諏訪 ★ 共同親権実践セミナー2023

『共同親権』『子どもに会いたい親のためのハンドブック』の著者による、子どもに会いたい親、子育てにおける共同親権を考えてみたい人のための、経験を活かした実践子育てシリーズ。

【日時】2023年4月~7月の第3土曜日、各回14:00-15:20

【場所】諏訪湖ハイツ(長野県岡谷市)315会議室(子どもの遊具あり)

(長野県岡谷市長地権現町4丁目11番50号)

http://www.suwako-haitsu.jp/index.php/page-43/

*第4回目のみ、大鹿村「良山泊」(下伊那郡大鹿村大河原2208)で開催。問い合わせください。

【講師・司会】宗像 充(ライター。共同親権訴訟原告、『子どもに会いたい親のためのハンドブック』著者、「大鹿民法草案」起草者、15年にわたって親子引き離しの相談・支援をしてきた)

【参加費】1000円*予約不要

(下記のグループワークと2コマで1500円)

【各回内容】

<第1回>4月22日(土)「ゼクシィ見るより民法読め」

家族法の民法改正の議論が話題になり国の立法不作為を問う国賠訴訟も提起されています。でもなぜ法律が子育ての障害になるのでしょう?現行民法の問題点を「大鹿民法草案」をテキストに考えます。

<第2回>5月27日(土)「共同親権反対論」

共同親権の議論が深まらないのは、根強い反対運動の存在があります。彼らの考える司法システムや家族観について検討し、何が養育の障壁なのか考えます。

<第3回>6月24日(土)「知っておこう!家庭裁判所の人権侵害」

当たり前のように行われる人質取引、マジックミラー越しに監視される試行面会、子どもに「会いたくない」と言わせる調査官調査、そして時間を空費するだけの調停。家裁の暗黒を共有します。

<第4回>7月22日(土)「子育て家庭倍増計画・実践編」@大鹿村「良山泊」

「子どもにとって離婚とは家が二つになること」。なのに一つの家にしか帰宅できない子どもたち。家が2つになることで何が起きる?共同子育てに近づくためにできることは?

*終了後懇親会予定

<家族を修復するグループワーク> 

同日15:30-17:00【参加費】1000円 *予約不要 

親子引き離し・離婚・DV(家庭内暴力)・モラハラ・不登校 etc否定のない自由な語り合いで気づく、あんなこと・こんなこと、あなたにあった「いい関係」をいっしょにつくります。

*当日の個人相談(有料、1時間3000円)を希望の方は事前にお問い合わせください。

主催 おおしか家族相談 協力 共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会

TEL0265-39-2116メールmunakatami@k-kokubai.jp URL https://munakatami.com/category/family/

お茶の水 ★ 共同親権実践セミナー2023

『共同親権』『子どもに会いたい親のためのハンドブック』の著者による、子どもに会いたい親、子育てにおける共同親権を考えてみたい人のための、経験を活かした実践子育てシリーズ。

【日時】2023年4月~7月の第2土曜日、各回17:15~18:45

【場所】全労連会館303会議室(東京都文京区湯島2-4-4)

JR御茶ノ水駅御茶ノ水橋口徒歩8分 http://www.zenrouren-kaikan.jp/kaigi.html#08

【講師・相談・司会】宗像 充(ライター。共同親権訴訟原告、『子どもに会いたい親のためのハンドブック』著者、「大鹿民法草案」起草者、15年にわたって親子引き離しの相談・支援をしてきた)

【参加費】1000円*予約不要

(下記のグループワーク、共同親権カフェと2コマ以上で1500円)

【各回内容】

<第1回>4月8日(土)「ゼクシィ見るより民法読め」

家族法の民法改正の議論が話題になり国の立法不作為を問う国賠訴訟も提起されています。でもなぜ法律が子育ての障害になるのでしょう?現行民法の問題点を「大鹿民法草案」をテキストに考えます。

<第2回>5月13日(土)「『面会交流と共同親権』を読む」講師・大山直美

共同親権の議論が深まらないのは、根強い反対運動の存在があります。彼らの考える司法システムや家族観について明石書店の新刊をもとに検討し、何が養育の障壁なのか考えます。

<第3回>6月10日(土)「知っておこう!家庭裁判所の人権侵害」

当たり前のように行われる人質取引、マジックミラー越しに監視される試行面会、子どもに「会いたくない」と言わせる調査官調査、そして時間を空費するだけの調停。家裁の暗黒を共有します。

<第4回>7月8日(土)「子育て家庭倍増計画・実践編」

「子どもにとって離婚とは家が二つになること」。なのに一つの家にしか帰宅できない子どもたち。家が2つになることで何が起きる?共同子育てに近づくためにできることは?

<家族を修復するグループワーク> 

同日13:00~14:45【参加費】1000円 *予約不要 

親子引き離し・離婚・DV(家庭内暴力)・モラハラ・不登校 etc否定のない自由な語り合いで気づく、あんなこと・こんなこと、あなたにあった「いい関係」をいっしょにつくります。

<共同親権カフェ(自助グループ)> 

同日15:00~17:00【参加費】1000円 *予約不要 

子どもと離れて暮らす親、別れても共同での子育てがしたい方、互いに気持ちや事情を話して支え合い、 知恵を出し合う場です。

<離婚と子育て相談会>

同日19:00~21:00【相談料】50分3000円【応談】宗像 充

*2日前までに要予約 munakatami@k-kokubai.jp 0265-39-2116(共同親権運動)  

主催 おおしか家族相談 協力 共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会

TEL0265-39-2116 メールmunakatami@k-kokubai.jp

URL https://munakatami.com/category/family/

親子が親子であるということ、それは人権

提起して何が変わった

 共同親権訴訟は2019年11月の提訴から、3月2日に原告側の最終弁論をもって結審を予定している。昨年原告の一人の柳原賢さんのお母さんから連絡があって、ご本人が病死したという。柳原さんは裁判の冒頭で、会えない娘さんがもうすぐ成人するので、時間が残されていないと語っていた。連絡をいただいて慌てて富山まで挨拶に行くと、柳原さんのお母さんが「賢のためにできること。みんなのためになっていると東京に行ってましたから」と引き継いでくれた。

 本訴訟の提訴は、当事者が顔を出して世論にアピールするという点で一定の効果を与えたと思う。外国籍当事者の働きかけによってEU議会が決議を挙げたのが大きかったものの、当時の上川陽子法務大臣が法制審議会への諮問を表明したのが、2021年1月になっている。弁護士が当事者をセレクトして、訴訟で立法不作為を認めさせていく立法活動の一手法にとどまっていないので、原告の訴訟への思いは様々だ。

4年も経つと子どもが成人したり、自分から連絡を取ってきたり、ぼくのように、毎回毎回娘が司法に呼び出されて意思を確かめさせられ、母親側として係争させられりと、状況もいろいろだ。共通して不十分な制度と無責任な司法に相変わらず振り回されている。

原告の中にも当初と違って顔名前を公表する人もいる。もし本国賠を申し立てていなかったら、それぞれの状況も違っていただろう。原告に名前を連ねて世論にアピールすることが、むしろ子どもとの関係においてプラスの側面があったのだろう。娘が国賠訴訟にも言及し「父が何考えてるかわかりません」と調査官に言っている。ぼくは娘へのメッセージとしてこの訴訟を提起した。

法制審議会VS民間法制審?

 ところで、民法改正は法制審議会への諮問と答申を得て行うことになっている。それに対して、民間法制審というグループが独自の法案を策定している。別居親当事者はこの法案があるから、反対派を押さえて共同親権が実現すると期待する人もいるだろう。本当だろうか。

 簡単な指摘だが、「こうすれば共同親権になる」という提案は「そうしなくても困らない」という意見に対して反論とはなっていない。

法制審議会諮問の目的は共同親権ではない。例えば、2年前2021年1月15日の日経新聞の見出しは「養育費不払い解消を諮問へ 法制審、共同親権も議論」になっているが、狙いは養育費不払い解消なのは最初から明らかである。人選も養育費関係の団体・識者が中心だし、その後の審議も優先順位がそうなっている。「現行制度でも面会交流ができる」ので単独親権制度をいじる必要はないという主張が議論では繰り返された。

 もちろん、民間法制審のレポートには、現行制度故の人権侵害の実態が赤裸々になされている。しかし、制度や秩序のためにはそんな被害は受容すべきという側が権力を牛耳ってきただけなので、もっと大きな被害を優先すべきと言われれば、政策判断で切り捨てられてしまう。「声の大きさで決めていい」と当事者が言うことでお墨付きを与え、声の大きさで制度改変がなされなかったというのが、親子断絶防止法も含めこれまでの流れだ。法制審に別居親枠が設けられたのも同じ狙いだ。

民間法制審の案もよく練られたものだと思うが、親子断絶防止法の当初案も、現行制度の中で実現可能という面でよく練られていた。当初案に対して骨抜きどころか逆行する結果になれば、何のための法改正なのかと思うだろうが、一応独裁国家ではないと建前上はなっているので、仮にそれが素案になれば修正は前提だ。

「現行制度でも子どもに会える人は会えている」に対する有効なカウンターは「こうすれば法案が可能」ではなく「現行制度でもお金を受け取れる人は受け取っている」である。人権問題に優劣をつけるのではなく、双方が同じ土俵で人権問題だと主張することだ。

同様に「別居親は危険」に対するカウンターは「その程度は被害ではない」ではなく「親が子どもと暮らすことは危険じゃないのか」になる。危険だから制約する必要があるにしても、だったら最初から国が見ればいいと誰でも思う。でもそうすると、いったい親とは何なのか。

何が足りないのか

  民間法制審の法案は、民法上の共同親権規定から「父母の婚姻中は」を削除したらいったいどうなるかをうまく示している。しかし法案がどうしても必要だという意見が別居親以外にはさしていないので、既得権の擁護派と比べると数からしたら苦戦必至だ。

また父母以外の祖父母や子と関係を築いた人の権利性を子どもの権利からしか規定できていないのは、つまり親権もまた政策的な選択の対象なので、それ以外の人の権利をうまく設定できなかったということなのだろう。これだと「面倒を見るのは親じゃなくてもよくないか」という意見が出た場合に、父母の権利を譲り渡す(単独親権)余地を与える。

 この点では、親権を自然権としてアピールした、作花さんが提起した一連の国賠訴訟においても同様の構造になっている。親権は父母の権利の制度的な担保だが、人権確保の手段は政策的な選択の範囲なので、代諾養子縁組で親を入れ替えることも可能になる。人権侵害だとは思うが、「政策判断していい」となれば、司法も「それは国会の役割」と逃げるだろう。

この点、権利侵害を否定しながら、連れ去り行為についての立法不作為に言及した連れ去り国賠の判断は、むしろ世論に押されて司法が立法権を侵害したと反論を受けかねない。ただし、こういった矛盾を引き出した一連の作花国賠の意義は大きい。連れ去り行為が権利侵害であるとの世論が高まれば、こういった矛盾は解消するからだ。

 

共同親権訴訟

 当事者を離婚を経験した父母子に留めている限り、政策的な判断と声の大きさに依存する構造は変わらない。

「子どもはお国のものではない」

 親たちは「みんながそうするから」と、「パパお金、ママ家事育児」の単独親権制度の家族観に従ってきた。別れれば「みんながそうするから」と子どもに会えなくても我慢し、女で一つで子育てするのは美徳とほめそやされた。かつては「みんながそうするから」と子どもを戦場に送り出してきた。もちろんそれらは「子どものため」だった。しかし本当にそうなのか。

疑問が生じた時、かつて自分たちを納得させてきた制度的な枠組みに回帰して、いったい何か得があるのだろうか。それを知っているのはつらい思いをした経験者だろう。誰もが周囲から後ろ指さされないようにしながら、びくびくしながら家族を耐え忍んできた。現行制度が父母の権利が損なってきたと、自らの経験を踏まえて訴えることで、その無意味は浮き彫りになる。

そんな窮屈な世界に止まる必要は何もない。共同親権訴訟と大鹿民法草案は、そのための手段にほかならない。子育ては自由だ。誰もがそれに気づいたときに、法も社会も変わるだろう。

共同親権で何が変わる?「子育て家庭倍増計画」


「結婚って一生おごり続けるってことでしょ」

 知り合いの母親がその気のなさそうな息子に結婚について聞くと、そんな答えが返ってきた。10年以上も前の話だが唖然とした。でもよく考えたら、実は結婚制度(男女の問題)と親権制度(親子の問題)が結びついた現行システムへの素直な返答だ。

ぼくは子どもと引き離され、離婚・離別などで同様の経験をした親たちの相談を2008年から受けてきた。2019年には現行の単独親権民法の違憲性を訴えて、立法不作為の国家賠償請求訴訟を提起した。共同親権の海外からの批判もあり、法務省は親権制度について法制審議会を開いた。現在パブリックコメントの最中だ(2月17日まで)。「離婚後」の親権制度の改革は一部の人の問題と思われがちだが、本当にそうか。

現在、結婚するときに夫の姓にする女性の割合は96%、離婚時に司法が女性を親権者にする割合は94%。男が女子どもを養う結婚は親権制度で強制されてきた。

一方、「働き方改革」で正社員は特権化した。結婚はぜいたく品に今やなり、妻が名乗る男の姓は称号だ。結婚相手に高収入を求める女性と不相応に結婚すれば、今度は結婚は苦行になる。

結婚に愛を求めるなら、自分の分は自分で稼いでその上で男女で子育てをするのが前提だ。育児を女性前提にしている現行の親権制度の改革は避けられない。

もともと与えられた性役割に夫が忠実なことが不仲の原因の一つだとしたら、「子育てをしたい」と離婚時に男性が主張することは歓迎すべきことだ。男女で子どもができるのだから共同親権は「導入する」ものではなくベースなのだ。男女の力関係の差がDVの原因なら、それを作り出しているのは性役割を強制する現行民法だ。

共同親権を回復することは親の関係を親子関係から分離し、男女がパートナーシップのあり方を選べるという側面以外に、子育て世帯が倍になるという効果がある。

「離婚は子どもにとって家が二つになること」なので、子どものための学用品もおもちゃも服も、すべてが倍になる経済効果は計り知れない。子どものお年玉ももちろん倍だ。父母が別々の場所にいれば子どもはそれぞれの地域が故郷だ。孫は祖父母の愛情も受け、地域は子どもを取り戻せ活性化する。他人の手を借りて子育てするのは避けられない。それが当たり前になれば婚姻中の夫婦の子育て環境も向上する。共同親権「子育て改革」で子育て予算倍増の投資効果は計り知れない。

もしこれをファンタジーと否定するなら、結婚は就職と諦めよう。(2022.2.5)

沖縄タイムスで木村草太のヘイトコラム再開

読者を愚弄

 12月5日に沖縄県の地方紙、沖縄タイムスは、憲法学者の木村草太の連載コラム【木村草太の憲法の新手】(165)で「離婚と親権(上)『連れ去り勝ち』論に誤り 報道は双方の取材必要」との記事を掲載し、ネットで配信して読めるようになっている。

 木村氏は現在の実子誘拐や単独親権制度についての報道記事について危惧があり、報道の問題点を挙げるという点でコラムを書いている。

 例えば、「連れ去り勝ち論」について木村氏は、不当な子連れ別居に対しては、監護者指定や子の引き渡し手続きがあり、虐待親であれば監護者として不適切な親から裁判所が引き渡しを命じるなどと述べ、面会交流の手続きも保障されているので、「連れ去り」が主張された事例では、報道機関やライターは、別居親に、裁判所で監護者指定や面会交流の手続きをとったかを確認すべきだという。そうしないとDVや虐待の加害者に加担する危険があるし、監護者指定審判の中で、深刻なDVや虐待が認定されているのに、それを無視して、「実子誘拐の被害者」などと報じれば、子連れ別居を選択せざるを得なかった親への深刻な名誉毀損となるというのがその主張だ。

 子連れ別居を選択せざるを得ない状況は現行制度の不備だと思うし、そういう点では、双方が制度の被害者だと踏まえた上で一応述べておくと、別居親の中で子連れ別居から子の引き渡しや監護者指定で勝ったという事例はまず聞かない。あるとしたら、子どもが生死不明に陥る程度の深刻な虐待でなければ家裁は虐待など認定しない。子どもが多少の怪我をする程度の虐待や、現在ではモラハラや精神的虐待と言われる程度の虐待の加害者が同居親である事例は、別居親の話を聞いている限りにおいてはありふれている。

しかし裁判所はいくらそれを別居親が主張しようが、対立が強いとして間接交流という名の写真の送付や、月に1度2時間程度の面会を斡旋する。間接強制という強制執行を木村氏は肯定しているようだ。ぼくの事例では、間接強制によって子どもと再会できるようになるのに半年かかり、上の子との面会はそれ以来途絶えた。子どもが中学になれば強制執行はかからない運用を現在家裁は繰り返している。

 木村氏がこういった家裁の実情を知らないとしたら「世間知らず」という批判はさておき、学者としては調査不足だ。知っていて言っているとしたら、自分の知名度の高さとメディアで連載を持てるという地位を利用した、別居親へのヘイトというしかない。要するに読者を馬鹿にしている。

木村氏は、おそらくこのテーマでコラムを書こうと思い立ったきっかけとなる、フランス人のヴァンサン・フィッショさんの妻に実子誘拐の逮捕状が出たことについて触れていない。フィッショさんは面会交流の調停手続きを避けているが、やれば子どもとの交流を制約されるわけだから、やらないのは妥当だ。子どもは誘拐の被害者だ。誘拐の被害者の子どもの写真など、報道機関が公開しないということはまずない。いちいち誘拐犯の言い分を聞かないと報道できないということもない。

要するに彼が狙っているのは、社会問題のもみ消しであり、口封じである。地位と権力のある彼だからできる「パワーコントロール」と呼んだらコントかもしれない。そして制度の被害者どうしの対立をあおり続け、彼はそれについて発言し続けることで地位を保てる。悪質である。

沖縄タイムス、やらかしたのは2度目

 ところで、あまりにも現場の実情を知らない意見なので、編集部に電話したり、質問状を出したりしようと思ったけど、やめた。

 すでに、沖縄タイムスは2018年に、木村氏の同連載コラムで、「(86)共同親権 親権の概念、正しく理解を 推進派の主張は不適切」、「(87)続・共同親権 父母の関係悪いと弊害大きい」と共同親権への木村氏の反対論を掲載していて、このときにもぼくは沖縄タイムスの担当編集者に直接電話し、その後質問状を提出しているからだ(http://kyodosinken.com/2018/10/04/oki nawataimusu/)。その後沖縄タイムスは、共同親権訴訟も含め、親権論議についてのシリーズ記事を掲載している(ネットでは一部しか見られない)。

「コラムの著者の意見。新聞社は載せただけ」という逃げは、今回の記事には通用しない。

 このときの木村氏のコラムの中には、「裁判所は、別居親に監護の機会を与えてくれない」という批判に対し、それは、裁判所の人員や運用に問題があって、裁判所が適切な判断をできていないか、あるいは、客観的に見て別居親の監護が「子の利益」にならないことによる。法律の定めるルールの内容に問題があるわけではないと述べ、裁判所が人員不足も起因して適切な判断ができていないことを述べていた。

今回の木村氏の主張は、手続きさえ経ればきちんと判断されているということだから、前回の主張と食い違っている。要するに、別居親がまともじゃないというために、ときに裁判所は適切な判断をしている、ときに適切な判断ができないときもあると一貫性のない主張をその場しのぎでする。

 ちなみに読売新聞は女性が94%で割合で裁判所で親権を得ることに対して、二人の元裁判官が、「裁判所には『子は母に』の考え方が浸透していた」、「本来はケースに応じて判断するべきだが、そうではなかった恐れはある」と述べ、裁判所の判断が性差に左右された恣意的なものであることを証言している。とすると、木村氏の主張は、裁判所のジェンダーバイアスを肯定する意図でなされたものであることがわかる。念のため述べれば、このようなヘイトが大手メディアで繰り返されれば、ますます男性の育児を困難にし、日本のジェンダーギャップ指数は低迷し続けるだろう。

 以上指摘して、沖縄タイムスが求められているのは、今回の木村氏の記事に対してのファクトチェックを報道機関の責任としてなすことである。木村氏への反対意見を対抗言論や検証記事の形で紹介するべきだ。木村氏は、沖縄タイムスのコラムを利用しての、別居親や男性に対する「聖戦」を継続しており、それは今回のコラムでなされたような、ジェンダーバイアスを知悉した上での巧みな扇動ヘイト記事になることは目に見えている。沖縄タイムスは、木村氏の親権に関するコラムが物議をかもすことを知っていえ、ファクトチェックよりも掲載による話題作りを優先したのだから報道姿勢を問われても仕方ない。

読者のことを思うなら、こういう適当な意見をその場しのぎで言う憲法学者の起用をやめることである。(2021.12.7)

「いい関係」グループワーク、相談会

日時 2021年5月29日(土)
場所 諏訪湖ハイツ(岡谷市)304号室
(長野県岡谷市長地権現町4丁目11番50号)
http://www.suwako-haitsu.jp/index.php/page-43/
◇相談会 13:00-14:50
 応談 宗像充(おおしか家族相談)
 50分2500円、要予約
 申し込み 0265-39-2067(おおしか家族相談)
 (留守電の場合は番号とメッセージを残してください。かけなおします)
◇グループワーク 15:00-17:00
 参加費1500円、予約不要(直接会場にお越しください)
離婚・結婚・DV(家庭内暴力)・親子引き離し・モラハラ・不登校 etc
否定のない自由な語り合いで気づく、あんなこと・こんなこと、
あなたにあった「いい関係」をいっしょにつくります。

主催 おおしか家族相談 https://munakatami.com/category/family/
共催 日本家族再生センター長野支部
問い合わせ 0265-39-2067
メール munakatami@gmail.com

共同親権 「男女平等な子育て」って何だ?

第3回口頭弁論、国の回答拒否に裁判所突き返し

 3月18日に行われた、共同親権訴訟(養育権訴訟)第3回口頭弁論では、国側は、他の様々な論点で共同親権への反論(原告の主張では必ずしもない)を行ったものの、第2回口頭弁論で原告側が行った求釈明に対しては事実上の0回答だった。

第3回口頭弁論、国の回答拒否に裁判所突き返し

 この裁判では、親権の調整規定も民法上なく、婚姻外では単独親権となることによって、単独養育が強制されることの違法性を問うている。もとより共同親権が望ましいものであるなら、それを婚姻中にとどめる理由が本来ないので、国側に説明を求めたものだ。

 原告側弁護団が国側の不誠実を指摘すると、休廷になり異例にも15分も3裁判官の協議がなされた。その後裁判官たちは、原告に再度質問の事情説明をするよう求め、それへの国側の回答を待っての弁論期日を設定することになった。原告側の質問は裁判所側もその重要性を認識しているようだ。

 国側は単独親権制度の合理性について「親権制度の意義」ではなく「婚姻制度の意義」という言葉を選んでいる。素直に解釈すれば、婚姻制度を維持するために単独親権制度が必要ということになる。でもそうなら、単独親権制度は子どもの利益のためのものという国の説明は苦しい。

 この前日、同じく家族法についての国賠訴訟の同性婚訴訟で、札幌地裁、武部知子裁判長は「同性愛者間の婚姻を認めないのは差別にあたり、憲法14条に違反する」と判断した(立法不作為は認めなかった)。国側は「婚姻制度は、子を産み育てるための共同生活を送る関係に法的保護を与えるのが目的」として、同性婚を認めなくても憲法14条に違反しないと反論したという(読売新聞2021.3/17)。これは子を産み育てたければ異性間で結婚しろ、という規範を人々に強制するものであっても、それで直接的な子どもに利益になるという説明は難しい。もとより子どものいない夫婦もある。

次回の口頭弁論は、6月17日13時半、東京地裁806号法廷にて。

共同親権と男女平等

 多く離婚や別居で子どもと引き離された別居親たちは、単独親権制度の不公正にしか目が行かない。しかし、多くの人にとって離婚率が3分の1になったところで、少数派の問題には変わらない。しかも、シングルマザーと別居親が対立していれば、社会的弱者の定義で言えば女性が強いので、男性の多い別居親は受けが悪い。だから女性を前面に立てるというのも、ジェンダーバイアスに訴える手法とも言える(子を産んだ母が引き離されるなんて、と男性の引き離しは軽視される)。

 そんなとき、そもそも婚姻中共同親権って言うけど、実際そうだったわけ、と問いかけると、当事者の幅がグンと広がるということにぼくたちは気がついた。当日配ったチラシに、皆さんの家庭は、「父親は外で遅くまで仕事、母親はワンオペで家事育児、じゃなかったですか。イクメンが褒められても、何となくPTAに出るのは母親、保育園の送り迎えは父親、とかなってませんか」と書いた。これを共同親権と呼ぶのはいかがなものかと自分でも思う。

実際、「結婚するとき、女性が男性の姓に合わせる割合は96%。離婚するとき、裁判所で女性が親権者になる割合は93%」。つまり、結婚とは、「女性が男性に従って子どもを育てること」になる。「親権を男が取れないのは育児を担わないから」という男性批判は、つまりこの単独親権制度の現状を肯定したいミサンドリーということになる。「タガメ女」も「カエル男」も実のところ、この構造を浮かび上がらせて批判するツールにほかならない。

「共同養育支援」の欺瞞―選択的共同親権反対

 もとより、男女平等の日本国憲法に合わせて戦前の家父長制を修正する形で部分的に導入されたのが共同親権制度だ。つまり共同親権は男女平等と子どもの福祉に叶うという前提がある。だとすると「子育ての男女平等」を考えるツールが、共同親権ということになる。

 当時の学者も為政者も、性役割はあっても親権獲得の機会が男女平等だから単独親権が残ってもおかしいと思わなかった。だけど、イクメンが褒められるのを批判する人間が、単独親権は男女平等というのはやっぱりおかしい。別にぼくたちは性役割に基づいた、月に1回程度の面会交流を言い換えただけの共同養育支援を求めてない(求めているのは引き離して金を得る面会交流支援者や弁護士)。均等かそれに近い養育時間(つまり「共同監護」)の配分が、男女平等に叶うと言っているだけだ。個人が生きやすい世の中も次世代に残せる。

子どものための親権制度と言っている人たちが、もとより選択的共同親権「ならいい」というのも意味不明。親権は子どもへの責任なら原則共同親権(選択的単独親権)にならないのはどうしてだ。話し合えないなら単独親権がいいというなら、「なんとなく」の役割分担で話し合わない夫婦のほうが、「婚姻制度の意義」は達成されて子どもは幸せか。

民法国賠訴訟での共通項=共同親権の不在

 先行する共同親権訴訟で、東京地裁は、 2月17日 、「親である父又は母による子の養育は,子にとってはもちろん,親にとっても,子に対する単なる養育義務の反射的な効果ではなく,独自の意義を有すものということができ,そのような意味で,子が親から養育を受け,又はこれをすることについてそれぞれ人格的な利益を有すということができる。」と明示した(ものの親権が憲法13条による幸福追求権であることは否定した)。

 名前や性的指向が否定されることも親子関係が損なわれることと同様、自分が否定されたような感覚になることは想像できる。この間、選択的夫婦別姓や同性婚の実現についての国賠訴訟では、その不利益として「共同親権をもてないこと」というのが、判で押したようにある。だったら、婚姻外の関係にも共同親権の適用を求める、ぼくたちの訴訟は彼らにとってもいっそう重要だ。

(2021.3.21 宗像 充)

問題は、共同養育の資質じゃなくて、単独養育の押しつけ

最近の「共同養育」の主張は「単独監護+面会交流」?

 共同養育支援法の議論のころから、「共同親権よりも共同養育が大事」と言った主張が見られるようになって、あたかも共同親権と共同養育が対立しているかのように語られることがある。現在「共同養育」という言葉を使うときには、双方の親が養育にかかわっていること、というあいまいな定義で用いられることが少なくない。これだと1か月に1度2時間の面会交流でも「共同養育」になる。

 養育を「子育て」という意味で用いるなら、一概に否定できないので難しい。ただし、月に1度2時間が「子育て」と呼べるかという疑問はある。棚瀬一代さんなんかは、「別れた後の共同子育て」という言葉を用いて、法的な概念に人的な関係という情緒的な意味を用いていたのだと思う。

子どもの権利条約9条には、「父母の一方又は双方から分離されている児童が定期的に父母のいずれとも人的な関係及び直接の接触を維持する権利を尊重する。」という規定があり、「直接の接触」という以外に「人的な関係」という言葉が権利とされている。ややこしいので、従来の法的な概念の「監護」をここで用いてみる。「監護」は身の回りの世話という程度の味も素っ気もない概念だとされてきた。

 ところで、共同親権・共同監護という言葉を用いた場合、父母が養育時間をほぼ同等に分担することを指していたはずだ。年100日以上の面会交流は「単独監護と面会交流権」と通常は呼び、これが不満でアメリカでは共同監護を求める運動と立法が広がっていった。

 だから「共同養育支援法案」が年100日程度の面会交流を想定していたとすると、そもそも「看板に偽りあり」疑惑が濃厚だ。それすらも基準としてなく、月1回程度の時間を想定していたとすると、そもそもそんな法律作っても実効性ない。そういった点についてまったく説明なく、法案を部外秘にして作ろうとしたのがこの法案の失敗の根本要因だ。

共同監護は均等な養育の分担が基本

以前、北九州大の濱野健さんが、「各国の共同養育(shared parenting)に対する割合」を調べてくれたことがあり、それを見ると、イギリスは50/50(2011)、スウェーデン50/50(2009)、オーストラリアは「均等ではなくとも、十分な時間」とされて、35~65%と幅広い(2009)。アメリカの場合、「共同親権、2つの居住地、養育時間の分担などにより定義され」、完全に半々になっているのはまれで、30/70などとなっていることがあるという。

以前の青木聡氏の話では、アメリカでは最近は、年間100日以上という場合、隔週の3泊4日と平日の食事、それに長期休暇中の滞在が養育プランとして標準的という。それとは別に交代居住のような均等な養育時間かそれに近い割合での養育を「共同養育(監護)」と呼ぶという説明をしていたと思う。実質的な平等か、十分な時間か、というのは常に父親の権利運動、フェミニズムの双方の運動の争点であっただろう。

 しかし、いずれにしても、均等な割合かそれに近い時間で養育を分け合えば、居所も含めて親どうしであらかじめ権限の所在(共同か単独か)や決定方法を決めておかなければうまくいきそうにない。だから、「共同親権より共同養育が大事」という説明や、単独親権前提に共同養育支援法を議論することには、現状の性役割に基づいた単独養育の温存を狙う(意図的にせよそうでないにせよ)意図を感じてしまう。

問題は「ひとり子育て」の強制

 以前、週刊金曜日が、「問題のある別居親のための法律は必要ない」と親子断絶防止法(共同養育支援法)の反対キャンペーンを行っていた。最近も「共同養育できる親の資質」という記事が作られていたりする。

こういった記事の問題点は、「問題がある」とか「資質」とかが問われるのが別居親限定なところだ。共同養育が均等な養育のことであれば、同居親の側も「問題がある」とか「資質」とかが問われないとならないはずだ。「問題のあるシングルマザーのための養育費履行確保の法律は必要ない」とかいう記事を書いたら、雑誌は載せてくれるかな。

 立法活動をしている親を見て、法律によって相手に面会をさせようとする主張に、自分の問題に向き合えていないと嫌悪感を持つ人はいる。だけどこれは、法律によって相手に養育費を払わせようとする主張と同列で、何も別居親だけが問題ではない。

しかし、均等な養育の分担(実質平等)が目標とされるならば、問題はどちらかの「資質」に問題があることだけでなく、むしろ互いの関係になるだろう。したがってそれが可能な仕組みと関係構築の支援がその場合求められる。単にFPICに金を出せば「共同養育支援」ができるという単純な話ではない。

 そして、問題は、FPICに金を出せば「共同養育支援」になるという発想を疑問に思わせない法の仕組みで、それは単独養育を強制する単独親権制度にほかならない。「共同子育てができる共同親権」と以前は言っていたけど、むしろ「単独監護しか許さない単独親権」が、片親疎外や「ひとり親」の貧困の最大の要因だ。そのための単独親権制度の廃止は「言葉が強い」どころか、ごくごく当たり前の主張になる。(2021.1.26)

別居親がまとまれないから法制化ができなかった?

という意見を持つ人が別居親の中には少なからずいるようだ。自分は別に何かまとめるためのことをしてるでもなく「経緯を知ってる」顔をして批評しているダサい人もいると聞く。

 こういう意見は本当だろうか。

国会議員に陳情に行くと、議員から「ばらばら来られて困る。まとまってくれないか」と言われることはときどきある。とはいえ、議員というのは人々から意見を聞いて政治に反映させるのが仕事なので、むしろ似た課題で多くの人が意見を届けに来るというのは、それだけ大きい社会問題だと認識してもよさそうなものだ。

 また、まとまったからといって、政治課題が実現できるかと言えば、例えば、朝鮮民主主義人民共和国の拉致問題の家族会は、共同親権運動よりも歴史もあり、以前から一枚岩で、別居親の何十倍も世間の同情を買っているが、「拉致被害者の全員帰還」という政治課題をいまだに実現できていない。

政治課題には政治課題なりの課題の大きさの違いがあるのだから、まとまったらすぐに目的が叶うわけではないだろう。例えば、2011年の民法766条改正のときには、別居親団体は今よりも数も少なくて、ある程度足並みをそろえた部分があったけど、目標としたのは民法766条改正ではなかったはずだ。別居親が声を挙げなければ実現しなかったかもしれないけど、今と同じでハーグ条約加盟圧力という外圧もあり、国がガス抜き的に国内法をいじったのが実態だ。

 ぼくも何回か経験があるけど、当選者1人の選挙やらは、ある程度足並みをそろえれば当選可能性が高まる場合もあるので、そういうやり方も有効な場合がある。ただ、足並みをそろえることは、政策を実現することとイコールではないから、当たり前だけど、動きが悪くなる場面も当然出るし、場合によっては足を引っ張られることもある。

 逆に、団体がばらばらしているから有効な場合も当然ながらある。例えば、ハーグ条約や共同親権反対の運動はこの10年間一貫してある。いつも彼らが政策をすり合わせて議員ロビーでも足並みをそろえていたかと言えば、そんなこともないだろう。バラバラ議員に訴えかけて、うんざりさせて、それで目的を達しているのだから、彼らから見習うことは多い。

 議員の側からすれば、団体がまとまっていれば、団体のトップの頭を押さえつけていれば原則的な意見(多く少数派だったりする)や違う観点からの懸念を、直接聞くこともなく団体の幹部のせいにしてあらかじめ調整させることができる。これはずいぶん仕事が楽だ。共同養育支援法案のプロセスではこれが見られた。

 以前も書いたけど、何を実現したいのかの獲得目標のない運動など、しても意味ない。短冊に願い事を書いても人任せで、願いが叶う保証もない。法律を作るのは議員だけど、彼らに税金を払って仕事をさせているのはぼくたちで、彼らもまた、多くの人が納得のいく解決策を真剣に考えて提示したっていい。法務官僚に法案を書かせても、今のままが楽だから現状維持の法案を作りがちだ。

 団体がまとまるのが目的ではなく、政策を実現するのが目的なら、実現する政策をまず決めないと、「どれでもいいから実現できそうなものからしてください」なら、「どれも無理そうだから全部だめ」とぼくが政治家なら言うだろう。目的のために組織という手段があるので、目的のはっきりしない団体の民主主義を論じたところで意味はない。こういう場合、「目的は一緒だから」は「俺の言うことを聞け」と同義だ。

単独親権前提で、それを微修正して積み上げるというやり方は、結局、「私には関係ない」という当事者が多すぎて、当事者をまとめるなんてできないし、反対意見にも対抗できない。一部の当事者をヘイトすれば法案を潰せるのだから反対派にも楽だ。

一方、単独親権制度を撤廃、という逆方向の提案は、「それって関係ないと思っていたけど私にも関係あるかも」という人が多く出てくる。家族の形や性役割から派生する問題は多くの人にとっての課題で、そういう問題意識を共有できる。

当事者がまとまるなんて結果であって、何の課題の当事者か、というのでまとまる対象も変わってくる。たしかに、十年前は誰も共同親権なんて知らなかったから、現実味を感じなかったけど、これだけ共同親権という言葉も出回ってきていて、別居親が「単独親権制度を終わらせよう」と今言わないと、政策論争なんて永遠にできない。

目的意識のない別居親ももちろんいるだろうけど、そういう人は別に単独親権制度のままでいいから、いっしょにやる必要は全然ない。無理にいっしょになればお互いの足を引っ張ろうとして、根拠のない中傷を垂れ流し主導権争いに血道を上げる。ただし、「自分が子どもと会えればいい」という主張だけなら、それを政治課題の上位に上げてくれるほど、世間の人はお人よしには思えない。

 あと、宗像は運動から金をもらわないと生活できないから、法案ができないようにしている、なんていう批判もあるそうだ。今までの説明からそういう批判は根拠がないことはわかるだろう。というか、社会事業家が経済的に暮らしていけることはいいことなのに、そんなしみったれた批判をよく思いつくものだ。今年の大河ドラマ見ろ。

ちなみにぼくの本業はライターだ。楽な暮らしではないけどそこそこ人生を楽しんでいる。(2021.01.21)

虚偽DV、でっちあげDVはあるよ

今SNS上では、虚偽DV、でっち上げDVと言わないようにしよう、という議論があるというのを人から聞いた。そういう議論は昔からあって、ぼくも「DV冤罪」とか言わないほうがいいんじゃないのと言ったことはある。ただ、当たり前だけど、離婚家庭支援をしていて、この問題は相当の害悪なのは明らかだ。

冤罪というのは、やってないのにやったと言われて罪を問われることだ。ただ日本の定義ではDVは主観的なものだ。つまり「思ったらDV」なので、被害を主張する人の主観を否定してもしょうがない。

なので、「冤罪」かどうかを議論しても永遠に結論は出ない。表現は微妙だ。DVは日本語に直せば家庭内暴力のことなので、それ自体で言えば、DV罪というようなものはなく、傷害罪や暴行罪で取り締まられることになる。

ただし、日本のDV対応は民事対応なので、家庭内暴力の被害を訴えても、警察は捜査せず「シェルターに言ってください」となる。また、シェルターに行かなくても、支援措置で相談履歴だけで住所非開示がなされるので、実際に暴力がなくても「暴力があった」と言えば、「逃げる」ことができる。

ここに虚偽やでっち上げがあれば、制度の信頼性が低まって制度自体が使えなくなることにもなり、実際にDVの人が「嘘言ってるでしょう」と言われて行政から信頼されなくなる原因にもなる。 共同親権の議論とは関係なく、むしろ社会問題としてきちんと対処しないとならない。虚偽やでっち上げで人を貶める行為は、それ自体人権侵害だし、場合によっては法廷侮辱罪や虚偽申告罪になるし、DV被害者の敵だ。

実際、裁判書類とかを見ても、「馬乗りになって首を絞められた」とかワンパターンで描写しているものが別の事件で見られたりして、虚偽やでっち上げが横行しているのはよくわかる。こんなことがされていること自体がDV施策が失敗している証拠だ。実際、単独親権の中、DV・虐待の申告は年々増え続けている。単独親権に何の抑止効果もないのに、共同親権のために虚偽DVと言わないようにしようというのは、制度上何の整合性もない。

ただし、なぜ、「虚偽DVと言わないようにしよう」というのかはわかる。

現在、国会議員の間で進んでいる議論は、共同親権はやむなしだから、いかに抜け穴を作ろうか、というものが考えられる。こんなのはこの10年間、親子断絶防止法の議論のときから繰り返しされてきたことだ。つまり「DVや虐待のおそれ」の場合は、「特別な配慮」をすべきことをどこかの条文に潜り込ませるのが、多分狙われている。

共同養育支援議連というのは、そのための団体なので、あそこに所属すれば「虚偽DVと言わないようにしよう」と言い出す流れになる。主張を一致させるために、当事者を選別して切り捨てるということがこういう場合よく起きる。

「虚偽DVがある」なんてことになれば、「DVや虐待のおそれ」に「特別な配慮」をして引き離しを容認することができなくなる。つまり、虚偽申告罪や法廷侮辱罪など、実際の犯罪であっても、家庭内暴力の場合は罪に問わないなんてことにもなる。濡れ衣を着せられた人にとっては、悔しい思いをすることだろう。実際にないことにもかかわらず、「父親はDV」と言われて引き離された子どもにとっては、親から裏切られ、社会からも裏切られ、二重に裏切られることになる。子どもの権利の観点からも、断じて容認できない。

妻から別れを切り出された側が、実際に自分のことを内省する機会を得ることは重要だ。しかしそれは別に妻の側だって同じく重要だ。現在のDV施策は、女性の側が善意であることを前提に組み立てられている、ということは内閣府の男女共同参画局の役人が言っていたことだ。

「虚偽DVと言わないようにしよう」という主張は、男女ともにDVの加害者にも被害者にもなり、多くDVは双方向的なのもだということを無視していて、DVの防止には何にも結びつかないどころか、むしろ相手を陥れる道具にDV施策を使うことを許す。しかもその対象が男性限定という点で、男性差別だし、女性は被害者という性役割に根付いたものだ。親権議論を進めるために、こういった犯罪を容認するとしたら、何のための共同親権だ。

しかし実のところ、家族に関する価値観が別れてきた中、民事不介入は自力救済と同義になり、単独親権制度があるが故に、裁判所に基準がなく、だから先に連れ去ったものに既成事実として親権を与えるしかない。しかも女性が被害者しか想定されていなくて、相談や支援は女性しか対処しない。そうなると、とにかく女性が訴えればなんでもDVになってしまうわけだから、男性の側が不満を抱くのは当たり前。それを「虚偽DVと言わないようにしよう」なんて言ったら、男は被害を受けても泣き寝入りをしろ、と同義になる。軽率すぎる。

むしろ、DV施策については、とにかく男性も女性も加害も被害もあるのだから、相談も支援も男女平等にするしかない。そうなれば、女性のみを「保護」するのではなく、男女ともに刑事罰で対処されることになり、適正な手続きのもとで、実際に罪があれば贖うこともできる。被害者が逃げるより、加害者がまず収監されて一時的に引き離される。DV加害者が親権をもって、子どもを虐待する可能性も低まるだろう。女性支援に携わる人が「男はとにかく危険」と偏見で見ることもなくなる。

DVは家庭内のものだから、立証するのが難しいのはあるだろう。だけど立証が難しいのは何もDVに限らないし、多くの殺人事件は家族関係のもとで起きている。それでも「冤罪」はあるかもしれない。だけど、虚偽が「ない」とされていればそれに対処できないけど、「ある」のが前提なら、それに応じた対処の仕方ができる。

国会議員やらと仲良くなって「あるある」は、自分もまるで為政者であるかのように勘違いして、そういう発想で利害の調整を先に想定して考えてしまうということだ。たしかに法律を決めるのは国会だし、それを使って施策を打つのは行政だ。だけど、彼らが何のどの利害を代表して行動するかは、声や道理を通じて民衆が訴えかけること、要求を届けることで左右される。

国会議員と仲良くなったから、同じSNSで議論できているからと、自分が偉いなんて思い込んで 当事者をコントロールしようとするのは、分断を当事者に持ち込むだけだ。政治は市民がするものだ。