山とナルヒト 第1回 会員番号10001

 手元に日本山岳会の古い名簿がある。「な」行には出ていなくて、もしかしてと「か」行を探すと「氏名」欄に「皇太子殿下」と載っていた。住所は「港区元赤坂2-1-8東宮御所」。2人の推薦人が必要という、気位の高いこの日本で最初の山岳会に、ぼくも入っていたので名簿がある。

 現在、この人の天皇即位に伴い、メディアは彼の趣味の登山も取り上げている。「山のベテラン」、彼が登って山小屋がよくなった、登ったルートを「ロイヤルルート」として紹介する、などなどだ。とはいえ本誌編集部がそういった記事を天皇制反対のぼくに期待するわけないし、かといって、趣味の話でむやみと敵意を向けるのも野暮ったい。なので、彼の登山行為の社会の中での位置づけを、エピソード的にこの連載では試みたい。

 徳仁が日本山岳会に入会した1987年7月は27歳のときらしい。ウィキペディアで彼の来歴を見ると、オクスフォード留学を終え、学習院大学の博士課程に在籍中で、この年、はじめて国事行為臨時代行についている。翼賛系の報道では、入会が「名誉会員」ではなく一般会員であることが美談として語られている。

父の明仁が、はじめて民間人女性と結婚する一方で、アメリカ人家庭教師をつけ軽井沢のテニスコートで美智子と出会ったエピソードを武器に、リベラルかつロイヤルな演出がなされてきたのとは違い、徳仁の場合、一般人との交流が美談として語られることがままある。「庶民性」は、外交官という超できるエリート女子と結婚したこの人の十八番だろうが、わけても登山は彼のこの演目の武器だ。

ただし、一般会員に「殿下」という敬称が付く人はほかにいないし、切りのいい会員番号を振られる会員もいそうにない。そもそも「皇太子」は名前じゃなくて役職だ。

ぼくが入会したのは、この大学山岳部の学閥組織で同期の仲間とヒマラヤに行くためだ。なので、登山後はやめた。会の援助で海外登山をした学生は、会の晩さん会で給仕をしたりするのが恒例で、皇室大好きの同期の一人は、このとき徳仁と握手して後で会の役員に怒られたという。

ちなみに、この会で会員アンケートの結果を会報「山」に紹介したときに、徳仁について、もっと丁重に扱えという回答がある一方で、特別扱いするのはおかしい、という回答もあったのを覚えている。ただ、いくら「庶民的」といっても、彼が「勤労者山岳連盟港区支部」とかに入ることはなさそうだ。学習院大学山岳部出身の登山雑誌の編集者によれば、山岳部に入りたかったけど止められたと聞いている。

(2019.12.26「府中萬歩記」70号)