共同親権リテラシー

上川法務大臣が共同親権の検討について言及してから、共同親権の是非について議論がポチポチではじめている。この中には、別居親への潜在的な敵意を煽ることで現状の同居親による実効支配と片親引き離しの慣行を維持するためになされるものがあるので、千田有紀武蔵大学教授の「共同親権が成立したら変わることー養育費はゼロになる?」をベースに若干の検討をしてみたい。


前提として拉致は問わない


 共同親権と日本の単独親権を比較する場合、どの主張でもまず触れないのが実子誘拐への対応の違いである。その上で「日本でもここ10年間ほど、とくに民法766条の改正以後、裁判所は原則面会交流を命じている」として、これを海外並にするのがいいのかどうかに疑問を呈するというパターン化した議論に持ち込むことになる。こういった主張は、子と引き離された側が根拠なく(多くDVの)加害者として正当化することで可能となるが、暴力の認定はどこでもされないのが実態だ。この論理を守るためには、証拠主義に基づく刑事的な手続きを拒否するしかないが(つまり民事的にDV法を用いた実効支配)、殺人事件の多くが家族関係で生じているところ、夫婦間の(夫から妻への)暴力だけがその手続きから除外することは、正当な理由がない。本来問われるべきは、このように手続きの不備が明らかな中、「原則引き離し」がなぜ正当化できるのかという問いである。もちろんこういった主張をする人間は男性の権利を不当に軽視することを、実際は「伝統」や「文化」をもとに正当化しているにすぎない。


経済的な分担を拒否する


 千田氏は「面会交流は、非同居親(多くの場合父親)の支払う養育費を抑制し、同居親(多くの場合母親)と子どもの貧困を作り出しました」という。正直、同居親への経済負担が続くので養育費減額への不満を述べるとしたら、こういった非難は、多くの人が潜在的に持つ、男性が子育ての主体となることへの不満や懐疑を意図的に掻き立てる主張でしかない。よく面会交流や共同養育の援助にかかわる人が男性が子育てを「やりたがる」という言い方をすることがある。

また、父親に会わせたくない母親からの不満で、「家庭には金を納めなかったくせに(そんな女性は履いて捨てるほどいるが)」というものがある。つまり、こういった主張は男性に子育てを「やらせたくない」し、「家庭生活で経済的な責任を男が負うのは男性(女性は責任者であるべきではないのに)」という、伝統に根差した批判である。ここでわざわざ千田氏が「同居親(多くの場合母親)」と明記しているのがいい証拠だ。同居親が父親なら、「そんなの負担して当然、甘えるな」という批判がすぐ出るからだ。つまり、こういった主張の前提は性別役割分業に根差した「甘え」であって、ジェンダー研究の社会学者の主張として見るとかなりしらける。


男性は経済的責任、子どもの権利は女の裁量


 そのような観点から、千田氏やアンチ平等主義の研究者たちは、別居親の権利主張についてとことん敵視する。しかしここでいう別居親はもちろん「男性」限定である。たとえば、「さまざまな親の立場から子どもへの責任を分かち合う(share)という考え方への転換です。それなのに日本で共同親「権(利)」を目指すといったような、このような時代に逆行した動きが、なぜいま出てくるのか、それが大きな驚きでもあります」と千田にインタビューされた小川(出典:オーストラリアの親子断絶防止法は失敗した―小川富之教授[福岡大法科大学院]に聞く)は日本以外のどこの国民でも通用しない発言をしているが、もちろん、共同親権から単独親権に戻した国などどこにもない。

その上、責任を分かち合うのならば、養育費や養育時間について「分かち合う」のがなぜ本質的に避けるべきなのか、説明が立たない。千田氏は「子どもを連れての転勤(リロケーション)、海外への移動などに相手の同意が必要となるなど、離婚した親は大きな拘束を互いに強いられるようになる。裁判所の関与の部分が高まり、気軽に協議離婚はできなくなるだろう」と述べるが、最後の部分は「気軽に拉致できなくなるだろう」の誤植だろう。つまり、拉致した親が、拉致被害者から子どものことで四の五の言われるようになれば、拉致し甲斐がなくなるのだ。

千田氏も小川氏も結局、言いたいことは、(女性である)同居親が決めることに子どもや別居親が差し出がましくあれこれ言うなというのを、海外の事例をつまみ食いして正当化しているにすぎない。もちろんこれは「子育ては女の専権事項」という伝統に根差した考えであり、平等を求める男女の権利主張のことを、彼らは「時代への逆行」と呼んでいる。男性が責任を求められるのは、金銭的な負担においてのみである。(宗像 充、「共同親権運動」No.41)

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