共同親権は子育て支援の切り札

共同親権になっても過剰な期待はできない?

 アエラの12/27配信記事に、「共同親権になっても別居親は「子どもに会えない」? 共同養育ができる親の“資質”とは」という記事が出ていた。

ちょっと違和感があった。

子どもと引き離された親にそれぞれパーソナリティーがあるのはわかるけど、記事のタイトルからわかるように、共同養育ができる親の条件を資質の問題にしていいのだろうか。ぼくも引き離し問題の支援にかかわる中で、多くの別居親たちに会ってきたけど、何かしら学ぶところはあるし、切羽詰まって状況に適応できなくて悩んでいる人は多い。でも平均してみれば世の中一般の人と変わらないと思う。

そんな中、法的な手続きにしろ、心理的な対処にせよ、どちらも支援だと思って当事者の話を聞いている。日本の場合、子どもと引き離された側の支援の場合、法的な対処がきわめて限定されているうえに、単独親権制度という制度が問題を引き起こしているので、紛争が起きやすくなっていて、勢い、心理的なサポートの比重も高くなっている。

特に現在の制度的な枠組みでは、もっぱら女性の側を被害者と推定した支援しか行われておらず、法的にはDV法によるDV被害者支援や、その後の離婚係争支援がなされ、男性の側での公的な支援がほぼまったくない状況になっている。

引き離された側の支援は、一部の弁護士や民間の手にゆだねられていて、こういった支援の偏りが、双方に対する公平な支援を不可能にしている。それが当事者たちが制度の不公平感に目を向け、その改変のために働きかける動機になっている。

この記事は、こういった構造の不公平さをあまり考慮していないように感じられた。支援の不足の問題を当事者の資質の問題にすり替えているように思えなくもない記事だった。共同養育が可能になるのは、別居親が同居親に理解を示してはじめて可能なのだろうか。つまり、現行の「子育てするのは女の仕事」という社会常識を前提に議論が組み立てられていると感じた(その意味では「単独親権ワールド」)。

共同親権は共同養育権

アメリカで共同養育という言葉が用いられる場合、半々の養育時間の配分か、あるいはそれにより近い養育時間の配分割合の場合を指していて、単純に双方が子育てにかかわるという意味ではないと理解してきた(2019年の国連子どもの権利委員会の勧告の邦訳にあたり、CRC日本は「共同親権」ではなく「共同養育権」という言葉を選んだ)。

例えば、年100日以上の「相当な面会交流」と呼ばれる養育日数は、面会交流権で共同養育権とは呼べないと思うのだけど、この記事の趣旨で言えば、日本のように、月に2時間の面会交流でも「共同養育」と呼べることになる。つまり、子どもに親が二人いる以上、「権利」として実質平等の養育時間(かそれにより近い養育時間)の配分を相手に求める共同養育(請求)権が本来双方にあるのだという前提を、意図的に避けているように思える。

 離婚を切り出された側が、まずは相手の気持ちを受け止めたり、謝ったりしたほうが、協力関係を築きやすい場合があるのはそうだし、ぼくも自分の経験を語って支援することはある。だけど、ぼくもそうだったけど、実際問題本人がそうできないのは、構造に対する不公平があるのに、自分だけがそれを求められるのはしんどいからだ。

支援者が構造の問題について目をつぶり、本人の努力だけを求めるのは乱暴だ。結局本人の気づきを待つしかないという実情がある(これに対して女性支援の側は単純だ。女性は被害者なので、「あなたは悪くない」ということになる)。

単独親権制度を撤廃することが、最低限かつ最大の子育て支援

 特に支援者側が、構造の不公平を自覚しながら、当事者が声を上げるのを待つとなると、当事者の側は当然「え、わかっててあなたは声を上げてくれないの」と思うだろう(記事の発言者がそうしていないというわけではない)。

 共同親権になったからといって会えない親がいるのは制度の趣旨を理解し得ない人や、制度を悪用する人がいるのだから当たり前で、それは共同親権の国でも会えない親がいることからわかる(といっても、日本とはその量と質は全然違う)。

専門家や共同親権の議論を意図的に避けてきた国会議員や一部の当事者グループの間では、共同養育という言葉を用いるべきだという議論があるけど、一般には共同親権という言葉が浸透しているし、法的な支援の不足を議論する場合、むしろ単独親権と共同親権という対照のさせ方のほうが理解しやすい。共同養育は親から見た養育のあり方の問題だけど、子どもから見たら「パパもママも」という実態を直接的に表現するのは共同親権だろう。

つまり、共同養育という言葉だと、単独親権制度があるが故に生じる、支援の障壁や支援のメニューの不足、その背景にある構造の不公正が見えにくくなるのだ(だから個人の資質の問題に行きやすい)。

「子育て改革のための共同親権プロジェクト」が問題提起したのは、「ジェンダーギャップ指数(男女格差指数)」は153か国中121位という数字でもときどき語られるように、結局、根強いこの国の性役割(性差別)意識が単独親権制度を温存させてきたということだ。

逆に言えば、「子どものことで妻とけんかしてもどうせ勝てないでしょう」という、単独親権制度があるが故のあきらめが、「だったら子育ては女がすればいいじゃん」という意識を生み、男性の育児分担が進まない原因になる。引いては女性の社会進出も進まない。

だとすると、単独親権制度を撤廃することが、最低限かつ最大の子育て支援であり、日本の沈滞した社会構造を大きく変える起爆剤になる。この点を積極的に打ち出すことが、今、共同親権運動で求められていることだ。別居親の主張が正義を勝ち得るとしたら、自分たちのことだけ心配していても響かないだろう。

以上指摘して、アエラの記事の執筆者、発言者にも本稿で議論を投げかけたい(読んでくれたらだけどね)。