親権のきた道

 久しぶりに日曜日に習志野市内の幕張本郷の交番に行くと、交番相談員のYさんが「最近は来ないから、どうしたかなあと思って」と口にした。

 昨年の12月に下の子が18歳で成人した。それに先立って、最高裁の決定で月に1回4時間の面会交流の決定が取り消されていたため、元妻とその夫に面会交流を義務付ける決定はなくなっていた。なので毎月第2日曜日の午後2時からと決まっていた決定の日時をこちらが尊重する必要もなくなった。何かと都合がよかったので、土曜日に曜日を変えて習志野市まで行って交番に立ち寄り、娘の暮らす家に行ってチャイムを鳴らす。

 土曜日の交番相談員は別の相談員でこの人も顔見知りだった。話は通じるものの、日曜日が担当のYさんは、毎月訪ねて来ていたのにどうしたかなと聞いてきたのだ。

「もう娘も高校3年になってこの春で卒業です。卒業したら家にいるかわからないから、ここに毎月来るのも今日が最後になるかもしれません。長い間ありがとうございました」

 裁判所の決定では子どもとの合流場所がここになっていた。元妻やその夫(の元友人)が子どもについてやってきて、子どもが「帰る」というと、交番に子どもを連れ込んで引き離すというのを繰り返していた。交番の人もわりと公平に話は聞いてくれたと思うけど、面会交流の間に子どもを戻してくれはしなかった。いろいろあってその後家を訪問するときには、トラブル防止でYさんと交番には挨拶をすることにしていた。

 洗濯物が出ているのに雨戸は閉められ、人は出てこない。あらかじめ書いておいた手紙を投函してそのまま駅に向かう。子どもが来なくなって家に行くようになって、いっしょに共同親権訴訟の原告のSさんが来てくれるようになっていた。何回も行っているので近所の人とも雑談をかわすようになっている。現れないのは子どもだけだった。

 この通常国会で「離婚後の共同親権を導入」する民法改正案が提出され、つい先日衆議院を通過して、この調子だと成立する見込みだ。ぼくたちが2019年に単独親権制度の違憲性を訴えて国賠訴訟を提起したのとちょうど同じころ、国で論点整理の議論が始まり、その後法制審議会で要綱案がまとめられ、今年2月15日になって法務大臣に答申されている。

 この法案の中身は親子を無法に引き離す現行の司法運用を合法化するものだったので、このまま立法されても困ると、「ちゃんと共同親権」という少人数で短期間のワーキングチームを年明けから作って活動を始めた。リーフレットを作り、法案が国会に上程されるタイミングで法案には反対を表明した。

この法案では、養育費徴収の強化については具体的な立法がなされたものの、親子関係の妨害を排除する手立ては努力規定に止まっている。「子どもに会えなくても金は払え」だった。それに離婚後に合意があれば共同親権を選べるとはいうものの、もめれば司法に一任されてDVなどの「おそれ」があれば親権を奪われる。また、仮に共同親権になったとしても、司法は監護権を一方に指定し、そうすると他方の親権者の権限が空洞化する。結局これだと単独親権制度の焼き直しになる。

父母双方に協力義務や人格尊重義務が課されているのは、結婚、未婚かかわらない。一方で、「離婚後」に共同親権が協議で可能となったのに、「未婚」や「出産前の離婚」は、母親単独親権メインになり、ここで離婚の場合と区別される。法律婚優先を維持するために、婚外の父母の法的関係を婚姻内とは区別し、かつ未婚でも場合分けする。子どもの側から見れば、非婚(未婚と離婚)でも、離婚や事実婚の場合は共同親権になり得ても、父親が逃げた未婚の場合は父親の養育を受ける芽はなくなる。二重の意味で婚外子差別を強化する。当事者間も分断を深める結果が予想できたのだ。

非婚の父親として最初から親権を放棄した人間としては、「共同親権が欲しい」ではなく、「親権がないことによる差別」が問題だったので、共同親権訴訟も基本的人権の尊重を明記した日本国憲法が素直に武器になった。この点については反対の中で強調したし、理解してくれる仲間がいた。

こういった点は親権決定における司法の基準である「子どもの利益」の解釈の議論に集約される。そもそも一般的な意味での「子どもの利益」なんて、虐待とか親が子に危害を加える場合には除外規定として特定できても、何が「子どもの利益」になるかなんて、普遍的なものがあるわけもない。特定の子の利益はその親がまずもって考えるわけで、他人が「買い食いよくないよ」とか言ったって、「うちの子のことですから」ですませられてしまう。

この場合の「子ども」は、単なる少年少女の意味じゃなくて、親に対する特定の子どもで、その子は父母2人から生まれる。だから双方とのつながりを維持することが海外では「子どもの利益」とされた。単独親権から共同親権へと法改正で転換していった理由だ。共同親権賛成、法案反対が基本姿勢ということになる。

ところで、難波さんも書いているように、この議論には熱烈な反対勢力がいて、もっぱらの反対理由はDV被害が継続するというものだ。この点についての反論はたくさんしたけど、特定の人が嫌な思いをしたからといって、見ず知らずの親子を生き別れにする権限なんて最初からない。

こういった反論とともに、法案の問題点を毎週上京して議員たちに説明し、一方でネットラジオで問題提起し続けた。立憲民主党がいろいろいちゃもんを付けても、反対したのは国会では共産・れいわ新選組だった。

ところで、昨年末に『結婚がヤバい 民法改正と共同親権』という本を出している。この本のメッセージは、結婚はぜいたく品になってしまって、それが戸籍制度に残る家制度による性役割に起因するというものだ。「正社員家庭」という言葉を作った。ぼくとかは「非正規」の家族関係だ。

共同親権を掲げる運動は当初から、「親子関係と親どうしの関係は別物」と言ってきて、それはまた、「結婚と親子関係は別物」ということでもあった。そうすると、出産子育てを前提に、氏による家の存続が至上価値になる日本の結婚は、親子関係を共同親権で保障することによって再編成されることになる。

日本国憲法は「婚姻は両性の合意のみによって成立する」と規定している。届出主義の戸籍結婚は、事実婚主義の憲法結婚が本来の姿だった。そうすると、夫婦別姓や同性婚の立法化が可能になる。だけど実際には、選択的夫婦別姓や同性婚の活動家から、共同親権は反発されている。みんな自分のことしか考えていない。

婚外子を犠牲にした民法改正に疑問を投げかけることで、結局、親権の議論をしていたつもりが結婚の議論をしていたことになる。娘も成人した。いくら法律が変わったといっても、国の法改正の動機は外圧なので、形通りの法改正ですみはしないだろう。自分も含めて家族はどこに行くのか、見届けるのは運動であって、趣味で、それもいのちきになるみたいだ。(2024.4.23 越路23号)