「法を私たちの手に」、そして未来を切り開くために

 年の瀬に柳原さんの墓参りに原告の小畑といっしょに行った。柳原賢(まさる)さんは、一昨年亡くなり、半年以上経ってからお母さんから連絡があり、押っ取り刀で富山に向かった。「賢のことでできることはほかにないから」とお母さんは原告を引き継いでくれた。賢さんが亡くなったのは心労を重ねたからのようだ。賢さんの娘さんたちとはお母さんも連絡が途絶えているので、賢さんのことをほかに話せる相手もぼくたち以外に多くはないようだった。

2019年の11月に12人で始めた共同親権訴訟は、その間2名が原告を外れ、柳原さんのご両親が原告を引き継いでくれているので、現在11人で控訴審に望み1月25日は判決日だ。訴訟を継続できる条件の人がその人数だったということだ。先日、古い仲間に電話したら体を壊しているという。沈殿した恨みや憎しみは心身に影響を与える。

ぼくの娘は昨年末に18歳で成人した。勝ちにいまだ至らない訴訟に拘泥する父親を娘は「無駄なことを」と思うだろうか。それとも「なんのために」と興味を持つだろうか。2008年に民法改正の市民運動を始め、多くの仲間たちがその間に病んで亡くなった方もいる。力不足を感じるとともに、「仇をとってやる」とも思う。

控訴審判決に楽観はできない。しかし、一審判決で非婚の親の「差別的取り扱いは合理的」と述べて、自らが抵抗勢力であると旗幟を鮮明にした司法が、どのような理屈で自身の正当化を図るのか、それとも幾分たりとも反省を示すのか、見物ではある。

ところで、ぼくたちは司法の判断をただ漫然と手をこまねいて待っていただけではない。本訴訟と同時並行で国は法制審議会を開催し、訴訟の相手方として法務省民事局から面談を拒否された(請願法違反)ぼくたちは、「私たち抜きに私たちのことを決めないで(“Nothing about us without us”)」という障害者運動のフレーズを借りて、そのための手段として本訴訟を位置付けてきた。

訴訟でぼくたちは、憲法的な観点からの単独親権民法を批判してきただけでなく、現行民法が家制度との妥協の産物であることを、歴史的な経過の中から明らかにしてきた。この観点から見ると、現在の法制審議会の議論が、いかに家制度の枠組みにつかった官僚司法の体制を温存するか、という当事者不在の視点で進んでいるかがよくわかる。

たとえば、法務省お抱えの学者委員の棚村政行は 「今回の共同親権とか監護をめぐる問題でも、特別なルールにするというより、合意ができないときに現行の制度や仕組みを維持するとか、そういうルールを採用しているという前提で、その延長線上で認めるということなのだと思っています。」(32回議事録)と、司法官僚の意図を代弁している。

この発言は、今回の民法改革が、最大の抵抗勢力である司法官僚による、自作自演の「改革偽装」であることの証明でもある。「当事者の救済」ではなく「司法の不都合解消」が国の側の改革のやはり意図であった。

であるとするなら、国の側のスケジュールに合わせて、同情を誘って一定の成果を得るやり方はナイーブすぎるだろう。改革に必要性があるのは国であり、そこでいかに彼らの矛盾を明らかにして世論に訴えるのかが「法を私たちの手にするために」今必要なことである。対抗軸を示しつつ、未完の戦後民法改革の完遂を司法官僚と立法府に迫る、それはぼくたちの共同親権訴訟の狙いでもある。

おもしろいことに、足並みをそろえて、子どもに会えない親たちの罵倒を繰り返してきた、しんぐるまざあず・ふぉーらむの赤石千衣子やフローレンスの駒崎弘樹らが、NPO法人運営の杜撰さの批判の矢面に立ち失脚した。権力は単独親権制度の既得権者の保護を解除しはじめた。ところが、それに逆行するように、もう一つの既得権勢力である弁護士たちは、養育費徴収手続きの報酬の国庫補助を得ることに成功している。パワーバランス上の政策矛盾が露見した格好だ。だとするなら、ここは突かない手はない。出口を止めれば水は別の方向に流れ始める。

この半年間が民法改正論争の最大の山場を迎えることが予想される。いま反撃の準備をしている。負けを重ねてぼくたちが得た経験の中に次世代に引き継がれるものもあるだろう。しかし、幕も上がっていないのに幕引きはありえない。(宗像 充、2024.1.8 「共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会」巻頭コラム)

6・22共同親権訴訟不当判決「家父長制を隠して守り続けよ」

不当判決

 6月22日に共同親権訴訟の判決が出て不当判決だった。東京地裁(古庄研裁判長、石原拓裁判官)は請求を全面棄却している。

 当日は記者席の申請に13席があり、広い法廷の傍聴席が満席になった。被告国から事前に判決要旨の請求が裁判所にあり、国側としてもこの判決で司法が何か言うのではないかと思ったのではないだろうか。というのも、法制審議会の審議を受けて4月18日には単独親権制度の見直し報道がなされていたのだ。ぼくたちとしても、「見直し」と国が言っているのに、現行制度を司法が擁護することは理屈的には難しいので、何か中身のあることを言ってくれるんじゃないかと期待した。提訴からすでに3年半の歳月をかけており、前裁判長は国側に立法目的等の説明を求めてもいた。今さらゼロ回答はないよな……。

ところが唖然。今回の判決は、これまでの親権関連の訴訟の中でももっとも後ろ向きで、かつ差別を積極認定した。通常請求棄却の場合は主文だけ読み上げていなくなるのが多いのが、裁判長は法廷で判決要旨を読み上げた。それが「仕事しない言い訳」を10分も聞かされているようで苦痛だった。

理屈はハチャメチャ

 判決内容についてはこれから弁護団とも検討して控訴審に向けて作戦を練っていくので詳細はここでは述べない。理屈としては単独親権制度による非婚(離婚・未婚)の親への「差別的取り扱い」は、非婚の親どうしの関係が類型化できない以上、子どもについての適時適切な決定ができなくなりうるので合理的。その「差別的取り扱い」を正当化するために、親の養育権が基本的人権であることを否定している。多分に国側の言い分をそのまま取り入れる部分が多く、かつ過去の親権裁判の判例を踏襲して原告側の請求を否定したり、言ってもいない理屈を付け加えたりしている。

 差別の積極肯定なんて理屈はこれまでの親権裁判でもなかったものだ。前例踏襲だけでは原告側の論理を否定しきれず、過剰に非婚の親の権利性を否定し、差別に合理的裏付けを与えなければ自らの理屈自体立てられなかったということなのだろう。そういう意味ではハチャメチャな理屈ではあったものの、「偉い人達って反省できないよね」「そういうことしか言えないんだぁ」と司法への一般大衆の幻滅を最大限に掻き立ててくれて画期的だった。

SNS上では、本判決を書いた古庄裁判長への批判と注目が最大限に集まっている。前例踏襲の司法決定を出した判事への注目が、ここまで集まることはなかったと思う。裁判官的には、前向きな判断は司法の自己否定になるので、渦中の栗を拾う勇気はなかったということだろう(そもそもめんどくさそうだ)。決定後の論争の開始と注目は、負けたとは言っても控訴審に向けて大きな足掛かりになった。逃げ回る司法に追撃を。

組織防衛と改革偽装

 ところで、古庄と石原の両裁判官は、単独親権制度の立法目的について、適時適切な判断をするためと考えられると推測でものを言っている。しかし、前日に公開になった法制審議会の議事録(2023.4.18)では、沖野委員が、「現行法ですけれども、共同生活を営まない父母が親権を共同して行使することは事実上不可能であると考えられたためということだといたしますと、それはその時点においても果たして正確な認識であったのかということが疑われると思います。」と両裁判官の認識自体を否定している。

 そもそも単独親権制度は戸主に全権的な決定権を付与していた戦前の家父長制の名残りにしか過ぎないので、それを「子どもの利益」を理由に正当化すること自体が本質的に無理である。実際古庄と石原の2人組は無視したものの、1947年の応急措置法は個人の尊重と両性の本質的平等という憲法的な価値を反映して、非婚の親への差別を否定して婚姻内外問わず共同親権としている。故に、1947年の段階ですでに「合理的」などという余地はなく、現行民法で残ったのは家父長制と妥協した以外の理由はあり得ないし、実際当時の議論を見ればそれは明らかである。2人組の認定は立法の効果では仮にあっても目的ではありえない。歴史の捏造である。

さらに沖野委員は続ける。

「けれども、現在においては一層妥当しないものになっていると考えられます。したがいまして、第819条を支える考え方というのが現在は維持できないのではないかということでございます。 そうしたときに、子の利益からどれほど望ましくても、また、当事者がそれをどれだけ望もうとも、法的には一方のみに親権者としての法的な地位を与え、それとともに権限や責任を負わせ、他方には親権者としての法的な地位は一切与えないしそれがもたらす権限も責任も持たせないという法制度というのが、果たして適切な法制度の設計であるのかということは、大いに疑問です。」

沖野委員は、法制度の成り立ちの歴史を踏まえた法学者としての常識的な意見を述べたに過ぎない。古庄と石原の2人組は見直しそのものを否定していない。であるとするなら、本判決は「改革偽装」の勧めである。見直し議論は政策論で人権問題ではないと言っているに他ならないのだから。本判決が明らかにしたことは、本当の敵は家父長制にあるということだ。

入管と共同親権

 入管問題で梅村みずほ参議院議員が、支援者にも問題があったのではないかと国会で質問して問題になり、その後、彼女が所属する維新は、法務委員会からの更迭を決めた。この件では、ハッシュタグをつけて彼女を支持する書き込みをSNSでこの間多く見た。

 正直追っかけてきた問題ではないし、彼女の質問の意図もあまりわからなかったけど、支援者が問題だというなら、周囲がどうこう詮索することより直接本人が支援者に聞けばいい。この問題に何年も前から取り組んでいる友人のジャーナリストもそうSNSで指摘していた。展開は逆で質問は「ためにする」ものだったのが見て取れた。それで支持はできない。

 オーバーステイや在留資格が何等かの理由でなくなったりする人が入管に収容され、多くの人が帰国する。それでも帰国すれば身の危険があったり、家族がバラバラになったり、何等かの事情がある人が日本に止まり、先の見えないまま入管では非人道的な扱いを受ける。そういうのは彼のようなジャーナリストが明らかにしてきたので繰り返さない。仮に支援団体に何か問題があったにしても入管に責任はある。別居親団体にも問題は多々あるけど、だから家庭裁判所に責任がないわけではない。

 彼女が法務委員会で共同親権賛成の立場で質問を繰り返していたので、子どもと引き離された親たちが梅村議員を支持したがる理由はわかる。一方で彼女の発言が間違ってないというなら、自分たちが支えるから更迭した維新なんてやめちまえ、と言えばよさそうだけど、そういうのはまだ見てない。

 ところで、入管の問題は、ハーグ条約に加盟する前にそれこそ日本にいる主にアジア太平洋地域からの外国人に対する支援者から話を持ち掛けられたことがある。オーバーステイや在留資格が何等かの理由でなくなったりした場合に、担当部局が退去させることはあるけど、日本の場合は家族がいても引き離して退去させるのをいとわない。アジア地域からの労働者が日本に来て日本人と結婚して子どもができて日本にいられるようになっても、離婚したらいられなくなる。日本にいてもなかなか会えないけど、そうなると日本には来られなくなるので会う見込みはなくなる。また日本に生活の拠点ができてしまえば、母国といってももはや外国だ。そんな状況でも家族を引き離すのを厭わない。

 こういう情け容赦ないことをしているのは日本だけだし、ちょうどぼくたちがハーグ条約の加盟の時期に共同親権を主張していたのもあって、親子を引き離すのを厭わない日本の家族法に問題があるのではと訪ねてきたのだ。当時ぼくは東京で子どもに会えない親たちの相談を受けながら運動もしていた。10年以上前だ。非人道的な日本の家族法の影響を受ける人は大勢いるんだなと当時思ったものだ。

今日のように共同親権に関心を示す人はほとんどいない状況だった。そこに別居親団体以外で、似た問題関心を持つグループの存在はとても励みになった。彼らは積極的に法務省に申し入れ活動をしていたし、ほかの別居親団体と協力していたりしていた。ぼくも相談に来たアジア出身者をその団体に紹介したりもした。その後その団体の担当者がいなくなったので、交流もなくなった。

日本の国籍取得は血統主義なので、外国籍の親に子どもが生まれても在留資格はない。子どもだけ退去を言われることもあると、友人のジャーナリストに聞いた。そんな無茶なと思うけど、要は日本にいられるかどうかの判断基準がない。その要件を決めるのも入管ということになるので、日本から出されれば危険な状況になったり生活の見込みの立たない人にとっては不安で仕方がない状況になる。というような話は多く出回っているので詳しく書かない。戸籍があって共同親権がないというのが、日本特有の事情だけど、だから先の支援者も関心をもって訪ねてきたのだろう。

梅村議員が用いた「不法滞在者」という用語にしてもメディアでは不適切という指摘があった。「非正規滞在者」という表現もあったので、先の友人に聞くと、在留資格が付与されない、更新されないなどの受け身の状況の人にそれを用いるのべきではないという立場からは、入管のようにいっしょくたに「不法滞在者」とは呼べない。そういう事情の例えばAさんについて書くにしても、「入管から『不法滞在者』として扱われている」はセーフで「日本に長らく不法滞在をしている」はアウトになる。「仮釈放」と「仮放免」についてはぼくも誤って用いたことがある。ぼくも無関心で偏見で見ていたということになる。彼女に意図はあったにしても、状況は同じだったのではないかと思う。

この問題に関心を持って見てみると、彼らが置かれた状況は、子どもに会えない親たちとそっくりだなと思えてくる。在留資格は親権みたいなものだ。無権利状況で、司法に事情を訴えても基準もないまま子どもとの関係を維持できるかどうかは同居親の意向次第。権利がないだけで犯罪者のように見られるところまで同じだ。入管法の改正の論点もこの点にあるようだ。彼らを管理と差別の対象としか見なければ、自分たちもそうされても文句は言えない。(2023.5.22)

家庭裁判所解体

 5月13日に行った学習会では、明石書店の『共同親権と面会交流』を引き離され仲間の大山直美さんが解説してくれた。本を読めば離婚事件において家庭裁判所に対する不満は、父母双方に存在することがわかるようだ。そんな中で「家庭裁判所解体」の主張は危険視される向きがあるので、もうちょっと論理的に精緻化したほうがよいのではないかという講師からの提案だった。家庭裁判所には家事事件以外にも少年事件があるので、全否定するのもどうかというものだ。

 「家庭裁判所解体」というのはデモのコールだし、「家庭裁判所の家事部門廃止」とかノリがよくないよね、とか適当に答えたと思う。少年事件がそんなにまともに処理されているようにも思えないけど、解体した後に少年事件裁判所でも作ればいい気もする。こういう批判は、「言えば聞いてくれる」みたいなことを思っている人が言いやすい。要はそういうレベルかということだ。

実際問題、家庭裁判所で嫌な思いをした人は多いし、理屈はまったく通じない。理屈が通じないのがわかっていて、揚げ足をとって裁判所に都合のいい結論に持って行こうとする。どうしてそうなるのかといえば、結局家庭裁判所は戸籍事務の専門機関だということに尽きると思う。戸籍事務というのは、家制度枠内で人々をどう配属して問題が生じればその範囲で温情を施すというのが仕事になる。歯向かえば治安管理の対象にする。

彼らが見ているのは生身の人間の関係性ではなく、どこの家に所属した方がいいかということだけだ。もとよりそれがこの国の治安政策でもあり福祉政策でもあった。民生委員は無戸籍児に戸籍を与えたりしたし、血縁よりも戸籍の形に当てはめることが優先されるので、再婚養子縁組に司法手続きは必要ない。しかし別戸籍になった親権のない親が、家の意向に反して子どもに会いたいと望めば司法が弾圧する。

理屈が通じないのは、せっかく所属がはっきりしたのに、それを乱す振る舞いに見えるからだ。子どもを会わせるように言われることへの同居親の不満は、司法が意義を認めていないことに従わされることへの理不尽さだろう。「月に1回くらい会わせたっていいいじゃない」なんて説得は、「嫌なものよね。でも向こうがうるさいから裁判所のために我慢して」と言っているのと同じだ。

ところで、一体全体、戸籍事務の処理機関の家庭裁判所が、では民法の改革や戸籍の廃止抜きに、現代的な価値観をもった利用者のための実務を行えるだろうか。無理に決まっているが、無理なら無理なりに、実務に携わる職員が、裁判官も含めて改革の提案をするのがあってもいい。ぼくが会った家庭裁判所改革の旗振り役の中山直子は、戸籍実務の枠組みから一歩も出ない古臭い価値観で、ぼくの揚げ足をとることに血道を上げるだけの人だった。

法制審議会の家庭裁判所代表は「ちゃんとやっている」としか言わないで、利用者の不満の所在が何なのかを把握しようとする気すら感じられない。同居親・別居親の対立の問題ではない。家庭裁判所がよって立つ価値観が現代の価値観に合っているかどうかを問い返す人に、家庭裁判所関係者の中でこれまで出会ったことがないというだけだ。こういう現状の家庭裁判所に、解体以外の何か期待できるのだろうか。(2022.5.16)

議会政治と共同親権運動

 5月14日に『面会交流と共同親権』という、共同親権反対のための本の学習会をして、反対意見にどういう反論や対応をしていくのか、という議論を10数人でした。大山直美さんが本を読んで論点をまとめてくれた。

 この本は、これまで出てきた反対意見を整理・焼き直しているということのようだ。もちろん都合のいいデータや事例も盛り込まれている。タイトルだけ見たら、反対派の本とは思わないので、購入した人は共同親権へのマイナスの印象を持つという仕掛けだ。

この間、共同親権への反対意見は、政党で言えば共産党やれいわの所属の人が目立って発言している。護憲派とも言われる。一方で、共同親権に賛同して発言する議員は、維新や自民に多い。一般に改憲勢力と見られている。

通常であれば人権問題は護憲派が取り組み、改憲派が反対することが多いので、この問題においてはねじれて見える。子どもに会えない親の中にも、この賛成反対の構図から、政権政党の言うことを聞けば法改正につながると思って、左派なら何でも目の敵にしたがる人がいる。補助金の杜撰処理が民間人から指摘されて問題化したコラボの問題では、コラボ側の弁護士が共同親権反対で目立っている人とかぶっているので、いっしょになって暇空茜を応援している人がいる。そんなに単純な話なのだろうか。

大山さんは、反対意見の人たちが懸念しているのは、かねてより自民党の改憲運動でも意図されてきた憲法24条改憲で、国家が家族に介入することへの嫌悪感ではないかと指摘している。

現行憲法は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。 二 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」となっている。

自民党憲法草案は以下だ。

「一 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。 家族は、互いに助け合わなければならない。 二 婚姻は、両性の合意に基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」

自民党草案からは、「個人の尊厳と両性の本質的平等」という文言が抜けている。一方で1項はもっともらしく見えるものの、「家族」が何を指すのか曖昧だ。この「家族」が「戸籍」ということであれば、戦前の家父長制の復権ということに直結する。

「赤いネットワーク」と左派のことを言いたがる連中は、社会主義は家族を解体する危険思想だとレッテルを貼りたがる。じゃあ日米合同委員会で、大日本帝国憲法を廃止したアメリカと政治交渉したほうがいいんじゃないかと思うけど、そういうことは言わない。

ぼくは現行憲法を守る意思のない政権政党が改憲を推し進めたところで、論理的に考えて新しい憲法を守る見込みは0なので、そんな改憲なんて「俺様の言うことに歯向かうな」以外の意味はないと思う。一方で、「個人の尊厳と両性の本質的平等」という現行憲法の価値を掲げて憲法訴訟をはじめたぼくたちに対する、左派政党や知識人の冷淡どころか敵対行為を見ると、お前ら同じ穴のムジナじゃないか、と素直に思う。右翼が危険思想とか言いたがる理由もわからないでもない。少なくとも護憲派なんて掲げないでほしい。

ぼくは市民運動をしてきた経験から、右だろうが左だろうが政権政党の不正は敏感になりやすい。権力を握っているのでその影響は甚大だ。一方で、コラボのように社会的弱者の支援を掲げて活動をしている団体だからといっても、なんでもかんでも味方するわけでもない。議会政治優先の政治活動家はそうしたがるけど、共同親権に賛同してくれるからといって、その議員の活動に何でも賛成するわけでも擁護するわけでもない。

別に不偏不党とか正義感からそういうふうにしているわけじゃない。よく知りもしない問題に対して、やってる人間がかぶるからと敵対すれば、敵の敵を味方にするしかない。そうすることで自分が知りもしない人を敵に回すことにもなる。自分で判断するのを放棄しているだけだし、逆に言えば、「同じ陣営」と自分が名乗り出た側が問題や不祥事を起こせば、否応なく巻き込まれるからだ。

そんなことを考えていたら、早速共同親権賛成で歯切れのいい質問をしていた梅村みずほ議員の入管法問題での発言が話題になっていた。この件についてぼくは詳しくない。ただ、法務省が親子を平気で引き離して強制送還する問題があることは知っている。過去離婚に伴い強制退去になり家族と引き離される外国籍出身者の支援をするグループと、ささやかながら運動もしたことがある。

そのことを思い出して、ちょっと前にこの問題に取り組む友人のジャーナリストに電話して、「そんな野蛮なことをするのは日本だけ」と再度確かめた。彼は梅村議員の発言に対して、さっそく「病気になれば仮放免してもらえる」という例がないとSNSで述べていた。

日本人の未決囚が病気だから釈放してもらえるなんてことがないわけだから、入管がそんな人道的な扱いをするなどありそうにない。もとより離婚に伴い親権を失った親たちは、戸籍を異にする他人なのに、その枠を脅かす「アウトロー」として弾圧されてきた。「日本人」の証としての戸籍にすら入れない外国出身者の地位はなおさらだろう(友人によれば、欧米諸国とそれ以外の国の出身者では差別があるということだ)。(2023.5.15)

復古主義者の木村草太を憲法集会でしゃべらせるのか?

憲法学者の木村草太を立川の市民運動は憲法集会で呼ぶという。

やめとけ、と知り合いに言ったけど、やるようなので、彼がどういうことをツイッターで日々言っているかを紹介しておく。

なおぼくは、子どもと引き離された経験のある父親であり、現在、現行単独親権民法の違憲性と立法不作為を訴えて訴訟をしている。司法手続きは主なものでも5度ほどとっているが、現在子どもと会えていない。木村の言うほど司法は公平ではない。

木村の主張は母性神話を性中立的な装いをとりつつ刺激する形で、家制度を擁護するものだが、日本国憲法施行時、1947年には現行民法施行までの半年間、応急措置法により、婚姻内外問わず、共同親権を適用しており、共同親権で離婚した夫婦もいる。

この応急措置法はその第一条で「この法律は、日本国憲法の施行に伴い、民法について、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚する応急的措置を講ずることを目的とする。」と述べている。

天皇制と戦争を支えた明治民法の家制度が、GHQの指示により外見上、廃止させられたが、憲法の理念を徹底したのは応急措置法であり、現行民法ではなかったことが明白である。

家父長制を構成した親権制度は戦前は一律父親単独親権だった。戦後民法は、婚姻中のみ共同親権を適用し、法律婚の保護による家制度の温存を、個人の尊厳と男女同権に優先させた結果だという歴史的な事実がある。

憲法学者の木村が、この事実を知っていたなら悪質だし、知らなかったらただのバカだが、もちろん、ぼくが憲法訴訟を提起してからの彼の言動は、訴訟妨害にしかならなかった。

平和を語る集会テーマで、復古主義の学者を起用するのは人選ミスかコントにしか思えない。

なお、親権問題については、市民運動や左派政党は、議論から逃げまくって今日に至るが、そういうズルい態度はいずれしっぺ返しを受けるのは目に見えているので、前から指摘しているけど今回も指摘しておく。

以下木村のツイッター。

木村草太

@SotaKimura

·4月6日

離婚後に子どもに会いたいのなら、面会交流を公的に支援するシステムの導入を求めて活動した方がいいと思う。

「子連れ別居の一般的な違法化」も「非合意強制型の共同親権」も、おそらく実現しないし、仮に実現しても、子どもに会えるわけではないから。

木村草太

@SotaKimura

·4月12日

私も、主張内容を精査すればするほど、「支配権を離れたこと」への怒りが、共同親権を目指す人たちの原動力なのだと考えるに至った。

木村草太

@SotaKimura

·4月12日

「ある日帰ったら、子どもと共に配偶者がいなくなった。子どもに会えなくて辛い」という割には、面会交流の手続きを取らなかったり、面会交流支援団体を使いたがらなかったり。司法も含め、第三者の支援を断るところが、「子どもに会いたい」より「自分の思い通りにしたい」にしか見えないんだよね。

彼を憲法集会で呼ぶということ自体、もう憲法擁護の活動ではないということを最後に述べておく。

諏訪 ★ 共同親権実践セミナー2023

『共同親権』『子どもに会いたい親のためのハンドブック』の著者による、子どもに会いたい親、子育てにおける共同親権を考えてみたい人のための、経験を活かした実践子育てシリーズ。

【日時】2023年4月~7月の第3土曜日、各回14:00-15:20

【場所】諏訪湖ハイツ(長野県岡谷市)315会議室(子どもの遊具あり)

(長野県岡谷市長地権現町4丁目11番50号)

http://www.suwako-haitsu.jp/index.php/page-43/

*第4回目のみ、大鹿村「良山泊」(下伊那郡大鹿村大河原2208)で開催。問い合わせください。

【講師・司会】宗像 充(ライター。共同親権訴訟原告、『子どもに会いたい親のためのハンドブック』著者、「大鹿民法草案」起草者、15年にわたって親子引き離しの相談・支援をしてきた)

【参加費】1000円*予約不要

(下記のグループワークと2コマで1500円)

【各回内容】

<第1回>4月22日(土)「ゼクシィ見るより民法読め」

家族法の民法改正の議論が話題になり国の立法不作為を問う国賠訴訟も提起されています。でもなぜ法律が子育ての障害になるのでしょう?現行民法の問題点を「大鹿民法草案」をテキストに考えます。

<第2回>5月27日(土)「共同親権反対論」

共同親権の議論が深まらないのは、根強い反対運動の存在があります。彼らの考える司法システムや家族観について検討し、何が養育の障壁なのか考えます。

<第3回>6月24日(土)「知っておこう!家庭裁判所の人権侵害」

当たり前のように行われる人質取引、マジックミラー越しに監視される試行面会、子どもに「会いたくない」と言わせる調査官調査、そして時間を空費するだけの調停。家裁の暗黒を共有します。

<第4回>7月22日(土)「子育て家庭倍増計画・実践編」@大鹿村「良山泊」

「子どもにとって離婚とは家が二つになること」。なのに一つの家にしか帰宅できない子どもたち。家が2つになることで何が起きる?共同子育てに近づくためにできることは?

*終了後懇親会予定

<家族を修復するグループワーク> 

同日15:30-17:00【参加費】1000円 *予約不要 

親子引き離し・離婚・DV(家庭内暴力)・モラハラ・不登校 etc否定のない自由な語り合いで気づく、あんなこと・こんなこと、あなたにあった「いい関係」をいっしょにつくります。

*当日の個人相談(有料、1時間3000円)を希望の方は事前にお問い合わせください。

主催 おおしか家族相談 協力 共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会

TEL0265-39-2116メールmunakatami@k-kokubai.jp URL https://munakatami.com/category/family/

お茶の水 ★ 共同親権実践セミナー2023

『共同親権』『子どもに会いたい親のためのハンドブック』の著者による、子どもに会いたい親、子育てにおける共同親権を考えてみたい人のための、経験を活かした実践子育てシリーズ。

【日時】2023年4月~7月の第2土曜日、各回17:15~18:45

【場所】全労連会館303会議室(東京都文京区湯島2-4-4)

JR御茶ノ水駅御茶ノ水橋口徒歩8分 http://www.zenrouren-kaikan.jp/kaigi.html#08

【講師・相談・司会】宗像 充(ライター。共同親権訴訟原告、『子どもに会いたい親のためのハンドブック』著者、「大鹿民法草案」起草者、15年にわたって親子引き離しの相談・支援をしてきた)

【参加費】1000円*予約不要

(下記のグループワーク、共同親権カフェと2コマ以上で1500円)

【各回内容】

<第1回>4月8日(土)「ゼクシィ見るより民法読め」

家族法の民法改正の議論が話題になり国の立法不作為を問う国賠訴訟も提起されています。でもなぜ法律が子育ての障害になるのでしょう?現行民法の問題点を「大鹿民法草案」をテキストに考えます。

<第2回>5月13日(土)「『面会交流と共同親権』を読む」講師・大山直美

共同親権の議論が深まらないのは、根強い反対運動の存在があります。彼らの考える司法システムや家族観について明石書店の新刊をもとに検討し、何が養育の障壁なのか考えます。

<第3回>6月10日(土)「知っておこう!家庭裁判所の人権侵害」

当たり前のように行われる人質取引、マジックミラー越しに監視される試行面会、子どもに「会いたくない」と言わせる調査官調査、そして時間を空費するだけの調停。家裁の暗黒を共有します。

<第4回>7月8日(土)「子育て家庭倍増計画・実践編」

「子どもにとって離婚とは家が二つになること」。なのに一つの家にしか帰宅できない子どもたち。家が2つになることで何が起きる?共同子育てに近づくためにできることは?

<家族を修復するグループワーク> 

同日13:00~14:45【参加費】1000円 *予約不要 

親子引き離し・離婚・DV(家庭内暴力)・モラハラ・不登校 etc否定のない自由な語り合いで気づく、あんなこと・こんなこと、あなたにあった「いい関係」をいっしょにつくります。

<共同親権カフェ(自助グループ)> 

同日15:00~17:00【参加費】1000円 *予約不要 

子どもと離れて暮らす親、別れても共同での子育てがしたい方、互いに気持ちや事情を話して支え合い、 知恵を出し合う場です。

<離婚と子育て相談会>

同日19:00~21:00【相談料】50分3000円【応談】宗像 充

*2日前までに要予約 munakatami@k-kokubai.jp 0265-39-2116(共同親権運動)  

主催 おおしか家族相談 協力 共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会

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親子が親子であるということ、それは人権

提起して何が変わった

 共同親権訴訟は2019年11月の提訴から、3月2日に原告側の最終弁論をもって結審を予定している。昨年原告の一人の柳原賢さんのお母さんから連絡があって、ご本人が病死したという。柳原さんは裁判の冒頭で、会えない娘さんがもうすぐ成人するので、時間が残されていないと語っていた。連絡をいただいて慌てて富山まで挨拶に行くと、柳原さんのお母さんが「賢のためにできること。みんなのためになっていると東京に行ってましたから」と引き継いでくれた。

 本訴訟の提訴は、当事者が顔を出して世論にアピールするという点で一定の効果を与えたと思う。外国籍当事者の働きかけによってEU議会が決議を挙げたのが大きかったものの、当時の上川陽子法務大臣が法制審議会への諮問を表明したのが、2021年1月になっている。弁護士が当事者をセレクトして、訴訟で立法不作為を認めさせていく立法活動の一手法にとどまっていないので、原告の訴訟への思いは様々だ。

4年も経つと子どもが成人したり、自分から連絡を取ってきたり、ぼくのように、毎回毎回娘が司法に呼び出されて意思を確かめさせられ、母親側として係争させられりと、状況もいろいろだ。共通して不十分な制度と無責任な司法に相変わらず振り回されている。

原告の中にも当初と違って顔名前を公表する人もいる。もし本国賠を申し立てていなかったら、それぞれの状況も違っていただろう。原告に名前を連ねて世論にアピールすることが、むしろ子どもとの関係においてプラスの側面があったのだろう。娘が国賠訴訟にも言及し「父が何考えてるかわかりません」と調査官に言っている。ぼくは娘へのメッセージとしてこの訴訟を提起した。

法制審議会VS民間法制審?

 ところで、民法改正は法制審議会への諮問と答申を得て行うことになっている。それに対して、民間法制審というグループが独自の法案を策定している。別居親当事者はこの法案があるから、反対派を押さえて共同親権が実現すると期待する人もいるだろう。本当だろうか。

 簡単な指摘だが、「こうすれば共同親権になる」という提案は「そうしなくても困らない」という意見に対して反論とはなっていない。

法制審議会諮問の目的は共同親権ではない。例えば、2年前2021年1月15日の日経新聞の見出しは「養育費不払い解消を諮問へ 法制審、共同親権も議論」になっているが、狙いは養育費不払い解消なのは最初から明らかである。人選も養育費関係の団体・識者が中心だし、その後の審議も優先順位がそうなっている。「現行制度でも面会交流ができる」ので単独親権制度をいじる必要はないという主張が議論では繰り返された。

 もちろん、民間法制審のレポートには、現行制度故の人権侵害の実態が赤裸々になされている。しかし、制度や秩序のためにはそんな被害は受容すべきという側が権力を牛耳ってきただけなので、もっと大きな被害を優先すべきと言われれば、政策判断で切り捨てられてしまう。「声の大きさで決めていい」と当事者が言うことでお墨付きを与え、声の大きさで制度改変がなされなかったというのが、親子断絶防止法も含めこれまでの流れだ。法制審に別居親枠が設けられたのも同じ狙いだ。

民間法制審の案もよく練られたものだと思うが、親子断絶防止法の当初案も、現行制度の中で実現可能という面でよく練られていた。当初案に対して骨抜きどころか逆行する結果になれば、何のための法改正なのかと思うだろうが、一応独裁国家ではないと建前上はなっているので、仮にそれが素案になれば修正は前提だ。

「現行制度でも子どもに会える人は会えている」に対する有効なカウンターは「こうすれば法案が可能」ではなく「現行制度でもお金を受け取れる人は受け取っている」である。人権問題に優劣をつけるのではなく、双方が同じ土俵で人権問題だと主張することだ。

同様に「別居親は危険」に対するカウンターは「その程度は被害ではない」ではなく「親が子どもと暮らすことは危険じゃないのか」になる。危険だから制約する必要があるにしても、だったら最初から国が見ればいいと誰でも思う。でもそうすると、いったい親とは何なのか。

何が足りないのか

  民間法制審の法案は、民法上の共同親権規定から「父母の婚姻中は」を削除したらいったいどうなるかをうまく示している。しかし法案がどうしても必要だという意見が別居親以外にはさしていないので、既得権の擁護派と比べると数からしたら苦戦必至だ。

また父母以外の祖父母や子と関係を築いた人の権利性を子どもの権利からしか規定できていないのは、つまり親権もまた政策的な選択の対象なので、それ以外の人の権利をうまく設定できなかったということなのだろう。これだと「面倒を見るのは親じゃなくてもよくないか」という意見が出た場合に、父母の権利を譲り渡す(単独親権)余地を与える。

 この点では、親権を自然権としてアピールした、作花さんが提起した一連の国賠訴訟においても同様の構造になっている。親権は父母の権利の制度的な担保だが、人権確保の手段は政策的な選択の範囲なので、代諾養子縁組で親を入れ替えることも可能になる。人権侵害だとは思うが、「政策判断していい」となれば、司法も「それは国会の役割」と逃げるだろう。

この点、権利侵害を否定しながら、連れ去り行為についての立法不作為に言及した連れ去り国賠の判断は、むしろ世論に押されて司法が立法権を侵害したと反論を受けかねない。ただし、こういった矛盾を引き出した一連の作花国賠の意義は大きい。連れ去り行為が権利侵害であるとの世論が高まれば、こういった矛盾は解消するからだ。

 

共同親権訴訟

 当事者を離婚を経験した父母子に留めている限り、政策的な判断と声の大きさに依存する構造は変わらない。

「子どもはお国のものではない」

 親たちは「みんながそうするから」と、「パパお金、ママ家事育児」の単独親権制度の家族観に従ってきた。別れれば「みんながそうするから」と子どもに会えなくても我慢し、女で一つで子育てするのは美徳とほめそやされた。かつては「みんながそうするから」と子どもを戦場に送り出してきた。もちろんそれらは「子どものため」だった。しかし本当にそうなのか。

疑問が生じた時、かつて自分たちを納得させてきた制度的な枠組みに回帰して、いったい何か得があるのだろうか。それを知っているのはつらい思いをした経験者だろう。誰もが周囲から後ろ指さされないようにしながら、びくびくしながら家族を耐え忍んできた。現行制度が父母の権利が損なってきたと、自らの経験を踏まえて訴えることで、その無意味は浮き彫りになる。

そんな窮屈な世界に止まる必要は何もない。共同親権訴訟と大鹿民法草案は、そのための手段にほかならない。子育ては自由だ。誰もがそれに気づいたときに、法も社会も変わるだろう。

共同親権で何が変わる?「子育て家庭倍増計画」


「結婚って一生おごり続けるってことでしょ」

 知り合いの母親がその気のなさそうな息子に結婚について聞くと、そんな答えが返ってきた。10年以上も前の話だが唖然とした。でもよく考えたら、実は結婚制度(男女の問題)と親権制度(親子の問題)が結びついた現行システムへの素直な返答だ。

ぼくは子どもと引き離され、離婚・離別などで同様の経験をした親たちの相談を2008年から受けてきた。2019年には現行の単独親権民法の違憲性を訴えて、立法不作為の国家賠償請求訴訟を提起した。共同親権の海外からの批判もあり、法務省は親権制度について法制審議会を開いた。現在パブリックコメントの最中だ(2月17日まで)。「離婚後」の親権制度の改革は一部の人の問題と思われがちだが、本当にそうか。

現在、結婚するときに夫の姓にする女性の割合は96%、離婚時に司法が女性を親権者にする割合は94%。男が女子どもを養う結婚は親権制度で強制されてきた。

一方、「働き方改革」で正社員は特権化した。結婚はぜいたく品に今やなり、妻が名乗る男の姓は称号だ。結婚相手に高収入を求める女性と不相応に結婚すれば、今度は結婚は苦行になる。

結婚に愛を求めるなら、自分の分は自分で稼いでその上で男女で子育てをするのが前提だ。育児を女性前提にしている現行の親権制度の改革は避けられない。

もともと与えられた性役割に夫が忠実なことが不仲の原因の一つだとしたら、「子育てをしたい」と離婚時に男性が主張することは歓迎すべきことだ。男女で子どもができるのだから共同親権は「導入する」ものではなくベースなのだ。男女の力関係の差がDVの原因なら、それを作り出しているのは性役割を強制する現行民法だ。

共同親権を回復することは親の関係を親子関係から分離し、男女がパートナーシップのあり方を選べるという側面以外に、子育て世帯が倍になるという効果がある。

「離婚は子どもにとって家が二つになること」なので、子どものための学用品もおもちゃも服も、すべてが倍になる経済効果は計り知れない。子どものお年玉ももちろん倍だ。父母が別々の場所にいれば子どもはそれぞれの地域が故郷だ。孫は祖父母の愛情も受け、地域は子どもを取り戻せ活性化する。他人の手を借りて子育てするのは避けられない。それが当たり前になれば婚姻中の夫婦の子育て環境も向上する。共同親権「子育て改革」で子育て予算倍増の投資効果は計り知れない。

もしこれをファンタジーと否定するなら、結婚は就職と諦めよう。(2022.2.5)