養育費に悩んでます

新算定基準が親たちを苦しめる

 単独親権制度の撤廃を求めて国を訴えた、共同親権運動のホームページに養育費のピンハネ問題について声明文が載せたからか、相談やホットラインで養育費に関することについて問い合わせが増えた。

 DVに苦しんだシングルマザーが精神的に不安定になって虐待するといったような記事は少なくない。別居親のほうも、一様に家族と引き離されて不安定になっていたり、鬱状態になっていたりすることは多い。相手からはDVがある場合も少なくないけど、子どもとの引き離しは虐待だし、強いられた環境に不適応になるので、そうなるのは当たり前だ。男性の場合は支援も行き届かない。

 そんなわけで、仕事を続けられなくなって転職や休職をしたり、部署替えで給与を減らされたりすることも多い。そうなるとこれまでの養育費は支払えなくなるので、元妻(夫)と話したり、減額調停を裁判所に申し出て負担を軽くせざるをえない。双方が一時的な環境の変化によって子育てが困難になったら、国が児童扶養手当という形で母子(父子)世帯を支援することになる。

 ところが、昨年12月に最高裁判所が提示した新算定表で計算しなおすと、減額どころか増額になり、減額調停を取り下げる判断をせざるをえなくなったという話が入るようになった。ほかにも減額調停を申し出たほうがいいんでしょうかという相談を受けるのだけど、あらかじめ算定表で確認しないと、調停を申し出たばかりに負担が増えるということになりかねない。

 こういった相談が入る時点で、この新算定基準は失敗だったということがよくわかる。

入った相談は父親たちだった。彼らは払う意欲があるけど、負担が大きいので減額したいと言っている。別れた後も養育にかかわろうとするいい父親を虐待してどうするのだ。やがて意欲を失って支払わなくなったらどうする。

勃興する養育費産業

 そこで登場するのが、養育費ピンハネビジネスだ。すでにピンハネは子どもの権利侵害だという認識は広まりつつあるので、相談が入る。

 特に問題なのが、こういったビジネスが、元夫(妻)とのかかわりをもちたくない人をターゲットになされているところだ。特に相手との関係が面倒になって子どもを引き離し、そうなると父親(の場合)のほうも養育費を支払いたくなくなって滞る。そこで母親の側はスマホで手軽に申し込める徴収代行ビジネスにアクセスする。

 父親のほうは子どもと会えれば支払う意欲はあるのだから、徴収代行ビジネスの弁護士事務所から弁護士口座に振り込むように連絡が来ると、事情を話してその点についての元妻との話し合いを弁護士事務所のオペレーターに提案する。しかし、オペレーターは交渉事務は非弁行為になってできないので(すでにこの時点で非弁行為の可能性はある)、一方的にもともとある取り決めでの徴収業務に進むことになる。

 もともと支払えなければ自己破産も選択肢だけど、社会的信用は失う。しかし、自分の生活を犠牲にしてまでピンハネに協力するのは納得がいかない。

 ここで得をするのは誰だろう。

 父親から直接母親の口座に振り込むことができたなら、母親側は子どものためのお金を満額受け取り使うことができる。しかし父親は母親と話ができず、子どもと会えもしない状況では、そのお金がほんとうに子どものために使われたか不信を抱き、支払いを躊躇する。徴収代行ビジネスはこういった父親からも、もともとの取り決めに基づき取り立てることはできるだろう。子どもは父親への思慕を絶たれ、母親は受け取れるはずの養育費が目減りし、そして、徴収代行ビジネスは子どもが成人するまで毎月一定の額を手にすることができる。こんなおいしいビジネスやめられない。

母親側のマイナス感情から、こんな産業が成長しつつあるけれど、やってることは子どもと別居親の搾取だ。奴隷貿易と変わらない。

決まったこと以外は子どもに会っていけないのか?

こういった質問を受けることがままある。

 裁判所に面会交流を申し立てると、月に1度2~3時間という決定が出されたりすることがあり、あまりに頻度や時間が少ないので疑問が出やすい。また調停委員も、「監護者の同意なく子どもには会えない」と平気で言う人がいる。実はぼくもつい先日の調停でそう言われた。

面会交流とは何か?

 取り決めがなければこういった疑問が湧く余地もない。何しろ「親が子どもに会うだけのこと」を制約する法律はどこにもない。ぼくも「そんな法律ないよ」と調停委員に言った。

 民法766条は、離婚後の子の監護については協議で決め、協議ができないときは裁判所が決めるという規定だ。2011年に「面会交流」と養育費についての規定が付け加えられた。それ以前は、「子の監護をすべき者その他監護について必要な事項は、その協議で定める」だけだった。

当時、榊原富士子弁護士が、この規定をもとに、単独親権においても共同監護は否定されていないと主張していた。裁判所は、親権と監護権は一体であると見るほうが楽なので、面会交流を監護とは認めない傾向が強く、したがって、月に一度2時間程度の、監護とは言い難い頻度の決定を出しがちだ(実際には、月に1回3時間以内という、FPICの支援基準に沿っているだけ)。

しかし、2011年の改正において、「この場合においては、子の利益を最も優先して考慮しなければならない。」と付け加えられたように、子どものためには面会交流がよいという趣旨の法改正だから、面会交流は「別居親の養育時間」としての監護(「身の回りの世話」程度の意味の法律用語)と呼ぶほうが、法解釈としては素直だ。

背景にある親権差別

 調停委員や一部の法曹には、単純に「親権者(監護者)が子どもの面倒を見るのだから、別居親の関与はその許可がいる」と考える者がいる。特に子どもを連れ去り引き離すことが親権確保の手法として定着しているので、別居親が同意なく子どもに関与すれば「業界の掟」が保てず、法律家としての権威が損なわれる(ついでに儲からない)。

 しかし考えてもみれば、子どもが日常的に他人に会っている中、「親であるが故に親権者の許可を得なければならない」となれば、もはや親としての人格否定で人権侵害だ。こういった発想は、同じ親なのに、別居親(親権のない親)は同居親(親権者)の意思に従わなければならないという点で、親権差別だ。

 例えば、子どもを話題に持ち出しさえすれば、「周囲をうろつくな」「引っ越して来るな」「学校に来るな」という主張が、まるで正当な主張であるかのようになされることがある。これはそれぞれ、移動の自由、居住・移転の自由、親の養育権にかかわる。これら憲法上の権利が、相手がこと親に限ってやすやすと制約できるという発想は、この場合の「子どもの福祉」が「同居家庭の安定=同居親の意思」と同一視できるので、問題ないという発想からくる。別居親の中には、同居親から「対等だと思ってるの」と言われて傷ついた人がいる。

しかし、親には親として、子どもに対して他人とは別個の固有の権利がある。そもそも「親権者だから」という理由で、親であること自体を否定できるような権限はない。親権議論で「子ども」を主語に話さないことに不満を述べる人がいるけど、親の権利が明確でなければ子どもの権利が守れないことには気づかない。

「私も監護している」

 実際、監護についての処分を裁判所が出せるにしても、民法766条4項では「監護の範囲外では、父母の権利義務に変更を生じない。」と断っているくらいだ。これがなければ、養育費を徴収する法的根拠すら出てこない。

 冒頭のような質問が出され、「周囲をうろつくな」……と言ったような無茶な主張がなされれば、「私もあなたと同じ親なんだから親権者だからといってそんな権限はない」と言えばよい。あるいは、「親権のない親は親権者の召使や部下ではない」「二級市民として見下すのはよしてほしい」と答えてもよい。そして、「私も監護者」で、取り決めがあれば、時間がたとえ2時間でも「その間は監護している」ときちんと主張しよう。

特に面会交流が債権として定められていた場合、債権債務の関係では、義務者が権利者の権利を制約できるわけもない。取り決め外の面会交流を制約できることなど嫌がらせ以外には不可能だ。

二つの家庭の自律性を保つための面会交流(養育時間)

 では何のために養育時間(面会交流)を定めるのか。子どもにとって離婚とは家が二つになることだ。しかし、それぞれの家庭は子どもを共有していても自立した別個のものだ。たしかに双方がそれぞれ子どもと接する権利はある。しかし、いつでもどこでもどんなときでもとなれば、それぞれの家庭は、いつ別の家庭の親がやってきても文句は言えないし、そうなると日常生活は送れない。だから双方の家庭が自立した生活を送るためには、お互いの養育時間を取り決め、それぞれ面倒を見ている間は他方が干渉しないのが平和なのだ。

 ぼくの場合は、元妻とその夫が、わずか4時間の面会交流に度々現れて監視したり、娘を交番に連れ込んだり、ぼくの知り合いに子どもを会わせることにいちいち口を出して制約の理由とする。しかし、ぼくが彼らの家で子どもが誰かと会っていることに口を出せば、彼らも憤慨するだろう。差別意識がなければこういったことはできない。

 逆に言えば、それぞれの家庭が別個にかかわれる学校行事などへの参観が制約される理由はないし、安否確認や偶発的な接触、家庭外での日常における触れ合いを親権者の意思一つで制約することはできないし、実際問題それは不可能だ。

だから、住居侵入や学校における庁舎管理、つきまとい規制など、本来子の親に対して用いられれば親子関係が成り立たないような法規定でもって、別居親への勾留や別件逮捕を権力が親権者と結託して加えるようなことがままある。これらは権利濫用の弾圧にほかならない。(2020.9.6)

親の権利を言おう

「面会交流の権利性」

 子どもとの面会交流は憲法上の権利で、実現のための立法措置を国会が怠っているのは違法だとして、国を訴えた訴訟の控訴審判決が13日、東京高裁であった。白石史子裁判長は原告の請求を退けた一審東京地裁判決を支持、訴えを棄却した。

判決は「憲法上保障された権利とは言えない」と述べ、「面会交流の法的性質や権利性自体に議論があり、別居親が権利を有していることが明らかとは認められない」と述べたという。

かねてより、面会交流の権利性が議論の的になり、その場合、親の権利か子どもの権利か、あるいは親に権利性はあるのか、について論争が続いている。どんな権利も議論はあるけど、「法的性質や権利性自体に議論がある」こと自体が、別居親の権利性を否定する根拠になるわけない(櫻井智章「面会交流権の憲法上の権利性」法学教室2020年3月号)。

「権利ではなく義務」というその理由

「面会交流は親の権利ではなく子どもの権利」

「親権は権利じゃなくて子どもへの親の義務」

という主張をよく聞く。親が会いに行かなければ子どもは親に会えないのだから、親子双方に権利があるに決まっているし、子どもの面倒を親が見ないで他人が子どもの権利を主張したところで意味はない。「あなたやあなたの兄弟や親せきに子どもがいるなら、施設に入れてからまず議論したら」と言い返すことにしている。

一方で、海外では、親責任や親の配慮と、親権という概念自体が変化してきた。だから親の権利性自体を否定したがる議論が、共同親権に賛成の人の中でも多い。法務省の議論もそれをなぞっている。

こういった議論は論点のすり替えに陥りやすい。権利の概念を個別に論じることで、親の役割が社会の基準でいかようにも規定されることになりがちだ。単独親権制度では親権のない親の権利を否定しても、それが親の役割ならば肯定される。

例えば、ドイツが「親の配慮」と親権の概念を変えても、ドイツの連邦基本法には、子の養育と教育は、親の自然的権利とある。アメリカは親権に関する考え方から、子どもの権利条約に入っていない。フランスでは「親の権威」という言葉を使うけど、父母に固有のものであるとの規定もある。そしてどの国も共同親権に移行し、親の関係と親子関係は分離されている。

日本ではもともと「裁判所は親権指定においてフェアである」「親権指定されなかった側は『問題がある』」という誤った推定があり、しかも、こういったデマを法律家がまきちらしている。現状権利ではなく義務や責任だけ強調すれば、親権のない側の権利性だけを否定し、親権差別の根拠にできる。だから、単独親権温存派は、あえて権利性を否定するために親の義務を強調する。単独親権制度の立法事実を否定するための親権議論だ。

単独親権制度とは男女平等の否定と性役割の強制

 例えば、職場で女だけがお茶くみをさせられたりすることに対し、不平を言ったら「義務を果たしてから権利を主張したら」と言われたら、どんな気分になるだろう。親権議論とはリンクさせず養育費の義務化のみを主張することは、日本語に翻訳すれば、「男が子育てなんて、義務(金)を果たしてから権利(子育て)を主張したら」ということになる。

 白石裁判長が、「法的性質や権利性自体に議論がある」ことを理由に、権利性を否定するというのは、要するに、「四の五の言わずに男は黙って金払え」ということだ。

 「面会交流を親子交流にしよう」(親子はそもそも交流する対象ではない)とか、「支援がないから共同親権は無理」(DVシェルターに公的資金を投入するためにDV法をつくったのに)とか、そんなことを言っているぐらいなら、「共同親権が最大の子どもと家族への支援」と、別居親たちもなぜ言わないのだろう。

 権利とは幸せになるための選択だ。

だったら、子どもと触れ合う十分な時間をもつことが権利でなくてなんだというのだ。奴隷のように働き、「ちゃんとした親」を演じるために、疲れ切っていても絵本の読み聞かせをするのはたしかに義務かもしれないけど、それがあなたがやりたいことか。男も女も、好きなことができ、子育てでも仕事でも余裕のある日常を送れる。それを阻んでいるのが、性役割を強制する単独親権制度だ。

子育て改革なくして働き方改革はないし、単独親権撤廃はそのための一丁目一番地だ。

「裸の子ども」の福祉

 先日、子どもに会いに千葉まで行ったら、子どもが待ち合わせ場所の駅前の交番前まで来て「帰る」という。娘は録音を命じられていた。「ちょっとまってよ」と追いかけたら、胸元にスマホを入れ(て録音する)た元妻の夫が現れた。何の事件性もないのに、娘を受け渡し場所の交番に連れ込む。先日は、彼が面会交流を近所の銀行のロビーで監視していた。前回は元妻といっしょに娘を引き連れて現れて、娘の顔を見せてぼくの前に立ちはだかった。

「今はぼくが子どもを見る時間だから帰ってください」と何度もお願いすると「つきまとうのをやめたら……」という。彼は法律上の養父だが、今は面会交流の義務者だし、なんで親が他人に、「つきまとう」と言われるのかと思うと傷つく。そもそもぼくのもとに娘を送り出したのは母親と彼なので戸惑いもする。

娘は彼の味方をするのに必死で、ぼくの言葉をなんでも否定するので会話にならない。娘は「お前なんか親じゃない」とぼくに言い、「こっちがパパだ」と彼を指す横で、彼は黙ったまま。元友達だし、まだ赤ちゃんだった娘をぼくが育てる様子を彼も知っている。娘の言葉より彼の態度に唖然とする。

子どもが親を決めるのだろうか。

親の権利を否定すれば彼の態度も娘の態度も妥当に思える。

だけど、親権や面会交流を論じるときに「子ども」と言ったとき、その意味するところは二種類ある。「親に対する子ども」と、「年少の子ども」だ(共同親権訴訟の稲坂弁護士が発見した)。親に対する子どもの権利や福祉を論じるときに、「年少の子ども」を対象とする権利を論じても意味はない。これを「裸の子ども」とぼくたちは呼ぶ。

親のことを第一に考えられるのは両親で、第一義的責任を負うのも両親だという前提のもと、子どもの権利条約における、「親に対する子ども」の権利は構成されている。それを「年少の子ども」の意味で使えば話がかみ合わない。「万引き家族」はこの二つの「子ども」の間のズレをめぐって引き起こされるドラマだ。

「年少の子ども」の福祉を自分なりに考えて、彼は「つきまとう」とぼくに言ったとしてみよう。だけど、「親に対する子ども」をもとに論じれば、面会交流は子育ての時間だ。娘とぼくが言い合うのも親子喧嘩だ。娘が帰ろうとしても、子育ての時間に責任があるのはぼくになる。そこに子どもが望んだとしても登場すれば養育妨害になる。

「あなたのお父さんだから行ってきなよ。意見が通らなくてもあなたが解決しなきゃ」と、親子の権利を尊重して、子どもを送り出す親やその結婚相手も当然いる。もちろん最初からそう言っていたら、娘の態度も違っている。(2020.8.15)

共同親権・夏期セミナー

共同親権訴訟の発起人で『子どもに会いたい親のためのハンドブック』著者が贈る、子どもに会いたい親、別れても共同での子育てを願う親たちのための夏期セミナー。

【日時】2020年7月11日、8月8日(土)、各回13:00~14:45

【場所】全労会館304会議室 東京都文京区湯島2-4-4

(JR御茶ノ水駅御茶ノ水橋口徒歩8分) http://www.zenrouren-kaikan.jp/kaigi.html#08

【進行】宗像 充

(ライター。共同親権訴訟原告、 『子どもに会いたい親のためのハンドブック』著者)

【参加費】1500円(共同親権運動会員は1000円)*要予約5名まで

【各回内容】

<第1回>2020年7月11日(土)「子どもに会いに行ったらいったいどうなる?」

家庭裁判所は開かれないし、調停は開かれても意味がない。だったら子どもの家や学校に行ったらどうなる? 安否確認も親の責任。実例を交えて解説します。

<第2回>2020年8月8日(土)「裁判所で共同親権を言ったらどうなる?」

そうはいっても、裁判所は公平で中立の機関のはず。単独親権であっても子どもの親は二人。そこで共同親権という未来の選択肢は使えるか、使えないか。刑事や民事、直接交渉……個別のケースで共同親権の考え方をどう扱うか、いっしょに考えます。

<共同親権相談会> 

同日9:00~12:00【相談料】50分3000円【応談】宗像 充

*要予約3名まで。2日前までに予約してください

<共同親権カフェ> 

同日15:00~17:00【参加費】500円

(ただしセミナー参加者は無料)*5名まで 

子どもと離れて暮らす親、別れても共同での子育てがしたい方、互いに気持ちや事情を話して支え合い、 知恵を出し合う場です。会員でなくても参加できます!

主催 おおしか家族相談 協賛 共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会

(予約先)TEL0265-39-2116(共同親権運動) メールmunakatami@k-kokubai.jp

URL https://munakatami.com/category/family/

共同親権をめぐるイデオロギー対立

養育費と共同親権

 6月17日付で「養育費と面会交流のバランスをとるのは男女平等か?」というタイトルのエッセイを書いて、「共同親権メルマガ」で流したら、解除者が3人出た。「『やるだけのことやってて金だけよこせ!?』は、よく言ってわがまま、悪く言って詐欺だ」という部分が攻撃的に見えたという意見も受けたので、その辺で不愉快に感じた人が何人かいたのだろう。

とはいえ、ぼくがした批判についてはその当否を議論すればよいし、今のところ議論が深まる反論があったとは思わない。

 ちなみにぼく自身は、養育費については、元妻側が「いらない」と裁判で主張した経過がある。「金をもらっているのに会わせないのか」と言われたくないためだと理解している。実際、養育費の振込先を元妻側弁護士が教えず、送金するために無駄な現金書留の郵送手続きを何度もさせられ(郵便局に据え置きで何度も戻ってくる)、何カ月も書面のやり取りをして「この費用があれば子どもに使えたのに」と書いて送ると、ようやく弁護士が振込先を教えたということがあった。

 以前から、親権論議と養育費についてリンクさせることについては、「養育費は子どもの権利」と言って、会わせることとは別次元と主張する議論を聞いてきた。ところがいまや、「子どもの権利」をピンハネするビジネスが出てくるようになった。

相手は過払い金を取り戻す相手でも、制裁金を科す罪人でもなく、本来子育てを分担し合うパートナーだ。会わせることについては放置して、ピンハネを堂々と掲げてするビジネスは、搾取される側の憎悪を増して対立を深める。

子どもに「あなたのために給与を差し押さえ、お礼に前澤社長にその中から手数料を支払っている」と説明して、子どもはいつ会えるかもわからない父親(母親)に親しみや敬意を抱くだろうか。軽蔑して「そういう親の子どもだから」と自分を卑下するか、男性(女性)蔑視の感情を育てるのが関の山に思える。

ちなみに、養育費をピンハネして給与差し押さえをする弁護士が「面会交流は子どもの権利」と言いつつ、子どもには無関係の子どもの写真送付を提案するのをよく見てきた。「子どもの権利」ではなく、「私の利益」と言ってくれたほうが理不尽だけどすっきりする。

なお、法務省は24か国の親権に関する海外の法制度を調べてレポートしている。それを見ると、アメリカのニューヨーク州では、裁判決定で養育費を受け取っている同居親が不当に会わせなかった場合、その間、養育費の支払いを停止するか、支払い遅延による責任を免除できる。当地ではそれが「国民感情」のようだ。

国内の報道は同居シングルマザーの全国団体の主張に全面屈服し、養育費の問題で親権の問題を触れたものをまず見ない。ぼくの主張が攻撃的に映るならそれも理由だろう。

左右の対立

 養育費のピンハネを正当化するには、相手を子育てのパートナーではなく、自身を支配する敵として見ればよい。この点、男女間の関係を階級になぞらえて性で加害被害を分けるフェミニズムの理論は役に立つ。女性は被害者側だから、男性の側の事情は、支配階級の都合としてむしろ批判を向けられる。

こういった思考方法は、メディアも含めたリベラルな支配層の間では一定程度浸透している。受け入れなければ批判を受ける。こうやって敵意を向けられた男性たちやこの構図からこぼれ落ちた女性たちのフェミニズムへの懐疑は強い。

一方で、保守層では、フェミニズムの理論そのものを受け付けず、男性支配からの解放(離婚)を目指す女性支援を「家族の解体」として敵視する。共同親権をめぐる対立状況は、フェミニズム側の左派論壇と、それに対抗する右派論壇とのイデオロギー対立の主戦場となり、当事者はその草刈り場となっている。

 ぼくは一当事者で、右からも左からもあまりお呼びがかからないが、彼らの主義主張より自分や家族、娘のほうが大切だ。

 国立で自分と同じような立場の親たちと2008年に運動を始めたとき、「宗像がDV男たちを集めている」と陰口を言われた(「思ったらDV」なので間違ってはいない)し、周囲の市民運動の仲間は、「よその町に行くと『何とかしろ』(つまり黙らせろ)と言われるよ」と教えてくれた。ぼくが当事者と知っていて、別居親をヘイトする雑誌とは取引をやめた。

当時からDV法の欠陥は指摘されていたし欠陥はある。右派の活動家は「DV法は家族を壊す」と主張して当事者たちに宣伝し、その欠陥をフェミニズム批判に利用してきた。夫(妻)や父親としての役割を社会生活を送るよすがとしてきた親たちの中には、その役割ではなく、その役割を奪った側に敵意を向ける人もいる。

 最近も匿名の別居親から、「必要なことは日本の家族に合わせた共同養育を支援してもらう法律」とメールが来ている。この間、家制度をめぐる問題提起を共同親権運動のほうで何度かして、議論は深まったけど反発もある。

 戸籍制度を基盤とする婚姻制度を維持するために、戸籍から外れた親を弾圧する手段として単独親権制度がある。ぼくから見ると、右でも左でも、形としての家族のあり方を前提に議論を進めているという点で、たいして違いがあるようには思えない。だから、養育費の取り立ての議論も、形から外れた側を家族外の人間として人権を無視し、過払い金請求の相手と同一視できる。

 目指すことは、家族からの解放だろうか。それを押しとどめることだろうか。

思うに自分が両親から生まれた以上、誰もが親から愛されたいし、幻想かもしれないにしても家族というものへの憧憬がある。家族の形を保つことがもはや社会的に「正式なもの」として認めがたくなってきた中で、血縁にせよそうでない関係にせよ、家族的なつながりを求める欲求は、強くなりこそすれ弱くなることはない。修復や回復が目指されるなら、形ではなくつながりだ。子どもに会えないのがつらいのではなく、子ども(やパートナー)と心が通じないのがつらいのだ。

つながり合う言葉

共同親権は、そういった家族的つながりを求める人たちが、自身の欲求を社会に表明するための涼風であるはずだ。形にとらわれた家族観では、「うちの家族」以外の人間との関係を求めることは、イレギュラーなのでわがままと見られてきた。解体してもそれが別の家族の形を押し付けるだけなら意味はない。

 フェミニズムは社会的な男対女の対立構造を個人間の関係にスライドさせて、共同親権を男性支配の復活と見る。保守層は家の存続と性役割に基づいた家族の形の復権のために共同親権を利用する。でも、男女かかわらず、性役割の中で問題が生じて苦しんでいるのは双方だくらいは、両方の話を聞いていればわかる。

男女平等を女性たちが掲げることで社会は対立を生じつつ変わってきた。子育ての実質的な平等を権利とみなす共同親権は、それを男性が口にすることに道を開く。つながり合う言葉は「he for she」ではなく「男女平等」ではなかったか。

養育費と面会交流のバランスをとるのは男女平等か?

「共同親権制度など親権の在り方とはリンクさせないこと」

 6月11日の院内集会では、養育費問題について発言者から問題提起された。

現在、森まさこ法務大臣の私的勉強会からのレポートが出されていて、養育費の徴収強化の方法や公費による立て替え払いについて提案がなされている。

翌日の12日には、法務、厚生労働両省が離婚後の子どもの養育費の確保策に関して、両省審議官級によるタスクフォースの初会合が開かれている。養育費が支払われない場合、公的機関が立て替えたり、強制的に徴収したりする支援制度の導入を目指し、年内に論点整理をまとめるという。こういった動きは今年1月にシングルマザーサポート全国協議会(赤石千衣子)が提出した、「養育費の取り立て確保に関する要望」をベースにしており、この要望項目の4つ目には、「共同親権制度など親権の在り方とはリンクさせないこと」という項目があり、レポートでもそれは反映されている。

セックスしないと子どもはできない。「やるだけのことやってて金だけよこせ!?」は、よく言ってわがまま、悪く言って詐欺だ。そういう不道徳な主張を堂々として、国がそれを国策に反映させようとしている。院内集会当日、石井政之さん(ユニークフェイス)からは、共同親権への反対の理由には養育費問題がある、という指摘があった。

つまりこういうことだろう。

養育費を男から分捕るためには、引き離しておかなければならない。なぜなら、子どもを使った人質取引ができないだけでなく、両親の関与が十分にあれば、養育費の高額請求もしがたいからだ。そして、赤石さんたちのように、シングルマザーを名乗る団体や、女性支援の団体は、男性から金を分捕ることによって「自立支援」の名目にし、分捕れなければ国に肩代わりさせることが、組織の存在意義である。したがって、両親が協力し合うという選択肢をとろうとするのは困る。

「被害者」であればこういった主張も「わがまま」にならない。したがって、「思ったらDV」というDVの定義を際限なく広げて、今は「社会的DV」と言った、もはや「家庭内暴力」の定義からは意味不明の言葉まで生み出した。連れ去りは被害者保護のために擁護される。この際、女性の連れ去られ親の存在は目障りだから無視しよう。そもそも別居親は女性であっても「シングルマザー」ではない。「親に会わなくても子どもは死にはしない」(小野田紀美参議院議員)。本音が出た。

何と何をバランスをとる?

嘉田由紀子参議院議員からは、養育費と面会交流は車の両輪で、バランスの取れた施策をという呼びかけがなされた。法務省は今年の3月から、「離婚を考えている方へ~離婚をするときに考えておくべきこと~」という情緒的な呼びかけをホームページでしている。

内容は、明石市が取り組んだ離婚時の合意書斡旋のひな型を流用しているのが見てわかる。中立性を一見装っているが、ひな型の記入例を見ると、面会交流の内容については宿泊なしの場合は「〇カ月に〇回程度」、宿泊ありの場合は「夏休みに2泊3日」と示されている。今日聞いた相談では、「月に1回。宿泊は2泊3日程度」という提案を同居親から示され、養育費の額は算定表より高額だったという。

明石市には「養育費と面会交流は車の両輪」ではない、ということを進める会では要望書で書いて送っている。「月に一回養育費を払うから月に一回会わせればよい」というのが法務省や明石市が考える「車の両輪」である。これは会わせることを「迷惑」ととらえる発想であり、一言で言えば差別である。

実際、明石市が持った研究会では、早稲田の棚村政行氏や、FPICの山口恵美子氏とともに赤石千衣子さんも入っていたりする。別居親の代表は除外されもちろんバランスは欠いている。しかし「車の両輪」論は性役割に基づいたバランスという点では取れている。

しかし、実際問題バランスを是正するなら、性によらず両親間の養育分担のバランスをとるべきであり、それは経済的にも、実際の子どもの世話という面でも分担し合うということだろう。国もそれを進めており、婚姻外関係においてのみ適用除外とするのはおかしい。

「車の両輪」論から「トレードオフ」へ

「お金は分けられるけど子どもは分けられない。だから養育時間を分ける」

 これが共同親権の原則であり、子どもが両親から生まれている以上当たり前のことである。実際子育ての時間を分けられれば、経済分担も応分の割合になるのが普通だ。そうなると、養育時間と養育費の額はトレードオフの関係になり、諸外国ではこの施策によって養育費の徴収率は上がっている。

こうなると赤石さんたちのように、同居「シングルマザー」だけの利益を守る団体は用無しになるので、なりふり構わず抵抗している。「葛藤のある夫婦に共同親権は無理」なのではなく「葛藤してくれないと私たちが困る」のだ。

この「私たち」には、裁判所と結託して引き離して会わせる手数料ビジネスで定年後の小遣い稼ぎをするFPICのような団体や、彼らを擁護して地位を保つ棚村さんのような学者も入っている。

 石井さんは、「あなたたちは差別されているんですよ。差別されると搾取される」と別居親たちに注意喚起をした。トレードオフの施策は、海外では父親の権利団体が働きかけて実現したものだし、何も単独親権制度だからできないというわけでもない。明石市もこの施策について触れている。行政の側からしても、ひとり親を作り出して貧困対策に税金支出を続けることの非効率性には気づいているし、説明責任も負いにくい。

 この施策の導入に抵抗するためには、とことん別居親を加害者扱いして議論のテーブルから排除し、「共同親権制度など親権の在り方とはリンクさせないこと」が必要だ。つまり「口封じ」だ。メディアや院内などへのクレーム攻勢もこの点から説明できる。

よく考えられている。

であればぼくたちに求められているのは、顔を出して名を名乗り、叩かれても表に出る覚悟と、彼らを茶化すユーモアだろう。彼らの弱点は皮肉なことに男女平等だ。

(宗像 充2020.6.17)

どうする? 司法崩壊

先日来、コロナの影響による親子断絶についての報道が度々なされている。法務省のオンラインでの面会促進でのホームページの掲示について、専門家の棚村政行氏が肯定的な立場からコメントしている。
「今回の事態をきっかけに親子が直接会えない場合にどのような交流ができるか、社会全体で考えるべきだ」
 この方のコメントを見続けて長い。過去、共同親権を肯定する発言もしてきた。
とはいっても、彼の果たす役割は行政の行為を肯定することだ。今回も、日本より厳しい外出規制をしながら、面会交流を継続している国があることを知っていると触れていながら、「それより規制の緩い日本でそれができないのはおかしい」とは言わずに、社会の問題と意味不明の発言をしている。問題があるとしたら国の方針とそれを肯定する彼のような言説であり、このような発言を許しているという点では、それはたしかに社会全体で考えるべきだろう。

 彼は慈悲深くも、引き離した側の事情と心情、子どもの心情へは思いを馳せるが、引き離された側の心情にだけは触れようとしない。子どもは女性が見るべきだというメンタリティーと、子育てへの男性の関与を否定することで、こういった評論は成り立つ。差別である。こういった専門家のコメントの積み重ねの上に、現行の制度は維持されてきた。

子ども目線に立たない国と棚村氏

 コロナで別居親子の交流は頭を使うようになった。
現在長野県に住むぼくは、コロナの問題が出始めた当初から感染者数の多い千葉県に月に一度子どもの顔を見に行く。実際問題、ぼくの場合は確率としては千葉に行って感染する可能性のほうが高いということになる。リスクを冒して出かけるのは一人の問題だけれど、東京に行って戻ってきたら東京に行ってきたとは言いずらい雰囲気になると、ぼく一人の問題ではなくなる。しかしそれを理由に行かなくなれば子どもが傷つく。
 一方、感染者数の多い地域から感染者数の少ない県に出かけていく場合は、施設などでは、他県の人と接触した子どもの出席停止措置がなされる場合もあり、自分が会うことで子どもが学校に行けなくなるのではと悩む相談も受ける。別居親のほうが気を遣ってオンラインを提案すると、交際中はスカイプで話していたのに、やり方がわからないと言って断られることもある。棚村さんは、別居親から母子が感染させられる危険しか想像していないかのように見えるが、こういったさまざまに出てくる問題は、オンラインでの子育てを促進すべく社会で話し合うべきことなのだろうか。

 日本のように、月に一回程度しか子どもと会えない状況では、「接触させる」面会交流をどうすべきかということになる。しかし問題は、時間が限られていても、一方の側の子育ての時間を他方が制限することができるのかということだ。棚村さんは根拠も言わず制限できるという。しかしそもそも子どもを育てるのが親だとすると、危険性の判断も人によって違うのに、どうして他人にそんなことが言えるのだろう。言えそうにないなと気づいた国は、親子関係は外出規制の例外とした。なぜなら、子どもから見たら、双方の家に行くのは帰宅なので、外出ではないからだ。つまり棚村さんの視点は子ども目線ではない。

司法崩壊を早期に収拾させる特効薬

 学校が親との接触を規制するかどうかを決めるのではなく、子育てを行う親との関係を尊重しつつ、どう子どもの学習権を確保するのかを学校は考えることになる。なにしろ学校は親の委託を受けて子どもに教育を施す場所である。
県をまたいだ移動をせざるを得ない親子には、検査を受けられる体制を整える、県をまたいで別居親子が移動することがあることを啓発する、その際の移動手段の安全性を担保して援助するなどやれることはある。
 ぼくは障害者介助の仕事で月に一度東京に行くが、支援者が自らの安全だけを理由に、支援を打ち切ったり、面会交流のオンラインを提供しても、利用者は大切にされていると思うだろうか。障害者介助がオンラインで代替できないように、子育てもオンラインで代替できないし、そもそも子どもが障害者でオンラインはダメなんです、という相談もある。

 想像したように、外で仕事をする男性が、妻に言われて家に帰れない事態がコロナによって生じている。これは「家を守るのは女だから」という理屈で肯定されるべきことなのだろうか。であれば、男性の命は女性より不当に軽く扱われることも肯定しないとならない。たとえば解決策は、子どもは施設や親元にあずけて両方が働く、というものもあるはずなのだ。
 面会交流をオンラインに代替して肯定する発想の背景には、性役割の固定観念があり、日本の裁判所やそのOBの支援組織、周辺の学者の意識も、面会交流を子育てだとは言わないし、思わない。そして、そういった彼らの感覚と、専門家の無責任なコメントが、家庭状況に応じた目安も作らずに、常日頃から調停を意味もなく回数を重ねさせ、その挙句にコロナで調停の無期延期という司法崩壊を招く結果につながった。DVやハーグ案件は裁判を実施していると触れているのに、国内の面会交流は放置する。彼らの基準は公平性ではなく声の大きさだ。


 法務省が、双方の親との関係維持はコロナの自宅待機とは別になされるべきだと指針を出していれば、司法崩壊は未然に防げた。そしてこれは今も司法崩壊からの回復のための特効薬だ。オンラインの提唱は、それが保障されているなら代替的な措置として双方の合意を生むことも可能だが、会えるかどうか補償もないところで、オンラインを提唱すれば、むしろ代替措置をめぐっての当事者間の紛争の材料を増やすだけだ。

当事者から学ぶ意思がない専門家や役人たちに、こういった想像力は働かない。

「子育ては別れた後も」 実践セミナー

共同親権訴訟の発起人で『子どもに会いたい親のためのハンドブック』著者が送る、子どもに会いたい、別れても共同での子育てがしたい方たちのための「離婚と子育て」実践シリーズ。

【日時】2019年11月~2020年3月の第2土曜日、各回16:00~17:30
【場所】全労会館303会議室(予定) 東京都文京区湯島2-4-4
(JR御茶ノ水駅御茶ノ水橋口徒歩8分) http://www.zenrouren-kaikan.jp/kaigi.html#08
【講師・相談・司会】宗像 充(ライター。共同親権訴訟原告、 『子どもに会いたい親のためのハンドブック』著者)
【参加費】1500円(共同親権運動会員は1000円)*予約不要

【各回内容】

<第1回>2019年11月9日(土)「共同親権訴訟の使い方」
「婚姻」内外の親の権利の不平等を問う共同親権訴訟。親の権利が貶められるのはどうしてか。何が争点でいかに自分のケースで活かせるか。

<第2回>12月14日(土)「二つの家と子どもの帰宅権」
「子どもにとって離婚とは家が二つになること」。なのに一つの家にしか帰宅できない子どもたち。その訳は? 子どもを訪問したらいったいどうなる?

<第3回>2020年1月11日(土)「家庭裁判所に行かなきゃいけない?」
離婚調停を申し立てられた、子どもと引き離された……はじめて足を踏み入れる家庭裁判所。ほんとに頼りになる? 婚姻費用・養育費・面会交流・DV、同居審判、いったい法律は味方なの?

<第4回>2月8日(土)「法律村の常識、非常識」
月に1回2時間しか取り決めさせない家庭裁判所。人質取引で儲ける離婚ビジネス。立ちはだかる弁護士たち。連れ去り・引き離しの横行する中、共同親権運動はどう武器になる?

<第5回>3月14日(土)「別れた後の共同子育て」
そうはいっても単独親権制度の日本。制度や親権よりも相手の意向? 子どもとの関係は? 「協力」ってどういうこと? そして学校や周囲で私たちはどう振る舞う? 

<離婚と子育て相談会> 

同日14:00~16:00【相談料】50分3000円【応談】宗像 充
*2日前までに予約してください munakatami@k-kokubai.jp
0265-39-2116(共同親権運動)
 
<共同親権カフェ> 

同日18:00~20:00【参加費】500円(ただしセミナー参加者は無料)*予約不要 

子どもと離れて暮らす親、別れても共同での子育てがしたい方、互いに気持ちや事情を話して支え合い、 知恵を出し合う場です。会員でなくても参加できます!

主催 おおしか家族相談 協賛 共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会
TEL0265-39-2116 メールmunakatami@k-kokubai.jp URL https://munakatami.com/category/family/

5月の松川交流会*日時注意

【日時】 2019年5月24日(金)
18:00~20:00

*今月は開催週、時間を変更しています。

【場所】 長野県松川町社会福祉協議会相談室 長野県下伊那郡松川町元大島2965-1 http://matsukawa-shakyo.net/info.html

参加費無料 直接会場にお越し下さい

お子さんに急に会えなくなってどうしていいかわからない方 周りに自身のことを話す方がいない方
裁判所やパートナー、元パートナーとのやりとりにお悩みの方
子どもと離れて暮らす親が 互いに気持ちや事情を話して 支え合い、 知恵を出し合う場です
会員でなくても参加できます。 主催 kネット 連絡先 0265-39-2116(担当・宗像) munakata@kyodosinken.com

家庭裁判所の劣化

「相場」の固定化

 昨日は電話相談が1件。

妻による連れ去り別居後、子どもとは頻繁に会っていたのに、家庭裁判所での調停になった途端、月に1度を提示されたというもの。

 こういう場合、弁護士が裁判所での「相場」を知っていて、月1回が裁判所では一般的と相談に来た母親側に教えるので、母親側が急に「余計に」会わせてやっている、という感覚になりやすい。社会の引き離し政策が、当事者どうしの関係を混乱させるよい事例だ。

 こういった裁判所の前例踏襲の無責任な態度は、10年前から一貫している。当事者どうしが2週間に1回でよいと合意しているのに、月に1回が「子どもの福祉」と何の根拠もなく裁判所の相場を押しつけられたというひどい話も聞いた。最近では、「月に1度が裁判所の相場」と調停委員に言われたという話まで聞く。

 たしかに月に1度は裁判所の「相場」だ。

ぼくは裁判所が「子どもの福祉」を無視し、性差別をして恥じない一例として、皮肉を込めて「相場」という言葉をあえて用いた。裁判所の姿勢を批判するためだ。ところが、昨年1年、「問題があるのは別居親」と、制度の問題ではなく個人の問題としてヘイトし、社会問題としての引き離し問題を否定するバックラッシュの言説が流通してきた。

建前放棄

そこで、「批判おそるるにたらず」と裁判所は、もはや「子どもの福祉」という建前すらかなぐり捨て、「相場」と言い放っても問題にならないと高を括っている。先日は、「女性が子どもを持つのがよい」とすでに否定されて久しいはずの、母性優先の原則、つまり性差別の発言をさいたま家裁で言われた、という相談者の体験談も聞いた。思わず、「まだそんなこと言っているんですか」と聞き返した。

 「フレンドリーペアレント」も最高裁で否定されたから、と最近は裁判所でも耳を貸す気がないように感じる。これなども、個々の事例に合わせて決定を下す、というのが裁判所の役割であれば、最初から耳を貸さないなどありえない。そもそも2017年の東京高裁の判決でも「フレンドリーペアレント」が親権選択の判断基準として否定しているわけではない。

つまり裁判所が事例に応じた判断をしていない、という客観的証拠が、相談者の話を聞けば聞くほど積み重なってくる。

引き離しの手順

 そもそも月に1度2時間、監視付きという決定が出された後、順調に面会が増えていく、という事例を、別居親支援の中でまず聞いたことがない。間接交流から直接交流へと当事者間でつないでいった事例も聞いたことがない。つまり犬に餌をやるような面会交流は、引き離ししてないよ、という裁判所の言い訳でしかない。

強制執行の間接強制はそれなりに効果がある。だけど最近では中学生くらいになると、「会いたくない」という「子どもの意思」が尊重され、不履行ではなく、「履行不能」となって強制執行を裁判所が放棄する。中学生になっての引き離しが横行しているし、引き離し側の弁護士もそれをクライアントに教えて子どもに「会いたくない」と言わせるようにクライアントに暗に(あからさまにも)指導する。

実際に、ぼくの娘は中学校に上がる前から「中学校になったら(会うのは)無理だから」と度々ぼくに言っていたし、母親側の弁護士(石川英夫、石川さやか)は、それを「子どもの意思」として錦の御旗のように主張し、面会交流がうまくいかなくなると無責任に辞任した。信じられないことにこの弁護士は、子どもの弁護士でもないのに、自分で子どもに事情聴取して、面会交流に前向きな子どもの発言を否定させている。こういった手口も離婚弁護士の中では流通している。もちろん、子どもの「会いたい」という意志が尊重されることなど裁判所ではない。

山を動かせ

 もはや法改正か国賠提訴か、打開するには手がないかのように感じる。

 しかしもちろん、現場での状況の打開の積み重ねが、「山を動かす」ことに通じる。これを軽視したのが、この間の親の権利運動の敗因の一つだ。

 裁判所職員の人権侵害行為や性差別的な発言は、総務課や最高裁の人事課にきちんと実情を伝え、人を変えるよう求めたり状況の改善を促すのが重要だ。ひどい職員の事例は「家庭裁判所チェック」のほうで公開している(情報を寄せて下さい)。

 何よりも、無責任な裁判所の連中に自分の子どもの運命を委ねていいのだろうか。

 裁判所の決定は決定、自分の権利(子育て)は自分の権利、裁判所に認めてもらうようなものではもともとない。それを自覚した上で裁判所の門をくぐらないと、裁判所の善意に期待して裏切られて傷つくのは自分だ。