トークセッション  共同親権が世間に伝わってこなかったのは、なぜ?

最近「共同親権」という言葉をメディアでも聞くようになりました。親がたとえ別れても、子育てはともに担う社会の仕組みです。日本以外の多くの国はすでに単独親権から共同親権へ移行を遂げています。EU議会は、親による子の連れ去り問題の解決を日本政府に求める決議を上げています。単独親権制度の違憲性を訴える裁判も始まりました。

 子どもに会えない親や子どもは、十年以上前から団体を作り、単独親権制度の改廃を訴えてきました。ところが国はいまだに、海外からの批判を「誤解」と公言しています。メディアも、こういった批判に対し、検証し市民に伝えることには及び腰です。背景には、親権報道に対する口封じや性役割をめぐる議論の混乱があります。

 何が親権報道の現場で起きてきたのか。困難な課題に挑戦してきた二人が提起します。

日時 2020年1010日(土)13:00開場13:30開始~15:30

場所 船橋市勤労市民センター(千葉県船橋市本町4丁目19-6)3F第三会議室

JR船橋駅南口から徒歩約5〜6分・京成船橋駅東口から徒歩約4分

発言

牧野 佐千子さん「共同親権報道で体験した言論弾圧」

<プロフィール>ジャーナリスト。早稲田大学卒業後、読売新聞記者、JICA青年海外協力隊員(アフリカ・ニジェール)、研究機関広報などを経てフリーランス。共同親権に関するネットニュースを書いたことで、大量のクレームを受けた経験あり。

宗像 充「親権報道、伝える側と伝えられる側」

<プロフィール>ライター。共同親権国賠原告。「メルマガ共同親権」を運営。おおしか家族相談で別居親や家族の支援を行う。非婚の父として親権がなく、人身保護請求で2007年に子どもと引き離され、今も制約された環境下で子どもと会う。著書に『子どもに会いたい親のためのハンドブック』。

参加費 1000円 会員でなくても参加できます!

※要予約 20名まで

主催 共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会

(予約先)TEL 0265-39-2116 メール kkokubai_contact@k-kokubai.jp

バイキン非国民宣言

 千葉県に娘がいるので、長野県に住むぼくは毎月上京している。連れ合いの実家が宿泊業の関係で、帰宅するとコロナ感染を恐れた実家の希望で、2週間隔離せよと指示が出た。不本意ながら従ったものの、気持ち的には公的な場に出向くのも気が重い。東京では混んだ電車や居酒屋に行く人も見る。自治会関係の行事参加は村の発言権の担保だし、家で一人でいると「公民権停止」と感じてしんどくなった。

 コロナの死者は餅でのど詰まらせて死ぬ人の数と互角だし、インフルエンザの死者は一万人を超える。長野県の場合(コロナ死1名)、キノコ採りで死ぬ数のほうがはるかに多い。マスクを呼びかけるなら餅つきやキノコ採りも禁止だ。飯田では感染者宅に石が投げられたという。実際の感染(メディア発表は正確には陽性者)より怖いのが風評なら、熱が出ても黙って家で寝てればいい。

東京の友人に電話した。「近所づきあいはないのは東京じゃ普通」「ぼくは引きこもるの好きだから今のほうがいい」……気持ちが軽くなった。「まともな国民」意識がコロナファシズムを生み、マスクをさせ、次はワクチンで人体実験だ。だったらぼくは「非国民」。東京の人たちよ、いっしょに「ばっちい」と言われよう。(宗像充 大鹿非国民)

(2020.10.1Alert)

絶滅したはずのニホンカワウソが高知県で発見!? その「証拠」とは

4年間に収集した「カワウソ生息の証拠」を公表

「はじめて見たときに、『カワウソや』と断定した。これはえらいこっちゃと……」

カワウソらしき動物が映っていた

5月6日、中央右に頭を右に向けたカワウソらしき動物が映っていた。赤外線カメラの画像 

2016年の目撃以来、高知県大月町の海岸でカワウソの調査を続けている「Japan Otter Club」の大原信明さん(公務員)らは9月16日、高知市内のこうち男女参画センター「ソーレ」で会見を開き、過去4年間に収集した「カワウソ生息の証拠」を公開した。  大原信明さんがその動物に最初に気づいたのは、2016年7月21日の夕暮れ時。「もしいたらスクープやろ」と大原さんが呼びかけたのをきっかけに、仲間と手持ちのカメラで撮影を試み始めた。  

ニホンカワウソは2012年に環境省が絶滅宣言を出している。2017年に対馬に生息するカワウソの動画が発表されたものの、DNAでは韓国のカワウソの仲間という結果もあり、論争を呼んでいる。  

大原さんたちが大月町に来た目的は釣りキャンプで、目撃はまったくの偶然だった。その後、仲間3人で同じ海岸に何度も調査に出かけた。

「見たのは100%カワウソ。自信はある」と大原さんは語る。海から出した顔の前半分がつぶれたような形で、下半分が白く動物園で見たカワウソの特徴と同じだった。  

会見では、この間に撮りためた動画や赤外線カメラの写真、食痕や巣穴など、最初に見た地域の周辺で得られた複数の証拠を示した。動画では、前面が白い動物が海面に顔を出したり泳いだりする動物の姿が映っている。

 調査地点近くでは海に小川が流れ込み、人が近づきにくい場所も多い。集落はあるが人家はまばらだ(筆者も現地に行ったことがある)。3人が直接「カワウソ」だと認識した目撃回数は104日間で6回。  そして2020年5月、近くの小川にしかけた赤外線カメラに、カワウソらしいシルエットが映っていた。これを見て、これまでの調査結果の公表に踏み切った。

写真解析の結果、「カワウソ以外に考えられない」

調査結果を公表した大原信明さん(後方)、土井秀輝さん

調査結果を公表した大原信明さん(後方)、土井秀輝さん「岸壁のすぐ下にいたときは、寝ぼけていてタモ網を取りにテントに戻った。網ですくえると思ったほど近くだから間違いようがない。ただ客観的に見て、写真の解析から見ても、消去法でカワウソ以外は考えられない」  

4年間の調査結果を解説した「Japan Otter Club」の土井秀輝さんは、そう強調する。2020年5月の写真は不鮮明なので独自に動画を解析した。5月6日午前2時に撮影された画像では、シッポの付け根が太くてカワウソらしい特徴が見て取れる。

「近くの岩のクラックの長さとの比較で、体長は87~107cmほどだとわかった。イタチとは明らかに大きさが違う。混同されやすい動物としてハクビシンがあげられる」  

さらに土井さんは、定量的な比較を試みた。

「複数の動物写真から比率を求めました。全長に対する尻尾の割合は、高知付近を生息地としていたニホンカワウソと同類のユーラシアカワウソが平均33.9%。写真の動物の比率は35.1%で、これに近い。ところがハクビシンの場合は42~44%とまったく違う。

 また、尻尾部分の傾斜角(テーパー)は、同じく、ユーラシアカワウソが1/6.05~1/9.06で、この動物は1/9.05。ハクビシンは1/19.5~1/25.4。四股の左足内側、顎から四股内側にかけて写真で白く映っている部分の個所は、カワウソには当てはまってもハクビシンには当てはまらない」  

ということで、ハクビシンである可能性はなさそうだ。

小川近くの岩の上に散乱していたカニの食痕

小川近くの岩の上に散乱していたカニの食痕「また、歩く時の腰の盛り上がりはカワウソの特徴。見た目の体形、数値的な体形ともにカワウソに限りなく近い。何人かの研究者にも見せたが『カワウソではない』という研究者は一人もいなかった」(土井さん)  

それ以外にも今年8月の調査では、沢の近くの岩の上に数100匹の小カニの食痕があり、「獺祭(だっさい)=獲った獲物を並べるカワウソの習性」の状態となっていた。 「韓国のユーラシアカワウソ研究者に見てもらったところ、『カワウソの親子が餌の取り方を教えた食痕に似ている』との回答があった。大きさの違うカワウソを別々に見たこともあり、生息しているだけでなく子孫をつないできたのでは」(土井さん)  

国内ではDNA調査の結果、四国地域のカワウソはDNA上もオリジナリティがあるとされ、土井さんたちの示した証拠はニホンカワウソ生息の可能性を示唆するものだ。

地元自治体の観光協会が情報窓口を設置、さらなる目撃情報を求める

ニホンカワウソの等身大フィギュア

越智町観光協が入る「おち駅」に設置された、ニホンカワウソの等身大フィギュア(熊谷さとし作) しかしニホンカワウソは1979年の須崎市新荘川での目撃・撮影を最後に生息情報が確認できず、環境省は絶滅宣言を出している。

「絶滅宣言は大きな誤り。取り消してほしい」と、大原さんたちは口々に反論する。 「環境省は絶滅の目安として『50年間確実な生息情報がなかったこと』をあげている。しかし2012年の絶滅宣言は新荘川での確認から33年しか経っていなかった。もともと、絶滅の根拠もなかったんです」(大原さん)  

高知県、愛媛県、徳島県はレッドデータブック(絶滅のおそれのある野生動物の情報をまとめたもの)で、ニホンカワウソについて「絶滅危惧種」としたままだ。これについては、環境省が「いない」と言った影響が大きい。

「みなさん頭は『絶滅』で固まっている。それらしい動物を見ても自分で否定するし、情報を行政に寄せても調査にはつながらなかった」(同)  

今回、大原さんたちが働きかけて、仁淀川流域の越知町観光協会が目撃情報等の受け入れ先を引き受けた。さらなる証拠で生存が決定づけられれば、絶滅説は一掃されるだろう。

「仁淀川でも複数の目撃情報があり、調査地域も広げたい。実はあちこちに、少数だが生息しているのではないでしょうか。『まだ生存している』と、頭を切り替えてほしい。市民から情報が寄せられれば、さらなるカワウソの調査や保護につながっていくと思います」 文・写真/宗像充

ハーバービジネスオンライン
https://hbol.jp/228724

コロナパニックで娘と会う

「お子さんのお気持ちを考えてみてください」

 今回は警察官が2人現れた。日曜日の午後2時に、千葉県習志野市の駅の交番の前で娘を待っていた。

 元妻との間には中学3年生になる娘がいて、今14歳だ。彼女の連れ子の女の子もいて、今高3になっているはずだ。2007年に別れて、裁判所の決定が出た2010年から隔月や月に1回という頻度で子どもたちと定期的に会ってきた。上の子は中学校に上がるときに「会いたがらないから」と一方的に元妻に伝えられて引き離されていた。

 下の子も中学校を卒業した段階で、行く予定だった公立の中学校に行っていないことがわかった。会ったときに本人に聞いても言わない。

この日は事前に母親側の弁護士から郵便で連絡があり、娘を待ち合わせ場所の交番前に行かせないと伝えてきていた。そうはいっても、実際に現地まで行ってみなければ、娘が本当に来るかどうかはわからない。

この間いっしょに付き添ってくれる友人2人と交番前で待っていたら、予定の時間に娘ではなく、元妻の再婚相手が現れた。

 娘といっしょにすごす取り決めは午後2時~6時までだ。その間、娘はぼくに「うざい」「死んでしまえばいい」「お前なんか父親じゃない」とか悪態をついて、中途で帰ってしまう。追いかけるとけられたり殴られたりしたこともある。思春期の娘の反発としてはありうる範囲かもしれないし、「傷つくんだよ」と口で伝える。そうかと思えば、娘が生まれたときのことや昔いっしょに遊んだときのことを話すと、ボロボロと涙を流すことも度々ある。

一年ほど前に、元妻の再婚相手が、インフルエンザによるキャンセルを伝えてきた後、日程の調整という名目で連絡をよこし、結果会えなくなったことがある。

裁判所から注意をしてもらうと、再び娘がやってくるようになった。最近、元妻の夫が近くの銀行のロビーからぼくたちが会うのを監視していることがわかった。彼は元友人だけど、娘との直接のやり取りを邪魔するようになったので、別の友人に付き添ってもらっている。

この日付き添ってくれた一人は彼との共通の友人だ。しかし彼はぼくたちのほうではなく、交番に入っていった。娘を引き続き待っていたら交番から警察官が現れた。

彼のほうは、娘が書いたという手紙をぼくに手渡そうとしたけれど、娘から直接渡されるでなし、彼から受け取るものでもないので受け取りを拒否した。

 娘が来ないなら来ないで娘の自宅に安否確認に訪問する予定だったし、以前もそうしたことがある。それを彼は嫌がって、何の容疑もないのに警察に相談し、彼の意向を受けた若い警察官が手控えるようにぼくを説得しようとして言ってきたのが冒頭の言葉だ。

「中学生の娘が男親に反発したりするのは普通ですよね。でもね、こうやっていろいろあっても父親が足を運んできているということは、今は意味がわからなくても、娘が大きくなって物事を客観的に見られるようになったときに、わかるようになるんじゃないでしょうか」

 いつもこういう場面で答える説明をこの日もした。

 その後、警察官たちは、ぼくを問題を起こす迷惑な存在としてではなく、娘の父親として見るようになった。もともと民事不介入で、警察官が間に入って交渉の仲介をする権限はない。「彼が問題を起こさない限りこちらにも付き添いもいるので問題は起きませんが、そんなに心配ならあなたがたが同伴して安否確認をすればいいでしょう」と言うと、「何かあったら所轄の署に連絡してください」と、交番前での足止めは終わった。

ぼくたちは友達の車で自宅訪問をし、インターホンを押して誰も出てこないことを確かめ、子どもたち2人への手紙をポストに投函して引き上げた。

 日本では、親が別れた後に二人の親が子育てを継続するという発想は弱い。新しく家庭を持っているのに、別れた子どもと会うなんておかしいという発想は逆に強い。

子どもから見たら親は二人いるので、どちらかの親だけが子どもを見るというのは、親の都合を押し付けられていることになり、海外では共同親権という考えが生まれてきた。それを求めて国を訴える裁判を起こし、新聞記事になったりした。

「会えなくてもそのうち会いに来るよ」

 と慰めなのか言われることはある。

だけど原告の中には、子どもが大人になっても会いにこないどころか大人になっても父親に住所を隠すケースもある。それでも子どもが気になるのか、彼は役所とやりあう。会いに来なければ親子の関係はそこで途絶える。別れた親どうしの関係が難しいのは普通だし、別れた相手の悪口を子どもに言って子どもが片親を拒否するようになるのは、ぼくたち親子でも同じで珍しくない。

制度で起きている片親の引き離しに国は責任を負わないし、当事者には何のケアもない。子どものことよりも、家や周囲の目を考えれば、そのほうが大人にとっては都合がいい。自分が子どもに会えなくて寂しいという思いはやがて薄れる。しかし、意図せず引き離され、子どもが捨てられているのではと悩む親は、自分を苦しめ続ける。

 社会から疎外されがちな別居親という位置から人々を見ていると、コロナのもとでの人々のふるまいもよくわかる。

 コロナの対策として外出規制が世界中で流行った時期がある。今も人の移動に対する人々の目は厳しい。そんな中、毎月ぼくは東京を通って千葉に出かけ、東京と長野の二つに分かれた別々の世界を見続けてきた。

 欧米各国では、外出規制の例外として、国が別居親子の関係の継続指針を出している。子どもから見れば父母両方の家が自宅なのだから、外出規制は帰宅制限になる。国が帰宅を保護しなければ、親子関係という人権が、感染拡大を名目に損なわれてしまう。人々の移動が少なくなり、町に人がいない中での少人数の移動を感染予防と調和させることは、技術的にも難しくない。

 ぼくも所属する別居親のグループも、アンケートで苦境を示し、同様の指針を国に何度も求めた。国はこれに正面から回答せず、オンラインでも面会を活用するようにとホームページに掲げた。子育てには、難しい思春期の子の対応やおむつを替えるなどもある。どこの世界にオンラインで子育てする親がいるのだろう。

 それでなくても約束がなければ引き離されるのに、話のできない相手に一時的に取り止めを申し出れば、永遠の別れになることは目に見えている。会いに行く行かないは選べないし、子どもが親を選べないように、親も親であることをやめられない。

何しろ、子ども視点で考えれば、別居親に会うのが危険なら同居親と暮らすのはもっと危険だ。子ども視点で感染予防を突き詰めれば、子どもは施設に入れるしかない。しかし子どもはコロナにかかっても軽症ですむし、肺炎になって死ぬのはインフルエンザでも同じだ。

 受ける影響は大きいので、コロナに関する情報を自分なりに検討してみた。

 毎日テレビに感染者数が出てくるが、これは検査で陽性だった人の割合で間違いだ。コロナウィルスは移りやすいが、ほとんどは自然免疫で症状が出ないし、出ても軽症ですんでいる。現在の死者数は1万人を優に超えるインフルエンザの死者数の10分の1にも満たないから、恐ろしい疫病とは程遠いけど、マスコミはこういった比較を行わない。テレビは危機を煽ったほうが視聴率がとれる。コロナ以前、報道番組は低視聴率にあえいでいたが、コロナ特需で持ち直している。

PCR検査というのは、遺伝子を増幅させて読み取る検査の手法だ。増幅の回数で検出率は上がる。アメリカでこの検査の増幅回数を上げて「感染者数」を水増ししていた事実が明らかになっている。

すでにコロナウィルスへの暴露という観点からは、日本の状況は集団免疫に達しているというのを、免疫学者も言っているし、毎日のように、医学の観点からコロナ対策の無意味さやマスコミ批判をネットで続ける大学教授もいる。

そもそも感染者は次に似たようなウィルスが出てきたときに、免疫という観点からは人々の防波堤になる重要な役割を担う。だいたい元気な人はかかっても軽症ですむのだから、黙って家で寝て直したほうがいい。

感染者を社会から排除するのは、感染者を出し営業停止措置に対して保証したくない行政の都合にほかならない。本当にまともな対策をしたいなら、科学的な観点からのコロナの危険性(の少なさ)と過去の政策の無意味さをあらためて説明し、なおかつ感染によって偏見も含めて暮らしがままならなくなった人への生活保障を国がすれば偏見もなくなる。

先日、こういった視点を東京の別居親の仲間にしゃべってみた。

「こういうのはみんな世間では実のところ知られていることじゃないでしょうか」という。

国の政策の誤りや数値の操作を多くの人がうすうす気づいている。だから東京では、飲食店に客はいるし、電車もお年寄りの姿を見ることは少ないけれど、そこそこ人が乗っている。周囲で死者が次々出るような状況でもないのに、意義を感じない生活上の制約を受け入れ続けるのは難しい。

しかし別の視点を持った報道はテレビではなされない。自らが洗脳した視聴者の反発をテレビは恐れ、流す情報を統制し、コロナとの戦いを続けさせる。これが、効果がないとうすうすわかっていながら、マスクをみんな外せない理由だ。

社会に正気を取り戻し敗戦からの復興を急ぎたいなら、自らが「非国民」と名乗り出るしかない。

一人じゃない、別の見方もあると確認するために、同じ悩みを抱えるもともと疎外されてきた別居親たちの話しを聞き続けていたのは、お互いに孤立して闇夜に投げ出されることを防いでくれていたようだ。社会全体が周囲から自分がどう見られるかという視点だけを気にするように人々に仕向けている。

そんな中、それとは違う見方があると伝えられる存在があることは、子どもに限らず、多分貴重なことなのだろう。

(2020.9.18、越路18号、たらたらと読み切り158)

養育費に悩んでます

新算定基準が親たちを苦しめる

 単独親権制度の撤廃を求めて国を訴えた、共同親権運動のホームページに養育費のピンハネ問題について声明文が載せたからか、相談やホットラインで養育費に関することについて問い合わせが増えた。

 DVに苦しんだシングルマザーが精神的に不安定になって虐待するといったような記事は少なくない。別居親のほうも、一様に家族と引き離されて不安定になっていたり、鬱状態になっていたりすることは多い。相手からはDVがある場合も少なくないけど、子どもとの引き離しは虐待だし、強いられた環境に不適応になるので、そうなるのは当たり前だ。男性の場合は支援も行き届かない。

 そんなわけで、仕事を続けられなくなって転職や休職をしたり、部署替えで給与を減らされたりすることも多い。そうなるとこれまでの養育費は支払えなくなるので、元妻(夫)と話したり、減額調停を裁判所に申し出て負担を軽くせざるをえない。双方が一時的な環境の変化によって子育てが困難になったら、国が児童扶養手当という形で母子(父子)世帯を支援することになる。

 ところが、昨年12月に最高裁判所が提示した新算定表で計算しなおすと、減額どころか増額になり、減額調停を取り下げる判断をせざるをえなくなったという話が入るようになった。ほかにも減額調停を申し出たほうがいいんでしょうかという相談を受けるのだけど、あらかじめ算定表で確認しないと、調停を申し出たばかりに負担が増えるということになりかねない。

 こういった相談が入る時点で、この新算定基準は失敗だったということがよくわかる。

入った相談は父親たちだった。彼らは払う意欲があるけど、負担が大きいので減額したいと言っている。別れた後も養育にかかわろうとするいい父親を虐待してどうするのだ。やがて意欲を失って支払わなくなったらどうする。

勃興する養育費産業

 そこで登場するのが、養育費ピンハネビジネスだ。すでにピンハネは子どもの権利侵害だという認識は広まりつつあるので、相談が入る。

 特に問題なのが、こういったビジネスが、元夫(妻)とのかかわりをもちたくない人をターゲットになされているところだ。特に相手との関係が面倒になって子どもを引き離し、そうなると父親(の場合)のほうも養育費を支払いたくなくなって滞る。そこで母親の側はスマホで手軽に申し込める徴収代行ビジネスにアクセスする。

 父親のほうは子どもと会えれば支払う意欲はあるのだから、徴収代行ビジネスの弁護士事務所から弁護士口座に振り込むように連絡が来ると、事情を話してその点についての元妻との話し合いを弁護士事務所のオペレーターに提案する。しかし、オペレーターは交渉事務は非弁行為になってできないので(すでにこの時点で非弁行為の可能性はある)、一方的にもともとある取り決めでの徴収業務に進むことになる。

 もともと支払えなければ自己破産も選択肢だけど、社会的信用は失う。しかし、自分の生活を犠牲にしてまでピンハネに協力するのは納得がいかない。

 ここで得をするのは誰だろう。

 父親から直接母親の口座に振り込むことができたなら、母親側は子どものためのお金を満額受け取り使うことができる。しかし父親は母親と話ができず、子どもと会えもしない状況では、そのお金がほんとうに子どものために使われたか不信を抱き、支払いを躊躇する。徴収代行ビジネスはこういった父親からも、もともとの取り決めに基づき取り立てることはできるだろう。子どもは父親への思慕を絶たれ、母親は受け取れるはずの養育費が目減りし、そして、徴収代行ビジネスは子どもが成人するまで毎月一定の額を手にすることができる。こんなおいしいビジネスやめられない。

母親側のマイナス感情から、こんな産業が成長しつつあるけれど、やってることは子どもと別居親の搾取だ。奴隷貿易と変わらない。

決まったこと以外は子どもに会っていけないのか?

こういった質問を受けることがままある。

 裁判所に面会交流を申し立てると、月に1度2~3時間という決定が出されたりすることがあり、あまりに頻度や時間が少ないので疑問が出やすい。また調停委員も、「監護者の同意なく子どもには会えない」と平気で言う人がいる。実はぼくもつい先日の調停でそう言われた。

面会交流とは何か?

 取り決めがなければこういった疑問が湧く余地もない。何しろ「親が子どもに会うだけのこと」を制約する法律はどこにもない。ぼくも「そんな法律ないよ」と調停委員に言った。

 民法766条は、離婚後の子の監護については協議で決め、協議ができないときは裁判所が決めるという規定だ。2011年に「面会交流」と養育費についての規定が付け加えられた。それ以前は、「子の監護をすべき者その他監護について必要な事項は、その協議で定める」だけだった。

当時、榊原富士子弁護士が、この規定をもとに、単独親権においても共同監護は否定されていないと主張していた。裁判所は、親権と監護権は一体であると見るほうが楽なので、面会交流を監護とは認めない傾向が強く、したがって、月に一度2時間程度の、監護とは言い難い頻度の決定を出しがちだ(実際には、月に1回3時間以内という、FPICの支援基準に沿っているだけ)。

しかし、2011年の改正において、「この場合においては、子の利益を最も優先して考慮しなければならない。」と付け加えられたように、子どものためには面会交流がよいという趣旨の法改正だから、面会交流は「別居親の養育時間」としての監護(「身の回りの世話」程度の意味の法律用語)と呼ぶほうが、法解釈としては素直だ。

背景にある親権差別

 調停委員や一部の法曹には、単純に「親権者(監護者)が子どもの面倒を見るのだから、別居親の関与はその許可がいる」と考える者がいる。特に子どもを連れ去り引き離すことが親権確保の手法として定着しているので、別居親が同意なく子どもに関与すれば「業界の掟」が保てず、法律家としての権威が損なわれる(ついでに儲からない)。

 しかし考えてもみれば、子どもが日常的に他人に会っている中、「親であるが故に親権者の許可を得なければならない」となれば、もはや親としての人格否定で人権侵害だ。こういった発想は、同じ親なのに、別居親(親権のない親)は同居親(親権者)の意思に従わなければならないという点で、親権差別だ。

 例えば、子どもを話題に持ち出しさえすれば、「周囲をうろつくな」「引っ越して来るな」「学校に来るな」という主張が、まるで正当な主張であるかのようになされることがある。これはそれぞれ、移動の自由、居住・移転の自由、親の養育権にかかわる。これら憲法上の権利が、相手がこと親に限ってやすやすと制約できるという発想は、この場合の「子どもの福祉」が「同居家庭の安定=同居親の意思」と同一視できるので、問題ないという発想からくる。別居親の中には、同居親から「対等だと思ってるの」と言われて傷ついた人がいる。

しかし、親には親として、子どもに対して他人とは別個の固有の権利がある。そもそも「親権者だから」という理由で、親であること自体を否定できるような権限はない。親権議論で「子ども」を主語に話さないことに不満を述べる人がいるけど、親の権利が明確でなければ子どもの権利が守れないことには気づかない。

「私も監護している」

 実際、監護についての処分を裁判所が出せるにしても、民法766条4項では「監護の範囲外では、父母の権利義務に変更を生じない。」と断っているくらいだ。これがなければ、養育費を徴収する法的根拠すら出てこない。

 冒頭のような質問が出され、「周囲をうろつくな」……と言ったような無茶な主張がなされれば、「私もあなたと同じ親なんだから親権者だからといってそんな権限はない」と言えばよい。あるいは、「親権のない親は親権者の召使や部下ではない」「二級市民として見下すのはよしてほしい」と答えてもよい。そして、「私も監護者」で、取り決めがあれば、時間がたとえ2時間でも「その間は監護している」ときちんと主張しよう。

特に面会交流が債権として定められていた場合、債権債務の関係では、義務者が権利者の権利を制約できるわけもない。取り決め外の面会交流を制約できることなど嫌がらせ以外には不可能だ。

二つの家庭の自律性を保つための面会交流(養育時間)

 では何のために養育時間(面会交流)を定めるのか。子どもにとって離婚とは家が二つになることだ。しかし、それぞれの家庭は子どもを共有していても自立した別個のものだ。たしかに双方がそれぞれ子どもと接する権利はある。しかし、いつでもどこでもどんなときでもとなれば、それぞれの家庭は、いつ別の家庭の親がやってきても文句は言えないし、そうなると日常生活は送れない。だから双方の家庭が自立した生活を送るためには、お互いの養育時間を取り決め、それぞれ面倒を見ている間は他方が干渉しないのが平和なのだ。

 ぼくの場合は、元妻とその夫が、わずか4時間の面会交流に度々現れて監視したり、娘を交番に連れ込んだり、ぼくの知り合いに子どもを会わせることにいちいち口を出して制約の理由とする。しかし、ぼくが彼らの家で子どもが誰かと会っていることに口を出せば、彼らも憤慨するだろう。差別意識がなければこういったことはできない。

 逆に言えば、それぞれの家庭が別個にかかわれる学校行事などへの参観が制約される理由はないし、安否確認や偶発的な接触、家庭外での日常における触れ合いを親権者の意思一つで制約することはできないし、実際問題それは不可能だ。

だから、住居侵入や学校における庁舎管理、つきまとい規制など、本来子の親に対して用いられれば親子関係が成り立たないような法規定でもって、別居親への勾留や別件逮捕を権力が親権者と結託して加えるようなことがままある。これらは権利濫用の弾圧にほかならない。(2020.9.6)

青森県警の違法民事介入事件、秋田高裁は不当判決

話し合いで身体検査

「悲しみはない。判決は今の日本の縮図。通達に違反した警察を裁判所が守る。裁判所は法律を守れと言いたい」

 仙台高等裁判所秋田支部(秋田高裁)前で原告の佐久間さんは、佐久間さんの控訴を棄却して一審の判決を維持した8月24日の高裁(潮見直之裁判長、藤原典子、馬場嘉郎裁判官)判決を批判した。

 佐久間さんは、2013年に妻からの電話で青森県警黒石警察署での「話し合い」を提案され、警察署に足を運んだ。別居していた妻とは一年近く連絡がとれなくなっていて、二人いる娘さんとも会えなくなっていたので、不安を抱えながら話し合いの場に出向いたという。

 ところが、警察署では危険物を持っていないか警官からいきなり身体検査を強要された。しかも妻との話し合いなのに、市役所の職員や娘の通う保育園の園長も同席していた。佐久間さんによれば、話し合いというよりは妻からの一方的な非難を聞かされ、しかも市役所の職員や園長が佐久間さんに離婚を迫る状況だったという。

 警察署からの帰り際、今回の「話し合い」の根拠を聞いた佐久間さんは、黒石警察署の署員からDV防止法8条2項の被害防止援助による「被害防止交渉」との説明を受けている。

佐久間さんに暴力がなかったことに争いはない。

ところが、妻側が警察に訴えただけで、佐久間さんは「DV加害者」とされた。

また、DV防止法8条2項や、警察庁からの通達では、警察の介入は過剰な民事介入を抑止するため、「身体的暴力が加えられている事案」に限定されている。したがって、今回の黒石警察署の介入は違法であり、精神的損害を受けたとして、佐久間さんは黒石署を管轄する青森県を訴えた。

「周囲からは何かしたんじゃない?と見られた」

 そう佐久間さんは当時を振り返る。警察からの呼び出しで状況に絶望した佐久間さんは、黒石署からの帰宅後嘔吐を繰り返し、自殺未遂を起こしている。一審青森地裁弘前支部は、佐久間さんが黒石署から説明を受けた、特別法のDV防止法の規定ではなく、一般法の警察法2条で、「警察は個人の生命、身体等の保護に任じ、犯罪の予防その他公共の安全と秩序の維持に当たる責務を有する」と定めているから、違法ではないとした。

 特別法が優先されるとする法律の一般原則を一審が取り違え、また、警察法2条2項では、警察活動が憲法の定める人権尊重規定の範囲内に限定されていることから、今回の黒石署の対応は実質的にも違法であると、高裁で佐久間さんは主張した。しかし 潮見直之裁判長らは一審を維持して控訴を棄却している。

 判決について佐久間さんの代理人の葛西聡弁護士は、「妻側は実際には呼び出しの日には話し合いを予定していなかったのに、警察官に言われたらいやとは言えず佐久間さんを呼びだした。警察活動による実際の生活への悪影響には目をつぶっている」と判決を解説した。

「本当は介入すべきでないのに介入した。呼び出しに至る経緯は詳しく認定していながら、佐久間さんがその後苦しみ、保育園との関係も悪くなるという影響があったことはまったく記載していない。わかってもらえなかった」(葛西弁護士)

司法のチェック機能の放棄

「被告青森県(黒石署)からは、裁判になってから、私がSNSのミクシィに、妻のことを「マジキチ」と書いているという証拠が出された。スクリーンショットを写真に撮ったものを見せられたが、私はそんな書き込みはしていないが、似たような投稿をツイッターにはしていた。ツイッターは投稿文の修正はできない。

裁判になって『証拠』を初めて見て驚いた。現在も、『マジキチ』という記載のない原文の投稿は残っているが、私はミクシィの投稿は知らない。しかも警察は、捜査関係事項照会をミクシィやプロバイダーに対して行なっていない」

ところが裁判所は、捏造証拠を事実認定した。

「『被害防止交渉』にしたって、一警察官ができることじゃなくて組織ぐるみのはず。妻は、被害防止交渉の申出書を書かされており、生活安全課長も黒石警察署長も決済しているから、警察官が説明を間違えたとは考えにくい」(佐久間さん)

しかし裁判所は、こういった経緯も誤魔化して認定し、チェック機関としての役割を放棄した。

「裁判官よ、お前もか!です。ごまかす方法を必死で考えている。それが仕事なんだからかわいそう。不自由な判決しか書けないんだなと。法律は国民のためにあるのではなく、行政が自らをごまかすためにあることがよく分かった」(同)

秋田高裁の言論弾圧

この日、佐久間さんは判決後の集会で、判決前に秋田高裁から呼び出しがあったことを明らかにした。

 佐久間さんは判決と、裁判所とは別の場所で開く予定の報告集会を告知するチラシを作り、前日、秋田駅前で配って街頭宣伝活動をした。裁判所の書記官は、このチラシを取り出し、「裁判所の中で集会はしないように」と、佐久間さんに釘を刺したのだ。

「裁判所外で行うと書いてるのに、わざわざ呼び出して口を出す。言論弾圧だ」

佐久間さんは憤る。

実際、司法からこのような指摘を受けること自体、市民の側の表現や集会活動を萎縮させる効果を持つ。

背景にある男性差別

「自分が男性でなければこんな目に合わなかったのでは」

佐久間さんは嘆息する。

判決を法廷で聞いたライターの西牟田靖さんは、判決後の集会で、「子どもに連れ去られ、我が子に会えなくなる問題は、昭和のころには明るみに出ず、2010年代に明るみに出た。性役割が当たり前で子どもに愛着のない人は世の中にけっこういる。自分も妻に求められて子どもの面倒を見ているうちに子どもへの愛着を持つようになった。そういう意味では妻には感謝している。

今少子化で結婚できない男女も増え、離婚率も上がっている。別れた後も双方が子どもを育てるようになるのは時間の問題」 と背景事情について触れ、最後にこう警鐘を鳴らした。

「司法は、”別れているのに育てたいのはおかしい”と、性別分業の判断をしがち。問題は法曹の人たちです」

(2020.8.30 宗像 充)

各地で工事が大幅遅れ。リニア開通は早くても2031年以降!?

長野県側の工事も2027年開業は無理

「小渋川非常口」に至る道路

2020.08.17

「小渋川非常口」に至る道路は増水した川で路肩が流出した(撮影・前島久美) JR東海が当初予定していた「リニア中央新幹線」の2027年開業。いま、静岡県での工事未着手がどう影響するかということが大きな話題となっている。  

南アルプストンネルの長野県側の起点である大鹿村に住む筆者は、今年7月の豪雨災害で、リニア工事現場が被災しただけでなく、すでに村内で5年の遅れが出ている現場があることをレポートした(「『問題だらけのリニア工事』。静岡県側でなく、南アルプストンネル長野県側も驚愕の惨状」参照)。  

しかしこの遅れを挽回できれば、2027年にも間に合うという意見もある。実際はどうなのだろうか。 「今までの掘削ペースを見る限り、長野県側でも2027年開業には間に合わない」  

そう強調するのは、長野県側でリニア問題に取り組む飯田リニアを考える会の春日昌夫さんだ。  

6月27日には、川勝平太・静岡県知事と、金子慎・JR東海社長との間で会談が行われ、金子社長は工事の進捗についてこう述べている。

「(大井川最上流の)西俣から掘り出して斜坑を掘っていくと長野側と山梨側に伸びるんですが、一番長いのが長野県側3.5kmと3kmあります。(略)順調にいって月進100m(1か月に100m掘削する)と言われています。そうなると西俣から掘り始めると65か月、5年5か月かかることになります」  

すでに金子社長がこだわっていた「7月中の工事開始」のリミットは過ぎている。春日さんは「実際の掘削ペースを見ると、月進100mはとても無理なのでは」という(詳細な計算式は「南信リニア通信」というサイトが詳しい)。

増水した小渋川を望む

増水した小渋川を望む。対岸の崩壊地の下を残土置き場として計画したが、予定地は豪雨で水没 現在、大鹿村内の南アルプストンネルは「小渋川非常口」と「除山非常口」が先行している。

「延長1150mの『小渋川斜坑』(本線トンネルに伸びるトンネル)は2017年7月3日に掘削を開始し、2019年4月5日に斜坑の掘削が完了。2019年8月23日から本線トンネルの先進坑(本線トンネルに並行して掘削するパイロットトンネル)の掘削を開始して、現段階で480m掘削したといいます。  

斜坑・先進坑合わせて1630mを946日で掘っているので、1日当たり1.72m。30倍して月進51.7mの実績です。同様に計算すると、『除山斜坑』は月進40.2m。今年3月3日に掘り始めたばかりの『釜沢斜坑』は、月進18.6mにすぎません」  

予想されたことだが、南アルプストンネルの掘削は一筋縄ではいかないようだ。

トンネル工事の進み具合で計算すると、開業は早くても2031年9月以降!?

豊丘村の福島てっぺん公園から伊那谷を見下ろす

豊丘村の福島てっぺん公園から伊那谷を見下ろす。高架橋や天竜川の橋の建設は、2017年の予定だった

「『除山斜坑』は本線トンネルとの交点まで残り575mですが、延長を1850mとする資料もあるので、残りを 555mとします。本線トンネルの交点から静岡工区との境までは約5090mなので、合計するとあと5645mを掘削しなければなりません。この部分が長野工区ではいちばん距離が長い。この5645mを月進51.7mで割ると約109か月、9年1か月です。  

つまり、現在のペースなら掘削終了は2029年9月。これはいちばん早いペースの『小渋川斜坑』での計算式なので、『除山斜坑』の月進40.2mで計算すると、11年8か月。完成は2032年4月です。 金子社長はガイドウェイを作って最終的な試験をし、それが2年ぐらいかかると川勝知事に説明しています。開業は早くても2031年9月~2034年4月以降でしょう」(春日さん)  

実際、厚生労働省の「トンネル建設工事の工法等について」という資料によると、代表的なトンネル工事で月進100mを超えた例は少なく、発破を使っても80~100m、機械掘削だと60m前後が多い。

「金子社長も『本線トンネル部分の西俣斜坑交点から長野側の3.5kmに65か月かかる』と言っています。月進は54m程度で、長野県側でいちばん早い『小渋川非常口』の掘削よりやや早い程度」と春日さんは見ている。工事はトンネル上部から地上までの高さが掘り進むにつれ1000mを超え、慎重を期さねばならない。静岡側の工事が長野県側よりスムーズに進むとも考えにくい。

工事着手は3年遅れ、ヤードは豪雨災害で水浸し

2017年12月に起きたトンネルの外壁崩落

2017年12月に起きたトンネルの外壁崩落。事前にクラックを確認していたのに、JR東海は納期に間に合わせるため火薬の量を倍にした JR東海7月17日、大鹿村内の「青木川非常口」の掘削を開始した。これで県内5本の本線トンネルのうち2本目の伊那山地トンネルの掘削が始まった。2014年の認可から2027年の開業までもうすぐ折り返し点というのに、いまだ3本のトンネルが未着手だ。  

23.3㎞ある中央アルプストンネルでも、複数の断層を横切るため難工事が予想されている。ところが2019年4月、岐阜県側の「山口非常口」で掘削開始後200mの時点でトンネルが崩落。急きょ、予定していなかった先進坑を本線トンネルに並行して掘り、工事の安全を図るという、抜本的な計画変更がなされている。  

JR東海は、大鹿村に至る残土運搬用アクセス道路のトンネルの掘削でも、2017年12月に出口付近で火薬の量を倍にし、外壁の崩落を起こしている。このように、工事を急げば同じ過ちが繰り返されるおそれがある。

伊那山地トンネル「坂島非常口」への道路

伊那山地トンネル「坂島非常口」への道路は、水害によって各所で被災した 長野県内の地上部分の本格工事も始まっていない。それに加えて、今年7月には豪雨災害が起きた。伊那山地トンネルを挟んで大鹿村の反対側の豊丘村でも、今回の豪雨で「坂島非常口」に至る林道が寸断された。この「坂島非常口」も2018年掘削開始予定だった。

「坂島非常口」のヤードは水に浸かっていた

「坂島非常口」のヤードは水に浸かっていた。2017年の掘削予定だったが、まだ始まっていない とりあえず土を寄せた個所があちこちにある道路を、のり面や路肩の崩壊を眺めつつ「坂島非常口」の現場に行くと、道路脇の掘削予定地はやはり未着手。来年に掘削が始まったとしても、予定より3年遅れだ。ヤードの中は水浸しだった。静岡県だけでなく、どこもかしこも工事が遅れているのだ。

山梨県「早川非常口」に至る橋の手前

山梨県「早川非常口」に至る橋の手前は、昨年の台風19号で陥没 JR東海のサイトでは、ほとんどの部分の工事契約が締結されてはいる。筆者は2020年3~5月、アウトドア誌の取材(『Fielder』51、52号)でリニアの沿線を自転車と徒歩で全線トレースしている。8割以上が地下部分の工事なので、地上から見える部分は限られるが、実際には「順調」とは言えない状況だった。  

山梨県側は、2016年10月26日に南アルプストンネルの「早川非常口」の工事が着手され、2017年6月に8か月で斜坑の掘削を終えている(日進62.5m)。いちばん捗っているはずの「早川非常口」の現場に今年3月に行ってみると、坑口に通じる橋が2019年の台風で通行止めになっていた。渇水期を待って改修をするというが、その間にこの豪雨災害が起きている。

残土置き場が決まらず、地権者との交渉も進まず

山梨県内でも残土全量の処分場は未定

早川町内ではビルのような残土置き場が各所に現れている。山梨県内でも残土全量の処分場は未定 地上部分の工事では、静岡県に限らず、長野県南木曽町や阿智村のように「残土やアクセス道路、水源問題などが先に片づかなければトンネル掘削は認めない」という自治体もある。長野県内で排出される970万㎥の残土のうち、残土置き場が決まったのは現時点で50万㎥にも満たない。   

地権者交渉も難航している。神奈川県、山梨県では住民によるリニア工事反対のトラスト運動が続く。神奈川県駅~相模川間の区分地上権の地権者は850軒あるが、団結して弁護士を立てている地域もあり、交渉がすんなりといく見込みはない。  

山梨県では、JRの工事についての説明を拒否している自治会や、工事差し止めを求めて裁判を起こした地権者もある。長野県駅周辺や本線の予定地でも、話し合いに応じない意思を示す地権者もいる。  こういった問題は、最終段階でJRが強制収用の意思を示してはじめて可視化する。しかし、開業時期が設定できなくなり「最終段階」が見通せなくなった。もはや、静岡県の水問題だけが解決しても、リニアはまだまだ前に進めない。 <文・写真/宗像充>

ハーバービジネスオンライン
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親の権利を言おう

「面会交流の権利性」

 子どもとの面会交流は憲法上の権利で、実現のための立法措置を国会が怠っているのは違法だとして、国を訴えた訴訟の控訴審判決が13日、東京高裁であった。白石史子裁判長は原告の請求を退けた一審東京地裁判決を支持、訴えを棄却した。

判決は「憲法上保障された権利とは言えない」と述べ、「面会交流の法的性質や権利性自体に議論があり、別居親が権利を有していることが明らかとは認められない」と述べたという。

かねてより、面会交流の権利性が議論の的になり、その場合、親の権利か子どもの権利か、あるいは親に権利性はあるのか、について論争が続いている。どんな権利も議論はあるけど、「法的性質や権利性自体に議論がある」こと自体が、別居親の権利性を否定する根拠になるわけない(櫻井智章「面会交流権の憲法上の権利性」法学教室2020年3月号)。

「権利ではなく義務」というその理由

「面会交流は親の権利ではなく子どもの権利」

「親権は権利じゃなくて子どもへの親の義務」

という主張をよく聞く。親が会いに行かなければ子どもは親に会えないのだから、親子双方に権利があるに決まっているし、子どもの面倒を親が見ないで他人が子どもの権利を主張したところで意味はない。「あなたやあなたの兄弟や親せきに子どもがいるなら、施設に入れてからまず議論したら」と言い返すことにしている。

一方で、海外では、親責任や親の配慮と、親権という概念自体が変化してきた。だから親の権利性自体を否定したがる議論が、共同親権に賛成の人の中でも多い。法務省の議論もそれをなぞっている。

こういった議論は論点のすり替えに陥りやすい。権利の概念を個別に論じることで、親の役割が社会の基準でいかようにも規定されることになりがちだ。単独親権制度では親権のない親の権利を否定しても、それが親の役割ならば肯定される。

例えば、ドイツが「親の配慮」と親権の概念を変えても、ドイツの連邦基本法には、子の養育と教育は、親の自然的権利とある。アメリカは親権に関する考え方から、子どもの権利条約に入っていない。フランスでは「親の権威」という言葉を使うけど、父母に固有のものであるとの規定もある。そしてどの国も共同親権に移行し、親の関係と親子関係は分離されている。

日本ではもともと「裁判所は親権指定においてフェアである」「親権指定されなかった側は『問題がある』」という誤った推定があり、しかも、こういったデマを法律家がまきちらしている。現状権利ではなく義務や責任だけ強調すれば、親権のない側の権利性だけを否定し、親権差別の根拠にできる。だから、単独親権温存派は、あえて権利性を否定するために親の義務を強調する。単独親権制度の立法事実を否定するための親権議論だ。

単独親権制度とは男女平等の否定と性役割の強制

 例えば、職場で女だけがお茶くみをさせられたりすることに対し、不平を言ったら「義務を果たしてから権利を主張したら」と言われたら、どんな気分になるだろう。親権議論とはリンクさせず養育費の義務化のみを主張することは、日本語に翻訳すれば、「男が子育てなんて、義務(金)を果たしてから権利(子育て)を主張したら」ということになる。

 白石裁判長が、「法的性質や権利性自体に議論がある」ことを理由に、権利性を否定するというのは、要するに、「四の五の言わずに男は黙って金払え」ということだ。

 「面会交流を親子交流にしよう」(親子はそもそも交流する対象ではない)とか、「支援がないから共同親権は無理」(DVシェルターに公的資金を投入するためにDV法をつくったのに)とか、そんなことを言っているぐらいなら、「共同親権が最大の子どもと家族への支援」と、別居親たちもなぜ言わないのだろう。

 権利とは幸せになるための選択だ。

だったら、子どもと触れ合う十分な時間をもつことが権利でなくてなんだというのだ。奴隷のように働き、「ちゃんとした親」を演じるために、疲れ切っていても絵本の読み聞かせをするのはたしかに義務かもしれないけど、それがあなたがやりたいことか。男も女も、好きなことができ、子育てでも仕事でも余裕のある日常を送れる。それを阻んでいるのが、性役割を強制する単独親権制度だ。

子育て改革なくして働き方改革はないし、単独親権撤廃はそのための一丁目一番地だ。

「裸の子ども」の福祉

 先日、子どもに会いに千葉まで行ったら、子どもが待ち合わせ場所の駅前の交番前まで来て「帰る」という。娘は録音を命じられていた。「ちょっとまってよ」と追いかけたら、胸元にスマホを入れ(て録音する)た元妻の夫が現れた。何の事件性もないのに、娘を受け渡し場所の交番に連れ込む。先日は、彼が面会交流を近所の銀行のロビーで監視していた。前回は元妻といっしょに娘を引き連れて現れて、娘の顔を見せてぼくの前に立ちはだかった。

「今はぼくが子どもを見る時間だから帰ってください」と何度もお願いすると「つきまとうのをやめたら……」という。彼は法律上の養父だが、今は面会交流の義務者だし、なんで親が他人に、「つきまとう」と言われるのかと思うと傷つく。そもそもぼくのもとに娘を送り出したのは母親と彼なので戸惑いもする。

娘は彼の味方をするのに必死で、ぼくの言葉をなんでも否定するので会話にならない。娘は「お前なんか親じゃない」とぼくに言い、「こっちがパパだ」と彼を指す横で、彼は黙ったまま。元友達だし、まだ赤ちゃんだった娘をぼくが育てる様子を彼も知っている。娘の言葉より彼の態度に唖然とする。

子どもが親を決めるのだろうか。

親の権利を否定すれば彼の態度も娘の態度も妥当に思える。

だけど、親権や面会交流を論じるときに「子ども」と言ったとき、その意味するところは二種類ある。「親に対する子ども」と、「年少の子ども」だ(共同親権訴訟の稲坂弁護士が発見した)。親に対する子どもの権利や福祉を論じるときに、「年少の子ども」を対象とする権利を論じても意味はない。これを「裸の子ども」とぼくたちは呼ぶ。

親のことを第一に考えられるのは両親で、第一義的責任を負うのも両親だという前提のもと、子どもの権利条約における、「親に対する子ども」の権利は構成されている。それを「年少の子ども」の意味で使えば話がかみ合わない。「万引き家族」はこの二つの「子ども」の間のズレをめぐって引き起こされるドラマだ。

「年少の子ども」の福祉を自分なりに考えて、彼は「つきまとう」とぼくに言ったとしてみよう。だけど、「親に対する子ども」をもとに論じれば、面会交流は子育ての時間だ。娘とぼくが言い合うのも親子喧嘩だ。娘が帰ろうとしても、子育ての時間に責任があるのはぼくになる。そこに子どもが望んだとしても登場すれば養育妨害になる。

「あなたのお父さんだから行ってきなよ。意見が通らなくてもあなたが解決しなきゃ」と、親子の権利を尊重して、子どもを送り出す親やその結婚相手も当然いる。もちろん最初からそう言っていたら、娘の態度も違っている。(2020.8.15)