共同親権 実践セミナー 2022

『共同親権』『子どもに会いたい親のためのハンドブック』の著者による、子どもに会いたい親、子育ての共同親権を考えてみたい人のための、経験を活かした実践シリーズ。

【日時】2022年9月~12月の第2土曜日、各回17:20~18:50

【場所】全労会館3F会議室(東京都文京区湯島2-4-4)*1F掲示板で部屋を確認ください

JR御茶ノ水駅御茶ノ水橋口徒歩8分 http://www.zenrouren-kaikan.jp/kaigi.html#08

【講師・相談・司会】宗像 充(ライター。共同親権訴訟原告、『子どもに会いたい親のためのハンドブック』著者、14年にわたって親子引き離し問題に取り組み、相談・支援をしてきた)

【参加費】1000円*予約不要

(下記のグループワーク、共同親権カフェと2コマ以上で一律1500円)

【各回内容】

<第1回>9月10日(土)【理論編】「〈共同親権〉って何だ?法制審議会中間報告の狙い」

「共同親権」というワードが話題になる中、家族法の改革が議論になっています。「婚姻」内外の親の権利の不平等を問う共同親権訴訟も継続する中、子育てや家族のあり方の何が問われているのか。自分の家族の問題で何が活かせるか考えます。

<第2回>10月8日(土)「家庭裁判所の傾向と対策 2022」

離婚調停を申し立てられた、子どもと引き離された……はじめて足を踏み入れる家庭裁判所。婚姻費用・養育費・面会交流・DV、同居・共同養育審判……法律は味方なの?

<第3回>11月12日(土)「あなたの周りの養育障壁」

「子どもにとって離婚とは家が二つになること」。なのに一つの家にしか帰宅できない子どもたち。別居ひとり親を差別し、追い払う学校や役所、警察……なぜ、どう対処する?

<第4回>12月10日(土)「やってみよう! 共同親権子育て」

そうはいっても単独親権制度の日本。制度や親権よりも相手の意向? 子どもとの関係は? 「協力」ってどういうこと? 〈共同親権子育て〉に近づくためにできること。 

<家族を修復するグループワーク> 

同日13:00~14:45【参加費】1000円 *予約不要 

親子引き離し・離婚・DV(家庭内暴力)・モラハラ・不登校 etc否定のない自由な語り合いで気づく、あんなこと・こんなこと、あなたにあった「いい関係」をいっしょにつくります。

<共同親権カフェ(自助グループ)> 

同日15:00~17:00【参加費】1000円 *予約不要 

子どもと離れて暮らす親、別れても共同での子育てがしたい方、互いに気持ちや事情を話して支え合い、 知恵を出し合う場です。

<離婚と子育て相談会>

同日19:00~21:00【相談料】50分3000円【応談】宗像 充

*2日前までに要予約 munakatami@k-kokubai.jp 0265-39-2116(共同親権運動)  

主催 おおしか家族相談 協力 共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会

TEL0265-39-2116メールmunakatami@k-kokubai.jp URL https://munakatami.com/category/family/

国民投票ってなんだ?

民法改正の共同親権国民投票を呼びかけたら、以下のような質問が来た。

「私の認識だと、国民投票は憲法改正の際に行われるもので、今回の民法改正の際に国民投票を求めることに、どのような趣旨が込められているのかがあまり理解できていません。」

 ぼくの理解だと、本来民主主義は直接民主主義です。それだと意見集約に手間がかかるので便宜的に代議制をとっている(国会議員は「代議士」と呼ばれる)にすぎません。実際、地方自治法では町村においては、議会にかわって住民総会をひらくことができます。安倍元首相が参議院選挙期間中に撃たれたことについて、「民主主義の根幹にかかわる」というフレーズが繰り返し流れましたが、間接民主主義に洗脳された人たちのお題目です。
 なので、本来は重要な政治課題については国民投票がなされたほうがいいです。台湾とかではそのための法律があって、何度か国民投票が行われています(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E6%8A%95%E7%A5%A8_(%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%B0%91%E5%9B%BD))。

今回は、特に意見対立が激しく、かつ通常の政治スケジュールでは意見集約を見込めない状況なので、国民投票が望ましいということです。国民投票を求めていくことで、世論の注目が集まれば、いかに法制審の議論が杜撰なのかが表面化することにもなります。また、現在の反対運動は、正面から共同親権に反対せずに足を引っ張ることばかりしているので、彼らも堂々と反対意見を述べることができ、いかに単独親権制度がすばらしいか語ってもらうこともできます。前例はありませんが、立法措置で投票を実施して人々の意思が示されれば、多くの人の納得感も高いと思います。

例えばイギリスでEUから離脱するかどうか国民投票が行われたときぐらい、共同親権は重要な政治課題だということです。
 憲法改正の国民投票と混同されますが、本来は国民運動の中から必要性があって憲法改正も含めた国民投票をするものだと思います。なので、共同親権についての国民投票が実現すれば、本来ならこういったやり方で自分たちの意思を示すことができる、とぼくたちは自信を持つこともできます。大きな政治課題で自分たちの意思が示されるなら、変えること自体が自己目的化されていないかどうか、憲法改正の国民投票の必要性も冷静に人々は判断できるでしょう。

国民投票で単独親権制度を終わらせよう!

国民投票、ちょっといいかも

 ツイッターで「もうめんどくさいから…… 選挙やろうぜ! 原則共同親権か単独親権か!全国民で!」と書き込んでいる人がいた。「あ、それは国民投票のことだ」と思った。ちょっといいかもしんない。

 これまで国政の課題で国民投票にかけられた事案はない。日米安保にせよ、原発にせよ、世論を二分する問題が裁判で争われ、国政選挙の課題になり続けていても、直接国民投票にかけられたことはない。多くの場合、与党が進める政策に反対の意見が出て賛否が割れるので、与党からすると国民投票をすることにメリットがない。あるのは、自分たちの政策に今後反対を言わせないために、憲法改正の国民投票をするときだけだ(大政奉還的国民投票)。

 親権問題についてはどうだろうか。

 与党の政治課題の上位にこの問題があるとは思えない。だけど海外からはヤンヤ言われるので、やんないといけないと政策担当者レベルでは思っている人もいる。だから法制審議会に法務大臣が諮問した。

一方で、共同親権が政治課題化するのを避けるために、国会議員やメディアに圧力をかけ続けた弁護士や勢力はある。法務省の実務家レベルは、自分たちの権益を保持するために、法制審議会に大量の抵抗勢力を引き入れたた。その成果で、法務省が中間報告のたたき台として用意しているものを見ると、一般の人が見て理解できない構成となっている。これでパブリックコメント(パブコメ)をしたところで、誰も「これがいい案」とは言わない。「ザ・出来損ない」。

誰も責任を取りたがらない

 では政治家たちは自分たちで引き取って、独自の法案を進めるだろうか。与党内でも反対する勢力はいるし、野党の政党は「反自民」の票欲しさに、血迷って人権問題の解決に抵抗し続けているので、政党ごとに改正の合意を得るということも難しそうだ。親子断絶防止法のときの反発の強さは経験ずみなので、泥をかぶっても政治課題として推し進めようという気概のある連中は見当たらない。

 要するに、政治家も官僚も、世論をまとめるという努力を怠ってきたので、現在、民間での両勢力のつぶし合いが続いている。もちろん、マスコミも不勉強なのもあって、法務省発表のプロパガンダ的な選択肢を示すことはできても、論点を整理し、それがどういう意味なのか、自分の言葉で解説できている記者はほとんどいない。

しかしだからこそ、この問題は国民投票にかけるにはうってつけなのではないだろうか。政治家や官僚は責任を取りたくないので、主権者に直接「私たちでは力不足なのでご意見をお聞かせください」と言ってもよさそうなものだ。メディアも、どんな記事を書いても大量の苦情が来るのにうんざりしているので、国民投票なら安心して双方の言い分を紹介できる。

投票にどういう理屈で反対するのか?

そもそも「紛糾してるから直接みんなの意見を聞こうよ」という提案に反対する人がいるのか。アメリカでは州の親権法の改正に住民投票がなされることもあるし、家族の問題は個人の信条にかかわることだからと、家族法の改正に対し党議拘束を外して国会議員が多数決をとった国もあった。

この問題が「複雑なように見える」のは、批判をかわして現行制度を維持するという司法官僚たちの狙いを、正しくメディアが伝えないからだ。しかし現行制度に不備があるから、海外からも国内からも批判があるという事実に正面から目を向けないと、改革の意味がわからないのは当たり前だ。

戦後民法改革で共同親権を採用しつつ、婚姻外に単独親権をとり残したため(単独親権がメインで共同親権による一部適用除外という意味での単独親権制度)、片親による養育体制(片親の排除体制)が、さまざまな弊害と悲劇を生んできた。この体制を維持するか廃止するかが問題だ。

法務官僚が夢見るように、どうやって現行制度の中に「共同親権」というワードを入れるか、という問題ではない。「子どもは父母から生まれるのが当たり前、その実態に合わせるどんな制度が必要か」という問いは、法務省が用意した選択肢に、パブコメという名のアリバイ作りに協力するだけでは、人々に投げかけられはしないだろう。そもそも出来損ないの法務省案自体がまとまらないのに、意見をいろいろ言われたところで、その後どうやって法制審の中で意見を集約するのだ。

やってみたくなったでしょ。

住民投票では、個別問題についての住民投票条例を作ってその後投票を実施することが多い。この問題でも、任意の世論調査でもなければ、国会が人々に意見を聞こうとまず決めないと実施できない。それがいやなら反発を恐れず自らの信念に基づき自分たちでまとめるしかない。関心がある人たちだけで意見交換していたからまとまらなかった。関心のある人しか意見を出さないパブコメはこの場合不適切なのはわかりきっている。直接みんなに聞くしかない。

共同親権論争スタート

「選択的」共同親権という偽装表示

 7月19日以降、法制審議会家族法制部会が中間報告を8月末に取りまとめ、その後パブリックコメントを実施することを、マスコミ各社は一斉に伝えた。慣例の大本営発表によるプロパガンダにほかならない。

 司法官僚からなる法務省が、法学者や省庁出向者を動員してのミッションは、「いかに〈共同親権〉というワードを改革案に入れつつ、現行の法運用を維持するか」である。

彼らがそのために編み出した理論は、親権から監護権を切り離し、単独親権制度を「主たる監護親」にすり替えて、別居ひとり親の排除を正当化することだ。子の「実効支配」の既成事実化という司法の運用を法で正当化するのが狙いである。

「選択的共同親権」による共同親権の「導入」と彼らは呼ぶ。しかし、合意がなければ選択できない共同親権を「選択的」と呼ぶのは偽装表示だ。「実子誘拐」を合法的に可能にするための抜け穴作りであり、実態は「実子誘拐選択制」にほかならない。子を確保されたほうの「ドジな親」は、法によって権利の制約を正当化され(子どもに「会いたくない」と言わせて親との引き離しを正当化する代理人が出張ってきて、許可なしに子どもとは会えない)、一方で、金(養育費)をむしり取られる。

立法事実の偽装

 実際のところ、この20年余りで裁判所への養育費の申請件数は1.7倍(2万727件)増なのに、面会交流は6.8倍(1万4868件)、子の引き渡しは7倍(4040件)増であり(NHK報道)、養育費に対する同居ひとり親の不満よりも、子どもに会えない別居ひとり親の不満が各段に大きい。そして子の奪い合いは熾烈化している。

にもかかわらず、法制審議会の議論が養育費の議論を常に先行させるのは、徴収強化の狙いが同居ひとり親のためではなく、弁護士によるピンハネの確実な徴収と高額化のためであることを裏付けている。

 法制審議会で司法官僚が抵抗勢力の役に選任したのは、赤石千衣子(しんぐるまざあず・ふぉーらむ)、戒能民江(お茶水女子大学名誉教授)、原田直子(福岡県弁護士会所属)、水野紀子(白鷗大学教授)らである。

赤石氏が家裁のDV認定が甘すぎると記者会見で声高に主張するのを見てわかるように、彼らの狙いは、DVの事実ではなく「主張」によって引き離しを正当化するため、「特別な配慮」を法制化することである。もちろん、「会わせたくないけど金はほしい」という、会員の感情に対処する以上に、ビジネス化した社会運動形態を維持するには必要なことだ。子どもをエース(人質)に使えなければ、金はATMから引き出せない。

 極端に聞こえるかもしれない。しかし、彼らに一部の例外を除いて悪事を行なっている自覚はなく、善意で仕事に励んでいるところが問題だ。要するに、民意とともに改革を進める習慣がないので、内部的な解決策しか彼らの発想からは出てこない。

お気づきの方がいるように、こういった法律村の「コップの中の嵐」に運動が右往左往する状況は、親子断絶防止法の策定過程でも見られたものだ。司法官僚に手玉に取られた運動は、攻撃の対象を当事者内部に向け自壊した。轍を踏んではならない。ぼくたちは、公論による家族法改正という、この国の人々が経験不足の挑戦を続けている。

何を「骨抜き」するのか?~原則共同親権の立法経験

 こういった姑息な手口に対し「共同親権の骨抜き」という批判がある。一方で批判する側の「原則共同親権」の主張に中身が伴っていないから、司法官僚は臆面もなく偽装表示をする。

 このときぼくたちは、1947年の日本国憲法施行後、一時的にせよ「応急措置法」という形で共同親権に婚姻内外の区別を設けなかった(原則共同親権)立法があったことを思い出す必要がある。実際に共同親権で離婚した夫婦もいた。

 この改革の趣旨について、大阪家庭裁判所家事審判部はその決議集で、「苟も保護を要する子供に対しては原則として全ての親に親権を与え、専ら子の利益の中心にことを考えようとしたのであるからそれは両性の本質的平等旧来の家族制度の打破、従ってその下に不利益を蒙っていた者の救済という新憲法の理想の一つを体現しようとする目的をもつ」と解説する。当時の法務省民事局長は「従来の慣習上共同行使の困難な場合があるかも知れぬが、それは事実上の問題であって、法的にはこの権利は保障されねばならない」と重ねて述べ「家の制度の下に制約されていた両性の平等がここで回復されたのである」と高らかに謳う。

ところが、その後の新民法では、この応急措置法が「骨抜き」され、非婚時に単独親権が残った。当時民法草案の起草にあたった我妻栄は、結局は、「親権と氏の結びつき」という「実際上」の理由から草案に非婚時の単独親権を残したと後に語る。親権の調整規定がないのは、事実上力関係で父が決めてしまうからという程度の理由しかない。

であるとするなら、親権取得の既得権を保持するため、共同親権に反対し、女性を弱者の地位に押しとどめることこそが、憲法の理念を損なう行為だ。そしてそれを批判するにおいて、男性が親権をとれるようにするのではなく、男女平等に養育を分担するのが本来の戦後民法改革の道である。

「実質平等」再び

ここに、司法判断における男女平等な養育時間の原則化を求めた、当初のフェミニズム運動や、海外の父親たちの運動との理念の一致を見ることができる。求めるべきは、裁判官の判断基準を「子どもの最善の利益」にし世間の常識で子育てを縛ることではない。

子どもの利益を何よりも考えるのは親にほかならない。それを達成するために、司法判断において子育ての実質的な平等を原則化し、裁判官の裁量を縛ることだ。親の権利の原則が確認されてはじめて、親たちは安心して譲り合うこともできるし、それを規制する国の積極介入も可能になる。

民法に「養育時間」を入れ込むことを恐れる司法官僚は、差別を前提にしなければ現行の運用が不可能であることに気づいている。いくらありえる立法を場合分けしても、実質平等を原則から外せば、親たちは争いから逃れられず無責任な親が勝ち組になる。法務省案は「あたりのないあみだくじ」(【バシャ馬弁護士】モリトの法律相談https://www.youtube.com/watch?v=bOz03REK5ZQ)にほかならない。

このプロパガンダ戦争に勝ち抜くためいくつかの仕掛けを用意している。親子の時間への世論喚起のためフォトコンテストをはじめた。アンケートを取りまとめ、男女ともに引き離しやDVの被害があるという裏付けのもとに、まともに議論ができる状況を整える。その試金石として手づくり民法改正草案の策定をいま急いでいる。

いよいよ、平等原則のもと、単独親権制度の違憲性を掲げ、国と対峙するぼくたち共同親権訴訟の重要性が増している。

「私たち抜きに私たちのことを決めないで」

9月22日の証人申請をする次回弁論にぜひ足を運んでほしい。(宗像充2022.7.22)

カワウソ目撃@茨木市(大阪府)

 6月13日に新しいカワウソ目撃情報がきた。「全く誰にも信じて貰えないと思います(自分でも信じられないのです)が……」という書き出しで始まるメールは6月12日と前日のもので、場所は大阪府茨木市。大阪府からの近年の情報は聞いたことがなかった。

メールでの目撃時の状況も詳しく、早速目撃者の嶋田さんに電話をした。

「コツメカワウソよりは小さい。ヌートリアとは全然違う。ハクビシンとも顔は全然違う。娘がカワウソ好きでそのぬいぐるみの色と同じ」

証言も詳細なので、お願いして現場検証をすることにした。

6月25日、13時半に茨木駅で合流し、嶋田さんのお連れ合いと三人で嶋田さんの車で山の手に向かった。茨木市の山間部は近年開発が進んで、ここ10年ほど山を切り開いて企業の倉庫・集積地などがそこここに出現しているそうだ。また北のほうには新名神が数年前から開通している。そのあおりなのか、ここ最近、シカやクマ、イノシシなどが人家の近くに出没することもあるという。

後ろの斜面で見かけた

真新しい道路を登って山間部の倉庫群を過ぎ、脇にため池などが見える坂を下りると田んぼが広がる里が開けてくる。場所は府道110号線が通る佐保地区。阪急バスのバス停「馬場」の西側斜面。近くに大規模な園芸センターがある。午後の時間で車の通行も多い。

嶋田さんは仕事を終え、日付が12日に変わった深夜、12時12分に彩都西の駅で降り、お連れ合いの運転で帰宅する途中だった。雨上がりで運転席の妻が「今日は動物が出てくるかもしれない」とのろのろ運転で山の手に向かって運転していると、10mと離れていない道路の左の斜面に黒い動物が現れて通り過ぎた。タヌキも見たことがあったから妻が「ほら動物おった」と口にした。12時20分ころのことだ。

「2m先の近さで見ました。目線よりちょっと上の斜面を、こっちにお尻を向けて登っているような感じで、顔だけこっちに向けていた。口と目の付近から下、胸元にかけて白かった。皮膚感は、ヌメっとしているというかつるっとしているというか、キツネやタヌキ、イタチなどの普通の陸上動物とは違い、短毛でアシカかオットセイに近い質感に見えました。耳ですか。見えなかったなあ。尻尾はカワウソの形状です。お尻はむっちりしていて、下半身が膨らんでいる。色は薄茶色か灰色で真っ黒ではない。首が長かったですね。ヌーっと首が伸びている先にちょこんと顔がのっかっている。丸っこくて漫画で出てくるかわいいワンちゃんみたいだけど、もうちょっと野性味があって精悍な感じがする。コツメに比べると顔が大きめに見えました」

 嶋田さんがその様子を再現してくれた。足は草に隠れて見えず、尻尾は胴からすっと延びている感じだ。

「背中の当たりが黒々していて、肩と背中から腰の手前まで黒かった。そのほかの部分が薄茶色、薄灰色という感じです。見た瞬間カワウソの色だと思いました」(嶋田さん)

 嶋田さんは、カワウソが絶滅しているというのは知っていた。対馬のカワウソなど、カワウソに関するニュースは気に留めていた。対して嶋田さんのお連れ合いはカワウソがいないというのを知らなかった。それでも「カワウソを見た」という結論は、二人とも変わらなかった。二人とも動物好きなので、動物園にも度々行っていて、コツメカワウソなら何度も見ていた。でも、大きさはコツメよりも大きくて、両手を広げて頭からお尻までの大きさを嶋田さんが示してくれた。尻尾までも含めると1mほどになり、ニホンカワウソやユーラシアカワウソのサイズ感に一致する。イタチやテンとは大きさが全然違う。

バス停の山の手に向けて歩くと、目撃時に斜面を覆っていた草は刈られて、のり面は田んぼの水がにじみ出て流れていた。農地整理で整然と区画された田んぼが上のほうに続いている。道路を渡ると水路が伸びていてその先に川が流れているのが見えたので行ってみると、上流で母子が川遊びしていた。女の子がカニを見せてくれた。カニはたくさんいるようだ。小魚も泳いでいる。護岸も石垣で組まれたままの古い状態で、自然状況はよく見えた。この川は佐保川で下流で安威川になり、淀川に注ぐ。

園芸施設で魚を飼っていると嶋田さんのお連れ合いが言うので見に行くと、小さめのコイが泳いでいた。「前はもっと大き目の魚がいた気がする」とお連れ合いは口にするけど、店の人は動物が獲った様子はないという。

いるはずがないと思った嶋田さんは、保健所などに電話して逃げたペットのカワウソの情報を聞いたものの否定されている。嶋田さんたちの車で佐保川の上流まで行ってみた。嶋田さんたちも、この川をじっくり観察したことはないという。しかし佐保川の上流は、流れは細くても途中渓谷になり、さらに上流に行くと美しい棚田風景の農村地帯になった。福祉施設があり、蛍の里としても知られているという。

大阪府ではさほど離れていない高槻市でヌートリアがいることが知られている。ぼくも琵琶湖での目撃情報を得て電話をしてヌートリアだったと聞いたことはある。ただ、二人とも全身を見ているので形状でヌートリアとは区別できたようだ。嶋田さんたちは近くに同様の自然状況が残る川は思い当たらないという。でも安威川を少し見た限りでは、アシ帯も残ってコンクリート三面張りというわけでもなさそうだった。それに、都会でも魚がいればカワウソはいることは韓国では言えた。

嶋田さんたちも、自分たちの目撃情報がカワウソの捜索に役に立てばということで調査に協力してくれた。引き続きこの地域の過去の生息情報などについて調べていきたい。(2022.6.28)

北条坂

 大鹿村は四方が山なので、村の外に出るには峠を経るしかなかった。

 現在村に来るのに一番早い小渋線は、できたのは戦争中のようで昔からの道とは言えない。天竜川筋から大鹿村に至るもう一本の県道の岩洞は、1936年(昭和11年)に開通している。それ以前の村への往還は、秋葉街道を経て南北に往来するのでなければ、北条坂から峠に出る道があった。

 アウトドア誌の仕事で大鹿村がなぜ南北朝時代に南朝の拠点になりえたのかを調べる機会があった(最新号Fielder読んでね)。文献調査だけしてもおもしろくないので、歩いて峠を越えてみようと思った。それで北条坂と越路を歩いてみた。

 越路のほうは古い地形図には登山道の破線が載っている。鳥倉林道の終点ゲートから斜上していくと峠について、あとはコンパス頼りに塩川に下りて踏破できた。

北条坂のほうはあまり情報がなくて、道が出ている地図も探し出せなかった。ネットを検索すると、廃道マニアの人が、県外から来て探索している記録を見つけた。そこに岩洞ができる前の1934年(昭和9年)の地形図が出ていて、下部の登山道が載っている。途中までの踏査記録もある。

 北条坂はかつての桶谷の集落から登っていくそうで、その集落跡は今砕石会社の敷地になっている。対岸にも家があって、そこには北条という名前の家が4軒ほどあったそうだ。隣の家のKさんに桶谷の対岸の集落の場所を教えてもらって偵察に行った。

 集落跡には現在、小渋ダムの排砂トンネルの工事の事務所がある。昨年の豪雨で300万立米という、大鹿村から出るリニアの残土と同じ量の土砂がこの排砂トンネルを通過した。トンネルはボロボロになり、復旧作業が続いている。工事事務所の奥の森に入ると、秋葉権現の碑があって、斜面にお墓があるのがわかった。工事事務所には人がいた。聞いてみても集落の跡のことは知らない。お墓のある斜面から上を見ると、なんとなく九十九折れの道が見え、ところどころ石垣を組んでいるようだ。

 この集落は、ここ最近中世の歴史が注目される中で存在を知られるようになっているようだ。少年ジャンプで「逃げ上手の若君」という、北条時行を主人公にした漫画が連載されている。今年の大河ドラマは鎌倉幕府黎明期の北条一族が主人公だ。便乗的に出版が続く中で、「中先代の乱」という、歴史の教科書で1行で触れられるだけの史実も新書になっている。

この中先代の乱を起こしたのが、鎌倉幕府14代執権で最後の得宗、北条高時の息子時行だ。鎌倉幕府瓦解の2年後に乱を起こして鎌倉を奪還し、建武の新政崩壊のきっかけをつくった。20代後半で鎌倉龍ノ口で処刑されるまでに反足利のリーダーとして、3度鎌倉を奪還している。その存在感は、先代の北条の世、当代の足利の世の間で「中先代」と唄われるほどのものだった、らしい。

 そういうわけで新書の作者やテレビ局が、この桶谷にあるはずの、北条時行の墓を探しに村を訪問している。下調べで教育委員会に行くと、村の石像文化財をまとめた本にある写真を見せられた。文化財担当の北村さんの話だと、江戸時代に建てられた墓碑だそうだ。逆賊なので、ほかに墓がある場所もなさそうだ。でも教育委員会では場所がわからなくなっていた。

 桶谷の集落跡から消えかかった九十九折れの道をたどってしばらく行くと、尾根筋に小屋のような建物が建っているのが見えた。

 行ってみるとどうも神社の跡らしい。脇に石塚が3つあって、庚申塔の字も見える。真ん中の四角い境界石のような柱型の石が不自然で、後ろに落ちていたピラミッド型の石を抱え上げて柱石の上に載せると、教育委員会で見せられた時行の墓と同じ形になった。周りの落ち葉を掘り起こすと台座も現れ、持参した墓碑の写真とますます一致する。ちょっと先まで九十九折れの道をたどって、これならトレースできそうだと引き返す。これは大発見、とちょっと心が弾む。

 それでも、偵察した後、道がたどれるのか心配なので、飯田や松川の図書館に行って地図を探したけど見つからなかった。『生田(現在の松川町東部)村誌』には、大鹿との往還道の記録がいくつかあって、峠には問屋があったらしい。生田村は大鹿村との中継ぎ業で大鹿村と結びつきが強かったことがわかる。

 高森町の松島信幸先生は知ってるかなあと尋ねていくと、「小学校4年生のときに行った。普通に行けた」と頼もしい答えがあったけど、戦前の話で参考にはならなさそうだ。

村の山仲間の中村周子さんに声をかけて、車1台を終着点の峠にデポした。鹿柵のドアから旧道を見ると、早速崩落していて「心配だなあ」と中村さんがつぶやく中、桶谷の集落跡から歩き始めた。

 時行の墓を過ぎ、九十九折れの北条坂を進むと、石塔が集まる北条峠に着く。ここから先は半間ほどの道幅が続くかと思えば、沢筋は道が切れ落ちていてきわどい部分もある。山慣れない人にはロープがいるだろう。派生する尾根のところはテラス状になっているので、そこで休憩しつつ先をたどる。足下に小渋ダムのバックウォーターが見える。広葉樹の緑が美しい。谷の対岸を見ると岩洞のヘアピンカーブが見える。道を進み標高を上げると、その道がだんだん近づいてくるのがうれしい。

 最後は沢に出て、林道が峠まで続いていた。朝見たときのドアではなく、岩洞を登って峠を過ぎて左手に伸びる林道の鹿柵ドアのところに出た。9時に出て昼すぎに到着。終わってみればにんまりしてしまう楽しい峠道だった。

 後日、村内に住むSさんの家を訪ねた。桶谷の北条家から嫁いでやってきたYさんに、写真を見てもらった。隣の建物は山の神の祠だと教えてくれたけど、墓碑は「知らないなあ」という。「こういうのはあるよ」と家の奥から系図(写し)を持ってきてくれて、それを開くとおなじみの北条執権の名前が並んでいる。高時の後は時行ではなく、ネットで検索したくらいでは見つからない北条一族の名前が続いている。教育委員会は調べに来ませんでしたかというと、「今日はじめて日の目を見た」という。ほかにも調べる宛を教えてくれた。「村の人だから持って行っていいよ」と初対面のぼくに言うので「いやあそれは恐れ多いので、また連絡して見せてもらいに来ます」と言い残す。ひとまずの探索を終了した。

 「逃げ上手の若君」からは逃げられない。

(越路28号たらたらと読み切り168、2022.6.20)

子どもが親に会わない権利?

「父親のあなたはこの子には必要ない」

 昨日、元妻とその夫が子どもを2回目に引き離した行為について、損害賠償を請求した裁判の証人尋問があった。元妻を直接尋問した。子どもが会いたくないと言っているからそれを尊重している、と元妻は繰り返す。だとしてもあなたはどうなのか、と聞いても、同じ言葉が返ってくる。このまま子どもが一生会わなくてもそれでいいというのか、と問うても同じ答えだった。ぼくはたしかに係争の片方だけど、彼女との間にできた子どもの親でもあるので、彼女が「父親のあなたはこの子には必要ない」と事実上言っているのと同じだった。

 前から子どもに会えないので、と法改正を訴えると、聞かれた方から「子どもが親に会わない権利は」と聞かれることがときどきある。最近では共同親権に反対する人たちがこういった権利を主張して、賛成する弁護士もそれを保障しようとするのを見かける。でも、この用語の使用はいくつかの点でおかしな点がある。

それは差別

 例えば、ことさらに「親」に会わない権利だけが問題とされる点だ。家族であっても、妹に会わない権利やおじいちゃんに会わない権利、というのは聞いたことがない。友人に会わない権利、というのもあまり聞かない。加害者に会わない被害者の権利、とかはもっともらしく聞こえるけど、これはむしろ安全を確保され安心して暮らせる権利、というものの言い替えだろう。なぜなら、たとえ被害者であっても、収監されていない限り、加害者の行動を被害者の行動に応じてすべて規制することは物理的に不可能だし、加害行為を行なった側にも人権はあるので、それが正義とも必ずしも言い難いからだ。

 この場合の「親」はことさらに危険で、仲間ではないものを指していることは明白だ。この親を別居親に置き換えると文脈が理解できる。これを同居中の親にすると、別居親に対する同居親だろうが、両親が子どもと同居する場合だろうが、不自然さが際立つ。「お前なんか親じゃねえ。顔もみたくない」と思春期の子どもが言うことはある。手を焼いて親戚の家にあずける親はいるかもしれないけど、「あなたの権利を尊重して私が家を出ていく」とか「親に会わない権利があるから下宿先を確保してあげよう」とか言う親はいない。「偉そうなこと言うぐらいなら出ていけ」という親はいても、「権利はあるから家から出ていけ」と言えば単なる養育放棄だ。

 つまりこの場合の親は黒人や被差別部落出身者と同様の差別の対象としての別居親しか念頭にない。「黒人に会わない権利をどう保障するの」とか「部落民に会わない権利をどう保障するの」という問いが、あり得ないのと同様だ。

 証人尋問を傍聴した友人の別居親が「別居親って本当に差別されてるんですね」と、彼女のぼくへの態度をそう評価していた。その人も子どもに勉強させたことが子どもの意思を尊重していないと婚姻中に言われて、いまは子どもの意思で会えていない。元パートナーはなくなっているので、この場合、子どもの意思を尊重すると自分の子どもがみなしごになる権利を親が保障しないといけなくなる。子どもも大人になれば、親と会う会わないなど自分の意思でどうにかできることかもしれない。しかし未成年の子どもだけに、子どもの意思を尊重して自分の親を捨てさせることを、子どもの権利の保障などと呼ぶだろうか。

子どもの権利条約

 実際、子どもの権利の国際的な目安ともいえる子どもの権利条約は、父母の共同責任とともに、養育における親の第一義的責任を明示していることはあっても、「子どもが親と会わない権利」などという言葉は見当たらない。未熟な人格としての子どもを前提に子どもの権利が規定されるとするなら、大人と同然の責任を子どもに押し付けることが本来の趣旨とは言えないだろう。その上、成人であっても、「親に会わない権利」だけがことさらに問題とされることはない。つまりこの権利(があるとするなら)は、自分の意思を子どもに押し付けられる立場にいる人間が、子どもに親を捨てさせる場合にだけ用いられる。

 もちろん、子どもにとって親は、危害を加えることのできる一番身近な大人であるのも事実だろう。その場合に子どもの権利条約は、虐待放任やあらゆる形態の搾取からの保護という形で、その権利保障を明示している。であればことさらに「子どもが親に会わない権利」など掲げなくても、そういった権利保障をすることを明確にすればよいだけのことだ。

例えば、「学校に行かない権利」は、もっともらしく聞こえることがあるにしても、学習権がある以上、通学させない親が子どもの権利を保障したと手放しでほめられたりはしない。しかし親には教育権があるし、子どもをいじめや仲間外れや体罰から守るために、どのような教育を授けるかについての判断をすることは可能だ。その中で転校や不登校の容認、フリースクールへの通学などの手段も選択肢になる。しかしそれは「学校に行かない権利」をどう保障するかという文脈で語られたりはしない。

 誰もが親から生まれて、たとえそれが今の悩みの原因だとしても、親から愛されたいと願っている。学ぶことも、親の庇護を受けることも、ともに人間として成長するにおいて必要なことだ。「子どもが親に会わない権利は」と聞かれたら、そんな過酷な社会環境しか子どもに提供できていない、私たち大人の不明を反省するのが先ではないでしょうか、と答えることはできる。(2022.6.1)