「選択的」共同親権という偽装表示
7月19日以降、法制審議会家族法制部会が中間報告を8月末に取りまとめ、その後パブリックコメントを実施することを、マスコミ各社は一斉に伝えた。慣例の大本営発表によるプロパガンダにほかならない。
司法官僚からなる法務省が、法学者や省庁出向者を動員してのミッションは、「いかに〈共同親権〉というワードを改革案に入れつつ、現行の法運用を維持するか」である。
彼らがそのために編み出した理論は、親権から監護権を切り離し、単独親権制度を「主たる監護親」にすり替えて、別居ひとり親の排除を正当化することだ。子の「実効支配」の既成事実化という司法の運用を法で正当化するのが狙いである。
「選択的共同親権」による共同親権の「導入」と彼らは呼ぶ。しかし、合意がなければ選択できない共同親権を「選択的」と呼ぶのは偽装表示だ。「実子誘拐」を合法的に可能にするための抜け穴作りであり、実態は「実子誘拐選択制」にほかならない。子を確保されたほうの「ドジな親」は、法によって権利の制約を正当化され(子どもに「会いたくない」と言わせて親との引き離しを正当化する代理人が出張ってきて、許可なしに子どもとは会えない)、一方で、金(養育費)をむしり取られる。
立法事実の偽装
実際のところ、この20年余りで裁判所への養育費の申請件数は1.7倍(2万727件)増なのに、面会交流は6.8倍(1万4868件)、子の引き渡しは7倍(4040件)増であり(NHK報道)、養育費に対する同居ひとり親の不満よりも、子どもに会えない別居ひとり親の不満が各段に大きい。そして子の奪い合いは熾烈化している。
にもかかわらず、法制審議会の議論が養育費の議論を常に先行させるのは、徴収強化の狙いが同居ひとり親のためではなく、弁護士によるピンハネの確実な徴収と高額化のためであることを裏付けている。
法制審議会で司法官僚が抵抗勢力の役に選任したのは、赤石千衣子(しんぐるまざあず・ふぉーらむ)、戒能民江(お茶水女子大学名誉教授)、原田直子(福岡県弁護士会所属)、水野紀子(白鷗大学教授)らである。
赤石氏が家裁のDV認定が甘すぎると記者会見で声高に主張するのを見てわかるように、彼らの狙いは、DVの事実ではなく「主張」によって引き離しを正当化するため、「特別な配慮」を法制化することである。もちろん、「会わせたくないけど金はほしい」という、会員の感情に対処する以上に、ビジネス化した社会運動形態を維持するには必要なことだ。子どもをエース(人質)に使えなければ、金はATMから引き出せない。
極端に聞こえるかもしれない。しかし、彼らに一部の例外を除いて悪事を行なっている自覚はなく、善意で仕事に励んでいるところが問題だ。要するに、民意とともに改革を進める習慣がないので、内部的な解決策しか彼らの発想からは出てこない。
お気づきの方がいるように、こういった法律村の「コップの中の嵐」に運動が右往左往する状況は、親子断絶防止法の策定過程でも見られたものだ。司法官僚に手玉に取られた運動は、攻撃の対象を当事者内部に向け自壊した。轍を踏んではならない。ぼくたちは、公論による家族法改正という、この国の人々が経験不足の挑戦を続けている。
何を「骨抜き」するのか?~原則共同親権の立法経験
こういった姑息な手口に対し「共同親権の骨抜き」という批判がある。一方で批判する側の「原則共同親権」の主張に中身が伴っていないから、司法官僚は臆面もなく偽装表示をする。
このときぼくたちは、1947年の日本国憲法施行後、一時的にせよ「応急措置法」という形で共同親権に婚姻内外の区別を設けなかった(原則共同親権)立法があったことを思い出す必要がある。実際に共同親権で離婚した夫婦もいた。
この改革の趣旨について、大阪家庭裁判所家事審判部はその決議集で、「苟も保護を要する子供に対しては原則として全ての親に親権を与え、専ら子の利益の中心にことを考えようとしたのであるからそれは両性の本質的平等旧来の家族制度の打破、従ってその下に不利益を蒙っていた者の救済という新憲法の理想の一つを体現しようとする目的をもつ」と解説する。当時の法務省民事局長は「従来の慣習上共同行使の困難な場合があるかも知れぬが、それは事実上の問題であって、法的にはこの権利は保障されねばならない」と重ねて述べ「家の制度の下に制約されていた両性の平等がここで回復されたのである」と高らかに謳う。
ところが、その後の新民法では、この応急措置法が「骨抜き」され、非婚時に単独親権が残った。当時民法草案の起草にあたった我妻栄は、結局は、「親権と氏の結びつき」という「実際上」の理由から草案に非婚時の単独親権を残したと後に語る。親権の調整規定がないのは、事実上力関係で父が決めてしまうからという程度の理由しかない。
であるとするなら、親権取得の既得権を保持するため、共同親権に反対し、女性を弱者の地位に押しとどめることこそが、憲法の理念を損なう行為だ。そしてそれを批判するにおいて、男性が親権をとれるようにするのではなく、男女平等に養育を分担するのが本来の戦後民法改革の道である。
「実質平等」再び
ここに、司法判断における男女平等な養育時間の原則化を求めた、当初のフェミニズム運動や、海外の父親たちの運動との理念の一致を見ることができる。求めるべきは、裁判官の判断基準を「子どもの最善の利益」にし世間の常識で子育てを縛ることではない。
子どもの利益を何よりも考えるのは親にほかならない。それを達成するために、司法判断において子育ての実質的な平等を原則化し、裁判官の裁量を縛ることだ。親の権利の原則が確認されてはじめて、親たちは安心して譲り合うこともできるし、それを規制する国の積極介入も可能になる。
民法に「養育時間」を入れ込むことを恐れる司法官僚は、差別を前提にしなければ現行の運用が不可能であることに気づいている。いくらありえる立法を場合分けしても、実質平等を原則から外せば、親たちは争いから逃れられず無責任な親が勝ち組になる。法務省案は「あたりのないあみだくじ」(【バシャ馬弁護士】モリトの法律相談https://www.youtube.com/watch?v=bOz03REK5ZQ)にほかならない。
このプロパガンダ戦争に勝ち抜くためいくつかの仕掛けを用意している。親子の時間への世論喚起のためフォトコンテストをはじめた。アンケートを取りまとめ、男女ともに引き離しやDVの被害があるという裏付けのもとに、まともに議論ができる状況を整える。その試金石として手づくり民法改正草案の策定をいま急いでいる。
いよいよ、平等原則のもと、単独親権制度の違憲性を掲げ、国と対峙するぼくたち共同親権訴訟の重要性が増している。
「私たち抜きに私たちのことを決めないで」
9月22日の証人申請をする次回弁論にぜひ足を運んでほしい。(宗像充2022.7.22)