おおしか家族相談 のご案内

宗像 充(むなかたみつる)

『子どもに会いたい親のためのハンドブック』『引き離されたぼくと子どもたち どうしてだめなの?共同親権』著者。
1975年生まれ。
2007年に連れ合いと別れた後、2年半子どもと引き離された。離婚後どちらかの親に親権を決める単独親権制度に疑問を持ち、共同親権運動ネットワークを発足し、法改正運動にかかわる傍ら、子どもに会いたい多くの親の話に耳を傾けてきた。

【ごあいさつ】


親どうしの関係と親子関係は別物です。
裁判所に行ってもよくて月に1度数時間程度しか子どもに会えないような社会環境は明らかにおかしい。
学校や地域で、片親が追い払われ、子育ての担い手は一方の親だけとされています。親は自分が否定されたような感覚になり傷つきます。
それだけでなく、親が親扱いされないことで周囲に大事にされていないと感じるのは子どもです。

「子どもにとって離婚は家が二つになること」

もっと自然に離婚後の親子が親子でいられるように、子どもが両方の親から育てられ、愛情を感じられるように、あなたのお話を聞かせてください。
今とは違う道筋をいっしょに探しましょう。

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*他、共同養育(面会交流)への付き添い・受け渡し、連絡調整支援等はお問い合わせください

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・商店のある市街地を抜け、橋を渡る手前で左折して坂を上がると、文化財の福徳寺のお堂のある上蔵(わぞ)という集落です。「洸風荘」という民宿の緑色の看板が出ています。それをたどってきてください。
・中央高速松川インターから事務所まで約50分。大鹿村の中心部大河原から約10分。
*お車でお越しの場合は問い合わせください。

共同親権運動

日本では、離婚時に子どもの親権をどちらかの親に決めることで離婚が成立します。裁判所では、親権は先に子どもを確保したほうに与えられます。親権者は子どもの養育責任を一身に負わされ、親権のない親は子どもと会う保証がありません。どちらの親も苦しく、子どもの気持ちは顧みられません。両親が子どもの成長にかかわり続けることで、子どもは親に大切にされているという実感を持つことができます。
共同親権運動は「別れた後の共同子育て」ができる社会と法制度づくりを進める運動です。

共同親権運動、親子引き離しについての活動・相談窓口

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毎月第3金曜日午後7時~9時
松川町社会福祉協議会相談室
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■全国無料電話相談
毎月第1、3金曜日午後7時~8時半
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立憲民主党の親権政策がチルドレンラストなわけ

民法改正法案委員会審議入り

 この記事を書いている3月27日に衆議院法務委員会で「共同親権の導入」に関する民法の一部改正案の政府による趣旨説明が行われ、審議入りした。共同通信はDV、虐待をどう防げるかが焦点と早速議論を誘導している。あたかも単独親権制度がDV、虐待に貢献してきたかのような書きぶりだが、この間、一貫してDV、虐待の認知件数は増加し続けている。

 与党がこの法案を通すという方針を決めて通常国会序盤で法案提出してきたので、野党の対応が注目され、この間、「ちゃんと共同親権」では、銘々野党議員に働きかけをしてきた。立憲民主党や共産党、れいわ新選組の議員には、共同親権に反対する議員が多いので、ぼくは親切でそれら議員事務所を訪問している(といっても1人でやっているので人数的にはたいしたことない)。門前払いが多い。

立憲民主党は単独親権擁護

 3月24日には、長野県の地元の国会議員の杉尾秀哉氏さんのオンラインミーティングが共同親権について取り上げ、立憲民主党の法務担当の米山隆一さんがゲストとして招かれるという形で、党の政策が示された。

 米山氏の説明によれば、まず、面会交流・養育費と共同親権の議論は関係ない。婚姻中は共同親権で問題ない。離婚後においては、協力できる父母は共同親権でいいけど、合意できなければ単独親権。親権者変更で親権のない親が共同親権を持つと困るので、要件を厳しくするような修正か付帯決議を付ける、というのが大方の方針のようだ。その後の立憲議員との面談でもおおむねこの方針は共通政策とされていることがわかる。DV支配の継続を防ぐというのがその理由とされていて、「そうすれば単独親権と変わらない」と支持者と議員の間で言い合っていたのが印象に残る。

 改正法案では単独親権にしたいほうが立証義務を課されるのが危惧されるという。家裁は職権探知で証拠調べなんかまじめにしない。ただ1947年に施行された、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚する応急的措置を講ずることを目的とする、「日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律」は婚姻内外問わず共同親権とされ、すべての子どもに親の保護を可能とすることが目指された。歴史的経過から言えばむしろ歓迎してもよさそうだ。

とにかく不勉強

 ところが米山氏は「 婚姻中は共同親権で問題ない」という。相当ずっこけた。この人は、各国で共同親権へと転換した家族法制が、婚姻と親権制度を分離することを最終的な着地点としてきたことを何も知らない(知ってて言ってるとしたら悪質なのだけど会話中にその素振りは感じられなかった)。

 また面会交流・養育費と親権議論を分離するというのは、おそらく親権議論を決定権の問題に切り縮めるのが目的だ。改正法案は、養育費の徴収強化については立法化した。しかし面会交流についてはこれまで通り(か気休め程度の努力規定)。立憲民主党が面会交流の実現についての立法化の見送りに異議を唱えたとは聞いていない。「会わせたくないけど金はほしい」と言っているだけだ。

 杉尾氏のオンラインミーティングでは、別居親がDVについては刑事で取り組むべきことと主張した。そうすると一斉に不満の声が参加者から湧きあがった。助け船を出そうかとも考えたけど、途中で米山氏、杉尾氏の知識不足に呆れ気味だったので、悪いけどしゃべる気力がなくなっていた。政策的に言えば、取り決めの不在が争いの継続を生むので、養育計画の策定を義務付けることが一助となる(「会わせたくないけど金はほしい」人はこれは避けたい)。

思考放棄と無責任

 現在のDV施策は自力救済という逃亡支援という民事対応だ。なので子連れでうまく逃げられなかった人は男も女も見捨てられる。

 米山氏は弁護士でもあったので、継続性の原則がおかしい、というぐらいの知識と自覚はあった。だけど、親権がほしかったら子どもと離れないように言わないと、クライアントから訴えられる、と「連れ去り」と呼ぶことは否定した。ここに親権を失った側への同情や、親と引き離された子どもの境遇への想像力は感じられない。「大した問題ではない」と思っているのだろう。

 継続性の原則がおかしくて、だけど「連れ去り」とは呼ばないでほしい、というなら、「先にとったもの勝ちとならないような制度設計はいかなるものか」という問いに答えるのが政治家の役割となるはずだ。その答えが「単独親権制度の維持」なので、もはや思考放棄と無責任の合体技だとしか思えなかった。婚姻中の単独親権も主張すべきだ。海外の施策を少しでも調べればこんな結論にはなりようがない。

婚外子差別とチルドレンラスト

 ところで今回の民法改正法案は、未婚や出生前の離婚においては母親親権メインが残り、離婚後の共同親権の導入を自己目的化して法が改変された分だけ婚外子差別を強化している。この点、立憲民主党の議員に陳情する場合のポイントとして強調してきた。米山氏の「婚姻中は共同親権で問題ない」は、逆に言えば「婚姻外の父母は問題ある」と言っているようなもので、共同親権訴訟で司法が言い放った、婚姻外の「差別的取り扱いは合理的」そのままで、司法と同様の差別思考だ。

 そもそも婚姻の有無や親の不仲といった親の関係によって、親と会えたり会えなかったり、子どもから見たら理不尽そのもので、このこと自体が婚外子差別であるとともに、子どもに序列をつけている。法案が成立すれば、離婚後の「共同親権の導入」が現実となり、実際に共同親権での離婚が増え、父母間を行き来する子どもも増えることが予想される。そうすると、父母の不仲で片親との接触を禁じられた子どもは、境遇の差に理由を求めるだろう。

 もし聞かれたら、「政治家たちはそのことを考えようとはしなかったんだよ。特に立憲民主党という政党の仕打ちはあなたに冷たかったよね」と説明しようと、今から思っている。(2024.3.28)

 

 

共同親権民法改正のタウンミーティング開催の陳情を大鹿村議会に出してみた

3対4で不採択

 現在、共同親権についての民法改正案が国会の審議にかけられている。ぼくは子どもと引き離された経験があったので、長年民法改正運動に取り組んできた。そんな中で出てきた法案は、単独親権民法のもと親子を引き離してきた司法慣行を追認する欠陥法案だったので、法案には反対している。国が法改正を急ぐ理由は外圧なので、仮に法案ができなくても国はまた出し直さないとならない。欠陥車のリコールを求めているような形だ。

 昨日14日に衆議院本会議で法案審議が始まった。そして陳情の趣旨説明があった8日には法案の閣議決定が行われている。そして今日15日に本会議採択が行われて結果は3対4で不採択となった(議員は計8人、議長は投票に加わらない)

日本でもっともダーティーな村議会

 ところで、大鹿村議会は2つの常任委員会があり、陳情がかかったのは総務社協常任委員会で委員全員8人が出席している。委員会審議は非公開だ。陳情提出者は委員会で発言できるわけだけど、それを傍聴することもできない。

 自治体議会の公開は地方自治法で定められている。委員会は議会が付託するものだから法の趣旨に従えば公開が原則となるはずだ。しかし村議会規則で委員長権限で公開・非公開を決められるようだ。多数決で非公開を決めているのだろう。悪質なことに、もう一つの委員会も8人全員が出席していて、結局案件の実質審議を密室でするために非公開にしているわけだ。

多分8人で昼間っから宴会でもしているのだろう(そうじゃないと言うなら公開にすればよい)。「村民に言えないようなこと話してるんでしょう」と陳情の趣旨説明の最初で8人全員に向かって言った。

大鹿村は日本でもっとも美しい村連合に加盟しているが、村議会は日本でもっともダーティーだ。村の空はいつも鉛色。

採択の中身

 ところで、一応委員会の審議は本会議で委員長報告があって、伊波ゆかりさんが発表。中身を聞くと不採択意見は「法案に問題がない」「大鹿村だけでタウンミーティングをもとめても」というもの。採択は説明を聞きたいという当たり前のものだった。

 委員会で意見が割れると、大鹿村議会の場合、賛成反対それぞれ代表者が1名ずつ出て討論をする。この辺茶番っぽい。

採択の意見は加藤哲夫さん。親権問題で悩んでいる人が知り合いで2人いて、離婚して前妻の子3人と年3回会っている人と、息子が離婚して子どもと会えなくなって、会いに行って警察沙汰になったことがあるという。どこでもあるんだなと思った。共同親権になって子どもに会うという面では進歩だし、公聴会で様々な意見を聞いて決めるのがいいのではないか、と陳情提出者としてうれしい意見を言ってくれた。反対は、松澤武裕さん。「内容を検討したが必要ない」という。「お前が議員に必要ないわ」と心の中で思ったけど、礼儀正しいのでヤジったりはしない。

 ちなみに委員会審議では子どもと会うために5度裁判手続きをして、今は国を立法不作為で訴えているという自分の経過をしゃべった。そしたら「子どもの意思もあるのに親のエゴだ」という意見が田代久夫さんから出た。子どもに会いたいという気持ちを言わせない社会のほうが間違っているから、社会運動が成り立っているわけだ。否定した上で「子どもが会いたくないと言うのは理由があるけど、半分半分で子どもの養育ができていれば子どもが会いたくないとか言い出す機会は少なくなりますよね」と説明はしておいた。

 大鹿村は島だ。離婚も多く、子どもがそこに巻き込まれないためにも、発言し続けるのは大事だなと思った。

 採択の賛否は以下である。(2024.3.15)

採択  伊波ゆかり、加藤哲夫、宮崎純平

不採択 秋山光夫、松澤武裕、田代久夫、齋藤栄子

(議長 河本明代)

枝野幸男と面接交渉の思い出

 自民党の野田聖子や立憲民主党の福山哲郎が、離婚後の親権に関する勉強会(「親権のあり方勉強会」)を2月9日に立ち上げ、それについての報道が一斉に流れた。この勉強会は法制審議会の要綱案というか、共同親権に反対する議員が中心で集まっている。この中に立憲民主党の創設者で前代表の枝野幸男がいる。2022年8月27日に彼はx上で共同親権に反対を表明している。その際のコメントが以下だ。

「171回国会、2009年のことだったと思います。 当時は、一部の円滑に行くケースについての共同親権はあり得ると認識していましたが、その後、制度を設けると一部にとどまらなくなるリスクが高いことと、制度を設けなくても問題は生じないことが確認できましたので、明確に反対するに至りました。」

 実際に2008年5月8日に彼は非親権者と子の面接交渉についての質問主意書を提出している。当時は面会交流(親子交流)のことを面接交渉と呼んでいた。

 ところで、 「親子の面会交流を実現する全国ネットワーク」という名前だけはたいそうな団体を立ち上げ、国会議員に法改正について頼むために、ぼくが議員会館に行き始めたのもこのころだったと思う。

 そのころは国会議員の間で離婚後に親子関係が断たれることが問題だと認識している人はほとんどおらず、ほとんどの議員が「はじめて聞く話」という顔をしていた。しかし彼は違った。

「弁護士として最後に手がけたのが親権の問題だった。母親の側の弁護をして、どうやったって勝てると思ったのに、負けた。それだけが心残りだ」

 議員事務所を訪問したぼくたちに、彼は悔しそうな表情を見せていた。

「なんでも持ってきてくれ。質問できるから。それから弁護士は運動のやり方を知っている。弁護士を中に引き入れるといい」

 何とかしたいという思いが伝わってきたし、運動の手ほどきまで指南してくれた。

 実際、ぼくたちのちょっと前からFather’s Websiteなどの「面接交渉連絡協議会」が議員会館で勉強会を開き始めていたものの、国会議員の中で、ぼくたちが議員会館を訪問する以前にこの問題に本気で取り組んでくれていたのは彼だけだった。地元埼玉での議員報告会でもこの問題について話題にしていた。ぼくより前から運動をはじめて、今国賠訴訟で原告としていっしょにやってくれている仲間は、後援会に入って彼を応援していた。千葉景子や福島瑞穂は、人権問題としてこの問題に理解を示していたが、彼は継続的に署名の紹介議員になるなど、初志を貫いていた。

 それが一昨年に反対を表明してぼくは唖然とした。

 政治家としての変節ぶりは言うに及ばず、彼が弁護士として最後に手がけた案件のクライアントは、どんな顔をして彼の今の態度を見ているのだろう。そして今までの14年以上の彼の取り組みはいったい何だったのだろう。

「制度を設けると一部にとどまらなくなるリスクが高いことと、制度を設けなくても問題は生じないことが確認できました」というのがウソだというのを一番知っているのが枝野本人だろう。

 「政治家なんてそんなもの」かもしれない。だけど「寂しい人生だな」とも思う。

 彼の変節の理由は何なのか。聞いたところで本音は言わないだろう。だけど議員会館での反対議員の勉強会の報道写真で、腕を組んで座っている彼の表情を見るにつけ、あのときの悔恨の表情を目にしたぼくは、それをどうしても聞きたくなる。(2024.2.11)

SNSで裁判官の名前を挙げると裁判で不利にされる?

 このところ、SNSで裁判官の名前を挙げたり、司法批判をすると、司法判断で反社扱いされて不利にされた、という話を聞くのでその対策について取り上げたい。

 離婚や面会交流の事件で子どもに会えない親が、司法の差別的扱いや暴言についてSNSで触れることはよくあり、ぼくも勧めたりする。というのも、もともと裁判所職員は公務員なので、勤務時間中の名前が非公開なんてありえないし、裁判官は裁判所という組織の名のもとに判断を下すわけだから、最低限名前を名乗ることぐらいが、彼らの責任なのは当然だからだ。そして、単独親権制度のもとの司法では、他方の親を差別することで運営が成り立っているので、必ず彼らの言動に差別的なところがあるのは当たり前で、言わないと改善しないからだ。

 ところで、ぼくもSNSを始めて、裁判中の元妻側の弁護士(森公人と森元みのり等、森法律事務所の面々)に、そこでの書き込みを書証として裁判所に提出されたことがある。ちょっとでも司法批判につながる部分があると、それをプリントアウトして、司法批判をするような反社会的な人間だ、ということを印象付けて裁判官の心象を悪くして有利にするということというのが、彼らの手法だ。それ以外に論理的な主張など彼らにはほとんどない。

 「こんな野蛮人の言い分なんかかなくていいですよ」と裁判官に仕向ける。別に悪いことしてるわけでもないのだけど、裁判官に「あんたの悪口言ってますよ」と告げ口するために、森法律事務所では年がら年中、訴訟の相手方のSNSを監視している。また森が調停委員をしていたように、裁判所と癒着しているので、滅多なことでは裁判所からたしなめられない、と高をくくってもいる。

 ところで、こういったことがなされた場合の対抗手段としては、ぼくはSNSで裁判所批判をするときには、「#森元みのり の書証提出希望」「#森公人 の書証提出希望」と書き添えて投稿することにした。「いいことだからやってくれ」と対戦相手に言われてやるバカはいない。これでほぼ書証提出はされなくなった。

 また、彼らには父親のぼくのことを娘に「つきまという」という暴言があったので、これについては、彼らの主張書面をもとに名誉棄損での裁判と弁護士会への懲戒請求をした。そのことにつき、SNSに事実関係を公表した。子育ては母子密着が多いが、「つきまとう」とか言ったりしないからだ。法曹業界は、別居親差別を前提にした単独親権ワールドなので、手続きは通らなかったが、裁判にあたって彼らの文章表現がやや慎重になった。

 要するに、実名明記の書き込みをするにあたっては、「あいつらが気に入らない」というレベルじゃなくて、それが人権問題なので告発したという体裁をとると、必要な書き込みで世の中のためという理由が立つ。したがって、そのための形式をとるために、「~という人権侵害を受けました」「~というパワハラがありました」「~というセクハラ発言を受けました」といちいち書くのが安全パイだ。あるいは、人権機関への通報や弁護士会や法務局への人権救済申し立て、懲戒請求、司法手続きなどをとり、その事実を公表したり、人権機関に公表してもらうというのが個別アカウントへの攻撃を避けるためには必要なことだ。人権窓口の相談についてのポストがSNSに流れてきたりすることもあるので、そこに事実関係を書き添えてリポストすれば牽制にもなる。

 「家庭裁判所監視団」という団体名で「家庭裁判所チェック」というブログを運営し、寄せられた情報をもとに、「利用者にとって有益な情報提供」という名目で、裁判官や弁護士の実名告発を続けてきたが、このブログにつき意味のある削除要請などは一度もなかった。また、別居親団体はいろいろあるけど、告発があったら団体名で事実を公表したり、裁判所に電話をかけて職員の名前を挙げて苦情と改善を申し入れる、ということは度々した。裁判所は「個別の事件につき対応できない」と逃げるが、人権問題についてその対応はありえないので、「伝えてくださいね」と総務課の職員に言うと、もちろん裁判所職員の態度は変わる。

 近年では裁判官の実名告発につき、裁判の中で報復的に不利な判決を下されるという話も聞くことがあるが、途中で暴言があったときにだけ名前をSNSに投稿するとこういう事態を招きかねない。最初に言ったように、裁判官の名前は公開情報だ。SNSを利用する意図があるなら、手続きを始めた時点で名前を聞き、担当者の名前を最初からSNSに公表しておくのを勧める。いずれにしても、司法は「仕返しされそうだからやめておく」程度の礼儀正しさが通用するような世界ではない。(2024.1.14)

 

「法を私たちの手に」、そして未来を切り開くために

 年の瀬に柳原さんの墓参りに原告の小畑といっしょに行った。柳原賢(まさる)さんは、一昨年亡くなり、半年以上経ってからお母さんから連絡があり、押っ取り刀で富山に向かった。「賢のことでできることはほかにないから」とお母さんは原告を引き継いでくれた。賢さんが亡くなったのは心労を重ねたからのようだ。賢さんの娘さんたちとはお母さんも連絡が途絶えているので、賢さんのことをほかに話せる相手もぼくたち以外に多くはないようだった。

2019年の11月に12人で始めた共同親権訴訟は、その間2名が原告を外れ、柳原さんのご両親が原告を引き継いでくれているので、現在11人で控訴審に望み1月25日は判決日だ。訴訟を継続できる条件の人がその人数だったということだ。先日、古い仲間に電話したら体を壊しているという。沈殿した恨みや憎しみは心身に影響を与える。

ぼくの娘は昨年末に18歳で成人した。勝ちにいまだ至らない訴訟に拘泥する父親を娘は「無駄なことを」と思うだろうか。それとも「なんのために」と興味を持つだろうか。2008年に民法改正の市民運動を始め、多くの仲間たちがその間に病んで亡くなった方もいる。力不足を感じるとともに、「仇をとってやる」とも思う。

控訴審判決に楽観はできない。しかし、一審判決で非婚の親の「差別的取り扱いは合理的」と述べて、自らが抵抗勢力であると旗幟を鮮明にした司法が、どのような理屈で自身の正当化を図るのか、それとも幾分たりとも反省を示すのか、見物ではある。

ところで、ぼくたちは司法の判断をただ漫然と手をこまねいて待っていただけではない。本訴訟と同時並行で国は法制審議会を開催し、訴訟の相手方として法務省民事局から面談を拒否された(請願法違反)ぼくたちは、「私たち抜きに私たちのことを決めないで(“Nothing about us without us”)」という障害者運動のフレーズを借りて、そのための手段として本訴訟を位置付けてきた。

訴訟でぼくたちは、憲法的な観点からの単独親権民法を批判してきただけでなく、現行民法が家制度との妥協の産物であることを、歴史的な経過の中から明らかにしてきた。この観点から見ると、現在の法制審議会の議論が、いかに家制度の枠組みにつかった官僚司法の体制を温存するか、という当事者不在の視点で進んでいるかがよくわかる。

たとえば、法務省お抱えの学者委員の棚村政行は 「今回の共同親権とか監護をめぐる問題でも、特別なルールにするというより、合意ができないときに現行の制度や仕組みを維持するとか、そういうルールを採用しているという前提で、その延長線上で認めるということなのだと思っています。」(32回議事録)と、司法官僚の意図を代弁している。

この発言は、今回の民法改革が、最大の抵抗勢力である司法官僚による、自作自演の「改革偽装」であることの証明でもある。「当事者の救済」ではなく「司法の不都合解消」が国の側の改革のやはり意図であった。

であるとするなら、国の側のスケジュールに合わせて、同情を誘って一定の成果を得るやり方はナイーブすぎるだろう。改革に必要性があるのは国であり、そこでいかに彼らの矛盾を明らかにして世論に訴えるのかが「法を私たちの手にするために」今必要なことである。対抗軸を示しつつ、未完の戦後民法改革の完遂を司法官僚と立法府に迫る、それはぼくたちの共同親権訴訟の狙いでもある。

おもしろいことに、足並みをそろえて、子どもに会えない親たちの罵倒を繰り返してきた、しんぐるまざあず・ふぉーらむの赤石千衣子やフローレンスの駒崎弘樹らが、NPO法人運営の杜撰さの批判の矢面に立ち失脚した。権力は単独親権制度の既得権者の保護を解除しはじめた。ところが、それに逆行するように、もう一つの既得権勢力である弁護士たちは、養育費徴収手続きの報酬の国庫補助を得ることに成功している。パワーバランス上の政策矛盾が露見した格好だ。だとするなら、ここは突かない手はない。出口を止めれば水は別の方向に流れ始める。

この半年間が民法改正論争の最大の山場を迎えることが予想される。いま反撃の準備をしている。負けを重ねてぼくたちが得た経験の中に次世代に引き継がれるものもあるだろう。しかし、幕も上がっていないのに幕引きはありえない。(宗像 充、2024.1.8 「共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会」巻頭コラム)

6・22共同親権訴訟不当判決「家父長制を隠して守り続けよ」

不当判決

 6月22日に共同親権訴訟の判決が出て不当判決だった。東京地裁(古庄研裁判長、石原拓裁判官)は請求を全面棄却している。

 当日は記者席の申請に13席があり、広い法廷の傍聴席が満席になった。被告国から事前に判決要旨の請求が裁判所にあり、国側としてもこの判決で司法が何か言うのではないかと思ったのではないだろうか。というのも、法制審議会の審議を受けて4月18日には単独親権制度の見直し報道がなされていたのだ。ぼくたちとしても、「見直し」と国が言っているのに、現行制度を司法が擁護することは理屈的には難しいので、何か中身のあることを言ってくれるんじゃないかと期待した。提訴からすでに3年半の歳月をかけており、前裁判長は国側に立法目的等の説明を求めてもいた。今さらゼロ回答はないよな……。

ところが唖然。今回の判決は、これまでの親権関連の訴訟の中でももっとも後ろ向きで、かつ差別を積極認定した。通常請求棄却の場合は主文だけ読み上げていなくなるのが多いのが、裁判長は法廷で判決要旨を読み上げた。それが「仕事しない言い訳」を10分も聞かされているようで苦痛だった。

理屈はハチャメチャ

 判決内容についてはこれから弁護団とも検討して控訴審に向けて作戦を練っていくので詳細はここでは述べない。理屈としては単独親権制度による非婚(離婚・未婚)の親への「差別的取り扱い」は、非婚の親どうしの関係が類型化できない以上、子どもについての適時適切な決定ができなくなりうるので合理的。その「差別的取り扱い」を正当化するために、親の養育権が基本的人権であることを否定している。多分に国側の言い分をそのまま取り入れる部分が多く、かつ過去の親権裁判の判例を踏襲して原告側の請求を否定したり、言ってもいない理屈を付け加えたりしている。

 差別の積極肯定なんて理屈はこれまでの親権裁判でもなかったものだ。前例踏襲だけでは原告側の論理を否定しきれず、過剰に非婚の親の権利性を否定し、差別に合理的裏付けを与えなければ自らの理屈自体立てられなかったということなのだろう。そういう意味ではハチャメチャな理屈ではあったものの、「偉い人達って反省できないよね」「そういうことしか言えないんだぁ」と司法への一般大衆の幻滅を最大限に掻き立ててくれて画期的だった。

SNS上では、本判決を書いた古庄裁判長への批判と注目が最大限に集まっている。前例踏襲の司法決定を出した判事への注目が、ここまで集まることはなかったと思う。裁判官的には、前向きな判断は司法の自己否定になるので、渦中の栗を拾う勇気はなかったということだろう(そもそもめんどくさそうだ)。決定後の論争の開始と注目は、負けたとは言っても控訴審に向けて大きな足掛かりになった。逃げ回る司法に追撃を。

組織防衛と改革偽装

 ところで、古庄と石原の両裁判官は、単独親権制度の立法目的について、適時適切な判断をするためと考えられると推測でものを言っている。しかし、前日に公開になった法制審議会の議事録(2023.4.18)では、沖野委員が、「現行法ですけれども、共同生活を営まない父母が親権を共同して行使することは事実上不可能であると考えられたためということだといたしますと、それはその時点においても果たして正確な認識であったのかということが疑われると思います。」と両裁判官の認識自体を否定している。

 そもそも単独親権制度は戸主に全権的な決定権を付与していた戦前の家父長制の名残りにしか過ぎないので、それを「子どもの利益」を理由に正当化すること自体が本質的に無理である。実際古庄と石原の2人組は無視したものの、1947年の応急措置法は個人の尊重と両性の本質的平等という憲法的な価値を反映して、非婚の親への差別を否定して婚姻内外問わず共同親権としている。故に、1947年の段階ですでに「合理的」などという余地はなく、現行民法で残ったのは家父長制と妥協した以外の理由はあり得ないし、実際当時の議論を見ればそれは明らかである。2人組の認定は立法の効果では仮にあっても目的ではありえない。歴史の捏造である。

さらに沖野委員は続ける。

「けれども、現在においては一層妥当しないものになっていると考えられます。したがいまして、第819条を支える考え方というのが現在は維持できないのではないかということでございます。 そうしたときに、子の利益からどれほど望ましくても、また、当事者がそれをどれだけ望もうとも、法的には一方のみに親権者としての法的な地位を与え、それとともに権限や責任を負わせ、他方には親権者としての法的な地位は一切与えないしそれがもたらす権限も責任も持たせないという法制度というのが、果たして適切な法制度の設計であるのかということは、大いに疑問です。」

沖野委員は、法制度の成り立ちの歴史を踏まえた法学者としての常識的な意見を述べたに過ぎない。古庄と石原の2人組は見直しそのものを否定していない。であるとするなら、本判決は「改革偽装」の勧めである。見直し議論は政策論で人権問題ではないと言っているに他ならないのだから。本判決が明らかにしたことは、本当の敵は家父長制にあるということだ。

入管と共同親権

 入管問題で梅村みずほ参議院議員が、支援者にも問題があったのではないかと国会で質問して問題になり、その後、彼女が所属する維新は、法務委員会からの更迭を決めた。この件では、ハッシュタグをつけて彼女を支持する書き込みをSNSでこの間多く見た。

 正直追っかけてきた問題ではないし、彼女の質問の意図もあまりわからなかったけど、支援者が問題だというなら、周囲がどうこう詮索することより直接本人が支援者に聞けばいい。この問題に何年も前から取り組んでいる友人のジャーナリストもそうSNSで指摘していた。展開は逆で質問は「ためにする」ものだったのが見て取れた。それで支持はできない。

 オーバーステイや在留資格が何等かの理由でなくなったりする人が入管に収容され、多くの人が帰国する。それでも帰国すれば身の危険があったり、家族がバラバラになったり、何等かの事情がある人が日本に止まり、先の見えないまま入管では非人道的な扱いを受ける。そういうのは彼のようなジャーナリストが明らかにしてきたので繰り返さない。仮に支援団体に何か問題があったにしても入管に責任はある。別居親団体にも問題は多々あるけど、だから家庭裁判所に責任がないわけではない。

 彼女が法務委員会で共同親権賛成の立場で質問を繰り返していたので、子どもと引き離された親たちが梅村議員を支持したがる理由はわかる。一方で彼女の発言が間違ってないというなら、自分たちが支えるから更迭した維新なんてやめちまえ、と言えばよさそうだけど、そういうのはまだ見てない。

 ところで、入管の問題は、ハーグ条約に加盟する前にそれこそ日本にいる主にアジア太平洋地域からの外国人に対する支援者から話を持ち掛けられたことがある。オーバーステイや在留資格が何等かの理由でなくなったりした場合に、担当部局が退去させることはあるけど、日本の場合は家族がいても引き離して退去させるのをいとわない。アジア地域からの労働者が日本に来て日本人と結婚して子どもができて日本にいられるようになっても、離婚したらいられなくなる。日本にいてもなかなか会えないけど、そうなると日本には来られなくなるので会う見込みはなくなる。また日本に生活の拠点ができてしまえば、母国といってももはや外国だ。そんな状況でも家族を引き離すのを厭わない。

 こういう情け容赦ないことをしているのは日本だけだし、ちょうどぼくたちがハーグ条約の加盟の時期に共同親権を主張していたのもあって、親子を引き離すのを厭わない日本の家族法に問題があるのではと訪ねてきたのだ。当時ぼくは東京で子どもに会えない親たちの相談を受けながら運動もしていた。10年以上前だ。非人道的な日本の家族法の影響を受ける人は大勢いるんだなと当時思ったものだ。

今日のように共同親権に関心を示す人はほとんどいない状況だった。そこに別居親団体以外で、似た問題関心を持つグループの存在はとても励みになった。彼らは積極的に法務省に申し入れ活動をしていたし、ほかの別居親団体と協力していたりしていた。ぼくも相談に来たアジア出身者をその団体に紹介したりもした。その後その団体の担当者がいなくなったので、交流もなくなった。

日本の国籍取得は血統主義なので、外国籍の親に子どもが生まれても在留資格はない。子どもだけ退去を言われることもあると、友人のジャーナリストに聞いた。そんな無茶なと思うけど、要は日本にいられるかどうかの判断基準がない。その要件を決めるのも入管ということになるので、日本から出されれば危険な状況になったり生活の見込みの立たない人にとっては不安で仕方がない状況になる。というような話は多く出回っているので詳しく書かない。戸籍があって共同親権がないというのが、日本特有の事情だけど、だから先の支援者も関心をもって訪ねてきたのだろう。

梅村議員が用いた「不法滞在者」という用語にしてもメディアでは不適切という指摘があった。「非正規滞在者」という表現もあったので、先の友人に聞くと、在留資格が付与されない、更新されないなどの受け身の状況の人にそれを用いるのべきではないという立場からは、入管のようにいっしょくたに「不法滞在者」とは呼べない。そういう事情の例えばAさんについて書くにしても、「入管から『不法滞在者』として扱われている」はセーフで「日本に長らく不法滞在をしている」はアウトになる。「仮釈放」と「仮放免」についてはぼくも誤って用いたことがある。ぼくも無関心で偏見で見ていたということになる。彼女に意図はあったにしても、状況は同じだったのではないかと思う。

この問題に関心を持って見てみると、彼らが置かれた状況は、子どもに会えない親たちとそっくりだなと思えてくる。在留資格は親権みたいなものだ。無権利状況で、司法に事情を訴えても基準もないまま子どもとの関係を維持できるかどうかは同居親の意向次第。権利がないだけで犯罪者のように見られるところまで同じだ。入管法の改正の論点もこの点にあるようだ。彼らを管理と差別の対象としか見なければ、自分たちもそうされても文句は言えない。(2023.5.22)

家庭裁判所解体

 5月13日に行った学習会では、明石書店の『共同親権と面会交流』を引き離され仲間の大山直美さんが解説してくれた。本を読めば離婚事件において家庭裁判所に対する不満は、父母双方に存在することがわかるようだ。そんな中で「家庭裁判所解体」の主張は危険視される向きがあるので、もうちょっと論理的に精緻化したほうがよいのではないかという講師からの提案だった。家庭裁判所には家事事件以外にも少年事件があるので、全否定するのもどうかというものだ。

 「家庭裁判所解体」というのはデモのコールだし、「家庭裁判所の家事部門廃止」とかノリがよくないよね、とか適当に答えたと思う。少年事件がそんなにまともに処理されているようにも思えないけど、解体した後に少年事件裁判所でも作ればいい気もする。こういう批判は、「言えば聞いてくれる」みたいなことを思っている人が言いやすい。要はそういうレベルかということだ。

実際問題、家庭裁判所で嫌な思いをした人は多いし、理屈はまったく通じない。理屈が通じないのがわかっていて、揚げ足をとって裁判所に都合のいい結論に持って行こうとする。どうしてそうなるのかといえば、結局家庭裁判所は戸籍事務の専門機関だということに尽きると思う。戸籍事務というのは、家制度枠内で人々をどう配属して問題が生じればその範囲で温情を施すというのが仕事になる。歯向かえば治安管理の対象にする。

彼らが見ているのは生身の人間の関係性ではなく、どこの家に所属した方がいいかということだけだ。もとよりそれがこの国の治安政策でもあり福祉政策でもあった。民生委員は無戸籍児に戸籍を与えたりしたし、血縁よりも戸籍の形に当てはめることが優先されるので、再婚養子縁組に司法手続きは必要ない。しかし別戸籍になった親権のない親が、家の意向に反して子どもに会いたいと望めば司法が弾圧する。

理屈が通じないのは、せっかく所属がはっきりしたのに、それを乱す振る舞いに見えるからだ。子どもを会わせるように言われることへの同居親の不満は、司法が意義を認めていないことに従わされることへの理不尽さだろう。「月に1回くらい会わせたっていいいじゃない」なんて説得は、「嫌なものよね。でも向こうがうるさいから裁判所のために我慢して」と言っているのと同じだ。

ところで、一体全体、戸籍事務の処理機関の家庭裁判所が、では民法の改革や戸籍の廃止抜きに、現代的な価値観をもった利用者のための実務を行えるだろうか。無理に決まっているが、無理なら無理なりに、実務に携わる職員が、裁判官も含めて改革の提案をするのがあってもいい。ぼくが会った家庭裁判所改革の旗振り役の中山直子は、戸籍実務の枠組みから一歩も出ない古臭い価値観で、ぼくの揚げ足をとることに血道を上げるだけの人だった。

法制審議会の家庭裁判所代表は「ちゃんとやっている」としか言わないで、利用者の不満の所在が何なのかを把握しようとする気すら感じられない。同居親・別居親の対立の問題ではない。家庭裁判所がよって立つ価値観が現代の価値観に合っているかどうかを問い返す人に、家庭裁判所関係者の中でこれまで出会ったことがないというだけだ。こういう現状の家庭裁判所に、解体以外の何か期待できるのだろうか。(2022.5.16)

議会政治と共同親権運動

 5月14日に『面会交流と共同親権』という、共同親権反対のための本の学習会をして、反対意見にどういう反論や対応をしていくのか、という議論を10数人でした。大山直美さんが本を読んで論点をまとめてくれた。

 この本は、これまで出てきた反対意見を整理・焼き直しているということのようだ。もちろん都合のいいデータや事例も盛り込まれている。タイトルだけ見たら、反対派の本とは思わないので、購入した人は共同親権へのマイナスの印象を持つという仕掛けだ。

この間、共同親権への反対意見は、政党で言えば共産党やれいわの所属の人が目立って発言している。護憲派とも言われる。一方で、共同親権に賛同して発言する議員は、維新や自民に多い。一般に改憲勢力と見られている。

通常であれば人権問題は護憲派が取り組み、改憲派が反対することが多いので、この問題においてはねじれて見える。子どもに会えない親の中にも、この賛成反対の構図から、政権政党の言うことを聞けば法改正につながると思って、左派なら何でも目の敵にしたがる人がいる。補助金の杜撰処理が民間人から指摘されて問題化したコラボの問題では、コラボ側の弁護士が共同親権反対で目立っている人とかぶっているので、いっしょになって暇空茜を応援している人がいる。そんなに単純な話なのだろうか。

大山さんは、反対意見の人たちが懸念しているのは、かねてより自民党の改憲運動でも意図されてきた憲法24条改憲で、国家が家族に介入することへの嫌悪感ではないかと指摘している。

現行憲法は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。 二 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」となっている。

自民党憲法草案は以下だ。

「一 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。 家族は、互いに助け合わなければならない。 二 婚姻は、両性の合意に基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」

自民党草案からは、「個人の尊厳と両性の本質的平等」という文言が抜けている。一方で1項はもっともらしく見えるものの、「家族」が何を指すのか曖昧だ。この「家族」が「戸籍」ということであれば、戦前の家父長制の復権ということに直結する。

「赤いネットワーク」と左派のことを言いたがる連中は、社会主義は家族を解体する危険思想だとレッテルを貼りたがる。じゃあ日米合同委員会で、大日本帝国憲法を廃止したアメリカと政治交渉したほうがいいんじゃないかと思うけど、そういうことは言わない。

ぼくは現行憲法を守る意思のない政権政党が改憲を推し進めたところで、論理的に考えて新しい憲法を守る見込みは0なので、そんな改憲なんて「俺様の言うことに歯向かうな」以外の意味はないと思う。一方で、「個人の尊厳と両性の本質的平等」という現行憲法の価値を掲げて憲法訴訟をはじめたぼくたちに対する、左派政党や知識人の冷淡どころか敵対行為を見ると、お前ら同じ穴のムジナじゃないか、と素直に思う。右翼が危険思想とか言いたがる理由もわからないでもない。少なくとも護憲派なんて掲げないでほしい。

ぼくは市民運動をしてきた経験から、右だろうが左だろうが政権政党の不正は敏感になりやすい。権力を握っているのでその影響は甚大だ。一方で、コラボのように社会的弱者の支援を掲げて活動をしている団体だからといっても、なんでもかんでも味方するわけでもない。議会政治優先の政治活動家はそうしたがるけど、共同親権に賛同してくれるからといって、その議員の活動に何でも賛成するわけでも擁護するわけでもない。

別に不偏不党とか正義感からそういうふうにしているわけじゃない。よく知りもしない問題に対して、やってる人間がかぶるからと敵対すれば、敵の敵を味方にするしかない。そうすることで自分が知りもしない人を敵に回すことにもなる。自分で判断するのを放棄しているだけだし、逆に言えば、「同じ陣営」と自分が名乗り出た側が問題や不祥事を起こせば、否応なく巻き込まれるからだ。

そんなことを考えていたら、早速共同親権賛成で歯切れのいい質問をしていた梅村みずほ議員の入管法問題での発言が話題になっていた。この件についてぼくは詳しくない。ただ、法務省が親子を平気で引き離して強制送還する問題があることは知っている。過去離婚に伴い強制退去になり家族と引き離される外国籍出身者の支援をするグループと、ささやかながら運動もしたことがある。

そのことを思い出して、ちょっと前にこの問題に取り組む友人のジャーナリストに電話して、「そんな野蛮なことをするのは日本だけ」と再度確かめた。彼は梅村議員の発言に対して、さっそく「病気になれば仮放免してもらえる」という例がないとSNSで述べていた。

日本人の未決囚が病気だから釈放してもらえるなんてことがないわけだから、入管がそんな人道的な扱いをするなどありそうにない。もとより離婚に伴い親権を失った親たちは、戸籍を異にする他人なのに、その枠を脅かす「アウトロー」として弾圧されてきた。「日本人」の証としての戸籍にすら入れない外国出身者の地位はなおさらだろう(友人によれば、欧米諸国とそれ以外の国の出身者では差別があるということだ)。(2023.5.15)

復古主義者の木村草太を憲法集会でしゃべらせるのか?

憲法学者の木村草太を立川の市民運動は憲法集会で呼ぶという。

やめとけ、と知り合いに言ったけど、やるようなので、彼がどういうことをツイッターで日々言っているかを紹介しておく。

なおぼくは、子どもと引き離された経験のある父親であり、現在、現行単独親権民法の違憲性と立法不作為を訴えて訴訟をしている。司法手続きは主なものでも5度ほどとっているが、現在子どもと会えていない。木村の言うほど司法は公平ではない。

木村の主張は母性神話を性中立的な装いをとりつつ刺激する形で、家制度を擁護するものだが、日本国憲法施行時、1947年には現行民法施行までの半年間、応急措置法により、婚姻内外問わず、共同親権を適用しており、共同親権で離婚した夫婦もいる。

この応急措置法はその第一条で「この法律は、日本国憲法の施行に伴い、民法について、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚する応急的措置を講ずることを目的とする。」と述べている。

天皇制と戦争を支えた明治民法の家制度が、GHQの指示により外見上、廃止させられたが、憲法の理念を徹底したのは応急措置法であり、現行民法ではなかったことが明白である。

家父長制を構成した親権制度は戦前は一律父親単独親権だった。戦後民法は、婚姻中のみ共同親権を適用し、法律婚の保護による家制度の温存を、個人の尊厳と男女同権に優先させた結果だという歴史的な事実がある。

憲法学者の木村が、この事実を知っていたなら悪質だし、知らなかったらただのバカだが、もちろん、ぼくが憲法訴訟を提起してからの彼の言動は、訴訟妨害にしかならなかった。

平和を語る集会テーマで、復古主義の学者を起用するのは人選ミスかコントにしか思えない。

なお、親権問題については、市民運動や左派政党は、議論から逃げまくって今日に至るが、そういうズルい態度はいずれしっぺ返しを受けるのは目に見えているので、前から指摘しているけど今回も指摘しておく。

以下木村のツイッター。

木村草太

@SotaKimura

·4月6日

離婚後に子どもに会いたいのなら、面会交流を公的に支援するシステムの導入を求めて活動した方がいいと思う。

「子連れ別居の一般的な違法化」も「非合意強制型の共同親権」も、おそらく実現しないし、仮に実現しても、子どもに会えるわけではないから。

木村草太

@SotaKimura

·4月12日

私も、主張内容を精査すればするほど、「支配権を離れたこと」への怒りが、共同親権を目指す人たちの原動力なのだと考えるに至った。

木村草太

@SotaKimura

·4月12日

「ある日帰ったら、子どもと共に配偶者がいなくなった。子どもに会えなくて辛い」という割には、面会交流の手続きを取らなかったり、面会交流支援団体を使いたがらなかったり。司法も含め、第三者の支援を断るところが、「子どもに会いたい」より「自分の思い通りにしたい」にしか見えないんだよね。

彼を憲法集会で呼ぶということ自体、もう憲法擁護の活動ではないということを最後に述べておく。