4月の松川町(長野県)別居親交流会

【日時】 2019年4月19日(金)*毎月第三金曜日
19:00~21:00
【場所】 長野県松川町社会福祉協議会相談室
長野県下伊那郡松川町元大島2965-1
http://matsukawa-shakyo.net/info.html
参加費無料 直接会場にお越し下さい

お子さんに急に会えなくなってどうしていいかわからない方
周りに自身のことを話す方がいない方
裁判所やパートナー、元パートナーとのやりとりにお悩みの方

子どもと離れて暮らす親が
互いに気持ちや事情を話して 支え合い、
知恵を出し合う場です
会員でなくても参加できます。
主催 連絡先 0265-39-2116(担当・宗像)
munakata@kyodosinken.com

4月のくにたち別居親交流会

日時 2019年4月14日(日) 
午前9:30~11:30
*毎月第2日曜日
場所 国立市公民館集会室
東京都国立市中1-15-1
(JR中央線 国立駅 南口下車 富士見通り方面に徒歩約5分)
http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/soshiki/Dept08/Div05/gyomu/shisetsu/0058/1463551605248.html
資料代 500円 直接会場にお越し下さい
主催 連絡先 0265-39-2116(担当・宗像)
munakata@kyodosinken.com

「男性差別」はあるのか?(後)

「平等よりも伝統」

「お金を稼ぐことは伝統的に男性の役割でした。婚姻費用や養育費についても、女性が男性に求めてきた。男性が養育権を主張し女性に経済負担を求めることに反発する心情の背景にあるのは、実は平等よりも伝統」と批判するのは「男性差別」に関する研究書を日本に翻訳・紹介する久米泰介さん。「平等を求めてきた女性たちが、親権の問題になると途端に男女平等は無理という。子育ては伝統的に女性が強い。そういう領域に限って保守的になるのはご都合主義」と手厳しい。

「Men Too」

対して久米さんは自身を「マスキュリスト」と呼ぶ。「フェミニズムの理論を男性の側に適用し、伝統的な性役割の維持を男性の側から批判する運動」をマスキュリズムという。久米さんは「Me Too」ならぬ「Men Too」を強調する。「女性の被害を救って意図的に男性の性被害を受け入れない。男の性被害も訴えられるようにすべき」だというのだ。逆に、痴漢やDVで冤罪が起きる背景について、「合理性は男の価値感で女の感情を無視しているとフェミニストは推定無罪の原則を無視する。ところが、相手が男だと人権として扱わないのはおかしい」と憤る。

久米さんが2014年にアメリカから日本に紹介した『男性権力の神話』(ワレン・ファレル著、1993年)は、マスキュリズムの「教科書」として世界的なベストセラーになったが、日本では黙殺されている。「世の中は『男性が支配している』という言説は根強い。だから男性差別は女性差別の副作用としか語られない」と久米さんは不満顔だ。「実際には男が不利な理屈なのに、男が支配者なんておかしい」。

映画「レッドピル」

今年、アメリカの男性の権利運動を描いた映画「レッドピル」の自主上映会が東京と京都で開かれた。映画では「女は割を食っている」と考えてきた女性監督のキャシー・ジェイが、自分のフェミニストとしての信念に疑問を募らせて悩む場面が出てくる。いったいどこが男性不利の社会なのか。

「例えば日本でも男性の自殺者は女性の2・3倍、平均寿命は男性のほうが女性より6歳短い。ファレルはこういった男女差は、男性に不利に働く社会的要因があるからと問いかけました。日米とも100年前の平均寿命の差は1歳しかなく、状況は共通しています」(久米さん)。

現在、社会の様々な場面で女性枠の設置が争点になっている。「政治家やマスコミ、法曹など、社会的影響力のある領域で女性はアファーマティブアクションを求めてきました。しかし兵役、土木や建設の現場など危険な仕事は男性が担い、野宿者や自殺者の割合も男性が圧倒的です。アメリカでは大学・院での進学率はすでに女性が上回っていますが、それを『女性が優秀だから』と放置するのはご都合主義です」と女性からしか語られない男女平等の問題点を指摘する。「伝統的な性役割では、もともと男性差別も根付いていた。その中から女性差別だけが解消に向かった」というのだ。

フェミニズム vs 平等主義者

「日本ではフェミニズムは進歩的、保守派は男女平等を無視すると考えられていますが、アメリカでは平等主義者はフェミニズムを名乗らなくなってきています。平等主義者の一部である男性の権利運動の側からすれば、保守派もフェミニズムも同じグループに属していることになる」と新しい視点を提供する。

アメリカでも女性のDV被害の割合のほうが男性より高い。しかし全米2000のシェルターのうち男性が入れるシェルターはわずか1カ所。この不当な格差を映画で示したジェイ監督も、これを「男性差別」と認めざるをえなかった。日本でも、DVの被害は女性が3人に1人に対し男性は5人に1人。割合の差に比べて男性の入れるシェルターを公然と掲げているのは、日本家族再生センターだけだ。

男性が女性からの被害を訴えると「そのくらいひどいことしたんでしょう」と言われて無視されがちだ。「言われた男性はよけい傷つく。男女平等のためには、男性の被害の訴えにも真剣に耳を傾けていくべきです」(久米さん)。「男の泣き言」に平等に耳を傾けることは男女平等に近づくための第一歩だ。
共同親権ニュースドットコム、2019年2月12日)

「男性差別」とは何か?(前)

2月6日発売の週刊新潮に宗像充の男性差別についての記事が掲載されています。
https://www.fujisan.co.jp/product/1138/new/
雑誌に書ききれなかった男性に対する驚愕の差別の実態をレポートします。

「女は被害者/男は悪者」は本当?

「生活費16万でやっていけるわけない、ご飯も作れない」と高木彰さん(仮名、45歳)が、深夜に妻の彩子さん(仮名、41歳)に頭を叩かれたのは3年前のこと。金融の仕事に携わる彰さんに対して彩子さんは結婚を機に専業主婦となり、一人娘の優ちゃん(仮名)をもうけた。先の16万円は彩子さんへのお小遣いと一家の食費、彰さんはそれ以外の生活費を負担していたが、月の半ばには彩子さんが16万を使い果たし、家計は赤字に陥った。

女性が弱者で被害者、悪いのは男という固定観念は根強い。しかし高木さん夫婦の場合、「私の母親がオムツ代わりに使っていたナプキンを見て、『不貞の証拠』と言い放」ち攻撃を始めたのは彩子さんだ。逆上した彩子さんは、優ちゃんと1か月実家に滞在していたが、「優がパパとお風呂に入りたがっている」と突然帰宅。優ちゃんの面前で「不貞男」と罵った。

それ以外にも書斎のドアを蹴破り壊れた部分をハサミで突き刺す、首をネクタイで絞める、鍵穴を壊し書斎に入れなくする、彰さんの寝床にされたリビングのソファーに、「不貞男」と書き包丁で滅多刺しにする……娘がいてもお構いなしの暴力に彰さんは何度も警察を呼んだ。「すぐに逃げて下さい。このままだとたいへんなことになります」と警告する警官に彰さんは「娘を置いてはいけない。どんなに暴れても手を出しません」と踏みとどまった。彰さんは保健所、DVセンター、児童相談所と公的機関にはすべて相談した。しかし具体的なアドバイスは何もなかった。

そんな状態が1か月続いたころ、児童相談所から当時5歳の優ちゃんを保護したと連絡を受けた。「妻が性的虐待で通報していました。性器をスタートにして指で娘の身体をたどるゲームを私がしたというのです」。

彰さんに身に覚えがない上に、優ちゃんは「ママともやった」と児童相談所で述べていた。しかし「家庭裁判所は妻のDVは問わず、『性的虐待を女性である母親が行なうとは想定しがたい』と娘を妻に委ねました。性被害への過剰対応が悪用されたとしか考えられません」と彰さんは嘆息する。「男性シェルターがあれば逃げることができた」。娘との関係を断たれた彰さんは振り返る。

「女性にはある具体的な援助が男性にはない」

そう解説するのは、日本家族再生センター(京都)代表の味沢道明さん。1軒屋のセンターは男性も入れるシェルターを兼ね、記者が訪問したときには、妻からの暴力から逃れた大柄な男性が滞在していた。外出も自由だ。

「言葉の暴力は圧倒的に女性が加害者です。もともと力のない女性は対人スキルは男より高い。男は女に言葉で負ければ自我をパワーコントロールで安心させようとする。その結果暴力に至る」

味沢さんはDV発生のメカニズムを解説する。

脱暴力のグループワークでは男女が同じフロアでいっしょに問題解決を図る場合がある。「しかし女性の被害者保護のため、国はこれを禁じています」。男性を保護の対象から排除した場合にのみ、行政から助成金を得られるのだ。

男性が被害を訴えると・・・

では実際に男性が被害者として訴え出たらどうなるか。中村勇作さん(45歳、仮名・自営業)は、昨年の4月に妻の恵子さん(42歳、仮名)を静岡地方検察庁に告発した。その5カ月前、勇作さんは恵子さんに包丁で右腕を刺され、殴られて歯が折れ、顎の関節がずれてマウスピースの使用を強いられた。告訴が遅れたのは警察に被害を訴えても無視されたからだ。

恵子さんに刺された当日、勇作さんは意識を失い、その間恵子さんは2歳になる浩平ちゃん(仮名)を抱えて警察署に駆け込み、そのままシェルターに「保護」されている。殺されてもおかしくなかった勇作さんが意識を取り戻して警察に行くと、逆に加害者として扱われた。

「家裁の調停では、妻は私が息子を抱きかかえながら自分自身を刺したと主張していました。以前も私はレンガ片で殴られ骨折させられていて、妻が息子を見ている間に息子の顎に切り傷ができていたこともあります。その日も息子の怪我を妻に問いただし、豹変した妻の様子に、私が息子を守るため抱え上げたときに刺された」(勇作さん)。

刺された場面には目撃者もいたが、結局起訴はされなかった。その後、子どもと会う約束をして離婚は成立したが、勇作さんは浩平ちゃんと会えなくなっている。

上司に勧められてはじめて相談

「部下に怪我が絶えず早退をくり返し、様子がおかしいのに気づいた上司が促して相談が持ち込まれる」と語るのは「男の離婚相談」を掲げる五領田有信弁護士。「男性が過去1回女性に手を出した。そうすると妻に『会社に言う』『被害届を出す』と脅される。反抗できなくなり殴る蹴るの暴行を受ける。

「子どもがいなくて夫を殴っているケースはない。『やるべくしてやった』『家族を守るためだった』と警察や裁判所でも女性側は悪びれた様子は一切ない」(五領田さん)。

子どもは女性の最大の武器のようだ。

裁判所でも男性は悪者だ。「女性が被害を訴えた場合、『暴力があった』というだけで証拠はいらない。ところが男性の場合は録音がないと、怪我の写真だけでは信じてもらえない」という。実際親権の取得率は女性が8割を超え、引き離された父親が子どもと会える保障はない。

レシートを求めると経済的DV

上原哲也さん(40歳、仮名)も結婚3年目、専業主婦の妻の景さん(35歳、仮名)が1歳の息子を「誘拐」し、例によって離婚調停になった。景さんはDVを主張したが証拠はない。しかし裁判官は「DVがないことの証拠にならない」と哲也さんから息子を引き離した。「私が家計簿をつけていたので、妻に生活費が足りないと言われて『レシートを出して』と求めました。それを妻は経済的DVと主張しました」。

あまりの理不尽さに哲也さんはショックで失職。景さんがパートで働いていたため、今度は哲也さんが婚姻費用を請求した。裁判官は「男が請求するなんて聞いたことがない」と一蹴した。もちろん子どもとは引き離されている。

共同親権ニュースドットコム 2019年2月7日)

共同親権出でて忠孝滅ぶ(後) 

離婚は親の選択なのに、子どもに会わせないなんておかしい、という主張をするようになるとさまざまな反応と出くわした。一番多いのは、「でも養育費を払わない男もいる」。だから会いたければ金を払え? 似たバージョンで「家庭にお金を納めなかったような男にどうして会わせるの」。こういうコメントをブログにもらったとき「家庭にお金を納めない女は掃いて捨てるほどいますけどね」と書きこんだ。別居親のグループには女性もそこそこいる。彼女たちが「お母さんが会えないなんてつらいでしょう」と声をかけられることがある。日本語に翻訳すると、「お父さんが会えないなんてたいしたことない」。ぼくたちの運動に協力してくれている社民党の議員を呼んで話をしてもらったことがある。「うちの瑞穂(福島瑞穂)が、『父親たちが子育てしたがる』って言うんですよね」と嘆いていた。彼女は男性の子育ては望まないらしい。せいぜい世間一般の認識なんてこの程度だ。

女性が社会的に割を食っている、という主張からすれば、優位にいるはずの男性が男女平等を言うことは「バックラッシュ」ということになる。一時期ぼくもそれはそうかなと思ったりもした。でも、ぼくたちが子どもに会えない、ということに対する反発は、冒頭挙げたような内容ばかりだ。男女平等とは無縁の主張をまじめに考える意味はないと思うようになった。

フェミニズムの主張に「個人的なことは政治的なこと」というものがある。だけどそう主張して運動のリーダーとなった女性たち(男性もいる)が、ぼくたちが男性に対する権利侵害を告発しようとすると、「あの運動は危険」と言う。そんなのただのパワーポリティクスでしかない。実際問題、子どもに会えなくて苦しんでいる父親が目の前にいて、毎年のように自殺する人もいる。自分もそうだったので無視はできない。主義主張より自分の娘のほうが大事なので、ご都合主義のフェミニストの主張に共感する気はない。

一方で、ぼくたちが声を上げることを応援してくれたフェミニストもいる。「私は義父の介助の役割をせざるをえなくって」と、育児、介助者としての男性の役割をぼくたちが表明することを歓迎してくれた。婚外子差別の問題に長らく取り組んできたフェミニストは、法的な婚外子差別が解消されることから、共同親権と子育ての平等な分担についてぼくたちの主張に共感してくれた。民法上、未婚の子は母親が親権を持つ。父親の側の養育責任を現在の制度は問いにくいのだ。

子どもに会えないのはかわいそう、と心情に訴えかけるのは意味がないことはない。しかし温情にすがるだけで権利が回復できるとも思えない。DVの場合もある、ひどい父親もいる、という別の被害感情に訴えれば人を見る目が変わる。だから権利を保障する必要がない、ということになれば差別になる。週刊金曜日が「問題のある別居親」とアピールしてやったことは、その典型だ。

何よりも、会わせてください、と温情にすがる訴えは、別居親は同居親と対等でない関係性にあることを前提にしている。別居親の一人は離婚後親権者となった元夫に「対等だと思ってるの」と言われたという。経験の長い女性の活動家が共同親権に反発する背景には、「せっかく女が親権を取れるようになったのに」共同親権でまた別れた後も口を出されるのか、という思いがあるということを、直接ではなく人づてに言われることもある。そういう人にとっての離婚とは、男性が決定権を握っていて、平等を求める女性が家父長制の桎梏から解放されるための権利だ。

戦前、親権は家長としての男性にあった。それが男女平等の憲法ができて、婚姻中のみ共同親権になった。婚姻中は対等の関係が模索できる。それができなければ権利として離婚ができる。しかし家族秩序を破壊した側が親権を主張することはできない。したがって、戦後も長く、女性が親権を取ることは難しかった。子どもは家のものだったのだ。

ただし、親権取得に性別による限定はない。家父長制を基盤にした家制度と、先進的すぎた男女平等憲法の妥協の産物が単独親権制度だ。実際問題、「主婦」という言葉も、「主人」に対抗する中での女性の権利主張の中から生じた言葉だ。経済面で男性に依存し、家事育児で女性に依存することが、それぞれの分野での発言権の平等を保障することはありそうもないので、役割分担の中での責任の所在を言葉に込めることで平等性を見せかける。当時、性役割の中での対等性が男女平等であるということに疑問を持つことはなかなか難しかっただろう。

男女の親権取得率が逆転するのは1966年を境にする。高度成長とともに女性が経済力をつけ手当が得られれば、別れた相手に頼らなくても養育もできるので、親権が得られるようにもなる。アメリカでは共同親権のもと養育時間を男性と分け合うことは女性の社会進出にも好都合なので、フェミニストが共同親権を当初提唱したというのも聞いたことがある。

一方で、女性保護の側面からフェミニストが成立を目指し支援の担い手になったDV法は、各国とも法制度が整えられていった。ただし、海外では刑事事件として扱われるDVは、日本の場合民事対応なので、実際に暴力の有無と関係なく行政支援が動き、親子分離が横行する。父子関係を取り戻すための行政上の手続きは用意されていない。DV被害者支援の側は、「加害者」の危険を煽って分離を継続し、一方で自立のための支援を行おうとする。

しかし、もともと子連れで住所を隠し保護の対象となるのは専業主婦がもっぱらだ。というのは、男性や仕事を持つ女性はそれまでの社会生活の継続が困難になるので子連れでシェルターに入るのを躊躇する(男性にはシェルターがない)。結果、社会生活の経験のない女性は支援がなければ夫の元に帰ることになる。支援は離婚が前提だし、自立のためには夫から金をぶんどることが必要だ。そのために子どもを人質取引に使うのが、弁護士の常とう手段となる。つまり、DV法は親権と離婚を得るための手っ取り早い解決法だ。一時的な分離はできても、当人たちの関係性の困難は何も解決しない。単独親権で暴力やモラハラが防止できるなど想定できない。この援助の現状は、「主婦」概念に依存することによって女性の解放を目指すという、普通に考えれば無理筋の方法論によっていて、それで男女平等は実現しない。

しかし、女性の側からすれば、男性支配から逃れたということで正当化されるこの手段は、男性の側からすれば子どもを奪われる拉致だし、親権をはく奪して男性を弾圧するための差別となる。結局のところ、親権というのは奪い合うことしかできないし、家庭における権力闘争に女性が勝利する手段として拉致とDV法がある。養育時間を分け合うことは、この権力闘争に女性が勝てないことを意味する。ここでの親権は、子どもに対する支配権そのままで、子どもが自身の意見表明を手続き上保障されるのは、親と分離された後でしかない。これは家庭における忠孝秩序の現代的なバージョンだ。父系から母系に変わっただけの家制度の変更はない。

関係が困難になっているのに、共同での子育てはできるのか。答えは単独親権制度があるから関係は困難になるし、支援があれば共同での子育ては可能だ。女性支援はそのノウハウがないから、「DV男は変わらない」としか言えない。

しかし、共同親権、子育ての機会均等を前提にした支援のあり方は、家を前提にした忠孝秩序の基盤を損なう。戸籍とは臣民簿である。戦前の天皇制支配を支えた最少単位としての家では、関係としての家族と場としての家庭は一致し、上意下達の忠孝秩序がそれを支える。しかしそんなことは最初から無理な話だ。戦後は核家族をモデルにした家族幻想が振りまかれ、体裁、世間体が家族関係を規定し、今DVや引きこもりという形でそのひずみが顕在化している。

家族関係を家から解放し、複数の家庭の存在を前提にし、「選ばなくていい。パパの家、ママの家」なんて言ったら、戸籍はどうするという話になる。不平等条約の解消のために、民法典の編纂が目指されたとき、「民法出でて忠孝滅ぶ」と論争が起きた。今日本は外圧を受けて、国際離婚に関しては国際的な子の奪取の民事面に関するハーグ条約を批准し、国際的な人権保障の枠組みに入った。家族関係の再編に戸籍の形しか許さない国内の体制は続いている。それが続く以上、再編手段としての日本の国内拉致の解決を求める外圧は止まらない。木村草太が言っているのは、「共同親権出でて忠孝滅ぶ」にというそれに対するリアクションだ。

(宗像充、「越路」9号、2018年12月)

子どもに会えない親たちの運動10年

ぼくは2007年に元妻から出された人身保護請求によって子どもと引き離された。当時彼女とは事実婚(法的には未婚)だったため、民法上親権は女性の彼女にあり、それを根拠にぼくが子どもたちを拘束しているとされた。引き渡したときに子どもには「会わせる」との約束があったけれど守られず、その結果10年の間に5回裁判をすることになった。

この国では親の別れが親子の別れに直結する。子どもと離れて暮らす親が子どもに会いたいと言えば、「ワガママ」「権利ばかり主張して」と罵声を浴びせられてきた。それだけならともかく、「加害者」「DV男」「子どもに執着している」……ぼくたちが声を上げたときに投げかけられた言葉には果てしがない。

10年前の2008年に、当時住んでいた国立市の議会に離婚後の親子交流の法制化の陳情を出したことでぼくは運動を始めた。当時は「シングルマザー」という言葉はあっても、「別居親」という言葉はなかった。子どもと離れて暮らす親は、親というより「シングル」とみなされていたのだ。

しかし、離婚時に親権をどちらか一方の親に決めるという必要性はどの程度あるだろうか。実際には「子どもにとって離婚とは家が二つになること」という当たり前の事実に気づいた海外の国々は、欧米を中心に共同親権へと移行していった。この流れは世界的なもので、中国やお隣の韓国も法制度的には共同親権だ。子どもは両親から生まれる、という事実は、家の都合や親権をめぐる男女の主導権争いを凌駕していったのだろう。いったい何のため、誰のために単独親権制度を守るのだろうか。

運動が無視できない状況になってくると、今度は「問題のある別居親」(週刊金曜日)とぼくたちは呼ばれるようになった。この問題に限って言えば、別居親や、その多くを占める男性に対するヘイトをためらわないのは、むしろ、左派・リベラルである。親権なんか別居親に渡すと、被害者のDVやモラハラの被害が継続するというのだ。しかし、彼らが「被害者」であるのは、子どもを確保しているからである。

男女の親権取得率は女性が8割を占めるが、それは夫婦間に葛藤を生じたときに、相談に行って逃げる場所(多く「シェルター」などが用意される)を用意されているのは女性だけだからだ。そして裁判所は子どもを確保しているほうにまず間違いなく親権を認める。つまり親権目的の子の連れ去り=拉致が生じる。この点から見れば、別居親は被害者である。しかし別居親を批判する側は、これを被害とは認めない。

なぜだろうか。

それは男性が子育てに関わることの権利性を認めないからだ。そうなると、そんなやつらのために法整備を認めるなんてとんでもない、ということになる。「問題がある」のが別居親ではなく、別居親は「問題がなければならない」のだ。原因と結果が倒錯しているように感じるが、そう感じないとしたら、あなたが性別役の罠にどっぷりはまっているからだ。何のために単独親権制度を守るのかと言えば、それは家制度=戸籍である。

ぼくは事実婚という男女のパートナーシップのあり方をとってこうなっているので、親権が欲しいわけではない。しかし、ぼくたちが「親子が親子である」ためには、こういった現在の法制度とそれを支える社会の偏見を取り除くしかなかった。男が仕事しないで子育てできる、そうなれば、男女のパートナーシップのあり方はもっと多様になっていくだろう。

(宗像 充「月刊まなぶ」2019年1月号)

誰のための単独親権制度?

今年7月17日の記者会見で、当時の上川陽子法相は「親子法制の諸課題について、離婚後の単独親権制度の見直しも含めて広く検討したい」と表明している。すでにこれに先立ち、4月にはイタリアとフランスの大使が、EU加盟各国連名の書簡とともにこの問題の解決を求めて法相を訪問している。オウム真理教幹部への死刑が執行されて一週間が経ち、その野蛮さに、日本への国際的な批判が最高潮に達した時期だった。法相の発言は、同じくその野蛮さが国際的な批判の的となっている、子どもの連れ去り問題へのアドバルーンだったのだろう。

ぼくは2007年に人身保護請求によって子どもを元妻に引き渡し、その後子どもと引き離された経験を持つ。事実婚だったので親権がなく、その後子どもとの関係を維持するためだけに、10年の間に5回裁判をすることになった。会わせたくない親の感情はいろいろだろう。でも「だから会わせなくていい」となれば、それは引き離された側からは「責任転嫁」でしかない。そう市民運動の現場でことあるごとにこの問題を訴えてきたが、被害者保護を損なうものと冷ややかな視線も感じてきた。


この国では親の別れが親子の別れに直結する。「権利ばかり主張して」「DV男」「執着している」……ぼくたちが被害を訴えたときに投げかけられた言葉には果てしがない。10年前に運動をはじめたころには、「シングルマザー」という言葉はあっても、「別居親」という言葉はなかった。子どもと離れて暮らす親は、「シングル」でしかなかった。


運動が無視できない状況になってくると、今度は「問題のある別居親」(週刊金曜日)とぼくたちは呼ばれるようになった。この問題に限って言えば、別居親や、その多くを占める男性に対するヘイトをためらわないのは、むしろ、左派・リベラルである。親権なんか別居親に渡すと、被害者のDVやモラハラの被害が継続するというのだ。しかし、彼らが「被害者」であるのは、子どもを確保しているからだ。女性の別居親が被害を訴えたところで、公的支援は何もない。


男女の親権取得率は女性が8割を占める。それは夫婦間に葛藤を生じたときに、相談に行って逃げる場所(多く「シェルター」など)を用意されているのは女性だけだからだ。裁判所は子どもを引き離された側から親権を奪う。親権目的の子の連れ去り=拉致が生じる所以だ。この点から見れば別居親は被害者である。しかし別居親を批判する側は、これを被害とは認めない。男性が子育てに関わることへの権利性を認めないからだ。そうなると、それは過剰な権利主張で、そんなやつらのための法整備なんて必要ない、となる。別居親は「問題がなければならない」のだ。原因と結果が倒錯しているが、そう感じないとしたら、あなたが性別役割分業の罠にどっぷりはまっているからだ。


しかし、男社会を批判し、女性が割を食っている、という観点からすれば、男性の側がジェンダーバイアスによって割を食っている部分があるということには無頓着で、むしろ男性の側に反省を求めることが「進歩的」になる。たとえば、憲法学者の木村草太は、「別居親が、主観的に『自分との交流は子の利益になる』と思っていても、DV・虐待・ハラスメントなどの要因で客観的にはそう認定できないことがある。そうした場合には、面会交流は避けるべきだし、ましてや親権を与えるべきではない。面会交流の不全は、裁判所か、別居親の問題であり、親権制度とは関係がない。」(沖縄タイムス8月19日ネット配信)」と別居親へのヘイトを正当化する。


ぼくは、事実婚(つまり未婚)でこうなっている。木村は、非婚の父を倫理的でないと責めるのだろうか。「男が仕事しないで子育てできる世の中を」とぼくは主張するが、フェミニストの社会学者は、「共同親権が成立したら変わること―養育費はゼロになる?」とヤフーニュースに投稿する(千田有紀、7月18日)。男の子育てより、男が家庭に金を納めないのが問題なのかと思うと、家制度にどっぷりつかったその主張をもはや「進歩的」などとぼくは呼ばない。アメリカでは、イガリタリアン(平等主義者)がフェミニストと対抗するようになったとも聞く。その気持ちはよくわかる。


ちなみにぼくもDV家庭の援助にかかわっているし、ぼく自身も当事者だったので、実際の暴力の現場で親権の有無が役に立たないことくらいは知っている(一方親権をめぐっての争いが暴力に至る事件はよくある)。DVの被害者は専ら女性というのも事実ではない。2014年の内閣府の最新の調査では、既婚者のうち、DVの被害を受けたことがあると答えた性の割合は、女性が23・7%に対し、男性は16・6%。さらに配偶者からの被害経験を「この1年間」で見ると、男性が39・3%、女性が37%と男性の被害経験の方が女性を上回っている。


DV防止法で女性を逃がして離婚させることができても、そもそもそこに「客観的な認定」などないし、それは裁判所も指摘している(4月25日名古屋地裁判決)。日本のDVは民事対応なので、仕返しを恐れた当事者は告訴よりも連れ去りという手段を取る。実際には暴力の有無にかかわらず男性を家庭から排除し、「お母さんだから拉致OK」なんて、暴力そのものだ。多くの国々は、単独親権から共同親権へと移行していった。この流れは世界的なものだ。子どもは両親から生まれる、親どうしの関係は子どもから見て対等という事実は、家の都合や親権をめぐる男女の主導権争いを凌駕していったのだろう。


日本でも多くの父親母親が、過去単独親権制度の違憲、撤廃を求めてくり返し裁判を闘ってきた。憲法の観点からこの問題の解決を求める学者や法律家も出始めている。何より、婚外子差別の解消を求めてきたり、義父の介助という嫁の役割を断れなかったりした経験のある女性たちは、ぼくたちの運動を励ましと共感をもって迎えてくれた。性にとらわれない個人の解放を求めるならば、ぼくたちがすべきは、異性への敵意を煽るより、「結びつける言葉」をどう見つけだすかではないか。

 (「反改憲」運動通信No.6、2018.11.30、宗像 充)

自己責任の価値の暴落

 安田順平が拘束から解放されて日本に帰ってきた。安田氏とはフリーランスという以外に共通点はないし面識もない。そうはいっても、安田氏が取材先で拘束されて、戻ってくる度に「自己責任」という批判が起こることには、かなり違和感がある。

 その理由の一つに、安田氏は、何回か拘束されても殺されずに戻ってきている、ということがある。もちろん次は死ぬかもしれないし、拘束されずに戻ってきて、現地の様子を伝えるということも、ジャーナリストとしては本分かもしれない。だけど拘束されて殺されずに戻ってくる体験が何度もできる人は普通いない。それだけですごいことのように思えるし、実際殺される人がいたのだから、単に運が良かっただけでない、生き残るための技術があったとのではと思う。例えば離婚体験のない人が、離婚の実像を当事者にインタビューして伝えるのと、何回か離婚した経験のある人が離婚について語るのとでは、表現の巧拙の違いはあっても、説得力の違いがあると思う。それって単純にぼくは知りたいと思う。

 それに、安田氏は身近な人に心配をかけたのはあるにしても、何か誰かに迷惑をかけたのだろうか。国が行くなと行ったところに行ったのだから……と批判する人がいたとする。しかし、そう批判した本人に安田氏は何か迷惑をかけたか。税金を無駄に使われたから不満なのだろうか。国が自国民を守らなければ国がある意味もなさそうなので、適正な税の支出方法だとも思える。

そもそも現地の人はジャーナリストに利用価値があると思えば殺さない。自分たちの声を外部に伝えてくれるものであると期待できるとしたら、むしろ利用する。ジャーナリストとして利用価値がなければ人質にして金と引き換えにもしよう。

ジャーナリストでもなければ自分たちの声が外部に伝わらないという状況は、ジャーナリストにとっては飯のタネだけれど、その声は見捨てられた現地の人の不満なのだから、それを代弁しようとすれば、そういった状況を作った側に批判的になるのは当たり前だ。そうしてほしくない国の政府はそこには行くなと言うに決まっている。だから、そもそもジャーナリストが国を批判するのは当たり前で、批判しなかったらジャーナリストじゃない、ということになる。

ジャーナリストが何かということは別にしても、つまり政府が行くなという場所を設定するのは、その地域の実情が伝わることが、その国にとって都合が悪いからだ、ということが本音に思える。だから小泉政権のもと、アメリカのイラク侵略をいち早く支持した日本政府は、イラクの人質事件が起きたときには「自己責任だ」という本音を丸出しにしたし、今回も「現場で救助に当たっている職員の努力やプロ意識を損なうので自己責任だなんてやめてほしい」とたしなめたりしない。

ちなみに、現場の苦労を理由に遭難ヘリの有料化が議論されたりしたとき、救助に当たる人からの違和感を聞いたことがある。「お前らはどうせ金で動いてるんだろ」と言われているようなものだからだ。ヨーロッパの国立公園では、クライマーの遭難に対してどれだけ充実した救助体制を持っているかを誇りとしている地域もあると、国立公園の研究者に聞いたことがある。自分は行かないで部下や他人に金と権力で仕事をさせる人間が言う「自己責任」などまじめに議論する必要があるのだろうか。今「自己責任だ」とか言っている連中は、そもそも救助をしようという発想すらない。見殺しにしても関係ない(つまり迷惑じゃない)からだ。

最後に、政治的にこの問題を論じることは一面的だ。安田氏がジャーナリストの職務とか言っているのは、自分の仕事の意義を見出したい人間にとっては普通だ。しかしそもそもの動機は、誰も見たことがない場所に行って自分の目で見てみたい、という思いだろう。行って自分だけが知ったことがあれば、だれかに伝えたくなるのは人情だろう。それが結果的にジャーナリズムとして成り立っている。

それを批判する人間は、そもそも自分が知らない世界に対してあえて知ろうとしないか、自分ができないことを他人がやることについて、「おれが我慢してるのにあいつだけ」とねたみや嫉妬から言葉を発する。

自己責任という言葉でリスクの伴う登山に出かける人はいる。それはそもそもリスクを引き受ける側の人間が使ってきた言葉であって、そのつもりもない人間が、他人のミスを見つけて足を引っ張るための言葉ではなかったはずだ。この自己責任論に対して、ダルビッシュや野口健といった、どちらかというと一匹狼や異端児が批判的なのは、そういった他人の感情とずいぶんたたかった経験があるからだろうと思う。しかしぼくたちが、彼らが何か失敗したときに、「自己責任だ」と言うとしたら、ずいぶん下品だと感じないだろうか。

(府中萬歩記、2018年12月号)

共同親権出でて忠孝滅ぶ(前) 

子どもに会えない親たちの運動をはじめて10年になった。今年は法務大臣が7月に共同親権について「検討する」と発言したため、共同親権という言葉が報道されたので、それなりに関心を持った人もいただろう。もちろん反対論も出ている。反対論は通常「保守」として括られる陣営から出されるのではなく、護憲や革新、人権などの言葉となじみ深い人たちから出され、それが議論の混迷を招いている。そこでここでは、親権問題をめぐる論点の所在を探る試みをしてみたい。

昨年から共同親権反対の論陣を張るようになった憲法学者の木村草太は、沖縄タイムスへの連載エッセイで、以下のように主張する。

「別居親が、主観的に『自分との交流は子の利益になる』と思っていても、DV・虐待・ハラスメントなどの要因で客観的にはそう認定できないことがある。そうした場合には、面会交流は避けるべきだし、ましてや親権を与えるべきではない。面会交流の不全は、裁判所か、別居親の問題であり、親権制度とは関係がない。」(木村草太の憲法の新手(86)共同親権 親権の概念、正しく理解を 推進派の主張は不適切、8月19日ネット配信)」「この点、『裁判所は、別居親に監護の機会を与えてくれない』という批判の声もある。しかし、それは、裁判所の人員や運用に問題があって、裁判所が適切な判断をできていないか、あるいは、客観的に見て別居親の監護が『子の利益』にならないことによる。法律の定めるルールの内容に問題があるわけではない。」(同(87)続・共同親権 父母の関係悪いと弊害大きい、9月2日ネット配信)。

こういった主張は世間一般の先入観の所在をよく指摘してはいるけれど、デマだ。裁判所は子どもと引き離された側の親権を単独親権のもと奪うので、親権目的の子の連れ去りが横行する。子どもと引き離された親が裁判所に子どもに会いたいと申し出ても、取り決め率は54%。そのうち4割が約束を守られず会えなくなっている。彼が弁護士だったら100%勝てない。

親権争いでDV・虐待・ハラスメントなどの主張が同居親側から出るのは普通だ。しかしそもそも子連れで家を出るときにそれらの客観的な認定があるわけではない。男性の親権取得は裁判所を経由すれば1割だ。それは男性が子どもを連れて出たところで、女性のシェルターのような行き場所がないことによる。そもそも虐待の加害者の割合で一番高いのは実母で、DV被害も男性の5人に1人は受けている。「子の利益」にならないのは同居親も同居カップルの親にも当てはまり、裁判所の人員の問題ではない。

こういう発言は、昨年週刊金曜日でも「問題のある別居親のための法律はいらない」という記事で登場している。週刊金曜日には抗議後、公開質問状を提出し、投書して誌面で公開討論会を呼びかけた。しかし週刊金曜日は黙殺している。この結果、ぼくは取引先を一つ失った。現在不買運動をしている。

沖縄タイムスにも電話して担当者と話した。「木村さんは性別で区別をしていませんよね。男性へのヘイトではないんでは」という担当者に、「でも被害者は女性しか想定していませんよね」と言って、先ほどの暴力被害の実情を数値で指摘した。「それは知りませんでした。周りでも聞かず、どうしてそういう実情を知る機会がなかったのか」と逆に聞かれた。「それは男性は被害を言うのが『男らしくない』からでは」と答えた。沖縄タイムスには公開質問状を出した。

弁護士グループが出版も行なったり、女性のDV被害者支援団体が集会をもっているので、共同親権反対の運動は組織的になされていることは明白だ。人権問題として女性問題を取りあげることは、リベラルなオピニオン誌では普通なので、女性の運動が男性の危険性を主張すれば彼らが正義感をもってそれに答える。したがって、男性の多い別居親の主観は前提として否定するが、女性の多い同居親の主観で別居親子の権利侵害がなされることには無頓着だ。

DVは精神的なものが含まれる(モラハラ)。であれば男性の側の主観からの被害者意識もまた制度的な保証が与えられるべきだ。女性の側は主観で居所秘匿がなされる制度保証はある。しかし、男性の側がDVと言っても子どもに会えたり親権を得られたりしない。これは子どもと引き離された女性においても同様だ。

実は、「虚偽DVなんてない」「被害者が逃げてきているのがDVの証拠」という言説自体が、DV被害者支援の制度的な欠陥、つまり男性の側の権利侵害への無自覚を自ら語っているに過ぎない。しかしこれは世の中は家父長制社会、男性優位社会である、ということをもって正当化される。そして、社会的弱者である女性の側からの被害の訴えに耳を貸すのが優位にある男性の側の理解ある態度となる。たとえ男性の側の権利侵害があったとしてもそれは女性からの過剰防衛の結果として罪が問われない。そして木村や週刊金曜日が無自覚に別居親に反省を促す。

 なぜこんな不毛とも言える対立が生じるのだろうか。

今年、アメリカの男性の権利運動について紹介した映画「レッドピル」を上映した。この映画は性役割に基づく生きづらさは、女性のみならず男性にもある、という当たり前のことを主張すると、いかにその主張がフェミニストからの猛反発を受けるかをうまく描写している。またぼくが、この10年の間に体験したことそのままでもあったので、「あるある」と思って見ていた。

この映画をぼくたちに紹介した翻訳家の久米泰介さんは、「日本じゃフェミニスト対保守派、みたいな対立軸で考えられているけど、アメリカでは、イガリタリアン(平等主義者)対フェミニスト、という対立軸になってきている」と指摘していた。男性の側が被害を訴えることは男女平等のためには歓迎されるべきなのに、実際には女性が優位を占めていた部分での権益を侵害されると受け止められ、その不利益の指摘が封じられるということのようだ。結果男性差別は市民権を得られず、男性の被害の訴えは嘲笑の対象となる(ミサンドリーと呼ばれる)。

久米さんは、「男性も損しているのに、どうして家父長制、男性優位社会なんて言えるんでしょうか」とこの概念への違和感を表明していた。仮に家父長制という概念がなりたつにしても、少なくともそれは男性のみで支えているものではない。女性がポジティブアクションを求めるのは、政治家や経営者、マスコミなど権力を持っているところだ。東京医大の差別入試問題では、同じ成績でも性別で差があり、職業選択の自由を侵害されるのはもちろん不公正なのだけれど、その不公正を医師が激務だからと正当化する理由には男も怒っていい。「バカでもいいから男は過酷な仕事しろ」という本音が込められているからだ。

男女平等のためには、権力の集中をどう等配分していくのかというのが同時並行的になされる必要があるのだろう。共同親権運動は、子育ての領域におけるアファーマティブアクションを求める運動だ。そうすると、それへの反対意見は、権力を奪われる側からの反発であって、必ずしも男女平等の視点からのものではないということになる。(つづく)

(宗像 充、2018年10月7日、「越路」8号、たらたらと読み切り148)