法制審議会中間試案は出来損ない

法制審議会家族法制部会の中間試案が出て、3か月前と大して内容的に変わりがない。

 この審議の経過を議事録などを通じて見ていて、中間報告が取りまとめられる前の段階で「出来損ない」とぼくは批判してきた。仮にも多くの人に見てもらって意見をもらうのが前提だとすると、選択肢を羅列しただけで何が言いたいのかわからない報告は「出来損ない」だ。自民党の法務部会が3か月前に注文を付けた理由の一つに「わかりにくい」というものがあるということが報じられている。

 このレポートを例えば一冊の本だとする。

出版社が、これこれこういう企画のものを作りたいので、一冊まとめてくれませんか、と作家に注文する。担当編集者の法務官僚が作家の法制審議会に企画を持ち込んだ。ところが、作家は何言ってるんだかわからない散漫な原稿しか書けず、担当編集者は「まとまらなかったんですよ」と大株主に持ち込んだ。大株主は「何言ってんだかわからない」「時流に遅れている」とか色々意見が出たらしい。政策は商品なので、売れそうにない商品には注文くらい付けるだろう。この会社では編集権の独立とかはないらしい。もちろんそれ自体が問題かもしれないが、みんな知ってて黙認してきた。

ところが今回は「まかされたんじゃないのか」と作家も機嫌を損ねた。この時点で担当編集者はとにかく出版にこぎつけるために善後策を考え、見やすい図表を入れるから程度の説明をして大株主の了承を取り付けた。編集者も大株主も、社長も作家も責任をとりたくない。で、この商品は売れるでしょうか?

 出版のごたごたが外に漏れ出てそれでも同じ社で出す商品は、際物としての価値はあってもその時点で傷物だと思う。どうでもいい会社なら勝手にやれば、と思う。ところが自分は、その会社の出版物の定期購読者(会員)でもあるので、口を出すぐらいの権利はある。もっといい企画もあるでしょうと提案ぐらいはできたりする。

ところが、出来損ないでも企画取りやめよりまし、お前なんかただの会員だろ、と商品化を焦る連中も出てくる。「今の時点であなたの企画は通ってないんだから、会社を私物化しないでくれ」と、組織擁護のために口封じに躍起になる人間もいる。強制加入の会員みたいなもんだから、そこまで義理立てする理由もない。

しかし、しょうもない企画のために購読料(税金)が無駄になるのも嫌なので、自分の企画を実現する方法も前々から準備している(共同親権訴訟)。「ぜひ購入したい」という声が高ければ、この商品は早々に世に出るだろう。

JR東海村 

 今年の田んぼは友人知人に応援を頼んで、総勢9人で6畝に実った稲を刈ることができた。

 以前は2人で何日かかけてしていた。昨年は一人で田んぼができるか不安だった。不作だったものの手伝いを得ながら一人でやる段取りを何とかつけて一年を終えた。

今年は田んぼは6回目。一人でするのは2回目で少しは慣れてきた。東京から来てくれる人もいてほぼ1日で刈り取り、翌日稲架に掛けて終えることができた。やっぱり人数は大きい。水持ちのよくない手がかかる田んぼだけど、ワイワイみんなで賑やかに作業をすることは以前ならできなかっただろう。そこそこ実ったかな。

 

 ある朝、二軒上の畑に文満地区の村営住宅から通う北川さんがうちに立ち寄り、今日トビガス残土置き場についての住民説明会があると知らせてくれた。

「え、今日なの。回覧来てないよ」

 トビガス沢というのは、うちからも小渋川を挟んで向かいに見える大崩落地のことだ。林野庁が長年にわたり崩落防止の堰堤工事と緑化のための植林を続けている。その基部の川沿いに崩落した土が溜まっている。大鹿村が村内に残土を置けば、松川町に出る県道のダンプの通行量が減らせるという、JR東海の口車に乗って、そこに残土置き場を置いたらいいんじゃないかと村が言い出したのが2018年ごろ。

地区の住民懇談会でも「無茶だ」という声が出て、いろいろ疑問も出たところ、村は県の専門家会議に検討をしてもらって、堅牢な構造をJRが提案し、お墨付きをもらって説明会に臨むつもりだったようだ。

 説明会をするというのは新聞記事に出ていたので知っていたけど、日付は隠していたらしい。村のホームページを見ても載っていない。今までは回覧をしていたので、反対派対策として、なるべく周知しないように説明会を開こうとした。姑息だ。

 夜7時に説明会に行くと、ひな壇のJRの連中と村長以下4人、それにフロアの席は作業着姿の人たちで後ろのほうから埋まっていた。今までも村役場の人たちが村長に言われて来ているのはあったのが、はじめて業者の作業着を来た一群がいた。というわけで、工事と無関係の住民は、前方のほうに10人かそこら座っているだけだった。

 JRの説明の後手を挙げて「中身に入る前に」としゃべりはじめると、いつも反対の質問のときに妨害してくる住民が「名前を言ってください」とすかさず発言。周知について聞くと同朋無線とホームページで周知したという。「ホームページには載ってませんよ」と言うと新しい村長の熊谷英俊さんはオタオタしていた。

すると先ほどの住民が「同朋無線を聞くのは義務だろ」とまた妨害してくる。「なんでそれが義務になるんですか」と言い返すと、「安全のための無線を聞くのは義務だ」とかなんとか言っている。同朋無線を聞かないと住民を見殺しにする村、大鹿。

 ちなみに似たやり取りを昔ホームページに書いたところ「宗像がホームページで『役場のイヌ』と呼んでいる」という噂を立てられたことがある。今回は何と言われるかな。

 結局、前に座っている10人ほどのうちの半分も、動員されてきたというのがわかったのは終わり間際だ。

ぼくが9時も過ぎて何度目かの質問しようとしたら、もう一人が手を挙げたのでマイクを渡した。「もう長いので終了の動議を出したいです。質問は紙に書いて後で出せばいいんじゃないか」と言い出した。「そりゃおかしいでしょ。聞きたくなければ帰ればいいじゃないですか」というと、ぞろぞろと右半分に座っていた住民が退席していった。

以前「無茶だ」と言っていた人も、「じゃあ帰ろう」と聞えよがしに言っていた。リニアに反対してきた人だけに、こういうのは本当に傷つく。村内に残土を置いて土曜のダンプ運行が止まるなら受け入れやむなしということのようだ。

ところが、この日配られたJRの配ったスケジュールでは、2026年度(2027年3月)までの残土運搬が明記されていた。かねてからJRは、トンネル掘削後、ガイドウェイの整備に1年、走行試験に1年、計2年がかかると言っていた。開業が間に合わないのを静岡のせいにするのはうそだったし、スケジュールを強調して住民に我慢を強いるのも作戦だ。都内のシールドが止まっているのを指摘して、北川さんは中断を求めていた。

計画は学校や福祉施設、役場もある村の中心部の上部の河川敷に残土27万㎥を置くものだ。村やJRが設計や管理維持体制の万全さを言えば言うほど、「そんな危険なところに置くなよ」という思いが強まる。ほかの住民も河川内の構造物が、土砂災害時に堰止湖の役割を果たし、下流の被害を大きくする可能性を指摘した。管理維持の責任を負うJRが存続しなくなったらどうするのかと聞くと「村が責任を負う」と村長が言って、そうじゃなくてJRの後継団体が引き継ぐようにすべきでしょう、とほかの住民からも口を開き、JRが今度は善処を表明する。

JRがトンネルから出て行き場所もないままに仮置きしていた、ヒ素などの入った有害土について、村内に置かないように求めると、また村長が、有害物質も薄めたものは人体が日ごろから摂取している、安全対策が十分なら引き取ってもいいと言い出す。深く物事を考えずに、調子を振りまくのが身についているようだ。

後日、用意した文書を読み上げて、残土置き場の危険性を指摘して反対した方の家を訪問した。「久しぶりだなあ」と言われて「入口は閉めたほうがいい」とパイプ椅子を用意してくれた。「ぼくも久しぶりにチラシを作ろうと思って。先日の発言を載せさせてもらえないかと……」

この残土置き場は危険なものだ。説明会でも質問したが、村は他の同様の事例を調べてもいない。ぼくは下流部の住民ではないけど、つまり前例のないバクチに住民を巻き込もうとしているのはわかる。でも正直、この2年ほどは村内のことについてやる気にならなかった。

役場がからむと、本を資料館から撤去させられたり、印刷機の貸し出しができなくさせられたり、いろいろ嫌がらせを受ける。リニアのことで出会っていっしょになった相手に、2年前にポイと捨てられているのでダメージは大きかった。南アルプスの自然破壊には発言したけど、越路を出すだけで精いっぱいで、村内のことで自分が役に立とうという気が起きなかった。

そうはいっても、助けになってくれる人も村にはいるので、知っていることやいろんな意見があるということは、伝えておこうかと出向いたのだ。

ぼくの意見とはまた違うことをひとしきり口にして、その方は、説明会で読み上げた手書きの文書を手渡してくれた。

(「越路」30号、たらたらと読み切り170、2022.10.17)

山の大鹿

「何キロあるんですか」

 行き違ったり、追い抜いていったりする登山者が、背負子のビールの箱を見て声をかけてくる。昨日は余裕があったのが、今日は最初のうちこそ答えていたけど、だんだん面倒になってきて無言になる。

 三伏峠へのヘリの荷上げが遅れ、三伏峠小屋のビールのストックがなくなってきているという。山小屋のビール飢饉解消のためにレスキューに向かう。

コロナで開店休業状態だった山小屋も、今年は営業再開になり、山の日の連休前の駐車場も車であふれていた。山小屋バイトの仕事も声がかかったけど、田んぼの水の管理のために長期で家を離れられなかった。荷上げはキロ単価なので持てば持つほど稼げる。

そうはいっても重い荷物とか最近持ってないので、初日は20㎏を荷上げした。ほかの登山者に遅れることもなく峠に着いた。途中、「ボランティアですか」の質問に「ボランティアでビールは運びません」と答える。山小屋で酒なんか買う登山はほとんどしたことはないので、山小屋にビールがなければないでいいと思う。でも感謝もされていい気になって任務終了。

家でビール飲んで寝ようとしてたら翌日も行ってくれという。というわけで、調子にのって前日より10㎏増やして歩きはじめると、全然ペースが上がらない。背負子のジョイントが壊れている上に、途中、一番下の台座にしてた発泡スチロールが壊れて荷崩れを起こし、ビールが箱ごと落ちていく。幸い中身は無傷だったものの、そんなこんなで、バスで下りた登山者には全員追い越され、よたよたしながらやっと昼過ぎに峠に到着。邪魔だから歩荷にストックは2本もいらない。

 三伏峠への登山道は、ところどころ桟道っぽくなっているところがあるけど、木が痛んでいてあぶなっかしい。村役場は村長が替わって議員に質問されたのもあってか、南アルプスの登山をもうちょっと盛り立てようという気になっているそうだ。

伊那谷の登山シーンで大鹿村は圧倒的に負け組だ。百名山を3つも抱えているにもかかわらず、登山道はどこも荒れていて、登山客誘致の導線もインフラも発想もない。唯一登山客が大勢来るのが三伏峠への登山道で、ここは村が管理に手を挙げて整備するのだという。無粋なことに短管が登山道脇に置いてあって一応やる気の片りんを見せていた。塩川から三伏峠に登る道は10年近く放置したままだし、登山客は村を素通りして鳥倉林道の登山口に車を置いて山に登る。登山者は山小屋以外はまったく村の人には無関係な存在だ。

 だいたい、議員や村長がやる気になったところで山に登りに来たりはしない。役場に行ったときに産業建設課の課長に呼び止められ、お金出すから村の中の登山道を見てきて写真撮ってきてほしいと言われた。お金はいらないけど、善意で見てきてあげます、ということであちこち登ってみた(レポートを出すと出してくれた)。なんでも南アルプスの観光振興の委員会も作るから委員にならないかと言われたけど、「役場にはいろいろ弾圧を受けましたから」と言っておく。

 大西山、塩川登山道、鬼面山、それに雑誌の取材もかねて北条坂、越路と毎週のように村の山の中をあちこち歩いた。鬼面山のように2百名山になっている山は、村外からくる人の動機もあるけど、ほかの山や道はほとんど登山者が来ないので荒れる一方だった。

それでも、北条坂や越路は、造林とかで歩く人もいるのか踏み跡程度はトレースできた。道を整備すれば管理責任を問われる世の中なので、ワイルドさを売りにするのだろうか。

大鹿村から望む赤石岳は、南アルプスの盟主というのに、長野県側から登るルートは小渋川を何度も徒渉する道で敷居が高い。おまけに3年前の豪雨で林道が崩落し、登山口の湯折まで歩いて至るのも神経を使う個所がある。小渋川の先には村所有の広河原小屋がある。役場は放置している。山仲間のS君と雑誌の取材も兼ねて梅雨明けに登りに行くと、広河原からの登山道の倒木や灌木の枝による荒廃ぶりに唖然としていた。

山頂に着くと、小屋番の榎田さんたちは18年間の小屋番を今年最後にするという。同じ村内だというのに泊ったことはなかった。夜になると登山客と宴会になってハーモニカを吹いてくれて愉快な山小屋だ。

今回山岳信仰の雑誌の取材で山頂の遺構をあらためて見てみた。細長い岩を剣山のように立てたのは、大鹿村の行者がしたのだろうと榎田さん。

「だけどこの18年間で大鹿村から信仰登山とかで登って来たことはないよ」

 榎田さんに聞けば、大鹿村から登ってきた登山者も数えるほどだ。

「赤石岳は長野県側の山だと思う。小屋番も本当は大鹿村の人がしてくれたらいいのに」

 という言葉に返す言葉がない。

「7月に小渋ルートは登らない。明日は気を付けてくれ」

 と言って榎田さんが紹介したエピソードは、二人連れの登山者が軽装で小渋川から登ってきたときのものだ。

翌日は雨だったため、榎田さんは二人に3万円を貸し、三伏峠から回って下山するように忠告したそうだ。二人は助言を聞かずに小渋川に下り、広河原小屋まで来て濁流の中の下山は不可能と思ったようだ。一方で稜線までの急登を引き返す体力もない。こういう場合水が引くまで待つしかないのだけど、二人は下山し、一人が流されて死亡した。生き残った一人から直接榎田さんが聞いた顛末だという。

S君と二人でビビりながら雨の中下山する。

 

 村役場も、このルートの再開には、小渋川の徒渉ルートを迂回する旧左岸ルートの整備が欠かせないと念頭にあるようだ。いっしょに行ったS君も、「徒渉はあってもいいけど迂回ルートがあって最小限にしないと一般登山者は呼べない」と冷静に評価していた。

 そんなわけで、最後の課題の迂回ルートを見に行った。七釜橋の右手のルンゼを登ると、左側にテープが見えて、トラバースルートの入口が見つかった。その後も獣道程度の踏み跡が、テープとともに続いていて、たどっていくことができた。

 それが大きく沢がざれているところを高巻きし、もう一本沢に来たところで対岸の道は期待できそうにない。この沢を下ることにした。案の定途中で滝を下れなくなり、こういう場合のセオリー通り引き返して七釜橋に戻ろうとすると、今度は来た道の目印を見失う。ずっと上部を高巻して、枯沢から下ると七釜橋の下流の小渋川に出た。

初見のルートはいつも冒険だ。誰も来ないところだけに、相当心細い登山だった。ある意味、南アルプスに似合う登山だったかなと、ちょっとだけ思う。(越路29号、2022.8.31)

拝啓信濃毎日新聞様 共同親権議論 与党の「横やり」批判は一方的

自民党の政治介入を批判して、議論を急がないように求める信濃毎日のワガママを指摘したら、不採用になりました。

https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2022090400585

 9月5日付社説で、信濃毎日新聞は、法制審議会の議論への与党自民党の横やりを批判した。ぼくは、2019年に現行単独親権制度の違憲性を訴えて、国を訴えた親の一人だ。娘に会うために家庭裁判所で5度裁判をし、月に1度4時間娘と会う決定を得たが、守られることなく家裁自身がその決定を取り消した。

多くの子どもたちが親の都合の離婚をきっかけに親を奪われる現状は忍びないと、親として立法不作為を主張しているが、ぼくたちは迷惑な存在のようだ。何しろ、論説で慎重な意見の根拠とされるDVや虐待の認知件数は、毎年過去最高を記録している。現行制度がその抑止になっていないのに、それをぼくたち子と会えない親個人のせいにされている。

 法制審の独立が望ましいのは明らかだが、法制審の24人の委員のうち3人が裁判官出身だ。委員には同居・別居各ひとり親団体の代表者がいるが、それぞれ記者会見を開いて自説を主張している。こういった「お手盛り」や「スタンドプレー」の放置は法制審の政治化を招いたが、与党の介入だけが問題だったのか。

 この問題については海外からの現行制度への批判に与党が答える要請が大きかったと思う。信濃毎日の論説はことの本質を見落としてはいないか。(2022.9.6)

立ちすくむメディアたち 別居親アンケート、手づくり民法草案発表記者会見

男性の被害実態をメディアは暴けるか?

 8月8日に、司法記者クラブで別居親に実施したアンケートと、手づくり民法草案(大鹿民法草案)を公表した。合わせて共同親権国民投票の提案をした。

 別居親アンケートは、北九州大学の濱野健さんに協力いただいて実施したもので、全国から742人の回答者を得て、そのうち573人の別居親の回答を集計している。国が別居親の実態調査をしない中、初の試みである。

 当日は20社ほどが会見場の席を埋め、立ち見も出た。アンケートの集計結果で目を引いて記者の質問も出たのは、別居親のDV被害割合が7割(精神的65%、身体的26%)というデータだ。というのも、このデータはシングルマザーの団体が一月前に同じ場所で会見をした同居親のDV被害の割合(71%が「侮蔑や自尊心を傷つける」、67%が「にらむ、どなる、物を壊して脅した」、28%が「拳などでなぐる」など)と大差がないからだ。

 質問した記者の一人は「衝撃的」と感想を言っていて、「DVは支配、被支配の関係では」と口にした記者もいた。それに対して「DVは相互的なものが多い。現場の実態から見れば当たり前の結果」とぼくは念を押している。

パワーコントロールによって生じる現象をDVと仮に呼んだとして、パワーなんて、男が腕力があったところでいつも行使できるわけではないし(「そういうところがDVよ」となじられている男性は多い)、女も口が立てば性や子どもでも武器にすることはできる。そんなの自分が結婚してなくても、親の関係を見て育てばちょっとは想像できそうなものだけど、会場全体を覆っているのは、「思考停止」だった。フェミニズムの理論に男女関係は収まらない。

「どっちも被害者」

 別居親は男性が大部分なのだけど、男性もまた被害者だという事実にうろたえて、「設問の仕方は」とアンケート結果を疑ってきた人もいた。そういう疑念も生じるだろうと、国のDV調査の設問と同じ項目で聞いている。男性の被害実態はようやく最近メディア報道されるようになってきたけど、別居親の被害割合の高さは想定外だったのだろう。よっぽど、同居親の側の「私たちは被害者」キャンペーンが浸透しているというのがわかる。「支配被支配の関係」なんていう、男性側を加害者としてしか想定しない概念は法制審議会でも登場している。検証もせずにイージーに使っていただけのことだ。男らしさは被害実態を水面下に沈めてきた。

記者たちがどう解釈したらいいのか戸惑っているので、「どっちも被害者なんですよ」と説明しておいた。もちろん、同居親側にも別居親側にも加害者はいる。関係性の中で生じる障害がDVなら、加害・被害を峻別できると考えて、男性側を推定有罪にしてきた報道が間違っていただけのことだ。

まだ記事になっていないけど問い合わせはある。新しい知見が得られただけのことだけど、今回のデータを踏まえて、メディアが過去の報道をどのように意味づけるかが興味深い。単独親権制度が被害者を作り出してきただけのことだ。

「ぼくたちもひとり親です」という説明に、記者たちはキョトンとしていた。

子どもの視点がないのでは?

 ぼくたちが作った民法改正案に、そんな質問も出た。具体的ではないので、「そういう質問が出ること自体、(男性が子育てにかかわるのは過剰な権利主張という)性役割にとらわれているということではないでしょうか」とやんわりと答えた。釈然としない中、何を聞いていいのかわからないもどかしさが伝わってきた。

養育費と面会交流の問題で親権の問題ではないのでは、という疑問も出ている。であればなぜ親権が問題とされているのか。決定が遅れて不都合が生じる(そんな割合は実際には小さい)なんていう「お前たち迷惑だ」発言には「ぼくたちも人間です」と答えるしかない。

 メディアも賛否の主張を紹介してきたが、これまでの議論で人々が知りたがっているのは、「現在の制度が子どもの奪い合いや親子生き別れを促しているなら、なぜそれを変えないできたのか?」、「共同親権でDVが継続するという批判は本当なのか?」といったところではないか。

後者の批判が当たらないことは、海外に目を転じることでわりと説明可能だし、今回のアンケート結果はそれを補完するものだ。前者は家制度や養育費ビジネスの産業化、硬直した官僚組織など指摘できると思うが、報道機関の色分けによってどこに力点を置くかは変わるだろう。自分たちで検証した結果を書くことが議論を促すことにつながると思う。「あの人はこう言ってる、この人はこう言ってる」なんて報道は読者も飽きてきた。

 法務省の中間報告については、ここでは深く言及しないが、子どもの視点ということでいれば、監護者指定において「子どもの最善の利益」をどのように設定するかで事務局は悩んでいた。当たり前だ。そんなことはできるわけがないんだから。

「子どもの意見を尊重しているかどうか」というのを基準にしようとなると、親の責任を子どもに押し付けることになるし(子どもが子育てをするわけではない)、「子どもが会いたくないと言ったから」という理由で引き離しを正当化する、現在の虐待司法を追認することになる。

どの子も親から愛されたいと願っている。そのための最低限の条件は、司法の判断基準を養育時間における機会均等を置くことしかないではないか。双方の親と満足に触れ合える経験を子どもに確保するのは子どもの権利だ。それは親の側から見れば男女同権ということになる。

これが我田引水に見えるとするなら、それこそ性役割にとらわれていると言えないだろうか。

「国民投票で白黒つけるなら、メディアも書きやすいでしょう」と付け加えておいた。(2022.8.15)

拝啓 信濃毎日様「パパもママも」は当たり前のこと

信濃毎日に投書(不採用)。間違いを認めない新聞。

信濃毎日新聞の社説「離婚後の親権 子どもの権利軸に議論を」を読んだ。

https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2022072101063

ぼくは、婚姻外の単独親権制度を残す現行民法が憲法違反であり、国の立法不作為の責任を問うた共同親権訴訟の原告の一人だ。

「家父長制の下で親の強い権限を認めた戦前の民法の規定がほぼそのまま残った」と社説は言う。実際には1957年の日本国憲法の施行によってそれまで父にあった親権(単独親権)を婚姻中のみ共同親権にした。婚姻外の単独親権制度こそが家父長制の名残だ。事務手続きが遅れたので、58年の新民法の施行前「日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律」が暫定的に施行され、このときは婚姻内外問わず共同親権となっている。当時、大阪家庭裁判所家事審判部は「苟も保護を要する子供に対しては原則として全ての親に親権を与え、専ら子の利益の中心にことを考えようとした」(決議集)とこれが子どものための改革であることを述べ、「両性の本質的平等旧来の家族制度の打破」が目的としている。

子どもは両親から生まれるのが当たり前であり、それを保障するのが共同親権だ。海外でも共同親権は主流であり、DV施策は日本より刑事介入が徹底している。信濃毎日の主張は、男女平等に反するのではないか。(2022.7.23)

国民投票ってなんだ?

民法改正の共同親権国民投票を呼びかけたら、以下のような質問が来た。

「私の認識だと、国民投票は憲法改正の際に行われるもので、今回の民法改正の際に国民投票を求めることに、どのような趣旨が込められているのかがあまり理解できていません。」

 ぼくの理解だと、本来民主主義は直接民主主義です。それだと意見集約に手間がかかるので便宜的に代議制をとっている(国会議員は「代議士」と呼ばれる)にすぎません。実際、地方自治法では町村においては、議会にかわって住民総会をひらくことができます。安倍元首相が参議院選挙期間中に撃たれたことについて、「民主主義の根幹にかかわる」というフレーズが繰り返し流れましたが、間接民主主義に洗脳された人たちのお題目です。
 なので、本来は重要な政治課題については国民投票がなされたほうがいいです。台湾とかではそのための法律があって、何度か国民投票が行われています(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E6%8A%95%E7%A5%A8_(%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%B0%91%E5%9B%BD))。

今回は、特に意見対立が激しく、かつ通常の政治スケジュールでは意見集約を見込めない状況なので、国民投票が望ましいということです。国民投票を求めていくことで、世論の注目が集まれば、いかに法制審の議論が杜撰なのかが表面化することにもなります。また、現在の反対運動は、正面から共同親権に反対せずに足を引っ張ることばかりしているので、彼らも堂々と反対意見を述べることができ、いかに単独親権制度がすばらしいか語ってもらうこともできます。前例はありませんが、立法措置で投票を実施して人々の意思が示されれば、多くの人の納得感も高いと思います。

例えばイギリスでEUから離脱するかどうか国民投票が行われたときぐらい、共同親権は重要な政治課題だということです。
 憲法改正の国民投票と混同されますが、本来は国民運動の中から必要性があって憲法改正も含めた国民投票をするものだと思います。なので、共同親権についての国民投票が実現すれば、本来ならこういったやり方で自分たちの意思を示すことができる、とぼくたちは自信を持つこともできます。大きな政治課題で自分たちの意思が示されるなら、変えること自体が自己目的化されていないかどうか、憲法改正の国民投票の必要性も冷静に人々は判断できるでしょう。

国民投票で単独親権制度を終わらせよう!

国民投票、ちょっといいかも

 ツイッターで「もうめんどくさいから…… 選挙やろうぜ! 原則共同親権か単独親権か!全国民で!」と書き込んでいる人がいた。「あ、それは国民投票のことだ」と思った。ちょっといいかもしんない。

 これまで国政の課題で国民投票にかけられた事案はない。日米安保にせよ、原発にせよ、世論を二分する問題が裁判で争われ、国政選挙の課題になり続けていても、直接国民投票にかけられたことはない。多くの場合、与党が進める政策に反対の意見が出て賛否が割れるので、与党からすると国民投票をすることにメリットがない。あるのは、自分たちの政策に今後反対を言わせないために、憲法改正の国民投票をするときだけだ(大政奉還的国民投票)。

 親権問題についてはどうだろうか。

 与党の政治課題の上位にこの問題があるとは思えない。だけど海外からはヤンヤ言われるので、やんないといけないと政策担当者レベルでは思っている人もいる。だから法制審議会に法務大臣が諮問した。

一方で、共同親権が政治課題化するのを避けるために、国会議員やメディアに圧力をかけ続けた弁護士や勢力はある。法務省の実務家レベルは、自分たちの権益を保持するために、法制審議会に大量の抵抗勢力を引き入れたた。その成果で、法務省が中間報告のたたき台として用意しているものを見ると、一般の人が見て理解できない構成となっている。これでパブリックコメント(パブコメ)をしたところで、誰も「これがいい案」とは言わない。「ザ・出来損ない」。

誰も責任を取りたがらない

 では政治家たちは自分たちで引き取って、独自の法案を進めるだろうか。与党内でも反対する勢力はいるし、野党の政党は「反自民」の票欲しさに、血迷って人権問題の解決に抵抗し続けているので、政党ごとに改正の合意を得るということも難しそうだ。親子断絶防止法のときの反発の強さは経験ずみなので、泥をかぶっても政治課題として推し進めようという気概のある連中は見当たらない。

 要するに、政治家も官僚も、世論をまとめるという努力を怠ってきたので、現在、民間での両勢力のつぶし合いが続いている。もちろん、マスコミも不勉強なのもあって、法務省発表のプロパガンダ的な選択肢を示すことはできても、論点を整理し、それがどういう意味なのか、自分の言葉で解説できている記者はほとんどいない。

しかしだからこそ、この問題は国民投票にかけるにはうってつけなのではないだろうか。政治家や官僚は責任を取りたくないので、主権者に直接「私たちでは力不足なのでご意見をお聞かせください」と言ってもよさそうなものだ。メディアも、どんな記事を書いても大量の苦情が来るのにうんざりしているので、国民投票なら安心して双方の言い分を紹介できる。

投票にどういう理屈で反対するのか?

そもそも「紛糾してるから直接みんなの意見を聞こうよ」という提案に反対する人がいるのか。アメリカでは州の親権法の改正に住民投票がなされることもあるし、家族の問題は個人の信条にかかわることだからと、家族法の改正に対し党議拘束を外して国会議員が多数決をとった国もあった。

この問題が「複雑なように見える」のは、批判をかわして現行制度を維持するという司法官僚たちの狙いを、正しくメディアが伝えないからだ。しかし現行制度に不備があるから、海外からも国内からも批判があるという事実に正面から目を向けないと、改革の意味がわからないのは当たり前だ。

戦後民法改革で共同親権を採用しつつ、婚姻外に単独親権をとり残したため(単独親権がメインで共同親権による一部適用除外という意味での単独親権制度)、片親による養育体制(片親の排除体制)が、さまざまな弊害と悲劇を生んできた。この体制を維持するか廃止するかが問題だ。

法務官僚が夢見るように、どうやって現行制度の中に「共同親権」というワードを入れるか、という問題ではない。「子どもは父母から生まれるのが当たり前、その実態に合わせるどんな制度が必要か」という問いは、法務省が用意した選択肢に、パブコメという名のアリバイ作りに協力するだけでは、人々に投げかけられはしないだろう。そもそも出来損ないの法務省案自体がまとまらないのに、意見をいろいろ言われたところで、その後どうやって法制審の中で意見を集約するのだ。

やってみたくなったでしょ。

住民投票では、個別問題についての住民投票条例を作ってその後投票を実施することが多い。この問題でも、任意の世論調査でもなければ、国会が人々に意見を聞こうとまず決めないと実施できない。それがいやなら反発を恐れず自らの信念に基づき自分たちでまとめるしかない。関心がある人たちだけで意見交換していたからまとまらなかった。関心のある人しか意見を出さないパブコメはこの場合不適切なのはわかりきっている。直接みんなに聞くしかない。

共同親権論争スタート

「選択的」共同親権という偽装表示

 7月19日以降、法制審議会家族法制部会が中間報告を8月末に取りまとめ、その後パブリックコメントを実施することを、マスコミ各社は一斉に伝えた。慣例の大本営発表によるプロパガンダにほかならない。

 司法官僚からなる法務省が、法学者や省庁出向者を動員してのミッションは、「いかに〈共同親権〉というワードを改革案に入れつつ、現行の法運用を維持するか」である。

彼らがそのために編み出した理論は、親権から監護権を切り離し、単独親権制度を「主たる監護親」にすり替えて、別居ひとり親の排除を正当化することだ。子の「実効支配」の既成事実化という司法の運用を法で正当化するのが狙いである。

「選択的共同親権」による共同親権の「導入」と彼らは呼ぶ。しかし、合意がなければ選択できない共同親権を「選択的」と呼ぶのは偽装表示だ。「実子誘拐」を合法的に可能にするための抜け穴作りであり、実態は「実子誘拐選択制」にほかならない。子を確保されたほうの「ドジな親」は、法によって権利の制約を正当化され(子どもに「会いたくない」と言わせて親との引き離しを正当化する代理人が出張ってきて、許可なしに子どもとは会えない)、一方で、金(養育費)をむしり取られる。

立法事実の偽装

 実際のところ、この20年余りで裁判所への養育費の申請件数は1.7倍(2万727件)増なのに、面会交流は6.8倍(1万4868件)、子の引き渡しは7倍(4040件)増であり(NHK報道)、養育費に対する同居ひとり親の不満よりも、子どもに会えない別居ひとり親の不満が各段に大きい。そして子の奪い合いは熾烈化している。

にもかかわらず、法制審議会の議論が養育費の議論を常に先行させるのは、徴収強化の狙いが同居ひとり親のためではなく、弁護士によるピンハネの確実な徴収と高額化のためであることを裏付けている。

 法制審議会で司法官僚が抵抗勢力の役に選任したのは、赤石千衣子(しんぐるまざあず・ふぉーらむ)、戒能民江(お茶水女子大学名誉教授)、原田直子(福岡県弁護士会所属)、水野紀子(白鷗大学教授)らである。

赤石氏が家裁のDV認定が甘すぎると記者会見で声高に主張するのを見てわかるように、彼らの狙いは、DVの事実ではなく「主張」によって引き離しを正当化するため、「特別な配慮」を法制化することである。もちろん、「会わせたくないけど金はほしい」という、会員の感情に対処する以上に、ビジネス化した社会運動形態を維持するには必要なことだ。子どもをエース(人質)に使えなければ、金はATMから引き出せない。

 極端に聞こえるかもしれない。しかし、彼らに一部の例外を除いて悪事を行なっている自覚はなく、善意で仕事に励んでいるところが問題だ。要するに、民意とともに改革を進める習慣がないので、内部的な解決策しか彼らの発想からは出てこない。

お気づきの方がいるように、こういった法律村の「コップの中の嵐」に運動が右往左往する状況は、親子断絶防止法の策定過程でも見られたものだ。司法官僚に手玉に取られた運動は、攻撃の対象を当事者内部に向け自壊した。轍を踏んではならない。ぼくたちは、公論による家族法改正という、この国の人々が経験不足の挑戦を続けている。

何を「骨抜き」するのか?~原則共同親権の立法経験

 こういった姑息な手口に対し「共同親権の骨抜き」という批判がある。一方で批判する側の「原則共同親権」の主張に中身が伴っていないから、司法官僚は臆面もなく偽装表示をする。

 このときぼくたちは、1947年の日本国憲法施行後、一時的にせよ「応急措置法」という形で共同親権に婚姻内外の区別を設けなかった(原則共同親権)立法があったことを思い出す必要がある。実際に共同親権で離婚した夫婦もいた。

 この改革の趣旨について、大阪家庭裁判所家事審判部はその決議集で、「苟も保護を要する子供に対しては原則として全ての親に親権を与え、専ら子の利益の中心にことを考えようとしたのであるからそれは両性の本質的平等旧来の家族制度の打破、従ってその下に不利益を蒙っていた者の救済という新憲法の理想の一つを体現しようとする目的をもつ」と解説する。当時の法務省民事局長は「従来の慣習上共同行使の困難な場合があるかも知れぬが、それは事実上の問題であって、法的にはこの権利は保障されねばならない」と重ねて述べ「家の制度の下に制約されていた両性の平等がここで回復されたのである」と高らかに謳う。

ところが、その後の新民法では、この応急措置法が「骨抜き」され、非婚時に単独親権が残った。当時民法草案の起草にあたった我妻栄は、結局は、「親権と氏の結びつき」という「実際上」の理由から草案に非婚時の単独親権を残したと後に語る。親権の調整規定がないのは、事実上力関係で父が決めてしまうからという程度の理由しかない。

であるとするなら、親権取得の既得権を保持するため、共同親権に反対し、女性を弱者の地位に押しとどめることこそが、憲法の理念を損なう行為だ。そしてそれを批判するにおいて、男性が親権をとれるようにするのではなく、男女平等に養育を分担するのが本来の戦後民法改革の道である。

「実質平等」再び

ここに、司法判断における男女平等な養育時間の原則化を求めた、当初のフェミニズム運動や、海外の父親たちの運動との理念の一致を見ることができる。求めるべきは、裁判官の判断基準を「子どもの最善の利益」にし世間の常識で子育てを縛ることではない。

子どもの利益を何よりも考えるのは親にほかならない。それを達成するために、司法判断において子育ての実質的な平等を原則化し、裁判官の裁量を縛ることだ。親の権利の原則が確認されてはじめて、親たちは安心して譲り合うこともできるし、それを規制する国の積極介入も可能になる。

民法に「養育時間」を入れ込むことを恐れる司法官僚は、差別を前提にしなければ現行の運用が不可能であることに気づいている。いくらありえる立法を場合分けしても、実質平等を原則から外せば、親たちは争いから逃れられず無責任な親が勝ち組になる。法務省案は「あたりのないあみだくじ」(【バシャ馬弁護士】モリトの法律相談https://www.youtube.com/watch?v=bOz03REK5ZQ)にほかならない。

このプロパガンダ戦争に勝ち抜くためいくつかの仕掛けを用意している。親子の時間への世論喚起のためフォトコンテストをはじめた。アンケートを取りまとめ、男女ともに引き離しやDVの被害があるという裏付けのもとに、まともに議論ができる状況を整える。その試金石として手づくり民法改正草案の策定をいま急いでいる。

いよいよ、平等原則のもと、単独親権制度の違憲性を掲げ、国と対峙するぼくたち共同親権訴訟の重要性が増している。

「私たち抜きに私たちのことを決めないで」

9月22日の証人申請をする次回弁論にぜひ足を運んでほしい。(宗像充2022.7.22)

カワウソ目撃@茨木市(大阪府)

 6月13日に新しいカワウソ目撃情報がきた。「全く誰にも信じて貰えないと思います(自分でも信じられないのです)が……」という書き出しで始まるメールは6月12日と前日のもので、場所は大阪府茨木市。大阪府からの近年の情報は聞いたことがなかった。

メールでの目撃時の状況も詳しく、早速目撃者の嶋田さんに電話をした。

「コツメカワウソよりは小さい。ヌートリアとは全然違う。ハクビシンとも顔は全然違う。娘がカワウソ好きでそのぬいぐるみの色と同じ」

証言も詳細なので、お願いして現場検証をすることにした。

6月25日、13時半に茨木駅で合流し、嶋田さんのお連れ合いと三人で嶋田さんの車で山の手に向かった。茨木市の山間部は近年開発が進んで、ここ10年ほど山を切り開いて企業の倉庫・集積地などがそこここに出現しているそうだ。また北のほうには新名神が数年前から開通している。そのあおりなのか、ここ最近、シカやクマ、イノシシなどが人家の近くに出没することもあるという。

後ろの斜面で見かけた

真新しい道路を登って山間部の倉庫群を過ぎ、脇にため池などが見える坂を下りると田んぼが広がる里が開けてくる。場所は府道110号線が通る佐保地区。阪急バスのバス停「馬場」の西側斜面。近くに大規模な園芸センターがある。午後の時間で車の通行も多い。

嶋田さんは仕事を終え、日付が12日に変わった深夜、12時12分に彩都西の駅で降り、お連れ合いの運転で帰宅する途中だった。雨上がりで運転席の妻が「今日は動物が出てくるかもしれない」とのろのろ運転で山の手に向かって運転していると、10mと離れていない道路の左の斜面に黒い動物が現れて通り過ぎた。タヌキも見たことがあったから妻が「ほら動物おった」と口にした。12時20分ころのことだ。

「2m先の近さで見ました。目線よりちょっと上の斜面を、こっちにお尻を向けて登っているような感じで、顔だけこっちに向けていた。口と目の付近から下、胸元にかけて白かった。皮膚感は、ヌメっとしているというかつるっとしているというか、キツネやタヌキ、イタチなどの普通の陸上動物とは違い、短毛でアシカかオットセイに近い質感に見えました。耳ですか。見えなかったなあ。尻尾はカワウソの形状です。お尻はむっちりしていて、下半身が膨らんでいる。色は薄茶色か灰色で真っ黒ではない。首が長かったですね。ヌーっと首が伸びている先にちょこんと顔がのっかっている。丸っこくて漫画で出てくるかわいいワンちゃんみたいだけど、もうちょっと野性味があって精悍な感じがする。コツメに比べると顔が大きめに見えました」

 嶋田さんがその様子を再現してくれた。足は草に隠れて見えず、尻尾は胴からすっと延びている感じだ。

「背中の当たりが黒々していて、肩と背中から腰の手前まで黒かった。そのほかの部分が薄茶色、薄灰色という感じです。見た瞬間カワウソの色だと思いました」(嶋田さん)

 嶋田さんは、カワウソが絶滅しているというのは知っていた。対馬のカワウソなど、カワウソに関するニュースは気に留めていた。対して嶋田さんのお連れ合いはカワウソがいないというのを知らなかった。それでも「カワウソを見た」という結論は、二人とも変わらなかった。二人とも動物好きなので、動物園にも度々行っていて、コツメカワウソなら何度も見ていた。でも、大きさはコツメよりも大きくて、両手を広げて頭からお尻までの大きさを嶋田さんが示してくれた。尻尾までも含めると1mほどになり、ニホンカワウソやユーラシアカワウソのサイズ感に一致する。イタチやテンとは大きさが全然違う。

バス停の山の手に向けて歩くと、目撃時に斜面を覆っていた草は刈られて、のり面は田んぼの水がにじみ出て流れていた。農地整理で整然と区画された田んぼが上のほうに続いている。道路を渡ると水路が伸びていてその先に川が流れているのが見えたので行ってみると、上流で母子が川遊びしていた。女の子がカニを見せてくれた。カニはたくさんいるようだ。小魚も泳いでいる。護岸も石垣で組まれたままの古い状態で、自然状況はよく見えた。この川は佐保川で下流で安威川になり、淀川に注ぐ。

園芸施設で魚を飼っていると嶋田さんのお連れ合いが言うので見に行くと、小さめのコイが泳いでいた。「前はもっと大き目の魚がいた気がする」とお連れ合いは口にするけど、店の人は動物が獲った様子はないという。

いるはずがないと思った嶋田さんは、保健所などに電話して逃げたペットのカワウソの情報を聞いたものの否定されている。嶋田さんたちの車で佐保川の上流まで行ってみた。嶋田さんたちも、この川をじっくり観察したことはないという。しかし佐保川の上流は、流れは細くても途中渓谷になり、さらに上流に行くと美しい棚田風景の農村地帯になった。福祉施設があり、蛍の里としても知られているという。

大阪府ではさほど離れていない高槻市でヌートリアがいることが知られている。ぼくも琵琶湖での目撃情報を得て電話をしてヌートリアだったと聞いたことはある。ただ、二人とも全身を見ているので形状でヌートリアとは区別できたようだ。嶋田さんたちは近くに同様の自然状況が残る川は思い当たらないという。でも安威川を少し見た限りでは、アシ帯も残ってコンクリート三面張りというわけでもなさそうだった。それに、都会でも魚がいればカワウソはいることは韓国では言えた。

嶋田さんたちも、自分たちの目撃情報がカワウソの捜索に役に立てばということで調査に協力してくれた。引き続きこの地域の過去の生息情報などについて調べていきたい。(2022.6.28)