共同親権革命「パパもママも」は当たり前

2021年7月に「卓球の愛ちゃん」(福原愛さん)が離婚し、台湾人の夫と子どもの親権を共同で持ったことで、日本の法律にはない、婚姻外の「共同親権」がトレンドワードになった。

 子どもは両親から生まれるのだから、親が別れるとともに、一人だけが子どもを見ればすむという単独親権制度は不自然だ。にもかかわらず、共同親権についての書籍は、今年になるまで、共同親権について反対する立場から、(単独親権制度の問題点については目をつぶり)いかに共同親権には問題があるのかという趣旨で、法律家やフェミニスト、支援者がするというものしかなかった。

最近でも、弁護士や法律家の専門書で、長谷川京子「先進諸国は子どもと家族への安全危害から『離婚後共同』を見直し始めている」(『戸籍』995、2021.4)や上野千鶴子「ポスト平等主義のジェンダー法理論」(『自由と正義』2021.7、Vol72.No.7)が同じ主張の焼き直しを行っている。

彼らの原則引き離し実施論は、2015年に元裁判官の梶村太市が「面会交流の実体法上・手続き法上の諸問題」(判例時報2260)で、共同親権・共同監護は「欧米の価値観への盲目的追随」(『子ども中心の面会交流』)と批判することで始まり、彼と弁護士の長谷川がタッグを組み、同様の趣旨の本を、執筆者を変えて何回も出版しつつ現在も継続している。これら書籍の執筆陣には、上野のほかにも、臨床心理士として有名な信田さよ子なども並んできた。彼らの一部は、ハーグ条約加盟の際には、赤石千衣子(しんぐるまざぁず・ふぉーらむ)など女性活動家や弁護士連中と「ハーグ慎重の会」に名前を連ね、現在、法制審議会の委員の一画を占め、共同親権に反対している。

先の論文で上野は、父親の権利運動をいっしょくたにして「フェミニズムへのバックラッシュ」とする。同時に上野は、子どもの面倒を見ない「男には共同親権を要求する準備がまだない」(『離婚後の子どもをどう守るか』)とその反対を正当化する。その批判は、職業経験の乏しい女には職場で平等なポストを要求する準備がまだない、という批判と同列のものだ。

2015年に梶村が「東アジアの価値観」を掲げて、これらの運動を始めたのを見てもわかるように、彼らの運動は業界の体制維持運動と合流しながら、「家裁の役割は戸籍実務」「女が親権をとれる現状を変えたくない」という本質的に既得権益確保を目的に進められてきた。現在、法制審議会で進められている議論も、この目的を達成するために、いかに改革したかという外面を整えるかという点にエネルギーが注入されている。

人々はこの劣悪さに耐えられるか?

しかし、こういったキャンペーンに対し、世間はどこまで無自覚でいられるだろうか。

芸能人の離婚を記事にする週刊誌は、国内の離婚であっても、共同親権について言及する機会が増えた。どちらかに家庭生活を壊した原因を求め、親の別れが親子の別れとなってきた日本の離婚のあり方について、「海外のように共同親権の場合と違って」「日本は単独親権だから」とわざわざ言及しつつ、芸能人の事例を使った問題提起がなされてきている。世間は「共同親権」という別の選択肢が開く未来について知りたがっている。

7月10日から21日間、子どもと現在も引き離されたままの、フランス人のヴァンサン・フィッショさんは、千駄ヶ谷の駅頭でハンストを行なった。この行動は、来日したフランスのマクロン大統領の特使やEU加盟国の大使館が訪問し、日仏首相の共同声明でもこの問題が言及され、海外メディアを中心に報道された。

また問題点も露呈させた。一つには、妻側の弁護士の司法手続きを経るようにという主張に対してフィッショさんがハンストで本気を見せることで、司法が親子関係を制約するものという実情が伝わるきっかけになった。第二に、朝日新聞の論座のネット記事が削除され、妻側の弁護士(露木肇子弁護士)からの働きかけがあったのではないかという疑惑がネット記事に出ている(弁護士倫理について考える「なぜ国内メディアは実子誘拐されたヴィンセント氏のハンストを報道しないか」https://legal-ethics.info/2168/記事では「脅迫」と記載)。この件は、国内の一部地方誌でも報じられているが、全国紙は及び腰だ。

制度の不備からくる人権侵害の主張に、両論併記の欠如による記事の削除を肯定するなら、そもそもそれは制度や社会の問題ではなく、フィッショさん個人の問題である、ということになる。「子どもに会えないのはその人に原因があるから」という世間の偏見を肯定することを、報道における中立と呼ぶのはあまりにも主体性がない。

引き離し問題についての、報道統制や実名報道への遠慮は、男性側に問題があるという先入観をもとに、制度の問題を個人の問題にすり替えることで一貫している。上野や長谷川の批判も、こういった点を前提に男性「のみ」を批判する。彼らのキャンペーンに今回載ったのが、赤旗紙や東京新聞である(大手紙や週刊金曜日も一度は載っている)。

日本のジェンダーギャップ指数が156カ国中120位であることを批判する同じフェミニストが、男性の育児への関与の少なさを理由に、女性が男性を子どもから引き離す(これ自体虐待である)のを肯定する。結婚するとき妻が夫の姓にする割合が96%なのは女性差別、と批判する人が、離婚するときには司法が親権を女性にする割合が93%という現実に、「女性が子育てを担ってきたから」と答える。国民に自粛を強要する国や都の指導者が、オリンピックの開催を強行するのと、やってることは変わらない。

ぼくたちが訴訟で問題提起したのは、そういう日本社会の根強い偏見や差別構造にほかならない。その提起への無視は、結局は会社や職場で仕事と家庭の両立に悩む多くの人の生きづらさを、「個人的なことだから」と切り捨てることにつながる。

法制審議会で、親権を親責任や義務に置き換える議論をする以前に、親が周囲にびくびくしながら子育てを強いられている(子育ては自分の幸せではなく社会の義務)現状を変えることが必要だ。家宅捜索ですら裁判所の令状がいるのに、行政が実子誘拐を放置し、それを手助けする実情の中で、「親の権利ではなく子どもの権利」など、なんと空虚に響くことか。何より「個人的なことは政治的なこと」ではなかったか。

ぼくたちは司法の場でその矛盾を明らかにするとともに、「手づくり法制審」として新たな議論の場を設けた。多くの人と民権民法を手にする場にしていきたい。「国民的議論」とは誰もがそこら中で共同親権について話題にすることからはじまる。

「共同親権革命」と名付けることすらおこがましい。

子どもは両親から生まれる(共同親権)。そんな当たり前のことすら確認できずに、どんな改革も空々しい。(宗像充 2021.8.22)

子どもが「会いたくない」と言ったなら

「子どもが反発しているというのに、会わせろというのですか」

 長野地方裁判所飯田支部1号法廷で、7月19日にぼくが訴えた損害賠償裁判の口頭弁論が開かれた。昨年8月に子どもたちの暮らす千葉県習志野市の駅前で下の子に会って以来、月に1度4時間という、裁判所が決めた面会交流の取り決めが守られていない。そこで、今年の頭に元妻とその夫、2人の弁護士に債務不履行と一連の面会交流妨害の精神的損害をあがなってもらおうと飯田地裁に本人訴訟で提訴した。飯田の丘の上の一画を占める飯田の裁判所に傍聴できる法廷は2つしかない。この日は、裁判官と書記官、被告側弁護士、ぼくと友人2人の傍聴人で計6人がガランとした法廷に散らばっていた。

「そういう質問はよく受けるのですが責任はありますよ。娘もあの年ですから、父親に反発するのは当たり前です。うちの娘はよく育っていると思いますよ。ぼくは親の言うことを聞くように育てた覚えはありませんから」

 娘は今年高校一年生になった。一年前までは月に一度駅前交番前の待ち合わせ場所で会うと、ぼくに悪態をついていた。「一生会わない」とか「お前なんか父親じゃない」とかいろいろぼくが傷つくことを言ったりしていた。年相応とも言える。ちなみにうちの母親は「お父さんは充はおれの言うことは聞かん、と言っちょるわ」と父のぼやきを電話口で言っていた。

「現在並行して行われている間接強制と面会交流の審判の進行も教えてください」と裁判官。

「間接強制は即時抗告しました。面会交流の審判は来週が第1回目です」

 間接強制というのは、裁判所の決定の不履行に対して、制裁金を課して履行を促す手続きで、面会交流の調停は、昨年、元妻側が子どもを引き離した上で「手紙のやり取り」という形で実質会わせない調停を立て、ぼくが「話し合います」と言っているのを無視して、なぜか申し立てた側の意向で審判に移行した。間接強制の裁判は負けて、「子どもが拒否しているので履行不能」という決定が一審で出ていた。

「審判でも子どもの意向調査をするかもしれませんが、その結果を待って進行したらどうでしょうか」

「娘は反発しているわけですから、それはフェアじゃなくないですか」

「お子さんの真意を確かめなくていいですか」

「何回も娘は裁判所で聞き取りされていて、今さら真意なんて言わないでしょう。それに娘は反発していてそれについて原告と被告では意見が一致しています。ぼくは反発するに至るまで、被告側がその意思形成にかかわったということを損害として訴えているわけですから」

 この裁判に至るまで、4回ほど、面会交流の調停・審判をしていて、その度に娘は調査官に聞き取りをされている。「パパと会うのは楽しい」と言っても、その意向は無視されて10年経っても月に1度4時間の時間しか元妻側に指示しない。何を今さら。「会いたくない」という意向だけが尊重される。

「Nさん(元妻の夫)が面会交流の場に来たりすることでしょうか」

「今も子どもの自宅を安否確認で毎月訪問しますが、居留守使ってますよ。それに子どもが嫌がっているから今後ずっと会わせないと言ってよこしたんですよ。そんなことあるんですか。履行勧告のときに調査官と話しましたけど、裁判中だから対応できないそうです。つまりやろうと思えばできる。娘の意向とは別の判断が被告側にはあるわけでしょう」

 元妻の夫はぼくの友人だったが、毎回面会交流の場に現れて近くから監視していた。子どもに録音させて、そのテープ起こしを証拠として出してもいる。

 娘が待ち合わせ場所に現れなくても、毎月長野から千葉に通って自宅まで訪問し、ピンポンを鳴らし、上の子も合わせて2人分の手紙を投函して帰っている。今月は窓が空いてカーテンが揺れていたので、居留守は明らかだった。もちろん、娘が「会いたい」と思っても、母親たちの意向を考えればそんなことは不可能だった。そんなわけで今後ずっと会わせないと通告してきた、母親の審判の代理人2人も訴えた。母親側の代理人は、森公任と森元みのりという森法律事務所のボスとナンバー2だった。森のほうは東京家庭裁判所の調停委員をしている。

ぼくが子どもと引き離されたころは、離婚事件をする弁護士の数も限られていた。この10年でぼくたちが子どもを確保して引き離し、親権と金をとるという弁護士たちの手口を紹介してきたおかげで、イージーさが知れ渡ったため弁護士たちはネットで宣伝してこの分野に大量に進出した。おかげで森事務所はビルが建っている。よく子どもと引き離された親の相談を受けると、相手の弁護士として度々耳にするのがこの2人だ。

 結局、審判の進行の報告を被告側は報告するということで、審判とは関係なく進行することになった。

「求釈明へのお答えはないということでいいですか」

 元妻側は、上の子も含めて養育費を受け取っていながら子どもの進学先を秘匿している。下の子は学区の公立学校に通わせないということまでしていたので、あえて事前に聞いた。

「この手続きで開示することはありません」

 と担当の佐多茜弁護士が答えていた。

 この間、「共同親権」という言葉の認知度は以前より高まった。「卓球の愛ちゃん(福原愛)」が台湾人の夫と共同親権で離婚したので、トレンドワード入りしている。雑誌ベリーのモデルの牧野紗弥が夫とペーパー離婚して別姓にしようとし、その過程で共同親権を主張しているのも話題になっている。女性学の上野千鶴子に触発されて、別姓にしようとしたら、それでは親権がなくなって将来子どもと会えなくなるかもと夫が心配して、そこではじめて婚姻外で共同親権じゃないのはおかしいと気づいた。

 この件について知っていたアウトドア誌の編集長に「ほんと共同親権じゃないのおかしいですよね。宗像さん書きませんか」と言われたのはうれしいけど、アウトドアとどう関連付けていいのか、ぼくのほうが戸惑ったりするぐらいの知名度はあるようだ。

もともと家父長制から、男女平等憲法で婚姻中のみ共同親権になったのが、男の子育ての少なさを批判する側が今度は婚姻外は例外と言っているんだから。

やたら「ジェンダー平等」と書いた看板をあちこちに立ててる共産党が、赤旗紙で共同親権反対の論説を載せたので、リニアで知り合いの本村伸子議員(ジェンダー平等の担当者)に面談のお願いをしたら無視された。ぼくは共同親権訴訟の原告だ。「ぼくたちの訴訟が負けたら日本共産党は喜びますか」と聞いて、共産党の全国会議員向けに責任者との面談を求めるファックスを送ったら、「追ってジェンダー平等委員会から返事する」という回答が来た。その後面談拒否と連絡してきた。その間、「ジェンダー不平等政党日本共産党都議選候補を落選させよう」というコラムを、自分のブログで5回続けて書いたら読んだようだ。

別居親の運動が盛り上がると、毎度決まってしんぐるまざあずふぉーらむの赤石千衣子さんたちが、別居親はDV、危険とメディアや議員に働きかけ、今回は東京新聞と赤旗が乗った。東京新聞は「虐待で離婚 元夫が息子の”ストーカー”に」という小見出しを振って記事を作っていた。

今争っている損害賠償裁判では、元妻や夫がぼくに「つきまという」「ストーカー」と子どもの前で述べたことを名誉棄損で訴えている。他人がこういう言葉を子の親に使えば名誉棄損になりそうだ。子どもの前で罵倒され、恨みを買うだろうという想像だにせず、別居親、わけても男親なら新聞もヘイトをためらわない。それだけ母親が子どもを見るのが当たり前というジェンダーバイアスは強い。学校ならいやな先生がいても行くように言う。しかし相手が親だと「子どもの意思」が尊重される。そして子どもの意思で親に子どもを捨てさせる。

今さら役人裁判官がまともな判断をできるなんて期待できないのは知っている。「パパ遠くから来てくれてよかったね」と言ってくれる人が、娘の周りにはこの13年間誰も現れなかったのかもしれない。味方がいるよと子どもたちに伝える手段が、裁判や家に行ったりすることというにすぎない。

(2021.07.23、「越路」23号、 たらたらと読み切り163 )

ジェンダー不平等政党、日本共産党 都議選候補者を落選させよう!(5) DV被害へのジェンダー不平等と子どもの権利

DV施策こそがジェンダー不平等

 日本共産党の「『離婚後共同親権』の拙速導入ではなく、『親権』そのものを見直す民法改正を」と題する見解(以下「見解」)は、女性の4人に1人、男性の5人に1人がDVを受けるというデータを指摘し、「共同親権」を理由に元配偶者や子どもへの支配を継続しやすくなるというのが共同親権反対の主要な理由だ。

 何度も言うが、この数字はもっぱら家庭内のもので年々増加傾向にあり、共産党の理屈が正しいなら、婚姻中に共同親権であることが、DVや虐待の原因だからそもそも不適切ということになる。日本共産党はなぜ婚姻中の単独親権制度を主張しないのだ。そうしないと、現在のDVや虐待施策の失敗を責任転嫁するために、婚姻外の共同親権に反対しているということになってしまう。

 ところで、共産党の「見解」はジェンダー平等委員会の名義になっているので述べるけど、男女間のDV被害の割合は、大方2:3で推移している。しかし、公的なシェルターは女性に限定されていて、民間シェルターで男性が入れることを公表しているのはぼくが知る限りでは1つしかない。

この結果、法律上は保護命令は男女ともに発出できるはずなのに、実際には男性に対して出されたという事例はまず聞かない。同じく、男性はもっぱら仕事を持っていて、住所を隠すことは困難なので、住所秘匿の市町村の支援措置は、もっぱら女性のみに出される(虐待名目で男性に出される場合もまれにある)。こういった割合の不公正は、DVについての被害割合とまったく一致していない。もちろん、共産党が言及している加害者の更生プログラムは、その有効性に疑問はあるにしても、やはり男性に限定されている。つまり、「男性=加害者、女性=被害者」の構図で、支援や法運用がなされている。ちなみに自治体の支援措置は、家宅捜索ですら裁判所の許可がいるのに、行政判断のみでなされる。

法務省が実施した24か国調査においては、トルコ、日本、インドといった単独親権国が、ジェンダーギャップが大きい下位2~4位を占める(子育て改革のための共同親権プロジェクト『基本政策提言書』)。ジェンダー平等の観点から共同親権に反対するのは苦しいけど、その理由がDVにあるとするなら、そもそもこの部分のジェンダー平等の是正が語らないのはなぜだろう。最低でも、2:3の割合で男性の入れるシェルターを設けないと、男性被害者を最初から見捨てていることになる。因果関係のない理由で、このギャップを放置するのが日本共産党の主張ということになる。

極端な事例で原則を歪める

もちろん、裁判所での親権指定では、女性が親権を得る割合は93%であり、これは、少なくないDV加害女性が親権を得て、一定程度のDV被害男性が子どもと引き離されていることを意味する。虐待の加害者で割合が一番高いのは実母だ。こういった状況は、男女かかわらず暴力の被害を受けた親たちにとっては過酷だが、危険で残酷な影響を与える子どもの割合も高まる。「見解」は、「被害を受けたことがある家庭の3割は子どもへの被害もある」という実情を指摘して共同親権への反対を導き出しているが、むしろ問題は、被害を受けた子どもが置かれた環境のジェンダーギャップではないのか。

赤旗紙の6月15日と16日の「海外に見る離婚後の養育」というシリーズ記事では、アメリカ滞在経験のある森田ゆり氏が、暴力的な父親に監護権が与えられたケースの子どもの証言が紹介されている。もちろん、共同監護でもこういった事例は出ると思うけど、それは司法の不公正の問題で今の日本ではもっと起きている。それは単独親権制度のもと親子の引き離しをスタンダードにする理由にはならない。もちろん、共同監護で子どもが2つの家を行き交えば、間に挟まれて悩む子どももいるだろう(今もいる)。しかしそのことは、「子どもにとって離婚は家が二つになること」という現実を、制度で否定することの理由にもならない。

子どもの権利条約は、子どもに対する両親の責任を諸所で言及している。そして、その9条では、「締約国は、児童がその〈父母〉の意思に反してその父母から分離されないことを確保する」とある。共同親権(共同養育権)についての法改正を求めた国連子どもの権利委員会の2019年の勧告では、小川富之氏が言うように、「子どもの最善の利益に合致する場合には」という前置きが確かにある。しかし、〈父母〉との不分離は子どもの権利条約の原則ではないということを、まずその前に法学者の小川氏も共産党も宣言しないのはなぜだろう。子どもへの責任に男女の差があると言いたいのだろう。

こういった恣意的な事例の扱いは、面会交流中の父による子の殺人事件が国内で発生した場合にも話題にされ、共同親権への反対の論拠として使われた。この場合、加害者は男性に限られ、その男性がそれまで子どもと引き離されたということすら無視される。これは「単独親権殺人」なのか、「面会交流殺人」なのか、共同親権反対の論調で守ろうとするものは、被害者ではなく、実際にはジェンダーギャップである。日本共産党は読み間違えた。(宗像 充 2021.6.30)

ジェンダー不平等政党、日本共産党 都議選候補者を落選させよう!(4) 単独親権制度が養育費と面会交流の履行を困難にする

養育費や面会交流は親権と関係ない?

 「『離婚後共同親権』の拙速導入ではなく、『親権』そのものを見直す民法改正を」と題する日本共産党の見解(以下「見解」)によれば、共同親権の導入に、面会交流や養育費の支払いを促進するためとの声があるものの「これらはそもそも『親権』制度とは関係ありません」とある。本当だろうか。

 日本の養育費支払い率が2割程度で全然上がらないのはかねてから問題になってきた。面会交流についても同様だ。法務省が実施した24か国の親権制度についての調査においては、日本とトルコとインド以外は何らかの形で共同親権が法的に可能で、もちろん、先進国の中で唯一未婚時に単独親権「しかダメ」なのは、日本だけ。そして日本の養育費支払い率が諸外国に比べて極端に低い。であれば、親権制度と関係あると考えないほうが無理がある。共産党の主張は何か根拠があるのか。

会えないと払えない(払わない)

 日本で裁判所で親権指定されれば、93%の割合で男性が親権を失う。親権のない父親は、「親権がないのに『会いたがる』」と、社会からはさもとんでもない親だと見られやすく、実際会えないと「何かやったからだ」と言われる。

 赤旗紙で「海外に見る離婚後の養育」というシリーズ記事を書いた手島陽子記者と電話で話したが、ぼくが子どもに会えない状態だというと「宗像さんのお話を聞いていないから」「母親の子育てはたいへんですが、宗像さんは何をしたんですか」というのを何回か聞かれた。この運動を10年以上続けているので、「どうせ会えなくなるようなことしたんでしょう」「子育ての経験もないのに会いたがるなんて」という言外の意味をくみ取ることは可能だ。しかし「養育費を受け取れないのは何かしたからでしょう」「働いた経験ないのに何で仕事をしたがるの」と女性が言われたらどんな思いがするだろう。ジェンダー平等がどんな意味か少しは考えてもよさそうだ。

 彼女は、面会交流で育児経験のない父親もいるから支援を充実させないとと言っていた。支援はないよりあったほうがいいけど、仕事の経験のない女性が、職業訓練を受けないと仕事につけないわけでもない。権利としての子育てが確立していないのは、単独親権制度によって性役割をまたいだ行為をする者への偏見があるからだ。

赤旗紙の記事は、この偏見を利用して記事を構成している。いちいち反論をしてきたものの、何度もこういう記事が繰り返される。そろそろ「単独親権制度があるせいで男が養育費を支払いたがらない」という現実を日本共産党も受け入れたほうがいいのではないか。

 ちなみに「父子の交流と養育費」(https://link.springer.com/article/10.1353/dem.2007.0008)という研究では、「養育費の支払い」と「父子の交流頻度」の前後関係を調べて、「交流が養育費に与える影響の方が、養育費が交流に与える影響より強い」とある。交流が原因で支払いが結果ということだけれど、親子関係を切られるので、お金を払わなくなる、ということだ。

 田島さんには、ぼくは本を出しているので読んでみたらどうですか、と一応言った。

別居親(男)を差別して搾取する

 日本共産党の主張は、別居親には権利は与えたくない、しかし金は出せということに尽きる。奴隷のように差別を肯定しなければ、通常こういう主張は通らない。通用するためには、婚姻外のみの性役割を肯定して、「それが本来の姿」と強調することだ。

戦前の女性には選挙権がなかった。投票できないけど女性としての役割は果たせ、という不満は共産党の課題ではなかったのだろう。権利はやらないけど義務は果たせは、別居親を二級市民として差別し搾取しているにほかならない。そして司法をくぐれば93%の割合で女性が親権を得る。

母子家庭も「欠損家族」として差別されてきた。その不満は核家族の会社社会を支えるために、児童扶養手当の拡充で抑え込まれてきた。男性の側は「引き離せば金もとれなくなるだろう」という程度の感覚でここでも口封じが図られている。シングルマザーの子どもは別居親の子どもでもある。男性を搾取しても、単独親権制度が生む貧困は解決しない。別居親を貧困問題の当事者としてとらえられなかったからだ。 (つづく。宗像 充 2021.6.30)

ジェンダー不平等政党、日本共産党 都議選候補者を落選させよう!(3) 親には権利がある、だから制約するには手続きがいる

用語を変えれば子どもの権利が擁護されるのか?

 日本共産党の「『離婚後共同親権』の拙速導入ではなく、『親権』そのものを見直す民法改正を」と題する見解(以下「見解」)では、「親権」という用語を親の子に対する責任を強調する用語に置き換えることを主張している。ところで、用語が変わらなければ、「単独か共同か」を論じることはできないのだろうか。実際には、用語を変えた海外から日本の単独親権制度についての懸念や家族法の不備が指摘されている。

 用語の変更は子どもの権利擁護の立場からだそうだ。ただ、単独親権である限り、裁判所に行けば93%の割合で女性が親権を得る(全体でも85%)。この場合の子どもの権利は、母親の単独育児と父親の育児放棄の正当化を意味している。

共産党的に言えば、子どもの権利擁護は、両親ではなく「母親に育てられるのが子どもの権利」になる。この性差を語らずに、あたかもジェンダー中立であるかのように、養育費や面会交流について語るのは男女平等か。

ジェンダー不平等な単独親権で暴力が増えている

 ところで、先の「見解」では、「『親は子を思い通りにする権利がある』などの認識が広く残るもとで『離婚後共同親権』が導入されれば、DV加害者は、『共同親権』を理由に離婚後も元配偶者や子への支配権を継続しやすくなり、子どもの権利への重大な侵害を引き起こす危険性があります」とある。

 そもそも単独親権が性役割を婚姻内外かかわらず肯定する元凶だから、ジェンダーギャップから暴力が起きやすくなる、という一般論を置いておいても、こういうよくある主張には無理がある。

 一つには、単独親権の現行法でも、単独親権者が子どもから親を排除できるという法的な根拠はない。実際こういった制約は、保護に関する別の法規定で現在も建前上は制約するしかない。つまり単独親権で暴力は防げない。現に家庭内暴力が起きるのは、もっぱら婚姻中の共同親権時だし、共産党が暴力が蔓延しているとして引いてきた数字も、DV、つまり家庭内暴力のものだ。

そして、DVも虐待も、単独親権制度のもとで年々過去最高を更新し続けている。つまり、単独親権制度に家庭内暴力の抑止効果はなく、あるのは男女間のジェンダーギャップを固定化再生産する効果に過ぎない。現状の 数字をもとに DVを抑止しようと思ったら、親権制度以外の政策をてこ入れするのが筋で、親権についてはむしろジェンダーギャップを固定化する単独親権制度の改革を議論するのが本来だ。

制度の不備が親たちを争わせる

 もともと日本の親の権利は、行政権力によってやすやすと制約される点で、海外に比べて著しく脆弱だというのは、研究者の間の一致した見解でもある。DVにしろ児童虐待にしろ、親は聞き取りもされないまま、保護措置のもと子どもと引き離されて、そのまま一生会えなくなる場合も少なくない。

 子どもをなした両親には自分の価値観を子どもに伝える権利がある。海外では憲法や民法で親の権利の固有性についての規定がある。だからそれを制約するのには適正な法手続きが必要で、海外であれば裁判所が関与する。しかし日本は家庭内の社会的弱者の救済に国が関与してこなかっただけの話しだ。親権喪失や親権停止の数が少ないのは、国が「民事不介入」で家庭内への社会的弱者の保護を手控えてきたにすぎない。これから関与していくことが必要なら、逆に今はない公正な手続きが必要になる。

 よく、子どもを連れて母親が逃げるのを「連れ去りと言わないでほしい」と反発する人がいる。しかし、同じ人に、夫が妻を殴るのを「DVと言わないでほしい」と言ったら怒るだろう。ジェンダー平等の観点から、ともに時代遅れにしていくべきことだ。

問題は、「子どもを連れて逃げるしか方法がない」ことで、手続きもなく子どもと引き離された父親(母親)も、子連れで別居するしかなかった母親(父親)も、ともに制度の被害者にほかならない。親の権利を無視した手続きの不備が、両者を争わせている。そして単独親権制度はこういった手続きの不備や自力救済を肯定してきた。誰が意図して争わせているのかに気づかない政党はジェンダー平等を語れない。 (つづく。宗像 充 2021.6.29)

ジェンダー不平等政党、日本共産党 都議選候補者を落選させよう!(2) 「ほんとのこと伝えないよね」赤旗 別居親(男性)ヘイトキャンペーン

共同監護制度を見直したオーストラリアが日本に家族法を見直すよう促す

 赤旗紙は6月15日と16日に、「海外に見る離婚後の養育」というシリーズのインタビュー記事を掲載した。大阪経済法科大学教授の小川富之氏と、CAPプログラムを日本に広めた森田ゆり氏が登場する。欧米では共同監護の法制度が見直しをされており、それが「世界の趨勢」という趣旨だ。

こういった主張は、欧米から年々日本の親権制度への批判が高まっているという事実を説明できない。そして森田氏が述べているように、「オーストラリアでは、共同監護制度を根本から見直す改正法が2011年に成立」というような発言は、明らかに法改正の趣旨を捻じ曲げて伝える誤報だ。

何しろ、オーストラリア政府は、オーストラリア人の父親が子どもの居場所を尋ねるために、マンションの共用スペースに入って住居侵入で逮捕された前年の事件を受けて、2020年1月に、日本の単独親権制度について懸念の表明しながら、家族法システムを変えるよう促している(https://www.abc.net.au/radio/programs/worldtoday/australian-govt-urges-japan-to-change-family-law-system/11909924)。ちなみに在メルボルンの日本領事館は、「豪州の家族法は、子どもが父母双方と『同じだけの時間』または『実質的に有意義な時間』を過ごす権利を擁護して」いることをホームページのQ&Aで説明している(https://www.melbourne.au.emb-japan.go.jp/itpr_ja/familylist.html)。

こういった言説は、15日の記事でインタビューされた小川氏が親権選択におけるフレンドリーペアレント基準(相手に友好的な親に多い養育時間を付与する)のオーストラリアでの扱いの変化について言及する中で伝えられてきた。それが、アメリカでの現状を説明するはずの森田氏によれば、先の「オーストラリアでは、共同監護制度を根本から見直す改正法が2011年に成立」という表現に変化する。

誇張が誇張を呼んで出どころもわからないままデマに変わる一例だ。それを赤旗紙は何の検証もなく事実として垂れ流している。

「日本は共同監護制度」のウソ

日本の共同監護制度の立法事実がない証拠として、森田氏は民法766条で協議離婚での共同監護が定められているという。しかし民法766条には「共同監護」という言葉はない。赤旗の企画は、法律家の小川氏が批判されない程度のすれすれの法解釈をし、そこから法律家として批判されない森田氏があり得ない解釈を導き出すという構成だ。

司法による共同親権の判断が可能になった海外でも、裁判所による親権や養育時間の不公正さに対して父親たちが声を上げて共同親権を実現していき、それに対して女性への家庭内暴力に配慮するようにとの運動もあり、それぞれの運動が時に応じて法改正に影響を与えてきた。ただ欧米でもかつて単独親権が婚姻外に強制されていた。それが共同親権に転換していって、再び単独親権制度に戻した国はどこにもない。

森田氏のインタビュー記事では「別居親から暴力 子どもが被害者に」という小見出しがある。彼女の想定は加害者が男性に限られる。しかし、子どもへの暴力の加害者の割合で一番高いのは実母だ。そして、現在の日本の単独親権制度においても、親権者が親権のない親を会わせない権限がある、などという法的根拠はない。こういった言説は、「男が子どもに会いたがるのはおかしい」「子育ては女の仕事」という古い偏見を掻き立てることで成り立っている。

読者は「会わせるかどうかは女が決める」「会えないのは男に原因がある」という結論に連れていかれ、システムの問題ではないと受け止める。見え透いた誘導だ。

なにしろ、日本では婚姻外の単独親権は強制されているので、争いたくなければどちらかの親が譲るしかない。それが親権者として適正かどうかとは関係ない。協議離婚で協力できる親がいたところで、司法が女性を93%の割合で親権者にすることを「ジェンダー平等」とも呼べない。海外では通常離婚に裁判所が関与するが、共同親権・共同監護(アメリカであれば共同の法的監護、身上監護)の法制度が広まってきたのは、司法における単独親権制度の強制がまさに問題とされてきたからだ。

あまり赤旗で見ないけど、日本共産党は、海外に性役割に基づく「日本版ジェンダー平等」=単独親権制度をアピールしているのだろう。

海外からの批判は、男性は加害者なので排除せよというものではなく、日本の親権法が、国際水準から見て著しく未整備で不公正なことが原因だ。都議選で日本共産党が伸びれば、さらに日本は国際社会から孤立化するだろう。 (つづく。宗像 充 2021.6.28)

ジェンダー不平等政党、日本共産党 都議選候補者を落選させよう!

日本共産党はジェンダー不平等な単独親権の強制に賛成

 日本共産党は、6月8日、「『離婚後共同親権』の拙速導入ではなく、『親権』そのものを見直す民法改正を」と題する見解(以下「見解」)をジェンダー平等委員会名義で公表し、党機関紙の新聞赤旗に掲載した。

 ぼくは現在東京地方裁判所に継続中の、単独親権制度の違憲性を問う共同親権訴訟の原告だ。ぼくたちが訴訟を提起してから、「共同親権」という言葉が一般にも知られるようになった。また昨年には、EU議会が、「実子誘拐」を放置する日本の家族法制度について非難する請願を採択していて、メディアも共同親権について報道する際、「先進国の中では唯一の単独親権制度」という言葉で、婚姻外の単独親権制度が日本のみに残存した古い制度であるということを紹介するようにもなっている。

そして、離婚する際、親権は85%が女性が得て、裁判所で争ったところで、93%(2019年度司法統計)の割合で女性が親権者になることも報道されるようになった。これがジェンダー平等の足を引っ張る結果になっていることを、ぼくは度々指摘してきた。

 一方で、日本共産党の立て看板とかを見ると、最近盛んにジェンダー平等をアピールしている。ぼくは党員ではないものの、一応赤旗は送られてくるし、共産党の国会議員に知り合いもいる。訴訟のプレスリリースは赤旗紙にも送っているので、いつ共産党が共同親権の問題に取り組んでくれるのかと思っていたけど、実際には逆だった。

同姓の強制には反対しながら単独親権の強制には賛成

これは、ジェンダー平等の観点から婚姻時の同姓の強制を批判する共産党の姿勢とは、まったく矛盾している。

実際、法律婚では別姓にできないので、事実婚を選ぼうとするモデルが、「事実婚(未婚)では共同親権をもてない」ということに気づいて、婚姻外の単独親権制度に疑問を寄せていることが最近話題になっている。

結婚するとき、96%の割合で女性が男性の姓に合わせるのをジェンダー平等の観点から批判しておきながら、男性が親権を望んでも93%の割合で司法では女性を親権者に指定するのは放置する。この現実を「母親が養育している実態を裁判所が追認しただけ」というのは、「虫がよすぎる」のを通り越して、「看板に偽りあり」「有権者を騙している」と言われても仕方ない。

ぼくは男だけど、夫婦関係でもめて親権を争っても結局「女が子育てするもの」と社会(司法)が言うなら、「だったら最初から女が子育てすればいいじゃん」と思う。共産党はどうして、婚姻中も単独親権制度で女性が子育てしたほうがいい、そのほうが子どもが混乱しないと言わないのだ。

家父長制を受け継いだ単独親権制度

戦前においては、単独親権は家父長のものだった。それが戦後、日本国憲法に明治民法を合わせる形で修正され、婚姻中にはじめて登場したのが共同親権だ。だからもともと「共同親権」は、両性の平等と個人の尊重にかなった規定で、戦後も支持されてきた。ただ当時の男女平等は、婚姻外で女性が親権をとれるようになったことで、婚姻中女性が戸籍の筆頭者になれるようになったのと同じ考え方だった。

当然ながら、婚姻中の同姓の強制も、婚姻外の単独親権制度の強制も、明治時代から受け継いだ法律婚優先主義、戸籍制度を守るための裏表の関係にあり、戦前の遺物だ。共産党は「見解」の中で、「ジェンダー平等社会をめざし、戦前の名残を一掃する民法改正に踏み出すことが必要」と述べている。だったらどうして、夫婦同姓の強制とともに、74年間変えてこなかった単独親権制度の強制について「一掃する」ことが「時期尚早」なのだ。

正直、こういう「見解」の表明は、単独親権制度の違憲性を争うぼくたちの訴訟への妨害行為だ。ただそれを置いておいても、こういう二枚舌な見解を表明して有権者を混乱させる政党が、いくら女性候補者を立てて議席を伸ばしたところで、ジェンダー平等は進むどころか後退する。

ジェンダー平等を進めたい東京都の有権者は、日本共産党には投票しないようにしよう。(つづく。宗像 充 2021.6.27)

南アルプス破壊事業 リニア中央新幹線の実像

「うましうるわしリニア」

 ぼくは2016年から長野県大鹿村で暮らすあまり注目されない職業ライターだ。

 編集部には、リニア新幹線について、「予算がまた増やされたことと、6月の静岡県知事選挙、それと大深度法の三題噺」で書いてくれというリクエストをいただいた。このうち、予算が増やされたというのは、4月27日に、建設主体のJR東海が、これまでの建設見込み額に比べ約1兆5000億円増の7兆400億円になる見通しを発表したことを指す。

JR東海の発表によれば、今期の売上高予想は前期比49.8%増の1兆2340億円、営業損益予想は2150億円の黒字とされるものの、前期は1847億円の赤字を計上している。前期の純損益は2015億円の赤字で、通期での赤字は1987年の国鉄民営化以来初めてになる。

 リニア新幹線は、品川(東京)―名古屋間の2027年開業を目指して2015年に国土交通省による建設認可、着工で工事が始まった。この間の予算は5.5兆円。大阪までは、当初2045年の開業を目指し、品川(東京)―大阪間の予算は9兆円とされていた。これを8年前倒し、2037年開業予定が決まったのが2016年。国からの3兆円の財政投融資を受けてのものだ。コロナの影響で人々は移動しなくなったので、経営は悪化した。

そして、2020年10月には、東京外郭環状道路の建設現場で落盤が起きている。リニアは品川―名古屋間の86%がトンネルという、いわゆる「地下鉄」だ。286㎞の地上部分には膨大な数の地権者がいる。この地権者交渉の手間を省くために国が作ってやったのが大深度法だ。40m以深の地下では地上部への影響がないため、公共事業では地権者の同意なく工事ができるという法律だ。ところが、先行した東京外環道の工事で落盤が起きたため、この法律の前提が崩れた。大深度法での工事を進めようとしていたJR東海も、岐路に立たされている。

もともとJR東海は大阪延伸の前倒しのために、3兆円の公的資金の投入を受けている。しかし、その3兆円は、品川―名古屋間の工事の遅れと膨らむ予算規模の埋め合わせで目的外に使われている。バクチに手を出す大企業に、国が実質経営支援の便宜供与をしている。

大阪延伸の8年前倒しが決まった一年後の2017年末に、リニア工事を請け負う大手ゼネコンの談合疑惑が発覚し、今年3月には有罪判決が出た。しかし国とマスコミは、大井川の利水をめぐる静岡県とJR東海の対立に世論の注目を集めさせることによって、この事業がオリンピック同様、大企業とゼネコンの救済策であることから目を逸らせようと必死だ。コロナで窮地に陥った彼らにとってリニアは、チャリンチャリンと金を落としてくれるまさに打ち出の小づちで手放せない。「うましうるわし」、もうやめられない。

「そうだ リニア倒そう」

 現在、国とJR東海は、静岡県との対立を演出することに必死だ。昨年6月には金子慎JR東海社長が、川勝平太静岡県知事と会談し、7月中に着工できないと、2027年の開業に間に合わないと説明した。その後JR東海は2027年開業を断念している。

これに対して、愛知県知事が静岡県の姿勢を批判し、また、長野県知事の阿部守一は、5月13日に金子社長と会談し、2027年の開業を改めて求めている。だったら愛知県と長野県から、静岡県に毎秒2トンの水を提供しようとまず言わないとおかしい。

 ところで、実際問題2027年開業など昨年6月時点でできたのだろうか。

金子社長は、昨年の会談で、「順調にいって月進100m(1か月に100m掘削する)」で、静岡県側最奥の「西俣から掘り始めると65か月、5年5か月かか」り、2027年の開業にぎりぎり間に合うという説明だった。飯田リニアを考える会の春日昌夫さんは、長野県側の工事の進捗で計算しなおした。  

延長1150mの「小渋川斜坑」(本線トンネルに伸びるトンネル)は2017年7月3日に掘削を開始し、2019年4月5日に斜坑の掘削が完了。2019年8月23日から本線トンネルの先進坑(本線トンネルに並行して掘削するパイロットトンネル)の掘削を開始して、昨年段階で480m掘削していた。斜坑・先進坑合わせて1630mを946日で掘っているので、1日当たり1.72m。30倍して月進51.7mの実績になる。

南アルプス稜線に向かう「除山斜坑」は昨年時点で、本線トンネルとの交点まで残り575m、延長を1850mとする資料もあるので、残りを 555mとして、本線トンネルの交点から静岡工区との境までは約5090m。あと合計5645mを掘削する予定だ。この部分が長野工区ではいちばん距離が長く、これを月進51.7mで割ると約109か月、9年1か月。 つまり、現在のペースなら掘削終了は2029年9月になる。「除山斜坑」の月進実績の40.2mで計算すると、11年8か月。完成は2032年4月になる。掘削後に走行試験などで2年かかるJR東海は言うので、開業は早くても2031年9月~2034年4月以降になる。

つまるところ、金子社長は、沿線知事や国に最初からできもしない2027年開業を口にして、静岡県を悪玉にしただけでなく、国から「大阪延伸の前倒し」の金を引っ張ってきた。詐欺だ。そして一昨年の台風19号と昨年の豪雨でリニア工事現場の工事は半年以上中断した。

なお、自然保護運動史に残る大反対運動が展開された「南アルプススーパー林道」建設では、工期は当初の5年が13年の2.6倍に、工費は2.5倍の48億9千万になっている。これをリニアに換算すると名古屋までの工期12年は31.2年年となり、開業は2046年。工費は13兆7500万円に膨らむ計算だ。

もしあなたが大阪までリニアに乗りたいと思ったら、1兆や3兆などといったはした金ではなく、10兆円をドンとつぎ込み、特措法で地権者の私権を大幅に制限する法律が必要だ。そして、事業者としてのJR東海は素人なので、事業者を変更するか国の直轄事業にするしかない。

1兆5千億円の追加予算を公表した際同席した澤田尚夫執行役員は、元長野県のリニア担当部長だ。その後リニア全体の総括部長に出世し、静岡県との交渉を担い、社内で出世の階段を昇ってきた。大鹿村の説明会でひな壇に並び、強引に工事着工の露払いをしたつけを彼らに払わせるには、6月の静岡県知事選に向け、これらの実態をあらためて暴露していくことが必須だ。

リニアはできない。しかしそれ以前に「そうだ リニア倒そう」

(「府中萬歩記」87号、2021.5.31)*写真はリニアで枯れた南山牧場の池

話してみよう! 結婚と親権制度

 単独親権制度の押し付けは、平等原則と親の養育権(個人の幸福追求権)に反して違憲という共同親権訴訟の中での私たちの訴えに対し、国側が単独親権制度に合理性がある理由として「婚姻制度の意義」という言葉で反論してきた。「親権制度の意義」ではない。婚姻中は、法律で夫婦は協力するものと定めているから、共同親権に意味はあって、離婚したら協力できないから単独親権制度でいいよね、という単純な言い方だ。だとすると、婚姻外でも法律で「両親は協力するもの」と書けば、二人は協力できるのか、というこれまた単純な反論が思い浮かぶ。共同親権訴訟の不平等は、法律婚とそれ以外の親どうしの関係を比較して不平等と主張している。

子どものことで協力できない夫婦がみんな離婚するわけではないし、事実婚を選ぶカップルもいる。結婚には愛だけでなく利害もある。愛のない結婚もあるけど、国が守りたいのは愛ではなく利害だというのがわかる。つまり、婚姻内外の法的地位の区別を差別にすることに「合理性」を感じているだろう、と国側に求釈明をして、6月17日の弁論では国側の回答がなされる予定だ。

 単独親権制度が守るのは、法律婚優先主義だというのが裁判の経過の中でますます明らかになっている。別居親が発信するSNSとかを見ていると、「離婚後共同親権」の立法を優先すべきで、「未婚時の共同親権」について主張すれば、保守派が反発するからよしたほうがよいという意見がある。こういう主張は、共同親権訴訟への訴訟妨害というだけでなく、自分は法律婚をしたので、未婚で生まれた子どものことなんか知らない、というあからさまな差別にほかならない。ぼくの娘は婚外子として生まれたけど、こういう主張をする人の子どもよりうちの娘のほうがランクが下だと言いたいようだ。別居親たちは、何かにつけて「子どもの視点で」「子どもの権利条約に書いてある」と言いたがる。子どもの権利条約は親の法的地位の異同によって、子どもは不利益を被ってはならないという発想だ。つまり考えているのは子どものこと「ではなく」自分のことだというのがよくわかる。

 ぼくたちが共同親権訴訟を起こしたおかげか、婚姻外では単独親権しかないということが知られるようになった。結婚が入籍と呼ばれ、男の姓に合わせることは性差別だと気づいた女性は、事実婚(未婚)を選ぶか、法律婚に別姓を「認める」ように法改正をしないとおかしいと考えるようになる。法律婚に別姓を「認める」ように法改正をしないとおかしいと考える人の中には、結婚という特権的地位と自分の主義主張を両立させることを目指している人がいる。この点においては、同性婚についても同じ構図だ。彼らは婚姻外では「共同親権をもてない」のが不利益だと主張したがる。実際、「共同親権をもてない」から結婚した芸能人カップルがニュースになったりする。

 一方、結婚自体が平等に反すると感じた人は、事実婚によって男女平等を実現しようとする。上野千鶴子に家庭内の分業が男女不平等だと言われて気づいた女優が、夫に事実婚を提案したという。夫は親権がなくなれば将来的に子どもに関与できなくなるかもしれないという不安とたたかうはめになる(その程度の知識はネットで出回っている)。上野千鶴子は、事実婚によって男性から親権をはく奪することが、そもそも男女平等に反するとは教えない。性役割の押し付けに抵抗して事実婚を選んだとしても、男性への養育権の保障をどう確保するかについて主張しなければ、男女平等とは呼べない。事実婚を選ぶカップルは、共同親権の立法を働きかけなけるとすっきりする。

 「事実婚をするようなカップルは男女平等についてよく話し合っているから大丈夫」という主張もまったく根拠がない。事実、事実婚をしていながら、別れる段になって親権を主張され、子どもと引き離されたという相談は時折ある。男の側からすれば「騙したのか」と思う。結局「子育ては女の仕事」ということになる。アメリカの男性の権利運動のイデオローグのウォレン・ファーレルは、「男女雇用機会均等委員会はあるのに、なぜ男女家庭機会均等委員会はないのだ」と疑問を投げかけた(『ファーザー・アンド・チャイルド・リユニオン』)。共同監護法が勃興した1980年代初頭のアメリカを取材した、当時朝日新聞の特派員の下村満子は、「フェミニズムは獲得する平等はやるけど譲り渡す平等はやらない」という男たちの不満を拾い上げている(『男たちの意識革命』)。40年前の不満とは思えない。

6月17日当日は、こういった観点から意見交換をしてみたい。非婚の場合の共同親権について論じた民法学者の二宮周平氏に講師を頼み、こと細かく調整してチラシを宣伝したら、本人が演者なのに出席を取りやめた。別居親の集会であれば軽んじていい、という彼の発想に、民法改正の「オピニオンリーダー」の、男女平等思想の薄っぺらさが透けて見える。(「そうだったのか!共同親権」巻頭コラム2021.5.26)

いのちき、してます

 毎日何だか忙しい。

 5月になれば田植えに向けて何かと準備が必要になる。5回目の田んぼだけど、今年からは一人でやるので、ひと任せにしていたところは、近所の人にやり方をいちいち聞いた。その間に、お隣のKさんといっしょに、畑の日陰の原因の、境界のケヤキと杉の木を切り倒し、その周辺の藪を切り開き、下のお隣にやってきたYさんの妻子の歓迎会の段取りをしと、やることが次々に出てくる。

 やる量はさして変わらないのに人数は半分になったので、手分けするということができない。光熱費などの基本料金もさして変わらないのに、負担は高まったので生活を見直した。電話契約のナンバーディスプレイをやめて、電気のアンペアを30から20に落として基本料金を下げた。

 工事にやってきたのは、いつも検針にくる村内のSさんで、野生動物に詳しく、村のカワウソやオオカミ情報をたまに持ってきてくれる。工事が終わると「スマートメーターに替えておきました」とさらっと言う。「それは困ります。うちは電磁波とか気にするから」とかいうと、Sさんもちょっと弱って、「私の判断では何ともできないから、中部電力に電話してもらえば発信機だけ外すことはできますし」という。早速電話する。

オペレーターのお兄さんは「国の方針でスマートメーターにするようにしているんですが」という。

「うちは電磁波とか気にしているんです。スマートメーターは困ります」

「いま携帯で電話してますよね。それよりも弱い電磁波なんですが」
 痛いところをつく。

「携帯の電波も気になるので、今耳から話して話すようにしているんですよ」

 とか苦し紛れに適当なことを言う。

「そうなんですか。じゃあ後日工事に入ります。電波を発信せず、アナログがデジタルのメーターに代わるだけです。今まで通り検針に来ることになります」

 最初からそうすればいいのに、黙ってやるのでひと手間かかる。プロパンガスのメーターでも同じことをした。というわけで、今まで通りSさんからいろいろ聞き出せる、じゃなくて無駄な電磁波は抑えられる。

 その生活見直しを友人に話せば、「もともと必要なことだからね」という。元に戻っただけだと気づく。

 四月中までに約束したニホンカワウソの単行本原稿をせっせと書いて、「もうカワウソはいい」と思うくらい、頭の中カワウソだった。当然あまり出歩くこともなく、いままで畑はたいしてやってなかったのが、原稿書きの間に種をまいたり、ジャガイモを植えたりした。東京にいたらジョギングで身体を動かしていただろうけど、畑は自分が食べるものにつながるので、運動量は少なくてもなんだか生きてる実感が湧く。一人でできそうなことは何だろうと考えたほうが、ここでの生活は楽しめる。ゴールデンウィークには良山泊に人が来てにぎやかにもなっていた。

 いろいろ一人でありそうな生活設計を想定すると、「いのちきしよる」という大分の言葉が度々頭に浮かんだ。「生計を立てる」というほどの意味だ。

大分の郷土作家の松下竜一の著書に『いのちき してます』というエッセイ集がある。彼が地元中津市での豊前火力反対運動の中で出していた会報誌「草の根通信」のエッセイをまとめたもので、市民運動と呼ばれるものが、どんな人々の「いのちき」の中で成り立っているかがよく見える。

「由来、この町の貧しき大人たちは、次の如き挨拶を日常に交わしたものである。

――いのちき できよるかあんたなあ

――いにちきさえ できよら いいわあんた

〈いのちきをする〉とは、かつがつに生活をしているといった意味の、多分この地方に特有のいいかたで、貧しくともまっとうに生きる者たちの、最もつきつめた形での挨拶語であったといえようか」(松下竜一『いのちきしてます』)

 「いのちき」は古語の「命生く」が語源という説があるという。「命生く」は生き長らえる、生きのびるといった程度の意味だ。

 この本を東京で読んだぼくには、聞き覚えのない言葉だった。ところが大分の実家に帰ったときに、不器用なくせに調子よく、不愛想なぼくの何倍も人にはかわいがられる兄を評して「あれでいのちきしよるんやから」と表現し、母が幾分あきらめ口調で認めているのを耳にした。父も「あれがあんし(人)のいのちきじゃ」と他人を評して気軽にしゃべっているのだった。

 思うに、子どもには多用するような言葉ではなかったのだろう。その上、祖父母に育てられた父は、大分方言の古いものはたいがい知っていて使いこなし、ぼくにはわからない言葉を母と言い交していた。会話に入れないぼくは気にとめないということはよくあった。東京ではちっとも実感のわかない浮いた言葉だった。それが、故郷を離れ遠い大鹿でこの言葉を口にすると、生きるという意味をほのかに意識させられる。

 哲学者の内山節は、上野村の人々との触れ合いの中で、村の人が「稼ぎ」と「仕事」を使い分けていることに気づいた。「稼ぎ」は日銭稼ぎであり現金収入であって、もっといい「稼ぎ」があればただちにやめられる。月給取りのサラリーマンもこっちに入る。「仕事」は村で暮らしていくにおいて、村や家庭を維持するために当然になすべきことだ。内山は、本来的には労働の一部を占めるに過ぎない「稼ぎ」が、現代では唯一のものとしてみなされる傾向を相対化した。

 上蔵村の人々のふるまいを見ていると、どうも「仕事」をしない人は「へぼい」と半人前扱いされる傾向があるようだ。仕事をするというのは村の中で役割を果たし、環境や村社会を維持するということだから、それが奪われれば、今度は人格が傷つけられたような気持ちになる。稼ぎでは満たされない問題だ。

「いのちき」は稼ぎよりも仕事よりも個人に焦点が当てられている。母は「みんな爪に火を点す暮らしをしよるんよ」とよく言っていた。この言葉は、「けち」という否定的な要素が強い言葉だけど、土地持ちの家で育って農村に父と家を構え、周囲にはいない教師をしていた母にしてみれば、周りの人々への生活への己の想像力の乏しさを戒める言葉のように、ぼくには聞こえた。「いのちき」はそんな人々が口にする言葉である。己と相手への気づかいが込められている。

 大学生のときに出会った言葉は「バム」だった。

好きなことのために生きることで、仕事はそのために必要があればする。登山の世界には「クライミング バム」という言葉あって、ヨセミテ辺りでマリファナを吸いながらビッグウォールを登る人種がいた。国内では高層ビルの窓ふきとかをしていて「窓ふきん」と呼ばれ、金を溜めて海外の山に行く。

大学というところは、特権階級や特殊技能集団のための通行手形を得る場所だと考えることはできる。そんな中で東京の大学山岳部の集まりに来る連中は、5年生は普通で8年生までしながら山に登っている人も珍しくなかった。世間一般から見れば危険なことをして、ステータスを行使することもなく、親に心配をかけ、ときどき死んだりも確かにする。山で死ぬのは馬鹿だというのは簡単だけど、じゃあやめようというのは野暮に思える。生きているということがたまたま死につながっただけだから、その人の生きる価値を奪うことなんてできそうもないよね、という人たちが登っていただけだ。

山に登るために時間のある公務員になる人も一定数いて、そうやって考えると、せいぜい固い仕事がいいというふうにも思えもしないのだった。いっそのこと仲間と「きりぎりす」という同人誌を作った。それは「働かない」という意味のアンチなのだけど、仲間は次々にアリ化していって、ぼくはそこで書いていた文章が登山雑誌の編集者の目に留まって、今の仕事につながっている。今の自分なら「きりぎりすだっていのちきしよるんやから」と正当化することはできる。

ここまで書いてきてずいぶん使い勝手のいい言葉だと思えてきた。

いま自分がやっていることなんて、世間一般の常識の範囲にあえてあてはめれば、仕事はライターで、趣味は社会運動で、ときどきする家族支援とかはお互い様の助け合いとかになるのだろうか。なんでもやれる「百姓」という言葉に誇りを持つ人がいる一方で、農機具だけで何十万とかかる農業は趣味や道楽の範囲にしか市場経済の中では価値がない。近所にパチンコ屋ができればみんなやるのだろうか。それでも飯田のスーパーで野菜を買うよりましだし、草ぼうぼうにしておくよりはと畑を耕しはじめた。なんとなく、いのちきしている気分になる。

今年はじめてフリークライミングはオリンピック競技になった。昔サッカーのワールドカップの日韓共催があったころに大学山岳部だったぼくは、「クライミングもサッカーみたいに人気出ないかなあ」とうらやましくてぼやいていた。「もしそうなったらお前やらないだろ」という仲間の言葉に言い返せなかった。多分それでは「いのちきしよる」とは天邪鬼のお前は思えないだろうと、彼は知っていたに違いない。

(「越路」22号、 たらたらと読み切り162 、2021.5.13)