「ゼクシィ見るより民法読め」共同親権訴訟提訴(『反改憲』運動通信」No.6)

宗像充(共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会)

「どうして単独親権制度が残っているんでしょうか」  

2007年に子どもと引き離されて12年。市民運動として共同親権への民法の転換を求めて何度も聞かれた問いだ。「昔はどの国も単独親権。それが80年代以降共同親権に変わってきた。日本でも戦前は家長に親権のある単独親権だったのが、戦後男女平等の憲法ができて、婚姻中のみ共同親権になった。離婚・未婚時は取り残されただけ」と説明すると、多くの人が冒頭のような問いを思い浮かべる。  

今回、この「婚姻中」のみ共同親権とする民法818条の単独親権規定が、憲法14条の平等原則に反するとして立法不作為の国家賠償請求訴訟を、男女12人の親たちで提起することにした。侵害されるのは親の養育権、憲法13条に由来する。  

子どもと引き離される経験というのは筆舌に尽くしがたい。毎年のように子どもと引き離された親(別居親)たちが自殺している。一方で、離婚時には二人の親に一つの親権しか認めない民法の規定は、親権をめぐる親どうしの子の奪い合いを引き起こし、殺人事件も起きている。

裁判所の運用はこうなっている。子どもを確保した側にそのまま親権を与え、確保できなかったほうから親権を奪う。「子どもと会いたい」と子どもと暮らしていない側が申し立てても、通常裁判所の基準はよくて月に1回2時間程度になっていて、その取り決めも4割が守られていない。その非情な現実はぼくたちが広めてきた。海外からも日本は拉致国家として批判を浴びているので、もはや別居親を「DVだから危険」とヘイトするだけでは実態は隠せない。  

ぼくたちの訴訟は、相手との関係が婚姻であるか否かによって共同親権かどうかが決まり、そのことで親の養育権が保障されないのは不平等というものだ。親権のある人、ない人の間の不平等ではない。なぜなら、子どもを生み育てることは幸せになるための選択という点で親固有の権利であり、相手との関係が婚姻でないからといって、子どもと引き離されたり、加重な養育負担を負わされたり、国が介入していいものではないからだ。民法では親権喪失・停止規定があるが、いずれも親の権利の制約には裁判所の審査を経る。ところが、婚姻制度は人為的なものにもかかわらず、それから外れただけで無権利状態に陥るのは不合理だ。  

そういう意味では、現在進行中の、選択的夫婦別姓訴訟、同性婚訴訟の二つの民法関連の国賠訴訟と、婚姻制度を相対化するという点で同じベクトルを向く。冒頭の問いに対して答えるとするなら、「子どもがほしければ<ちゃんと>結婚しろ」という戸籍制度に紐づいた婚姻制度を守るためには、その枠組みから外れた者を二級市民として差別する仕組みが必要であり、そのためには、親権者を一人にし、養育から権利性を奪う単独親権制度は必要不可欠のものだった。 結婚と戸籍制度にやられたぼくたちの反撃(提訴)は、11月22日、「いい夫婦の日」。「ゼクシィ」見るより民法読んどけ。