大衆運動としての共同親権運動

個人を応援するといじめられる

 先日、「実子誘拐・共同親権に関する公正報道を求める共同声明」の賛同運動を呼びかけたら、個別メールで、ぼくのことを応援してるけど、表立って応援するととある別居親団体から攻撃を受けるので、表立っては賛同できない。すいませんなんていう切ないメールが来た。その団体がしつこくSNSでぼくへの個人攻撃や名誉棄損を繰り返していたのは知っている(記録もとっている)。デモの呼びかけに応じなかったことはあったけど、そもそも個人的な付き合いもない。

いろいろ市民運動にかかわってきたけど、運動レベルで足の引っ張り合いに遭う機会が一番多いのが別居親の運動だ。同じ経験をしたんだからまとまれるはず、という願いがよっぽど強いんだろうなと、一応は別居親として思いやってはみる。だけど、釈迦や孔子でもないので、誹謗中傷を受けたり、集会を開くと出席を取りやめるような呼びかけをされたりすると、嫌がらせを受けてまで足並みをそろえようという気にはならない。こういう人権侵害行為の放置は運動全体としてはマイナスだろうなと、先のようなメールを受けると思いはする。

運動もいい意味で趣味や生きがいの一環なので、協力するかどうかにいちいち説明を求められるいわれも本来ない。「楽しいとか楽しくないとか言ってる場合じゃない」とか言ってた人は、だいたい途中で消えている。

ぼくの祖父は天皇の命令で戦争に行って殺されている。単独親権制度の違憲性を求めて国と喧嘩もしている。日の丸・君が代の強制反対の運動にもかかわってきたので、行けば日の丸があるようなデモや集まりにはよほどの理由がなければ行く気にはならない。「サヨクだ」というレッテル貼りを否定するわけではないけど、そういう質問には「あなたはウヨクですか」と聞くようにしている。

短冊に願い事を書くだけでは叶わない

議員や役人にお願いすれば願いが叶うかのように思っている人も多い。だいたい長く市民運動をしていれば、議員や役人は国家機関の構成員なので、言ったところですぐに聞いてくれるわけでもないことは経験として身に着く。国の委員会の委員も同様だ。不公正を是正させる視点がないと、偉い人達の温情にすがって得られることなど一部の人の利益に限られている。

特定の議員とのつながりがあるのはいいけど、運動が特定の議員や政党の応援団になれば、理念に基づいての大衆的な支持や広がりはあきらめるほかはない。お上の言うことに従うだけならいちいち運動しなくていい。そうはいっても、それがぼくたちこの国の人々の一般的な感覚と反応なので、ぼくのような主張が目立って見えるだろう。

不公正を是正させるには知恵と勇気とエネルギーはいるし、経験はないよりあったほうがいい。みんながまとまれるところ、から漏れた人が不満を述べて「足並みを乱すな」というのは市民運動ではなく全体主義だ。

集団示威行為はDV?

とりわけ珍しいのが、まとまっての抗議やデモなどが、「DVの証拠」とレッテル貼りされるところだ。こんなの労働組合や市民運動の手法として定着してきたことだ。離婚弁護士の事務所に抗議すると、過激と言われたりして新聞記事になる。だったら労働組合の社前闘争もいちいち新聞記事にすればいい(そうはいっても、やってる団体はぼくに対しての名誉棄損も繰り返していたので別に味方として言っているわけではない)。市井の人々は日常生活を送る上で、抗議も含めてさまざまな政治をしている。議会政治はその中のほんの一部に過ぎない。議員に政治を委ねるのであれば市民運動は必要ない。

大方抗議されるほうが女性の代理人だからという理由のようだ。しかし女性だからといって即被害者なわけではもちろんない。またリブの運動だって、優生保護法の運動のときには、厚生省のロビーを占拠したりピンクヘルメットかぶってたりしていた人もいた。今さら女性の自分たちが攻撃されていること自体が不当だとかいうのは、自意識過剰な上に白々しくその上不勉強だ。というか、公害企業が被害患者の抗議に開き直ったら、「無反省」と言われたりもするだろう。

表現の自由はある。デモは本来届出制でデモ申は警察の顔を立ててしているだけだ。情宣(街頭宣伝)に許可はいらない。地域によって警察の対応は違っても、とれば警察の介入が強まることもありよしたほうがいい。権力は大衆を恐れる。怖がられない程度の運動にさほどの効果は期待できない。

というか、主催者に「あれをするな」「これをしちゃだめ」とかいちいち規制されるデモに自由さは感じない。オキュパイと呼ばれる官庁などの占拠運動は、しばらく前にアメリカなどで流行った。社会的な抗議をすると、「DVの証拠」とすり替えられるのは効果があるということだ。人種差別や民族差別でも、差別したほうは、反省しなければ「怖い」「だからこういう人たちは」と偏見を煽っただろう。

要するに、正当な抗議が最初から理解されると考えること自体がナイーブすぎる。へこたれない程度にやめないことだ。