男にもっと稼げと言うだけで貧困問題は解決するか

信濃毎日に投稿して没になったもの

 「離婚後の養育費2万円増も」(12月23日)の記事を読んで違和感を抱いた。この記事では、「貧困解消『不十分』の声」として養育費を受給する同居親側の意見がもっぱら紹介され、支払う側の別居親の意見はない。

 ぼくは12年前に元妻と別れて、当初「子どもと会わせる」という約束を守ってもらえなかった。というと、「何かひどいことしたの」と思われるが、実際には約束を履行させる仕組みは弱く、「調停を申し立てた」ことが不履行の理由だった。子どもと二度と会えないかもという恐怖の中でも、調停・審判の2年半、ぼくは養育費を支払っていない。「会せないのに払うのか」と思ったし、元妻はすぐ再婚したので養育費は求められず支払い義務もなかった。数年後、2度目に子どもと引き離されて後、今度は元妻が振込先をなかなか教えず苦労した。養育における経済的な分担は義務だけでなく親としての権利だと知った。

貧困問題は格差の問題で、男性の費用負担の高額化に解決を求めれば、男女間の賃金格差を肯定する。それでは女性の社会的地位は高まらない。共同親権のもと、婚姻内外問わず、経済的にも養育時間の面でも、子育ての男女平等を目指すことが、本当の貧困解消の道筋でないか。

大鹿村 宗像 充(自営業・44)

山とナルヒト 第1回 会員番号10001

 手元に日本山岳会の古い名簿がある。「な」行には出ていなくて、もしかしてと「か」行を探すと「氏名」欄に「皇太子殿下」と載っていた。住所は「港区元赤坂2-1-8東宮御所」。2人の推薦人が必要という、気位の高いこの日本で最初の山岳会に、ぼくも入っていたので名簿がある。

 現在、この人の天皇即位に伴い、メディアは彼の趣味の登山も取り上げている。「山のベテラン」、彼が登って山小屋がよくなった、登ったルートを「ロイヤルルート」として紹介する、などなどだ。とはいえ本誌編集部がそういった記事を天皇制反対のぼくに期待するわけないし、かといって、趣味の話でむやみと敵意を向けるのも野暮ったい。なので、彼の登山行為の社会の中での位置づけを、エピソード的にこの連載では試みたい。

 徳仁が日本山岳会に入会した1987年7月は27歳のときらしい。ウィキペディアで彼の来歴を見ると、オクスフォード留学を終え、学習院大学の博士課程に在籍中で、この年、はじめて国事行為臨時代行についている。翼賛系の報道では、入会が「名誉会員」ではなく一般会員であることが美談として語られている。

父の明仁が、はじめて民間人女性と結婚する一方で、アメリカ人家庭教師をつけ軽井沢のテニスコートで美智子と出会ったエピソードを武器に、リベラルかつロイヤルな演出がなされてきたのとは違い、徳仁の場合、一般人との交流が美談として語られることがままある。「庶民性」は、外交官という超できるエリート女子と結婚したこの人の十八番だろうが、わけても登山は彼のこの演目の武器だ。

ただし、一般会員に「殿下」という敬称が付く人はほかにいないし、切りのいい会員番号を振られる会員もいそうにない。そもそも「皇太子」は名前じゃなくて役職だ。

ぼくが入会したのは、この大学山岳部の学閥組織で同期の仲間とヒマラヤに行くためだ。なので、登山後はやめた。会の援助で海外登山をした学生は、会の晩さん会で給仕をしたりするのが恒例で、皇室大好きの同期の一人は、このとき徳仁と握手して後で会の役員に怒られたという。

ちなみに、この会で会員アンケートの結果を会報「山」に紹介したときに、徳仁について、もっと丁重に扱えという回答がある一方で、特別扱いするのはおかしい、という回答もあったのを覚えている。ただ、いくら「庶民的」といっても、彼が「勤労者山岳連盟港区支部」とかに入ることはなさそうだ。学習院大学山岳部出身の登山雑誌の編集者によれば、山岳部に入りたかったけど止められたと聞いている。

(2019.12.26「府中萬歩記」70号)

「子どもの居場所を聞くと犯罪」住居侵入でオーストラリア人ジャーナリスト有罪

ドアの外からピンポンすると住居侵入

「子どもたちが生きているか確認したかった。無事だと教えてほしいと何度もお願いした。なのにたった一回の回答もない。子どもたちは誘拐されている。悲しみしかない」

 スポーツジャーナリストとして日本で活動していたオーストラリア出身のSさん(45歳)は、そう言って涙ぐんだ。

 Sさんが義父母が暮らすマンションを訪問したのは、大型台風が関東地方に上陸し、多数の被害が出た昨年10月のこと。

「子どもたちが心配で、家庭裁判所にも警察にも妻の家族にも安全でいるのか安否確認したかった。無事だと教えてほしいとお願いした」

 その日のことを1月10日の公判でSさんは振り返った。義父母のマンションを訪問した1月半後、11月30日にSさんは、自宅マンションで逮捕された。この日検察側は「関係者以外立入禁止」の掲示が出ているにもかかわらず、住民の後についてオートロック式のドアからマンションの共有廊下に立ち入ったことを「住居侵入」と主張。Sさんも容疑を認めたが、一方で度々「誘拐」という言葉を証言の中で口にしている。Sさんの妻が11歳の娘と8歳の息子を連れていなくなったのは昨年5月のことだ。以来子どもたちと会えていない。

国内外の法制度のギャップ

 Sさんの母国のオーストラリアに限らず、共同親権の法制度が整えられてきた海外では、親による連れ去りも「誘拐」として刑事事件化される。しかし、日本ではここ2年ほど、誘拐罪での告訴が受理された事例が各地で見られるようになったものの、検察はただの一度も起訴したことはない。しかし、海外であれば拉致の実行犯が「被害者である」ことを主張すれば、「保護」を名目にした「支援」を行政が整える。一時的な保護施設の提供や住所の秘匿がなされ、何の説明もされずに親子がそのまま生き別れになることも少なくない。海外出身の親たちが、「拉致」と日本人以上に憤りを日本の制度に向ける理由だ。

法廷には、オーストラリア大使館の職員も傍聴に駆け付け、この裁判が、日豪両国の制度の違いから生じた「事件」であることを物語っていた。

「子どもに最後に会ってから238日 」

「これは私が撮ったものです。これは私の妻が娘と息子に対し叩くなどした虐待の写真です。これで妻の虐待の証拠が明らかになりました。感謝します。私は一度も子どもを虐待したことがありません」

 妻側が出ていったのは、娘がSさんから暴力を振るわれたと妻に言ったことがきっかけだったと、検察側が妻側の行動を擁護するために持ち出した証拠に対するSさんの受け答えだ。

「誘拐があったから犯罪が正当化されるとか、刑が軽くなると考えていますか」

 検察官とSさんとのやり取りを見ていた裁判官がそう問いかけるとSさんは否定し、「違法で正しいやり方ではないと理解している。そこは謝罪するが、離婚手続きとは別」と反論した。

 Sさんは現在妻との間で離婚調停中で、子どもに会うために面会交流の調停中でもある。ただ「子どもに最後に会ってから238日が経過」している。ぼくは多くの別居親の相談を受けてきた。こういった手続きが少なからず空手形で、会える会えないは実際には同居親の意向次第だ。だからSさんも会えていないのは理解できる。

しかし、「今後は法にのっとって離婚手続きをするか」という検察官の質問に「はい」と答えなければSさんの保釈は叶わない。人質司法はカルロス・ゴーンが訴えた通りだ。法にのっとった手続きでは埒が明かないのでSさんは直接居所を知ろうとした。その手段を手放せというなら、「子どものことはあきらめろ」ということだ。

政治弾圧としての逮捕劇

 司法や行政は、子どもとの関係の継続を願う親たちをあきらめさせるために、度々「別件逮捕」を繰り返してきた。子どもを連れ去られたから取り戻したことが誘拐罪にされ、服役した人もいる。ぼく自身も、決まっていた面会交流日に子どもが現れないので、子どもの家を訪問しようとして、まだたどり着いてもいないのに、警察を呼ばれたことがある。

ただ、子どもの暮らす家の敷地やドア内に入って、逮捕・勾留される事例は度々あるが、起訴されたのを聞いたのは今回が初めてだ。外国人で引き離された親たちは、国内外の制度の違いから、国内拉致を許す司法に批判的だし、実際、家に行くなどの直接的な手段をとる人もときどき聞く。それら「共同親権」の旗印のもと「一目会いたい」(Sさん)と願って行動する親たちへの見せしめとして、今回の起訴が行われた。

 実際、住居侵入の保護法益は「住居の事実上の平穏」だ。ぼくは、自衛隊官舎へのイラク派兵反対のポスティングが住居侵入罪に問われた、立川反戦ビラ弾圧事件の救援にかかわったことがある(『街から反戦の声が消えるとき 立川反戦ビラ入れ弾圧事件』、2004年)。

そのとき、「ピザ屋のチラシも寿司屋のチラシも入っているのに何で反戦ビラだけがダメなんだ」という疑問とともに広範な救援運動が広がり、一審では「表現の自由」を明記した憲法に照らし無罪とされている(控訴審で一人10万の罰金刑。最高裁で確定)。その疑問への答えは、このときの逮捕・起訴が自衛隊のイラク派兵直前になされた運動つぶしの口封じの一環で、政治弾圧だったからだ。

Sさんは住民の後についてオートロック式のドアからマンションの共有廊下に立ち入って逮捕・起訴された。居所を聞いた両親に会えていないし、オートロックのドアの中の共有部分でも無許可でNHKの集金は入っている。そのうえ「子どもの安否確認」という正当な理由がSさんにはある。「誰かが私のアパートにやってきて、私の持ち物を全部持ち出した。鍵は妻と妻の母が持っていた。今、私の財産はスーツしかない」とSさんは嘆く。警察がSさんが勾留中であることをSさんの妻に教えたのか、住処を奪われたのはむしろSさんで、こうなると被害者はどっちだとしみじみ思う。

一月も勾留されたSさんは塀の外に出るために汚名をあえて着たが、親の養育権を憲法上の権利として掲げて闘えば、もっと粘れたのではないだろうか。

1月15日、Sさんに対し懲役6月執行猶予3年の判決が出た。検察の求刑通りの司法判断。

この事件もまた、海外からの批判で国内拉致司法の実態が覆い隠せなくなった中、共同親権の議論が国内でまきおころうとするときに行われた政治弾圧にほかならない。検察が海外同様拉致を問うていれば、起きようのなかった事件なのだ。

悪政のふるさと 大鹿村(「府中萬歩記」第69号)

大鹿村は南アルプスの麓の長野県側にある人口1000人ほどの小さな村だ。移住ブーム以前から移住者たちが住み着いたりしてきたので、知っている人には知られた村だったようだ。それがそこそこ全国的な知名度を得つつあるのは、ここがリニア中央新幹線の南アルプストンネルの長野県側の起点になっているからだ。

ぼくは、この村に来て3年になる。連れ合いの前島久美は、ずっと以前からリニア新幹線反対の活動を村内で続けている。その中でぼくは『南アルプスの未来にリニアはいらない』という本を昨年出版し、村の郷土民俗資料館「ろくべん館」の販売コーナーに置かせてもらっていた。村の歴史を書いた作家の本や手ぬぐいなどもいっしょに置いていた。

10月9日、用事があって久美さんがろくべん館に立ち寄ると、職員から売上とともにこの本を返還された。職員は村にあるJRの事務所の分室長がやってきて、この本を指して撤去を促したという。館の職員が疑問を口にすると、村の教育長が分室長とやってきて状況を見聞し、翌日販売コーナーごと教育長から撤去指示が出た。

すぐに島﨑英三教育長に直接電話して事情を聞くと、職員の委託契約の範囲外だというのが主張だ。一方で、販売コーナーの設置状況については、村のリニア対策室の岩間洋係長から指摘を受けたという。翌日、村のリニア対策室に電話をすると、岩間さんは自分が気づいてそもそも販売できるものなのかと島﨑教育長に連絡したという。JRの分室に行くと太田垣宏司室長が、自分が指摘したと肯定したが、撤去は村の判断という。

このJRによる自治介入と言論弾圧事件があったのは6月13日のこと。当事者のぼくに偶然連絡が入った10月になるまで、ぼくは教育委員会のある公民館に度々出入りしているし、教育長とも顔を合わせているのに、何も言わなかった。

大鹿村では移住者が目を疑うようなことが平気で起きる。

選挙になると候補者は堂々と個別訪問している。みんな知っていて選挙管理委員会はルール違反を注意しない。役所に行ってやり方の違いから理由を聞くと「この村ではこうなっている」と説明を拒否する。印刷機の使用をある日取りやめ、一方で一部の人には利用を継続しているので基準を求めると、「役場の人間が決める。どうしてここで印刷したいの。よそで印刷すればいい」と暴言を吐いて、差別と公共物の私物化を肯定する(長尾勝副村長)。やってあげているんだというお上意識で、住民との問題解決の仕方を知らないから、最近ではは3度も村は訴えられ、そのうち2度は負けている。移住者で役場の対応に不満を持って引っ越していった人も一人ならず聞く。それだけ生活の上で役場の占める割合が大きいということだろうが、これでは暗黒政治だ。

村の愚痴を言い始めたらきりはないが、こういった事態は安倍政権のもとでの忖度政治の中でじわじわと広がり始めている中で起きた一コマだ。反撃するにも手が足りない。田舎はいいよ。空気はうまいし、悪政とフェイスツーフェイスで闘えるよ。あと、ぼくの本も読んでね。

「ゼクシィ見るより民法読め」共同親権訴訟提訴(『反改憲』運動通信」No.6)

宗像充(共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会)

「どうして単独親権制度が残っているんでしょうか」  

2007年に子どもと引き離されて12年。市民運動として共同親権への民法の転換を求めて何度も聞かれた問いだ。「昔はどの国も単独親権。それが80年代以降共同親権に変わってきた。日本でも戦前は家長に親権のある単独親権だったのが、戦後男女平等の憲法ができて、婚姻中のみ共同親権になった。離婚・未婚時は取り残されただけ」と説明すると、多くの人が冒頭のような問いを思い浮かべる。  

今回、この「婚姻中」のみ共同親権とする民法818条の単独親権規定が、憲法14条の平等原則に反するとして立法不作為の国家賠償請求訴訟を、男女12人の親たちで提起することにした。侵害されるのは親の養育権、憲法13条に由来する。  

子どもと引き離される経験というのは筆舌に尽くしがたい。毎年のように子どもと引き離された親(別居親)たちが自殺している。一方で、離婚時には二人の親に一つの親権しか認めない民法の規定は、親権をめぐる親どうしの子の奪い合いを引き起こし、殺人事件も起きている。

裁判所の運用はこうなっている。子どもを確保した側にそのまま親権を与え、確保できなかったほうから親権を奪う。「子どもと会いたい」と子どもと暮らしていない側が申し立てても、通常裁判所の基準はよくて月に1回2時間程度になっていて、その取り決めも4割が守られていない。その非情な現実はぼくたちが広めてきた。海外からも日本は拉致国家として批判を浴びているので、もはや別居親を「DVだから危険」とヘイトするだけでは実態は隠せない。  

ぼくたちの訴訟は、相手との関係が婚姻であるか否かによって共同親権かどうかが決まり、そのことで親の養育権が保障されないのは不平等というものだ。親権のある人、ない人の間の不平等ではない。なぜなら、子どもを生み育てることは幸せになるための選択という点で親固有の権利であり、相手との関係が婚姻でないからといって、子どもと引き離されたり、加重な養育負担を負わされたり、国が介入していいものではないからだ。民法では親権喪失・停止規定があるが、いずれも親の権利の制約には裁判所の審査を経る。ところが、婚姻制度は人為的なものにもかかわらず、それから外れただけで無権利状態に陥るのは不合理だ。  

そういう意味では、現在進行中の、選択的夫婦別姓訴訟、同性婚訴訟の二つの民法関連の国賠訴訟と、婚姻制度を相対化するという点で同じベクトルを向く。冒頭の問いに対して答えるとするなら、「子どもがほしければ<ちゃんと>結婚しろ」という戸籍制度に紐づいた婚姻制度を守るためには、その枠組みから外れた者を二級市民として差別する仕組みが必要であり、そのためには、親権者を一人にし、養育から権利性を奪う単独親権制度は必要不可欠のものだった。 結婚と戸籍制度にやられたぼくたちの反撃(提訴)は、11月22日、「いい夫婦の日」。「ゼクシィ」見るより民法読んどけ。

「大鹿リニエンナーレ事件」

リニアの里、長野県大鹿村には「ろくべん館」という郷土資料館がある。ここに販売コーナーがあるので、昨年から自分が書いた『南アルプスの未来にリニアはいらない』という本を置いてもらっていた。南アルプスに関するインタビュー集で、前村長や元静岡大学学長などにも聞いた。

先日館に行った連れ合いが「販売コーナーがなくなった」と残った本を持って帰宅した。JRの大鹿分室長が「これはまずい」と指摘、村の教育長を同伴し販売コーナーごと撤去に至ったという。教育長にJRからの要請かと聞くと、JRの分室長はたまたま居合わせただけで、村のリニア対策課から言われたという。リニア対策課に電話すると、自分が気づいて「売っていいものか」と教育委員会に連絡したという。JRの室長に会いに行くと「自分が言った」という。

販売自体がまずいなら誰から指摘されようがいいはずだ。だけどそれを隠すのはこれは村の自治への「内政干渉」で検閲だから。「大鹿リニエンナーレ事件」と名づけてみた。村公認禁書読んでね。(宗像充)

「DVの場合は単独親権」がちょっとおかしい理由

共同親権という言葉が徐々に知られるようになってきて、以前、共同親権に反対してきた人たちの中には、選択的共同親権という言葉を使うようになってきた人もいる。親権の概念を説明して、「合意ができない場合は選択的がいい」とさもわかったようなことを言う人もいる。こういう議論を聞くたびに、「ばかじゃないの」と思う。

 選択的共同親権を提唱する人たちは、現在のDV施策がまともに機能している前提で主張する。そして「子どもに会えないDV被害者の母親がいる」と言えば、「その方は加害者だからでしょう」とは言わず、「だからもっとDV法を強化しないと」という。

だとすると結局、現在の単独親権制度ではDV被害者は守れていないということになる。こんなのは小学生でもわかる理屈だ。これでDV防止のために単独親権制度を維持しようなんてインチキだ。

そもそも「先に取ったもの勝ち」

 そもそも、親権選択は現在の裁判所では「先に取ったもの勝ち」なんだから、親権者がDV被害者である保障など何もない。DVの加害者が知恵をつけて子どもを連れ去れば男女問わず親権者になれる。だから、選択的共同親権というなら、被害者から親権を奪うことも受け入れよう、ということになる。

これのどこがDV防止、被害者保護なのだろう。彼らは女性支援をしているだけで、被害者を支援しているかもしれないけど、DVの加害者も少なからず支援している。そしてそれなりの数の被害者から子どもと親権を奪い続けている。

 DVの加害者を支援してはいけないと言っているのではない。だけどDVの加害者に「あなたは何も悪くない」と言ったら加害者は「やっぱりね」と思ってDVを繰り返さないだろうか。自分のDVをやめたいと思っている人には何の助けにもならない。そしてどうやったらDVをやめられるのかという加害者の脱暴力支援など、やる気がある人などいるようにも思えない。

 ぼくもDVの被害者で引き離された母親の話を少なからず聞く機会があるからそう思える。彼女たちは少なからず女性相談に行って「子連れで逃げるなんてできない」と躊躇している間に子どもと引き離される。この場合は加害者が親権者になるのだけれど、こういうとき再び女性相談に行っても役に立つ支援など何もない。下手すると「もっと早く来てくれてたら」とか言われて傷つくことがある。

たしかに子どものことを諦めれば暴力被害にも合わないかもしれない。だけどちょっと変じゃない? そもそも親への暴力が子に転嫁するから逃げろというんでしょ。だったら子どもはいま一番危険なわけじゃない。それでどうして「もっと早く来てくれてたら」になる?

 単独親権制度がDVの連鎖を断つのに役立つと本気で考えているなら、回りくどい言い方をせず「子どもを連れて家を出られなかったあなたが間抜け。子どものことはあきらめろ」とちゃんと言うべきだ。そして、女性相談の窓口にもそう書いたパンフレットを置いておくがいい。子どものための面会交流なんて口が裂けても言ってほしくない。

 こういう場合、夫に暴力はやめてほしいけど、子どもの父親でもあるんだから、子どもから親を奪えない、という意向が仮にあっても相手にされない。それは「夫からコントロールされているから」ということになるかもしれないけど、ぼくも親からすれば子どもなので、子どもは暴力のない家庭で両親といっしょにいたいだろうと想像する母親の気持ちがおかしいとは思えない。

子連れで逃げないと親権とれないなんてリスキーすぎ

 繰り返すが単独親権者にはDV加害者ももちろんいる。こういった親の引き離し行為は「DVによる支配関係が継続する」ということそのもので、その支援は、加害者の加害支援になる。

 女性支援をしている団体のホームページには「親権を得るには子どもと離れないように」と書いていたりする。つまり「先にとった者勝ち」というルールは彼らの武器だった。女性が親権をとれない時代から彼らが獲得してきたものでもあるだろう。だけど、そもそも子連れで逃げないと親権をとれない、ということのほうが問題ではないか。そんな危険な行為を被害者にさせていいのか。一人で逃げてかつ子どもとも離れなくてすむなら、そのほうがよくないか。日本のDV法のもと、選択的共同親権でこれができるか?

逃げられない男たち

 日本のDV法は自力救済という民事的解決の支援という法の構成をとっている。だから警察に暴力被害を訴えても、捜査よりも保護が優先されて女性支援に回され、その後は警察はタッチしない。

しかしもちろん、先ほど言ったように、子どもといっしょに逃げるという選択肢以外のことを望んでいる母親は、この場合親権は得られない。また、子どもといっしょに逃げたいにせよ、自分がまず暴力被害から逃れたいにせよ、男性の場合にはこういった保護の仕組みは一切ない(居所秘匿措置を使って母親から子どもを引き離す男性は最近いる)。女性の3人に1人、男性の5人に一人がDVの被害者で、過去1年間では被害の割合はほぼ同じなら、この不均衡は犯罪的ですらある。社会構造的に男性社会だからと言っても、被害を打ち明けられないでいた個々の苦しみは、何も解消できはしない。

仮に選択的共同親権を主張したいなら、DV施策のこの根本的な性差別を解消してから言うべきだ。民事での自力救済を前提としたDV施策は、誤爆による親子引き離しの被害者を大量に排出することでしか維持されない。そして、いくら女性支援だからと言って、加害者の加害支援をしつつ、こういったシステムの維持を主張し続けるのはあまりにも虫がいい。家庭裁判所でのDV審査に無駄な税金をかけるぐらいなら、容疑を立件する手続きが用意されている刑事での介入がなされたほうがまだましだ。もし、こういったすべてのシステムエラーを不問にしたいなら、わがまま言わずに「婚姻」内外問わず共同親権にして、親の権利の制約は他の民法上の規定に委ねるしかない。

 ぼくは、家庭以外では、女性の話よりも男性の話を聞く方が多い。彼らの多くは(元)配偶者から精神的DVや、今はモラハラをしたと言われている。そして少なくない男性たちが、ぼくが聞けば「それはDVです」というような、精神的、肉体的虐待を受けている。

だから男性も被害者だと言いたいのがここでの目的ではない。そもそもDV被害は男女問わず主観的だからだ。ただ、彼らの被害を聞いてくれる場は、法的にも実際の支援の上でも社会にはほとんどないということを知ったからそう言っているだけだ。もちろんこれは女性の引き離し被害者にも言えることだ。彼らに「もうちょっと早く来てくれれば」とぼくは言わないし、言えもしない。

拝啓 木村草太様 共同親権運動が家裁予算の増額を求めない理由

10月9日のAbemaTVでは、憲法学者の木村草太氏が元家庭裁判所調査官の伊藤由紀夫氏とともに登場し、共同親権反対論を展開した。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191019-00010005-abema-soci

ここで木村氏は、共同親権運動に対し、「家裁予算10倍運動」を提唱している。「共同親権運動」という言葉はぼくが作ったので、この木村氏の番組での発言に対して若干の反論を加えておく。「若干の」というのは、そもそもまじめに議論するほど、彼が現場を知っているとはとても思えないからだ。

 ただし、不勉強なのは彼の研究者としての能力の問題だが、「知ってて言っている」なら悪意がある。

番組作りの不公平

 最初に指摘しておくと、9月25日の討論番組には、木村氏に限らず、制度だけでなく、現在の法運用のあり方の不平等について現場の実情を踏まえて指摘できる人はいなかったようだ。だから議論も抽象的か現場職員の愚痴に終わってつまらない。その上、木村氏に「共同親権運動をされている方は」と一方的にしゃべらせるぐらいなら、最初から「共同親権運動をされている方」を呼べばよかったのだ。

つまり、キャスティングミスでなければ「共同親権運動への文句付け」が番組の目的なので、最初から公平な番組作りとは言えない。 

その上で、木村氏の主張を要約すれば、円満に離婚できた夫婦に共同親権はOKだが、そうじゃない場合にはDV被害が永続する。だから合意ができたカップルにだけ親権を付与する選択的共同親権だったらよい、というものだ。

 なお、木村氏は、法律上親権を持っていないからといって親じゃない、ということはないし、子どもと会うこともできないことないと主張する。だったら自分で運動の存在を認めるほど、何で共同親権運動がこんなに流行るのか。番組では彼の解説はスルーされている。単独親権では実際には法律上親と呼ばれても中身がない、というのはほかの出演者は理解している。

ちなみに家裁に調停・審判を起こしての面会交流の取り決め率は55%。そのうち4割が約束を守られず会えなくなっている。

単独親権あるある「家裁はちゃんと判断している」

 木村氏は「お互いがいい関係を築けていれば、離婚しても相談すると思う」と述べる。「そもそもいい関係を築いた夫婦は別れないんじゃ?」という疑問は置いておいて、話し合えないから子どものためにならないのなら、どう話し合える環境づくりを整えるかに話がいくはずなのだけど、そうはならない。

 「単独親権はDV被害からの防波堤の役割を果たしている」からと、単独親権の効果を肯定するからだ。今回の議論、連れ去り問題についての言及が慎重に排除されていて、DVのために共同親権には制約を課すべきだという予定調和の中でなされている。

 本当にそうかと言えば、現在の家裁の運用は、子どもを確保している側に自動的に親権を与えるので、被害者側が親権者であるかどうかなんて関係ない。例えば、男性の親権取得は裁判所を経由すれば1割だ。しかし虐待の加害者の割合で一番高いのは実母で、DV被害も女性は3人に1人に対し、男性の5人に1人の割合だ(その上この数字の男女差は過去1年間を見ると逆転する)。性構成を見ても、虐待加害女性が多く親権者となり、DV被害男性が多く親権を奪われているのはわかる。

DV、虐待、モラハラの加害者が単独親権者であることなんてざらにあるのだが、なぜそれが「DV被害からの防波堤の役割を果たしている」のかわからない。木村氏は(暴力の加害被害問わず)子ども奪取者の権利擁護とは言えないから、無理やり単独親権者をDV・虐待の被害者にしているだけだ。そもそも、男性の側が親権をとれないのは、男性が子どもを連れて出たところで、女性のシェルターのような行き場所がないことによる。

 だから裁判所の人員を増やしたところで、DV施策の男女差別、連れ去り前提の裁判所の運用が変わらない限り、連れ去り・引き離し被害が増えるだけで、そんなことを共同親権運動が求めるわけがない。いくら連れ去られ親が、DVや虐待防止の観点から、自身のDV被害を訴え、連れ去り時に子どもの意見が聞かれなかったことを訴えても、調査の対象にならないからだ。

選択的共同親権の正体

 同時に、「合意した場合に限り共同親権」というのも無責任な主張だ。

 そもそも合意したくないから、みんな親権を得るために連れ去る。そこに暴力のあるなしは関係ない。暴力の被害者が避難したところで、子連れで逃げなければ守ってもらえないし親権もとれない、という現在の運用が問題ではないのか。だったら、相手が暴力の加害者であっても、きちんと子どもの面倒を見させるのも含めて養育の責任を負わせる、というのは、あってしかるべきだ。何しろ、一人ではなく二人で子どもを作ったのだから。

単独親権制度のもとでの「連れ去った者勝ち」というルールは、暴力があろうがなかろうが、自分の主観(被害感情)で一方的な決定を相手に押しつけていいというものだ。だから相手の側の暴力被害も被害感情(主観)も一切無視してよい。

授業参観を見に行きたいといっても「合意がないから」、子どもと電話したいと言っても「合意がないから」で制限される。(そもそも連れ去ってよい、引き離してよいという同意がないにもかかわらず)こんな状況で引き離された側が合意するわけなく、そうなると親権は得られず、下手をすると子どもとは会えない。これが木村氏の言う選択的共同親権だ。

むしろ相手の親権取得を排除するために係争を続けるカップルがあることは想定できる。実際選択的共同親権のアメリカでもそういった係争を芸能人が繰り広げているのをニュースで見る。しかし、連れ去って引き離せば相手の親権取得を妨害できるとは限らないので、それを活用して生じる紛争は抑止が期待できる。

これは何も現在の単独親権制度のもとでも、家庭裁判所の運用が、連れ去った親に対して「じゃあ相手に子どもを見させます」と言えば、引き離し事件は抑止できるのだから、家裁の予算を10倍にしなくてもよい。問題は、「子育ては母親」という発想から抜け出せない、家裁の裁判官や木村氏のような古臭いメンタリティーなのだから。

なお、民法766条は単に話し合いの努力規定なので、離婚や別居時に強制できないし、離婚裁判においても、付帯処分を求めない限り、裁判所が決めるのは離婚の是非だけで、親子関係の取り決めなどなされない。もちろん、子どもを引き離したことによって、それまで暴力などふるったことのない父親に母親や子どもが殺される事件も日本で起きている。単独親権制度だからだ。そもそも単独親権制度で暴力が防げるなど、暴力防止の観点からすれば軽率すぎる。

木村氏にアドバイスされるほど共同親権運動は落ちぶれてない

共同親権運動は、子育てにおける格差是正を常に念頭に置いてきた。あまりにも人権侵害が放置されているので、憲法を武器に国の責任を問うことにした。木村氏の主張は、性差を口にはしないが、女性の側が親権取得者でなければ、ここまで単独親権制度を擁護していただろうかと疑問に感じる。そういう意味では彼の発想はジェンダーロールに根付くもので、彼の親権論議で憲法的解説を聞いたことは一度もない。

日本の単独親権制度がDVの防波堤になるという発想も「家庭に法は入らず」という家制度を基盤としており、海外のように、家族間暴力に刑事介入が積極的になされる国の議論とは本質的に次元が違う。職権探知の家裁システムの中で、家庭裁判所調査官は古い発想の裁判官の使い走りになりがちだ。それが著しく彼らのプロ意識を損なう。なり手がいないのは当たり前だ。職員を増員するより、調査に関しては外部に出さなければ公平な判断など期待のしようもない。

ちなみに、子どものプライバシーを立てに当事者の実名告発を抑止させる主張。子どもを人質にとっての口封じにほかならず、人権侵害も甚だしい。そもそも離婚は恥ずべきものという社会認識こそが、多くの男女と子どもを苦しめているのではないか。

共同親権運動は憲法を忘れた憲法学者にアドバイスされるほど落ちぶれてはいない。

大井川源流、登山者が見た「オクシズ(奥静岡)」のリニア工事現場

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190702-00195510-hbolz-soci&p=2

 小さな平屋の建物には、すべての窓にエアコンの室外機が据えられ、入り口の脇に、「冬期間 登山小屋」と書いた看板が打ち捨てられていた。

 現在、静岡県知事とリニア中央新幹線を建設するJR東海との間で、静岡県区間の建設のゴーサインをめぐってのバトルが話題になっている。一方で、大井川源流の建設現地の様子はなかなか伝わってこない。

 筆者は過去2回、静岡県側の工事現場予定地を訪問している。今回訪れたのは映像会社の撮影の案内役としてだが、以前と比べてどの程度変わっているかを確認したいと思って現地に来た。ところがまだトンネルの掘削工事も始まっていないのに、その変貌ぶりに愕然とした。

 というのは、筆者自身も登山者であるため、登山者の目線で現地を見たからだ。現地は南アルプスの代表的な山岳で日本百名山でもあり、塩見岳、荒川三山、赤石岳、聖岳などの登山基地でもある。

 また、登山者や釣り師でもない限り、一般の人が現地を訪問する機会があまりない場所でもある。登山目的では二度と行きたいとは思わなかった。工事が始まったとしても、この状況が2027年まであと8年も続くことになる。

 登山小屋が作業員宿舎に変わっていたのは、静岡県側から見ると最奥の「二軒小屋」と呼ばれている場所だ。この日は土曜日だったため、工員は全員が「下」に引きあげ、二軒小屋周辺はロッジのスタッフ以外は誰もいなかった。登山者たちの憩いの場が、ただの工事現場に

 そのロッジもリニア工事の関係者専用となり、それでも足りずに冬期小屋が宿舎になり、さらにプレハブの小屋がいくつか建っていた。登山者はテントを張って泊まることはできる。しかし周囲がこのような感じでは、とても登山をしにきたという気分にならない。

 それが如実に感じられたのが、その手前の椹島という登山基地だ。プレハブの作業員宿舎が立っているのはもちろん、売店の前のベンチで登山者がくつろぎながら眺めていた芝生広場との間にはフェンスが立ちはだかっている。フェンスの向こうではショベルカーがダンプに土を運びこんでいた。冬期登山小屋は取り壊されて更地になっていた。山岳写真家・白籏史朗記念館の1階部分は、建設資材の置き場に。もはやただの工事現場だ。

「開発慣れ」した地元民と、リニアの影響にナーバスな大井川流域自治体

「静岡の宝だけど、みんな知らない」

 以前、登山を終えた帰りに出会った静岡市内の観光関係者の一人は、この地域のことをそう表現した。最近は「オクシズ(奥静岡)」として売り出しているほど、何しろ奥深い場所だ。

 静岡市の中心部から、山麓の井川地区に来るのにも2時間かかる。さらに椹島と二軒小屋のロッジを経営する東海フォレストのリムジンバスに乗りかえて、椹島まで1時間、二軒小屋まではさらに1時間がかかる。

 あまりに遠いので、登山や釣りなどの明確な目的がない人にとっては、まず足を踏み入れる機会はない。工事が本格化すれば、ここに700人の工事関係者が常駐することになる。すでに最上流の坑口予定地である西俣でも整地を終えていた。

「こんなにダムが多いと、『水が減る』といっても調整できるんじゃないでしょうか。それよりも渇水期の埃を何とかしてほしい」

 井川地区で立ち寄った商店では、知事のJR東海への対応に対し、そんな感想も聞かれた。この地域では、井川地区の半数が水没した井川ダム建設をはじめ、電源開発に伴うダム建設が繰り返されてきた歴史がある。

 そのため地元の人には、開発に対する一種の「慣れ」も感じられる。一方で、静岡県民の6人に1人の生活用水を賄うまでになっている、大井川の利水についての影響は大問題だ。流域の地元自治体がこの点にナーバスになっているのも当然に思える。「リニアよりエコパークのほうがメリット」と語る静岡県知事

 また、静岡市を中心に南アルプスの世界遺産登録を働きかけた経過もあり、現在は自然と人間の共生のモデル地域としての「ユネスコエコパーク(生物圏保存地域)」に指定されている。地元は焼き畑や在来野菜など、自然だけでなく地元本来の文化や歴史遺産を積極的にアピールしている。

 川勝平太静岡県知事は、6月5日の中部圏9知事会議で、「どちらを取るかと言えばエコパーク。リニアは静岡にメリットがない」と発言している。

 開発一辺倒の時代から、持続可能な地域づくりや自然との共生が時代の流れであり、もしそれらを両立させる解を見いだせないのなら、もはやそれは「時代遅れでは」、そう知事はJR東海に投げかけたように思える。

<文・写真/宗像充>

ハーバービジネスオンライン

大鹿村騒動記・検閲編

ぼくが住む大鹿村にはコンビニはなく、隣町のコンビニまでは車で40分ほど。その代わり村役場のコピー機と輪転機を住民が使うことができていた。機械は職員が操作するので、版下を見られることさえ我慢すれば、料金は高めだが、天皇制の学習会チラシやリニア反対の会報をせっせと刷った

ある日役場に行くと、総務課長に呼び止められ、4月からコピー機と輪転機の使用をやめるという。もともと商工振興が目的だが、交通事情もよくなったしプリンターも普及したから取りやめた?

詳しく聞こうとすると「宗像さん、会費集めてやってるんでしょ。印刷所にもっていけばいい。個人的なものに役場の備品を使わせるって変と思わない?」という。

「ぼくがやってる活動はいろいろあるんです。どれのことでしょう」

「……」

「村に反対のもの印刷させるなってだれかに言われました」

「なんとも言えない」

わかりやすい検閲だった。騒動記の村役場に言論の自由を。

「反改憲」運動通信No.11(2019.4.26)