今年7月17日の記者会見で、当時の上川陽子法相は「親子法制の諸課題について、離婚後の単独親権制度の見直しも含めて広く検討したい」と表明している。すでにこれに先立ち、4月にはイタリアとフランスの大使が、EU加盟各国連名の書簡とともにこの問題の解決を求めて法相を訪問している。オウム真理教幹部への死刑が執行されて一週間が経ち、その野蛮さに、日本への国際的な批判が最高潮に達した時期だった。法相の発言は、同じくその野蛮さが国際的な批判の的となっている、子どもの連れ去り問題へのアドバルーンだったのだろう。
ぼくは2007年に人身保護請求によって子どもを元妻に引き渡し、その後子どもと引き離された経験を持つ。事実婚だったので親権がなく、その後子どもとの関係を維持するためだけに、10年の間に5回裁判をすることになった。会わせたくない親の感情はいろいろだろう。でも「だから会わせなくていい」となれば、それは引き離された側からは「責任転嫁」でしかない。そう市民運動の現場でことあるごとにこの問題を訴えてきたが、被害者保護を損なうものと冷ややかな視線も感じてきた。
この国では親の別れが親子の別れに直結する。「権利ばかり主張して」「DV男」「執着している」……ぼくたちが被害を訴えたときに投げかけられた言葉には果てしがない。10年前に運動をはじめたころには、「シングルマザー」という言葉はあっても、「別居親」という言葉はなかった。子どもと離れて暮らす親は、「シングル」でしかなかった。
運動が無視できない状況になってくると、今度は「問題のある別居親」(週刊金曜日)とぼくたちは呼ばれるようになった。この問題に限って言えば、別居親や、その多くを占める男性に対するヘイトをためらわないのは、むしろ、左派・リベラルである。親権なんか別居親に渡すと、被害者のDVやモラハラの被害が継続するというのだ。しかし、彼らが「被害者」であるのは、子どもを確保しているからだ。女性の別居親が被害を訴えたところで、公的支援は何もない。
男女の親権取得率は女性が8割を占める。それは夫婦間に葛藤を生じたときに、相談に行って逃げる場所(多く「シェルター」など)を用意されているのは女性だけだからだ。裁判所は子どもを引き離された側から親権を奪う。親権目的の子の連れ去り=拉致が生じる所以だ。この点から見れば別居親は被害者である。しかし別居親を批判する側は、これを被害とは認めない。男性が子育てに関わることへの権利性を認めないからだ。そうなると、それは過剰な権利主張で、そんなやつらのための法整備なんて必要ない、となる。別居親は「問題がなければならない」のだ。原因と結果が倒錯しているが、そう感じないとしたら、あなたが性別役割分業の罠にどっぷりはまっているからだ。
しかし、男社会を批判し、女性が割を食っている、という観点からすれば、男性の側がジェンダーバイアスによって割を食っている部分があるということには無頓着で、むしろ男性の側に反省を求めることが「進歩的」になる。たとえば、憲法学者の木村草太は、「別居親が、主観的に『自分との交流は子の利益になる』と思っていても、DV・虐待・ハラスメントなどの要因で客観的にはそう認定できないことがある。そうした場合には、面会交流は避けるべきだし、ましてや親権を与えるべきではない。面会交流の不全は、裁判所か、別居親の問題であり、親権制度とは関係がない。」(沖縄タイムス8月19日ネット配信)」と別居親へのヘイトを正当化する。
ぼくは、事実婚(つまり未婚)でこうなっている。木村は、非婚の父を倫理的でないと責めるのだろうか。「男が仕事しないで子育てできる世の中を」とぼくは主張するが、フェミニストの社会学者は、「共同親権が成立したら変わること―養育費はゼロになる?」とヤフーニュースに投稿する(千田有紀、7月18日)。男の子育てより、男が家庭に金を納めないのが問題なのかと思うと、家制度にどっぷりつかったその主張をもはや「進歩的」などとぼくは呼ばない。アメリカでは、イガリタリアン(平等主義者)がフェミニストと対抗するようになったとも聞く。その気持ちはよくわかる。
ちなみにぼくもDV家庭の援助にかかわっているし、ぼく自身も当事者だったので、実際の暴力の現場で親権の有無が役に立たないことくらいは知っている(一方親権をめぐっての争いが暴力に至る事件はよくある)。DVの被害者は専ら女性というのも事実ではない。2014年の内閣府の最新の調査では、既婚者のうち、DVの被害を受けたことがあると答えた性の割合は、女性が23・7%に対し、男性は16・6%。さらに配偶者からの被害経験を「この1年間」で見ると、男性が39・3%、女性が37%と男性の被害経験の方が女性を上回っている。
DV防止法で女性を逃がして離婚させることができても、そもそもそこに「客観的な認定」などないし、それは裁判所も指摘している(4月25日名古屋地裁判決)。日本のDVは民事対応なので、仕返しを恐れた当事者は告訴よりも連れ去りという手段を取る。実際には暴力の有無にかかわらず男性を家庭から排除し、「お母さんだから拉致OK」なんて、暴力そのものだ。多くの国々は、単独親権から共同親権へと移行していった。この流れは世界的なものだ。子どもは両親から生まれる、親どうしの関係は子どもから見て対等という事実は、家の都合や親権をめぐる男女の主導権争いを凌駕していったのだろう。
日本でも多くの父親母親が、過去単独親権制度の違憲、撤廃を求めてくり返し裁判を闘ってきた。憲法の観点からこの問題の解決を求める学者や法律家も出始めている。何より、婚外子差別の解消を求めてきたり、義父の介助という嫁の役割を断れなかったりした経験のある女性たちは、ぼくたちの運動を励ましと共感をもって迎えてくれた。性にとらわれない個人の解放を求めるならば、ぼくたちがすべきは、異性への敵意を煽るより、「結びつける言葉」をどう見つけだすかではないか。
(「反改憲」運動通信No.6、2018.11.30、宗像 充)