分離家族、それは家父長制のリニューアルか?

議論が全然古くなってないので、2017年1月の記事を採録します。

2ヵ月に1度の家族


先日、縁あって長野県大鹿村に引っ越した。大鹿村に引っ越したのは新しく家族ができたからだ。一方で千葉に住む娘と会うのには遠くなった。

2008年に元妻と別れて娘と引き離され、現在2カ月に一度一回4時間、子どもと定期的に会っている。


先日、娘の学校で学級崩壊があったことを保護者懇談会で知った。学級の現状について直接担任と話そうとしても電話窓口は校長だ。元妻である母親が一時子どもを会わせなくしたこともある。親に渡されるプリントの種類や部活動の見学を、別居親であるが故に制約されてもいる。

このような形でしか親として生きられない体験を8年間続けることに惨めさはつきまとう。同じような差別と悩む親たちの問題を解決するため、親どうしの関係の格差是正の運動を共同親権運動と名づけ、会を作り、別居親たちとつながってきた。死別でもないときにあえて、「ひとり親」や「シングルマザー」と名乗り、そこに他方の親は無視していいという意図があれば、それは差別だ。

ぼくはDV男か?


ここ数年、親子断絶防止法(※父母の離婚等の後における子と父母との継続的な関係の維持等の促進に関する法律案)という名前の法律の立法活動があって、ぼくも当初かかわっていたけれど、議員主導の立法活動で及びでないので途中で抜けた。それでも昨年、無断連れ去りの禁止や面会交流、養育費の分担を書面で取り決めるよう促す強制力のない理念法として、国会上程を目指そうとした。そこに女性たちの中から「家父長制のリニューアル」と法律への批判の声が挙がった。


朝日新聞(2016.9.29「「親子断絶」防ぐ法案に懸念」)には「しんぐるまざぁずふぉーらむ」の赤石千衣子さんがDVや虐待家庭における面会の困難や「連れ去り」の正当性を理由に、「子の意見も聞かない法律ができれば、20年以上前に時計の針を戻すことになる」とこの法律の背後にある考えを批判していた。離婚後に分かれて住む親と会いに行く場合にだけ「会いたくない」という子どもの意思は尊重される。

いったい子どもが親の顔が見たくないと家出して、子の意見を尊重して下宿を用意して納得する親はどの程度いるのだろうか。意味が分からず質問状を出したが返事がない。ここにも、別居親の住む場所は、子どもの「本来の」家であってはならないという、単独親権に基づく拭い難い差別がある。


ぼくたちは実子誘拐の非合法化を目指してきた。路上で人を殴るのと同様、家庭内で夫が妻を殴っても暴力は暴力とDVの非合法化が目指された。子どもを連れ去って会わせないのも、他人でも親でも誘拐は誘拐だ。


ハーグ条約(※国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約)のときでも、過去の同様の立法活動のときでも、事務局不明の全国組織のホームページができ、反対運動が展開されてきた。その主張は、親子断絶を規制するより先に養育費の義務化が先、DV被害者が逃げられなくなるので合法誘拐は継続、面会交流の父親の主張は別れた妻への支配とコントロールが目的とされる(暗にほのめかしている)。


この主張だと、8年も面会交流の調停・審判を繰り返しているぼくなんかは、更生のしようのないDV男だ。どう呼ばれようがぼくはかまわないけれど、子どもに会えないというだけで、DV男と言われ続ける男性の社会への憎悪は容易に想像ができる。子どもが手元にいないだけで、「虐待母」と陰口を叩かれるのとその構造は同じだ。


つまりこういった主張には別居親や男性へのヘイトがある。子と離れた女性は想定外で、特定のグループをあぶりだしてDV加害者や、加害者予備軍としてレッテル貼りする。差別意識を背景にして、裁判所も子どもを確保していない親に冷たい。

結果、先に子どもを確保したほうに親権がいくので実子誘拐が横行し、2カ月に1度などという親子双方の人格を傷つけるだけの面会交流の頻度がまかり通る。親権がほしければ子どもを連れて逃げろという、弁護士や女性支援団体のサイトを見ることも多い。しかし、子どもを連れて逃げるような命がけのことをしなければ、親権が獲れないような法制度自体がそもそも問題ではないか。

単独親権という隔離政策


単独親権と実子誘拐が放置される背景には、男は黙って金を稼げという性別役割分業意識がある。別居親の相談を受けていると、「ぼくはATMじゃない」と悔しがって涙する父親の姿を見ることもままある。会えないのに金を払うのかという当然の主張は「男らしくない」からか、「泣き言」として捨てておかれる。

その末に、宇都宮城址で周囲を巻き込み爆死した元自衛官の事件があった。子どもと一生会えないかもしれないという恐怖心は不当に軽く扱われ、その上社会から白眼視されるので、絶望して毎年別居親が何人か自殺している。いったい男たちを何人殺したら、この隔離政策は終わるのだろう。「もともとそういう事件を起こすような人たち」と放置してきたことこそが差別だ。


先日ぼくたちの会が、弁護士を呼んで会で講演会を企画したとき、日弁連の両性の平等委員会の弁護士が所属を名乗って、「あの団体と付き合うとよくない」と人を通じてその弁護士に出席を取りやめるように求める事件が、勇気を持って講演を引き受けてくれた弁護士の告発で発覚した。市民運動への不当な介入事件に対し、日ごろリベラルを標榜するメディアも含めて、運動で声を挙げてくれたところは一つもない。市民運動を担ってきた一人として、ことのほか寂しい経験だった。


現在のDV支援策は、法的には一方の主張だけでDVが成り立ち、異議申し立てもできず、しかも加害者とされるのは男性のみとなっている。保護命令の発令に裁判所の審査はあるものの、現在は住所秘匿の措置が申し出のみでなされるので、裁判所で暴力のねつ造を立証できても、住所秘匿の支援措置が取り消せなくなり、子どもと会う希望は断たれてしまう。男性へのヘイトが、このような超法規的な措置の10年以上にわたる放置を容認してきた。暴力の防止を理由に差別を放置するなら、何のための暴力防止だろうか。


引っ越した先の家は子どもの家でもある。子どもにとって離婚とは家が二つになること、それは事実だ。8年経っても自宅に帰宅できない娘に、赤石さんのアドバイスのもと、あなたは家父長制の被害者だから我慢しろと、親として言う気はさらさらない。

(『市民活動のひろば』147号掲載)