割を占める。それは夫婦間に葛藤を生じたときに、相談に行って逃げる場所(多く「シェルター」など)を用意されているのは女性だけだからだ。裁判所は子どもを引き離された側から親権を奪う。親権目的の子の連れ去り=拉致が生じる所以だ。この点から見れば別居親は被害者である。しかし別居親を批判する側は、これを被害とは認めない。男性が子育てに関わることへの権利性を認めないからだ。そうなると、それは過剰な権利主張で、そんなやつらのための法整備なんて必要ない、となる。別居親は「問題がなければならない」のだ。原因と結果が倒錯しているが、そう感じないとしたら、あなたが性別役割分業の罠にどっぷりはまっているからだ。


しかし、男社会を批判し、女性が割を食っている、という観点からすれば、男性の側がジェンダーバイアスによって割を食っている部分があるということには無頓着で、むしろ男性の側に反省を求めることが「進歩的」になる。たとえば、憲法学者の木村草太は、「別居親が、主観的に『自分との交流は子の利益になる』と思っていても、DV・虐待・ハラスメントなどの要因で客観的にはそう認定できないことがある。そうした場合には、面会交流は避けるべきだし、ましてや親権を与えるべきではない。面会交流の不全は、裁判所か、別居親の問題であり、親権制度とは関係がない。」(沖縄タイムス8月19日ネット配信)」と別居親へのヘイトを正当化する。


ぼくは、事実婚(つまり未婚)でこうなっている。木村は、非婚の父を倫理的でないと責めるのだろうか。「男が仕事しないで子育てできる世の中を」とぼくは主張するが、フェミニストの社会学者は、「共同親権が成立したら変わること―養育費はゼロになる?」とヤフーニュースに投稿する(千田有紀、7月18日)。男の子育てより、男が家庭に金を納めないのが問題なのかと思うと、家制度にどっぷりつかったその主張をもはや「進歩的」などとぼくは呼ばない。アメリカでは、イガリタリアン(平等主義者)がフェミニストと対抗するようになったとも聞く。その気持ちはよくわかる。


ちなみにぼくもDV家庭の援助にかかわっているし、ぼく自身も当事者だったので、実際の暴力の現場で親権の有無が役に立たないことくらいは知っている(一方親権をめぐっての争いが暴力に至る事件はよくある)。DVの被害者は専ら女性というのも事実ではない。2014年の内閣府の最新の調査では、既婚者のうち、DVの被害を受けたことがあると答えた性の割合は、女性が23・7%に対し、男性は16・6%。さらに配偶者からの被害経験を「この1年間」で見ると、男性が39・3%、女性が37%と男性の被害経験の方が女性を上回っている。


DV防止法で女性を逃がして離婚させることができても、そもそもそこに「客観的な認定」などないし、それは裁判所も指摘している(4月25日名古屋地裁判決)。日本のDVは民事対応なので、仕返しを恐れた当事者は告訴よりも連れ去りという手段を取る。実際には暴力の有無にかかわらず男性を家庭から排除し、「お母さんだから拉致OK」なんて、暴力そのものだ。多くの国々は、単独親権から共同親権へと移行していった。この流れは世界的なものだ。子どもは両親から生まれる、親どうしの関係は子どもから見て対等という事実は、家の都合や親権をめぐる男女の主導権争いを凌駕していったのだろう。


日本でも多くの父親母親が、過去単独親権制度の違憲、撤廃を求めてくり返し裁判を闘ってきた。憲法の観点からこの問題の解決を求める学者や法律家も出始めている。何より、婚外子差別の解消を求めてきたり、義父の介助という嫁の役割を断れなかったりした経験のある女性たちは、ぼくたちの運動を励ましと共感をもって迎えてくれた。性にとらわれない個人の解放を求めるならば、ぼくたちがすべきは、異性への敵意を煽るより、「結びつける言葉」をどう見つけだすかではないか。

 (「反改憲」運動通信No.6、2018.11.30、宗像 充)

自己責任の価値の暴落

 安田順平が拘束から解放されて日本に帰ってきた。安田氏とはフリーランスという以外に共通点はないし面識もない。そうはいっても、安田氏が取材先で拘束されて、戻ってくる度に「自己責任」という批判が起こることには、かなり違和感がある。

 その理由の一つに、安田氏は、何回か拘束されても殺されずに戻ってきている、ということがある。もちろん次は死ぬかもしれないし、拘束されずに戻ってきて、現地の様子を伝えるということも、ジャーナリストとしては本分かもしれない。だけど拘束されて殺されずに戻ってくる体験が何度もできる人は普通いない。それだけですごいことのように思えるし、実際殺される人がいたのだから、単に運が良かっただけでない、生き残るための技術があったとのではと思う。例えば離婚体験のない人が、離婚の実像を当事者にインタビューして伝えるのと、何回か離婚した経験のある人が離婚について語るのとでは、表現の巧拙の違いはあっても、説得力の違いがあると思う。それって単純にぼくは知りたいと思う。

 それに、安田氏は身近な人に心配をかけたのはあるにしても、何か誰かに迷惑をかけたのだろうか。国が行くなと行ったところに行ったのだから……と批判する人がいたとする。しかし、そう批判した本人に安田氏は何か迷惑をかけたか。税金を無駄に使われたから不満なのだろうか。国が自国民を守らなければ国がある意味もなさそうなので、適正な税の支出方法だとも思える。

そもそも現地の人はジャーナリストに利用価値があると思えば殺さない。自分たちの声を外部に伝えてくれるものであると期待できるとしたら、むしろ利用する。ジャーナリストとして利用価値がなければ人質にして金と引き換えにもしよう。

ジャーナリストでもなければ自分たちの声が外部に伝わらないという状況は、ジャーナリストにとっては飯のタネだけれど、その声は見捨てられた現地の人の不満なのだから、それを代弁しようとすれば、そういった状況を作った側に批判的になるのは当たり前だ。そうしてほしくない国の政府はそこには行くなと言うに決まっている。だから、そもそもジャーナリストが国を批判するのは当たり前で、批判しなかったらジャーナリストじゃない、ということになる。

ジャーナリストが何かということは別にしても、つまり政府が行くなという場所を設定するのは、その地域の実情が伝わることが、その国にとって都合が悪いからだ、ということが本音に思える。だから小泉政権のもと、アメリカのイラク侵略をいち早く支持した日本政府は、イラクの人質事件が起きたときには「自己責任だ」という本音を丸出しにしたし、今回も「現場で救助に当たっている職員の努力やプロ意識を損なうので自己責任だなんてやめてほしい」とたしなめたりしない。

ちなみに、現場の苦労を理由に遭難ヘリの有料化が議論されたりしたとき、救助に当たる人からの違和感を聞いたことがある。「お前らはどうせ金で動いてるんだろ」と言われているようなものだからだ。ヨーロッパの国立公園では、クライマーの遭難に対してどれだけ充実した救助体制を持っているかを誇りとしている地域もあると、国立公園の研究者に聞いたことがある。自分は行かないで部下や他人に金と権力で仕事をさせる人間が言う「自己責任」などまじめに議論する必要があるのだろうか。今「自己責任だ」とか言っている連中は、そもそも救助をしようという発想すらない。見殺しにしても関係ない(つまり迷惑じゃない)からだ。

最後に、政治的にこの問題を論じることは一面的だ。安田氏がジャーナリストの職務とか言っているのは、自分の仕事の意義を見出したい人間にとっては普通だ。しかしそもそもの動機は、誰も見たことがない場所に行って自分の目で見てみたい、という思いだろう。行って自分だけが知ったことがあれば、だれかに伝えたくなるのは人情だろう。それが結果的にジャーナリズムとして成り立っている。

それを批判する人間は、そもそも自分が知らない世界に対してあえて知ろうとしないか、自分ができないことを他人がやることについて、「おれが我慢してるのにあいつだけ」とねたみや嫉妬から言葉を発する。

自己責任という言葉でリスクの伴う登山に出かける人はいる。それはそもそもリスクを引き受ける側の人間が使ってきた言葉であって、そのつもりもない人間が、他人のミスを見つけて足を引っ張るための言葉ではなかったはずだ。この自己責任論に対して、ダルビッシュや野口健といった、どちらかというと一匹狼や異端児が批判的なのは、そういった他人の感情とずいぶんたたかった経験があるからだろうと思う。しかしぼくたちが、彼らが何か失敗したときに、「自己責任だ」と言うとしたら、ずいぶん下品だと感じないだろうか。

(府中萬歩記、2018年12月号)

共同親権出でて忠孝滅ぶ(前) 

子どもに会えない親たちの運動をはじめて10年になった。今年は法務大臣が7月に共同親権について「検討する」と発言したため、共同親権という言葉が報道されたので、それなりに関心を持った人もいただろう。もちろん反対論も出ている。反対論は通常「保守」として括られる陣営から出されるのではなく、護憲や革新、人権などの言葉となじみ深い人たちから出され、それが議論の混迷を招いている。そこでここでは、親権問題をめぐる論点の所在を探る試みをしてみたい。

昨年から共同親権反対の論陣を張るようになった憲法学者の木村草太は、沖縄タイムスへの連載エッセイで、以下のように主張する。

「別居親が、主観的に『自分との交流は子の利益になる』と思っていても、DV・虐待・ハラスメントなどの要因で客観的にはそう認定できないことがある。そうした場合には、面会交流は避けるべきだし、ましてや親権を与えるべきではない。面会交流の不全は、裁判所か、別居親の問題であり、親権制度とは関係がない。」(木村草太の憲法の新手(86)共同親権 親権の概念、正しく理解を 推進派の主張は不適切、8月19日ネット配信)」「この点、『裁判所は、別居親に監護の機会を与えてくれない』という批判の声もある。しかし、それは、裁判所の人員や運用に問題があって、裁判所が適切な判断をできていないか、あるいは、客観的に見て別居親の監護が『子の利益』にならないことによる。法律の定めるルールの内容に問題があるわけではない。」(同(87)続・共同親権 父母の関係悪いと弊害大きい、9月2日ネット配信)。

こういった主張は世間一般の先入観の所在をよく指摘してはいるけれど、デマだ。裁判所は子どもと引き離された側の親権を単独親権のもと奪うので、親権目的の子の連れ去りが横行する。子どもと引き離された親が裁判所に子どもに会いたいと申し出ても、取り決め率は54%。そのうち4割が約束を守られず会えなくなっている。彼が弁護士だったら100%勝てない。

親権争いでDV・虐待・ハラスメントなどの主張が同居親側から出るのは普通だ。しかしそもそも子連れで家を出るときにそれらの客観的な認定があるわけではない。男性の親権取得は裁判所を経由すれば1割だ。それは男性が子どもを連れて出たところで、女性のシェルターのような行き場所がないことによる。そもそも虐待の加害者の割合で一番高いのは実母で、DV被害も男性の5人に1人は受けている。「子の利益」にならないのは同居親も同居カップルの親にも当てはまり、裁判所の人員の問題ではない。

こういう発言は、昨年週刊金曜日でも「問題のある別居親のための法律はいらない」という記事で登場している。週刊金曜日には抗議後、公開質問状を提出し、投書して誌面で公開討論会を呼びかけた。しかし週刊金曜日は黙殺している。この結果、ぼくは取引先を一つ失った。現在不買運動をしている。

沖縄タイムスにも電話して担当者と話した。「木村さんは性別で区別をしていませんよね。男性へのヘイトではないんでは」という担当者に、「でも被害者は女性しか想定していませんよね」と言って、先ほどの暴力被害の実情を数値で指摘した。「それは知りませんでした。周りでも聞かず、どうしてそういう実情を知る機会がなかったのか」と逆に聞かれた。「それは男性は被害を言うのが『男らしくない』からでは」と答えた。沖縄タイムスには公開質問状を出した。

弁護士グループが出版も行なったり、女性のDV被害者支援団体が集会をもっているので、共同親権反対の運動は組織的になされていることは明白だ。人権問題として女性問題を取りあげることは、リベラルなオピニオン誌では普通なので、女性の運動が男性の危険性を主張すれば彼らが正義感をもってそれに答える。したがって、男性の多い別居親の主観は前提として否定するが、女性の多い同居親の主観で別居親子の権利侵害がなされることには無頓着だ。

DVは精神的なものが含まれる(モラハラ)。であれば男性の側の主観からの被害者意識もまた制度的な保証が与えられるべきだ。女性の側は主観で居所秘匿がなされる制度保証はある。しかし、男性の側がDVと言っても子どもに会えたり親権を得られたりしない。これは子どもと引き離された女性においても同様だ。

実は、「虚偽DVなんてない」「被害者が逃げてきているのがDVの証拠」という言説自体が、DV被害者支援の制度的な欠陥、つまり男性の側の権利侵害への無自覚を自ら語っているに過ぎない。しかしこれは世の中は家父長制社会、男性優位社会である、ということをもって正当化される。そして、社会的弱者である女性の側からの被害の訴えに耳を貸すのが優位にある男性の側の理解ある態度となる。たとえ男性の側の権利侵害があったとしてもそれは女性からの過剰防衛の結果として罪が問われない。そして木村や週刊金曜日が無自覚に別居親に反省を促す。

 なぜこんな不毛とも言える対立が生じるのだろうか。

今年、アメリカの男性の権利運動について紹介した映画「レッドピル」を上映した。この映画は性役割に基づく生きづらさは、女性のみならず男性にもある、という当たり前のことを主張すると、いかにその主張がフェミニストからの猛反発を受けるかをうまく描写している。またぼくが、この10年の間に体験したことそのままでもあったので、「あるある」と思って見ていた。

この映画をぼくたちに紹介した翻訳家の久米泰介さんは、「日本じゃフェミニスト対保守派、みたいな対立軸で考えられているけど、アメリカでは、イガリタリアン(平等主義者)対フェミニスト、という対立軸になってきている」と指摘していた。男性の側が被害を訴えることは男女平等のためには歓迎されるべきなのに、実際には女性が優位を占めていた部分での権益を侵害されると受け止められ、その不利益の指摘が封じられるということのようだ。結果男性差別は市民権を得られず、男性の被害の訴えは嘲笑の対象となる(ミサンドリーと呼ばれる)。

久米さんは、「男性も損しているのに、どうして家父長制、男性優位社会なんて言えるんでしょうか」とこの概念への違和感を表明していた。仮に家父長制という概念がなりたつにしても、少なくともそれは男性のみで支えているものではない。女性がポジティブアクションを求めるのは、政治家や経営者、マスコミなど権力を持っているところだ。東京医大の差別入試問題では、同じ成績でも性別で差があり、職業選択の自由を侵害されるのはもちろん不公正なのだけれど、その不公正を医師が激務だからと正当化する理由には男も怒っていい。「バカでもいいから男は過酷な仕事しろ」という本音が込められているからだ。

男女平等のためには、権力の集中をどう等配分していくのかというのが同時並行的になされる必要があるのだろう。共同親権運動は、子育ての領域におけるアファーマティブアクションを求める運動だ。そうすると、それへの反対意見は、権力を奪われる側からの反発であって、必ずしも男女平等の視点からのものではないということになる。(つづく)

(宗像 充、2018年10月7日、「越路」8号、たらたらと読み切り148)

共同親権リテラシー

上川法務大臣が共同親権の検討について言及してから、共同親権の是非について議論がポチポチではじめている。この中には、別居親への潜在的な敵意を煽ることで現状の同居親による実効支配と片親引き離しの慣行を維持するためになされるものがあるので、千田有紀武蔵大学教授の「共同親権が成立したら変わることー養育費はゼロになる?」をベースに若干の検討をしてみたい。


前提として拉致は問わない


 共同親権と日本の単独親権を比較する場合、どの主張でもまず触れないのが実子誘拐への対応の違いである。その上で「日本でもここ10年間ほど、とくに民法766条の改正以後、裁判所は原則面会交流を命じている」として、これを海外並にするのがいいのかどうかに疑問を呈するというパターン化した議論に持ち込むことになる。こういった主張は、子と引き離された側が根拠なく(多くDVの)加害者として正当化することで可能となるが、暴力の認定はどこでもされないのが実態だ。この論理を守るためには、証拠主義に基づく刑事的な手続きを拒否するしかないが(つまり民事的にDV法を用いた実効支配)、殺人事件の多くが家族関係で生じているところ、夫婦間の(夫から妻への)暴力だけがその手続きから除外することは、正当な理由がない。本来問われるべきは、このように手続きの不備が明らかな中、「原則引き離し」がなぜ正当化できるのかという問いである。もちろんこういった主張をする人間は男性の権利を不当に軽視することを、実際は「伝統」や「文化」をもとに正当化しているにすぎない。


経済的な分担を拒否する


 千田氏は「面会交流は、非同居親(多くの場合父親)の支払う養育費を抑制し、同居親(多くの場合母親)と子どもの貧困を作り出しました」という。正直、同居親への経済負担が続くので養育費減額への不満を述べるとしたら、こういった非難は、多くの人が潜在的に持つ、男性が子育ての主体となることへの不満や懐疑を意図的に掻き立てる主張でしかない。よく面会交流や共同養育の援助にかかわる人が男性が子育てを「やりたがる」という言い方をすることがある。

また、父親に会わせたくない母親からの不満で、「家庭には金を納めなかったくせに(そんな女性は履いて捨てるほどいるが)」というものがある。つまり、こういった主張は男性に子育てを「やらせたくない」し、「家庭生活で経済的な責任を男が負うのは男性(女性は責任者であるべきではないのに)」という、伝統に根差した批判である。ここでわざわざ千田氏が「同居親(多くの場合母親)」と明記しているのがいい証拠だ。同居親が父親なら、「そんなの負担して当然、甘えるな」という批判がすぐ出るからだ。つまり、こういった主張の前提は性別役割分業に根差した「甘え」であって、ジェンダー研究の社会学者の主張として見るとかなりしらける。


男性は経済的責任、子どもの権利は女の裁量


 そのような観点から、千田氏やアンチ平等主義の研究者たちは、別居親の権利主張についてとことん敵視する。しかしここでいう別居親はもちろん「男性」限定である。たとえば、「さまざまな親の立場から子どもへの責任を分かち合う(share)という考え方への転換です。それなのに日本で共同親「権(利)」を目指すといったような、このような時代に逆行した動きが、なぜいま出てくるのか、それが大きな驚きでもあります」と千田にインタビューされた小川(出典:オーストラリアの親子断絶防止法は失敗した―小川富之教授[福岡大法科大学院]に聞く)は日本以外のどこの国民でも通用しない発言をしているが、もちろん、共同親権から単独親権に戻した国などどこにもない。

その上、責任を分かち合うのならば、養育費や養育時間について「分かち合う」のがなぜ本質的に避けるべきなのか、説明が立たない。千田氏は「子どもを連れての転勤(リロケーション)、海外への移動などに相手の同意が必要となるなど、離婚した親は大きな拘束を互いに強いられるようになる。裁判所の関与の部分が高まり、気軽に協議離婚はできなくなるだろう」と述べるが、最後の部分は「気軽に拉致できなくなるだろう」の誤植だろう。つまり、拉致した親が、拉致被害者から子どものことで四の五の言われるようになれば、拉致し甲斐がなくなるのだ。

千田氏も小川氏も結局、言いたいことは、(女性である)同居親が決めることに子どもや別居親が差し出がましくあれこれ言うなというのを、海外の事例をつまみ食いして正当化しているにすぎない。もちろんこれは「子育ては女の専権事項」という伝統に根差した考えであり、平等を求める男女の権利主張のことを、彼らは「時代への逆行」と呼んでいる。男性が責任を求められるのは、金銭的な負担においてのみである。(宗像 充、「共同親権運動」No.41)

結婚と単独親権

最近、別姓訴訟やLGBTの運動が活性化しているからか、事実婚や婚姻外パートナーシップ関係の法的保障の議論が賑やかだ。入籍=法律婚が、相手との約束じゃなくて、実のところ国との約束だと気づくと、事実婚はいいようにも思える。でも子どもができると親権は片一方に限定されるので、関係が壊れた場合いったいどうするか。

ぼくは、事実婚での家庭生活の解消も経験しているので、その場合、「親権がない」ことが、いかに別居親や男性への差別を正当化する理屈に刷り替わるかを見てきた。事実婚の破たんと同時に相手に親権を主張された父親の相談も何件か受けたので、今の日本で事実婚(法律婚も)は男にはリスクが高すぎるとも思う。子どもの姓と親権を夫婦で分け合っても、別れる段になれば一方の親の片親排除という実力行使を防げない。

単独親権は戸籍の枠にはまらない家族関係を選別し、一方の親子関係を「内縁化」する。子どもに会えない親もつらいが、別居親が授業参観に行っても、「親権がないから」と教師たちに親が他人以下に扱われる差別を、子どもは日常的に味わっている。単独親権で守られているものは、ほんとは「戸籍と男女平等の先送り」だって気づいてる?

(反天皇制運動Alert27、2018.9.4、宗像 充 共同親権運動ネットワーク)

親子を引き離して儲ける離婚ビジネスの実態~その2 第三者機関の拡大戦略

最近の別居親からの相談の中で、第三者機関の利用を子どもを会せる条件にされているという相談がよくある。

第三者機関というのは、面会交流の親どうしの関係を調整したり、面会交流の付き添い業務を担ったりする団体だ。子どもの側を一方的に拉致しておいて離婚を切り出し、面会交流については第三者機関を介するという提案を母親(父親)側がするのが最近のパターンだ。これは弁護士が面会交流の付き添いなどを休日をつぶしてやるのは手間がかかるので、利用を進めるという事情も背景にある。

しかし、父親(母親)の側は子どもを拉致された上に虐待の加害者扱いされ、その上子どもに会うためにお金を積まないとならないという理不尽な状況に陥る。これはそもそも、共同親権という発想が家庭裁判所に欠け、同居親側の養育妨害行為に対して、養育権者を変更したり、強制執行などによって厳しく対処するなどの措置を自ら放棄していることが大きい。逆に言えば、家裁や弁護士が実子誘拐や引き離し行為の違法化に強く抵抗すれば、本人たちに自覚はなくても、引き離し利権を維持できることにもなる。

最近では、もともと第三者機関などのない地方の連れ去り事件で、第三者機関の利用を母親(父親)側が提示し、不可能な提案でもって引き離しを図るという相談もある。そうすると、地方にも第三者機関が必要だということになり、その期待を集めるのは、「公益社団」の体裁を取る家庭問題情報センター(FPIC)のような団体ということになる。

この団体が全国展開すれば、この団体が持つ、月に1回3時間1万5千円(しかも往々にして別居親が負担する)といったふざけた交流基準も全国標準にされるだろう。ちなみにFPICの人たちは、自分たちは「年寄り」なので、月に1回がやっととその基準について正当化する。「公益性」を掲げながら、「子どもの福祉」とは無関係のこの言い分は世間には通用しないが(通用すると思ってこういったプロ意識の欠落した発言を、公の席でしているところがこの団体の浮世離れの程度を示している)、経営的に見ても、スタッフの労働者性を認めないため、シフトの問題として対処すべきことを年齢の問題にすり替えているようにしか見えない。

第三者機関の中には、ジェンダーギャップから生じる双方のコミュニケーション不全のサポートができる団体も中にはあるが、伝統的な性役割に基づいて当事者に接している(あえて「支援」とは呼ばない)団体が少なくない。

そうなると、本来子育ての主体である母親の感情を過剰に重視して、親どうし対等な立場だと思って一方的な場所やプレゼントの額の制約について不当性を訴える父親に対し、「会わせてもらっているのになんだその態度は」という姿勢で接し、無自覚に挑発して援助を引きあげる口実にすることが少なくない。NPOの中で幹部どうしで「男ってバカよね」と言い合っているという団体の話も聞くことがあるが、こういう差別感情とつきあいながら成長する子どもは本当にかわいそうだ。

別居親当事者が支援者になったり、女性支援の文脈から面会交流支援に乗り出してきたりする団体についても似たり寄ったりの状況のようだ。「女性は被害者」という前提が払しょくできないまま、本来なら中立的な当事者支援など成り立たないだろう。

「中立的」が何かを言うのは難しいが、少なくとも、同居親/別居親で要求する項目が違っていたり(例えば別居親に対してのみ学校に行くことやプレゼントの額を制約すること)、そのときどきの同居親の要求をのめない別居親に対して、「合意」ができないと援助できないと、もともとの取り決めを無視するような援助の仕方をしたりする団体については、中立的とは呼べないだろう。

ぼくはFPICがこのような人権侵害行為をしていたのを、利用者として身をもって体験したが、他の団体についても同様の行為をしているところを知っている。(宗像 充 2018.8.7)

共同親権ニュースドットコム

目黒区虐待死事件の真相

目黒区で3月、5歳の女児が虐待によって亡くなったことが世間を騒がせ、児童相談所の介入強化や、里親・特別養子縁組制度が議論されているという。この「子殺し」事件は「両親」によるものとされているが、実際は母親とその再婚相手によるものだ。父親は別にいて、殺された結愛さんは「前のパパが良かった」と書き残している。つまり自分の父を「前のパパ」としか呼べなかったのだ。

子殺しに歯止めがかからないまでにこの「家族」が孤立したのは、戸籍制度に厳しく限定された家族関係の中でしか当事者たちが振る舞えなかったからだ。家への所属を明確にし(両属を許さず)、親子関係を断つために単独親権制度が機能し、母による代諾養子縁組で再婚相手は「父」となった。「個人の尊厳と両性の平等」はどこふく風、同姓の父母のもとにいることこそが「子どもの福祉」だったのだ。

娘を同じく再婚相手の養子に入れられ、「パパが二人いて困る」とぼやく娘にぼくは、「充はパパで、〇〇さんは新しいパパ」と説明した。(宗像 充  第14期「『反改憲』運動通信」No.2 、2018.7.30)

親子を引き離し、関係をこじれさせることで儲ける“離婚ビジネス”の実態

2018.07.21

「親から子どもを引き離したほうが弁護士はカネになります」  

そう断言するのは「男の離婚相談」を掲げる五領田有信弁護士。受け持った事件の中で特に理不尽に感じるのは、妻が浮気して出ていった場合の妻側弁護士の対応だという。この場合、妻のほうに原因があるので、夫が拒否すれば普通は離婚できない。

「しかし『子どもの養育をともに担えるなら』と、妻に愛想をつかした夫も離婚に同意しようとします。その場合、養育を等分に分け合うなら養育費は当然発生しません」(五領田弁護士)

弁護士は、離婚時の養育費算定が多いほど利益を得られる

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 政府は現在、日本以外では朝鮮(いわゆる「北朝鮮」)やイスラム諸国、アフリカ諸国に残存する単独親権制度を転換。離婚後も両親が養育にかかわる共同親権制度に向けて、民法改正の検討を始めた。共同親権の国では珍しくなく、単独親権の日本でも制度上は否定されているわけではない。しかし、子どもが手元にいる妻側の弁護士は「そんなことは聞いたことがない」と強く出る。  そうなると、夫の側は子どもとの絆が断たれることを恐れて親権を手放さず、離婚に同意しない。 「関係を壊した妻側が、婚姻費用を請求してくる。離婚しないならカネを払え……と。妻側の弁護士はまるで暴力団です」(同)  さらに五領田さんが疑問視するのは、法律サービスを身近なものにするために政府が設けた日本司法支援センター(「法テラス」)の成功報酬基準だ。

 離婚時に起こした養育費請求調停で、夫から毎月10万円の養育費を受け取る約束ができたとする。法テラスの算定基準では養育費の2年分が「受けた利益」として報酬算定される。たとえば月額養育費が10万円であれば、「10万円×24か月=240万円の10%+税」が報酬になる。

「子どものためのお金なのに、弁護士がやっていることはピンハネ。月々10万円をとれるクライアントを10人見つければ、月10万円が固定収入になる。顧問契約の2件分です。国が作った機関が、養育費から報酬を得られるようにするなんて、離婚を奨励しているようなものです」

弁護士が「事件を作っている」という批判も

 法テラスを利用すると、30分の相談が3回まで無料だ。一方、弁護士は1回の相談につき5000円を法テラスから受け取る。相談者が法テラスの弁護士に依頼すると事件の種類に応じて決まった額の着手金が弁護士に支払われ、依頼者は分割で法テラスに償還する。中でも扶養料や慰謝料の請求は成功報酬の対象になる。  母親が主婦のまま子連れで別居して、生活保護を受けていれば法テラスへの支払いも免除される。「クライアントは金銭負担を感じることなく、弁護士をつけて調停・裁判を起こせる」と解説するのは、親子関係回復のための面会交流事件を多く手がける古賀礼子弁護士だ。  

例えば生活保護を15万円受けている母子家庭で、婚姻費用を請求して月々10万円を受け取ることができたとする。「実際は回収した婚姻費用は収入に認定され、生活保護費からの国庫への返還になるので、母親が得る生活費は変わりません」(古賀弁護士)。  

しかし父親からの婚姻費用の支払い先は母親側の弁護士の口座が指定され、そこで1万円が差し引かれ。残りの9万円分が生活保護費から返還されることになる。 「父親からしてみれば婚姻費用を支払っているのに、子どもには会えず、妻も子どもも全然生活水準が上がらないということになります」(同)  

それなのに、なぜ婚姻費用を申し立てるのだろうか。 「夫の側は、妻の扶養分を減額するために早く離婚しようと考える場合があるからです。本来婚姻費用の分担は、婚姻した夫婦がお互い協力しあうことが前提の制度なのに、離婚を促すために使われているのが現状です」(同)  弁護士があえて「事件」を作り出し、売上を得る仕組みを「離婚ビジネス」と酷評するのは笹木孝一さん(仮名、50歳)。妻側の弁護士から、婚姻費用の支払い先を弁護士の口座に指定された。  

妻側の弁護士は家事事件について「国内トップレベル」を標榜する弁護士だった。笹木さんの場合、別居時に妻が5歳の息子名義の口座を持っていったので、婚姻費用はその口座に支払っていたのだ。  

笹木さん夫婦はもともと共働きで、生活に必要な諸経費は笹木さんが支払い、笹木さんの預金に余裕ができたら妻の口座に移動していた。摂食障害のある妻のために、食事も笹木さんが作っていたという。  

妻側に経済的な不満があるようには思えないが、「妻は精神的に不安定で離婚を口走り、子どもにも暴力を振るいました」という。困った笹木さんは円満調停を家庭裁判所に申し立てた。「有利な証拠を得るためか、妻はリビングに録音機を置きました」(笹木さん)。

子どもに会うために、毎回1万5000円を公益法人に払う

父と娘

 2016年のある日、保育園に子どもを送り届けた後、妻と子どもがそのまま行方不明になった。すぐに妻側の代理人を名乗る弁護士から「妻子や親族に連絡を取ろうとするとあなたが不利になる」と連絡が入った。  

その後家庭裁判所で調停になり、担当の女性裁判官は「裁判所が関与すべきものではない」と事件性を否定。隔週で6時間という父子交流を取り決めた。ところが高裁では月に1回3時間の交流に短縮され、どちらかが望めば父子交流に付き添いを付けることが可能になった。「つきそいを望むのは母親しかいない。監視ですよね」と笹木さんが嘆息する。  

母親側が指定してきたのは、面会交流の支援を手がける家庭問題情報センター(FPIC=エフピック)だ。「FPICのスタッフには『私たちのところを利用するようにという審判書になったわね』と笑われました」。FPICは月に1回3時間までしか面会交流の支援をしない。 「妻側はエフピック以外では会わせないと言ってきましたから、選択の余地はありません。にもかかわらず、当初1回1万5000円の利用料は、相手方弁護士の主張で全額を私が払わされました」(笹木さん)

「子どもに会うのにその都度カネを払わないと会えないなんて屈辱そのもの」と憤るのは先の五領田弁護士。「司法によって利用が指示されるなら、それは裁判所や行政の仕事。なぜ公益社団法人がそれを肩代わりしているんでしょうか」  FPICは家庭裁判所の調査官OBによる公益社団法人。2015年から3年間、養育費相談支援事業などに1億5400万円を国から得ている。「家庭裁判所職員の再雇用先確保のためのカモにされているとしか思えません」と笹木さんも指摘する。  

笹木さんとの交流場所はFPICが児童館を指定した。理由について笹木さんが聞くと、「子どもの安全のためという。これは私が危険だということですから、FPICに抗議したのです。そうすると『信頼関係がない』と援助を引きあげられました」。現在、笹木さんは息子さんに会えていない。離婚も裁判で決着した。 「営利目的で子どもを連れ去り、親同士の関係を壊して親子を引き離し、子どもの貧困を招く。そんな奴らが裁判所を闊歩しているなんて」  

共同親権は、離婚ビジネスが生み出す子どもの貧困を根絶できるだろうか。 <取材・文/宗像充>


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世界では大規模農業見直しの潮流が。安倍政権の「種子法廃止」は世界の趨勢にも逆行!?

これまで日本の多様な品種を守ってきた「種子法」が廃止され、日本の農業は大きな転換点に差しかかっている。そんななか、「多様な品種・種子を守る」ためのさまざまな動きが起きている。

注目されつつある「アグリエコロジー」

 現在、南米各国やアフリカでは、農薬・化学肥料を用いて工業化された農業に対し、小規模・家族経営の農家による生態系の力を活用した農業や食のあり方が「アグロエコロジー」として力を持ちつつある。

「例えばブラジルでは、地域の食が壊されて安い加工食品による糖尿病の急増が大きな問題になっており、農薬も化学肥料も使わない有機農業が注目されています」と解説してくれるのは「日本の種子を守る会」事務局アドバイザーの印鑰智哉さんだ。 「こういった動きは急激に世界に広がりつつあり、日本の有機農業の割合はまだ1%ほどですが、7%のドイツは数年のうちに3倍にする計画ですし、アメリカでも毎年10%以上成長しています。有機農業の割合の高いキューバやロシアは、有機家庭菜園も盛んです」  

一方、綿生産がモンサントの遺伝子組み換え種子に席巻されたインドでは、22州に124以上のシードバンクが作られた。実のところ、遺伝子組み換え種子の特許を認めている国は少数だ。’80年に連邦最高裁が種の特許を認めたアメリカでは、「この20年で慢性疾患が急増し、平均寿命の伸びが止まる傾向」だという。 「タンパク質が低下したアメリカの大豆を、中国は輸入しません。モンサントは除草剤の使いすぎで耐性のある雑草が出てきてしまい、別の農薬を混ぜています。世界最大の育種企業であるモンサントを支えた柱は今、折れそうです」  

種子法を廃止する日本の動きは、工業的な農業が見直されつつある世界の趨勢に逆行している愚行なのだ。 <取材・文/宗像充 横田一> ― いよいよ[日本の種]がヤバい! ―

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5分でわかる種子法廃止の問題点。日本人の食を揺るがしかねない事態って知ってた?

日本の多様な銘柄米は種子法に守られてきた。 masa / PIXTA(ピクスタ) これまで日本の多様な品種を守ってきた「種子法」が廃止され、日本の農業は大きな転換点に差しかかっている。そんななか、「多様な品種・種子を守る」ためのさまざまな動きが起きている。

4月に種子法が廃止。その後は……?

「このままでは、日本の農産物の多様な品種が店先から消える」  こう警鐘を鳴らすのは、元農林水産大臣の山田正彦さん。山田さんは昨年から種子法廃止の動きに対して「日本の種子を守る会」を結成、廃止の影響を各地で説いてきた。

山田正彦さん

6月18日、種子法復活法案に関する院内集会で話す山田正彦さん。 

しかし、今年4月に種子法は廃止。その結果、「これまで米、大豆、麦類の品種を、各都道府県が責任を持って種子を開発・増殖してきました。それが今後は義務ではなくなるのです。つまり、種子を守るための予算がつかなくなる」というのだ。 「一つの品種が開発されるまでには10年、増殖には4年かかる。各地域の銘柄米を手ごろな値段で口にできたのは、膨大な歳月と労力をかけ、その予算を税金で賄ってきたからです」(山田さん)  

山田さんはさらに「日本の多様な品種を大企業の寡占から守っていかなければならない」と危機感を強める。日本ではすでに「みつひかり」(三井化学)、「つくばSD」(住友化学)、「とねのめぐみ」(日本モンサント)などの籾米が流通。主に多収量の業務用米として用いられている。

「農業競争力の強化が国の方針。生産規模の小さい銘柄は集約されるので、国内の品種はいずれこういった大企業の品種に置き換わっていく。従来の品種を作り続けたいと思っても、各都道府県が生産をやめれば種子が手に入らない。やがて外国の多国籍企業の種子を一般農家は買わざるをえなくなっていく」(山田さん)

院内集会

種子法復活法案に関する院内集会で農水省知的財産課の担当者は、新規開発種の自家採種を今後原則禁止していく方針を説明

種子法復活の動きも

種苗店やホームセンターに並ぶ野菜の種

種苗店やホームセンターに並ぶ野菜の種はほぼ外国産で「一代交配(F1)種」が大半。種をとってまいても前年のようには実らない しかも、種子ビジネスを行う企業としては、莫大な開発費を回収する必要がある。そのため、「F1種」という一世代に限って作物ができる品種を販売する。自家採取できないので、農家は毎年企業から種を買わなければならない。

「種子ビジネスに乗り出してきているのは化学企業が中心。農薬と化学肥料もセットで売り、契約によって作り方も指定されます」(同)  

そうなると価格は企業が決めることになる。現在、民間の種子の値段は、公共の品種の種子の4~10倍。種子法によって守られてきた公共の品種がなくなれば、農産物の値段が上がることは必至だ。これに対して、国会でも種子法廃止に抵抗する動きが出ている。5月19日に野党6会派が提出した種子法復活法案は6月7日、衆議院農林水産委員会で審議され継続審議となった。 「『業務用の品種の作り手がいなくなるから民間を応援しよう』と政府与党は説明してきました。だからといって、各地が独自で種を作ってきた体制をなくすことはなかった」と、後藤祐一衆議院議員(国民民主党)は語る。

「米の民間品種のシェアは、まだ0.3%にすぎない。移行の体制も整っていないのに、大阪府、奈良県、和歌山県は今年度から種子の維持についての認証制度を取りやめてしまいました。弊害が明らかになる前に何とかしなければ」と後藤議員は法案の復活に意欲を見せている。

条例を作り県レベルで対抗

 一方、県レベルで対抗しようという動きも出てきた。新潟県、兵庫県、埼玉県は条例を制定し、県の公的機関が種子法廃止前と同じように種子の生産・供給が可能な体制を続けられるようにしたのだ。新潟県長岡市内にある農業総合研究所作物研究センターの担当者はこう語る。

「こちらで作っている種子は、コシヒカリや新之助など『推奨品種』14品種、それに準じる新潟次郎など『種子対策品目』9品目です。国の種子法がなくなって県条例となったので事務的手続きなどの変更はありますが、種子を生産・供給する基本的な業務自体に変わりはありません。これまで通りの多種多様な品種の生産・供給ができる体制は維持されました」  

これら3県の条例制定は、日本の農業を守る貴重な取り組みとして全国に広がる可能性がありそうだ。

「種子法廃止の背景にあるのはTPP(環太平洋パートナーシップ協定)です。日本の多様な品種を守ってきた種子法は、TPPにおいては自由な競争を阻害する『非関税障壁』とみなされてしまうのです」と山田さんは解説する。そのうえ、「TPPでは『遺伝子組み換え食品の輸入も促進する』となっている」というのだ。  

弁護士でもある山田さんは現在、種子法に焦点を絞りTPP交渉の差し止め・違憲訴訟の提訴を準備中。すでに原告は700人を数え、今年8月には提訴の予定だという。

今のうちに、自家採取可能な種子を保存

種センター

臼井さんの始めたシードバンク「種センター」では、カボチャや豆、トマトなど、棚ごとに在来種の野菜の種が保管されている 種子の輸入が途絶えれば「日本ではほとんど野菜が作れないのが現状です」と印鑰智哉さん(「日本の種子を守る会」事務局アドバイザー)は危惧する。農水省は「知的財産権の保護」という点から、これまで原則OKだった自家採種を原則禁止に転換する方針だ。つまり、そうした種子を自家採種したり共有したりすれば、犯罪となり重い罰則が科せられる(家庭菜園は除く)。

「種が落ちて芽が出て、実がなるというのが自然界です。自家採種禁止なんて常識では考えられない」と首を傾げるのは、長野県安曇野市で自然農の菜園を持つゲストハウスを経営する臼井健二さん。大企業の種に頼らない農業を行うため、’12年に在来種の種を保全するシードバンク「種センター」を開設した。 「大企業の品種が席巻して多様な品種が滅ぼされる前に、自家採取可能な品種を保存しておかなければ」と臼井さんは語る。現在、200種以上の在来種の種子が保存されている。

「企業の種子の知的所有権を守るのであれば、伝統的な在来品種も守る法制度も必要だ」と、印鑰さんは強調する。「お米に関しても、まだ公共品種が99%を占めている今ならば、まだ十分に守ることができます」  一度失われた種子は、二度と戻ってはこない。これは、日本人の食にとって大きな転換点といえるのではないだろうか。

<取材・文・撮影/宗像充 横田一> ― いよいよ[日本の種]がヤバい! ―

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