北条坂

 大鹿村は四方が山なので、村の外に出るには峠を経るしかなかった。

 現在村に来るのに一番早い小渋線は、できたのは戦争中のようで昔からの道とは言えない。天竜川筋から大鹿村に至るもう一本の県道の岩洞は、1936年(昭和11年)に開通している。それ以前の村への往還は、秋葉街道を経て南北に往来するのでなければ、北条坂から峠に出る道があった。

 アウトドア誌の仕事で大鹿村がなぜ南北朝時代に南朝の拠点になりえたのかを調べる機会があった(最新号Fielder読んでね)。文献調査だけしてもおもしろくないので、歩いて峠を越えてみようと思った。それで北条坂と越路を歩いてみた。

 越路のほうは古い地形図には登山道の破線が載っている。鳥倉林道の終点ゲートから斜上していくと峠について、あとはコンパス頼りに塩川に下りて踏破できた。

北条坂のほうはあまり情報がなくて、道が出ている地図も探し出せなかった。ネットを検索すると、廃道マニアの人が、県外から来て探索している記録を見つけた。そこに岩洞ができる前の1934年(昭和9年)の地形図が出ていて、下部の登山道が載っている。途中までの踏査記録もある。

 北条坂はかつての桶谷の集落から登っていくそうで、その集落跡は今砕石会社の敷地になっている。対岸にも家があって、そこには北条という名前の家が4軒ほどあったそうだ。隣の家のKさんに桶谷の対岸の集落の場所を教えてもらって偵察に行った。

 集落跡には現在、小渋ダムの排砂トンネルの工事の事務所がある。昨年の豪雨で300万立米という、大鹿村から出るリニアの残土と同じ量の土砂がこの排砂トンネルを通過した。トンネルはボロボロになり、復旧作業が続いている。工事事務所の奥の森に入ると、秋葉権現の碑があって、斜面にお墓があるのがわかった。工事事務所には人がいた。聞いてみても集落の跡のことは知らない。お墓のある斜面から上を見ると、なんとなく九十九折れの道が見え、ところどころ石垣を組んでいるようだ。

 この集落は、ここ最近中世の歴史が注目される中で存在を知られるようになっているようだ。少年ジャンプで「逃げ上手の若君」という、北条時行を主人公にした漫画が連載されている。今年の大河ドラマは鎌倉幕府黎明期の北条一族が主人公だ。便乗的に出版が続く中で、「中先代の乱」という、歴史の教科書で1行で触れられるだけの史実も新書になっている。

この中先代の乱を起こしたのが、鎌倉幕府14代執権で最後の得宗、北条高時の息子時行だ。鎌倉幕府瓦解の2年後に乱を起こして鎌倉を奪還し、建武の新政崩壊のきっかけをつくった。20代後半で鎌倉龍ノ口で処刑されるまでに反足利のリーダーとして、3度鎌倉を奪還している。その存在感は、先代の北条の世、当代の足利の世の間で「中先代」と唄われるほどのものだった、らしい。

 そういうわけで新書の作者やテレビ局が、この桶谷にあるはずの、北条時行の墓を探しに村を訪問している。下調べで教育委員会に行くと、村の石像文化財をまとめた本にある写真を見せられた。文化財担当の北村さんの話だと、江戸時代に建てられた墓碑だそうだ。逆賊なので、ほかに墓がある場所もなさそうだ。でも教育委員会では場所がわからなくなっていた。

 桶谷の集落跡から消えかかった九十九折れの道をたどってしばらく行くと、尾根筋に小屋のような建物が建っているのが見えた。

 行ってみるとどうも神社の跡らしい。脇に石塚が3つあって、庚申塔の字も見える。真ん中の四角い境界石のような柱型の石が不自然で、後ろに落ちていたピラミッド型の石を抱え上げて柱石の上に載せると、教育委員会で見せられた時行の墓と同じ形になった。周りの落ち葉を掘り起こすと台座も現れ、持参した墓碑の写真とますます一致する。ちょっと先まで九十九折れの道をたどって、これならトレースできそうだと引き返す。これは大発見、とちょっと心が弾む。

 それでも、偵察した後、道がたどれるのか心配なので、飯田や松川の図書館に行って地図を探したけど見つからなかった。『生田(現在の松川町東部)村誌』には、大鹿との往還道の記録がいくつかあって、峠には問屋があったらしい。生田村は大鹿村との中継ぎ業で大鹿村と結びつきが強かったことがわかる。

 高森町の松島信幸先生は知ってるかなあと尋ねていくと、「小学校4年生のときに行った。普通に行けた」と頼もしい答えがあったけど、戦前の話で参考にはならなさそうだ。

村の山仲間の中村周子さんに声をかけて、車1台を終着点の峠にデポした。鹿柵のドアから旧道を見ると、早速崩落していて「心配だなあ」と中村さんがつぶやく中、桶谷の集落跡から歩き始めた。

 時行の墓を過ぎ、九十九折れの北条坂を進むと、石塔が集まる北条峠に着く。ここから先は半間ほどの道幅が続くかと思えば、沢筋は道が切れ落ちていてきわどい部分もある。山慣れない人にはロープがいるだろう。派生する尾根のところはテラス状になっているので、そこで休憩しつつ先をたどる。足下に小渋ダムのバックウォーターが見える。広葉樹の緑が美しい。谷の対岸を見ると岩洞のヘアピンカーブが見える。道を進み標高を上げると、その道がだんだん近づいてくるのがうれしい。

 最後は沢に出て、林道が峠まで続いていた。朝見たときのドアではなく、岩洞を登って峠を過ぎて左手に伸びる林道の鹿柵ドアのところに出た。9時に出て昼すぎに到着。終わってみればにんまりしてしまう楽しい峠道だった。

 後日、村内に住むSさんの家を訪ねた。桶谷の北条家から嫁いでやってきたYさんに、写真を見てもらった。隣の建物は山の神の祠だと教えてくれたけど、墓碑は「知らないなあ」という。「こういうのはあるよ」と家の奥から系図(写し)を持ってきてくれて、それを開くとおなじみの北条執権の名前が並んでいる。高時の後は時行ではなく、ネットで検索したくらいでは見つからない北条一族の名前が続いている。教育委員会は調べに来ませんでしたかというと、「今日はじめて日の目を見た」という。ほかにも調べる宛を教えてくれた。「村の人だから持って行っていいよ」と初対面のぼくに言うので「いやあそれは恐れ多いので、また連絡して見せてもらいに来ます」と言い残す。ひとまずの探索を終了した。

 「逃げ上手の若君」からは逃げられない。

(越路28号たらたらと読み切り168、2022.6.20)

子どもが親に会わない権利?

「父親のあなたはこの子には必要ない」

 昨日、元妻とその夫が子どもを2回目に引き離した行為について、損害賠償を請求した裁判の証人尋問があった。元妻を直接尋問した。子どもが会いたくないと言っているからそれを尊重している、と元妻は繰り返す。だとしてもあなたはどうなのか、と聞いても、同じ言葉が返ってくる。このまま子どもが一生会わなくてもそれでいいというのか、と問うても同じ答えだった。ぼくはたしかに係争の片方だけど、彼女との間にできた子どもの親でもあるので、彼女が「父親のあなたはこの子には必要ない」と事実上言っているのと同じだった。

 前から子どもに会えないので、と法改正を訴えると、聞かれた方から「子どもが親に会わない権利は」と聞かれることがときどきある。最近では共同親権に反対する人たちがこういった権利を主張して、賛成する弁護士もそれを保障しようとするのを見かける。でも、この用語の使用はいくつかの点でおかしな点がある。

それは差別

 例えば、ことさらに「親」に会わない権利だけが問題とされる点だ。家族であっても、妹に会わない権利やおじいちゃんに会わない権利、というのは聞いたことがない。友人に会わない権利、というのもあまり聞かない。加害者に会わない被害者の権利、とかはもっともらしく聞こえるけど、これはむしろ安全を確保され安心して暮らせる権利、というものの言い替えだろう。なぜなら、たとえ被害者であっても、収監されていない限り、加害者の行動を被害者の行動に応じてすべて規制することは物理的に不可能だし、加害行為を行なった側にも人権はあるので、それが正義とも必ずしも言い難いからだ。

 この場合の「親」はことさらに危険で、仲間ではないものを指していることは明白だ。この親を別居親に置き換えると文脈が理解できる。これを同居中の親にすると、別居親に対する同居親だろうが、両親が子どもと同居する場合だろうが、不自然さが際立つ。「お前なんか親じゃねえ。顔もみたくない」と思春期の子どもが言うことはある。手を焼いて親戚の家にあずける親はいるかもしれないけど、「あなたの権利を尊重して私が家を出ていく」とか「親に会わない権利があるから下宿先を確保してあげよう」とか言う親はいない。「偉そうなこと言うぐらいなら出ていけ」という親はいても、「権利はあるから家から出ていけ」と言えば単なる養育放棄だ。

 つまりこの場合の親は黒人や被差別部落出身者と同様の差別の対象としての別居親しか念頭にない。「黒人に会わない権利をどう保障するの」とか「部落民に会わない権利をどう保障するの」という問いが、あり得ないのと同様だ。

 証人尋問を傍聴した友人の別居親が「別居親って本当に差別されてるんですね」と、彼女のぼくへの態度をそう評価していた。その人も子どもに勉強させたことが子どもの意思を尊重していないと婚姻中に言われて、いまは子どもの意思で会えていない。元パートナーはなくなっているので、この場合、子どもの意思を尊重すると自分の子どもがみなしごになる権利を親が保障しないといけなくなる。子どもも大人になれば、親と会う会わないなど自分の意思でどうにかできることかもしれない。しかし未成年の子どもだけに、子どもの意思を尊重して自分の親を捨てさせることを、子どもの権利の保障などと呼ぶだろうか。

子どもの権利条約

 実際、子どもの権利の国際的な目安ともいえる子どもの権利条約は、父母の共同責任とともに、養育における親の第一義的責任を明示していることはあっても、「子どもが親と会わない権利」などという言葉は見当たらない。未熟な人格としての子どもを前提に子どもの権利が規定されるとするなら、大人と同然の責任を子どもに押し付けることが本来の趣旨とは言えないだろう。その上、成人であっても、「親に会わない権利」だけがことさらに問題とされることはない。つまりこの権利(があるとするなら)は、自分の意思を子どもに押し付けられる立場にいる人間が、子どもに親を捨てさせる場合にだけ用いられる。

 もちろん、子どもにとって親は、危害を加えることのできる一番身近な大人であるのも事実だろう。その場合に子どもの権利条約は、虐待放任やあらゆる形態の搾取からの保護という形で、その権利保障を明示している。であればことさらに「子どもが親に会わない権利」など掲げなくても、そういった権利保障をすることを明確にすればよいだけのことだ。

例えば、「学校に行かない権利」は、もっともらしく聞こえることがあるにしても、学習権がある以上、通学させない親が子どもの権利を保障したと手放しでほめられたりはしない。しかし親には教育権があるし、子どもをいじめや仲間外れや体罰から守るために、どのような教育を授けるかについての判断をすることは可能だ。その中で転校や不登校の容認、フリースクールへの通学などの手段も選択肢になる。しかしそれは「学校に行かない権利」をどう保障するかという文脈で語られたりはしない。

 誰もが親から生まれて、たとえそれが今の悩みの原因だとしても、親から愛されたいと願っている。学ぶことも、親の庇護を受けることも、ともに人間として成長するにおいて必要なことだ。「子どもが親に会わない権利は」と聞かれたら、そんな過酷な社会環境しか子どもに提供できていない、私たち大人の不明を反省するのが先ではないでしょうか、と答えることはできる。(2022.6.1)

大衆運動としての共同親権運動

個人を応援するといじめられる

 先日、「実子誘拐・共同親権に関する公正報道を求める共同声明」の賛同運動を呼びかけたら、個別メールで、ぼくのことを応援してるけど、表立って応援するととある別居親団体から攻撃を受けるので、表立っては賛同できない。すいませんなんていう切ないメールが来た。その団体がしつこくSNSでぼくへの個人攻撃や名誉棄損を繰り返していたのは知っている(記録もとっている)。デモの呼びかけに応じなかったことはあったけど、そもそも個人的な付き合いもない。

いろいろ市民運動にかかわってきたけど、運動レベルで足の引っ張り合いに遭う機会が一番多いのが別居親の運動だ。同じ経験をしたんだからまとまれるはず、という願いがよっぽど強いんだろうなと、一応は別居親として思いやってはみる。だけど、釈迦や孔子でもないので、誹謗中傷を受けたり、集会を開くと出席を取りやめるような呼びかけをされたりすると、嫌がらせを受けてまで足並みをそろえようという気にはならない。こういう人権侵害行為の放置は運動全体としてはマイナスだろうなと、先のようなメールを受けると思いはする。

運動もいい意味で趣味や生きがいの一環なので、協力するかどうかにいちいち説明を求められるいわれも本来ない。「楽しいとか楽しくないとか言ってる場合じゃない」とか言ってた人は、だいたい途中で消えている。

ぼくの祖父は天皇の命令で戦争に行って殺されている。単独親権制度の違憲性を求めて国と喧嘩もしている。日の丸・君が代の強制反対の運動にもかかわってきたので、行けば日の丸があるようなデモや集まりにはよほどの理由がなければ行く気にはならない。「サヨクだ」というレッテル貼りを否定するわけではないけど、そういう質問には「あなたはウヨクですか」と聞くようにしている。

短冊に願い事を書くだけでは叶わない

議員や役人にお願いすれば願いが叶うかのように思っている人も多い。だいたい長く市民運動をしていれば、議員や役人は国家機関の構成員なので、言ったところですぐに聞いてくれるわけでもないことは経験として身に着く。国の委員会の委員も同様だ。不公正を是正させる視点がないと、偉い人達の温情にすがって得られることなど一部の人の利益に限られている。

特定の議員とのつながりがあるのはいいけど、運動が特定の議員や政党の応援団になれば、理念に基づいての大衆的な支持や広がりはあきらめるほかはない。お上の言うことに従うだけならいちいち運動しなくていい。そうはいっても、それがぼくたちこの国の人々の一般的な感覚と反応なので、ぼくのような主張が目立って見えるだろう。

不公正を是正させるには知恵と勇気とエネルギーはいるし、経験はないよりあったほうがいい。みんながまとまれるところ、から漏れた人が不満を述べて「足並みを乱すな」というのは市民運動ではなく全体主義だ。

集団示威行為はDV?

とりわけ珍しいのが、まとまっての抗議やデモなどが、「DVの証拠」とレッテル貼りされるところだ。こんなの労働組合や市民運動の手法として定着してきたことだ。離婚弁護士の事務所に抗議すると、過激と言われたりして新聞記事になる。だったら労働組合の社前闘争もいちいち新聞記事にすればいい(そうはいっても、やってる団体はぼくに対しての名誉棄損も繰り返していたので別に味方として言っているわけではない)。市井の人々は日常生活を送る上で、抗議も含めてさまざまな政治をしている。議会政治はその中のほんの一部に過ぎない。議員に政治を委ねるのであれば市民運動は必要ない。

大方抗議されるほうが女性の代理人だからという理由のようだ。しかし女性だからといって即被害者なわけではもちろんない。またリブの運動だって、優生保護法の運動のときには、厚生省のロビーを占拠したりピンクヘルメットかぶってたりしていた人もいた。今さら女性の自分たちが攻撃されていること自体が不当だとかいうのは、自意識過剰な上に白々しくその上不勉強だ。というか、公害企業が被害患者の抗議に開き直ったら、「無反省」と言われたりもするだろう。

表現の自由はある。デモは本来届出制でデモ申は警察の顔を立ててしているだけだ。情宣(街頭宣伝)に許可はいらない。地域によって警察の対応は違っても、とれば警察の介入が強まることもありよしたほうがいい。権力は大衆を恐れる。怖がられない程度の運動にさほどの効果は期待できない。

というか、主催者に「あれをするな」「これをしちゃだめ」とかいちいち規制されるデモに自由さは感じない。オキュパイと呼ばれる官庁などの占拠運動は、しばらく前にアメリカなどで流行った。社会的な抗議をすると、「DVの証拠」とすり替えられるのは効果があるということだ。人種差別や民族差別でも、差別したほうは、反省しなければ「怖い」「だからこういう人たちは」と偏見を煽っただろう。

要するに、正当な抗議が最初から理解されると考えること自体がナイーブすぎる。へこたれない程度にやめないことだ。

あかがね街道を行く 

 文芸春秋3月号に「リニアはなぜ必要か?」という鼎談記事が載っている。リニア建設のトップでJR東海名誉会長の葛西敬之と、元国土交通省でリニアの技術評価委員会の森地茂、それに静岡県の肝いりで作られた、南アルプスを未来につなぐ会理事の松井孝典。

3人はリニアの必要性とともに懸念の払しょくに努めている。「自然環境への影響は大丈夫か」というテーマでは、司会が大井川の水資源問題について言及し、同時に生態系への影響や残土処理の問題も例示している。

 葛西は、東海道新幹線や他の新幹線や高速道路の建設でも「慎重に工事を進めることで問題を乗り越えてきたのが公共事業の歴史」と楽観的だ。

一方、研究者として参加する松井は、「環境問題に直面して、それを技術で克服しなかった文明は、例外なく衰退、滅亡しています」と工事を肯定しながら、「環境問題が、文明の発展にとって障害であれば、それを技術で乗り越えてきた」という。自然破壊によって滅びた文明は多くある。しかしリニアの場合、技術革新で環境問題は必ず克服できるという。根拠は不明。調べてみると松井は惑星研究の科学者だという。

ぼくの住む家の700m先にJR東海が掘っているリニアの坑口がある。その脇に有害土が置かれている。上にシートをかぶせていてもときどきめくれている。フッ素やヒ素が工事で出た。その行き場もないまま置きっぱなしだ。先日の信濃毎日新聞のアンケートでは、長野県南部の16市町村中、高森町と南木曽町は受け入れを「条件や話し合い次第では考える」。飯田市は答えない。残りの13町村が受け入れ・活用を「考えていない」。

どうすればいいのかとときどき聞かれる。

「JRの敷地の管理のしやすい目立つところに置くのがいい――」がぼくの答えだ。埋めたりすると後々わからなくなってのちの世代に迷惑をかけるので、「――ツインタワーあたりがめだっていい」。

高校生のころも山岳部だったので、祖母傾の山に登るときは、麓の尾平や上畑が登山口だった。両方ともに鉱山があり、戦後まで操業していた。鉱物の豊富な山域だったようで、宮崎県側には有名な土呂久鉱山もあり、公害とも無縁ではなかった。父は今は廃校になっている上畑小学校が初任地だったので、よく連れていってもらった。すでに両方とも廃坑になってはいたものの、鉱山には職員がいて、いまだに出てくる鉱毒の中和作業を続けていた。

それを知ったときは驚いたものだ。いったいこの残務作業はいつまで続くのだろうかと。地元の人が雇われて、上畑の浄水場は大分県が管理し、三菱が操業していた尾平は、その子会社が中和作業を続けている。

九州では絶滅していたとされたツキノワグマの取材で後に何回か通うようになる。地元の人に聞くと、退職金を払うのが嫌なので、三菱は定期的に子会社を潰して作り直すのだそうだ。

そのときクマ探し仲間として仲良くなった元林野庁の職員の方は、尾平鉱山の閉山に伴うその後の国有林の管理も仕事だった。今も周囲はズリで殺伐とした風景なのだけど、煙害で枯れた山を緑に戻すのも仕事だったようだ。「当時は私企業が金儲けで荒らした山を税金で元に戻すのか」と、地元の人と飲んだりしたら議論になったという。そういう通達が出されている。

その方は林野庁が国有林内に除草剤としてまいた、ダイオキシン入りの枯葉剤(2・4・5―Tなど)の散布作業にも携わっていた。ぼくはこの薬剤を林野庁が全国50か所ほどの国有林内に埋設した件を、実際に現地に行って確かめている。

埋設個所はロープや有刺鉄線で囲われている。林野庁は年に1度ほどの目視の点検をしているだけで、囲みの中のどこに埋めたかわからない場所もある。目の届かないところに毒を埋めると、半世紀もすれば無責任になる。だから「ツインタワーがいい」。

86%がトンネルのリニア工事は、鉱山を掘るようなものだ。そうはいっても、うまくやっている鉱山もあるかもしれないので、「公害の原点」と言われる足尾銅山を、アウトドア誌のフィールダーの取材で見にいってみた。田中正造の研究者の赤上剛さん(『田中正造とその周辺』の著者)に案内していただいて、谷中村から足尾まで1泊2日で見て回った。

今はラムサール条約の登録湿地でもある渡良瀬遊水地が、足尾銅山の毒溜めだということは知っている人は知っているだろう。ここで浚渫された毒は、赤上さんによれば、高速道路の盛り土などに使われたという。どうりで環境省が8000ベクレル以下の放射性廃棄物を高速道路とかで使おうとしているわけだ。

渡良瀬川沿いの平野はかつての鉱毒被害の激震地で、足尾に続く道は銅(あかがね)街道と呼ばれる。途中、詩人の星野富弘記念館のある風光明媚な草木ダムも、下流の太田市の人が戦後鉱毒被害を訴えてできた毒溜めなのだという。足尾銅山を経営する古川鉱業は1972年になるまで加害責任を認めなかった。

足尾に近づくと、五郎沢堆積場を渡良瀬川の対岸に望める。1958年にこの堆積場が決壊したため、太田市に被害が出た。この堆積場は2011年にも決壊した。このときは、草木ダムがあったので、被害が下流に及ばなかった。

足尾には尾平と同じような浄水場があり、水は下流に流されても毒は町の上部の谷を埋めた堆積場(簀子橋堆積場)に運ばれる。町を見下ろす橋の上から見上げると、町の中心部の上に堰堤が見える。その上に毒が溜められている。ここが決壊したら会社がつぶれることは古川もわかっていると赤上さんは言う。赤上さんは、「穴を掘って鉱毒が出ると永久に出続ける」という。

上流の松木村を人の住めない荒野にした煙害は、古川が開発した自溶精錬法によって対処するようになった。赤上さんは「閉山に至るまでの一時期でそれまではひどい状態」と指摘する。精錬所というのが、銅を商品化する施設なら、浄水場は毒を精錬する施設なんだろう。橋の上から足尾の町を見下ろすと、あちこち残土の上に建物が立っている。「残土の上に浮かぶ町」が足尾だった。

富国強兵の国策と結びついた足尾銅山の発展は、「技術で乗り越えてきた」というよりは、公害を振りまいた末に、問題を先延ばししているだけに見える。

「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、人を殺さざるべし――」というのは田中正造の有名な言葉だ。その後にさらに言葉が続くと赤上さんが強調する。

「――古来の文明を野蛮に回らす。今文明は虚偽虚飾なり、私欲なり、露骨的強盗なり」

文芸春秋の企画は、古来の文明を野蛮に回らすのが目的の、「露骨的強盗」たちの鼎談だと、田中正造ならあくびをしたかもしれない(田中正造は法廷であくびをして官吏侮辱罪で収監されている)。

(2022.3.30、「越路」27号、たらたらと読み切り167)

家族は誰のためのもの?

共同親権への周知の広がり

 共同親権訴訟、2月17日の第7回口頭弁論に先立ち、原告と仲間たちで毎回、家庭裁判所に申し入れた後、地方裁判所前で街頭宣伝をする。東京家裁では前回から、1階受付で所長に面談を申し入れると、総務課長と管財課長が降りてきて要望書を受け取り、その場で意見交換している。課長たちの見解を求めても押し黙るのはこれまでと同様だけど、所長や裁判官との意見交換を求めつつ、「運用は不公正」「親子関係を維持するのに何度も家裁に来る現状は税金の無駄」と伝える。

 この間、共同養育支援議連会長の柴山昌彦議員が2月3日の議連総会終了後、報道陣への説明で、「一方の親の子どもの連れ去りについて、これまで『法に基づき処理』の一辺倒だった警察庁が『正当な理由のない限り未成年者略取罪に当たる』と明言し、それを現場に徹底すると答えた」という(牧野佐知子2022.02.05)。
  その後、2月10日のネットでの討論番組(ABEMA TV)で、議連の梅村みずほ議員と共同親権反対の論客、NPOフローレンス代表の駒崎弘樹が「連れ去り」をめぐって議論。ひろゆき氏(2チャンネル創設者)や北村晴男弁護士が動画で実子誘拐や共同親権に触れ、キリスト教会のサイトで親子引き離し問題への取り組みが語られるなど、当事者以外の人が共同親権について発言する機会が増えてきた。

「知られれば賛成が増える」

一方、裁判所前でのチラシ配りでは、同じ時間帯にチラシを配っていた団体の方から「共同親権って何ですか?」と聞かれている。世論の関心が徐々に高まる一方で、まだまだ行き届かない層が存在する。内閣府の世論調査(2021年10~11月)では、離婚後の単独親権制度については89・4%が「知っている」と答え、「知らない」の9・3%を大きく上回った。
 調査では、離婚した父母の双方が未成年の子の養育に関わることが、子にとって望ましいかの質問に、「どのような場合でも望ましい」が11・1%、「望ましい場合が多い」が38・8%で、全体の半数を占めた。「特定の条件がある場合には望ましい」(41・6%)も含めると9割を超えた。この結果から、「知られれば賛否が割れる」ではなく、「知られれば賛成が増える」ことが予想できる。当事者が声を上げ続けることは、世論を作るにおいて必要最低限の条件だ。

国のための家族? 個人の幸せのための家族?

 訴訟では、裁判所が積極介入する形で論戦が続く。現行民法の不平等を訴える原告に対し、裁判所は何と何が差別なのかと特定を求めた。原告側は民法818条3項の「父母の婚姻中は」共同親権とする規定(つまり婚姻外は単独親権でなければならない)が、法律婚とそれ以外の親子関係を差別するものである(つまり法律婚でしか共同親権が認められない)と主張している。
これは、親権のあるなしでの不公平の主張とは意味合いが違う。子どもが両親から生まれる以上、親子関係の固有性は、結婚という枠組みに本来収まらない。親権がないのが不公平だとすると、国が認めることで生じるにすぎない権利となり、天賦人権とは言い難い。それは、離婚はOKで未婚はダメとか、二級市民間で目くそ鼻くそ的に罵りあうことにもつながる。逆に、国が認めなければ親子関係が法的な保障されないこととなれば、国に適合的な家族の形を「正社員」になるために整えなければならないということになる。
 単独親権制度ベースに共同親権を婚姻中にだけ一部適用しているというのが現状だ。その正社員の証として同じ姓の戸籍に所属でき、共同親権が特権的に形式上与えられる。この単独親権制度=家父長制が維持され、国が求める家族の形を整えるために、親たちもまた、世間から後ろ指刺されないように子どもを鋳型にはめ続ける。共同親権運動は、国のための家族制度、親権制度から、個人が幸せになるための手段として家族を位置づけなおす。

国の法制審の迷走、草刈り場となる子どもの意思

 この間、国の法制審議会家族法制部会の議論を、「手づくり民法・法制審議会」で追っている。国の法制審は離婚時の子どもの養育について、テーマごとに議論を進めている。ところが、誰が子どもを見るべきか、共同親権についての共通認識を確立できないままの議論は、それぞれが見ている現場の現実から、事務局が出す論点に意見を出し合うだけ。かみ合いもしないし深まりもしない。税金の無駄である。国が設置を決めた子ども家庭庁についてのネーミングをめぐる迷走や、子ども基本法についての議論が低調なのも、子どもの養育の責任は第一義的には親にあるという当然の前提が、この国では共通見解にすらなっていないということの表れでもある。
 子どもの意思を家事手続きの中でどのように反映させるのかの議論は法制審議会の中でも錯綜している。子どもの発言に大人と同様の結果責任をとらせることが、単なる親の責任逃れの過酷な行為であることを、民法学者の水野紀子は主張したりする。しかしその当の本人が、子どもが「自由に」意見表明できるための基盤を損ない子どもに親を選ばせる、単独親権制度の強力なイデオローグでもある。子どもの権利条約11条による、子どもの意見表明権は、子どもが自由に欲求を表明するための環境を整える大人の側の義務でもある。男性排除の「女性の権利」は子どもの権利に優先するという点では、彼女の差別思想は一貫している。それは古臭い性役割の焼き直し、「子育ては女の仕事」の言い換えにほかならない。
 ぼくたちの訴訟は「親の権利(養育権)訴訟」だ。次回は国からの反論が予定される。現在裁判官へのハガキ送付作戦を開始した。国に対して義務を果たさせろという親の願いは、子どもの親として成長する喜び、つまり権利だ。それを損なってきたのが、単独親権制度にほかならない。民法に規定された親子関係しか保護されない単独親権制度がある限り、すべての親の権利は保障されない。親に口ごたえするのも親子喧嘩も双方の権利だ。ぼくたちは、単独親権制度の前にかき消されてきた、個人の尊厳と男女平等の回復を訴えている。

(2022.2.20 共同親権運動・国家賠償請求訴訟を進める会冒頭コラム)

「残念な県政」の継続か、「ワクワク長崎」を作れるか

 2月3日に告示された長崎県知事選挙では、4選を目指す現職の中村法道氏(71)氏と大石賢吾氏(39)が出馬し保守が分裂した。これに対し、石木ダム建設反対を掲げた無所属新人の宮沢由彦氏(54)も立候補を届け出た。告示前の候補者討論会でも、石木ダムの建設問題が取り上げられ、選挙戦の大きな争点の一つになっている。

 一昨年から長崎県内川棚町で建設が進む県営石木ダムの是非について、地元の川原地区を取材してきた。この地区は現在13戸50人が暮らしている。なのに、県が強制収用手続きを進めて、住民の土地を取り上げてしまっている。

「残念な県政」

 長崎県に滞在しながらテレビを見ていると、長崎県では、石木ダムのほかに、新幹線の長崎ルートの建設のために佐賀県との折り合いがつかないというニュースが連日流れてきていた時期がある。新幹線が来てほしい長崎県と、通り道になるだけの佐賀県とは利害が一致せず、路線の末端の長崎県が先に県内の建設を進め、中間の佐賀県に建設を迫っていた。そうまでして作りたいなら、佐賀県は「いらない」と言っているんだから、長崎県が佐賀県内での建設資金を肩代わりするのが筋だと、長野県民のぼくは思う。しかし、理解しない佐賀県が悪い、という姿勢だと佐賀県の態度は普通硬化する。

 テレビを見ながら、石木ダムと同じ構図だなと思った。この県営ダム建設は60年前に浮上したものだが、当初機動隊を導入しての長崎県の強制測量の強行に対し、住民たちは現地で実力阻止。対立の末に、工事の実施は地元の同意を得て行うという覚書を、県と地元自治会、川棚町は、1972年に結んでいる。

 ところが、まだ13戸50人が住んでいるのに、中村長崎県政は 合意を無視して強制収用手続きを進めた。強制収用というのは、最後の1、2軒を対象とするのが通常だ。住民が立ち退かなければ意味がないからだ。強制収用史というものがあるなら、それこそ筆頭に上がるほどの、前代未聞の出来事だ。

今回、現地川原では、95歳になる松本マツさんにお話を聞いた。マツさんは、「こげんよかとこ住み着いてねえ、どこさ出ていくね」と口にしていた。

松本マツさん(ダム小屋にて)

これまで住民が暮らしながらそのまま強制代執行がかけられたのは、成田空港建設のために、三里塚の大木よねさん宅が抜き打ちで取り壊された事例が、戦後はある程度だろう。よねさんは、空港公団が用意した代替住宅の入居を拒み、反対同盟が用意した仮の住処に移り住んでいる。

中村県政は、強制代執行をかけ、どこかの県営住宅にでも住民たちを放り込むつもりだったのだろうか。脅せば屈する、という程度のあまりにもの見通しの甘さに、住民の立場で見れば、今回出馬した宮沢氏のように義憤にかられるし、長崎県民の立場で考えれば、テレビで見る新幹線と同様、「残念」という思いが湧いてくる。

自民党県連が推す大石氏も、知事になれば建設を前提に話し合いをするというものの、それならばまず住民の意向を聞きに告示前に足を運ぶのが順番だ。当選したからとのこのこ顔を出したところで、県政に裏切られ続けた住民が「はいわかりました」というとは思えない。

宮沢氏は選挙初日に川原地区に出向いたようだが、今回、この中村、大石両候補が川原現地に足を運ぶかどうかは、選挙戦の注目点の一つだ。

どうやって「ワクワク」する?

 長崎県は、本体工事の着工を表明して着手をニュースにしようとするため、抜き打ち的に橋をかけたりしたようなので、住民側の座り込み場所も以前より増えていた。1月に寒い中、火を囲みながら座り込んでいる住民の輪の中にいっしょにいると、まるで夜盗の襲撃に備える中世の農村にいるかのような錯覚を起こす。

ちがっているのは、相手が、自分が税金を納めている長崎県で、村の外からやってくるのが県の職員だったり、相手の武器が監視カメラだったりすることだ。

 連日取付道路の建設現場で座り込む住民たちの苦労は並大抵のものではない。いつ工事が進むかわからず、県の職員と対峙しながらどこにもでかけることもできない。

一方で、それ以外の暮らしぶりは、地区内に反対看板はあちこちあるものの、他の周辺地域と何ら変わることはない。むしろ川棚町の中心部まで車で10分と立地的にも暮らしやすい地域の一つだというのもわかる。石木川の水も少ないので、佐世保に送るためにわざわざダムをつくる必要があるのかと見て思う。この辺のダム建設の合理性のなさを宮沢氏は訴えている。

宮沢氏の「ワクワク長崎」のイラストを描く、石丸穂澄さん

 「こげんよかとこ住み着いてねえ」というマツさんの口ぶりは、けして強がりではないと思える。60年間ダムの建設予定地とされ続けたため、行政によるインフラ整備は遅れ、その結果、タイムカプセルように他の地域では失われた村落周辺の自然環境が維持されている。ダム建設に対峙するという必要性があったとはいえ、助け合い、話し合いを重ねながら村の課題に対処していく住民たちに、村の民主主義のあり方を見ることもできる。

 不幸な対立の結果とはいえ、川原地区が培った60年間の歴史と地域づくりは、むしろ長崎県がほこる財産に思える。これらすべてを水に沈めることは、むしろ長崎県の大きな損失だ。 

この地域でいったい何が営まれてきたかを広く共有し、生かすべきところを生かしていくことは、カジノや大型開発に依存する県政運営よりも、これからの時代にマッチし、「ワクワク」する挑戦なのかもしれない。ほかのどこの県でもなく、長崎県だからそできることだ。有権者の判断に期待している。(2022.2.4)

石木川に橋代わりに置かれた飛び石。

2月20日投票、長崎県知事選挙で石木ダム建設問題が争点に浮上

保守分裂

 2月3日告示、2月20日投票の長崎県知事選挙では、現在無所属5人が立候補を表明している。これまで3期にわたって知事を務めた現職の中村法道氏(71)の出馬に対し、元厚生労働省技官の大石賢吾氏(39)も立候補を表明して保守が分裂した。

これに対し、千葉県から宮沢由彦氏(食品コンサルティング会社代表、54)が石木ダム建設に反対を表明し出馬。田中隆治氏(78)、寺田浩彦氏(60)の新人2氏も立候補を表明している。

今回の知事選で、佐世保市のハウステンボスでのIR誘致、諫早湾の潮受け堤防の開門問題、長崎新幹線の建設をめぐる佐賀県との対立などと並んで、争点として大きくなりつつあるのが川棚町の石木ダム建設問題だ。

石木ダムは、川棚町を流れる川棚川の支流石木川に計画中の総貯水量548万トン(東京ドーム4.4杯分)、総事業費538億円の多目的ダム。県営ダムとして1962年に計画が浮上した。

建設予定地の川原地区には、13世帯50人が現在も暮らしダム建設に反対し続けている。過去には機動隊を導入した強制測量に対し住民が実力で阻止したこともあった。2010年には付け替え道路の工事着手に対し、住民たちが現地で阻止。2019年には長崎県が13戸の住民の土地を強制収用。現在も建設中の付け替え道路予定地での座り込みが毎日続く。

川原地区2020年10月

石木ダム建設をめぐってつばぜり合いの討論会

 3日の告示を前に、1月30日に開催されたオンラインでの討論会「みんなで政策かたらナイト」(https://www.youtube.com/watch?v=LdsyZDxYNAE、長崎みんな総研が開催)では、現職の中村氏が、石木ダム建設反対の宮沢氏に対し、「長大河川のない長崎県では水の確保に苦労し一時長崎砂漠と呼ばれた。どうやって水を確保したらいいか」と口火を切った。

宮沢氏は「佐世保市の描く需要曲線は右肩上がりを描いている。これは人口が減っている佐世保市で本当に必要か。もともと針生工業団地建設計画のために作られた石木ダム建設計画ですが、その工業団地計画が破綻して、水の需要が減っている――」と回答。針生工業団地は現在、テーマパークのハウステンボスとなっている。「――例えば佐世保のサウナ、水をたくさん使うと思いますがこの30年水に対して危機感を持ったことがないというお話を聞いている。今の水需要の計画は非常に過大。それより、水が1日に6000トン、7000トンも漏れているのを直していったほうがいい」(宮沢氏)と答える一幕があった。

 一方宮沢氏は、「石木ダムの問題は長崎県を前に進めていくためにはのどに引っかかった骨。取り除かないとどんな県政の課題も前に進めない」と主張。「中村さんの出身地の島原市では法道さんはいい人と一様に言う。一方で石木ダムで座り込んでいる人たちがかわいそうだという話も聞く。どうしてその法道さんが将来に禍根を残す強制収用をしてしまったのか。また収容の後に強制代執行をしなかったのか。思いとどまったお気持ちを聞きたい」と、中村氏の在職中の強制代執行について、あらためて姿勢を問うた。

 これに対し中村氏は「住民生活の中で水の確保は非常に重要。他に安定的な水源がないような状況で石木ダムは必要不可欠。川棚川の治水機能を維持するためにも、この事業は進めていかなければならない。これまで半世紀近くの時間が経過しまして、歴代の知事も一生懸命取り組んできましたができれば私も地域の皆様のご理解をいただいた上で円満に事業が進められればと願っています。今後ともそういった方向で努力していきたい」と直接の回答を避けた。

長崎県は地元の理解を経て工事を進めるとの1972年の地元との合意を無視して手続きを進めた。また、長崎県との話し合いのために、現在進んでいる建設工事の中断を求めた地元の住民の要望に対し、中村氏は12年間の在職中応じていない。

候補者は石木ダム問題を解決できるか?

宮沢氏は「私が今回出馬のきっけかになった石木ダムでも、(地元の住民が)12年間も座り込みを続けている。これを放置して何が次の長崎の未来を作っていけるのか」とさらに言及。大石氏にも「こじれた石木ダムの問題をどう解決するのか」と水を向けた。

大石氏は「私も治水、利水の観点から(石木ダムは)必要。そういう意味では県政と同じ姿勢。まずはお話をさせていただきたい。宮沢さんも足を運ばれておられましたけども、私自身も足を運んでお話をして意思疎通をしたうえで理解を得たうえで実現したいと思っています。私がリーダーになりましたらそこをしっかりやっていきたい」

立候補を表明し川原地区を訪問した宮沢氏に対し、大石氏は中村氏同様、立候補を表明してから今日に至るまで、現地に足を運んでいない。

地元の住民とともに石木ダム問題に取り組む、石木川守り隊が実施した知事選立候補予定)者へのアンケート(http://ishikigawa.jp/blog/cat15/7939/)では、中村氏が記述で回答を寄せたものの、アンケートの設問には回答せず、大石氏と寺田氏は回答自体がなかった。宮沢氏と田中氏は設問の強制代執行に反対している。

筆者が1月18日から21日まで川原地区を取材した際、川原地区の住民と支援者は、付け替え道路の建設予定地で交代で座り込みを続けていた。筆者は2020年の10月にも取材で現地を訪問したが、住民たちはその時点で10年以上現地での行動を続けている。1年後の今回の訪問でも、同じ場所で座り込みを続けていた。本体工事の建設も見据えて座り込みの場所も増えている。

付け替え道路の建設予定地で座り込む住民たち

それ自体がニュースではないだろか。(2022.1.31)

リニアの村の暮らし

 11月9日午後、伊那山地トンネルの坂島非常口を見に行くと、現場には人気がなく、車両の出入りのときのブザーが意味もなく定期的に鳴っていた。2カ月前に来たときは、車両も人も往来し、ヘリコプターもひっきりなしに発着し、7月に着工し、いよいよこれから本格工事に入るという、それなりの活気が伝わっていたのがウソのようだ。

前日の午前中にトンネル内部の壁面の崩落から、JR東海は掘削200m地点で負傷事故を起こしている。この日は夕方に説明が開かれたという。翌日、とりあえず現場に足を運んでみることにした。ここは豊丘村の中心地から虻川の上流にどんどん分け入って、現地は無人になった集落の入口にある。掘削地の上を走る林道を通過して工事現場に下りていく。その林道の側壁はのり面が吹き付けられ、アンカーで止められているので、ここの地盤が硬くはないことは素人目にも想像がつく。

今年に入ってからJR東海は、飯田市の松川工区の掘削開始、伊那山地トンネルの掘削開始、天竜川架橋工事の開始と、工事の進まない静岡県の外堀を埋めるように、立て続けに工事の実績を示していた。その結末がこれかと吐息が出る。「撃ちてし止まん」という言葉は、こういうのを表現するんだろうなと得心する。

帰りに、浜松市のOさんと出会う。地質に詳しくリニアの工事現場には必ず現れる。

「真砂土が落ちた。岩盤を前提に発破をかけたんだろうけど、実際は風化している。どの程度現地が真砂化していたのかなと見にきた」

 風化した花崗岩が崩落にかかわっているのは、小渋線のトンネルでも山口工区のトンネルでも同じようだ。Oさんは中津川瀬戸市の事故翌日にも現地に足を運んでいたというから、記者よりよっぽどフットワークがいい。

 10月28日の朝には、中津川瀬戸のリニアトンネル工事現場での死亡事故の知らせを知り合いの記者から聞いた。岐阜県が地元でリニアを取材するフリーランス仲間の井澤さんに電話すると、もう現場に来ているという。そそくさと朝ごはんをすませて、早速現場に向かう。

 JR東海は、2017年12月に大鹿村に通じる小渋線で掘削中のトンネルで、外壁の崩落事故を起こしている。中途から両側に掘り進める工事で、出口まで残りわずかの部分で通常の倍の火薬を使って崩落を起こしている。2019年には同じ中津川市の山口の工事現場で掘削開始から200mで落盤事故を起こしている。いっぺんにあちこちでトンネルを掘り始めるとこうなるのだろうか。

 瀬戸の工事現場のゲート前には、記者がすでに30人近く道路の向かい側にいた。ぼくも井澤さんとその一画を占めていた。中に入れるわけもなくつまんないので出入りがあると道路の反対側のゲートの脇で写真を撮る。向こう側にいるカメラマンの一人が「ルール守れよ。みんなそっちに行きたいと思っているんだ」と声をかけていた。

 井澤さんが「どういうルールなんだ」と言い返していた。JRの関係者は出てこないし、どんなルールを守ったら取材ができるというのだろう。横並びの記事を書けばとりあえずは一仕事終えられるけど、フリーランスは発表する宛が決まっているとは限らないから、同じことしててもしょうがない。

 といってもぼくも言い返すこともなく、現地にいた記者の一人に5時から開かれる中津川市内での記者会見を教えられて移動した。警察や労基署の出入りはあっても、結局JRの職員は一人も出てくることはなく、記者に対応したのは地元の岐阜県警の広報官だった。

 記者会見は記者クラブ対象で、受付で井澤さんといっしょにフリーランスと名乗って交渉すると案の定断られた。「広報に電話してください」と「広報」と名札のついた社員が説明する。なめている。

死亡事故を起こしていてそれはないでしょうと食い下がる。「ちょっと相談してきますので待っていてください」といったん中に入り、再び出てくるとぼくたちを待たせたまま、所属のある報道機関の人を一人一人中に入れる。最後に案の定「今日は記者会対象ですから」と排除しようとするので、玄関先で押し問答になり、そのまま1時間半。途中井澤さんが「資料をもらったら引き上げる」と妥協案を示したものの、それからも30分。取り囲んだ7人の社員は一言もしゃべらなかった。二人の名刺は外の受付の机に散らばったままだった。

今年の田んぼは、10月25日から北川さんや東京の友達や、何人かの手を借りて28日には終えることができた。刈り取った稲は稲架にかけて3週間ほど干す。水分量が低くなったのをたしかめて、近所のMさんに頼んで脱穀してもらう。ところが、好天になったらまた雨が降るという天気が続いて、何度農協に水分量を測りに行ってもちょうどよくならず、結局脱穀ができたのは一月以上も経った11月2日だった。

その間、井水を確認に行くと水が切れていて、組合長といっしょに水路の掃除に出かける。いつになったら今年の田んぼは終わるのだろうとあちこち出かける気にもならず、出版をまじかに控えたカワウソと共同親権の本の校正作業を進め、やっと脱穀になったら、収量は昨年の半分だった。一人で食べるので困りはしないだろうし、冷害で大鹿のほかの農家も同じ状況だったようだけど、待ってただけにちょっと寂しい。

そんなこんなで、体を動かしたくてもじもじしていたところに、JRが事故を起こした。ちょうどそのときには時間があって、ぼくはJRが起こしたトンネル事故の翌日には、すべての現場に足を運んでいたことになる。リニアの取材というより、リニアの追っかけをしている気になる。

11月7日に、東京から来た山の仲間を大鹿のトンネル掘削現場に連れていった。小河内沢を渡って除山非常口の下の河原に出ると、トンネルから流れ出ているだろう水が、土管を伝って流出していた。ぼくの田んぼの井水組合の水は、釜沢非常口のすぐ脇を流れる所沢の上流から引いている。釜沢地区はリニア工事によって水源地が枯れることが予想できる。JR東海は釜沢地区の代替水源をこの所沢から引きたいとうちの井水組合に打診してきた。ほとんどが70代以上の組合の中で一番若いのが46歳のぼくで、JRが30年水を保障したとしても、そのころ生きているのはぼくになる。暮らしの中に、リニア問題はよくも悪くも位置を占めている。ここは大鹿、リニアの村。

(「越路」25号、2021.11.11)

幻の山小屋

「これお土産です」

 大鹿村役場のカウンターで、産業建設課長の間瀬さんにビニール袋を手渡す。

「何これ」

「広河原小屋のゴミです」

使用済みのEPIガスカートリッジ3つを小屋から持ち帰っていた。

広河原小屋は、大鹿村が持つ唯一の山小屋だ。小渋川の上流にあり、行くには股下の徒渉が10回以上あるので、登山道しか歩いたことのない登山者はやってこない。通常車が入れる終点の、湯折の登山ポストに提出される登山届は、毎年20人程度しかいない。大鹿村に来てから一年に1回くらいは広河原に行くのだけど、年々ゴミがたまっていて、役場が手入れをしている様子がない。半ば放置されている。

あまり荒れるとゴミが増えるし、焚き木にされて小屋が燃やされたりすることもあるので、行くと後ろの引き戸を開けて風を通して箒で床をはく。重くならない程度に、他の登山者が置いていったゴミをザックに入れて持ち帰っている。古くても、床が一部沈んで埃っぽいほかは、小屋はしっかり立っていて、引き戸もきちんと開く。稜線の大聖寺平から下山してきて小渋川が増水している場合、この小屋があるおかげで焦らずに日和を見ることができる。

「いや、ぼくの別荘にしてもいいんですよ。だけど心が痛まないかなあって」

 間瀬さんは今年の秋に、アプローチの林道も修繕すると弁明していた。

7月末に、小渋川から赤石岳、荒川三山を取材で登ってきた。昨年の豪雨で湯折までの林道は2カ所で崩壊している。倒木だらけの一か所は村が倒木を撤去した。もう一か所は沢が道を削っていて、歩いて通過するにも高度感があってちょっと怖い。林道の復旧はあきらめて、ロープを登山者用に渡して歩道にしてしまうといいと進言したけど、湯折には県の発電所の取水口もあるので、県が予算をつければ林道は元に戻るようだ。

広河原小屋は南アルプス最古の山小屋と言われている。大正登山ブームを経て村に赤岳会という有志団体ができて村に働きかけ、荒川小屋とともに作った。四半世紀前に学生のときにぼくが登りに来たときには、広河原小屋と同じく、通路の両側に寝床のある古い山小屋の形式の荒川小屋はまだあった。その後静岡県側の山林地主の東海フォレストに荒川小屋は管理を移管し、ピカピカの小屋に生まれ変わっている。

静岡県側はリニア工事で当分登山者にとっては不便なので、百名山の赤石岳、荒川三山の登山に「アクセス至便」なのは、長野県側の大鹿村になった。「百名山」を「最古の山小屋」とセットで売り出せば、ぜったい飛びつく登山者はいるはずなのに、大鹿村はこのルートは行かないように言っているそうだ。今年も雨続きだし、広河原小屋はますます幻の山小屋になって希少価値を増している。

 役場に登山者の冒険心を理解する人はいないので、何かさせようとしても無理だ。もともと山登りなんて、自分でルートを考えて頂に立つのが本来の姿なので、元に戻っただけだ。

 お隣の遠山谷には、学生のときに日本山岳会の学生部でお世話になった、登山家の大蔵喜福さんが昨年からやってきて、「エコ登山」を掲げて木沢小学校に事務所を構えている。光岳もまた渋い山だ。アプローチが遠くて百名山ハンターが最後に選ぶ(残す)山として知られている。学生のときに、甲斐駒から南アルプスの全山縦走をして、最後にたどり着いた光岳は樹林のなかで「これで最後か」という記憶しかなかった。

 遠山谷からの登山道はもともと長丁場な上、アプローチの林道は度々崩壊し、体力のない登山者には厳しかった。大蔵さんは登山道途中の面平に据え置きテントを設置して、そこをベースに光岳を往復できるようにした。営業小屋のない長野県側南アルプスだからこそできる逆転の発想だった。登山者も減っているのに今さら山小屋なんて作れない。だけど、面平の幕営地には、炊事具はあるし、山小屋以外は何でもある。排泄物は携帯トイレで持ち帰るので、環境に付加を与えない。

 同じような発想で登山道を整備し、大蔵さんは遠山谷と大鹿村を結んで赤石岳への登路を確保しようと考えていた。小渋川の左岸や聖岳へと続く百間平にはもともと大鹿村がつけた登山道がかつてあり、広河原小屋はこれら周遊登山道のベースでもあった。下山すれば湯折で温泉にも入れたものの、今さら湯治場を復活するのは無理そうなので、据え置きテントとドラム缶風呂を設置すれば、来る人は増えるだろう。

今年、南アルプスでは、ヘリのチャーターができない上に、コロナで山小屋の営業も成り立たなさそうなので、南部地域の山小屋は避難小屋を開放して、すべて営業を停止した。おかげで無人の山脈が突然出現した。大蔵さんの「エコ登山」とともに、今時の登山のあり方として、雑誌にページをもらったのだ。

七釜橋の橋梁は小渋川の水面から1メートルほどしか「隙間」がなかった。湯折まで40分、湯折から30分ほどで、七釜橋に至り、ここから小渋川の徒渉が始まる。毎回なんでこんな山奥に、こんな立派な橋があるのだろうと思うけど、昔の砂防堰堤工事のために作ったものだという。そのころ作られた護岸のコンクリートは、昨年の豪雨で完全に水没。「税金の無駄」「自然に歯向かっても無理」の貴重な展示品となっている。

どっちにしても、ここから先はいつもの徒渉の繰り返しで、荒川前岳の胸壁を見上げると陸に上がり、林間に広河原小屋が建っていて安心する。

稜線への登山道は、一昨年の台風19号でいよいよ倒木が多くなり、大聖平の下のトラバース道で今回も迷いながら大聖平のケルンに到着する。時間的に余裕があったので、赤石岳を往復し、フラフラになって荒川小屋に来ると、何とぼくのほかに3パーティー、計5人もテントと小屋にいた。

「今日は小屋は独り占めと思っていたのに」

ぼくが考えていることを口にしたおじさんは、茨城から、若いガイド2人を連れたおじさんは群馬から、それに単独行の女性がテントを張っていた。小屋の人たちに聞くと、椹島は小屋は営業しているものの、リニアの工員が客室を占めていて、登山者は予約できなかったという。椹島までの林道の交通機関は、椹島に宿泊した人のためのリムジンバスしかないので、登山者は椹島まで林道を歩くしかなく、ガイド付の3人組は、電動アシストの自転車で突破した。

「山やとしては憤りを感じる」

 茨城のおじさんが言っていた。椹島の周辺は静岡県知事がダメ出ししても、リニアの工事現場に変わっていた。4人とも、無人の千枚小屋に泊まり、荒川岳を越えて荒川小屋に来て、明日は赤石岳を越えて、赤石小屋に泊まるという。いくら条件が整わなくても、来る人は来る。

 翌朝、荒川東岳(悪沢岳)を往復して、広河原小屋に下山した。一番いい時期の夏山に誰もいない山上。お花畑、滝雲、ブロッケン現象、サルの群れと、営業はなくても、これでもかというくらいのサービス過剰だった。

広河原小屋に戻り、小屋の引き戸を開け、風を入れ、箒で履く。今回は獣が床下から侵入して床上に毛が散らかっていた。

ゴミのガス缶を入れたザックを背負い、小渋川の流れに足を浸す。「冷たい」といつものように声を上げる。

(山行記は発売中の〝Fielder〟で)

(2021.9.8、「越路」24号、 たらたらと読み切り164 )

【vol.59】コロナ禍で実現する“自力登山”への挑戦「誰もいない南アルプス百名山を登る」

今夏、三伏峠から南の南アルプス主脈の山小屋はすべて営業を取りやめた。この地域には荒川三山(3141メートル)、赤石岳(3121メートル)、聖岳(3013メートル)、光岳(2592メートル)と4つの百名山がある。アクセスの不便さから毎年百名山登山のフィナーレにこの山域を目指す登山者も多い。今年は輪をかけて「遠方」になった。自分の力で登る広大な山域が突然出現した。誰もいない百名山も独り占めできる。それに営業していなくても小屋はある。隅々まで整備された北アルプスとは違う登山、人間も自然の一部と気づかされる登り方、そして文明の利器に依存しない本来の山登り。冒険を探しに無人の山河に足を踏み入よう。
※緊急事態宣言下では不要不急の行動は慎むこと。
文・写真/宗像 充


百年前の南アルプスを旅する

大鹿村は塩見岳、荒川三山、赤石岳と三つの百名山の玄関口だ。上蔵地区は、鳥倉林道を経て三伏峠へ、釜沢を経て小渋川から赤石岳へと至る道の分岐にあたり、赤石岳を見上げる美しい里だ。

その道端に、昨年から「ウェストン写真 赤石岳登山」という控えめな案内表示が立った。民家の庭先には山頂の集合写真が掲げてある。しかめ面のウォルター・ウェストンとともに村の人たちが写っていた。ウェストンは日本に西洋の登山を普及させたパイオニアだ。1892年(明治25年)にここを通って赤石岳を往復した。

上蔵の人たちもその案内として同行し、家主のKさん宅にそのときの写真が伝わっていた。Kさんがこの写真を刊行公表するまで、見たい方は足を運んでほしい。

ウェストンは南アルプスでは赤石岳に最初に登頂している。小渋谷は直線の断層で正面に目指す山を望める希少なロケーションだ。南アルプスの盟主として山脈の名前を冠し、明治以降の日本アルプス探検では、代表的な登山家が足跡を残した。小渋川を溯る登頂ルートは、現在も往時のままほとんど変わらず、庭先の写真とともに歴史的価値がある。

小渋川の入渓地の七釜橋は橋梁まで川床が迫っていた。釜沢から1時間半。

庭先に掲げられたウェストンの登頂写真の案内板。

裏山は3000メートル

我家はこの上蔵集落の最上部にある。自宅からは赤石岳南の大沢岳が望める。ぼくがこの村を最初に訪問したのは、大学一年の冬山の偵察で秋に荒川三山に登った四半世紀前のこと。飯田線の伊那大島の駅からバスに揺られ、終点の大河原のバス停から車道を歩き、途中移動スーパーに拾ってもらい、釜沢から林道をたどる。小渋川に入渓し何度も徒渉を繰り返した。道は市販のガイド地図にも記載されている。尾根の取り付きに山小屋もあり、急登を経て確かに南アルプスのピークに立てる。

「なんでこんなところが登山道になっているんだろう」

整備された道を歩く登山しかしたことのない自分には不思議だった。それは、多くの人々を迎えてサービス過剰になった現在の山登りに疑問を投げかけるはじまりだった。

登山を終え、釜沢まで戻ってきたとき、いっしょに来た先輩が山肌の集落を見上げてつぶやいた。「よくこんなところに住んでいるなあ」。いまその村にぼくは暮らしている。

赤石岳、荒川三山36時間

無人の中岳避難小屋から荒川東岳を望む。

人はいない、小屋はある、お金は使えない

南アルプス南部の山小屋は、新型コロナ等の影響で、静岡県側の椹島以外すべて営業を停止している。椹島ロッジは工事関係者も利用するため、ロッジの送迎バスに乗られない登山者は長い林道を歩くしかない。この地域の百名山を目指すには長野県側がいまや「アクセス至便」だ。

しかし、昨年の豪雨で小渋川から赤石岳を目指す登山口の林道が崩壊。1時間の林道歩きが加算された。今夏の登山をあきらめる登山者も多いだろう。

ただ林道の崩落状況を把握していたぼくには条件はさして変わらない。ないのは荒川小屋の営業だけだ。山小屋の避難小屋は夏でも開放されたため、人はいない、小屋はある、そしてお金は使えない、の三拍子そろった静寂の夏の百名山を独り占めできるはず。

もともと南アルプスは寝袋持参の登山が似合う山。7月28日、釜沢を横目で見て林道を歩きはじめた。

南アルプス南部の山小屋は軒並み営業を停止した。

南アルプス最古の山小屋、広河原小屋は幻の山小屋。訪問する人は年に30人もいない。

南アルプス最古の山小屋

今回も持参した地形図には、まだマメだった学生当時、徒渉点を記録しようと、地図上の小渋川に打った印が残っている。深いところで股下の、10回以上の徒渉を繰り返すこの川の溯行は、道をつけて人が山を手なずけようとしても、素直には従ってくれないという証明だ。

林道の2か所の崩落箇所は倒木が撤去されている。高度感のある部分もあり緊張する。村も登山の中止を勧告している。最近は国が国民を見殺しにする用語として「自己責任」という言葉は価値が暴落した。それは本来、リスクを引き受ける登山者の矜持だったはずだ。

徒渉のスタート地点の七釜橋は、昨年の豪雨で桁下まで川床が迫っていた。砂防工事のためのコンクリートブロックは川床になり、大自然の前の文明のおごりが見学できる。川は豪雨で荒れても、徒渉は学生時代とさしてかわらない。高山の滝を過ぎて谷が狭まった後、視界が開けて荒川前岳の胸壁が見えてくる。川を離れると木漏れ日の林から小さな山小屋が現れた。

広河原小屋は南アルプス最古の山小屋と言われる。古びてはいてもしっかり立っている。中に入ると石がむき出しになった通路が奥へと続き、両側に寝床がある、古い山小屋のスタイルを踏襲している。大正登山ブームを受けて、大正が昭和に代わるころ、村の有志のグループ、赤岳会の努力と働きかけで、荒川小屋や三伏峠小屋とともに建設された。

以前はここから荒川三山、赤石岳の間の大聖寺平に至るだけでなく、福川沿いにさらに南部の山並みにつながる百間平に至る道もあった。また小渋川の左岸には登山道も整備されていて、ここをベースに尾根を周遊できた。小さな小屋には南アルプス登山の歴史が折り重なっている。

大鹿村に住んでいると、毎年のように小渋川での遭難事故の報を聞く。降雨で小渋川が増水して余裕がなければ無理をして下って流されるだろう。学校登山で赤石岳に登っていた大鹿村の中学生全員が、1週間近くこの小屋で足止めされたということもあったという。ぼくも水が引くまでここで日和を見たことがある。登山とはそういうものだった。

荒川中岳に至るお花畑を見る人は誰もいない。

大サービスの百名山

広河原小屋からは、一昨年の台風19号で倒木だらけだ。手を入れていないので低木が覆い、踏み跡も見落としがちな道に疲弊して大聖寺平に至る。5時15分に釜沢を出てまだ13時45分。欲張ってさらに赤石岳を目指すと、山頂では2000メートルの標高差にフラフラになっていた。バテバテで17時過ぎに荒川小屋に入ると、なんと、テントも含めほかに3組の登山者がいた。

翌29日、絶好の登山日和のもと、荒川三山を経て再び広河原小屋から小渋川を下り5時に釜沢に戻る。36時間で2つの百名山の頂に立った。

朝焼けの富士山を後に、荒川東岳に向かう途中、光岳から山梨県の広河原を目指す単独の女性登山者と行き交ったのが、登山道で唯一出会った人間だった。無人の山上で、お花畑は咲き誇り、滝雲が長野県側から大聖寺平を越えて流れ込む。霧にかすむ山梨県側を見下ろせば、ブロッケンの妖怪が現れた。自然のサービスは小屋の営業以上だ。

ぼくが長野県側からの最初の登山者のようで、広河原小屋の周囲には、クマがアリの巣をつついた跡や真新しいフンが落ちていた。東岳にはサルの群れ。人より野生動物に会う機会が多い。荒川岳の開山は1886年(明治19年)、大鹿村の隣の豊丘村の行者、堀本丈吉によるとされる。東岳山頂にはその開山50年を記念した1936年の銘板が残っている。村人とヤマイヌに導かれて荒川岳を開山した、山開正位(堀本)も、ぼくが体験したような変幻自在な自然の競演に感動したことだろう。

1886年に荒川岳を開山したのは豊丘村の行者、堀本丈吉とされる。開山時の様子が豊丘村の三峰神社の横幕に残る(富士見町高原のミュージアムの展示から)。

東岳の稜線にいたサルの群れ。今回会った人間より数が多い。

ブロッケン現象は、光が背後から差し込み影が雲粒や霧粒に散乱して生じる光学現象。

赤石岳山頂から、赤石岳避難小屋、聖岳を見る。一等三角点は日本で最高所。

山登り、それは文明に背を向けること

「営業小屋はどこも休み。すいてて小屋は貸し切りと思ったら、ほかにもいました」

茨城から来た単独の男性も慨嘆していた。荒川小屋の避難小屋の扉を開けると、4人の登山者が出迎えてくれた。幕営地には先の全山縦走の女性のテントがあった。3人組のパーティーは百名山登頂を目指す年配の男性とガイドだった。小屋の2組は、静岡県側の椹島から荒川三山を経て、明日は赤石岳を登るという。

今夏、南アルプス南部の山小屋の営業が停止になったのは、新型コロナ対策、ヘリの輸送確保の問題、それにリニア工事の影響とされる。リニア新幹線の建設は、大量輸送と都市への人口集中を前提にする。それが「都会病」である新型コロナの感染拡大で、人の移動は抑制され、南アルプスの自然を犠牲にしてまで建設する必要があるのかと、あらためて意義が問いなおされている。荒川岳の北面の地下1400メートルのトンネル建設は、山体の砂漠化を招く。将来的に氷河期の名残の雷鳥やカールの高山植物の生息環境を変えていく。登山口釜沢の行き場のない排出土を見て「何のために」と思う登山者もいるだろう。

山岳ヘリ輸送は費用が上がり、その確保が課題になっている。営業小屋の整備は北アルプスや八ヶ岳では、登山者がサービスの質を求める傾向を生み、ヘリ輸送の途絶による小屋の維持が困難になって、登山文化の危機だと語られた。しかし、実際無人と化した南アルプスを歩くと、文明に依存するしかない登山文化とはいったい何だろうと首を傾げる。

「登山するような環境じゃないですよね」

二軒小屋はリニアの作業員宿舎になり、椹島の宿舎は営業しているものの、リニア工事の作業員で埋まって茨城の男性は泊まれなかったという。4人は徒歩や電動アシストの自転車で長い林道をクリアした。徒渉10回以上の長野県側といい勝負だ。工夫次第で、ガイドにも、自立した登山者にも、今年の南アルプスは捲土重来。腕試しの冒険の山河が広がっている。(リニア工事と南アルプス登山情報は筆者のブログ「南アルプスモニター」で発信中)

朝焼けの富士山は指呼の間に。

リニア残土越しに釜沢集落を見上げる。

Fielder【vol.59】から
http://fielder.jp/archives/15033