決まったこと以外は子どもに会っていけないのか?

こういった質問を受けることがままある。

 裁判所に面会交流を申し立てると、月に1度2~3時間という決定が出されたりすることがあり、あまりに頻度や時間が少ないので疑問が出やすい。また調停委員も、「監護者の同意なく子どもには会えない」と平気で言う人がいる。実はぼくもつい先日の調停でそう言われた。

面会交流とは何か?

 取り決めがなければこういった疑問が湧く余地もない。何しろ「親が子どもに会うだけのこと」を制約する法律はどこにもない。ぼくも「そんな法律ないよ」と調停委員に言った。

 民法766条は、離婚後の子の監護については協議で決め、協議ができないときは裁判所が決めるという規定だ。2011年に「面会交流」と養育費についての規定が付け加えられた。それ以前は、「子の監護をすべき者その他監護について必要な事項は、その協議で定める」だけだった。

当時、榊原富士子弁護士が、この規定をもとに、単独親権においても共同監護は否定されていないと主張していた。裁判所は、親権と監護権は一体であると見るほうが楽なので、面会交流を監護とは認めない傾向が強く、したがって、月に一度2時間程度の、監護とは言い難い頻度の決定を出しがちだ(実際には、月に1回3時間以内という、FPICの支援基準に沿っているだけ)。

しかし、2011年の改正において、「この場合においては、子の利益を最も優先して考慮しなければならない。」と付け加えられたように、子どものためには面会交流がよいという趣旨の法改正だから、面会交流は「別居親の養育時間」としての監護(「身の回りの世話」程度の意味の法律用語)と呼ぶほうが、法解釈としては素直だ。

背景にある親権差別

 調停委員や一部の法曹には、単純に「親権者(監護者)が子どもの面倒を見るのだから、別居親の関与はその許可がいる」と考える者がいる。特に子どもを連れ去り引き離すことが親権確保の手法として定着しているので、別居親が同意なく子どもに関与すれば「業界の掟」が保てず、法律家としての権威が損なわれる(ついでに儲からない)。

 しかし考えてもみれば、子どもが日常的に他人に会っている中、「親であるが故に親権者の許可を得なければならない」となれば、もはや親としての人格否定で人権侵害だ。こういった発想は、同じ親なのに、別居親(親権のない親)は同居親(親権者)の意思に従わなければならないという点で、親権差別だ。

 例えば、子どもを話題に持ち出しさえすれば、「周囲をうろつくな」「引っ越して来るな」「学校に来るな」という主張が、まるで正当な主張であるかのようになされることがある。これはそれぞれ、移動の自由、居住・移転の自由、親の養育権にかかわる。これら憲法上の権利が、相手がこと親に限ってやすやすと制約できるという発想は、この場合の「子どもの福祉」が「同居家庭の安定=同居親の意思」と同一視できるので、問題ないという発想からくる。別居親の中には、同居親から「対等だと思ってるの」と言われて傷ついた人がいる。

しかし、親には親として、子どもに対して他人とは別個の固有の権利がある。そもそも「親権者だから」という理由で、親であること自体を否定できるような権限はない。親権議論で「子ども」を主語に話さないことに不満を述べる人がいるけど、親の権利が明確でなければ子どもの権利が守れないことには気づかない。

「私も監護している」

 実際、監護についての処分を裁判所が出せるにしても、民法766条4項では「監護の範囲外では、父母の権利義務に変更を生じない。」と断っているくらいだ。これがなければ、養育費を徴収する法的根拠すら出てこない。

 冒頭のような質問が出され、「周囲をうろつくな」……と言ったような無茶な主張がなされれば、「私もあなたと同じ親なんだから親権者だからといってそんな権限はない」と言えばよい。あるいは、「親権のない親は親権者の召使や部下ではない」「二級市民として見下すのはよしてほしい」と答えてもよい。そして、「私も監護者」で、取り決めがあれば、時間がたとえ2時間でも「その間は監護している」ときちんと主張しよう。

特に面会交流が債権として定められていた場合、債権債務の関係では、義務者が権利者の権利を制約できるわけもない。取り決め外の面会交流を制約できることなど嫌がらせ以外には不可能だ。

二つの家庭の自律性を保つための面会交流(養育時間)

 では何のために養育時間(面会交流)を定めるのか。子どもにとって離婚とは家が二つになることだ。しかし、それぞれの家庭は子どもを共有していても自立した別個のものだ。たしかに双方がそれぞれ子どもと接する権利はある。しかし、いつでもどこでもどんなときでもとなれば、それぞれの家庭は、いつ別の家庭の親がやってきても文句は言えないし、そうなると日常生活は送れない。だから双方の家庭が自立した生活を送るためには、お互いの養育時間を取り決め、それぞれ面倒を見ている間は他方が干渉しないのが平和なのだ。

 ぼくの場合は、元妻とその夫が、わずか4時間の面会交流に度々現れて監視したり、娘を交番に連れ込んだり、ぼくの知り合いに子どもを会わせることにいちいち口を出して制約の理由とする。しかし、ぼくが彼らの家で子どもが誰かと会っていることに口を出せば、彼らも憤慨するだろう。差別意識がなければこういったことはできない。

 逆に言えば、それぞれの家庭が別個にかかわれる学校行事などへの参観が制約される理由はないし、安否確認や偶発的な接触、家庭外での日常における触れ合いを親権者の意思一つで制約することはできないし、実際問題それは不可能だ。

だから、住居侵入や学校における庁舎管理、つきまとい規制など、本来子の親に対して用いられれば親子関係が成り立たないような法規定でもって、別居親への勾留や別件逮捕を権力が親権者と結託して加えるようなことがままある。これらは権利濫用の弾圧にほかならない。(2020.9.6)