共同親権出でて忠孝滅ぶ(後) 

離婚は親の選択なのに、子どもに会わせないなんておかしい、という主張をするようになるとさまざまな反応と出くわした。一番多いのは、「でも養育費を払わない男もいる」。だから会いたければ金を払え? 似たバージョンで「家庭にお金を納めなかったような男にどうして会わせるの」。こういうコメントをブログにもらったとき「家庭にお金を納めない女は掃いて捨てるほどいますけどね」と書きこんだ。別居親のグループには女性もそこそこいる。彼女たちが「お母さんが会えないなんてつらいでしょう」と声をかけられることがある。日本語に翻訳すると、「お父さんが会えないなんてたいしたことない」。ぼくたちの運動に協力してくれている社民党の議員を呼んで話をしてもらったことがある。「うちの瑞穂(福島瑞穂)が、『父親たちが子育てしたがる』って言うんですよね」と嘆いていた。彼女は男性の子育ては望まないらしい。せいぜい世間一般の認識なんてこの程度だ。

女性が社会的に割を食っている、という主張からすれば、優位にいるはずの男性が男女平等を言うことは「バックラッシュ」ということになる。一時期ぼくもそれはそうかなと思ったりもした。でも、ぼくたちが子どもに会えない、ということに対する反発は、冒頭挙げたような内容ばかりだ。男女平等とは無縁の主張をまじめに考える意味はないと思うようになった。

フェミニズムの主張に「個人的なことは政治的なこと」というものがある。だけどそう主張して運動のリーダーとなった女性たち(男性もいる)が、ぼくたちが男性に対する権利侵害を告発しようとすると、「あの運動は危険」と言う。そんなのただのパワーポリティクスでしかない。実際問題、子どもに会えなくて苦しんでいる父親が目の前にいて、毎年のように自殺する人もいる。自分もそうだったので無視はできない。主義主張より自分の娘のほうが大事なので、ご都合主義のフェミニストの主張に共感する気はない。

一方で、ぼくたちが声を上げることを応援してくれたフェミニストもいる。「私は義父の介助の役割をせざるをえなくって」と、育児、介助者としての男性の役割をぼくたちが表明することを歓迎してくれた。婚外子差別の問題に長らく取り組んできたフェミニストは、法的な婚外子差別が解消されることから、共同親権と子育ての平等な分担についてぼくたちの主張に共感してくれた。民法上、未婚の子は母親が親権を持つ。父親の側の養育責任を現在の制度は問いにくいのだ。

子どもに会えないのはかわいそう、と心情に訴えかけるのは意味がないことはない。しかし温情にすがるだけで権利が回復できるとも思えない。DVの場合もある、ひどい父親もいる、という別の被害感情に訴えれば人を見る目が変わる。だから権利を保障する必要がない、ということになれば差別になる。週刊金曜日が「問題のある別居親」とアピールしてやったことは、その典型だ。

何よりも、会わせてください、と温情にすがる訴えは、別居親は同居親と対等でない関係性にあることを前提にしている。別居親の一人は離婚後親権者となった元夫に「対等だと思ってるの」と言われたという。経験の長い女性の活動家が共同親権に反発する背景には、「せっかく女が親権を取れるようになったのに」共同親権でまた別れた後も口を出されるのか、という思いがあるということを、直接ではなく人づてに言われることもある。そういう人にとっての離婚とは、男性が決定権を握っていて、平等を求める女性が家父長制の桎梏から解放されるための権利だ。

戦前、親権は家長としての男性にあった。それが男女平等の憲法ができて、婚姻中のみ共同親権になった。婚姻中は対等の関係が模索できる。それができなければ権利として離婚ができる。しかし家族秩序を破壊した側が親権を主張することはできない。したがって、戦後も長く、女性が親権を取ることは難しかった。子どもは家のものだったのだ。

ただし、親権取得に性別による限定はない。家父長制を基盤にした家制度と、先進的すぎた男女平等憲法の妥協の産物が単独親権制度だ。実際問題、「主婦」という言葉も、「主人」に対抗する中での女性の権利主張の中から生じた言葉だ。経済面で男性に依存し、家事育児で女性に依存することが、それぞれの分野での発言権の平等を保障することはありそうもないので、役割分担の中での責任の所在を言葉に込めることで平等性を見せかける。当時、性役割の中での対等性が男女平等であるということに疑問を持つことはなかなか難しかっただろう。

男女の親権取得率が逆転するのは1966年を境にする。高度成長とともに女性が経済力をつけ手当が得られれば、別れた相手に頼らなくても養育もできるので、親権が得られるようにもなる。アメリカでは共同親権のもと養育時間を男性と分け合うことは女性の社会進出にも好都合なので、フェミニストが共同親権を当初提唱したというのも聞いたことがある。

一方で、女性保護の側面からフェミニストが成立を目指し支援の担い手になったDV法は、各国とも法制度が整えられていった。ただし、海外では刑事事件として扱われるDVは、日本の場合民事対応なので、実際に暴力の有無と関係なく行政支援が動き、親子分離が横行する。父子関係を取り戻すための行政上の手続きは用意されていない。DV被害者支援の側は、「加害者」の危険を煽って分離を継続し、一方で自立のための支援を行おうとする。

しかし、もともと子連れで住所を隠し保護の対象となるのは専業主婦がもっぱらだ。というのは、男性や仕事を持つ女性はそれまでの社会生活の継続が困難になるので子連れでシェルターに入るのを躊躇する(男性にはシェルターがない)。結果、社会生活の経験のない女性は支援がなければ夫の元に帰ることになる。支援は離婚が前提だし、自立のためには夫から金をぶんどることが必要だ。そのために子どもを人質取引に使うのが、弁護士の常とう手段となる。つまり、DV法は親権と離婚を得るための手っ取り早い解決法だ。一時的な分離はできても、当人たちの関係性の困難は何も解決しない。単独親権で暴力やモラハラが防止できるなど想定できない。この援助の現状は、「主婦」概念に依存することによって女性の解放を目指すという、普通に考えれば無理筋の方法論によっていて、それで男女平等は実現しない。

しかし、女性の側からすれば、男性支配から逃れたということで正当化されるこの手段は、男性の側からすれば子どもを奪われる拉致だし、親権をはく奪して男性を弾圧するための差別となる。結局のところ、親権というのは奪い合うことしかできないし、家庭における権力闘争に女性が勝利する手段として拉致とDV法がある。養育時間を分け合うことは、この権力闘争に女性が勝てないことを意味する。ここでの親権は、子どもに対する支配権そのままで、子どもが自身の意見表明を手続き上保障されるのは、親と分離された後でしかない。これは家庭における忠孝秩序の現代的なバージョンだ。父系から母系に変わっただけの家制度の変更はない。

関係が困難になっているのに、共同での子育てはできるのか。答えは単独親権制度があるから関係は困難になるし、支援があれば共同での子育ては可能だ。女性支援はそのノウハウがないから、「DV男は変わらない」としか言えない。

しかし、共同親権、子育ての機会均等を前提にした支援のあり方は、家を前提にした忠孝秩序の基盤を損なう。戸籍とは臣民簿である。戦前の天皇制支配を支えた最少単位としての家では、関係としての家族と場としての家庭は一致し、上意下達の忠孝秩序がそれを支える。しかしそんなことは最初から無理な話だ。戦後は核家族をモデルにした家族幻想が振りまかれ、体裁、世間体が家族関係を規定し、今DVや引きこもりという形でそのひずみが顕在化している。

家族関係を家から解放し、複数の家庭の存在を前提にし、「選ばなくていい。パパの家、ママの家」なんて言ったら、戸籍はどうするという話になる。不平等条約の解消のために、民法典の編纂が目指されたとき、「民法出でて忠孝滅ぶ」と論争が起きた。今日本は外圧を受けて、国際離婚に関しては国際的な子の奪取の民事面に関するハーグ条約を批准し、国際的な人権保障の枠組みに入った。家族関係の再編に戸籍の形しか許さない国内の体制は続いている。それが続く以上、再編手段としての日本の国内拉致の解決を求める外圧は止まらない。木村草太が言っているのは、「共同親権出でて忠孝滅ぶ」にというそれに対するリアクションだ。

(宗像充、「越路」9号、2018年12月)

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