北条坂

 大鹿村は四方が山なので、村の外に出るには峠を経るしかなかった。

 現在村に来るのに一番早い小渋線は、できたのは戦争中のようで昔からの道とは言えない。天竜川筋から大鹿村に至るもう一本の県道の岩洞は、1936年(昭和11年)に開通している。それ以前の村への往還は、秋葉街道を経て南北に往来するのでなければ、北条坂から峠に出る道があった。

 アウトドア誌の仕事で大鹿村がなぜ南北朝時代に南朝の拠点になりえたのかを調べる機会があった(最新号Fielder読んでね)。文献調査だけしてもおもしろくないので、歩いて峠を越えてみようと思った。それで北条坂と越路を歩いてみた。

 越路のほうは古い地形図には登山道の破線が載っている。鳥倉林道の終点ゲートから斜上していくと峠について、あとはコンパス頼りに塩川に下りて踏破できた。

北条坂のほうはあまり情報がなくて、道が出ている地図も探し出せなかった。ネットを検索すると、廃道マニアの人が、県外から来て探索している記録を見つけた。そこに岩洞ができる前の1934年(昭和9年)の地形図が出ていて、下部の登山道が載っている。途中までの踏査記録もある。

 北条坂はかつての桶谷の集落から登っていくそうで、その集落跡は今砕石会社の敷地になっている。対岸にも家があって、そこには北条という名前の家が4軒ほどあったそうだ。隣の家のKさんに桶谷の対岸の集落の場所を教えてもらって偵察に行った。

 集落跡には現在、小渋ダムの排砂トンネルの工事の事務所がある。昨年の豪雨で300万立米という、大鹿村から出るリニアの残土と同じ量の土砂がこの排砂トンネルを通過した。トンネルはボロボロになり、復旧作業が続いている。工事事務所の奥の森に入ると、秋葉権現の碑があって、斜面にお墓があるのがわかった。工事事務所には人がいた。聞いてみても集落の跡のことは知らない。お墓のある斜面から上を見ると、なんとなく九十九折れの道が見え、ところどころ石垣を組んでいるようだ。

 この集落は、ここ最近中世の歴史が注目される中で存在を知られるようになっているようだ。少年ジャンプで「逃げ上手の若君」という、北条時行を主人公にした漫画が連載されている。今年の大河ドラマは鎌倉幕府黎明期の北条一族が主人公だ。便乗的に出版が続く中で、「中先代の乱」という、歴史の教科書で1行で触れられるだけの史実も新書になっている。

この中先代の乱を起こしたのが、鎌倉幕府14代執権で最後の得宗、北条高時の息子時行だ。鎌倉幕府瓦解の2年後に乱を起こして鎌倉を奪還し、建武の新政崩壊のきっかけをつくった。20代後半で鎌倉龍ノ口で処刑されるまでに反足利のリーダーとして、3度鎌倉を奪還している。その存在感は、先代の北条の世、当代の足利の世の間で「中先代」と唄われるほどのものだった、らしい。

 そういうわけで新書の作者やテレビ局が、この桶谷にあるはずの、北条時行の墓を探しに村を訪問している。下調べで教育委員会に行くと、村の石像文化財をまとめた本にある写真を見せられた。文化財担当の北村さんの話だと、江戸時代に建てられた墓碑だそうだ。逆賊なので、ほかに墓がある場所もなさそうだ。でも教育委員会では場所がわからなくなっていた。

 桶谷の集落跡から消えかかった九十九折れの道をたどってしばらく行くと、尾根筋に小屋のような建物が建っているのが見えた。

 行ってみるとどうも神社の跡らしい。脇に石塚が3つあって、庚申塔の字も見える。真ん中の四角い境界石のような柱型の石が不自然で、後ろに落ちていたピラミッド型の石を抱え上げて柱石の上に載せると、教育委員会で見せられた時行の墓と同じ形になった。周りの落ち葉を掘り起こすと台座も現れ、持参した墓碑の写真とますます一致する。ちょっと先まで九十九折れの道をたどって、これならトレースできそうだと引き返す。これは大発見、とちょっと心が弾む。

 それでも、偵察した後、道がたどれるのか心配なので、飯田や松川の図書館に行って地図を探したけど見つからなかった。『生田(現在の松川町東部)村誌』には、大鹿との往還道の記録がいくつかあって、峠には問屋があったらしい。生田村は大鹿村との中継ぎ業で大鹿村と結びつきが強かったことがわかる。

 高森町の松島信幸先生は知ってるかなあと尋ねていくと、「小学校4年生のときに行った。普通に行けた」と頼もしい答えがあったけど、戦前の話で参考にはならなさそうだ。

村の山仲間の中村周子さんに声をかけて、車1台を終着点の峠にデポした。鹿柵のドアから旧道を見ると、早速崩落していて「心配だなあ」と中村さんがつぶやく中、桶谷の集落跡から歩き始めた。

 時行の墓を過ぎ、九十九折れの北条坂を進むと、石塔が集まる北条峠に着く。ここから先は半間ほどの道幅が続くかと思えば、沢筋は道が切れ落ちていてきわどい部分もある。山慣れない人にはロープがいるだろう。派生する尾根のところはテラス状になっているので、そこで休憩しつつ先をたどる。足下に小渋ダムのバックウォーターが見える。広葉樹の緑が美しい。谷の対岸を見ると岩洞のヘアピンカーブが見える。道を進み標高を上げると、その道がだんだん近づいてくるのがうれしい。

 最後は沢に出て、林道が峠まで続いていた。朝見たときのドアではなく、岩洞を登って峠を過ぎて左手に伸びる林道の鹿柵ドアのところに出た。9時に出て昼すぎに到着。終わってみればにんまりしてしまう楽しい峠道だった。

 後日、村内に住むSさんの家を訪ねた。桶谷の北条家から嫁いでやってきたYさんに、写真を見てもらった。隣の建物は山の神の祠だと教えてくれたけど、墓碑は「知らないなあ」という。「こういうのはあるよ」と家の奥から系図(写し)を持ってきてくれて、それを開くとおなじみの北条執権の名前が並んでいる。高時の後は時行ではなく、ネットで検索したくらいでは見つからない北条一族の名前が続いている。教育委員会は調べに来ませんでしたかというと、「今日はじめて日の目を見た」という。ほかにも調べる宛を教えてくれた。「村の人だから持って行っていいよ」と初対面のぼくに言うので「いやあそれは恐れ多いので、また連絡して見せてもらいに来ます」と言い残す。ひとまずの探索を終了した。

 「逃げ上手の若君」からは逃げられない。

(越路28号たらたらと読み切り168、2022.6.20)